◆歌会報 2023年12月 (その1)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。
第139回(2023/12/15) 澪の会詠草(その1)
1・「妊娠はしていませんね」医師が言う「はい」と答えた齢(よわい)八十(山本)
コンビニのお酒や煙草の販売みたいですね(笑)。確認するまでもないだろうという場面でも法的問題にならないよう言質を取っておかなければならないのでしょう。
でもやはり「はい」と答えつつも心中で「八十歳の私にそれを聞く?」とツッコミたくなる気持ち、よく分かります。
事務的な医師とのやりとりなど場面がしっかり見えて来て、作者の心のツッコミも聞こえてくる、良い歌だと思います。
「」が二か所だと多いかなと思うので、
妊娠はしていませんねと医師が言う「はい」と答えた
と一字字余りですが「と」を入れた方が文法的にも読みやすくなるのでは、と思います。
また結句はここで「八十」と言えば年齢のことだというのはすぐに分かるので「我は八十」「私は八十」「八十の我」などにした方が良いのでは、と思います。
「齢八十」だと普通の文章にすると「はいと答えた八十歳」となりますが「我は・私は」とすると「はいと答えた私は八十」となり主語(私)をより強調するので、読者も「八十の私」をより意識し、「八十の私にそれを聞く?」とより一層作者の位置になって場面の中に入れるのではないでしょうか。
2・マスク取れピアスの出番と意気込むも穴ふさがりて三年を問う(小夜)
ようやくコロナ禍もやや落ち着いてきて、人の多い場所以外ではマスクを外すことも増えてきました。
そこでマスク期間中は外していたピアス(マスクの紐に引っかかるので)を久しぶりに出してきておしゃれを楽しもうと思った作者ですが、いざ装着しようとしたところ耳に開けた穴が塞がっていて着けられず、ピアスの穴が塞がってしまうほど長い間マスクを強いられていたのか、とこのコロナ禍の長さを改めて実感したのだと思います。
ピアスの穴が塞がってしまったという具体による時間経過の表現はとても良いですね。ただ「ピアスの穴が塞がるほどの時間、マスクをしてきたんだ!」という部分がとても良いので、結句で「三年を問う」と言ってしまったのが逆に惜しいと思います。
「ピアスの穴が塞がるほどの時間を思う」のと「三年を問う(三年という時間を思う)」では読者の中に湧く時間の形というか重みが違うというか。「いつの間にかそんなに経ってたのね」と読者自身が気付く体験ができるのは「ピアスの~」の方なんですよね。
マスク取れピアスの出番と意気込むもいつの間にかに穴ふさがりぬ
マスク取れピアスの出番と意気込むも三年を経て穴ふさがりぬ
などとして読者の中で「三年(時間経過)を問わせて」欲しいと思います。
ピアスを開けていたおしゃれな作者像も見えて来てとても良い場面だと思います。
3・中州には枯れし薄がふくらみて風にゆすられ白波おこす(名田部)
晩秋の素敵な景色がよく見えてきます。最近は文体も自然な言い回しになってきて、読者も無理なく場面が思い浮かぶ歌になってきていると思います。この調子です。
また丁寧に場面を見ようという姿勢も伝わってきます。ただ丁寧に説明(時間経過や理由を)してしまっていることがあるので、そこが若干惜しいかなと思います。
この歌の場合、「ふくらみ て 風にゆすられ白波おこす」という部分が惜しいと思います。
「ふくらみて」というと順序を説明してしまいます。ここは「ふっくらと」とその瞬間の薄の在り様を描写した方が良いと思います。
また「ゆすられ」というと薄がふっくら揺れる場面にしては少し強いかなと感じます。もっと荒々しい感じの風で薄が耐えているような歌なら「ゆすられ」かもしれませんが、この薄はふっくらと膨らんだ薄が晩秋の風に吹かれて波打っているたおやかな場面だと思うので、「ゆられて」「吹かれて」の方が合っているのではないでしょうか。
また結句の「おこす」ですが、これは他動詞で「〇〇が××をおこす」と他者に対して使う動詞です。この場合「薄が白波をおこす」となり、薄と白波は別物扱いとなってしまいます。間違いではありませんが、薄と白波は同一のものなので印象が二分されてしまい勿体ないと思います。
これに対し「おきる」だと自動詞で「白波がおきる」となりますが、この歌では既に「薄が」と薄を主語にしてしまっているので「薄が、白波が」と主語が被ってしまうので適切ではありません。
「薄が」の主語を保ったまま、適切な自動詞にしたいところです。「白く波立つ」「白波となる」などが良いのではないでしょうか。
4・胸元にいちょう並木の輝いて阿不利嶺連山すっきりと立つ(飯島)
初句の「胸元に」と「輝いて」が問題となりました。
まず初句で「胸元に」と言われると読者は「作者の胸元」を想像してしまいます。更に「輝いて」ですから、作者が少し高い位置にいて、作者の胸元にいちょう並木が輝く風景を見ている…のかと思いきや、阿夫利嶺連山…作者の立ち位置はどこ?と迷ってしまう人もいると思います。
阿夫利嶺連山を擬人化していて、その(山の)胸元にいちょう並木が輝いている、という意味だと思うのですが、その場合「胸元にいちょう並木の輝ける」と連体形にして続く「阿夫利嶺」に繋げるか、「胸元にいちょう並木を輝かせ」と他動詞にして「阿夫利嶺がいちょう並木を輝かせ」ていると主語を明確にしないと読者は色々と迷ってしまいます。
阿夫利嶺はいちょう並木を胸元に輝かせつつすっきりと立つ
金色のいちょう並木の首飾りきらりと着けて阿夫利嶺の立つ
などとすれば山の胸元に金色に輝くいちょう並木があるんだな、と位置関係が分かるのではないでしょうか。
5・荒天にゴミ出し帰りの時雨虹今日は良き日と子等に写メする(大塚)
「荒天のゴミ出し帰りに時雨虹」ではないでしょうか。おそらく作者の中では荒天(時雨)時にゴミ出しに行ったものの帰りには雨は止んでいて、ゴミ出し帰りの空に時雨虹が現れた、という順序が浮かんでいたのではないかと思いますが、このままだと「荒天に時雨虹」と繋がってしまうため読者はすっと読めません。
またここで「荒天のゴミ出し帰りに」と「に」を使ってしまうため、「子等に」の方は「子等へ」と変えたいですね。
初冬の季語でもある「時雨虹」や、そんな小さな喜びを子らへメールして分かち合う作者の生き方、人間関係などが見え、とても良い場面の歌だと思います。
6・木に高く残る柿の実あかあかと鵯三羽の喜喜と啄む(川井)
「木に高く」「あかあかと」など、この作者らしい観察力と、無理なく素直な言葉選びで情景がすっと自然に思い描ける良い歌だと思います。
本当に最近、的確な表現で上手いなぁ、言われてみれば確かにそうでしっくりくるんだけど、私じゃこれ思い浮かばないなぁという歌が増えて来ました。
下の句は「鵯(ひよどり)三羽の」とするより「三羽の鵯(ひよ)が」とした方が自然で読みやすいのでは、と思います。
またこの歌は「あかあかと」の位置や置き方でかなり印象の変わる歌になると思います。
木に高く残る柿の実あかあかと 三羽の鵯が~
あかあかと木に高く残る柿の実を三羽の鵯が~
木に高くあかあかと残る柿の実を三羽の鵯が~
少しずつ印象が違いますよね。「あかあか」を早く持ってくれば持ってくるほど下の句を読む頃には印象が薄れてしまい鵯の印象の方が強くなってしまう気もするので、作者がどれくらい「あかあかとした柿の実」の方に印象を残したいかで決めて欲しいと思います。
三句に残した場合のみ、「あかあかと三羽の鵯」と続くと読みづらいので一字空白を入れた方が良いかもしれません。
7・父の死は漱石と同じ四十九なりあまりに早きわれ十八歳(緒方)
四十九歳は早いですね。作者もまだまだ親の助けが欲しい年齢ですし、お母様もさぞや御苦労なされたことと思います。
「漱石と同じ四十九」という知識の出し方はとても上手いと思います。読者側には知識を求めておらず、さらっと含ませてある知識。カッコイイですね。
ただ「早き」はク活用形容詞「早し」の連体形ですから、「あまりに早き歳」「あまりに早き(こと)かな・よ」などに続かないと不自然かと思います。このままでは「あまりに早きわれ」にかかり、「あまりに早きわれ(が十八歳のこと)」と続けるには無理がありますし、「あまりに早き我十八のこと」のようにして、「早き」から繋がる体言(こと・頃・時など)を省くことはできないと思います。
父の死は漱石と同じ四十九とあまりに早し 我は十八
とした方がすんなり読めると思います。
また結句の「我は十八」ですが、講師の砂田はこれを「我は八十」と読み違えていました。
確かに十八はまだまだ子供といっていい年齢で、色々大変だったんだろうなぁという想像を読者にさせますが、これを「我は八十」とすると、父が亡くなった歳をとうに超えて老齢まで生きた作者の「父を亡くしてからこの歳まで作者にあったであろう様々な苦労」や、「父の経験できなかった年齢を生きる作者の心境」にまで読者は思いを馳せることとなり、歌としてはぐっと深みが出るような気がします。「我七十五」でも七音ですがいかがでしょう。
8・古びたるアルバムに見る記念写真 時代をひたに生きし族(やから)ら(小幡)
本来「族(やから)」とは「一族」などというように同じ血筋の人々、一家一門、眷属などを指します。ですからここで作者が見ている「古びたアルバム」とは親族の古い写真であり、明治大正昭和などの自分の知らない時代を生きた一族の写真ということだと思います。
が、昭和中期以降生まれの私は最初この「族」とは「暴走族」いわゆるヤンキーで、実はこの作者(今のご本人からは想像もつかないけど)若い頃「うぇーい!」とか粋がっていた(時代をひたに生きし)時期があって、古いアルバムにやんちゃな(すごい髪型や服装の)写真を見つけて、今思うとバカだけどこの頃はみんな(族仲間)ひたに生きていたのよね…と思いを馳せている歌なのかと思いました。
で、「えぇ~!全然そんな風に見えな~い!意外~!」などと思っていたのですが、そもそも全然違う話だったと(笑)。
ただそう読み違えてしまったということは読み違えてしまうだけの理由があるのだと思います。
まず古びたアルバムといってもどう古い(白黒なのか色褪せた)のかも分からないので時代が分かりません。また「族」の素性も親族なのか仲間なのかはっきり分かるものがありません。例えばですが「揃いの家紋の着物着て」などとあれば間違いなく昔の親族などが浮かぶのではないでしょうか。
また「時代をひたに生き」もいつの時代なのか絞ってしまった方が良いと思います。例えば「明治をひたに」とするだけでも「族」はヤンキーではなく親族なのだな、と分かるのではないでしょうか(笑)。
9・突然に事故渋滞に居ることに紅葉の中の高速道路(鳥澤)
「突然に事故渋滞に居ることに」と三つもの「に」が並んでいることが気になりました。
これも5番の歌のように「突然に事故の渋滞の中に居ることになってしまった紅葉の~」という作者の中での地の文章を五七五七七に揃える際に、そのままただ短くしてしまったのではないかと思いますがどうでしょうか。
突然の事故渋滞に遭いにけり
突然の事故渋滞の中に居り
などとした方が無理なく読めると思います。
事故で渋滞している紅葉の中の高速道路という俯瞰した景色は良いですね!
10・一心に車道へ向かふ毛虫をりただ跨越(またご)えて私は駅へ(畠山)
日が当たり暖かい場所を求めてなのか、黒い毛虫が一心に車道に向かって這っていました。そのまま行ったら車に轢かれてしまうと分かっているのに、自分の都合(電車の時間)を優先して、ただ跨ぎ越してそのまま駅へ向かってしまったのですが、駅へ向かいながらもずっと気になってしまいました。
未来が分かり(車に轢かれる)、何とかする手段を持ちつつ(棒や葉っぱで移動)も、命を見捨てて自分の都合を優先する人間のおこがましさを夏場のミミズに次いでまたもや実感してしまいました。
「跨越え」という言い方がすっと読めない、ということで、普通に「ただ跨ぎ越し」とすることにします。