短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

◆歌会報 2023年1月 (その2)

◆歌会報 2023年1月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第128回(2023/01/20) 澪の会詠草(その2)

 

13・店先にとりどり並ぶシクラメン兎の顔に憑かれて求む(栗田)

店先に並ぶシクラメンの花が兎の顔に見え、その可愛さに衝動的に買い求めてしまったよ、という歌。

「憑かれる」では何か霊的なものにとり憑かれてしまったようですね。ここは心を衝かれて衝動買いしてしまったという意味ですから「衝かれて」だと思います。また思わず衝動的に買ってしまったという思いが強く「衝かれて」としたのかもしれませんが、そんなに強くなく「惹かれて」くらいでもいいのではという気もします。

また「兎」が唐突すぎて、鉢に飾りとして付属している季節感を出すための兎のピックや置物なのか、花そのものが兎に見えたのかが今一つ分かりません。

「店先にとりどり並ぶシクラメン」は細かく状況を説明しているようでいて、欲しい情報はそこじゃないのよ~という感じです。

ちゃんとした状況を思い浮かべるには、シクラメン花が兎に見えたという情報が欲しいところ。

「純白にピンクの耳の兎かな小(ち)さきシクラメン一鉢買いぬ」とか「純白にピンクの耳が揺れている「雪うさぎ」とうシクラメン買う」ならシクラメンの花自体が可愛らしい兎に見えて思わず買っちゃったんだなと分かるのではないでしょうか。

 

14・歩くこと遠き日にかと行く人の足だけ見ておりこの三ヶ月(小夜)

「行く人の足だけ見ており」がいいですね!普通に歩く人を羨む気持ちや中々治らない焦りなどがひしひしと伝わってきます。

ただ「遠き日」と言ってしまうとどちらかというと過去を思い浮かべる人の方が多いと思います。「歩いたのは遠い日(昔)になってしまったよ」ととられてしまうかもしれません。

ここは「歩けるのはまだまだ先かと行く人の~」と自然な言い回しでいいんじゃないでしょうか。少し字余りにはなりますが下の句がとても良く、結句はしっかり七音なのでさほど気にならないかと思います。

道行く人の足についつい目が行ってしまう。足を痛めて三ヶ月も歩けないという辛い体験を実際にしなければ中々出て来ない目線(物事の見方)だと思います。とても個性的で、経験に基づく深い目線ですね。

 

15・一人とはそうなんだよと相槌を打てる相手のいないことかな(大塚)

他愛ない話をして「そうそう、そうなんだよ」と相槌を打つ。そういう相手がいないことが孤独(一人)というものだなぁと。ご主人を亡くした作者が少し落ち着いてきたことで逆に寂しさを実感しているのかなぁと思います。

ここは「独り」という字を使ってもいいのでは、という気もします。

「一人とは~ことかな」とやや格言めいているというか達観した独白的な印象もあるのですが、「そうなんだよ」の部分を「『そうだねぇ』と」などとしたり、「相槌を打てる相手の」を「相槌を打てるあなたの」としたりすると雰囲気がかなり変わると思うのですが、どちらがより作者の心情に近くなるのか試してみて欲しいところです。

「相手の」とするとやや諦めが入りつつ現実を受け止めて生活している作者のような気がするし、「あなたの」というとぐっと作者の内側に寄り、まだまだそこに渦巻く寂しさを感じている作者という気がします。

 

16・不揃いの石段に映る木もれ日を作りし櫟(くぬぎ)ヘやわらかい風(川井)

「不揃いの石段」がいいですね。「縮み強張ったススキ」もそうなのですが、本当に対象をしっかりと見ていて、尚且つそれを変に飾らない素直な言葉で表現できていてすごいなと思います。率直な表現なのでまっすぐストンと入ってくるんですよね。

ただ木洩れ日を作っているのは遠い過去でなく今現在なので「作りし」ではなく「木洩れ日を作る櫟へ」ですね。音数も七音になります。

また「不揃いの石段」が良いだけに「やわらかい風」が少し一般的で勿体ないですね。結句ですし。

「ふんわりと風」「さわさわと風」「ゆるゆると風」等、作者なりの「やわらかい」風の表現を探してみて欲しいと思います。

 

17・またたける星の鼓動に同じゅうし熱き血潮の滾るを覚ゆ(緒方)

「またたく星の鼓動」など具体があるようでいて無いので作者がどういう状況にあってどういう感情が渦巻いているのかがちょっと分かりません。

また、またたく星と滾るほどの熱き血潮のイメージが重なる人は少ないのではないでしょうか。

オノマトペにするとまたたく星は「ちらちら」「ちりちり」「きらきら」等で、熱き血潮は「ドクンドクン」「ドッドッ」「ドクドク」等で、どうにも印象が違い過ぎてなかなか「同じゅう」はできないと思います。

「またたける星の鼓動に同じゅうし私のなかを血潮が巡る」くらいならまぁ分かるのですが、やはり作者が何を経験したことによりどんな感情を渦巻かせているのかが分からず作者の感情を再構築できません。

本当に作者は「またたく星」で「血潮が滾った」のでしょうか?何か別の思考が間に挟まれていて、それによって「血潮が滾った」のではないでしょうか。

作者の血潮を滾らせた本当の理由が見えて来るといいなと思います。

 

18・右脚の豆炭行火(まめたんあんか)のやけどあと紺のブルマー哀し昭和よ(小幡)

右脚の豆炭行火による大きな火傷あとを隠せない昭和ならではの紺のブルマーが哀しい。

スクール水着とかブルマーとか、幼心に素肌や体型が隠せない女児用制服は本当に嫌でしたね。

ましてや豆炭行火による火傷のあとが見えてしまうとか、本当に女の子の心理としては哀しいものがあったと思います。

豆炭行火や紺のブルマーなど「昭和」を思わせる具体的なアイテムが効いていますね。ただ「火傷」は「やけど」と読めても「行火」はあまり見慣れないのでぱっと「あんか」と読める人は少ないかもしれません。「豆炭あんか」と「火傷」と表記してはどうでしょうか。

最初は「哀し」と言ってしまうのはどうかな~、「右脚に豆炭あんかの火傷あと紺のブルマー 昭和が写る」とかにして「哀し」と言ってしまわない方が…とも思っていたのですが、ポンポンと具体的なアイテムが並ぶのでここは敢えて「哀し」と言ってしまっても結構いいのかも…とも思います。

最終的には作者の判断ですね。

 

19・一人身で元旦祝う食卓は妻に陰膳添えて乾杯(山口)

これも無理ない文章できちんと音数も合って良い歌になっていますね。

奥様を亡くして初めての正月を一人で迎える作者の様子を淡々と描写していますが、そこから作者の寂しさや亡くした後も尚深い奥様への愛情を感じられます。

「元旦祝う」だけが少し気になりました。作者の心情的に「祝う」感じではなかったのではないかなぁ、と。「元旦迎う」くらいにしてはどうでしょうか。

 

20・ニワトリに生まれ来たりて死は覚悟食卓にのぼることなくて死(石井)

結句は「食卓にのぼることなく廃棄」としたいと申し出がありました。

鳥インフルエンザにより他者の命の糧となることすらなく無残に殺される大量の鶏。なんかこう…モヤモヤするものがありますよね。

気候、戦争、環境など「人類こそがこの星の癌…」とかダークな思想が渦巻いてしまうニュースが増えてきた気がします。

さて「死は覚悟」と言ってしまっていますが実際鶏たちはそんな覚悟をしていないですよね。インフルだろうが食用だろうが鶏からしたらどちらも突然の無残な死だと思います。

実際にはあり得ない「鶏の覚悟」ではなく「食卓にのぼることなく大量の鶏が廃棄処分された」という事実だけを突き付けた方が読者を考え込ませ、重い感情を渦巻かせることになるでしょう。

「大量のニワトリたちは集められ食卓にのぼることなく廃棄」「ニワトリはビニールに詰め埋められて食卓に~」「穴の中一千万羽のニワトリよ食卓に~」など描写できる事実は色々あると思います。

 

21・正面の富士山眺め湯につかる昔入りし銭湯浮かぶ(名田部)

「富士山を正面に眺め」とした方が富士山の印象が強くなり風景に広がりが出ると思います。

また上の句も下の句も「つかる」「浮かぶ」と終止形で切れてしまうため、上の句は終わらせずに下に繋げた方がすんなり流れると思います。

「富士山を正面に眺め湯に入れば昔入りし銭湯浮かぶ」としてはどうでしょうか。「入る」が被ってしまいますが響きは「いる」と「はいり」なのでまぁぎりぎり許容かな、と。

被りが気になるようなら「正面に富士山眺むる温泉に昔入りし~」などとしてもいいかもしれませんが、やはり「富士山を正面に」の方が風景の印象が強いと思います。

 

22・美容室の前に晴着の娘さん母のスマホに二十歳が満ちる(鳥澤)

娘の晴れ姿をスマホのカメラで何枚も撮っているのでしょうね。「スマホに二十歳が満ちる」という表現が現代的でとても面白いと思います。

「美容室前」の「の」は必要でしょうか。入れないと意味が分からなくなる助詞ではなく、この「の」は省ける助詞だと思います。学校前、神社前、デパート前など皆さん普通に使っている表現だと思います。今回は省いて音数を合わせましょう。

 

23・お歳暮のハムを討伐に来ませむか 召集令が友より来たる(畠山)

近くに住む友達から「お歳暮にでっかいハムを貰ったけれどもうちでは到底賞味期限内に食べきれない!よかったら討伐に来ませんか?」とのメールが届き、巨大ハム討伐に行ってきました。

ハムを「討伐」するという誘い文句が面白くてクスッとしてしまいました。

旧カナ使用なので「来ませむか」かと思ったのですが話し言葉だし「来ませんか」でいいようです。

 

24・葉を落とし鈴なりの柿 新春の陽ざし集めて冬景色の美(飯島)

私も11番で歌ったように、冬なお赤い実を鈴なりに付けた柿の美しさは何ともいえないものがあります。

ただそれを「冬景色の美」と概念的な言葉で言ってしまったのが惜しいかな、と。

また「鈴なりの柿」で一字空ける必要があるかな、と。一拍置くほどの場面転換や言葉にならない思考がここにあるでしょうか。ここは字余りになっても「柿は」と助詞で繋いでいいのではないでしょうか。

「葉を落とし鈴なりの柿は新春の陽ざし集めてどのようにある」と見たままの情報を率直に言葉にしてみてください。「縮み強張ったススキ」のように。どっしりと立っていましたか?それとも煌めいていましたか?枝を広げていましたか?

 

☆今月の好評歌は23番、畠山の

お歳暮のハムを討伐に来ませんか 召集令が友より来たる

となりました。

ハムを討伐という表現で食事に誘ってくれた友人に感謝ですね。ハムだけでなくお食事全部美味しかったです。

By PhotoAC HiC

 

◆歌会報 2023年1月 (その1)

◆歌会報 2023年1月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第128回(2023/01/20) 澪の会詠草(その1)

 

1・友からの思いがけないプレゼントすまし顔した真白の兎(栗田)

友達から思いがけずにもらったプレゼントの兎のすました顔が可愛らしくて詠んだ歌でしょうか。

時期的に干支の置物かなと思いますが、後々にポンとこの歌一首で通じるかというと少し危ういかなという気はします。

「真白の」という情報は確かに具体的なのですが、一番重要な情報は「すまし顔」ですよね。今だから「干支の兎の置物かな」と読まれますがそうでないと「真白な兎」だけでは本物の兎ととられたり、作者が好きな動物でぬいぐるみとかを貰ったのかしら、ととられてしまう可能性もあるかもしれません。「干支の兎」とか「兎の置物」「陶器の兎」などとして「白い」よりもどういうモノなのかの情報を持って来た方が良いかもしれません。

また「プレゼント」「兎」と体言止め(名詞で終る)が続いているので四句と結句を置き換えて「真白の兎すまし顔して」と流してみてはどうでしょうか。

また「陶器の兎すました顔に」のように主格の助詞を入れると更に兎に視点が寄るのではないかと思います。

 

2・初日の出まっ赤に染める地平線令和五年の幕が開けおり(小夜)

本来正しい文章としては「初日の出」のあとに助詞が必要ですね。「まっ赤に染める」ならば「初日の出地平線真っ赤に染める」が自然な文章かと思います。

「まっ赤に染まる」ならば「初日の出まっ赤に染まる地平線」でしょうか。

ただし先月の12番の歌の「雨あがり」のように助詞を入れると音数もオーバーしてしまいますし、抑揚が無くなってつまらなくなってしまうパターンかもしれません。

やや俳句感が強くなってしまいますが、ここは「初日の出」のあとに一マス空けて「初日の出」という場面に作者は居るんだぞ!ということで言い切ってしまってもいいような気がします。

その場合「初日の出だぁ!」という部分で一旦文章は切れるので「まっ赤に染める地平線」ではおかしいので「まっ赤に染まる地平線」となります。

また結句ですが「幕が開けおり」だと「幕が開けている」という意味になりやや間延びしてしまいますね。「幕が開けたり」とすると完了となり「幕が開けた」という意味になります。この歌の場合「たり」の方が合っているのではないでしょうか。

 

3・建設の五階鉄骨の端に立ちかけ声掛けてロープ手繰る人(大塚)

見ている所(題材)はとても良いですね。ただ作者の感動が見えては来るのですがまだ少し遠いところにある気がします。

建設途中の五階という高い位置の細い鉄骨の上という足場で作業する人を見て「すごいわぁ、あんな高くて不安定な場所で、あんなに堂々と仕事して。私だったら絶対無理!声が震えちゃう!」というような驚きと感心があったのではないでしょうか。

その「すごいわぁ」という感情を表現するのには「かけ声掛けて」では少し弱いのかもしれません。

「声頼もしく」「太き声かけ」「揺らがぬ声に」など頼もしさを感じる声の情報が入るとぐっと作者の感動に近づけるのではないでしょうか。

あとちゃんとリズムに乗って読めば「端に立ち、かけ声掛けて」で切れると分かるのですが、表記の問題として「端に立ち掛けけて」とした方が読みやすいかと思います。

 

4・吹きさらす川風に縮み強張ったススキの群れに冬の日温し(川井)

枯れススキを「縮み強張った」と表現したところがとても良いですね。作者独自の目線でしっかり観察したからこそ出て来た表現だと思います。

ただ「枯れた(冬枯れの、など)」と言ってしまわずに作者ならではの見方で見、それを具体的に言葉にしている部分が簡単なようで難しいところです。

作者の目線で捉えた様子を具体的に描写してくれたので読者も作者の目線になってその場面を見ることができますね。

冷たく厳しい風に晒されすっかり縮こまってしまったススキを慰めるようにこの日は少し温かな日差しが注がれていたのではないでしょうか。作者の自然を見る目が優しくほっこりしますね。

 

5・日溜りに腰をかがめて爪を切り散らし拡ぐは親父か否われ(緒方)

昔作者のお父さんも同じ様子で爪切りをしていたんでしょうね。日溜りで背中を丸めて足の爪を切っている男性像、とても風情があって良いですね。

そして歳をとることによって殊更に親子の血の繋がりを感じているのではないでしょうか。

私は自動ドアとかショーウィンドウなどのガラスに映る歩く時の全身像を見るとものすごく母と似ているなぁと実感するのですが、この作者は爪切りする自分の姿を客観的に捉えて「あの頃の親父と似ているなぁ」と感じ、懐かしさ、微笑ましさ、俺も歳をとったなぁなど色々な感情が湧いたのではないでしょうか。

ただ「散らし拡ぐ」が実は「チラシ(を)拡ぐ」らしいのですが、漢字では「散らして拡げる」と取るのが一般的かと思います。

というより「日溜りで腰をかがめて爪を切る男性」というアイテムが主役としてとても風情があって良いのでそこにこそスポットライトを当てて際立たせたいのに「チラシを拡げる」という情報は読者の目線(印象の配分)を「爪を切る男性」から「チラシを拡げる男性」に移動させてしまい勿体ないと思います。

爪を切って散らしているとすれば「散らしている」は「爪切り」の一連の動作のひとつととれるので、チラシを拡げるよりは「爪を切る男性」を薄めないと思いますが、もっと言えば「散らしている」という情報もなしにして「日溜りに腰をかがめてぱちぱちと爪を切るのは」とか「日溜りに腰をかがめて足の爪切っているのは」など「爪を切る」に集中してしまっていいのでは、と思います。

また結句は「親父、否われ」として七音で決めたいところですね。

削って削って一番見せたい部分こそを彫り出す。私も言葉や物をなかなか捨てられないタイプなのですが、何せ短歌は三十一音しかないのでこの「削る」作業はとても大切だと思います。

 

6・ゆふぐもを一刀両断するさまに青竜刀の月の耀ひ(小幡)

とても綺麗でまとまった感のある歌ですが、どこか機械製品のような雰囲気を感じてしまう部分があります。

機械製品は織り目や縫い目も整っていてデザインも整っているけれどどこか軽いというか、あまり温かみを感じてグッとくるってないですよね。手作り品は少々不細工でも泥臭さや根詰め感に時にグッときて「あ、大事にしよ」という感情が湧いたりしますよね。

とても綺麗にまとまっているのですが、作者はこの情景をどんな心情で見てどんなふうに心を動かされたのかな、というのが今一つ伝わってこないというのでしょうか。

言葉の知識も豊富で上手にまとめられる作者ならではの逆に浮かんでしまう軽さというのでしょうか。「綺麗なんだけど…綺麗なんだけど~…」という感じで心の深いところにまでスッと刺さって来るような真っ直ぐさが足りないような。

青竜刀」という喩えが作者の見た月の表現として本当に適切だったのでしょうか。4番の「縮み強張ったススキ」のようにそのもの自体に寄って見えた“手縫いのような表現”が出てくると厚みと温かみのある作品になるのでは、と思います。

 

7・血圧が急に低下し手を握りそのまま眠り永遠の旅に(山口)

この数か月ずっと歌ってこられた、癌で亡くなられた奥様を詠んだ歌ですね。

なかなか大事な人を亡くしてすぐには客観的に見直して歌にするには辛いと思うのですが、この作者は愛情深くもとても冷静に歌っていらして強い方だな、と思います。なかなか出来ることではありません。

更に今回は音数のために無理に言葉を縮めたり助詞を省いたりすることなく、とても自然に読めますね。

結句は「永遠」を「とわ」と読ませて「永遠の旅へと」と七音にしてまとめてはどうでしょうか。結句がしっかり七音になるとグッと締まると思います。

 

8・望月のウサギ眺めし子らは今財布を振りて現世祈願(石井)

昔は満月を見て「お餅つきしてるウサギさーん」と無邪気に言っていた子供たちも大人になり、今は満月に向かってお財布を振って(金運のおまじない)現世利益を願っている。という内容だそうです。

ただ「満月に向かってお財布を振ると金運アップ」というおまじないがそれほど一般的ではないようで歌会メンバーもほとんどが知りませんでした。そのため一気に意味不明になってしまった感があります。

特に「現世祈願」というとお寺や神社を想像してしまい、何かをお願いしてお賽銭箱に財布を逆さまにして振り、小銭をじゃらじゃら入れてるのかしらなどと想像する人もいました。

種明かしをされてみれば、そういえば昔少女雑誌に「月光の差す窓際にお財布を置くおまじない」とかあったなぁ、などと思い当たるフシも。

というわけで「現世祈願」ではなく「財布かざしておまじないする」と言ってしまったらどうだろうと思いました。「財布・おまじない」とくれば金運アップなんだろうなぁとは分かると思います。

 

9・整備さる中州を流る川おのが思いのままに突き進み行く(名田部)

整備したのに増水すると中州(とした場所)もお構いなしに思うがままに川は流れてゆく、ということだそうです。

まず終止形の動詞が多すぎます。「整備さる。」「中州を流る。」「進み行く。」全部終止形です。おそらくは「整備された」「中州を流れる川は」「進み行く。」という意味で使っていて、最後の「進み行く」だけが終止形として使っているのではと思いますが、音数を合わせたいが為に無理な活用形で使うのはやめましょう。

言いたいことをまとめると「整備後も雨が降れば川は思いのままに流れゆく」なのではないかな、と思います。

「雨降れば整備した中州削りつつ(壊しつつ)思いのままに突き進む(流れゆく)川」とかにすれば自然な日本語になるのではないでしょうか。

音数を合わせるために無理な活用をするのはパズルが合わないからといって無理矢理出っ張りを折ってみたり、形が合っていないピースを無理矢理ねじ込んでいるようなもので、必ず出来上がりが不自然になり歪んでしまいます。

音数が合わない時はピースの形を無理に変えよう(活用形を変えよう)とするのではなく、無理なくハマる正しいピースを探す=別の言い方ができないか考える、語順を変える、削れる情報を削って調整するなどして考えてみて下さい。

 

10・夕映えに見あぐ裸木冴え冴えと桜の枝に冬芽息づく(鳥澤)

これも「見上ぐ。」は終止形でここで文章が切れてしまいますので、「裸木」という体言に繋げるなら連体形である「見上ぐる・見上げる」としないと不自然です。

また桜の裸木が冬の夕映えに冴え冴えと立っている部分が核なのか、枝先にまだ硬い冬芽の息づきを見つけた部分が核なのかで迷ってしまいますね。

どちらを核にするかを決めて、不要な方は削ってやらないと主役が上手く立てません。

個人的にはまだ硬いながらも冬芽がこっそり伸びて来ていることに気付いたという方が素敵な気がしますが、そこは作者次第ではあります。

裸木を主役にするなら冬芽の情報は(強いので)丸々取っ払ってもっと「冴え冴え」の詳細(黒々、くっきり、樹皮硬くなど具体的に)を描写して欲しいですね。

冬芽を主役にするなら「裸木冴え冴え」という情報は抜いて、その分「夕映えの桜の裸木にどんな冬芽が息づいていた」という情報を入れて欲しいです。

「見上げる」という情報もいらないかもしれません。

それにしても一月でもう芽が伸びているんですね。気が付きませんでした。春に向けての準備はもう始まっているんですね。そういう細かな観察はとても素晴らしいと思います。

 

11・赤き実を鳥へと掲げ柿の木は寒々白き冬空に立つ(畠山)

もうすっかり白と茶色がメインの冬の風景の中に未だに赤い実をいくつも付けて立っている柿の色合いが印象的でした。

色々と食べられるものが減っている季節に鳥の助けになっているのではないでしょうか。冬のオアシス的な。あ、いいなこれ。冬のオアシス。使ってみようかな。

冬の空って晴れていてもどこか白っぽく光が拡散しているように見えませんか?その白っぽい冬の空というのを描写したかったのですが今一つ音数の合ういい言葉が見付からずに「寒々」で片付けてしまいましたが、やはりそこを指摘されました。「冬空」と被りますしね。「寒々」ではなくもっと見た感じを表す言葉を探してみたいと思います。

 

12・手作りの正月飾り三十年 買いし今年は味気なし(飯島)

結句は「どこか味気なし」だそうです。水甕や新聞・雑誌の投稿などではポストに入れてしまったら、メールは送信してしまったら、もうそれが「完成形」です。後から直してもらうことは出来ません。封をする前にもう一度指を折って数え、漢字の見直しもしておきましょう。

さて、秋頃から稲穂などの材料集めをし、三十年も正月飾りを手作りしてきた作者。それが今年はとうとう買ってすませてしまい、どこか味気ないなぁと肩を落としているようです。

まず「買い」は遠い昔を表すのに「今年」に繋がるのはおかしいです。「買える今年」ですね。

また「味気なし」と一言で言い切ってしまってはいけません。その「味気ない」の中には年齢や健康への不安、気力体力の低下、習慣化してきたことでさえ出来なくなるというような、何とも言えない寂しさや不安感があるのではないでしょうか。

その何とも言えない感覚を読者にも味わわせるには読者に作者と同じ状況を思い描いてもらい、その中で読者自身に考えてもらわなければなりません。

それを作者が「味気ない」等一般的な感情を表す言葉で言い切ってしまうと読者は何となく分かった気になって、きちんと状況を思い描いて作者の立場になって考えることなく「作者はそう思ったのね」で終ってしまいます。

感情を言うのではなく、作者がその感情を抱いた「状況」を述べ、読者にその状況を思い描いてもらうことが大事です。読者に作者を見てもらうのではなく、読者に作者と一体化してもらうのです。

「手作りの正月飾り三十年 今年は店に並ぶを買いぬ・今年はとうとう買いて済ましぬ・今年は買いて門に掲げり」等「今年は買ってすませてしまった」という状況の情報だけにして感情を言ってしまわないようにしましょう。

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◆歌会報 2022年12月 (その2)

◆歌会報 2022年12月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第127回(2022/12/16) 澪の会詠草(その2)

 

14・箱根路の雪冠なしの黒い富士富士山ではない富士を眺める(小夜)

箱根路に見た雪冠なしの黒い富士を「雪冠のない富士なんてそんなもの『富士山』と認めないわ」という作者独自の目線で見ているのが面白いですね。

「富士」という言葉が続くので「富士山」だけ「」で括ってみてはどうでしょうか。

また「雪冠なしの黒い富士」がやや硬く説明的なので「雪を被らぬ黒き富士」とかにしてはどうでしょうか。

箱根路の雪を被らぬ黒き富士「富士山」ではない富士を眺める」とすると読みやすくなりませんか。

内容はとても個性的で、それでいて「あぁ、わかる!」と共感も得られるものだと思います。

 

15・これだけの物で生活できるのか 施設の友の私物の量(飯島)

上の句の「これだけの物で生活できるのか」という素直な驚きの描写が良いですね。

結句が六音なのが気になります。結句はなるべく七音にしたい、無理なら字足らずよりは字余りの方が読みやすい、というのが定例です。

「私物の量よ」と詠嘆にしてしまうか「私物少なし」と言い切ってしまうかして七音に揃えたいですね。

歌う場面の切り取りはとても良いと思います。

 

16・暖かいアルパカセーター手に入れて布団も厚手に冬支度かな(戸塚)

暖かなアルパカセーターを手に入れ、布団も厚手にして冬支度を整える作者。

季節の移り変わりに即してしっかり生活している作者の生き方が出ていてとても良い歌だと思います。

「暖かい」を「暖かな」とするとセーターに柔らかみが出る気がしますね。

アルパカセーターという具体的な素材がとても良いので布団と並列させずに「暖かなアルパカセーター手に入れぬ」として一旦切ってしまってはどうでしょうか。

 

17・船客の投げるえびせん取り合って鴎と鳶は海上を舞う(金澤)

状況は分かるのですが「海上を舞う」と言ってしまっていいのでしょうか。

鴎と鳶が餌を奪い合う様子に生きる強さや厳しさなどを感じ、そこに心が動いたのではないでしょうか。

「舞う」というと美しさや余裕、気品といった印象が強いので、「舞うように見えた」が核だとしたら逆に「取り合って」というのがちょっと不釣り合いかと思います。

「船客の」と言っているので「海上」という情報はなくても客船上という場面は描けます。「海上を舞う」の部分をもっと鋭く力強い感じの描写で表現できるとぐっと鮮やかになりそうです。

 

18・冷え込みに綿入りはんてん引き出して母の針目に見入る日溜まり(大塚)

しみじみとして良い歌ですね。

「母の針目」という素材がとても効果的でじんと来ます。

水甕投稿には少しだけ文字数オーバーしてしまうので「綿入れ半纏」(綿入としている例が多いようです)と漢字にしてしまってもいいかもしれません。画数多くて難しいですけど(笑)。

また半纏を引き出してから日溜まりで針目に見入る、と僅かながら時間経過と視点移動があるため、上の句は「引き出しぬ」として一旦切ってしまった方が一呼吸入って「母の針目」がより際立つ気がします。

 

19・曇天に冬支度して行く朝の白い山茶花ひっそりと咲く(栗田)

すっかり朝晩が冷え込むようになった季節。しかも曇天ですから寒々しさは増しますね。そんな寒さが堪えるようになってきた朝、しっかり着込んで出かける作者の目に入った白い山茶花はひっそりとでありながらも寒さに負けない強い存在に映ったのではないでしょうか。

下の句を「白い山茶花ひっそりと咲く」「山茶花白くひっそりと咲く」とで比べてみてください。

「白い山茶花」だと情景を客観的に、「山茶花白く」だと僅かに山茶花に意思が入ってくる気がしませんか。

歌によっては客観的な描写だけにした方が逆に作者の心情に迫れる事も多いのですが、この歌に関しては山茶花にひっそりながらも強さを感じるので「山茶花白く」の方が合っているのではという気がしますがいかがでしょうか。

 

20・橋の上男子高生声を上げ走りゆく背の揺れの逞し(名田部)

「声を上げ」だけだと男子高生の内訳が少し分かりにくいかな、と思います。

私は最初下校中とかで楽しそうにはしゃぎ小突き合いつつ帰って行く制服姿の生徒などを思ったのですが、それだと「走りゆく」「背の揺れ」がそこまで目立つかなとも思いなかなか場面が思い描けませんでした。

聞いてみると部活動でマラソン中の様子だということ。それなら確かに「走りゆく」「背の揺れ」もしっくり来ます。

なので私としては「橋の上」という情報よりも「部活する」という情報があった方がバシッと情景を思い描けるのですがどうでしょうか。

また「声を上げ」が「声揃え」とかなら「橋の上」でも(「部活」という情報がなくても)楽しくて笑い声を上げているなどではなく、かけ声を揃えて走っているのかなと想像することが出来ると思います。

また結句は「揺れの逞し」より「揺れ逞しく」の方が自然な言い回しかなと思います。

 

21・帰りたい家に帰りたい手を握り涙だす妻は(山口)

投稿された後で気付かれたようですが四句(七音)が丸々抜けて定型から大きく外れてしまっています。

足りない部分を少し補って「帰りたい早く家へと帰りたい我が手を握り妻は涙す」としてはどうでしょうか。

「涙だす」ですが「だす」は濁音ですし少々通俗的ですね。「涙する」という言葉があるのでこちらを使いましょう。

 

22・星すだく初冬の夜はゆるゆるの柿を喰らいてフーガを聴かん(緒方)

「ゆるゆるの柿」という具体的な素材が個性的で面白いだけにフーガという素材とぶつかりあってしまうのがとても勿体ないと思います。

「星集く初冬の夜」「ゆるゆるの柿」「フーガ」と三つも主役級の存在感のあるものが出て来てしまうと全体として煩くなってしまうというか、「で、誰が主役?」という感じになってしまうというか。

この○年もののワインにはこのチーズが合う!というように「ゆるゆるの柿」に「フーガ」を合わせるこのチョイスこそが粋!ということなのかもしれませんが、それなら「星集く夜」は切った方がいいのでは、と思います。

例えば「ゆるゆるの柿にはフーガがよく似合う耳も口もとろけゆきたり」など、何故そのチョイスが良いと感じたのかをあまり理屈っぽくならずに言う方がいいのでは。

ただ「ゆるゆるの柿」という素材は本当に面白いのでドンと主役にして「初冬の夜に食べるゆるゆるの柿」だけでまとめた方が絶対面白いのになぁと思ってしまいます。今年最後のゆるゆるの柿、とか何日置いたゆるゆるの柿、とか、スプーンに掬うゆるゆるの柿とか(笑)。

 

23・日の入りの早まる師走に工事場へLEDの明かりが灯る(川井)

「日の入りの早まる師走」が具体的でいいですね。師走という色々とやらなくてはいけない事が押し寄せる時期に「えっ、もうこんなに暗く?」と少し焦るような時間帯ですよね。

すっかり暗くなる中、仕事が残っているのか工事場にLEDが灯る、とても現代的な歌ですね。

個人的には、敢えてLEDとしているので昔のハロゲンランプのような暖かい感じではなくはっきり明るい感じで、そこに現代的なものを感じたのかなと思ったので「LEDの明かりが灯る」より「LEDの明るく灯る」とか「LEDの冴え冴え灯る」とかの方が良いのではとも思ったのですがどうでしょうか。

 

24・脱脂乳に鼻をつまみし日の遠く低脂肪乳を選(よ)りて帰りぬ(小幡)

私は飲んだことがないのですが戦後に子供たちが学校給食として飲んでいた脱脂粉乳は不味いことで有名ですね。

そんな不味い脱脂乳を鼻をつまみながら飲んでいた日ももはや遠い昔となり、今作者は健康のため敢えて自ら低脂肪乳を選んで帰る。

戦後の貧しさ、時代の流れ、重ねた年齢など様々なイメージが流れる良い歌ですね。

 

25・満月は優しい顔で昇りおりフル回転の一日終わる(鳥澤)

師走に入りますます忙しい日々を送っている作者なのでしょう。フル回転であれやこれやと働きようやく帰宅の途につく作者に優しく「お疲れ様」というように照らしてくれる大きな満月が昇っている様子が浮かびます。

満月を「優しい顔」と捉えたところが作者らしい感性ですね。少しオレンジ色の強い暖かで柔らかい光なんだろうなぁと思い描けます。

 

26・まつすぐに立ちていつしか枯れてをり泡立草は弁慶のごと(畠山)

2メートルを超す長身のセイタカアワダチソウ。少し前までは強い黄色の花が咲いていたのにいつの間にかくすんだ銀色の泡を付けて枯れていました。けれど枯れても垂直に伸びたままで倒れたり萎れたりしないのですよね。

見上げる程の高さにまっすぐ立ったまま枯れている姿が弁慶の立ち往生と重なりました。

「弁慶のごと」(ごとは如く・如しの短縮形)と比喩にしてしまったことでやや弱くなっているとのこと。

弁慶になった、弁慶となると言い切ってしまった方がいいのではとの意見をいただきました。

因みにセイタカアワダチソウって厄介な雑草扱いされていますが、花粉症などアレルギーを起こすのは似ているブタクサの方であって、セイタカアワダチソウは逆にアトピーや喘息などを治すデトックス効果の高い薬草で、開花前の蕾状態の穂を乾燥させてお茶にしたり湯船に入れて薬湯にしたりすると良いらしいですよ。今年はもう時期が過ぎてしまったので来年覚えていたら摘んでみようかなと思います。

 

☆今月の好評歌は9番、緒方さんの

古寺の煤けた床に五つほどどんぐりだけが遊んでいたり

となりました。

古寺の煤けた床という風情ある情景の具体的な描写にころんとかわいらしいどんぐりが遊んでいると捉えた優しい目線が素敵ですね。

By photoAC じゅびろう

 

◆歌会報 2022年12月 (その1)

◆歌会報 2022年12月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第127回(2022/12/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・花の香を虜にさせる金木犀二代スターの名こそ誇りて(小夜)

花の香「の」虜にさせる金木犀、ならば上の句は分かります。

助詞の「を」は「人々虜にさせる花の香」という使い方ならば意味が通りますが、「花の香を虜にさせる」では香が虜にさせられてしまいますね。

上の句は助詞を直せば意味が分かるのですが、下の句がちょっと分かりませんでした。

「二スター」はおそらく「二スター」なのだろうと思ったのですが、それでもちょっと分かりません。「三大」ならば「三大香木(花の香が良いことで有名な花木)」としてよく金木犀沈丁花クチナシが挙げられるのでそれかな、と思ったのですが、「二大」として知られている有名なものは特に思い浮かびません。金木犀と銀木犀のことだろうか、などと疑問が渦巻いてしまいます。

どうしても意味が分からなかったので作者に尋ねたところ、「金星と木星という二つの星(スター)の名前が入ってると思った」ということでしたが、それはちょっと無理があります。

惑星ふたつその名に含む、とかちゃんと解説しなければまず他人には伝わりません。それでも漢字も意味も違うのでかなり難しいと思います。

また伝わったとしても「言葉遊び」の域を出ず、人の感情を震わせる情景の素材にはなかなかなれないと思います。「あら、そうね、面白いわね」という感想で終ってしまい、読者の頭の中に作者の体験したものと同じ情景を浮かばせ、同じような複雑な感情を抱かせるまでには至らないというところでしょうか。

とんちや知識による「奇抜な発想・気付き・言葉遊び」は短歌というよりは川柳に求められる分野だと思います。

もちろん時代は変わってゆくので川柳的短歌という分野を開拓し拡げていく道もありかなとは思いますが、澪の会としては路線が違うかな、と思います。

澪の会的には流行り廃りが変わっても伝わる作品、日本人の根底にある共通した感覚に訴えることによりひとつの言葉では表現しきれない複雑な心の揺れを再現し共有できる作品作りを目指しています。

今回の場合、金木犀の甘い香そのものを作者はどう捉えたのかということを歌にして欲しかったかな、と思います。

思わず眠くなるとか、全身に満たしたいとか、ふんわり体が浮くような心地とか、香に向き合って何か実際に感じた感覚を素直に表現して欲しいなと思います。

 

2・四姉妹笑顔の写真もろもろの老いを隠すマスクに感謝(飯島)

コロナ禍でマスク着用が日常となり、本来は面影(=顔)を残すことが目的である集合写真などもマスクをしたまま、という事が増えてきましたね。

マスクは鬱陶しいと感じる人も多いでしょうし、感情が分かりにくくそれこそ記念写真などでは本来の意味を台無しにする邪魔者でしかないのですが、皺やシミを隠してくれたり、髭などの顔面のお手入れをサボってもバレないという利点もあります。

ただ「マスクに感謝」と言ってしまうと一気に川柳的になってしまうのですよね。

もろもろの老いをマスクに隠しつつ写真に微笑む四姉妹、という場面だけでまとめ、「感謝」と言い切ってしまわず、コロナ禍・老齢・鬱陶しさという多くのマイナス感情の中にも“まぁ老化を誤魔化せちゃうし悪いことばっかりじゃないわよね”という前向きな考え方を覗かせる作者を見せて欲しいと思います。

 

3・秘密裏に運転免許取った日々いよいよ返納便利だった日々(戸塚)

まだ女性が運転免許を取るのがあまり一般的でなかった時代に周りには秘密にして教習所へ通い取った免許、その後色々と活用した(取って良かった)けれどもいよいよ年齢を考えて返納するという決意をした作者。

昔頑張って取った頃の思い出や、様々に活用して頑張って取って良かったなぁという思い、けれど年齢を考えて大事故など起こしてしまわぬようにと「便利」を諦めて返納を決めた心理、色々と複雑な感情が入っている場面だと思います。

ただ「便利だった日々」と言ってしまうとその複雑さが消えてしまう気がします。

「いよいよ返納」の「いよいよ」にその複雑な揺れが入っているのでここを活かしたいですね。

「四十年目にいよいよ返納」などとしてもいいですが結句八音が気になるようでしたら「いよいよ返納両手に掲ぐ」などとして長い間ありがとうと思わず掲げて感謝している様子や「いよいよ返納「無効」の判子」「いよいよ返納パンチ穴空く」など免許証の描写などを入れてみても面白いかもしれません。

また「免許取った日々」は教習所へ通った日々がよぎって「日々」としたのかなとは思いますが、「免許取りし日よ」として体言止めを避けた方がいいかと思います。

 

4・古里の地蔵は今は柵の中苔におおわれ石に戻りぬ(金澤)

とても詩的で良い場面ですね。

「地蔵」と主格を表す助詞が続いているところが気になります。「地蔵も今は」として助詞被りを解消してみては。

また「柵のなか」と「なか」をひらがなにした方が今回は読みやすいし雰囲気も柔らかくなるかもしれません。

また「石戻りぬ」「石戻りぬ」も意識して選択するクセを付けて欲しい箇所ですね。ただし私も今回は「に」の方が良いかなぁと思います。

場面の切り取りは悠久の時間としっとりとした空気感を思わせる素敵な場面で文句なしだと思います。

 

5・工事場にクレーンは伸びるどこまでも空を切り裂くビルが現る(大塚)

高いクレーンが伸びて工事現場を隠していた防護膜が剥がされ、空を切り裂くようなビルが現れたという場面は現代的でとても良いですね。

ただ「伸びる・切り裂く・現る」と三つも動詞が終止形(切り裂くは連体形ですが)で現れ意味が散ってしまいますね。しかもこのままの文法で読むと「伸びる」と終止形で切れてしまうので「どこまでも」は「空を切り裂くビル」にかかってしまいます。

「線路は続くよどこまでも」じゃないですけど「伸びるよどこまでも」ならクレーン側にかかりますがそれだと結句であるビルの出現よりも高く高く伸びるクレーンの方が主役っぽくなってしまうかなとも思います。

「どこまでも」を先に持ってきてしまってはどうでしょうか。

どこまでもクレーンの伸びて工事場に空を切り裂くビルが現る」とするとどこまでも伸びるのはクレーンだと分かるし、空を切り裂いてビルが現れたという結句の部分も重くなるのではないでしょうか。

逆に「どこまでも」が「空を切り裂く」にかかるのでしたら「工事場にクレーンの伸びてどこまでも空を~」の順が正しいのですが、その場合「空を切り裂」になると思います。また「切り裂く」に対し「どこまでも」という表現は正しいのかな、とも思います。ぱっきりと、とかばっさりと、とかなら分かるのですが、「どこまでも」と言われると「伸びる」の方にかかる気がしてしまいます。

 

6・一陣の南風吹き梢から飛び立つ木の葉ベランダに散る(栗田)

一陣の風が吹いて梢から木の葉が(鳥のように)飛び立ち、ベランダへ散った。

丁寧に観察しているなぁとは思うのですが、丁寧さが説明になってしまった部分があると思います。

一番の問題は「南風」ではないでしょうか。ベランダの多くは日当たりの良い南向きが多く、実際に南の方から吹いてきた風によって木の葉がベランダに向かって飛んできたのだと思いますが、「南風」という言葉には暖かそうなイメージが付きますよね。それが意味を持ちすぎてしまい、本題とは違う部分に読者の意識がいってしまい悩んでしまいます。

それよりも木の葉が鳥のように飛び立って来たという作者ならではの木の葉の見立て方こそが面白い部分なので、そこを活かしたいですね。

例えば「一陣の乾いた風に梢から木の葉飛び立ちベランダへ来る」などとすると木の葉の擬人化(擬鳥化?)がより際立ち木の葉に意思があるようなイメージになるのではないでしょうか。

 

7・三日月と滴のような金星が睦まじ光る晩秋の空(名田部)

三日月と滴のような金星が仲睦まじく光っているという見方はとても良いですね。

ただ「睦まじ光る」とは続きません。「睦まじい」はシク活用の形容詞で「光る」という動詞に続く場合は連用形で活用しますから「睦まじく」までで一つの言葉です。「三日月と金星は睦まじ。」と終止形で終るのでなければ「睦まじ」で切ってはいけません。

八音にはなりますが「睦まじく光る」とするか、また「睦まじい」は動詞「むつむ」の形容詞化したものですから、動詞として使い「睦みて光る」として七音にまとめるかどちらかにした方が良いと思います。

意味的には「睦まじく光る」が「仲良く光る」であるのに対し、「睦みて光る」は「仲良くして光る」といった感じなので大きくは変わらないと思います。

 

8・面会がとけ連日届け物一時(いっとき)だけども顔見る思い(山口)

(入院する妻の)面会(の規制)が解けて一時だけでも顔が見たいと連日届け物をする作者。

歌っている場面は良いのですがちょっと最近の作品に「だけど」「だけども」という言い回しが多すぎる気がします。

どちらも口語(話し言葉)な上に濁音が多く濁った響きの言葉なのであまり短歌向きではありません。

「だけど」は「けれど」「なれど」「なるも」などとも言い換えられますし、「だけども」はそもそも「~だ(である)けれども」の訛った話し言葉で、そのまま「だけども」と文章に使うのは適していません。

また「~だけでも(ほんの一部でも)」という言葉とごっちゃになっている場合も多いので注意してください。「~であるけれども」の略である「~だけも」と、ほんの一部でもという意味の「〇〇だけも」は全く別の言葉です。

今回は「面会がとけ連日届け物一時といえ顔を見たいと(見れると)」などとするとすっと意味が通るのではないでしょうか。

 

9・古寺の煤けた床に五つほどどんぐりだけが遊んでいたり(緒方)

良いですね!

古寺の煤けた床という具体的な描写で初句から鮮やかに情景が浮かびますね。そこにどんぐりを擬人化させ、ころんと転がっている様子を「遊んでいたり」とする表現がとても素敵だと思います。

団栗を「どんぐり」とひらがな表記にしたのも、ころんとしたかわいさを思わせ効いていると思います。

読み手に特別な知識を求めることもなく、とても自然に秋の風情ある歌の場面に入り込めます。文句なしです。

 

10・うるおいの失せた落葉は降り積もり足元に聴く晩秋の音(川井)

これも良いですね!

かさかさパキリという乾燥した落葉を踏みしめ、その音から晩秋を感じている作者。

落葉を「うるおいの失せた」と表現したところが具体的で、そこには作者らしい個性的な見方が現れています。

このままでも十分な出来だと思いますが、敢えて言うなら「落葉」という主格の助詞を落葉に与えてしまうと「落葉を踏みしめる音を聴く作者」という本当の主格が薄れてしまうかもしれません。助詞の強さを一段落として「落葉の」とするとそこがもう少しくっきりしてくる感じがしますね。

 

11・たちまちに雲は奥羽の山なみを閉ざし車窓に時雨たばしる(小幡)

どういう情景かというのは分かるのですが、その情景を作者はどういう心情で見ているのかがちょっと見えてきません。

初心者ならば五七五七七できちんとまとまり、情景も分かるので十分なのですが、この作者はもっと力のある方なのでこの作者にしては惜しい、という気がします。

「車窓に」の部分は変えられそうな気もします。「たちまちに雲は奥羽の山閉ざし大泣きするごと時雨たばしる」とかならばもう少し作者の心情が見えて来そうな気がします。

 

12・雨あがり もみじの山は反物をさあっと広げたように色めく(鳥澤)

雨上りの紅葉の山を作者らしい感性で歌っていますね。

問題は初句に「雨あがり」と俳句のように単語をドンと置くのが効果的かどうかですね。

短歌では文法的にはちゃんと助詞を使い上から下まで繋げるのが美しいのですが、今回「雨あがりの」では六音になってしまうし何より何かつまらなくなってしまいますよね。

でも「雨あがり」という名詞だけドンと置いては俳句感が強い。そこで「雨あがる」と一文にしてはどうかという案が出ました。

「雨あがり」というと映画のオープニングで雨が上がった直後のキラキラした風景の映像が流れる気がしますが、「雨あがる」と言われると映画の主人公が雨あがりの景色をバックに両手を伸ばして眩しそうにしている映像が流れそうな気がするのですが皆さんはどうでしょうか。

「雨あがり」は状況そのものを指すのに対し、「雨あがる」というと作者の体験(認識)になるからかなぁ、と思います。

 

13・ちりちりと星鳴きてをり霜月の静けさ深き藍色の夜(畠山)

実際の音はしないのですけれど、冬の星は「ちりちりちりちり」高い音で鳴いているように感じました。

ヒトが生まれるずっと前からヒトが争う今、そしてヒトが滅亡したあとも変わらずちりちりちりちり…。宇宙を見ると時間に対する考え方がものすごく大きくなる気がします。

「静けさ深き」が読みにくいし「静けさ」?「静かさ」?となるし問題だなぁとは思っていたのですがなかなか良い案が浮かびませんでした。

「ちりちりと星鳴きてをりどこまでも藍色深き霜月の夜」あたりにしようかなぁと思っていますが、「しづまり深き」や「しんと静かな」などいくつか提案もいただいたので考え中です。

by sozaijiten Image Book 2

 

◆歌会報 2022年11月 (その2)

◆歌会報 2022年11月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第126回(2022/11/18) 澪の会詠草(その2)

 

12・うたた寝の近く遠のく鋏の音三十年の柿の木よさらば(大塚)

三十年共に暮らしてきた柿の木ですがご主人が亡くなったこともあり、手入れや活用が難しくなってきて伐ることにしたそうです。(その1の)1番の干し柿を作る思い出の歌の柿はこの柿なのでしょうね。

さて伐採を業者に頼みうたた寝する作者。柿の木にまつわる思い出などをうつらうつらの内に思い出しているのではないでしょうか。

そうやって思い出と現実の間を意識が漂い、柿の枝を落とす鋏の音が近付いたり遠のいたりと感じる。

懐かしいとか寂しいとかは言っていないけれど切ない感じがひしひしと伝わってきますよね。

それでも最後に「さらば」と言い切ることで三十年の思い出の詰まった柿の木を伐ることにした=ご主人の死を受け入れた上で新しい日常を歩んで行かなくてはと決めた作者の覚悟のようなものを感じます。

うたた寝」は「うたた寝」(うたた寝中に・うたた寝をする私の耳に)ではないでしょうか。また「近く遠のく」は「近くに感じたり遠くに感じたり・近付いては遠のく」ということですよね。その場合「近くに遠くに」や「近付き遠のく」となると思いますが、「近くに遠くに」だと八音な上に「に」が(うたた寝もあって)やたらと続いてしまうので今回は「近付き遠のく」が適切ではないでしょうか。

また「うたた寝に近づき遠のく鋏の音」で一字空け、一息入れてから「三十年の柿の木さらば」と覚悟をバンと置いてもいいかもしれません。「柿の木よ」の「よ」は文法的には確かにあった方がしっくり来るのですが、結句なだけに七音できっちり抑えたい気も。比べて読んでみたりして最終的には作者の判断で決めていい所だと思います。

 

13・教え子に思わず会えた秋日和その成長に胸熱くなり(戸塚)

思いがけず教え子に会えた秋の日。その成長っぷりに思わず胸が熱くなった。

子どもの成長は早いのでしばらくぶりに会うとビックリするくらい変わっていますよね。

ただ「その成長」「胸熱くなり」がどちらも具体的でないので作者の視点にぐっと寄れません。このままでは読者に見えるのは「教え子の成長に感動しているであろう作者の姿」であって、作者の目線で作者が感動したのと同じものを見て追体験するということが出来ないのです。

「その成長」とは具体的にはどこを見て感じたのでしょうか。身長や体格でしょうか。顔つきでしょうか。話しぶりでしょうか。「その成長」だけではよく分かりませんね。作者は分かっていても読者には分からないのです。

見上げるほどに背の伸びておりとか挨拶の声低くなりたりとか、あぁ成長したなぁと感じた部分を具体的に探して言葉にしてみてください。

また「胸が熱くなった」ということを直接言ってしまってはいけません。そういう「楽しかった・感動した・悲しかった」という感情そのものを言ってしまうと、読者は「そういう感想を持った作者像」を見るところで終ってしまうのです。

読者には作者の姿を見せるのではなく、作者の見たものを見せたいのです。

秋の日に「こんなふうに成長した」教え子と会った。という「作者の体験そのもの」を描き、その後の心の動きは読者に任せるのです。きっちりと場面が描写されていれば、読者の心も作者と同じように動くことでしょう。

 

14・幾ばくかうらさびしくも蒼き空ぽつりぽつりと山茶花の咲く(緒方)

どこかもの寂しさを含みつつも蒼い空の下、ぽつりぽつりと山茶花が咲き始めているという晩秋の叙情歌ですね。

「幾ばくかうらさびしくも蒼い」という空の色の表現が個別的ながらも分かる分かる~という感じで素敵だと思います。

本当に、澄んでいて高く爽やかな空なんですけれど、どこか何か寂しい感じがするんですよね、秋の空って。

このままでも良い歌ですが、そこ(空の色)の方を際立たせて「幾ばくかうらさびしさに空蒼し」として言い切り、「ぽつりぽつりと山茶花咲きて」と流してしまうのもありでは、という意見もありました。

 

15・義弟(おとうと)の病重きを聞きし夜の下弦の月はひたすらに冴ゆ(小幡)

義弟の病が深刻なものであると聞いた夜の下弦の月はひたすらに冴えて輝いている。

下弦の月ですから世間もすっかり静まった深夜なのではないでしょうか。静かなだけに思考がより深くに入り込んでくる時間でもあります。義弟さんの病気が重いものであると知った作者の目に映る月は冷酷なまでに白く冴え冴えと輝いていたのでしょう。

「ひたすらに」と「ひしひしと」で迷われたそうですが、私は「ひしひし」の方が断然グッとくると思います。

 

16・道端にえのころ草がふわふわと三つ握れば手は温々し(名田部)

道端にえのころ草がふわふわと揺れていて、三つ握ってみたなら手がぬくぬくと温かくなった。

身近な自然との関わり方が柔らかく楽しく歌われていてとても良い歌だと思います。見ただけでなく触れて感じてみるという対象と向き合う姿勢もとても良いと思います。

ただ「えのころ草が」の「が」は濁音ですし、とても柔らかい抒情を歌っているのでここでは少し強すぎるのではないかな、という気もします。

「えのころ草の」として柔らかく軽くしてみてはどうでしょうか。

また結句は「温々」で終ってはいけません。「ぬくぬく」という副詞は「ぬくぬく(━と)スル」とセットで使用する言葉です。つまり「ぬくぬく」に付く「し」は動詞の過去形でもなく、形容詞の「し(美しなど)」でもなく、動詞「す(~する)」の連体形の「し(~して)」です。「ぬくぬく(と)し、なんちゃらかんちゃら」と文章が続かなければおかしいのです。

でも作者としては「手がぬくぬくした・温かくなった」という事が言いたかったのではないかと思うので、それならば「温し(文語)・温い(口語)・温かし(文語)・温かい(口語)」などの形容詞を使うべきです。

「三つ握れば手の中温し」や「手のひら温し」「手の温かし」など形容詞にして結句をきちんと座らせてやってください。

歌の内容(場面の切り取り)はとても良いと思います。この調子です。

 

17・ふたまたに別れ伸びたる秋明菊二つの花へそれぞれの風(川井)

ふたまたに別れた枝の先に付いた花がそれぞれ微妙に違う揺れ方をしているのではないかなと思います。

その僅かに違う揺れから花それぞれへ(そしておそらく作者へも)と吹く柔らかな秋の風を視覚的に捉えている作者の見方が素敵ですね。

上の句下の句共に体言止めではありますがそれほど気になりません。

とても良い歌だと思います。

 

18・谷を見てゆるりと風にのる鳶と同じ高さの丘に立ちたり(鳥澤)

普段は高いところで風に乗って旋回している鳶と同じ高さの丘に今立っているということへの感動を感じますが、初句の「谷を見て」は必要な情報かな?と思います。

核は「鳶と同じ高さに立った」ですね。この「谷を見て」いるのは「鳶」にかかりますが、おそらく作者が谷を見下ろせるような高台に立ったことで「いつも頭上を飛んでいる鳶はこんな風景を見ていたんだな」と実感したことによる描写なのではないでしょうか。

「鳶と同じ谷を見ており」とかなら「谷を見て」という情報が活きるかと思うのですが、意味がある故に言葉の重さが分散してしまい核が軽くなってしまっている気がします。

初句は「晴れた秋」「秋の空」「弧を描き」くらい軽くして、風にのる鳶と同じ高さに立った!という核を目立たせた方がよいのでは、と思います。

 

19・コロナ禍で面会できずメールのみ返事なき時病心配する(山口)

コロナ禍で直接面会ができず入院患者とのやりとりはメールしかないのにメールの返事がないと(メールも打てないほど)病状が悪化したのではないかと心配してしまう。

「コロナ禍」の「で」は口語ではよく使いますが歌としてはあまり使いたくない言葉です。口語の「で(~なの・どこどこ)」は短歌では大抵は「に」に置き換えて使います。口語ではあまり使わない言い方なので初めは違和感があるかもしれませんが短歌界では一般的なので慣れてください。また「~なので」と理由として使うものは「~ゆえに」とか「~のため」などとも言い換えたりします。ただ今回の場合は「コロナ禍」でいいのではないでしょうか。

また「病心配する」という言い方も不自然かなと思います。「返事なき時心配つのる」とか「不安の増せり」くらいが一般的かなと思いますが、「心配・不安」と言ってしまう事自体がどうかな、とも思います。

出来れば返事がないと何度もケータイを確認してしまうとかケータイを持ってうろうろしてしまうとか、心配することで実際に作者がした動きで表せるといいのですが字数的に難しいところでもあります。

私だったら「返事がない時」というのは切ってしまい、「コロナ禍は面会できずメールのみ一日何度もケータイを見る」とかにするかな、と思います。

 

20・真っ青な空カーンと晴れた午後かわせみの翠一段と冴え(飯島)

真っ青な空がカーンと晴れた午後、カワセミの翠色が一段と冴えて見えた。

「真っ青な空(がorの の助詞が必要)晴れた午後」という上の句はとても良いと思います。爽やかな秋晴れの高い空が思い描けますね。

そんな透明度の高い世界の中に現れたかわせみの翠。その鮮やかさ、作者の心を動かした色の具合を「一段と冴える」ではなく作者ならではの感じ方で言えるとより強い歌になると思いますが、そこが難しいのですよね(笑)。

一段と冴えたのは輝きでしょうか、それとも濃度でしょうか、彩度でしょうか。

また結句なので「冴え(未然形・連用形)」で止めてしまってはいけません。終止形は「冴える」か「冴ゆ」です。

結句を意図的に流すのではなく、なんとなくで終止形にせずしっかり座らせずに切る例が最近結構あるな~と思うので、そのうちブログに書こうかと思います。

今回も6番の「与え(終止形は与えるor与う)」、13番の「熱くなり(終止形は熱くなる・熱くなりぬ・熱くなりたりなど)」、16番の「温々し(終止形は温し・温かし)」、20番の「冴え(終止形は冴える・冴ゆ)」など間違った活用形での終わり方がいくつか見られました。

読点(「、」)が来て文章がまだ続く(=きっちり書かないけど書きたいことは分かるでしょう?と匂わせる)終わり方は音楽でいうフェードアウトです。余韻を残しつつ徐々に消えていく手法は意図的にたまにやると雰囲気を残し効果的ですが、多用すると「単にきっちりまとめられなかった曲」という扱いになってしまいます。

短歌も歌なのでフェードアウトがカッコ良く見えるものもあるのですが、本来終止形じゃないとおかしいものを間違っている場合、雰囲気を残しつつ徐々に消えていくカッコいいフェードアウトではなく急に音量がガクッと下がってしまい余韻も残さず、かといってきっちりした終りも感じさせず事故のように終ってしまった曲のようになってしまうので気を付けましょう。

 

21・朝の日の奥の仏間に入り来て明かりと見まがう眩しく光る(栗田)

朝日が奥の仏間に入ってきて、明かりと見紛うほどに眩しく光っていた。

仏間からの眩しい光ですから何か神々しいものを感じますね。

「入り来る」「見まがう」「光る」と動詞がちょっと多いかなと思うので、下の句を少し並び替えて「眩しき光を明かりと見まがう」としてはどうでしょうか。

また「朝の日の」は「朝の日は」として朝の日を少し強めてもいいかもしれません。

 

22・満開の金木犀の木の下はマスクずらして深呼吸する(畠山)

最初は「満開の金木犀の木のありて~」だったのですが説明的すぎるかなぁと思い、次に「金木犀の木の下に」としたのですが、これだと逆に意思が消えすぎるかな~と悩み、最終的に「木の下は」としてみたのですが、やはり迷ったここを指摘されました。

「木の下よ」と感嘆にして切ってはどうかという意見もあったので参考にしてみようと思います。

 

☆今月の好評歌は9番、飯島さんの

一回り小さくなってふんわりと車椅子に笑む九十歳の姉

となりました。

一回り小さくなってふんわりと笑むいう具体的な描写から場面がありありと浮かびますね。歳を取っても仲が良い、そんな作者の周りの温かな人間関係も見えるようです。

By photoAC acworks

 

◆歌会報 2022年11月 (その1)

◆歌会報 2022年11月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第126回(2022/11/18) 澪の会詠草(その1)

 

1・干し柿の甘みに惹かれもくもくと背を丸め二人皮を剥きし日よ(大塚)

亡くなられたご主人との柿にまつわる思い出を歌ったもので、なんとも言えない懐かしさと寂しさが感じられる良い歌だと思います。

ただ私は作者のご主人が亡くなられたことを知っているため「二人」の内訳が分かり、それによってその切ない感情を感じることができるのですが、そこが分からないとかなり解釈が変わってしまうのではないでしょうか。

「亡夫と」と書いて「つまと」と読ませるか、「もくもくと」「背を丸め」がどちらか一方でも情景が見えるためどちらかを削り(個人的には背を丸めの方がより場面がくっきり浮かぶ気がします)「甘みに惹かれ亡き夫と背を丸めふたり~」として、より作者の状況をはっきりさせると読者も作者の切ない回想という心理に近付ける気がします。

また結句の「皮を剥きし日よ」ですが、今回の「を」は削れる助詞だと思います。「皮剥き」という日本語も普通にありますし、「皮剥きし日よ」と七音にしてしっかり座らせてしまいましょう。

 

2・御婦人は一人住まいの九十歳バームクーヘン送る秋の日(戸塚)

さりげない贈り物(バウムクーヘン)の手配をしながら独り暮らしの高齢の「御婦人」の安否を気遣う優しい作者像が見えてきます。

「御婦人」という言葉の選択が効いていると思います。「御婦人」ということで高齢になっても周囲に頼り切りにならずしっかりと独りの生活を営み、どこか凜として品のある女性像を思い描くことができます。

ただ「九十歳。」「秋の日。」と体言止めでプツップツッと切れてしまうと標語のようでせっかくの柔らかな作者の心情を味気なくしてしまいますね。

「九十歳」は「卒寿」とも言えるので「御婦人は一人住まいの卒寿かな」「御婦人は一人住まいの卒寿なり」などとして上の句は体言止めにしないようにしたいですね。

また「送る」は「贈る」の方がいいかもしれません。ただ相手の元へ送ったというよりは「贈り物」をしたという意味が強いですよね。

 

3・星づくよ冬のあしおと聞こえくる キーウの街も疲れてきたり(緒方)

晴れて星が月のように明るく輝く秋の夜。冬はもう足音が聞こえそうなくらいすぐそこまで来ていている。冬の終りに始まったロシアのウクライナ侵攻はまた冬が来るという今もまだ続き、首都キーウの街も疲弊してきている。

もう本当にロシアには一日も早く撤退して欲しいですね。最近ではキーウの民間施設やインフラ施設に最早悪びれもせずに攻撃を仕掛けていて非常に腹立たしいばかりです。

西側諸国では「ウクライナ疲れ」などという事も言われているようですが、逆ですよね。いつまでも侵略失敗を認められない「ロシア疲れ」ですよ。

星月夜(宇宙)という壮大で静かに冷たく、けれど美しく淡々と続くものと愚かなる人間の戦争との対比が良いですね。色々と考えさせられます。

ただ「星づくよ」は漢字がいいのでは。特に「よ」は「夜」でないと感嘆の「よ」とも取られかねません。

短歌としてはあまり漢字が多すぎない方が柔らかで美しいという話を何度かしているので、今回意図的に「星づくよ」「あしおと」をひらがな表記にしたのかなと思いますが「星月夜」は特段画数が多く硬い感じがするものでもないし、先程も言いましたが「よ」で迷うこともありひらがなの方が逆に読みにくいことになってしまいます。

難読漢字や画数が多く硬く難しい印象を与える漢字の多用はなるべく避けた方がいいですが、ひらがなでは意味が迷いそうなものや簡単な漢字、漢字そのものに雰囲気や意味がある漢字はしっかり漢字を使った方が良いと思います。

 

4・前置詞のやうな〈3年ぶり〉の文字秋の祭りの見出しに踊る(小幡)

二句三句が句跨りでやや読みにくさも感じますが音数は合っていますし「前置詞のような」という捉え方はとても面白いと思います。

余計な情報が無いので却って句跨りを避ける並び替えが難しく、作者も悩んだものと思われます。

〈3年ぶり〉秋の祭りのポスターの見出しに付きぬ前置詞のごと

とかはどうでしょうか。

まぁとても上手な作者なのでもっと上手い並び替えや言葉の選択をしてくれるかもしれませんし、色々考えた結果句跨りでもこのまま行く、となるかもしれません。

ただ「前置詞」という捉え方がポイントなので句跨りにしてまでそこを初句に持ってきてしまうのはやや惜しいのでは、という気がします。

 

5・師の歌集十首選びて送ること半数だけとは 何をか言わんや(名田部)

残念ながらこれは「宿題ちゃんとみんなやりなさいよ!」というお説教を五七五七七のリズムに乗せただけであり内容に詩情(歌)を感じられません。

こういうこと(お説教や皮肉)を五七五のリズムで調子良く言いたいのなら短歌ではなく川柳の方が向いていると思います。

短歌は「歌」ですのでもう少し「詩情」を大事にして欲しいと思います。

 

6・夕暮に落ち穂を拾う農婦らへミレーの絵筆はひかりを与え(川井)

この作者は先月も同じ対象を歌われていましたが、「名画なる」という説明は要らないのではという意見を踏まえ、新たに挑戦されたようです。

が、やはりあまり作者の心の揺らめきが見えてきません。再び挑戦するくらいなので作者は落ち穂拾いの光の描写に相当ハッとしたというか心が動いたのだとは思います。けれど客観的に「心が動いたのね」ということは見えても「どう」動いたのかがよく分からず、作者と同じように揺れることは出来ない状態です。

また「夕暮に落ち穂を拾う農婦ら」は具体的なようでいて「落穂拾いの絵」についての説明にしかなっておらず、作者の心を動かした事象そのものを表していない気がします。

その点では前回の「農婦のブラウス」の方がずっと具体的だと思います。

更に「ひかりを与う(結句なので終止形に)」という表現は「命を吹き込む」とか「輝きを与える」「魂を与える」などのような生き生きとした表現の比喩としても使われがちです。

今回作者は純粋に、際立って明るく見えた「光」の表現そのものを指しているのだと思いますが、「画家の絵筆が光を与える」というと画家の巧みな絵画技術を褒めるありがちな表現の方の「光」と取られてしまう可能性が高いと思います。

また絵画・映画・テレビ・本など誰かが人に見せるために作られたものには程度の差はあれ必ず製作者の意図が入ります。ここで泣かせよう、ここで笑わせよう、ここで考えさせよう、ここで感動させようという思惑の一切無い「作品」はありません。あったとしてもそれでは人の心がそう動かせませんから評価されません。名画である、名作であるほど上手に製作者の意図に乗せる力が強いと言えると思います。

ですから既に作られた作品を見て「心が動かされた!」と思ってもそれはある程度「乗せられて動かされた」のだと認識しておいた方がいいです。更には多くの人が「同じ意図によって同じように動かされている」ので個別的な気付き、揺れにはなり難いとも言えます。「人に見せることを前提にして、人に作られたもの」を見て個別的に歌うのは難しい、ということは念頭に入れておいてください。

その上で、何によって(描かれたブラウスの白さ?)どう心が動かされたのかもう一度考えてみてください。

絵の中のブラウスの白さが何故そんなに心に突き刺さって来たのか。二度もチャレンジするくらいですから、多分ただ「思ったより白くてビックリした」だけではないのだと思います。まだ作者自身も気付いていない心のささくれがあり、そこにブラウスの白さが引っかかったのではないでしょうか。

そこが見えてくると同じような心のささくれを持つ人の心が動き、その歌によってミレーの絵を新たな目で見るようになるかもしれません。

 

7・塩漬けの梅を干したる秋の日は気がかりなことがひとつ消えゆく(鳥澤)

平凡な日常を送っているようでいて、人は結構あれこれと「やらなくちゃ」ということに追われていると思います。

この作者も仕事や家庭の様々な「やらなくちゃ」に追われている中、そろそろ塩漬けにしている梅を干さなくちゃ、という「やらなくちゃ」を終えてふっと息を吐いている様子がよく見えますね。

作者と同じように読者の心も少し軽くなる気がします。

「梅を干したる」は字数を合わせるために「たる」にしたのだと思いますが「たる(たり)」は本来「~(し)て+あり」で「~(し)ている」という継続の意味がただの完了の助動詞「~(し)た」よりも強いです。

一字字足らずにはなりますが二句ですし「梅を干した秋の日は」でもいいし、「梅を干し終え」でもいいと思います。

逆に結句の「消えゆく」(消えてゆく=途中)を「消えたり」(消えた=消えて、消えた状態が継続)にした方が理由と結果がすんなり繋がるのではないかと思います。

また四句の「気がかりなことが」の「が」は今回省いてもいい助詞だと思います。

 

8・抗癌剤途中で終わるむなしさに緩和状態希望薄らぐ(山口)

この作者はこのところ癌で亡くなられた奥様の闘病を連作で歌っています。ファンタジーのように都合の良い奇跡が起こるわけもなく、とても厳しい現実を淡々と見つめて詠む姿勢はなかなか出来ることではないと思います。

抗癌剤を使っての治療(治癒に向けた医療行為)が途中で終り、緩和ケア(終末期医療。治癒を諦め患者の苦痛を緩和するための医療)へと移行することになり、治癒(治ること)への希望が薄らいでしまった。

歌の内容(場面)はシビアでズンと心に重く来るものなので、あとは表記、言葉の使い方ですね。

「むなしさ緩和状態」では意味が通じません。ここは「抗癌剤途中で終るむなしさよ」として上の句で一旦切ってしまいましょう。

「緩和状態」「希望薄らぐ」も助詞がなく単語がブツブツと切れてしまってこのままでは意味が通りません。

緩和ケアの状態になったことで・緩和ケアへと移行したことで(治癒という)希望が薄らいだのですから、「緩和ケアへと(「なり・なって」が省略)希望薄らぐ」と繋げれば意味が通るようになりますね。

 

9・一回り小さくなってふんわりと車椅子に笑む90歳の姉(飯島)

「一回り小さくなって」という具体が良いですね。金さん銀さんのようなお婆ちゃん像が浮かびました。

ちんまりと弱く不安定な存在になりつつあるという不安や、柔らかな人柄であろうお姉さんが溌剌としていた頃の懐かしさなどの作者の複雑な感情が見えますね。

ブログでは横書きしか出来ないのであまり目立ちませんが、短歌は基本的には縦書きなので「90歳」は漢数字の「九十歳」としましょう。面倒くさいですけど「きゅう じゅう さい」で一文字ずつ変換してください(笑)。

ちなみに読みは音数を考えるとこの場合「きゅうじゅうのあね」です。「さい」は読みません。音数により「さい」を読むかどうかは読者も都度考えてみましょう。

 

10・幼子の年取ったねと笑み顔で年は増すもの減るのもあるよ(栗田)

幼子が悪気のない笑顔で「歳取ったね」と言って来た。歳は増すものだけれど、(歳を増すと)減るものもあるんだよ。

まず年齢のことを指す場合の「トシ」は「歳」の字を使いましょう。

また「笑み顔」とは言わないですよね。「笑い顔」もしくは「笑う顔」ではないでしょうか。

さて「幼子の歳取ったねと笑う顔歳は増すもの」までは分かりますね。でも次の「減るのもあるよ」で一気に分からなくなってしまいます。

文法的には「歳は」という主語が「減るのもある」にかかりますが減る歳はないですよね。

話を聞いたところ「歳(数)が増えてゆくと出来ることや元気など減っていくものもある」ということが言いたかったということでした。

「減るも」がいけませんね。「減るのも」というとこの場合の「の」は「歳」を指すことになります。「減るものも」とすれば歳とは別のものが減ると読めるようになります。

また「歳は増すもの」にも問題があると思います。「増すもの・減るもの」と対比させたかったのだと思いますが幼子が「歳取ったね」と言って来たのですからそのまま「歳取るごとに減るものもあり」とした方が分かりやすいのではないでしょうか。

 

11・(いくさ)止まぬこの星の影にうつそりと呑み込まれゆく赤き月見ゆ(畠山)

月蝕を見ての歌です。

今回(11/8)の月蝕は晴れて雲も無くよく見えましたね。周りではすごいとかキレイとかの声が多かった気がしますが、地球の影にゆっくりと覆われていく赤っぽい月は私にはやや不気味なものに見えました。

最初は「うつそりと戦の止まぬこの星の影に呑まれゆく赤き月見ゆ」だったのですが、「うつそり」は呑まれていく月の様子を表しているのに「呑む」が離れすぎていて、これでは「うつそり」が「戦」にかかってしまうなと思い、字余りですが「戦止まぬ」を初句に持ってきて並び替えました。うつそりと戦が止まない、では意味が分からないですものね。

By photoAC xx0larkxx

 

◆短歌教室に於ける人の歌の読み方(読解力)

お喋り会でなら「この人の歌、共感持てるしいいわよねぇ」「この作者の考え方は道徳的に受け入れられないわー、苦手―」「この作者有名だけど、私には何が言いたいのかさっぱり分からないわ」等、好き嫌いを言い合うのは楽しいし、感想も「好き・嫌い・分からない」で構いません。が、短歌教室での歌の見方はそれではあまり意味がありません。

短歌教室は「より良い作品作りのための学びの場」ですから、作品の内容や思想についてどうこう言う場ではありません。教室は言語学習の場であり、作品は技術的・知識的なものを学ぶための素材として見てください。

 

言語学習に於いてまず大切なのは読解力です。

言語は自分の言いたいことを形にして人に伝える道具であり、伝わらなければ意味がありません。

そして人に伝わる文章を構築するには、まず自分がその言語を理解していなければ出来ません。

まず文字を知る→単語を覚える→会話できる→読める→書ける。

これが言語学習の基本的な流れだと思います。

そう。「書ける(文章を作れる)」は最終段階で、まず「読める」ことが出来てこそ出来ることなのです。

 

その「読める力=読解力」を測るために国語(日本語)の学習ではよく「作者が言いたかったことは何か」というような問題を出してきますが、本来これは「文章の構成を理解しているか」を問うものです。

国語(日本語)の場合のみ、教師すら思い違いをして「感想(作者の思想の是非や好き嫌い)」を問題視してくることがあるので、ここは要注意です。

尤も「感想文を書け」という問題の出し方も良くないですね。「内容について感想を述べよ」は道徳の分野としてやるべきで、国語=日本語(言語学)として問題を出すなら「内容を簡潔にまとめよ」として出すべきなのです。

「誰がどういう状況でどうした(思った)か」をこの文章から正しく読み取れていますか、というのが問題なのに、それをすっとばしてこの「誰々が思ったことについてあなたはどう思いますか」と問うてしまう。これは「道徳」の分野です。国語だから、日本語だから、ある程度読めて当然という思い上がりがあるからこそ起こる問題です。

英語ならば「atやin、onの違い(助詞の正しい使い方)やSVOC(主語・述語・補語などの使い方=いわゆる文法)」を問題とし、その違いに気付けるかどうかという正しい言語教育(言語という道具の使い方学習)が出来るのに、国語になると何故か「道徳」を交えてしまう教師が少なくないため、「読解力と感想」というものに対して勘違いをしたまま大人になってしまった人も少なくないと思います。

子供の頃、そういう「道徳的感想を求めてくる教師」に当たってしまった方、お気の毒ですがそれはハズレ教師です。今になって思えばその教師もまだまだ若かったでしょうし、教師といっても万能なワケでもありません。「あっちゃ~、あの先生、国語教師としてはハズレだったわ」くらいに考えて、改めて「ツールとしての日本語」「伝えるための日本語学習」について考えてみましょう。

短歌や俳句、小説など「言語を用いて作る作品」を作ろうとする人なら、ツール(道具)としての正しい言語(日本語)学習は避けては通れないのですから。

 

改めて「読解力」とは文章の構成を理解する力であり、文章の内容に対する好き嫌いや是非の判断とは別のものとして考えてください。

 

さて前置きが(これが前置きか!?ってくらい)長くなりましたが、「読解力」を付けるということは「伝わる文章を作るには何が必要かを見極める力」を付けるということです。

 

文章を読んで情景が目に浮かぶ、作者や登場人物の言いたいことが分かるということはつまり、その文章は「人に伝わるよう正しく作られている」ということです。

逆に分からない文章の場合、何故分からないのか。それはその文章構成が失敗しているからではないか。そうでないなら自分の読解力や知識が足りないのではないか。と、それらを考えることで自分の作品をより良くしてゆきましょう。

 

読解力を上げるためにとにかくよく本を読め、などとも言いますが、それは正しい文章に大量に触れることでその流れを自然に感じるよう体に浸みこませろ、というややスパルタ方式の学習法だと思います。

もちろん良いものに多く触れることによる効果はあります。語彙は確実に増えるでしょうし、短歌らしい言い回しに慣れて使えるようにもなるでしょう。またこんな物事の見方、表現の仕方があったのかという気付きもあるでしょう。

しかし「名画に囲まれていればいずれ本物の見分けが付き良い絵が描けるようになる!」と言われるようなもので、そりゃあそれで出来る人もいるだろうけど、それは元々才能のある人だよ、一般人は具体的に分析して知識を得、理解した上で練習をして描いた方が早いよ、と私は思います。意識せずにただ眺めているだけで上手い絵が描けるようになる人は少ないと思います。

ですから短歌も「正しい」文章で構成されている教科書や名作を何度も読み込んでなんとなく「正しい」文章に慣れるより、「失敗作」を意識的に分析して何が「失敗」なのかを考えることはとても効率が良いのですが、「失敗作」は失敗作であるがゆえに教科書などには載っていません。

そこで歌会で出される皆さんの「未完成作品」が良い教材となるのです。

皆さんの習作を見て、「何が言いたいのか分からないわー」で片付けてしまわないで、まず「どんな場面なんだろう。何が言いたいんだろう。」と推測してみる。そして何故上手く場面が浮かび上がらないんだろう、と考えてみる。この「分析」が大事なのです。

澪の会の歌会では他人の歌を声に出して読んでもらったあとに簡単な「感想」を求めているのですが、これも小学校の「感想文」という課題と同じでちょっと言い方が良くないですね。

正しくは「あなたによるこの歌の分析をしてください」です。

内容についての個々の「感想」は作品として完成・発表した後で伝えればよいもので、歌会(勉強会)中に必要なのは「分析」です。

・どういう場面、どういう状況を歌ったものか読み取れるか

・上手く読み取れないのはここの表現が問題だからではないか

ということを述べて欲しいと思います。

 

文章が読み取れない理由・四大あるある

その1:言葉を知らない

外国語はもちろんですが、日本語でも知らない言葉は沢山ありますね。全然知らない単語がポンと出て来て、尚且つ前後に情報を補足する言葉がない場合、何についての話なのか文章そのものが全く理解できません。

 

その2:主語・述語が不明。

何(誰)がどう(述語)したのか分からない。状況が分からない。

 

その3:背景が不明

どういう場面なのか分からない。状況が分からない。

 

その4:時系列が不明

これは「その3:背景が不明」の中の一つとも言えますが、多いので敢えて別枠で。

今の話だと思ったら過去の話だった。またはその逆だった。原因と結果が結びついていない、話が飛んでいる、など。これもまた状況が分からない。

 

読み取れない理由を分析してみると、大体はこれらの理由のどれかに当て嵌まると思います。

逆に「どの理由かも分からない。とにかく分からない。」場合は受け手(読者)の読解力が極端に低い可能性もありますので、「理由は分からんけど全然分かんないわー」と開き直ってはいけません。「すみません、どういう場面か分からないけど、どうしてなのかも分かりません…」としょんぼりしながら他の人に分析を任せてみましょう。

 

理由が分析出来た場合。

理由2,3,4は基本的に作者側の問題である場合が多いです。

・主語・述語を明確にする

・的確な助詞を探す

・単語の並びを変える

・情報を整理する

などの方法を提案し、対応します。

 

理由1の場合、この問題は読み手側の問題(言葉を知らない・知識不足)の場合と作者側の問題(説明が足りない・読者に過剰な知識を求めている)どちらの可能性もあります。

例えば「〇△□ソウ」について歌った歌があったとして、この「〇△□ソウ」という言葉がまるで聞きなれない言葉であっても前後に「葉」「茎」「花弁」「咲く」「庭」などの言葉や描写があれば「〇△□ソウ」の「ソウ」は「草」であり、花が咲く植物なのではないか、と読み取ることが出来るとするのが一般的です。更には名前も知らない花なのに具体的な描写により実際に見たことがあるかのように想像出来るようなら作者の腕は相当なものです。このように周囲の描写により「一般的には読み取れるだろう」という場合、分からないのは読み手の読解力の問題です。

けれど例えば作者が脳内に花の様子を思い浮かべつつ、ウキウキした明るい気持ちを花の様子になぞらえて「早起きの私の心は〇△□ソウ」などと作者としては「上手い例えをしてやったわ!私の気持ちにピッタリ!」という歌を詠んだとしても、読者からは作者の頭の中は見えませんから「〇△□ソウとは何ぞや。眠そうとか楽しそうとかの「推量のソウ」かしら」などとなってしまい全く具体的に想像できず、それゆえに文章も理解できない。などという場合は作者の問題です。

読者からは作者の頭の中は見えない

これは常に心がけておきましょう。

作者の問題の場合、もっと適切な表現(言葉)があるのではないか、そもそも一番歌いたい歌の核に必要な言葉は何なのかを作者が自覚して絞れるよう提案し、対応します。

 

このように「失敗」は問題点が分からないと改善のしようがありません。原因を理解していない失敗は何度でも繰り返してしまいます。

でも分かれば気を付けられますよね。

それを分析し、見付ける力が読解力です。

 

素晴らしい部分、自然に見えるけれど実はすごい技巧が凝らされたものというのはその道のプロにこそ称賛されても、自然すぎて素人は案外気付けないものです。

ユーザー(受け入れる側)に負担を求めない、プロならではの巧みさゆえです。

でも失敗部分というのは素人でも割と簡単に気付くことができます。

短歌もそうです。初めのうちの読解力では「良い良いと称賛されている名作とやらの良さ・巧さ」にはまず気付けません。

絵画でもそうです。さりげない線が一本描かれるだけで一気に立体的に見える絵になったりするのですが、全く絵心のない人がそれを見ても自然に見えるがゆえに逆にその一本の線の効果に気付きません。けれど自分が描く側になって初めて「うわ~立体的に描くのって難しい!この線の角度がちょっとズレるだけでものすごい歪んで見えちゃう!」と気付いたりします。

けれど失敗作に対しては素人でも「あれ、なんかこれデッサン狂ってない?ヘタクソ~」などと思えてしまうのです。とはいえ素人なのでどこにどう線を入れれば直せるのかは分からないし、実際にやらせてみたら出来ないんですけどね。

でも試行錯誤を重ねて何度も意識しながら失敗作を描くうちに、最初の頃には分からなかった「一本の何気ない線のすごさ」に気付けるようになるのです。

同じ線を見て「あっ、この線、すごかったんだ」というのは絵描きとしての読解力が上がった結果理解できるようになったことです。

 

皆さんも歌人としての読解力を上げていきましょう。

そのためには「何が上手く行かない理由なのか」を意識的に探さなくてはいけません。

分かりやすい失敗例ならすぐに気付けるようになるでしょう。そして気付いたら同じ失敗をしないよう気を付けることもできるようになります。

そうやって意識して読み、作る癖を付けていくと、最初の頃には分からなかった「巧い部分」にも気付くことが出来るようになってきます。これは意識的にやっていた手法なんだなと気付けるということはあなたがそれを意識できるレベルまで上がって来た証拠です。

 

「何が言いたいのかまるで分からない」うちは読解力素人です。

「こうじゃないかと思うけれど、理由そのXによりよく分からない」と失敗理由に気付けると読解力初級です。

「こうじゃないかと思うけれど、理由そのXによりよく分からなくなっているから、これこれこう直してみたらどうだろうか」と提案できるようになってきたら読解力初段です。

「この助詞は的確ではないけれど、こういうことが言いたいんじゃないかしら」と間違った文章からも正解を読み取れるようになったり、「これをこう表現するとは的確で素晴らしい!場面が目に浮かぶ!」と作者が意図したものを確実に読み取れるようになったら読解力黒帯です。(何でもとにかく褒めればいいってもんじゃないですよ!)

 

まずは読解力の中の初歩、失敗を見極める力を。そしてその失敗を自分はしていないか、自分の作品を改めて見直す力を。

教室ではもう一度学生になった気分でしっかり言語を学びましょう。

 

☆「感想」と「分析」は違う(歌会では「分析」をする)

☆読解力は分析力

☆何が理由で失敗しているのか見極める

by sozaijiten Image Book 13