短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」としているものはその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとしますので、原作者の方のみご自由にお使いいただけます。

◆歌会報 2026年7月

◆歌会報 2026年7月

澪の会を立ち上げ、長年講師として短歌普及に尽力してきました母砂田曉子が五月に永眠いたしました。

葬儀には澪の会の皆様からお花をいただきまして、まことにありがとうございました。

故人の短歌の指導はさすがで、一言の指摘でがらりと歌が詩的になるなど、代えがたい才能を持つ人であったと思います。

その様な指導者を失い、会の継続を迷いましたが、教室ではなく同好会というかたちでも短歌を続けたいという皆様のお気持ちに助けられ、会を継続することとなりました。

皆様に短歌を続けたいと言っていただけたこと、何よりも故人が喜んでいると思います。

私では故人の指導レベルには到底及びませんが、今後もこのブログなど出来る限りは頑張っていこうと思っていますので、皆様どうぞよろしくお願いいたします。

 

第165回(2026/7/24) 澪の会詠草

 

1・学童の子等に届ける昔がたりその準備をせむ三度目の夏(大久保)

作者は学童保育の子供たちに地域に伝わる昔語りを読み聞かせたりする行事に携わっているようで、それももう三年目だなぁ、という内容かと思います。

「夏」ということは「(学校は)夏休み」で、子供たちが学童保育にいる時間も長いので、預かる方(学童保育)がやる事も色々と増えるのでしょうね。

さて内容は分かるのですが、歌としては「届ける」「その」「せむ」あたりで少し引っかかってしまうかな、という気がします。

まず「届ける」だと絵本や冊子などを作って物理的に「お届け」するという意味にもとれます。特に「その準備をしよう(せむ)」と言っているので、より“冊子をホチキスなどで止めている作業”などが浮かんできます。が、作者の言いたいことは「準備を頑張ろう」という気持ちよりも、地域に伝わる昔語りを子供たちに「伝えていく」という意味の方が強いのではないでしょうか。

そうなると具体的な作業風景が浮かぶことで逆に作者の「次の世代に昔語りを伝えていきたい」という意味が薄れてしまう気がします。

夏休み昔語りを学童へ伝える準備も慣れつつ三年はや三年目

などとしてはどうでしょうか。

子供たちへ昔語りを伝えていく活動に携わってもう三年目かぁ、という思いが歌の核なのかなぁと思います。

また「せむ」ですが、現代仮名遣いの場合は「せん」です。「せむ」と旧仮名遣いにする場合は「伝える」も「伝へる」になりますし、他の歌も旧仮名で作るなど、どちらかに統一しましょう。

 

2・故里に安否の電話掛けみれば会話通して蛙鳴く声(渡辺)

場面はよく分かりますし、季節感もあり、ちょっと懐かしいような、離れていることを実感して寂しいような、良い場面を捉えていますよね。

ただ「掛けみれば」というと説明っぽさが目立って損をしてしまうと思います。また蛙の声というのは多数が賑やかに鳴いているのか、一匹が涼やかに鳴いているのか、などでもイメージはかなり変わってくるのでは、と思います。

実際私は電話越しにも聞こえるほどの沢山の蛙がうるさいくらいにジャンジャカ鳴いていて会話の声が聞きづらいという田舎あるあるな場面を想像しましたが、実は一匹の蛙で「あらもうそんな季節か」という気付きの歌だったようで、ここはきちんと描写しないと齟齬が生じてしまうなと思いました。

「掛けみれば」は「掛けるとき」「掛ける夜(夕)」などでいいのではないでしょうか。また「会話通して」と言わずとも電話中なのだから場面は分かると思います。その分蛙の声を具体的にしてみましょう。

故里に安否の電話掛ける夜蛙の声の細く紛れて

故里の母の安否を聞く向こう蛙鳴き初むころころ高く(四句と結句は入れ替えても)

「古里の~聞く向こう」とあれば電話なのかなと想像してもらえると思いますがどうでしょうか。

 

3・歌の道まっすぐ生きた先生に紆余曲折の吾は悲しむ(山口)

講師の砂田への挽歌ですね。ありがとうございます。

歌の道をまっすぐ生きた先生に対して、紆余曲折している私は悲しむという意味ですが、このままだと文法的に「先生に悲しむ」と繋がってしまい、「先生に対し/比べ」などの言葉が入らないとちょっと不自然かなという気がします。

「悲しい」という感情をまとめてしまう言葉を捨てて

歌の道まっすぐ生きた先生に対して吾は紆余曲折よ

まっすぐ生きた先生に対して、自分は紆余曲折だなぁ。

歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の吾は悲しむ

先生はまっすぐ生きましたね。紆余曲折の私は悲しんでいます。

歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の私は悲し

結句を「私は悲し」とすると“私は悲しいです”という意味になります。「悲しむ」という動詞にするか、「悲しい」という形容詞にするかで少しニュアンスが変わりますね。

 

4・紫陽花の白い花毬雨に濡れ仄かに赤みさして揺れ居り(栗田)

白い紫陽花の花毬に赤みがさしたことで作者にどんな感情が湧いたのでしょうか。そこが少し見えて来ないなと思います。

「仄かに赤みがさす」という表現が迷う元なのかと思います。「仄かに赤みがさす」と言うと大抵の人は「ほんのりと赤く色付く」という感じで、赤い状態がベストなもの(花や果実、紅葉など)が成長の証としてようやく色付いてきたとか、照れてほっぺたがぽっと赤く染まったり、柔らかだったり暖かだったりとプラスなイメージが湧くのではないでしょうか。

私は白で咲き始め、徐々にピンクになっていく紫陽花の品種でもあるのかと思い、徐々に花盛りの色へと変わっていく様子を喜んで見ているのかと思ったのですが、実は白い紫陽花が盛りを終えて赤茶に変色(枯れて)いく様子とのことで、“色付くワクワク”ではなく“色褪せる寂しさ”という全く逆の印象だったことが分かりました。

送り梅雨に揺るる白き紫陽花はかすか赤茶に色の褪せおり

紫陽花の白き花毬少しずつ赤茶に褪せて夏はもうすぐ

「送り梅雨」とは梅雨明けの時期に降る強めの雨のことです。

下の場合、雨の中、濡れているということは分かりませんが、紫陽花の季節(梅雨)ももう終わりかぁとしみじみしている気持ちは伝わるかと思います。

 

5・青鷺が糞を撒きつつ飛びて行く何事もなく自然のままに(名田部)

汚がったり恥ずかしがったりすることもなく、排せつという行為を生物としてあるがままの行為と捉えている場面はとても面白いと思います。

ただし歌としてはやはり糞尿や害虫など、一般的なイメージとして嫌悪感があるものを題材にすると詩的になりにくいので、非常に難しい題材であるということは意識しておいてください。

さて、作者は青鷺が飛びながら糞をするということにまず驚き、更にその糞が真っ白できらきらと輝き美しいと感じたことで更に驚いたということで、それならその“糞がキレイだと感じた”部分は是非入れたいところですね。

下の句の「何事もなく」「自然のままに」は受ける印象は同じような言葉なので、どちらかに絞って、その分糞がキレイに見えたという描写を入れたいです。

青鷺は真白き糞をきらきらと撒きつつ飛びぬ自然のままに

青鷺がきらきら糞を撒きながら躰軽くしあるがまま飛ぶ

鳥という生物としての自然的な行為で、排せつすらも感動を覚えたということですね。

 

6・何気なくしたことは脳をスルー探すこと増え短い一日(飯島)

「あるある~。私もやるわ~」と共感を呼びそうな内容ですよね。

何気なく置いた道具など、いざ使おうと思ったら想定していた場所になくて、あれどこに置いたかしら~と探したり、忘れないようにとメモを取ったはいいがそのメモをどこに置いたとか、どのあたりに書いたか忘れて探すとか。

ただ上の句の音数が合っていないのと「脳をスルー」という言葉がちょっと粗いかなと思います。

何気なくしたことは脳を素通りし探すこと増え一日(ひとひ)短し

 

7・ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり(緒方)

久しぶりの長距離の運転を終えてホッとしたのと疲労とで作者が吐いたであろう溜息を、長距離走って熱くなった車の排気にかけて上手く融合して良い歌になったと思います。

下の句を「愛車は車庫に吐息をもらす」として「吐息」を結句に持って来ようか迷ったということですが、確かにそちらの方がより「吐息」の印象が強くなりいいかもしれませんね。

 

8・電線に届かぬように背を切られ街路に並ぶ「ゆりの樹通り」(鳥澤)

ユリノキはモクレン科の落葉高木で高さ40メートルを超えることもある大きな木です。

それが昨今の強剪定でバッサリ伐られてしまって、すっかり無残な状態になってしまったことへの残念な気持ちを歌いたかったのでは、と思います。

強剪定というやり方は 景観上も悪く、木としての勢いがなくなり、将来的に倒木の危険性が高まるなどの問題があるのですが、こまめな剪定はどうしても費用がかかりますし、“予算の限られた中でとりあえず今苦情が入らない”ために最近よく採用される手段です。

「電線に届かぬように背を伐られ」という具体的な描写で強剪定なのだなということが分かりますね。

ただ「街路に並ぶ」は言わずとも「ゆりの樹通り」とあるので“ユリノキの並ぶ通り”ということは分かりますよね。

その分、強剪定されて残念な状態になってしまったことが分かる情報をもう少し入れてもいいのかもしれません。

電線に届かぬように背を伐られ木陰小さき「ゆりの樹通り」

電線に届かぬように背を伐られ夏も裸の「ゆりの樹通り」

 

9・一日の予定は一つだけにして古希の体をいたわり使う(金澤)

「一日の予定は一つだけにする」という具体的な行動の描写はとてもいいですね。ただ「いたわり使う」と言い切ってしまうと読者が自分の思考を入れる隙がありません。

なんで予定を一日に一つだけにするのか。そうそう、古希ともなれば体も疲れやすくなってもう無理できないものね、と読者自身に答えを見つけさせる。読者が自分事として考えることで共感できるために、敢えて答えを書かずに止めておくことが大事かと思います。

古希過ぎてカレンダーには一日に予定は一つと新たなルール

古希過ぎて決めたルールは一日の予定はひとつだけとすること

 

10・人住まぬ家によりそひ幾年ぞ泰山木の花の静けさ(小幡)

泰山木(タイザンボク)はモクレン科モクレン属の常緑高木です。

ユリノキもそうですけど、モクレン科の木ってかなり大きくなるんですよね。

人が住まなくなって何年も経つ家で当然手入れや水やりなどもされていないのでしょうけど、花の季節になると白い花が見事に咲いて、その生命力の強さに逆に人の儚さ(空き家)を見ているのかな、という気がします。

ただ「幾年ぞ」とありますが「ぞ」を使って強調する程の思いが「幾年」にあるかな、という気もします。普通に「幾年か」くらいにしておいた方が「花の静けさ」の印象が強くなるような気もします。

 

11・亡母宛の手紙もすつかり減る夕べ阿夫利嶺へ日の赤々と落つ(畠山)

亡母と書いて「はは」と読みます。母が亡くなってから実家に片付けに通っているのですが、とにかく通販が好きだったようで当初は毎日ものすごい数のDMとかが届いていたんですけど、片っ端から送付中止の連絡を入れて、五十日が過ぎる頃ようやく「減ったなぁ」と実感できるまでになりました。

同時に、もう母が居ないということをより実感したというか。寂しい気持ちもしました。

実家の方では郵便は夕方頃配達されるルートのようで、配達のバイクの音がしてポストに確認に行くと丁度夕焼けの時間なんですよね。その夕焼けという時間帯がより寂しさを際立たせる気がします。

 

12・雨乞いのいにしえ語り健やかな子等と眺むる大山阿夫利(大久保)

「いにしえ語り」は「昔語り」と同じく「思い出話」「昔話」という意味の名詞としてあるので、このままだと「雨乞いのいにしえ語り=雨乞いの昔話」という名詞で一旦文章が切れてしまいます。

語り聞かせるという動詞の意味で使うなら「いにしえ語り」と助詞の「を」を入れるか、「聞かせ」の方を使い、語順も「いにしえの雨乞い聞かせ」の方が自然ではないでしょうか。

また「健やかな」というのは概念的で曖昧なので子供や大山を具体的に五感で想像できる情報に変えた方がいいのではと思います。

また「大山」は全国にいくつもあるので「阿夫利嶺(あふりね)」とすると限定されると思います。

雨乞いの昔話を聞かせつつ子等と眺める阿夫利嶺蒼し

また「いにしえ語り」を名詞として使い、眺めているのは山の方としてしまう手もあります。

雨乞いのいにしえ語りの時代より子等を眺むる阿夫利嶺高し

 

13・今ここに風の電話があるならば還らぬ君に声届けたい(渡辺)

「風の電話」というのは岩手県にある私設電話ボックスで、電話ボックス内には、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話である「風の電話」とノートが1冊置かれており、来訪者は電話で亡き人に思いを伝えたり、ノートに気持ちを記載したりできるもので、特に東日本大震災以降、震災で死別した家族への想いを風に乗せて伝えられるようにと公開されたそうです。

私はその存在を知らなかったので、風の電話とは空想上のもので、風があの世まで言葉を運んでくれるものとイメージして、心の中で亡くなった人たちへ語りかけつつ風の中(屋外)にいることなのかな、と思い、素敵な想像だなぁと思っていました。

でも実際にあるものならば「」や〈〉で括って固有名詞であることをはっきりさせた方がいいと思います。

また結句は「届けたい」だと口語、「届けたし」だと文語になります。

私は「風の電話」は作者の空想上のものだと思っていたので「あるならば」と説明的にするより

回そうか風の電話のダイヤルを還らぬ君へこの声とどけ

などとしたらどうかな、と思ったのですが、作者が実在の「風の電話」を思っていたのならちょっと違うのかなぁ、とも。

 

14・自分とは何かを求め先生は歌人生を強く生きぬき(山口)

自分とは何か、命とは何か、死とは何か、存在と非存在とは何か。母の歌作りはそういったテーマが根底にあったと思います。

結句は「生きぬき」では収まりが悪いので、「生きたり」などでいいのではないでしょうか。

 

15・読み終えたミステリの本の続きかと紙面を埋める臓器あっせん(栗田)

たまたま読み終えたばかりの本と内容が似ていたという驚きと、現実にこんなミステリ本のような事件があるんだという二つの驚きがあるようです。

読み終えたミステリ本の続きかと夕刊に臓器売買の記事

読み終えたミステリ本の続きかと夕刊報じる臓器売買

「臓器あっせん」自体は違法ではなく、国内であくまでも公平に適合する臓器を病院と患者の間で繋ぐ事業としてあるので、ニュースになるような多額の謝礼を払って海外で違法に移植を受ける違法なものは「臓器売買」としてしまってもいいのではないでしょうか。「違法臓器あっせん」だと長すぎて使いづらいですし、「臓器売買」なら「売買」の時点で違法なので。

 

16・久しぶり一泊の旅福島へ「三春滝桜」散りしと聞くが(名田部)

「久しぶり一泊の旅福島へ」と二つの助詞を省略してしまっているので、「久々一泊の旅福島へ」と助詞を入れて読みやすくしてはどうでしょうか。

またこちらも音数は多くなってしまいますが「「三春滝桜」」と「は」を入れて欲しいですね。

また結句の「聞く」は「が」のまま(聞いたが)でもいいのですが、「聞く」(聞いたけれども)として濁音を避けてもいいのかな、と思います。

 

17・品種増えた紫陽花の葉にかたつむり見ることもなく何年も経つ(飯島)

確かに最近かたつむりを見かけない気がします。「紫陽花の葉っぱに乗ってるかたつむり」の図って梅雨のお決まりイラストという感じでしたけどねぇ。

ナメクジはいっぱい見かけるんですけどね…。

そして紫陽花は毎年のように新しい品種が出ますね。昔は普通の丸っこいのと、額紫陽花と八重くらいでしたよね。

初句、「品種増えた」では六音なので「品種増す」でいいのではないでしょうか。また「見ることもなく」は「見かけなくなり」の方が自然な気がします。

 

18・小田急に米人四人を傍耳(かたみみ)に聞いて知りたるトランプ嫌い(緒方)

「小田急」という情報がどうなのかな、と少し悩みました。米軍関係者をイメージさせたいなら「横須賀」などの方がイメージとして定着していると思いますし、「小田急」だけでは電車なのかデパートなのかでも迷ってしまいます。

「電車内」にしておけば旅行中なのかも、とか想像して、旅行で外国に来てまで話すほどに熱い話題なのかもなとか考えますし、日本で仕事をしている人かもと想像すれば、日本で暮らしている人の間でも話題になるほどなのだな、とか。「横須賀」で軍関係者を想像すれば歴代共和党政権では強固な支持基盤とされてきた軍人層の間でもそんなに嫌われてるのかとか。想像する人物像によって結構意味があると思うんですよね。それが「小田急」で正しいのかな、と。

電車内米人四人の会話からトランプ批判の単語溢れる

「トランプ嫌い」と言い切ってしまうと、作者が米国人の会話から「トランプ嫌い」と決め、読者は作者が決めたその判定を受けて、あぁアメリカ人もトランプ嫌いなんですね、とそこで終わってしまう気がします。「トランプ批判」の言葉あたりで止めておけば、どんな話題だったのだろう、あの件かしら、それともこの件かしら、と自分の中にあるトランプへの不満を思い起こして考えるのではないでしょうか。

また「聞いて」は口語なので「聞きて」と文語にした方がいいのではと言ったところ新仮名遣いなので、と言われていましたが、「口語と文語」「新仮名と旧仮名」はそれぞれ別問題です。

たとえば「彼はそう言った」という例文で見てみると、まず「彼はそう言った」という口語表現にするか「彼はそう言いぬ」「彼はそう言いき」「彼はそう言いたり」「彼はそう言えり」「彼はそう言いけり」などの文語表現にするかという選択をします。御覧の通り文語の方が細かいニュアンス違いを表現できるので、言葉を突き詰める短歌には向いていると思いますが、口語の方が自然で飾らない表現ができるので歌の内容によっては口語が生きる場合もあります。

その選択の上で、新仮名遣いとしている人なら↑に書いた通りですが、旧仮名遣いとしている人なら「彼はさう言つた(全て大文字)」「彼はさう言ひぬ」「彼はさう言ひき」「彼はさう言ひたり」「彼はさう言へり」「彼はさう言ひけり」など、口語でも文語でも旧仮名で表記します。

新仮名遣いか旧仮名遣いかは一度決めたら歌ごとに変えることはできませんが、口語か文語かはいつでも臨機応変に作品に合わせて変えることができます。何なら一首の中で使い分けることもできます。上の句でちょっとくだけて口語にしたから結句では文語にしてしっかり締めよう、とか。

「聞いて」「書いて」などの「~~いて」は口語です。「聞きて」「書きて」という文語が発音するにあたってイ音便化したものです。形容詞の「赤い」「白い」「美しい」などもそうですね。文語では「赤き」「白き」「美しき」です。

音便化した言葉というのはそもそも“発音するにあたって言いやすいように”と変化したものですから、基本的に口語です。

他に「遊んで」「読んで」「学んで」などは撥音便〈ん〉の口語で文語は「遊びて」「読みて」「学びて」となります。「言って(言つて)」「待って(待つて)」「笑って(笑つて)」などは促音便〈っ〉の口語(内は旧仮名)で、文語は「言いて(言ひて)」「待ちて」「笑いて(笑ひて)」(内は旧仮名)となります。

 

19・地の人にホタルは出るかと訪ぬれば身の上話の八十余年(鳥澤)

地元の住民に「この辺りに蛍は出ますか」と尋ねてみたところ、延々と八十余年分の身の上話を聞かされたという作者。苦笑いが見えますね。

「ホタル」は漢字の方がいいのではないでしょうか。

また「訪ねる」はどこか場所を訪れる時の「たずねる」です。質問する場合は「尋ねる/訊ねる」です。

また「尋ねる」の古語「尋ぬ」の已然形「尋ぬれば」を使っていますが、現代語の「尋ねれば」でもいいかもしれません。

また文法的には「身の上話(された)」と繋がるのが自然だと思うので、「身の上話」という助詞が引っかかります。四句と結句を入れ替えて「八十余年の身の上話を省略)」としてはどうでしょうか。

 

20・高齢者バス乗車券アプリ入れスマホのカバーをちょっとおしゃれに(金澤)

さすがにカタカナが多すぎるかなという気がします。カタカナが多いとどうしても字数が増えてしまって水甕投稿既定の28字に収まらないのでもったいない気がします。

お得なので高齢者用バス乗車券のアプリは使いたい。けれどまだ気持ち的に若く「高齢者」の括りに入れられるのにまだ少し抵抗があり、その“抵抗”の部分が「スマホのカバーをおしゃれに」なのではないかと想像しました。

またバスに乗るたび人目に触れるということも意識して、カバーを替えるきっかけになったのかもしれません。

でも「ちょっとおしゃれ」と言われても具体的に見えてこないので、色や質感、柄、ブランドなど何かお洒落のとっかかりが欲しいところです。

高齢者バス乗車券のアプリ入れお洒落な革製カバーに替える

「アプリ入れ」とあるので「スマホ」は省いても分かるのではないかということで、カタカナを減らしてみました。

実際は合皮だそうですが、いいんです、そんなの、創作で(笑)。要は作者の思う「おしゃれ」の方向性が見えればいいんです。例えば花柄だとか明るい色とか柔らかい色などなら「明るくて若々しいイメージ」を重視していて、高齢者用のアプリを使う歳になったけど気持ちはまだまだ若いわよ、ということを歌っているように見えますし、革製とか落ち着いた色とかブランド物などなら上品な感じとか落ち着いて美しく歳を重ねたいという印象が見えてきます。

 

21・台風の近づく夜の震度4ピクリともせぬ児の眠りはも(小幡)

台風が近付く夜ですから既に風や雨音など不安な雰囲気に包まれているのでしょう。そこへ(神奈川県では)久々の震度4というやや大きな地震。大人は東日本大震災の記憶なども甦り落ち着いていられませんね。既に床に入っていたとしても思わず飛び起きてテレビなどで震度を確認したりしそうです。しかし、側で眠る子供ときたらピクリともせずに眠っている。成長期の子供の眠りの深さと豪胆さに感じ入る作者。

字余りにはなりますが「震度4」と助詞を入れてもいいかもしれません。

 

22・箱いつぱい友から母への古手紙 差出人もこの世にをらず(畠山)

母が亡くなったあとの片付けで、大量の古手紙が出てきました。まだ旧姓の母宛てで、切手の額面が一桁時代のものも(笑)

特に仲が良かったのか、同じ差出人からの手紙だけでダンボール一箱もあっったり。

でもここ数年の新しい手紙はなくて、遺された住所録を見たら×が付いていたので、あぁこの方も既に亡くなっているのかなぁ、と何とも言えない切ない感じになりました。

でも取っておいても仕方ないし、置いておく場所もないのでしみじみしつつ捨てましたけどね。

「友から母へ」としましたが、「母へ友からの」とした方がより分かりやすいかな、と気付きました。「友から母へ」だと作者の友から母へ、とも受け取れてしまいますよね。

 

☆今月の好評歌は7番、緒方さんの

ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり

 となりました。

作者のホッとした気持ちを車の吐息として表現したところが素敵ですね。

 

次回澪の会は8月21日第三㈮ 12:30~厚木アミュー607です。

尚、酷暑が予想されるため、無理をなさらず、体調に少しでも不安があればお休みください。

参加される方は詠草二首を8月7日までにお送りください。

By PhotoAC ソライロ

 

 

 

 

お知らせ

澪の会の代表、砂田曉子が5月16日夜、永眠いたしました。

 

2月より間質性肺炎の悪化で療養入院中でしたが、数日前から急性腎障害となり、16日夜、急変致しました。

83歳でした。

 

急で申し訳ありませんが、5月22日の澪の会はお休みとさせていただきます。

 

尚6月は19日、アミュー607で開講の予定です。

よろしくお願い致します。

◆歌会報 2026年4月

◆歌会報 2026年4月 

 

まずは皆さま、講師砂田の入院のため2月、3月と歌会をお休みさせていただき、申し訳ございませんでした。

残念ながらまだ退院の目途は立っておらず、現在は長期療養型の病院へ転院し治療を続けております。

これにより厚木澪の会は講師不在の「同好会」というかたちでの歌会となりますがよろしくお願いいたします。

 

第164回(2026/4/17) 澪の会詠草

 

1・ありがとうのメッセージカードの花束を小さな腕に抱えた少女(戸塚)

ありがとうというメッセージカードの付いた花束を抱える少女。誰かに渡すのか、自分が貰ったのか。この歌ではそこまでは分かりませんが、何だかほっこり温かい気持ちになる歌ですね。

卒業のシーズンなので、作者は花束を抱えた見知らぬ少女を見て「誰に渡すのかしら」と想像しているような場面なのかなと思いましたが、実際は、作者はピアノの先生をしていらして、その教え子の少女からいただいた場面だったということです。

ありがとうのカードを付けた花束を少女は小さき腕に抱えて

とすると前者の「誰にあげるのかしら」と想像しているような場面に。

ありがとうのカードの付いた花束を少女は照れつつ抱えて来たり

とすると作者が貰ったのかなと想像できるのではないでしょうか。

いずれにせよ、二句は「メッセージカードの」だと九音になってしまうので、「カードの付いた」「カードを付けた」などで七音に整えた方がいいと思います。「メッセージ」とまで言わずとも、「花束・ありがとう・カード」という言葉からきちんと想像できると思います。

 

2・大山の端に照らすは残り火よ炎となりて黒き雲焼く(名田部)

「残り火」という言葉が解釈をややこしくしてしまった感があります。

野焼きや山火事という実際の「火」によって黒い煙が雲のようにもくもくしている状況なのか、夕焼けを「火」と捉えて、まるで雲を焼いているようだと喩えたのか。

現実的に大山近辺で山火事のニュースはありませんでしたし、野焼きも現在は禁止されている行為なので、おそらくは夕焼けのことなのだろうな、とは思いますが、疑問が湧くということはそれだけ歌の核から意識が逸れてしまうわけですから、なるべくすっと読み取れる表現にしたいですね。

また「残り火」と「炎」というのもイメージが対立してしまいます。残り火のイメージは“ちろちろ”とかくすぶっているような感じで、炎は“めらめら”とか勢いのある感じですよね。夕日がすっかり沈んでしまって暗くなりつつある中、山の端っこだけかすかに明るい色が残っているというような場面を歌いたいなら「残り火」という気がしますし、分厚い雲の向こうに燃えるような夕焼けがあって、その輝きに圧倒されたというような場面なら「炎」なのではないでしょうか。

大山に夜の帳(とばり)の下りはじめ夕日燻(くすぶ)る残り火のごと

などとすると、ほとんど暗くて山の端に少しだけ夕焼けの色が残っている静かな感じ。

阿夫利嶺の端の夕日は赤々と燃ゆる炎に黒き雲焼く

とすると力強い夕焼けがまるで雲を焼いてしまいそうだ、という感じになるのではないでしょうか。

また「大山」でもいいのですが、「大山」って「おおやま・だいせん」と呼ぶものを含めると日本で40近くあるらしいんですよね。なのでイメージをより絞るなら「阿夫利嶺(あふりね)」とした方がいいかもしれません。音数も変わらないですし、字面もちょっと格好いいし(笑)。

 

3・寒き中スイセンの花凛として花一輪に優しき香り(山口)

まず「スイセン」は「水仙」と漢字にしたいですね。

また「水仙」といえば普通は「花」のことを想像すると思うので、わざわざ(しかも二回も)「花」という必要はないと思います。

それよりも白なのか黄色なのか、ラッパなど形や品種名など、もっと水仙を具体的に想像できる情報を入れた方がいいのではないでしょうか。

また「寒き中」でも意味は分かるのですが、「中」って色々な漢字とくっつきやすい文字なので、読む時に区切りに一瞬迷いが生じる可能性が高い言葉でもあります。漢字の並びによっては少し表現を変えてもいいかもしれませんね。

寒き日に黄の水仙の凛と咲き優しきかおりをほのかに放つ

冬の朝白き水仙の一輪を摘めばふわりと優しき香(か)のす

 

4・ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑海まで渡る呼吸のいぶき(小夜)

上の句は「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」と俳句として読むととても良いと思います。ただ短歌として下の句まで読むと、「ぎっしりと」のかかる先(動詞)で悩んでしまいます。普通「ぎっしりと」とくれば「並ぶ」「詰まる」「入る」とかそんな言葉ですよね。「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」という俳句なら「ぎっしりと(キャベツが並ぶ)三浦岬のキャベツ畑」と補完して読むのですが、短歌のかたちとして読むと「ぎっしりと→渡る」という動詞にかかり不自然になってしまいます。「ぎっしりと」という表現を変えるか、「ぎっしりと」に自然と繋がる動詞を入れた方がいいのではないでしょうか。

また結句である「呼吸のいぶき」が分かりそうでいてちょっと分からない、そんな気がしました。

まず「呼吸」も「息吹」もほぼ同じ意味ですよね。どちらかを切って「キャベツの生命力」を呼吸(息吹)として捉えたということをハッキリさせた方がいいのではないでしょうか。

ぎっしりと三浦岬に連なりて春のキャベツは青々息吹く

春キャベツ三浦岬にぎっしりと玉巻き深き呼吸をはじむ

三浦岬に玉巻くキャベツの産声のごとき息吹の海まで渡る

 

5・裸木の根もとに屈めば羽包(はぐく)まれ安らぎしここち うらら春昼(緒方)

「裸木」「屈む」「羽包む」という言葉のイメージの合致度と、「安らぎしここち」と言ってしまっていいのかどうかが問題になる歌かと思います。

まず「羽包む」という表記からは、どうしても“羽のような柔らかなものに包まれる様”をイメージしますよね。でも「裸木」と言うとごつごつと硬い樹皮を想像すると思います。ごつごつと硬い樹皮に“包まれる”という字の印象がどうもうまく合致しません。

また「屈む」というのも“うつむいてうずくまる”感じで、漢字の意味的にも「屈する」「気持ちがくじける」「気力を失う」というマイナスイメージの方が強く、「安らぐ」というイメージと今一つ合致しない気がします。

また「屈めば羽包まれ安らぎしここち」では述語がありません。「羽包まれ安らぐここち」「羽包まれ安らぐここちに(なる)」など“羽包まれて、安らぐ心地がした(になった)”のか、「羽包まれ安らぎし心地思い出す甦る)」など“羽包まれて、(かつて)安らぎし心地を思い出した”のかどちらかなのかな、と思います。

話を聞いてみたところ、“(葉がないので)日が当たって温まった木肌の根元に寄りかかるように座ったら、母の胎内にいるような心地になった”ということで、それを「安らぐ」という大雑把な感情で言い切ってしまっては歌になりきれない(他人には分からない)と思います。その「安らぐ」がどういう状態に置かれたから湧き出たのか。春の日に暖められた木肌の暖かさ、どっしりと揺るがない存在の元に居る安定感、そこから母の胎内というイメージがわき、それが「安らぎ」と感じたわけですよね。一言で「安らぎ」と言っても色々あるわけで、どんな背景から来る安らぎなのか絞る情報がないと、大まかな感覚しか得られないと思います。

もっと言ってしまえば、裸木=葉っぱが無いので日が当たって温かい、とか屈めという部分も、具体的なようでいて、場面に至る説明(理屈)になってしまっていると思います。絞ると「春の温かい樹木から母の胎内にいるような安心感をおぼえた」ということになるのではないでしょうか。

春日浴び温もる大樹にもたれれば胎内記憶のふと甦る

春昼の大樹の根元のぬくもりにふと甦る妣の胎内

ゆりの木の根元しっとり温かくふと甦る妣の胎内

 

 

6・貫禄の染井吉野の根に近く二輪は大きく花を咲かせる(川井)

丁度一年前、

桜木の根にほど近くひそやかに二輪は早々花を咲かせた

と歌っておられましたが、今年はひそやかでなく大きく咲いたんですね(笑)。

去年は「根ほど近く」ではなく「根ほど近く」ではないかと指摘したのですが、今回は「根に近く」でも「根の近く」でも間違いではないと思います。でも「根の近く」の方がやや自然かなぁという気もします。

またこれも去年と同じ指摘になってしまいますが、「二輪」は「二輪」と強調した方が、より“特に目が行った二輪”という感じがすると思います。

また「大きく花を咲かせる」「大きな花を咲かせる」も少しニュアンスが違いますよね。「大きく」とすると桜に意思があってやや擬人化している感じ。「大きな」とすると客観的な事実。

作者は桜に意思を感じて「もう結構な老木だけど頑張ってるわね!」と話しかけるような気持ちで見ているのでしょうか。それとも二輪の大きな花に自然(桜)の生命力を感じているのでしょうか。

 

7・ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘の腕の点滴の跡に血がにじみおり(金澤)

歌の場面はとても良いですよねぇ。ぎこちなく赤ちゃんを抱くという表現から初産なのかなと想像できますし、腕の点滴の跡に血がにじむという表現から難産を乗り越えてやっとの赤ちゃんとの対面なのかなという想像もできますよね。

説明ではなく、具体的な描写で場面を作り上げている。とても素晴らしいと思います。

ただ惜しいなと思ったのが、言葉の位置ですね。今の並びだと印象に残るのは結句の方なので“難産だった”という部分になるのですが、歌としては“難産を乗り越えてやっと面会できた初めての赤ちゃんをぎこちなく抱く”という場面の方を核にした方が良いと思いませんか?

血の滲む点滴跡の残る手に赤子抱く娘(こ)のまだぎこちなし(ぎこちのなさよ)

 

8・校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居る(鳥澤)

あと五日で入学式という日の歌でしょう。

強風が吹きつける中、子供たちを迎えるその日まで頑張って耐えてみせるぞ、と桜に意思を持たせた上で応援している作者の気持ちが見えてきますね。

結句は「待ち居り(おり)」と終止形にしましょう。

口語で「いる」を終止形として使うなら「待っている」と「待つ」の部分も口語にしないと不自然です。

 

9・公園を横切るすり足一年生今日は学校楽しかったかい(大塚)

「すり足」というと重い足取り、つまらなさそうな足取りというイメージで楽しそうではないですよね。

その“楽しくなさそうな足取り”の子に「楽しかったか」と問いかける(心の中でも)のが私にはよく分かりませんでした。

“楽しくなさそう”と見ているのだから、「今日はあんまり楽しくなかったのかな?」と問いかけるなら分かるのですが。

スキップなど“楽しそうな足取り”を見て「うふふ、学校楽しかったのかい」と目を細めるなら分かりますが、“楽しくなさそう”と見てとっているのに、「楽しかったか」と逆の問いかけをするというのが、私にはピンと来ませんでした。

また「公園を横切る」という情報は必要でしょうか。

重い足取りで帰る新一年生を見て、まだ慣れていなくて、新しいお友達も出来ていなくて、学校、あんまり楽しくないのかな?と心配しているというのが今回の歌の核ではないでしょうか。だとしたら場面の構築に必要な情報は「公園を横切る」ではなく「楽しくなさげに学校から帰る」ということではないでしょうか。

すり足に独り帰路ゆく一年生 学校はまだ楽しくないかい

すり足に独り帰路ゆく一年生 早く友達できるといいね

俯きて重き足取りに帰路をゆく一年生よ楽しくなぁれ

など、心の中で話しかける言葉をセリフとしてそのまま持ってくる手法はありだと思いますが、“重い足取り”と見ているなら、問い掛けのセリフはもっとしっくりくるものがあるのではないかという気がします。

 

10・庭先に花びらヒラヒラ飛んできて花見に行けぬわれは喜ぶ(飯島)

「ヒラヒラ」は「ひらひら」とひらがなにした方が柔らかな印象になると思います。

また歌の場面や嬉しい気持ちはよく分かるのですが、「我は喜ぶ」と感想として言い切ってしまうのはどうかなと思います。

自分が喜んだ、とするより「(あ・わ)を喜ばす」とした方が、読者が(作者となって)想像する部分が少し増えるのではないでしょうか。

まるで作者を喜ばそうとするように飛んできた桜の花びら。果たして作者は喜んだでしょうか。それはもう当然「是」、喜んだわけですが、「私は喜びました」と言われるより、少し考える隙間ができますよね。

「私は喜びました」と言われると読者は“喜んでいる作者を見る”位置にまでしか寄れませんが、「花びらが私を喜ばせる」と言われると“喜ばせようと飛んでくる花びらを見る”位置にまで寄ることができるのではないでしょうか。

また「庭先に」「花見に」と「に」が被るため、どちらかを「へ」とした方がいいと思います。今回「庭先に」というのは「ここ来てくれた」という場所を指定する思いがありますから、「庭先に・花見へ」の組み合わせの方が合うかなという気がします。

 

11・花咲けど実のつかぬまま枯れゆくかある日弾けて白き綿花に(大久保)

ちょっと核に至るまでの説明が長くなってしまったかな、という気がします。

また「綿花」というのは実はたんぽぽの綿毛のようなもので、まず淡い黄色の花が咲き、実が膨らんで、それ(実)が割れて白いふわふわの花のような綿毛が開くわけですね。

なので「実のつかぬまま→白き綿花に」なることは事実としてはありえないわけで、読者はどういう状態か掴めずに迷ってしまうと思います。

実のまま全然開かないなぁと思っていたのがある日突然開いた喜びなら、

花ののち固き実のままの綿花(ワタ)の木のぽぽんと白く弾ける朝よ

待ちかねた白き綿花が冬の朝ポップコーンのごと弾けたり

などで、もっと開いた綿花に対する情報(ぽぽんと・ポップコーンのごとく)を描写するといいのでは、と思います。

ただ話を聞いてみたところ、枯れたオクラ(花が似ている)だと思っていた所からある日予想もしていなかった綿花が開いて驚いたということで、そうなると核は「枯れたと思っていた綿花が開いた喜び」ではなく、「予想外に綿花が開いた驚き」ということになり、その場合“そこに綿花があるとは思わなかった”という情報が必須かと思います。

実を付けず枯れたオクラと思いきやある日真白き綿花弾けり

秋に黄の花咲いたまま忘れおり冬晴れへぽんと綿花弾けて

 

12・冬さなか枝先赤く側ゆけばつぶつぶ並んで未開の紅梅(E.S)

冬の寒いさなか、枝の先が赤いことに気付き、近寄ってよく見れば未開の紅梅のつぼみがつぶつぶ並んでいた。

「未開紅(ミカイコウ)」という品種の梅があるようです。早咲きの八重の紅梅で、つぼみの状態から咲いているように美しいことが由来とされています。

「側ゆけば」=近寄ってよく見たら、というのは場面へ至るまでの説明で理屈っぽくなってしまうので、切ってしまった方がいいのではないでしょうか。

また「つぶつぶ並んで」も「つぶつぶ並ぶ」と七音に整えられると思います。

冬さなか枝先ほんのり染めるのはつぶつぶ並ぶ未開の紅梅

冬さなか未開紅の枝先へつぼみつぶつぶ並びはじめる

 

13・古き家(や)を守るがに立つ棕櫚の木のやぶれ唐傘ひかりを零す(小幡)

棕櫚(しゅろ)の木って分かりますか? 分からない方はヤシの木を想像していただければいいかと。日本版ヤシの木で、本場(ハワイなど)のヤシの木に比べると葉は短く、うちわを細く裂いたような葉をしています。

高い位置で葉を広げる樹形を「唐傘」と見て、それが古い家を守っているようだ、と見て取ったようです。

情景は迷いなく浮かぶのですが、作者はその情景を見てどんな感情が湧いたのかがちょっと分かりにくいかもしれません。

古い家を守っている棕櫚に対し、そんな破れた状態になるまで守ってくれてありがとう、ご苦労様、頑張ってと感謝したり励ますような気持ちなのでしょうか。

それとも古い家というのはもう誰も住んでおらず、誰も住んでいない家をまだ(破れた傘のようになってまで)守り続ける姿に何とも言えない寂しさや無常を感じているのでしょうか。

「ひかりを零す」だけではそこがちょっと弱いかな、というかどちらにも取れてしまう表現かなと思いました。

 

14・雨上がりきらきら桜の吹雪くなか退院見込めぬ母の見舞ひへ(畠山)

雨上がりの午後、雨に洗われた空気に日が差し始め、散る花びらも雨で濡れたのか一枚一枚コーティングされたみたいに艶やかに光を弾いて、ピンクというより金色に光ってきらきらきらきら舞い散っていたんですよね。

その美しさに感嘆しつつも、未だ退院が見込めず長期入院になっている母のことを思うと素直に光景の美しさに喜べないというか。風景の美しさを喜ぶ心の余裕がない感じを歌ってみました。

 

15・午年でホワイトホースの小瓶より紅茶へ一滴午後三時かな(戸塚)

今年は午年ということで、お正月にお祝いとして用意したのでしょうか。ウィスキーのホワイトホースの小瓶から紅茶へ香り付けに一滴たらし、アフタヌーンティーを楽しむ作者。優雅でいいですねぇ。

何てことない日常だけれど、ちょっと優雅な気持ちで楽しむ生活詠。肩肘張らず、素直な描写でとてもいいと思います。

「午年で」の「で」だけ気になります。「午年に」としてほしいですね。

 

16・小鮎川ふくれる鴨が十羽おり新春の水際暖かき風(名田部)

ちょっと場面が分断されてしまいましたね。また助詞が少ないため、ブツブツと文章が途切れてしまい調べが崩れてしまっています。

まず核となるものを決めましょう。今のままだと「小鮎川」「鴨」「水際」「風」と主役候補が4つもあります。

基本的には結句こそが一番強く印象に残るので、今のままだと「暖かき風」が主役かなとなりますが、それにしては「暖かき」以外に風に対する情報がなく、「え、あんたが主役?」というツッコミを入れたくなってしまいます。

ではどれに作者は一番注目しているのかなと考えると、やはり一番しっかり観察した描写がある「鴨」なのではないでしょうか。

でも「十羽」という数には今回それほど重要性を感じません。「唐揚げ十五本」の時の「十五本」という具体的な数は「一人でそんなに?」と読者を驚かせ、作者の唐揚げに対するワクワク感を可視化させたためとても重要だったのですが、今回は六羽でも九羽でも十羽でも意味は対して変わらず「一羽でなく複数だった」ことが分かればいいのではないでしょうか。

ふんわりと春の風吹く小鮎川の汀へふくふく膨れる鴨ら

冬の厳しさを越え、少し暖かくなってきた春の風が優しく吹く小鮎川の汀に、それでもまだまだ冬仕様の膨らんだ鴨たちがのんびり過ごしている様子。

「風」も「汀(水際)」も“膨らんだ鴨たち(主役)のいる場所の説明”として分断させずに一つの文章として前に持って来て、しっかり観察した主役の鴨を結句に持って来てみました。

 

17・ヒナ祭り亡き妻と共ごちそうが祝いの酒に愚痴となりてか(山口)

まず「ヒナ祭り」は「雛祭」(漢字)か「ひな祭り」(ひらがな)と表記してほしいです。

生前奥さんがしてくれていたように、奥さんを亡くされた後もひな祭りの節句にごちそうを用意して、おそらくは奥さんの写真などを眺めつつお酒を飲み始めたところ、いつの間にか「どうして俺を置いて逝っちゃったんだよ。一人の酒は寂しいよ」と愚痴になっていた、という場面なのではないでしょうか。

内容はとてもいいですよね。男やもめの悲哀というか。ただ文章をもうちょっと自然な日本語にしたいですね。

ひな祭りにごちそう並べて亡き妻と語らうつもりが愚痴となりたり

ひな祭りの馳走と酒に亡き妻と語らうつもりがいつしか愚痴に

 

18・恵方巻まるごとかじりお辞儀する輝く明日への南南東へ(小夜)

恵方巻。コンビニやスーパーなどでこの風習が宣伝されるようになって、気付けば二十年くらい経っているでしょうか。

その年ごとに違う恵方(縁起が良いとされる方角)に向かって巻き寿司をまるごと頬張るってやつですね。正確にはその後でお辞儀までするんですね(笑)。知りませんでした。

“縁起が良い”ということを「輝く明日へ」と表現したのが作者らしいと思います。

「輝く明日へ」「南南東へ」と近いところで「へ」が被ってしまいますが、これはどちらも必要で仕方がないかなと思います。

まめに行事を楽しむ作者の日常への向かい方が自然と見えてきて、良い生活詠だと思います。

 

19・人絶えし逢魔(おうま)が時(とき)の古寺に置き忘られし怪獣ゴジラ(緒方)

人がいなくなって寂れた風景にゴジラのおもちゃが取り残されているという情景はとてもいいと思うのですが、ずっと昔の一風景を「あの時忘れられていたあのゴジラ、その後どうなったんだろう」と思い返しているのか、今見ているのか、という時制でまず悩みました。またどんなゴジラなのか、作者が捉えたゴジラ像が書かれていないため、ゴジラ(この風景)に対し作者はどんな感情を抱いているのかがまだ見えて来ないと思います。

まず「人絶えし」は「逢魔が時」にかかるのか「古寺」にかかるのか。「人絶えし逢魔が時」というかかり方はどうなのでしょう。ずっと昔に人も絶えた逢魔が時?何だか意味が通りません。「人絶えし古寺」ならずっと前に人も絶えて今は寂れた古寺、という感じで自然に繋がるのですが。

「人絶えて逢魔が時の古寺に」「逢魔が時人の絶えたる古寺に」「人絶えし古寺は今逢魔が時」など、いずれにせよ作者は過去の寂れた古寺を思い出しているのではなく、今現在人の絶えた古寺を見ているのではないでしょうか。

そして「置き忘られし」ゴジラ。やはり「~~し〇〇」と言うと、ただ過去のことを表すのではなく、「〇〇」に当たる名詞をも想像の中で思い返している時に使うと思います。基本的に動詞と名詞の両方を脳裏に描いて思い返すとなると、今目の前に実物があるわけではないので、ちょっと前のことではなくずっと昔のことになることが多いため、基本的には「ずっと昔に」と訳してね、と言っていますが、ちょっと前かずっと前かという時間的な問題というより、遠い記憶を思い起こすなど、かかる名詞までを改めて意図的に思い返している場合が「~~し〇〇」で、しみじみ思い返すほどのことではないただ過去を指すだけの場合やかかる名詞が思い返すまでもなく今現在ある場合としては使わないと思います。

「ずっと昔に置き忘れられてしまったのかなぁ」とするなら、その「長い時」に思いを馳せていることが重要になるわけで、その場合「人絶えし」「逢魔が時」などはそっちに強い印象を持っていかれてしまうので思い切って削り、長い時間放置されていたであろうゴジラの描写(汚れや色褪せなど)を入れるべきでは、と思います。

いずれにせよ「置き忘れられた」だけでは作者の気持ちがあまり見えてこず、“作者はゴジラをどう捉えたのか”、つまりゴジラの描写をしっかりとすることで、作者の心の内が見えて来ると思います。

古寺へ置き忘れられしゴジラ居て雨と闘いし傷跡のあり

逢魔が時古寺の隅へ色褪せた怪獣ゴジラがぽつんとひとつ

公園に誰かが忘れたゴジラ居て逢魔が時の空へ吠えたり

 

20・やれミルクやれオムツだと世話をやき迷惑がられる吾の老婆心(金澤)

場面はよく分かるのですが、「迷惑がられる」と自分の中で答えをまとめてしまっているため、報告で終わってしまったかなという気がします。

それ以上やったらありがた迷惑になっちゃうんじゃない?とか読者に想像させる余白が欲しかったかなぁ、と。

やれミルクやれオムツさあ次は何と娘にも訊かずに孫の世話焼く

 

21・青空へ重機はアームを突き上げて新市庁舎を積みあげてゆく(鳥澤)

「建ててゆく」でなく「積みあげてゆく」としたことで、高い建物なんだろうなぁと思わせ、立派だなぁ、建設業者すごいなぁ、とか建設技術に感心しているのかな、と思わせますね。

「青空へ」とあるので、作者は晴々としたプラスのイメージでこの新市庁舎建設を捉えているのだと思います。

特に直す所はないと思います。

 

22・早朝の目に鮮やかな冬景色畑の白霜(はくそう)綿花の白よ(大久保)

「白霜」を「はくそう」と読ませる例はほとんどなく、「しろしも」「しろじも」「しらじも」と読ませる場合が多いようです。

また畑の霜と綿花の白さが目に鮮やかだとしていますが、「鮮やか」というと色彩の彩度が際立つイメージで、「白」という色は彩度を持たない特殊な色なので(白・黒・灰色は無彩色と呼ばれます)、「白が鮮やか」というとどうもピンと来ません。無彩色は明度によって差が出る色なので、「明るい」とか「眩しい」とかなら“白の明度が際立っている”と感じるのですが。

また雪なら分かるのですが、霜ってそんなに白さが際立つかな、とも。

早朝の目の覚めるごと冬景色 霜置く畑の綿花の白よ

朝日射す冬の景色のまぶしさよ霜はきらめき綿花(ワタ)軽やかに

 

23・床の花寒風に咲いて侘助や ひと枝挿すればわび茶のしつらえ(E.S)

床の間に活ける花として寒風に咲く侘助(ツバキの一種)を飾り、一枝を挿したらわび茶の空間がすっかり整った、という内容かと思います。

わび茶とは茶道の様式の一つで、物事が完全でないことを肯定し、自然のままを受け入れ、簡素で閑静な在り方を楽しむ茶の湯(日本的哲学)を楽しむこと。わび茶を完成させた千利休など、わび茶を好む茶人を「侘び数奇(すき)」といい、利休も好んだという素朴な感じの侘助の花の名の由来という説もあります。

「床の花」でも「床の間に飾る花」「お茶室の花」「茶花(ちゃばな)」ということは分かるのですが、短歌としては出来れば助詞を入れて自然に下に繋げたいところではあります。「床の間に」「茶花には」など助詞を入れて五音になるようにしてはどうでしょうか。

「寒風に咲いて」という活用も「咲いて、どうした」という述語に繋がっていないため不自然に感じます。また「ひと枝挿すれば」は「ひとえさすれば」と読ませるのでしょうか。これも「一枝挿せば(ひとえださせば)」とした方が自然ではないでしょうか。ただそれでも「挿せば」とすると理屈っぽくなってしまうため、「一枝挿して」とした方がいいかもしれません。

床の間へ寒風に咲く侘助を一枝挿してわび茶のしつらえ

 

24・橋五つ向かふの町へ映画観にペダル漕げるを幸と想はむ(小幡)

橋を五つも越えた先の町まで、映画を観るためにペダルを漕げる(体力がある)ことを幸せなことだな、としみじみ実感している作者。

突如入院して歌会も来れなくなってしまった講師の砂田のことや、他にも外出が厳しい友人などのことが念頭にあるのではないでしょうか。

年齢的にも周りでそんな話が増えてくる中、橋五つも向こうの町まで映画という娯楽のために自転車を漕いで行ける体力があるということは“当たり前”じゃなくて“幸せ”なことなんだな、と。

いや、でも、橋五つってなかなかすごいですね(笑)。それだけの体力維持には相当の自己管理が必要なのでは。筋トレとかウォーキングとか全然続かない私としては、きちんと体力維持できる人ってすごいなぁと思います。

 

25・病床の壁の向かふの満開の桜の明るさ僅か届かず(畠山)

母の病床の壁一枚向こうでは桜が満開になっているのに、ベッドの上の母からは見ることが出来ない、という歌です。

「母へ届かず」にするかで迷ったのですが、この一首で完結するなら「母へ」なんですけど、今回は前後の歌が大体母の入院関連の歌なので連作としてまぁ分かるかな、ということで、「ほんの壁一枚向こうなのに」ということを優先してみました。

 

☆今月の好評歌は8番、鳥澤さんの

校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居り

となりました。

強風にしなる校門の桜があと五日で入学式だから頑張るぞ、と耐えて待っているように見えると詠むことで、実は作者が「あと五日、頑張って!」と応援している歌ですね。

7番金澤さんの難産の末ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘さんの歌、15番戸塚さんのホワイトホースを一滴垂らしたアフタヌーンティーの歌、18番小夜さんの恵方巻をかじる歌などの気張らない生活詠も好評でした。

 

次回澪の会は5月22日㈮ 12:30~厚木アミュー601です。第三金曜日の15日はお部屋が取れず、第四金曜日となりましたのでご注意ください。

参加される方は詠草を5月8日までにお送りください。

By PhotoAC LUISU01

 

 

◆歌会報 2026年1月 (その2)

◆歌会報 2026年1月 (その2)

 

第163回(2026/1/16) 澪の会詠草(その2)

 

15・だんだん茜の空に染まる空けさの夜明けによろこびみつる(E.S)

「茜のに染まる」ではおかしいなと思ったのですが、「茜色に染まる空」の間違いとのことです。

ただそれでも「茜色に」では六音ですし「茜の色に」として七音に、初句も「だんだん」と「と」を入れて五音に整えた方がいいと思います。

朝焼けの茜色にプラスの印象を受け、そんな美しい世界を今生きて見ていること、それ自体に喜びを感じているのかなぁと思いました。

“よろこびが湧くような圧倒的な空”を描く「茜色」以上の言葉を見つけて、「よろこびみつる」と言わずとも読者によろこびを湧かせるような表現ができるようになるといいのですが、難しいんですよね。

ただこの方は初心者と言いながら既に場面の切り取り方が上手で、初心者が陥りがちな“場面に至るまでの説明”をしようとして肝心の場面そのものを描く文字数が足りない、という失敗はしていません。これはすごいことです。

ひらがなの混ぜ方など表記もお上手で、この調子でブレずに場面を切り取る歌ができれば、あっという間に上級者になれそうな気がします。楽しみですね。

 

16・あと一首詠みて新年迎えむとシャキッと目覚めりまずは机に(大久保)

大久保さんは今のところ他の歌が新カナなので、「迎えと」は「迎えと」と新カナで統一しておきましょう。もし旧カナで作りたいなと思ったら、以降は全て旧カナで統一しましょう。

私も最初の数年は新カナだったのですが、「なんか旧カナの方がしっくりくるな」と感じて旧カナに変え、それ以降は旧カナでやっています。

さて、こちらの歌もちょっと動詞が多いかな(詠む、迎える、目覚める、机に“向かう”)と思うので、どうしても動画になって印象がブレてしまっている気がします。また「こうして、こうなったのでこう思いました」と“場面へ至る説明”をすると散文となってしまいます。

「私はこういう場面でこう感じました」という文章では読者は作者と向かい合う位置にいて、「ふむふむそうだったんですね」とその話を聞く立場にいます。

そうではなくて作者の心が何かしら動いたその場面を箱庭のように用意して、読者をそこに放り込み、読者自身に体感してもらえる“箱庭作り”が韻文(詩)で、そこ(箱庭)では読者は作者の話を聞く“別人”ではなく、作者の中に同化して存在するんですね。

あと一首詠みて新年迎えんと温き布団をがばと退けたり

など、「机に向かう」場面は時間が経過してしまっているかな、とどんどん切り落として「瞬間」を切り出していってみてください。

また言葉として「目覚める」は時系列的には最初に起こる事柄で、「目覚めて→あと一首詠もうと思い立ち→起き上がって→机に向かう」というのが自然な流れですよね。

言いたいことの意味は分かるのですが、「あと一首詠みて新年迎えんとシャキッと起きてまずは机に」なら意味としては違和感がないのですが、ここに「目覚める」が入るとちょっと違和感があるかもしれません。

それにしても年の瀬まで積極的に作歌をする姿勢は素晴らしいですね。私はいつも締め切りに迫られないと何も行動しないダメ人間なので、皆さんの積極的に学ぼうとする姿勢には脱帽するばかりです。

 

17・冬晴れに干した布団にカメムシが踏みし悪臭あとの後悔(渡辺)

一首目(安達太良)がとても詩的で切ない良作だっただけに、こちらは題材としてもちょっと詩からは遠い報告文になってしまったかな、という気がします。

まず「あとの後悔」は言ってほしくないですね(笑)。せっかくの冬晴れに干した布団なのにカメムシのせいで一気に残念な気持ちになってしまったわけで、作者をガッカリさせたその「臭い」こそをしっかりと描写してほしかったです。

また今の文章では「カメムシ踏んだ悪臭」なので現場にはもうカメムシはおらず、カメムシ布団踏んだと思われる残り香を作者が見つけたという形ですが、悪臭で有名なカメムシといえどもちょっと布団の上を歩いたくらいではそんなに臭わないのでは?と思っていたところ、「作者布団についていたカメムシ踏んでしまった」とのこと。

だったら「冬晴れに干した布団カメムシ踏みて」(後悔するような)匂いになってしまった、ということではないでしょうか。

冬晴れに干した布団のカメムシを踏みて漂う仕返しの香の

小さき虫の最期の抵抗と思えば許せなくもない…かも(笑)。でも私、カメムシの臭いって実際嗅いだことないんですよね。クサいと有名なことは知識としては知っているのですが。経験したことがないので上手く表現できません。そんなカメムシの臭いを知らない人にも伝わる「うへぇ」と思うような臭いの表現ができれば↑の概念的な表現よりずっと良いので、是非お願いします。

 

18・誇らしく紅(あか)の衣で連なりて丘一面のコキアたちかな(小夜)

まず短歌では「」は「」と。もう機械的に「で」は「に」に置き換える、くらいの反応でいいと思います(笑)。口語(普段の話し言葉)では使わない言い方なので違和感があるかもしれませんが、毎回機械的にやっていればすぐに慣れると思います。

また「連なりて」というと「連なって、それからどうした」という結論に当たる動詞(述語)が必要になりますが、この歌にそんな場面転換はないというか要りませんよね。「誇らしく連なっているコキアたちだなぁ」という文を短歌調(文語)にして「連なれる」ではないでしょうか。

場面の切り取りはとても上手になってきましたね。突然風に気を取られることもなく、真っ赤に紅葉する丘一面のコキアという場面をしっかりと捉えています。

ただ「紅の衣」。「衣」というと基本的に“人為的に身にまとうもの”であり、この一言でコキアを擬人化してしまうパワーのある言葉ですが、今回歌としてその擬人化は効果的でしょうか。

確かにコキアは丸っこくて可愛らしいフォルムで、子供とか妖精とかを思わせる植物ですよね。結句でも「たち」としているように、作者はコキアを妖精のように捉えて、並んでいる様も集まってお遊戯でもしているように見たのかもしれません。私もそんな風に感じるのでよく分かります。

でも「誇らしく」「たち」と擬人化している部分が他にもあるので、そこに更に「衣」とくるとちょっとくどいかなという気もします。「この擬人化どうですか~」と押し付けてくるような。でも「誇らしく」は作者が個性的に捉えた印象なのでこれは切れません。となると「衣」か「たち」かどっちかは抑えてもいいのかなぁ、と。

押し付けでなく、読者が風景を思い描いた時に自発的に「可愛らしい、妖精みたいね」と思い付くくらいのところで止めた方が、“自発的”な分印象が強くなります。実は自発的になるよう導かれているんですけどね(笑)。

この読者を自発的と思わせて作者の思う感情へ導くというのがねぇ、難しいですよねぇ。答え(感想)を言ってしまわない、主観(想像)を押し付けすぎない、時系列でなく瞬間の詳細を、などを突き詰めていくしかないのでしょうけど、私も未だに程度が上手く掴めません。

誇らしく紅一色に連なれる丘一面のコキアたちかな

 

19・走ること少なくなりし吾なれば川辺を走る若者に笑み(山口)

「なりし吾なれば」という部分がとても“説明感”を出してしまって損をしています。歌っているのは「我」なので「我」は入れなくてもいい場合が多いです。

また「若者」では「若者の顔に笑みが浮かんでいる」という意味になってしまいます。そうではなく、走る若者を応援するように作者が笑む(微笑みかける)んですよね。

走ること少なくなりて冬ざれの川辺を走る若者へ笑む

走ること少なくなれる八十歳 川辺を走る若者へ笑む

また「少なくなりて」だと今でも少しなら走れるような気がしますが、「もうすっかり走れない」という状態にしてもいいのかなぁ、とも。

走りし日は遠き昔に 冬ざれの川辺を走る若者へ笑む

駅伝も見る側となり二十余年 川辺を走る若者へ笑む

ただ年老いて走れなくなっただけでなく、「かつては走る側だったんだ!」ということが分かれば、今元気に走る若者を見る作者の気持ちが一般人より一層複雑なものであると伝わるかもしれません。

 

20・金柑の甘露煮作るレシピ見て黄の色つやつや目には美味しく(栗田)

この語順だと「金柑の甘露煮を作る」は「レシピ」にかかるので、「金柑の甘露煮を作るレシピを見て」という上の句となり、述語が不在の状態で意味がよく分かりません。

金柑の甘露煮を作るレシピに載っている完成品の写真が見ただけで美味しそうと思っているのかなぁ?とか。

実際は「レシピを見て金柑の甘露煮を作った」ということで、「レシピ見て」の位置が間違っていたわけですが、そもそも「レシピを見て」という情報は必要なのでしょうか。

話を聞くと「初挑戦なのでレシピを見ながら作った」ということなのですが、その場合優先すべきは「初挑戦・初めて作った」という方ではないでしょうか。

初めて作った金柑の甘露煮が上出来で、つやつやと見た目から既に美味しそう(やったー!)、ということが作者の言いたかったこと(核)ではないでしょうか。

金柑の甘露煮作りに挑戦す艶めく黄色がまず目に美味し

初挑戦の金柑の甘露煮が食べる前から、まず見た目から上出来だ、という喜びを伝えたいですよね。

 

21・廃線に錆びゆく鉄路は待てど来ぬ車輛を恃(たの)み風になぶらる(緒方)

廃線に錆びゆく鉄路」という光景が良いですね。廃線なのでもう車輛がその線路の上を走ることはないわけですが、線路は自分の役目(存在価値)を守るかのように来ない車輛を待っている。

もう必要とされていないものが「わしゃあまだまだやれるわい!」と無理をしているような滑稽さ、寂しさ、切なさ。そして「無理するな、もう休め。長いことありがとな」というような優しさなども考えてしまいますね。

作者は自分と錆びた鉄路とを重ねて見ているのかもしれません。

そこに「なぶらる(なぶられる)」という言葉を持ってきてしまうと、「いじめる、ひやかす、もてあそぶ」というようなかなり強いマイナスイメージをもって見ていることとなり、読者に「こう見て!」と答えを提示してしまいます。

この風景からは滑稽さ、寂しさというマイナスイメージの他に、お疲れ様、ありがとうというような優しいプラスのイメージも湧くのに、「なぶらる」と言ってしまうとマイナスイメージに絞られてしまう感じがします。

「風に吹かれている」くらいの描写でいいのではないでしょうか。

 

22・雨上がりの小春日和を人人は薄き上着に師走へ繰り出す(川井)

最近(一月下旬)ようやく冬らしい寒さになってきましたが、この冬は暖かいなと思う日が多く、十二月中はかなり暖かい日がありましたね。

そんな雨上がりの暖かい日に冬とは思えないような薄い上着で師走の街へ年末の買い物などに繰り出す人々。

結句「師走へ繰り出す」。これは「師走の街へ」など七音に整えられるのではないでしょうか。

結句だけにしっかり七音になるよう工夫してほしいところです。

 

23・大掃除おせち料理の段取りと脳内会議は混乱つづく(金澤)

「脳内会議は混乱」がとても金澤さんらしい表現だと思います。

読者自身が脳内会議を始めるという場面までは至れない(詩的情緒はやや薄い)のですが、作者らしいユーモアがあり、これはこれでいいのかなと。

それにしてもお正月、迎える側になると大変ですね。幸い私は迎える側になったことがないので、掃除も適当だし、おせちも作ったことがなく、スーパーが平常運転するまでの数日もてばいいや、くらいにしか考えたことがありません。

金澤さんや飯島さんの娘さんの歌を読んで、皆さんすごいなぁと感心しています。

 

24・晦日水仙一本花咲きて南天に添え正月花に(飯島)

水仙が咲いた」と言えば「花」であることは言わずとも分かるので、大晦日に(通常よりずっと早く)水仙が咲いた!ということで「晦日水仙一本咲きにけり」と切ってしまってはどうでしょうか。

また結句で「正月花(した)」としているので「南天添え」とした方がいいかと思います。

しかし暖冬とはいえ、大晦日とはかなり早いですよね。「あら、もう?」と驚き、何か縁起がいいような気がして嬉しくなりますね。

 

25・大公孫樹黄金の時は去りゆきて散りちり積り枝淡淡し(名田部)

今月多かった歌の問題「動詞が多い」をやってしまっていますね。

先月は過去を表す助動詞「し」の使い方に問題がある作品が多かったのですが、今月は「動詞が多い」問題がある作品が並び、面白いなと思っています。

さてこの歌ですと「去り」「行く」「散る」「散り積もる」「淡々し(く在る・見える)」という動詞があることになります。

特に問題なのは「散り、ちり積り」ですね。散った上で更に散り積もるとなるとここだけでかなりの時間が経過してしまっています。

一番画像として見せたい部分はおそらく「枝淡淡し」ではないかと思います。黄金色だった葉はすっかり散って、今や淡々しく冬の日を透かしている、そんな場面ではないでしょうか。だったらその「淡淡とした枝」をもっとよく見ましょう。散ってしまった葉っぱの方に目を動かす余裕は三十一音にはありません。

大公孫樹黄金の時は去りゆきて枝は淡々午後の日透かす

大公孫樹黄金の時は去りゆきて枝間へと差す日の色淡し

 

26・はっとした歌を集めたこのノート書き留める時ページをたぐる(鳥澤)

はっとした歌を見つけた時、ノートに書き留めておくという作者。そしてまた新たに書き込もうとする度に以前書いたものを見返そうとページをたぐる。偉いですね。確実に力が付くと思います。

ただ「この」という代名詞を使う意味がよくわかりません。読者はそのノートを目の前にしているわけではないので、「はっとした歌を集めたノートあり」でいいのではないでしょうか。

また「書き留める時」というのも意味は分かるのですが「新たに書くとき」などの方が分かりやすいかも、と思います。

またちょっと字数が多めなので「ページ」は「頁」と漢字にしてしまってはどうでしょうか。

 

27・紐掛けの手つき鮮やか歳晩の店に今年も豆屋のあるじ(小幡)

「紐掛けの手つき鮮やか」「豆屋」がいいですよね。

何でも大手チェーン店のスーパーやデパートで揃ってしまい、昔ながらの商店街などが潰れてゆく時代に“豆専門店”というだけでもう情緒がありますよね。専門店だから量り売りとかしてそうな感じ。そして量った豆をちゃちゃっと慣れた手つきで包んで、紐をかけてゆく店主の様子が浮かんできます。

場面の選び方が上手いなぁと思います。

 

28・正月の空を包みて逆光の桜の古木は千手観音(畠山)

葉が落ちて枝だけになった桜の古木の向こう側に日があって、お日様ごと空を包み込んで掲げている千手観音のように見えました。

また「空を掲げ持つ」場面こそが核なのでは、ということで、核たる部分は下の句に持ってきた方が活きるということで語順などを再考しています。

逆光の桜は千手観音よ正月の空を日ごと包めり

 

☆今月の好評歌は7番、緒方さんの

最終の去りたるあとのバス停へ寒月落とす影の遊べり

となりました。

二首目の21番の錆びた鉄路の歌も好評で、どちらも何ともいえない寂れた感じが詩的でしたね。当初私はバス停の歌のうら寂しく頼りなげな感じがいいと思いこちらに票を入れたのですが、今回ブログを書いていて読み返したところ、錆びた鉄路の方が好きかも…となりました(笑)。ただ当初はやはり「なぶられる」という言葉の語感が強すぎて、そっちに印象を引っ張られていたかな、と。どちらも寂しい感じの場面の切り取り方はとても素敵だと思います。

3番渡辺さんの安達太良の歌、13番小幡さんの林檎の枝折れの歌も好評でした。

 

次回澪の会は2月20日㈮ 12:30~厚木アミュー607です。

参加される方は詠草を2月6日までにお送りください。

By PhotoAC H-works

 

 

◆歌会報 2026年1月 (その1)

◆歌会報 2026年1月 (その1)

 

第163回(2026/1/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・ろうげつに葉つきろうばい黄金色ひざしを受けてにわさきに立つ(E.S)

臘月(ろうげつ)は、旧暦十二月の異名・別称です。

まだ葉っぱの付いた蝋梅(咲き始め)が日差しを受けて冬の庭先をぱっと明るくしてくれる喜びが見えてきます。時間や視点のブレがなく、冬の明るい景色がしっかり見えてくる良い歌ですね。

「ろうばい」「ひざし」「にわさき」などひらがなでも他の言葉と混同しにくい言葉をひらがな表記にしているのも全体の雰囲気を柔らかにするために効果的だと思います。

「ろうげつ」と「ろうばい」で韻を踏んでいるのも良いですね。

ただ、「ろうげつ」は“誰もが知っている”とは言えない言葉だと思うので、こちらは「臘月」と漢字にした方がすっと読めるのではないでしょうか。漢字にすれば「臘月」の意味を知らない人でも「冬の暦のことかな」と想像がつくと思います。

またもし旧カナ使いであれば、「にわさき」は「にはさき」と表記します。

Sさんはまだ短歌を始めたばかりということで決めておられないようですが、自分が新カナ使いで行くのか、旧カナ使いで行くのかは統一しなければいけません。「今回の歌はこっち」というようにコロコロ変えることはできないので、どちらかに決めてください。個人的にはSさんの歌はしっとりとやや古風な趣があると思うので旧カナの方が合っているような気がしますが、どうでしょうか。

 

2・孫と我額を寄せて本のぞき手こずり仕上げる折り紙の犬(大久保)

お孫さんと一緒になって折り紙に挑戦する作者の姿が見えてきて、場面はとても良いと思います。

ただ「額を寄せる」「本をのぞく」「手こずる」「仕上げる」と動詞が多すぎるため場面がどんどん動いてしまい、結果的に映像がブレてしまったかな、という気がします。

短歌や俳句は短いので、如何にブレずに一瞬を切り取れるかが鍵だと思います。

また「我」という情報も、“基本的には作者”が言っていることですから要らない場合がほとんどです。敢えて客観的に自分を見たい場面など、「我」を効果的に出せる場面はかなり稀なので、「我」が出てきたら“もしかしたらこの「我」は要らないかも?”と考えてみてください。

折り紙の本を孫と覗き込み一時間かけ犬ひとつ折る

一時間は大げさかもしれませんが、「ああでもない、こうでもない、ここは山折りじゃない?んー、ここをひっくり返すのかしら」などと“孫と試行錯誤しつつ折り紙の犬を折った”という核を効果的に見せるためなら多少の脚色は十分ありだと思います。

「手こずった」と言ってしまうと「大変だった」という作者の感想が入ってしまい、読者は“「孫と折り紙折ったんだけど、これがなかなか大変だったのよ~」と作者に聞かされる位置”で止まってしまいます。

これが「一時間かけて(感想が入っていない)」だと読者は“一時間もかけて折り紙を折っている作者の中”に入り、その一時間の様子(「ああでもない、こうでもない…」)を想像するんですね。“作者から大変だったと聞かされる”のではなく、「一時間もかけて犬一つとは、さてはさぞかし…」と”大変だった場面を自分のものとして想像する“ことになるわけです。

一番言いたいことなのに、敢えて感想となる言葉で言ってしまってはいけないという。とても難しいところだと思います。

 

3・山好きな弟逝きてふる里の安達太良の峰夕日に染まる(渡辺)

「安達太良」という地名一つで場面がぐっと鮮やかになり、そして簡単な言葉ではまとめてしまえない弟さんへの想いがじんと胸に込み上げてくる、とても寂しく、とても素敵な歌だと思います。

「ふる里」は「ふるさと」「古里」「故郷」など表記を整えた方が良いと思います。今回は「故郷」より、「古里」か「ふるさと」の方がしみじみと懐かしい古き思い出を呼び起こす気がするのですがどうでしょうか。

言いすぎず、抑えて抑えての描写により、逆に寂しさ、切なさが際立ってくる、とても良い例だと思います。

 

4・いけ花に秋の七草ススキの穂波の如くにほのかにゆれる(小夜)

「いけ花」は「生け花・活け花・活花」など表記を整えましょう。また「生け花」ではないでしょうか。

また「穂波」という言葉があるため「ススキの穂波の」と続くと読みづらいので「ススキ穂の」とするか、四句と結句の位置を入れ替えて「ほのかに揺れる波のごとくに」とするなど「穂と波」がくっつかない工夫をしてみてください。

生け花の秋の七草ススキ穂の波のごとくにほのかにゆれて(「おり」を省略)

生け花の秋の七草のススキ穂のほのかに揺るる波のごとくに

など「揺れる」という動詞を敢えて終止形にせず流してもいい歌かもしれません。

 

5・枯れ葉集め焚き火をしてイモくべる楽しみ消えて今日も集める(山口)

昨今は飛び火や山火事の問題で基本的に焚火や野焼きは禁止されていると思います。

昔は掃き集めた落ち葉で焼き芋をするのが楽しみだったのに、今はそれが出来なくなってしまったという時代と文化の移り変わりを捉えた歌の場面はとても良いと思います。

ただ内容(場面の捉え方)はとても良いのに文章(技術)が今一つのため折角の場面を歌として捉え切れていません。

まず2番の歌と同じで動詞が多すぎると思います。「集める」「焚き火をする」「イモをくべる」「消える」そしてまた「集める」。五個もあります。一首に五個はさすがに多すぎですね。動詞は”動きを表す言葉“ですから、それだけ歌自体が動いてブレやすくなってしまいます。

ご褒美の焚火の中の焼き芋を懐かしみつつ落ち葉掃く朝

 

6・ミステリーに時を忘れて填まり込むバイクの音に気が付いて朝(栗田)

「ミステリ」の「―」は要りません。国内愛好家の間では「ミステリ」は推理・探偵もの、「ミステリー」はホラーやSFなども含むいわゆる“不思議・謎”という感じで使われているようですが、そもそもの英語にしたらどちらも「Mystery」ですからね。「ミステリとミステリー」どちらが間違いということはないので今回は音数優先で取ってしまった方がよいと思います。

何かにのめりこんだり没頭することを「ハマる」と言いますが、この使い方はいわゆる俗語です。「はまる」は本来、「罠に嵌る」「型に嵌る」「穴に填る」など「ぴたっと・かちっと・ずぼっと」など物理的にジャストフィットしすぎて余裕がないような状態を表す言葉だと思います。

なので今回歌の意味からすると「のめり込む」「没頭する」「読みふける」などの方が適切ではないでしょうか。

またそもそも「時を忘れる」とそれらは意味的には同じなので、どちらかを切ってしまってもいいかと思います。

また「気が付いて朝」ではなく「気が付けば朝」ではないかと思います。

ミステリに時を忘れてしまいけりバイクの音に気が付けば朝

新刊のミステリ小説読みふけてバイクの音に気付けば朝よ

「バイクの音で朝に気付いた」という場面はとても良いと思います。

 

7・最終の去りたるあとのバス停は寒月落とす影遊ぶだけ(緒方)

良いですね。最終バスが行ってしまったあとの何とも言えない寂しさ、頼りなさ、もの悲しさが見えてきます。

都会と違って、最終のバスと言っても意外と早く、しかもそのバスが行ってしまうともう人影もほとんど見当たらないような田舎の風景なのではないでしょうか。

バス停付近に街路樹があって、冬枯れで葉っぱもすっかり落ちて隙間から冴え冴えとした月が見える、そんな光景を思い描きました。

ただ「バス停は」とバス停を主役にしていますが、「バス停へ」として「寒月の落とす影」を主役にした方がいいのではないでしょうか。

また結句の「遊ぶだけ」の「だけ」ですが、「遊ぶ」で既に「影」という本来的には“遊ばないもの”に人格(意思=作者の意思)を与えて、そこに更に「だけ」とすると「これはもの悲しい風景だよ」と読者に意図を押し付けてくるような感覚が見えてしまうので、そこは敢えて「影の遊べり」「影遊びおり」と抑えた方が読者の内側から「もの悲しさ」が自然と湧くのではないでしょうか。

 

8・友よりのカードは今や動画となり音楽と共にほんわかなイブ(川井)

文化の移り変わりを具体的に感じている内容はとても良いと思います。

ただ三句の「動画となり(六音)」四句の「音楽と共に(八音)」など、工夫すれば何とかなりそうな所で音数を合わせきれていないのが惜しいかなと思います。

動画にて」「音楽流れ」など音の数を合わせればぐっと歌らしくなると思います。

 

9・小春日の三回忌終え喪服脱ぎ孫はカメラにVサインする(金澤)

三回忌を終え、小春日だったこともあり喪服を脱いでカメラにVサインする孫に対し、“三年ですっかり過去のことにしている孫”と、まだまだそんな過去のこととは思えず、悲しさ・寂しさの中にいて割り切れていない作者の孫に対する微妙な温度差と寂しさのようなものを感じますね。

ただこれも歌の場面は良いのに動詞が多すぎる(そのせいでブレてしまう)気がします。

「終える」「脱ぐ」「Vサインする」。

「小春日の三回忌の午後」とか、「喪服脱ぐ孫」と孫にかけて名詞化してしまうとか。

三回忌が終わってすぐに「Vサイン」する孫という部分に思うところがあるわけで、その場面に重心を置きたいですね。

 

10・二年目の娘の元旦接待は気配りありて我を越えたり(飯島)

「二年目」というのが作者には分かっているけれど読者にはよく分からない部分です。娘さんが結婚して作者がそちらの家にお呼ばれする形になって二年目なのかな、とか。どこか別の場所で暮らしていた娘さんが実家に戻ってきて二年目なのかな、とか。色んなパターンの何か意味がありそうな「二年目」を想像してしまうんですね。

実際はお正月に実家である作者の家に娘さんが来て、お正月のあれこれを作者に代わって取り仕切ってやってくれるようになって二年目ということだそうです。

(こ)の仕切る元旦接待二年目に驚くばかりの気配りのあり

「我を超えた」と言ってしまうと「我もそこそこできたのに」という意味が乗ってしまいちょっと嫌味な感じになってしまうので(笑)、娘さんの気配りの数々に驚いた、という形にした方が良いのではないかと思いました。

 

11・宮が瀬湖の公園の芝青青と三人の男刈込みに励む(名田部)

今回、場面が「湖」の公園であるかどうかは内容的に重要ではないと思うので、音の数を優先して「宮ケ瀬の公園」でいいのではないでしょうか。

また一つの場面(公園の風景)を歌っているように見えて、実は作者の注目は「宮ケ瀬の公園の芝が青青としている」という場面と「三人の男が刈込に励む」という二つに分かれてしまっています。

そのせいで作者が芝の青さの方に感動しているのか、男が何人もかけて手入れしていることに感動しているのかがよく分かりません。

どちらかというと(男が何人もかけて手入れしているからこその)芝の青さに感動しているのではないかと思います。

三人の男が朝から刈り込みに励む公園の芝の青さよ

“三人の男が朝から刈り込みに励む”までの文章は全て「公園の芝」にかかるため、「公園の芝」を修飾する“知識”となり、映像として思うのは「芝の青さ」になると思います。

宮ケ瀬の芝青青と広がりぬ手入れに励む男ら乗せて

「芝が青青と広がる」という映像を先に提示してしまい、その「青青とした芝が」手入れに励む男らを乗せているというかたちで、芝が主役のままとなります。

 

12・今日だけの為に空いてる九段め十年日記のひと枠うめる(鳥澤)

十年日記とは、一冊のノート(またはアプリ)で同じ日付の記録を十年間続けられるように設計された日記で、一ページに十年分の同じ日付が縦に並んでいるのが特徴です。一日あたりの記入スペースが限られているため(一日数行程度など)、手軽に続けやすく、年を重ねるごとに過去の自分と今の自分を比較して振り返る楽しみがあり、人生の節目や自己成長の記録として人気があります。

去年の同じ日にはこんなことがあったなぁ、三年前はそうそう…、と書きながら見返せるのも楽しみですね。

それがもう九段目という作者。かなり思い出の詰まった一冊に仕上がりつつあるようです。その一枠に今日の分を書き込む。何気ない日常の積み重ねを描いた一首ですね。

結句の「埋める」を「埋めぬ」「埋めり」など文語調にするだけで散文ぽさが抜け、短歌らしくなるのではという指摘もありました。

 

13・雪おもく林檎の枝折れ危ぶみてこの正月も息子は帰らず(小幡)

息子さんは林檎農家なのでしょう。自然界は正月だからといって「正月三箇日は降らないでおいてあげるよ」などということはなく、人間の方が自然に合わせるしかありません。

更に近年は温暖化で暖冬傾向なので、おそらく雪の水分が増して重くなっているのでしょう。都度枝の雪降ろしをしないと枝が折れてしまうんですね。

地方に住む息子さんがお正月に帰って来られない理由が林檎の雪降ろし。寂しいながらも納得せざるをえない作者の気持ち。

雪が降る中、林檎(=生活)を守るために枝の雪を降ろすという、具体的な農家の仕事が見えてきて、とても良い歌ですね。

 

14・恒例の夫の作る賀状には今年逝きたる猫のまだをり(畠山)

昨年十月に愛猫がお空へ旅立ってしまいました。我が家では毎年夫が我が家の猫たちをモチーフに年賀状用イラストを描いて、私がそれに背景や文字を入れて完成させるというスタイルをとっています。

今年は干支である馬に乗った猫たちを描いてくれたのですが、その中に旅立ってしまったばかりの二代目の姿があって、現実にはもういないのだけど、「あ、まだ家族の一員として(生きているコたちと並んで)ここに居る」と、嬉しいと切ないが混ざってちょっと泣きたくなるような気持ちで仕上げました。

「今年逝きたる猫」と「まだをり」がちょっと雑では、と言われました。私の中では「あ、ここ(絵の中)にはまだ居る!」という気持ちが強かったので「まだをり」としたのですが、実際にその絵を見ていない人には映像として浮かび上がって来ないのでしょう。

恒例の夫の描く賀状にはこの秋逝ける猫の寝姿

自分(作者)は見ているから当たり前として分かっている光景も読者は見えていないので、作者が(当たり前と)思っていることを思い描けなかったりするのですが、“既に分かっている状態でそれ(分からないこと)に気付くのはとても難しい”ことです。

そして作者としては“当たり前”と思っていることを具体的に描写することの難しさと大切さ。時系列(場面に至るまで)の“説明”ではなく、切り取った場面そのものの“具体的な詳細”を描写することが大事なんですが、これが難しいんですよねぇ。

By Hiroki

◆歌会報 2025年12月 (その2)

◆歌会報 2025年12月 (その2)

 

第162回(2025/12/19) 澪の会詠草(その2)

 

13・師走月母に娘に逢わざれど見上げて彼方かまた除夜の鐘(E.S)

まず「母に娘に」ですが「母も娘も」か「母にも娘(こ)にも」だと思います。

また「逢わざれど」ですが、「ざれど」は否定の助動詞「ず」の已然形「ざれ」に、接続助詞「ど」が付いた形で、現代語訳すると「ないけれど」となります。つまり「逢ないけれど」となりますが、ここは「逢ないけれど」という意味ではないでしょうか。だったら「逢えざるも」ですね。

また「見上げ彼方」は「見上げ彼方」ではないでしょうか。

またここが一番の問題だったのですが、「母と娘」は単に遠くに住んでいるなどで逢えないのか、もう二度と逢えない(亡くなっている)存在なのかで歌の意味が全く変わってしまうと思います。

私は「母・娘・彼方」という言葉から“存命で遠く離れた土地に住んでいる”のかなと取りましたが、実はどちらも亡くなっていて“二度と逢えない”ということでした。だとしたら切なさが全く違いますよね。

それにはやはりもう亡くなっている(二度と逢えない存在)なのだということが伝わらないといけません。

「母」を「亡母・妣」と書いて「はは」と読ませ、亡くなっていることをはっきりさせれば併記してある娘さんもそうなのかな、と読み取れるかと思います。

また「彼方」というと単純に“遥か遠くの方”を指すので地方とか外国とかを思い描いてしまう可能性があります。「見上げる」とあるので気付く人は気付くかもしれませんが、地方や外国などのことを考える時も「見上げる」人が多いと思うので決定打にはならないと思います。

そこで「彼方」ではなく、亡くなった方が行く先を思わせる「夜空」や「宙(そら)」「天」としてはどうでしょうか。

実際には昼の空(元旦?)だったとのことですが、「師走月」「除夜の鐘」とくれば元旦(睦月)の昼ではなく大みそかの夜を想像する人が多いのではないでしょうか。

師走月亡母にも娘にも逢えざれど見上げる宙へまた除夜の鐘

師走月亡母にも娘にももう逢えぬ除夜の鐘ひとつごぉんと空へ

母も娘も師走に逝きて今年また長き余韻の除夜の鐘聴く

 

14・落語会のプロの話芸にほだされり人情噺の「子は鎹(かすがい)」よ(大久保)

まず「ほだされる」というと“情にほだされて許してしまう”などのように本来の意思とは違う行動をとることを指し、ややマイナスイメージの言葉だと思います。けれど実際はプロの噺家の話芸が素晴らしくすっかり話の中に引き込まれて感情移入してしまったということですよね。

だったら「ほろりとす」「しんみりす」「感涙す」などなのかなぁと思いますがどうでしょうか。

またこれも“プロの話芸はさすがで素晴らしかった”という報告になってしまっているのですが、“どんなところがさすがプロと感じさせた”のか、そこを描けるようになるとワンランク上の歌になると思います。

これは多分まだ“感動した”“臨場感があった”“引き込まれた”という感動の方が表に見えていて、その裏にある何故そんなに引き込まれたかというところまでは分析できていないからだと思います。

この「あぁ面白かった~」という感動から一歩引いて、どうしてそんなに面白く感じたのだろうと自分自身で掘り返してみる作業がとても大事で、作歌の腕が上がるのはもちろん、ある種の瞑想のような効果があると思います。

例えば今回の落語でいけば、「演じ分けがすごかった。本当に夫婦と子供の三人が目の前で喋っているようだった」と少し絞り、今度はより細かく「妻の部分は女性の声みたいに高かった。高いと言っても子供の声の高さとはまた違って柔らかさがあった。子供は元気さ、まっすぐさがあった。泣きまねも上手かったなぁ」などと仕草や声、テンポなど“何をもってプロっぽいと感じたのかな”と分析してみてください。そして“さすがプロ”と思った一場面を詳しく描写すれば、「ほだされちゃった・ほろりとしちゃった」という感想の部分は言わなくても「プロの「子は鎹」はさすがね」という本来の作者の感動は伝わると思います。「子は鎹」は有名な噺ですから、”さすがね”と思えれば湧く感情は同じ「ほろり」となるでしょう。

 

15・崖ぶちにピラカンサスの強き赤心添わせし一枝折りぬ(小夜)

ピラカンサは別名トキワサンザシとも呼ばれる、真っ赤な実を鈴なりに付ける植物です。千両や万両に似ていて更に実がぎっしり付いているような木です。正式名はピラカンサで、複数形が品名と間違われて定着した名がピラカンサスだそうですが、今回は音数的にも「ピラカンサス」の方がしっくりきますね。

ただ「心添わせし」が良くわかりませんでした。特に心惹かれた(ハッと目に留まった)枝ぶりのことを言いたかったのかな?とは思いますが、「心添わせし一枝」では“ずっと昔に心を添わせた一枝”という意味になってしまい、通じないと思います。「~~した」という意味で安易に「~~し」を使うのは止めましょう。カッコ良くしようとして間違って「~~し」を使うより「~~た」と普通に言った方が遥かに良いです。

また今回はそもそも「心惹かれた一枝」などと言ってしまうより、“なぜその一枝に心惹かれたのか”をもっと考えてみて、そこを言葉にしてみてください。「一際(ひときわ)艶めく一枝」とか「ピラカンサスの赤き実のぎっしり詰まる一枝」とか「崖ぶちのピラカンサスの赤き実の情熱詰まる一枝」とか、色、艶、量など“なぜその枝が良いと思ったのか”を自分自身に問いかけて探してみてください。

 

16・この1年変化薄きの年となり残り一枚暦光りし(山口)

まず「1年」は「一年」と漢数字に。また「変化薄き年」は「変化薄き年」の方が自然です。

また「光り」は誤用です。この形で文を終えることはできません。意味的にも「ずっと以前に光った何か(名詞)」という意味になってしまい文章として成り立ちません。

「残り一枚暦」も助詞がないので連想ゲームのようになってしまっています。

この一年変化の薄き年にあり残り一枚の暦が光る

この一年変化の薄き年となる残り一枚の暦光りて

 

17・香りたつ葉付きの柚子を頂きしハート形の葉をおまけに付けて(栗田)

ハート形の葉っぱがおまけのように付いた柚子を貰ったというささやかな喜びという場面はとても良いですね。

葉っぱが一枚付いているだけで何だかちょっと特別な気がして嬉しくなってしまう気持ち、よく分かります。その“ちょっと嬉しい感じ”が「おまけ」という表現に合ってますよね。

「ハート形の葉をおまけに付けて」という下の句が具体的でとても良いので、上の句で同じ意味の「葉付きの」という言葉、こちらは要らないと思います。

その分「もぎたての」「採れたての」など被らない情報を入れてはどうでしょうか。

また「頂きしハート形の葉」の「頂きし」が問題です。今回はこの「~~(動詞)し」の誤用をしている人が結構いましたね。「~~(動詞)し」は必ず「~~(動詞)し〇〇(名詞)」と次に来る名詞にかかる使い方となり、「ずっと昔に~~した〇〇」という意味になります。今回で言うと「ずっと昔に頂いたハート形の葉」という意味になってしまい、文章がおかしくなってしまいます。

今回は「頂いた」を文語にして「頂きぬ」とするのがベストかと思いますが、「~~し」の誤用をするくらいなら素直に「頂いた」と言ってしまった方が恥ずかしくないです。

香り立つもぎたての柚子を頂きぬハート形の葉をおまけに付けて

 

18・電車より眺める水路は神田川初めて知りし令和七年(川井)

こちらも「~~(動詞)し」の誤用ですね。こちらは一応後ろの名詞「令和七年」に係っていますが、意味として「ずっと昔に」なのに「初めて・令和七年」という部分で矛盾してしまいます。

この語順なら「初めて知った・初めて知りたる」かなと思いますが、語順を変えて「令和七年初めて知りぬ」とした方がしっくり来る気がします。

また神田川は“これがあの(名前は知っていた)神田川か”という“名称の特別感”を込めて〈神田川〉と括弧で括った方がいいかもしれません。

同じ意味(これがあの!)で

電車より見ゆる水路が〈神田川〉令和七年初めて知りぬ

と主格を「が」にした方が、作者の驚きが見えて来るかもしれません。

また「令和七年」という年度に特別の意味が無いのなら「六十歳(ろくじゅう)過ぎて」「七十二歳に」など年齢にして、“この歳まで知らなかった”という表現にしてもいいかもしれません。

 

19・吾老いて海原に浮くマンボウか妻はラインの沼にはまりぬ(緒方)

自分をぽけらーっと何も考えていなさそうな顔でのんびりと泳ぐマンボウに喩えたことは面白いと思うのですが、その喩えと下の句に持ってきた“妻”の情報の対比があまりピンときませんでした。

「夫と妻」「海の魚と沼」「比喩と現実」「“のんびり”と“はまっている”」と上の句と下の句を対比させたいのか、違う場面に切り替えようとしているのかあやふやな感じが迷ってしまう原因かと思います。

上の句で比喩を持ってきて、下の句で全く違う現実の場面を持ってくるならその転換が生きることもあるのですが、対比として持ってくるなら妻も何かの魚に喩えるとか、転換なのか対比なのかをはっきりさせた方がいいと思います。また転換も対比もせず「マンボウ」を思わせる自身の行動などを持ってきて“マンボウ”の比喩を生かすのもいいかもしれません。

吾老いて海原に浮くマンボウよ縁台にひとり(ぷかりぷかりと)煙草燻らす

 

20・読み聞かせ会員はみな若いママ老い人我は拍手だけする(金澤)

「読み聞かせる」という動詞があるため、読み聞かせは〈読み聞かせ〉と括弧で括った方が迷わないと思います。

また「若ママ」など形容詞は「若ママ」とした方が短歌としては落ち着きます。

「老い人」とやや自虐を込めて言っていて、実際内容的に自虐を込めているのだと思いますが、それが見えすぎると自虐感が悪目立ちして、その分川柳寄りになり詩情からは遠のいてしまうかもしれません。

七十歳(しちじゅう)の我は拍手だけする」など「はいはい、年寄は出しゃばらず応援だけしておきますよ」と言った自虐は少し控えめにした方がいいかもしれません。

 

21・傘寿おば祝し畳の表替え藺草の香りに包まれ眠る(名田部)

「おば」。最初「叔母」のことかと思いましたが、最後で「え、じゃあ藺草(いぐさ)の香りに包まれて眠るのは誰?作者っぽい言い方だよね、叔母さんじゃないよね?」と読み返し、「傘寿祝し」と言いたかったのかな?と思いました。

この場合「傘寿ば」だと思いますが、そもそも「をば」って「これにて失礼をば(これにて失礼をいたします)」くらいしか聞いたことないですよね。それも何か古いドラマとかで役者が言うセリフのような。あまり自然に読める形ではないような気がします。

傘寿祝い畳の表を張り替えて藺草の香りに包まれ眠る

傘寿祝し表替えした畳から良き夢見れそな藺草の香り

傘寿祝し畳の表を張り替えぬ肺に満ちゆく藺草の香り

 

22・山あいに乗り継ぎバスを待つ間ぶらり歩けばコロッケ屋あり(鳥澤)

バスを待つ間にぶらりと一歩きできてしまうほどの田舎。一~二時間に一本とかなんでしょうね。そんな田舎にコロッケ屋があり、「こんな所で成り立つの?」という驚きや、「こんな辺鄙な場所で成り立ってるんだから特別美味しいのかもしれない」という期待のようなものも感じます。

まぁ旅先の田舎で食べる軽食って実際はごく普通の味だったりしてもシチュエーションだけで特別美味しく感じる部分がありますよね。

のんびりとした田舎の風景が見えてくる良い歌だと思います。

 

23・聴きかへし増ゆるこの頃鳳仙花のはじける音も聴きし秋あり(小幡)

「鳳仙花のはじける音」という具体が素晴らしいですよね。

「歳とってすっかり耳が悪くなってきて、聞き返すことが増えてきてイヤになっちゃうわ、もう。昔はもっと色々聴こえたのに」というところまでしか歌えない人が多いのではないでしょうか。

それをずっと昔は鳳仙花がはじける音さえも聴こえたのに、と。「昔はもっと色々聴こえたのに」という「色々」の部分を「鳳仙花のはじける音」に絞った、その絞り込みと気付きが絶妙です。「老化」をこんなふうに詩的に歌えるものなんだなぁと。

「鳳仙花のはじける音」に「聴く」の字を使いたいので、初句は「聞き返し」にした方がいいかもという意見がありました。確かに。

「~~し」の使い方もバッチリです。「聴き(動詞)し秋(名詞)」と正しく係り、「ずっと昔に聴いた秋もあったなぁ」と時系列もバッチリ。

正しく使うとやっぱり「~~し」はカッコいいですよね。

 

24・母と行く〈母の葬儀〉の打ち合はせ 椎の実ころころ転がる道を(畠山)

母は存命です。咳は酷いのですが、今月もちゃんと澪の会の講師をしてくれました。でもいつかは“その日”がやってくるでしょう。

今年九月に母の兄が亡くなり、それを機に「もうそういう年齢なんだから、いざという時のために気持ちの準備はしておこう」という話になり、本人が「以前関係者と話す機会があって好感を持った」という葬儀会社に事前登録をすることになりました。と言っても会費をちょこっと払って「いざという時はこちらでお願いします」という登録だけで、細かい相談(祭壇はこんな感じで~こんな曲を流して~など)は無かったですけどね。

やっぱりいざそうなったらあたふたしてしまうと思うので、会場だけでも決めておいてくれるとちょっとほっとします。中々話題にしづらいですけどね。そういうことも話せる親子関係で良かったと思います。

で、その葬儀社に行く途中の道にどんぐりがころころ落ちていたのですが、それを見て子供の頃によくどんぐり拾いに連れて行って貰ったなぁと。当然当時は「死」なんて想像もしない遠い遠いところにある概念で、“いかに形がいいどんぐりを探すか”とかしか考えてなかったなぁとか。そんな昔を思い出しつつ、昔と同じように“どんぐりの転がる道を母と行く”のに感情は全然違うなぁ、などと思いました。

 

☆今月の好評歌は10番、鳥澤さんの

達者かと褪せた祖父母の写真指し問う母に言う「みんな元気」と

となりました。切ないですよね。その“切ない”という感情を感想として言ってしまわず淡々と事実を描いているので、読者自身がその“切なさ”を感じる場面の中に入って“切なさ”を実感できるんですよね。

8番金澤さんの「青森のりんご」の歌、23番小幡さんの「鳳仙花のはじける音」の歌も好評でした。

 

次回澪の会は1月17日㈮ 12:30~厚木アミュー609です。

詠草は1月3日までにお送りください。

 

今年も一年、拙い歌評ブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。来年も皆様の歌をより良いかたちにしてゆけるようお互いに頑張りましょう。それでは良いお年を~!

By PhotoAC Green Planet