◆歌会報 2026年7月
澪の会を立ち上げ、長年講師として短歌普及に尽力してきました母砂田曉子が五月に永眠いたしました。
葬儀には澪の会の皆様からお花をいただきまして、まことにありがとうございました。
故人の短歌の指導はさすがで、一言の指摘でがらりと歌が詩的になるなど、代えがたい才能を持つ人であったと思います。
その様な指導者を失い、会の継続を迷いましたが、教室ではなく同好会というかたちでも短歌を続けたいという皆様のお気持ちに助けられ、会を継続することとなりました。
皆様に短歌を続けたいと言っていただけたこと、何よりも故人が喜んでいると思います。
私では故人の指導レベルには到底及びませんが、今後もこのブログなど出来る限りは頑張っていこうと思っていますので、皆様どうぞよろしくお願いいたします。
第165回(2026/7/24) 澪の会詠草
1・学童の子等に届ける昔がたりその準備をせむ三度目の夏(大久保)
作者は学童保育の子供たちに地域に伝わる昔語りを読み聞かせたりする行事に携わっているようで、それももう三年目だなぁ、という内容かと思います。
「夏」ということは「(学校は)夏休み」で、子供たちが学童保育にいる時間も長いので、預かる方(学童保育)がやる事も色々と増えるのでしょうね。
さて内容は分かるのですが、歌としては「届ける」「その」「せむ」あたりで少し引っかかってしまうかな、という気がします。
まず「届ける」だと絵本や冊子などを作って物理的に「お届け」するという意味にもとれます。特に「その準備をしよう(せむ)」と言っているので、より“冊子をホチキスなどで止めている作業”などが浮かんできます。が、作者の言いたいことは「準備を頑張ろう」という気持ちよりも、地域に伝わる昔語りを子供たちに「伝えていく」という意味の方が強いのではないでしょうか。
そうなると具体的な作業風景が浮かぶことで逆に作者の「次の世代に昔語りを伝えていきたい」という意味が薄れてしまう気がします。
夏休み昔語りを学童へ伝える準備も慣れつつ三年(はや三年目)
などとしてはどうでしょうか。
子供たちへ昔語りを伝えていく活動に携わってもう三年目かぁ、という思いが歌の核なのかなぁと思います。
また「せむ」ですが、現代仮名遣いの場合は「せん」です。「せむ」と旧仮名遣いにする場合は「伝える」も「伝へる」になりますし、他の歌も旧仮名で作るなど、どちらかに統一しましょう。
2・故里に安否の電話掛けみれば会話通して蛙鳴く声(渡辺)
場面はよく分かりますし、季節感もあり、ちょっと懐かしいような、離れていることを実感して寂しいような、良い場面を捉えていますよね。
ただ「掛けみれば」というと説明っぽさが目立って損をしてしまうと思います。また蛙の声というのは多数が賑やかに鳴いているのか、一匹が涼やかに鳴いているのか、などでもイメージはかなり変わってくるのでは、と思います。
実際私は電話越しにも聞こえるほどの沢山の蛙がうるさいくらいにジャンジャカ鳴いていて会話の声が聞きづらいという田舎あるあるな場面を想像しましたが、実は一匹の蛙で「あらもうそんな季節か」という気付きの歌だったようで、ここはきちんと描写しないと齟齬が生じてしまうなと思いました。
「掛けみれば」は「掛けるとき」「掛ける夜(夕)」などでいいのではないでしょうか。また「会話通して」と言わずとも電話中なのだから場面は分かると思います。その分蛙の声を具体的にしてみましょう。
故里に安否の電話掛ける夜蛙の声の細く紛れて
故里の母の安否を聞く向こう蛙鳴き初むころころ高く(四句と結句は入れ替えても)
「古里の~聞く向こう」とあれば電話なのかなと想像してもらえると思いますがどうでしょうか。
3・歌の道まっすぐ生きた先生に紆余曲折の吾は悲しむ(山口)
講師の砂田への挽歌ですね。ありがとうございます。
歌の道をまっすぐ生きた先生に対して、紆余曲折している私は悲しむという意味ですが、このままだと文法的に「先生に悲しむ」と繋がってしまい、「先生に対し/比べ」などの言葉が入らないとちょっと不自然かなという気がします。
「悲しい」という感情をまとめてしまう言葉を捨てて
歌の道まっすぐ生きた先生に対して吾は紆余曲折よ
まっすぐ生きた先生に対して、自分は紆余曲折だなぁ。
歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の吾は悲しむ
先生はまっすぐ生きましたね。紆余曲折の私は悲しんでいます。
歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の私は悲し
結句を「私は悲し」とすると“私は悲しいです”という意味になります。「悲しむ」という動詞にするか、「悲しい」という形容詞にするかで少しニュアンスが変わりますね。
4・紫陽花の白い花毬雨に濡れ仄かに赤みさして揺れ居り(栗田)
白い紫陽花の花毬に赤みがさしたことで作者にどんな感情が湧いたのでしょうか。そこが少し見えて来ないなと思います。
「仄かに赤みがさす」という表現が迷う元なのかと思います。「仄かに赤みがさす」と言うと大抵の人は「ほんのりと赤く色付く」という感じで、赤い状態がベストなもの(花や果実、紅葉など)が成長の証としてようやく色付いてきたとか、照れてほっぺたがぽっと赤く染まったり、柔らかだったり暖かだったりとプラスなイメージが湧くのではないでしょうか。
私は白で咲き始め、徐々にピンクになっていく紫陽花の品種でもあるのかと思い、徐々に花盛りの色へと変わっていく様子を喜んで見ているのかと思ったのですが、実は白い紫陽花が盛りを終えて赤茶に変色(枯れて)いく様子とのことで、“色付くワクワク”ではなく“色褪せる寂しさ”という全く逆の印象だったことが分かりました。
送り梅雨に揺るる白き紫陽花はかすか赤茶に色の褪せおり
紫陽花の白き花毬少しずつ赤茶に褪せて夏はもうすぐ
「送り梅雨」とは梅雨明けの時期に降る強めの雨のことです。
下の場合、雨の中、濡れているということは分かりませんが、紫陽花の季節(梅雨)ももう終わりかぁとしみじみしている気持ちは伝わるかと思います。
5・青鷺が糞を撒きつつ飛びて行く何事もなく自然のままに(名田部)
汚がったり恥ずかしがったりすることもなく、排せつという行為を生物としてあるがままの行為と捉えている場面はとても面白いと思います。
ただし歌としてはやはり糞尿や害虫など、一般的なイメージとして嫌悪感があるものを題材にすると詩的になりにくいので、非常に難しい題材であるということは意識しておいてください。
さて、作者は青鷺が飛びながら糞をするということにまず驚き、更にその糞が真っ白できらきらと輝き美しいと感じたことで更に驚いたということで、それならその“糞がキレイだと感じた”部分は是非入れたいところですね。
下の句の「何事もなく」「自然のままに」は受ける印象は同じような言葉なので、どちらかに絞って、その分糞がキレイに見えたという描写を入れたいです。
青鷺は真白き糞をきらきらと撒きつつ飛びぬ自然のままに
青鷺がきらきら糞を撒きながら躰軽くしあるがまま飛ぶ
鳥という生物としての自然的な行為で、排せつすらも感動を覚えたということですね。
6・何気なくしたことは脳をスルー探すこと増え短い一日(飯島)
「あるある~。私もやるわ~」と共感を呼びそうな内容ですよね。
何気なく置いた道具など、いざ使おうと思ったら想定していた場所になくて、あれどこに置いたかしら~と探したり、忘れないようにとメモを取ったはいいがそのメモをどこに置いたとか、どのあたりに書いたか忘れて探すとか。
ただ上の句の音数が合っていないのと「脳をスルー」という言葉がちょっと粗いかなと思います。
何気なくしたことは脳を素通りし探すこと増え一日(ひとひ)短し
7・ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり(緒方)
久しぶりの長距離の運転を終えてホッとしたのと疲労とで作者が吐いたであろう溜息を、長距離走って熱くなった車の排気にかけて上手く融合して良い歌になったと思います。
下の句を「愛車は車庫に吐息をもらす」として「吐息」を結句に持って来ようか迷ったということですが、確かにそちらの方がより「吐息」の印象が強くなりいいかもしれませんね。
8・電線に届かぬように背を切られ街路に並ぶ「ゆりの樹通り」(鳥澤)
ユリノキはモクレン科の落葉高木で高さ40メートルを超えることもある大きな木です。
それが昨今の強剪定でバッサリ伐られてしまって、すっかり無残な状態になってしまったことへの残念な気持ちを歌いたかったのでは、と思います。
強剪定というやり方は 景観上も悪く、木としての勢いがなくなり、将来的に倒木の危険性が高まるなどの問題があるのですが、こまめな剪定はどうしても費用がかかりますし、“予算の限られた中でとりあえず今苦情が入らない”ために最近よく採用される手段です。
「電線に届かぬように背を伐られ」という具体的な描写で強剪定なのだなということが分かりますね。
ただ「街路に並ぶ」は言わずとも「ゆりの樹通り」とあるので“ユリノキの並ぶ通り”ということは分かりますよね。
その分、強剪定されて残念な状態になってしまったことが分かる情報をもう少し入れてもいいのかもしれません。
電線に届かぬように背を伐られ木陰小さき「ゆりの樹通り」
電線に届かぬように背を伐られ夏も裸の「ゆりの樹通り」
9・一日の予定は一つだけにして古希の体をいたわり使う(金澤)
「一日の予定は一つだけにする」という具体的な行動の描写はとてもいいですね。ただ「いたわり使う」と言い切ってしまうと読者が自分の思考を入れる隙がありません。
なんで予定を一日に一つだけにするのか。そうそう、古希ともなれば体も疲れやすくなってもう無理できないものね、と読者自身に答えを見つけさせる。読者が自分事として考えることで共感できるために、敢えて答えを書かずに止めておくことが大事かと思います。
古希過ぎてカレンダーには一日に予定は一つと新たなルール
古希過ぎて決めたルールは一日の予定はひとつだけとすること
10・人住まぬ家によりそひ幾年ぞ泰山木の花の静けさ(小幡)
泰山木(タイザンボク)はモクレン科モクレン属の常緑高木です。
ユリノキもそうですけど、モクレン科の木ってかなり大きくなるんですよね。
人が住まなくなって何年も経つ家で当然手入れや水やりなどもされていないのでしょうけど、花の季節になると白い花が見事に咲いて、その生命力の強さに逆に人の儚さ(空き家)を見ているのかな、という気がします。
ただ「幾年ぞ」とありますが「ぞ」を使って強調する程の思いが「幾年」にあるかな、という気もします。普通に「幾年か」くらいにしておいた方が「花の静けさ」の印象が強くなるような気もします。
11・亡母宛の手紙もすつかり減る夕べ阿夫利嶺へ日の赤々と落つ(畠山)
亡母と書いて「はは」と読みます。母が亡くなってから実家に片付けに通っているのですが、とにかく通販が好きだったようで当初は毎日ものすごい数のDMとかが届いていたんですけど、片っ端から送付中止の連絡を入れて、五十日が過ぎる頃ようやく「減ったなぁ」と実感できるまでになりました。
同時に、もう母が居ないということをより実感したというか。寂しい気持ちもしました。
実家の方では郵便は夕方頃配達されるルートのようで、配達のバイクの音がしてポストに確認に行くと丁度夕焼けの時間なんですよね。その夕焼けという時間帯がより寂しさを際立たせる気がします。
12・雨乞いのいにしえ語り健やかな子等と眺むる大山阿夫利(大久保)
「いにしえ語り」は「昔語り」と同じく「思い出話」「昔話」という意味の名詞としてあるので、このままだと「雨乞いのいにしえ語り=雨乞いの昔話」という名詞で一旦文章が切れてしまいます。
語り聞かせるという動詞の意味で使うなら「いにしえを語り」と助詞の「を」を入れるか、「聞かせ」の方を使い、語順も「いにしえの雨乞い聞かせ」の方が自然ではないでしょうか。
また「健やかな」というのは概念的で曖昧なので子供や大山を具体的に五感で想像できる情報に変えた方がいいのではと思います。
また「大山」は全国にいくつもあるので「阿夫利嶺(あふりね)」とすると限定されると思います。
雨乞いの昔話を聞かせつつ子等と眺める阿夫利嶺蒼し
また「いにしえ語り」を名詞として使い、眺めているのは山の方としてしまう手もあります。
雨乞いのいにしえ語りの時代より子等を眺むる阿夫利嶺高し
13・今ここに風の電話があるならば還らぬ君に声届けたい(渡辺)
「風の電話」というのは岩手県にある私設電話ボックスで、電話ボックス内には、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話である「風の電話」とノートが1冊置かれており、来訪者は電話で亡き人に思いを伝えたり、ノートに気持ちを記載したりできるもので、特に東日本大震災以降、震災で死別した家族への想いを風に乗せて伝えられるようにと公開されたそうです。
私はその存在を知らなかったので、風の電話とは空想上のもので、風があの世まで言葉を運んでくれるものとイメージして、心の中で亡くなった人たちへ語りかけつつ風の中(屋外)にいることなのかな、と思い、素敵な想像だなぁと思っていました。
でも実際にあるものならば「」や〈〉で括って固有名詞であることをはっきりさせた方がいいと思います。
また結句は「届けたい」だと口語、「届けたし」だと文語になります。
私は「風の電話」は作者の空想上のものだと思っていたので「あるならば」と説明的にするより
回そうか風の電話のダイヤルを還らぬ君へこの声とどけ
などとしたらどうかな、と思ったのですが、作者が実在の「風の電話」を思っていたのならちょっと違うのかなぁ、とも。
14・自分とは何かを求め先生は歌人生を強く生きぬき(山口)
自分とは何か、命とは何か、死とは何か、存在と非存在とは何か。母の歌作りはそういったテーマが根底にあったと思います。
結句は「生きぬき」では収まりが悪いので、「生きたり」などでいいのではないでしょうか。
15・読み終えたミステリの本の続きかと紙面を埋める臓器あっせん(栗田)
たまたま読み終えたばかりの本と内容が似ていたという驚きと、現実にこんなミステリ本のような事件があるんだという二つの驚きがあるようです。
読み終えたミステリ本の続きかと夕刊に臓器売買の記事
読み終えたミステリ本の続きかと夕刊報じる臓器売買
「臓器あっせん」自体は違法ではなく、国内であくまでも公平に適合する臓器を病院と患者の間で繋ぐ事業としてあるので、ニュースになるような多額の謝礼を払って海外で違法に移植を受ける違法なものは「臓器売買」としてしまってもいいのではないでしょうか。「違法臓器あっせん」だと長すぎて使いづらいですし、「臓器売買」なら「売買」の時点で違法なので。
16・久しぶり一泊の旅福島へ「三春滝桜」散りしと聞くが(名田部)
「久しぶりに一泊の旅を福島へ」と二つの助詞を省略してしまっているので、「久々に一泊の旅を福島へ」と助詞を入れて読みやすくしてはどうでしょうか。
またこちらも音数は多くなってしまいますが「「三春滝桜」は」と「は」を入れて欲しいですね。
また結句の「聞くが」は「が」のまま(聞いたが)でもいいのですが、「聞くも」(聞いたけれども)として濁音を避けてもいいのかな、と思います。
17・品種増えた紫陽花の葉にかたつむり見ることもなく何年も経つ(飯島)
確かに最近かたつむりを見かけない気がします。「紫陽花の葉っぱに乗ってるかたつむり」の図って梅雨のお決まりイラストという感じでしたけどねぇ。
ナメクジはいっぱい見かけるんですけどね…。
そして紫陽花は毎年のように新しい品種が出ますね。昔は普通の丸っこいのと、額紫陽花と八重くらいでしたよね。
初句、「品種増えた」では六音なので「品種増す」でいいのではないでしょうか。また「見ることもなく」は「見かけなくなり」の方が自然な気がします。
18・小田急に米人四人を傍耳(かたみみ)に聞いて知りたるトランプ嫌い(緒方)
「小田急」という情報がどうなのかな、と少し悩みました。米軍関係者をイメージさせたいなら「横須賀」などの方がイメージとして定着していると思いますし、「小田急」だけでは電車なのかデパートなのかでも迷ってしまいます。
「電車内」にしておけば旅行中なのかも、とか想像して、旅行で外国に来てまで話すほどに熱い話題なのかもなとか考えますし、日本で仕事をしている人かもと想像すれば、日本で暮らしている人の間でも話題になるほどなのだな、とか。「横須賀」で軍関係者を想像すれば歴代共和党政権では強固な支持基盤とされてきた軍人層の間でもそんなに嫌われてるのかとか。想像する人物像によって結構意味があると思うんですよね。それが「小田急」で正しいのかな、と。
電車内米人四人の会話からトランプ批判の単語溢れる
「トランプ嫌い」と言い切ってしまうと、作者が米国人の会話から「トランプ嫌い」と決め、読者は作者が決めたその判定を受けて、あぁアメリカ人もトランプ嫌いなんですね、とそこで終わってしまう気がします。「トランプ批判」の言葉あたりで止めておけば、どんな話題だったのだろう、あの件かしら、それともこの件かしら、と自分の中にあるトランプへの不満を思い起こして考えるのではないでしょうか。
また「聞いて」は口語なので「聞きて」と文語にした方がいいのではと言ったところ新仮名遣いなので、と言われていましたが、「口語と文語」「新仮名と旧仮名」はそれぞれ別問題です。
たとえば「彼はそう言った」という例文で見てみると、まず「彼はそう言った」という口語表現にするか「彼はそう言いぬ」「彼はそう言いき」「彼はそう言いたり」「彼はそう言えり」「彼はそう言いけり」などの文語表現にするかという選択をします。御覧の通り文語の方が細かいニュアンス違いを表現できるので、言葉を突き詰める短歌には向いていると思いますが、口語の方が自然で飾らない表現ができるので歌の内容によっては口語が生きる場合もあります。
その選択の上で、新仮名遣いとしている人なら↑に書いた通りですが、旧仮名遣いとしている人なら「彼はさう言つた(全て大文字)」「彼はさう言ひぬ」「彼はさう言ひき」「彼はさう言ひたり」「彼はさう言へり」「彼はさう言ひけり」など、口語でも文語でも旧仮名で表記します。
新仮名遣いか旧仮名遣いかは一度決めたら歌ごとに変えることはできませんが、口語か文語かはいつでも臨機応変に作品に合わせて変えることができます。何なら一首の中で使い分けることもできます。上の句でちょっとくだけて口語にしたから結句では文語にしてしっかり締めよう、とか。
「聞いて」「書いて」などの「~~いて」は口語です。「聞きて」「書きて」という文語が発音するにあたってイ音便化したものです。形容詞の「赤い」「白い」「美しい」などもそうですね。文語では「赤き」「白き」「美しき」です。
音便化した言葉というのはそもそも“発音するにあたって言いやすいように”と変化したものですから、基本的に口語です。
他に「遊んで」「読んで」「学んで」などは撥音便〈ん〉の口語で文語は「遊びて」「読みて」「学びて」となります。「言って(言つて)」「待って(待つて)」「笑って(笑つて)」などは促音便〈っ〉の口語(内は旧仮名)で、文語は「言いて(言ひて)」「待ちて」「笑いて(笑ひて)」(内は旧仮名)となります。
19・地の人にホタルは出るかと訪ぬれば身の上話の八十余年(鳥澤)
地元の住民に「この辺りに蛍は出ますか」と尋ねてみたところ、延々と八十余年分の身の上話を聞かされたという作者。苦笑いが見えますね。
「ホタル」は漢字の方がいいのではないでしょうか。
また「訪ねる」はどこか場所を訪れる時の「たずねる」です。質問する場合は「尋ねる/訊ねる」です。
また「尋ねる」の古語「尋ぬ」の已然形「尋ぬれば」を使っていますが、現代語の「尋ねれば」でもいいかもしれません。
また文法的には「身の上話を(された)」と繋がるのが自然だと思うので、「身の上話の」という助詞が引っかかります。四句と結句を入れ替えて「八十余年の身の上話(をを省略)」としてはどうでしょうか。
20・高齢者バス乗車券アプリ入れスマホのカバーをちょっとおしゃれに(金澤)
さすがにカタカナが多すぎるかなという気がします。カタカナが多いとどうしても字数が増えてしまって水甕投稿既定の28字に収まらないのでもったいない気がします。
お得なので高齢者用バス乗車券のアプリは使いたい。けれどまだ気持ち的に若く「高齢者」の括りに入れられるのにまだ少し抵抗があり、その“抵抗”の部分が「スマホのカバーをおしゃれに」なのではないかと想像しました。
またバスに乗るたび人目に触れるということも意識して、カバーを替えるきっかけになったのかもしれません。
でも「ちょっとおしゃれ」と言われても具体的に見えてこないので、色や質感、柄、ブランドなど何かお洒落のとっかかりが欲しいところです。
高齢者バス乗車券のアプリ入れお洒落な革製カバーに替える
「アプリ入れ」とあるので「スマホ」は省いても分かるのではないかということで、カタカナを減らしてみました。
実際は合皮だそうですが、いいんです、そんなの、創作で(笑)。要は作者の思う「おしゃれ」の方向性が見えればいいんです。例えば花柄だとか明るい色とか柔らかい色などなら「明るくて若々しいイメージ」を重視していて、高齢者用のアプリを使う歳になったけど気持ちはまだまだ若いわよ、ということを歌っているように見えますし、革製とか落ち着いた色とかブランド物などなら上品な感じとか落ち着いて美しく歳を重ねたいという印象が見えてきます。
21・台風の近づく夜の震度4ピクリともせぬ児の眠りはも(小幡)
台風が近付く夜ですから既に風や雨音など不安な雰囲気に包まれているのでしょう。そこへ(神奈川県では)久々の震度4というやや大きな地震。大人は東日本大震災の記憶なども甦り落ち着いていられませんね。既に床に入っていたとしても思わず飛び起きてテレビなどで震度を確認したりしそうです。しかし、側で眠る子供ときたらピクリともせずに眠っている。成長期の子供の眠りの深さと豪胆さに感じ入る作者。
字余りにはなりますが「震度4に」と助詞を入れてもいいかもしれません。
22・箱いつぱい友から母への古手紙 差出人もこの世にをらず(畠山)
母が亡くなったあとの片付けで、大量の古手紙が出てきました。まだ旧姓の母宛てで、切手の額面が一桁時代のものも(笑)
特に仲が良かったのか、同じ差出人からの手紙だけでダンボール一箱もあっったり。
でもここ数年の新しい手紙はなくて、遺された住所録を見たら×が付いていたので、あぁこの方も既に亡くなっているのかなぁ、と何とも言えない切ない感じになりました。
でも取っておいても仕方ないし、置いておく場所もないのでしみじみしつつ捨てましたけどね。
「友から母へ」としましたが、「母へ友からの」とした方がより分かりやすいかな、と気付きました。「友から母へ」だと作者の友から母へ、とも受け取れてしまいますよね。
☆今月の好評歌は7番、緒方さんの
ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり
となりました。
作者のホッとした気持ちを車の吐息として表現したところが素敵ですね。
次回澪の会は8月21日第三㈮ 12:30~厚木アミュー607です。
尚、酷暑が予想されるため、無理をなさらず、体調に少しでも不安があればお休みください。
参加される方は詠草二首を8月7日までにお送りください。








