短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

猫が脱走してしまった

一番若い3歳のメス猫が脱走して行方不明になってしまいました。

 

【名前】めっと(めったん)

【種類】MIX 短毛 白黒

【性別・年齢】メス(避妊済)・もうすぐ4歳

【体型】ややデブ(5㎏)

【性格】臆病・人見知り

 

4月3日(水)午後4時頃

神奈川県相模原市中央区淵野辺で行方不明になりました。

 

もしSNS等で拡散できる方がいらっしゃいましたら拡散お願いします。

 

◆歌会報 2024年3月 (その2)

◆歌会報 2024年3月 (その2)

 

第142回(2024/3/15) 澪の会詠草(その2)

 

14・「感謝」とか不穏な言葉の置き土産夜逃げのようにある日突然(山本)

「感謝」などと言いながらもある日突然夜逃げのように作者の元から離れてしまった知人がいたということでしょうか。

この歌も1番の歌と同じく、作者と夜逃げをした人の関係性や状況が読者には分からないため、何となく「快くは思ってないんだろうな」くらいまでしか読み取ることができません。

また「「感謝」とか不穏な言葉」という繋がりにも違和感がありました。本来「感謝」という言葉には不穏さ(マイナスイメージ)は無いわけで、「感謝とかいう表向き聞こえの良い言葉を残しつつも(感謝=聞こえが良い)」というのなら分かるのですが、「感謝とかいう不穏な言葉(感謝=不穏)」とはならないと思います。

また「夜逃げのように」と「ある日突然」は意味が被りますよね。なのでどちらかを削って、その分「口では感謝とか言いつつもあっさり去って行った人物の素性」(作者との関係)を出して欲しいなぁと思います。

十年も育てた社員が「感謝」とか言いつつ夜逃げのごとくに去りぬ

とかにすると作者の悔しさなどが読者にも分かるようになるのではないでしょうか。

 

15・雲厚く空覆いつくし寒い日々猫は縄張見回り声上げる(戸塚)

短歌がただの「詩」でなく「歌」である所以はやはり定型(五七五七七)にあると思います。俳句のように季語といった制約もない短歌の唯一の制約が「五七五七七で作りましょう」ですから、これを守らないと短歌ではなく短詩となってしまいます。止むを得ず字余り字足らずになるとしても何とか一字までにしましょう。

ということで、まず二句の「空覆いつくし」という八音を七音に収められないか考えてみましょう。どうしても字数が変えられない固有名詞というわけでもありませんし、これくらいなら色々と言い換えられそうです。

「雲厚く空を覆える寒き日に」くらいでどうでしょう。場面の説明部分ですし「覆いつくす」まで言わなくてもいいのではないでしょうか。また下の句に繋げたいため「寒い日々」を「寒き日に」としてみました。

「猫は縄張り」は七音なのでこのまま。「縄張・縄張り」はどちらも間違いではないのですが漢字が続く場合は送り仮名の「り」を入れた方が読みやすいのではないかと思います。ちなみにこの「縄張・縄張り」問題ですが、常用漢字表では「縄張」とされているのですが、一般的には「縄張り」と送り仮名を付けるものだと認識している人の割合が八割を超え、「常用漢字表で送り仮名を省いてしまったのは勇み足だった」などと言う意見もあり、放送用語協会では2007年に「縄張(×)→縄張り(〇)」とすることにしたという経緯のある言葉です。

少し話が逸れてしまいましたが、一番の問題の結句に行きましょう。「見回り声上げる」では九音です。結句は何とか七音にまとめましょう。他が多少字余り字足らずになっても、結句が七音なら割と落ち着きます。逆に結句が七音でないとどうにも締まりが悪いです。それくらい結句の音数は重要です。

「見回りて鳴く」でどうでしょうか。ただ鳴く(ニャー)というよりは威嚇するような感じで強めの声を出していた(うわぁーを)のかな、とは思いますが、「縄張り見回り」とあれば「声上げる」とまで言わずともそこは想像できるのではないかと思います。

しょっちゅう来ているのなら、

雲厚く空を覆える寒き日猫は縄張り見回りて鳴く

としてもいいかもしれませんね。

 

16・夕空に溶けて消えゆく儚さは存在なしのメレンゲの月(小夜)

メレンゲの月」という見立てが面白いですね。薄い雲の中にすーっと溶けてしまい、薄っすらと明るさだけが滲むように見えているのではないでしょうか。

「夕空に溶けて消えゆく儚さよ」として一旦切ってしまってはどうでしょうか。そして「存在なしの」と言い切ってしまうと(実際は在るわけで)ちょっと作者の想像による部分が強すぎるかなという気もするので、「存在するかメレンゲの月」「そこに在るのかメレンゲの月」と「本当にそこに存在するの?」という問いかけにするともっと柔らかくなるのではないかと思います。

夕空に溶けて消えゆく儚さよ其処に在るのかメレンゲの月

また「メレンゲの月」という見立てがとても良いので、月が溶けてゆく様だけを描写してもいいのかもと思います。

夕空へすうっと溶けて消えゆけり春の儚きメレンゲの月

…と思ったのですが。うーん、でもやっぱり「そこに本当に存在するのか」って「月(という普遍の事物)の存在を疑う」方がこの作者らしい気がしてきました(笑)。後者はあんまり面白くないかも。

 

17・二月尽こんもりと繁るルッコラにびっくり眼の茶色の飛蝗(栗田)

二月末でもう飛蝗が出てくるんですね!

ルッコラ・びっくり」という響きがリズム良く、春の訪れを喜ぶ歌に気持ち良く乗った感じがします。

せっかくリズムが良い歌なので二句の「こんもりと繁る」(八音)は「こんもり繁る」として七音に整えたいですね。

 

18・小春日に日向ぼっこ幸せは老老人生 二人で在ること(飯島)

二句が六音なので「日向ぼっこす」として場面を完結させましょう。

「小春日に日向ぼっこす」で実際の場面。そこから意識的な内容へ切り替わり、「幸せは老老人生」でまた切れてしまうとブツブツ途切れすぎて滑らかに響きが乗りません。「幸せは老老人生ふたりで在ること」と繋げた方が柔らかく読めると思います。

 

19・ひとり居の媼の庭のしだれ梅 花のパラソル大きく開く(鳥澤)

何とも言えない寂しさもあるのですが、独りで生きる媼を明るく応援するような優しさも感じるような歌ですね。

「ひとり居の媼の庭」としてはどうでしょうか。

「庭のしだれ梅」とすると読者の視点は庭のしだれ梅を見ている作者にあると思います。これを「庭へしだれ梅」とすると読者の視点がしだれ梅のすぐ横くらいに来ませんか?何故でしょうね。不思議ですね。

 

20・つちふるや花粉も飛びかい難儀する鬱なる日々の襲来したり(緒方)

「つちふる」は俳句の春の季語で漢字では「霾」と書きます。黄砂が春風に巻き上げられて空が黄色っぽくなる様子ですね。昨今では黄砂だけでなく大量のスギ花粉も舞う時期で、黄色い大気を見るとうんざりしてしまいますね。

実際うんざりしたりイラッっとしたり様々な症状に難儀したりするのは分かるのですが、「難儀する」「鬱なる日々」と言い切ってしまうと読者に考えさせる余地がないというか、「ほんと、そうよねぇ」という同意の感想文的な歌で終わってしまう気がします。

「つちふるや花粉も飛びかい空けぶる」など、どちらかは抑えて情景の描写にとどめ、読者自身をその「難儀な」世界に立たせてやると詩情が出て来るのではないでしょうか。

 

21・丹前を羽織りほぐれて行く人の狭き歩みの城崎温泉(川井)

「丹前を羽織りほぐれて行く人」という描写はとても良いですね。特に「ほぐれて」という表現で、温泉に入り身も心もほぐれた人々が幸せそうに行き交う様子が思い起こされます。

的確な上の句と比べると「狭き歩みの」で少し迷ってしまいますね。人が多いので小さな歩幅で進むしかない感じでしょうか。それとも道が細く列になって進む感じでしょうか。ちょっと迷ってしまうので、「ゆるゆる流るる」「進みゆるやかに」「ひしめきており」など迷わなそうな描写に変えてみてください。道が狭くてひしめいているよりはゆっくり進む感じの方が「ほぐれて行く人」の印象と合う気がしますね。

 

22・大きめの金柑落とし鵯はつつき転がしてやっと朝ごはん(大塚)

大きめの金柑を狙ったばかりになかなか食べられず、つついて転がしてやっと朝ごはんにありつけた鵯(ひよどり)を優しい眼差しで観察し、「そんな大きいのを狙うからよ」と少し呆れつつも「よかったわね」と微笑んでいそうな作者が思い浮かびます。

「やっと朝ごはん」という言い方がやや子供っぽいかなという気もしたのですが、作者の飾らない心情がぽろっとこぼれ出た感じでこれはこれで良いのではという意見に落ち着きました。

四句は「つつき転がし」で七音にしておきましょう。

 

23・遠方に「ロウバイの里」見ゆるなり林は淡く黄の靄かかる(名田部)

蝋梅の里の林には淡く黄色の靄(もや)がかかって見えるという観察力と自然な表現がとても良いですね。

「見ゆるなり」という言い方がやや仰々しいので「見えており」くらいにした方が自然に読めると思います。

また「林」とした方が、結句でもある淡くかかる黄の靄の方へ意識が集中するのでいいんじゃないかなと思いました。

 

24・捨ておいた去年の鉢のシクラメンのハートの葉陰につぼみの五つ(金澤)

「去年の鉢のシクラメンのハートの」という部分がちょっと頑張って説明の言葉を詰め込んでしまったような印象を受けました。

おそらく「シクラメンハートの」とカタカナが続くと読みづらいし区切りも分かりにくいということで「の」を入れたのだと思いますが、「捨ておいたシクラメンの去年の鉢 ハートの葉陰に」とした方が五六六になってしまうものの読みやすいような気がします。

また主役である結句のつぼみは「つぼみ」として、「あっ、ほったらかしにしてたのに五つもつぼみが付いてる!」という作者の喜びが強調されるのではないでしょうか。

 

25・いつぱしの農婦の顔に思案する春の作付けまづはジャガ芋(小幡)

「いっぱしの農婦の顔」という表現がいいですね!

本業はプロの農婦ではなく、本当はせいぜい数種類の作物しか作った経験がないかもしれないのに、まるで色んな作物を育てる知識や技術を持っていていくつも選べる中から「今年は何を作ろうかしら」なんて難しい顔して畑を眺めていそうな作者(笑)。

嫌味のない軽い自虐が客観性を引き立てていてとても面白いと思います。

 

26・沈丁花の固く閉じたる蕾からむつと漏れ出す乙女のかをり(畠山)

まだ固く閉じた蕾なのに甘い香がむわっと漂ってきて驚きました。

「乙女の」というともっと爽やかな感じがすると言われ、確かにそうだなぁと思いました。もっと化粧とかしてそうな大人の女性の香ですよね、沈丁花って。

かといって「をみな(若い女)」では響き的に「おみな(歳取った女)」もイメージしてしまうので今回は音便化した「をみな(若い女)」である「をんなのかをり」にしようかなと思います。

あと「閉じたる」は旧カナ表記では「閉ぢたる」でした。終止形は「閉づ」ですね。

 

☆今月の好評歌は17番、栗田さんの

二月尽こんもり繁るルッコラにびっくり眼の茶色の飛蝗

となりました。

早春の庭先のささやかな発見に明るい喜びを感じる歌ですね。

「こんもり・ルッコラ・びっくり」と響きも軽快で嬉しい感情を引き立てたのが好印象でした。

By PhotoAC かめです

◆歌会報 2024年3月 (その1)

◆歌会報 2024年3月 (その1)

 

第142回(2024/3/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・「友達になって下さい」Gパンの教授は熱く成果を語り(山本)

まずこの「友達になって下さい」というセリフは誰が誰に言ったものなのか。多分ジーパンの教授が言ったものだとは思いますが、助詞がないので、作者が成果を熱く語る教授に惚れ込んで、もっとお近付きになりたい!と思わず言ってしまったとも取れます。そもそも教授と作者はどういう関係なのか。教授の成果とは何なのか。何の教授なのか。教授の「成果」と「友達になって」というセリフは関係があるのか(コミュニケーション学、社会学など)。など、この三十一音からでは読者には分からないことが多すぎて上手く歌の場面を思い描くことができませんでした。

詳細を聞いたところ、農大の植物学の偉い学者さんがジーパンというラフな格好で偉ぶらずに受講者に「友達になって」と言ってくれたことが嬉しかったということなのですが、だとしたら「成果を語る」あたりは切るしかないと思います。

偉い教授が友達になろうと言ってくれたことに重点を置くなら、

ジーパンの農大教授はやわらかく友になろうと生徒らへ笑む

などとしておいた方が分かるんじゃないかなと思います。

また「成果を語る」方に重点を置くなら

ペピーノとう見慣れぬ果実を掲げ持ちジーパンの教授熱く語りぬ

などとしておくと読者にも場面が見えてくるのではないかなと思います。

今回は教えていただいた「ペピーノ」を出してみましたが、ペピーノが果物であると結びつく人は少ないと思うので、果物・野菜・植物であること(教授の専門が何か)が分かる言葉を必ず入れましょう。

「とう」というのは「~~という」の略で短歌ではよく使う言い回しです。

短歌は作者の生きた証を文章にして残すものではありますが、「詩(作品)」であって、作者だけが分かればいいという「日記(記録)」になってしまわないようなるべく意識してみましょう。

 

2・雨日向娘の雛を飾ります庭の菜の花活けて賑わう(戸塚)

お雛様をきちんと出して季節を大事に過ごす作者という場面はとても良いと思います。

ただ「雨日向」という初句がいきなり読者を悩ませてしまい、せっかくの柔らかな場面にすっと入れません。

「日向雨」(お天気雨)とは言うけれど雨日向という言い方は聞いたことがありません。外は雨だけど少し日が射している屋内のことを言いたかったのでしょうか。

初句ですし「御座敷に」「日当たりに」「雨の日に」など迷わない場面の描写でいいのではないでしょうか。

また上の句で「飾ります」としっかり終止形が出ているので、下の句は「庭の菜の花明るく活けて」と倒置法にして上の句に戻すと、二つの文章が一つになってより場面が引き締まるのではないでしょうか。

 

3・厚き葉に磨きをかけてささやけどそっぽムキムキ金の成る木よ(小夜)

丁寧にお手入れをしてやっているのに全然効果がないわねぇ、という場面と作者の心情はとても面白いと思います。

実際作者はそれほど「効果」など期待していないのだけれど、丁寧にお手入れをする日常の作業の中でふっと「そういや“金の成る木”なんて名前が付いてるのに全然効果ないわねぇ」などと、勉強は出来ないけど元気でかわいい子でも見るような眼差しで微笑んでいるような場面が思い浮かびます。

「厚き葉に磨きをかけてささやく」という描写が具体的でとても良い表現だからだと思います。

ただ「そっぽムキムキ」が問題ですね。「ムキムキ」ではぱっとイメージするのが筋肉ムキムキとかですし、せっかくの詩情を壊してしまいますね(笑)。

「そっぽを向ける」「そっぽ向きたる」などでいいのではないでしょうか。

また「ささやけど」は「ささやくも」として濁音を避けましょう。

 

4・寒空にローズマリーの花散りて青い小花の庭を彩り(栗田)

場面はしっかりと見えてきます。ただ「花散りて青い小花の」あたりがちょっと説明的になってしまったかな、と思います。

「花が散って、青い小花が」と三十一音の中で二回も「花」について言及しているのも情報被りで勿体ないかなと思います。

また結句は「彩る」としっかり終止形にしたいところ。

寒空にローズマリーの散った花が どのように 庭を彩っている、という描写を探してみてください。

ちなみに講師の提案では

寒空にローズマリーの散る花が青々と冴え庭を彩る

でした。

 

5・書くのでも話すのでもない打つ会話 句読点など不要なのだと(飯島)

LINEのことなのではと思いますが、「相槌を打つ」という言い方もありますし、気の置けない相手との会話は句読点など意識もせずに相槌を打つだけでも何だか分かり合える、といったような長年連れ添った夫婦のほっこりした会話の在り方の歌なのかな、とも取れてしまいます。

まずはLINEなど最近の新しい「会話」についての歌であることをはっきりさせ、ほっこりプラスの感情ではなく、違和感があるマイナスの感情を詠んだものだと分からなければなりません。

また作者は

A:書くでも話すでもなく「打つ」ことで会話する違和感

B:LINEでは短文でテンポよくやり取りをするのが主流で句読点を使わないということに対する違和感

という二つの違和感があるのに、同じ「LINE」に対する違和感ということで一つにまとめてしまった為に無理が出て、読者にあまり伝わらないものになってしまっている気がします。

どちらの違和感を主題にして作るのか、まず作者の中で整理してからもう一度作ってみて欲しいと思います。

A:書くのでも話すでもなくぽちぽちと板を打ちつつ娘と会話

B:スマホには句読点なき返答と我の長文交互に残る

など、スマホによる会話に作者は何とも言えない違和感を覚えているのだなということと、具体的にどういう事で違和感を意識したのかということを突き詰めてみて欲しいと思います。

 

6・紫に畑一面を染めあげて栽培のごとホトケノザ咲く(鳥澤)

とても良く場面が見えてきますね。

「栽培のごと」という表現が的確なのだと思います。

ホトケノザはいわゆる雑草なわけですが、それがまるで意図的に人が世話をして咲かせたかのように見事に咲いているのですね。

一般的には「ごと(如く)」「ように」などの比喩表現はやや弱くなってしまうのですが、今回は例えば「明るく見事に」などという表現などよりも「栽培のごと」の方がずっとホトケノザの見事さ、華やかさ、生きの良さを想像出来るのではないかと思います。当たりの比喩ですね。

 

7・中辺路は癒しの古道いま一度春の陽のもとたゆたいゆかん(緒方)

中辺路(なかへち)は熊野古道のルートの一つです。

懐かしみつつもう一度のんびり歩いてみたいなぁ、と思っている作者だと思いますが、「癒しの古道」と言ってしまったことで旅行会社のキャッチコピーのようになってしまった感があります。

キャッチコピーのような概念的な言葉は多くの人に似たようなイメージを持たせ、なめらかに丸く包み込むことは出来るので広告には向いているけれど、個性を鋭く尖らせ誰かの心に深く突き刺さることは出来ません。

私は行ったことがないので良く知りませんが、聞けば結構な坂などもあり、舗装などされていない山道を行く結構苛酷な道のりだそうで、それを「癒しの」と言ってしまっていいのでしょうか。

息切れしたり、汗を拭って立ち止まったり、踏ん張ったり、滑ったり。色々苦労もしたけど木々のざわめきや木洩れ日、時折抜ける汗を冷ます風、鳥の声、すれ違う人の笑顔、様々なものを経験して結果的に「癒された」ということでその一言に集結してしまっていいのでしょうか。

作者が当時体験した中で「一番」鮮やかに蘇る場面を思い出して、そこを描写した上で「もう一度行きたいなぁ」に続けると歌が詩として鋭く磨かれるのではないでしょうか。

 

8・何処からか湧いて出たごと人、ひと、ヒトの京都駅にて夫の背を追う(川井)

東京駅などもそうですが、本当にどこから湧いてきたのかと思うほどの人の群れってありますよね。

「人、ひと、ヒト」という表記が問題になりました。作者いわく、人種も様々、老若男女も入り乱れる様を表現したかったということですが、そこまでは表記の違いだけでは読み取れませんし、また読ませる必要もないのではないでしょうか。

今回はどこから湧いて出たんだってくらいの人ごみの中、(慣れない土地である京都駅で)夫とはぐれまいとする作者を核にしているわけで、そこに「外国人が~」とか入れると核が割れてしまいます。

「外国人も含め様々な人が溢れる」という方を核にするなら「夫の背を追う」の方を消して、「外国人も」ということがもっとはっきりと分かる表現で「京都駅は様々な人で溢れかえっている」という核で作ってみてください。それはそれでいつもの作者のしっかりした観察眼があればきっと良い歌になると思います。

また初句ですが「どこからか」と読ませるなら平仮名でも良いのではないでしょうか。もしくは「何処(いずこ)から」と読ませて漢字を使い、「から」の「か」を取るかした方が迷わず読めるのではないかと思いました。

 

9・初孫の入試結果と芋苗の芽吹き見守る春の日差しに(大塚)

一般的に孫というのはやはりかわいくてたまらない存在のようで、孫を題材にするといつも客観的に物事を見れる人ですら甘い心情を語る方に傾いてしまう事が多いようです。

ペットの歌などもそうなりがちですね。動物を飼ったことがあるなら分かるかと思いますが、結局はみんな「ウチのコが一番」と思っているため、他の人にあまり熱く「ウチのコがこんなにかわいい」と語られると逆に醒めてしまい共感できなくなってしまうという…。

また男女のバカップルのイチャイチャなどもそうですね。甘ぁい世界は浸ってる本人たちとは裏腹に見せられる方は醒めてしまうので注意が必要です。

そんな甘くなりがちな題材である「孫」の歌ですが、今回は「芋苗」という素朴かつ季節感溢れる具体的な小物と取り合わせたことで上手い具合に「ウチの孫の入試が心配~!」という甘さを突き放し、孫の心配をしつつもしっかりと「今の自分を生きる作者」が主役として立ち、孫の入試を思いつつも芋を植えて生活をする強さと、どこか距離を感じる(一人で生きる)寂しさが詩になりました。

これがもしも何かの「花」とかだったらちょっと甘さが勝ってしまったと思うんですよね。「芋」だからこそ生きた小道具だと思います。作者の選択に拍手!

 

10・白鷺が一羽水面に佇みぬ水面は鏡二羽おるような(名田部)

水面が鏡となって二羽いるように見えるという場面はいいですね。

ただ「水面」が同じ言葉で二回出て来ているのでどちらかを消しましょう。

歌の核(一番言いたいこと)をリフレインする(繰り返す)ことで強調するという手法も時には有効ですが、今回「水面!」と言いたいわけではありませんよね。

「水際(みぎわ)」「汀(みぎわ)」「浅瀬」などが良いのではないでしょうか。

白鷺が一羽汀に佇みぬ水面は鏡に(よ) 二羽いるような

「鏡よ」とした時は一字空白はいらないと思います。

 

11・六条御息所が推しと言う美しき人気高き口調に(金澤)

1番と同じく、主語がよく分からないので読者が置いてけぼりになってしまった感があります。

六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が(作中で)推し(憧れている・慕っている)と言った人物(キャラクター)を演じている役者さんの事などを言っているのか、「私、六条御息所が一番好きなの」という誰かが美しくて気高い口調なのか判断がつきません。

聞いたところ後者だそうで、だったら「六条御息所推しと言う」だと思います。

また気高い口調の人が「推し」という言い方をするでしょうか。好きなキャラクターやアイドルなど応援したい対象を「推し」という言い方をするようになったのはつい最近のことで、いわゆる俗語です。気高い口調で俗語というのがどうもしっくり来ません。

六条御息所を推しと言う教壇へ立つ凛々しき女(ひと)

「推しと言い→女よ」としてもいいかもしれません。

などとするともう少し場面が見えてくるかなと思いますが、そもそも六条御息所がどういうキャラクターなのかという知識が前提での作者の驚き(えっ、あの六条御息所が好きなの?という)なので、どうしても知識に対する作者の感想というラインを越えられない気がします。

 

12・写メールにふつくらとして女(め)の孫が合格知らせる春の宵かな(小幡)

9番と同じく「孫の入試」を題材にしています。場面もとてもよく分かりますし「ふっくらとして」と視覚による描写で感情に走りすぎない意識も感じられ、とても上手な歌だなと思うのですが、「芋苗」と比べるとやはり少し甘みに傾いているのかなという気もします。

9番の方は「芋苗」により「孫」をぐんと突き放したことで、作者の中の寂しさや強さといった甘くない現実が見えてそこが詩になったと思いますが、こちらはふんわり、ほっとした柔らかい感情で完結しているため読者の心に刺さる度合いはやや低いかなと思います。

でも春だし、合格だし、ふんわり優しく甘めなのもいいじゃない!とも思います。このくらいの甘さなら「ウチのコの方が…」的な醜い対抗心や甘々を見せつけられてげっそりする感情も湧いてこないでしょうし(笑)。

音数や文法もしっかりしていて、直すところはありません。

 

13・秋植ゑのチューリップから固き葉が土を切りつつ顔出して春(畠山)

近所の人が秋の終わり頃すっかり寒々しくなった空の下で植えていたチューリップの球根からいつの間にか芽が出ていて、あぁもう冬を越えたんだなぁと思ったのですが、それだけではただの報告で詩を感じられないと言われてしまいました。

詩…うーん、難しい(笑)。基本的に外出嫌いで日がなゲームばかりやっているようなオタクなので歌にするような感動やネタ(言いたいこと)がそもそもあまりないのですが。うーん。

仕方がないのでここは少し創作してしまいましょう。

三・一一 チューリップから堅き葉が土を切りつつ顔出してをり

実際は本当に「あぁもう冬を越えたんだな」としか思わなかったのですが、後日あれほどの被害を受けた被災地が13年を経て確実に復興してきているニュースを見て、チューリップの硬い(硬い柔らかいの硬いはこちらの漢字でした。が、堅実な復興とかけて「堅き」の字を選択し直しました)葉が土を切るように伸びている様とイメージが被ったので紐付けてしまおうと思いました。

また三・一一と紐付けたことで「顔出して」と言い切ってしまうと言いすぎ(意図しすぎ)でいやらしいなと思ったので「をり」にとどめました。

by PhotoAC  marioland

◆歌会報 2024年2月 (その2)

◆歌会報 2024年2月 (その2)

 

第141回(2024/2/16) 澪の会詠草(その2)

 

13・お薬師へお供の愛甲三郎は正室に恨まれ館焼かれる(戸塚)

これも一首目と同じで知識の報告だけで三十一音がいっぱいになってしまい、作者の感情が入る余地が無くなってしまったように感じます。

ある景色を見たり、ある体験をした時に作者という人間がどのような感情を覚えたのか、そこをもっと知りたいです。

今回の場合、作者はこの歴史的情報を知ったことによりどう思ったのでしょうか。

側室のお供をしただけで館を焼かれちゃうなんて酷い!愛甲三郎可哀想!とかでしょうか。

地名や固有名詞は活きる場合も多いですが、歌で一番伝えたいのは史実ではなく心の動きですから、「正室に恨まれて」だとか「愛甲三郎」だとかも余裕がないのなら切らなければならないかもしれません。

側室のお供をしたと愛甲の館は焼かれ石碑がひとつ

側室の供をしたとて焼かれたる館の跡へひゅうと北風/春風そよよ

など、現在作者がその場で見たり感じているものを入れて欲しいかな、と思います。

冷たい風を感じていたら、側室のお供をしただけで館が焼かれてこんな冷たい風が吹く日はさぞ辛かったろう、とその理不尽さを気の毒に思っていそうな作者がいるような気がしますし、逆に優しい春風だったら昔はそんな理不尽な仕打ちがあったと聞くけれど、今はそんな歴史が嘘のように平穏で、作者はその地でゆったりとした生活を営んでいるのだろうなぁ、というような気がします。

 

14・冴え渡る月夜の中に日記かく今日のあの事消したくて(小夜)

まず結句が「消したくて」では五音なので「消したくなりて」と七音に整えましょう。

というか「消したい」のに、“日記を書く”という「残す」行動の理由(消したくて)とする矛盾がよく分かりません。

「消したくなくて」や「消したいけれど」なら、消したくないから記録に残そうとする、消してしまいたいけれど敢えて残しておく、という意味でよく分かるのですが。

そして話を聞いたところ、実際に日記は書いていなくて、月を見ながら今日一日を振り返って自分の心を整理する行動を「月夜の中に日記かく」と表現したとのこと。

でもそれは無理があり、読者はそうは読み取れません。「月夜の中に日記かく」では月夜の元でノートに日記を書いている作者しか思い浮かびません。今回「日記をかく」という言葉の選択は適切ではないということです。

「消したくなって」ならば、

冴え渡る大きな月へ吐き出しぬ/ぶつけたり今日のあの事消したくなりて

など、「残す」行動でなく「消す・消化させる」行動にすべきではないでしょうか。

 

15・大寒の冷たい雨に花開く白い椿のほのかな光(栗田)

見ている景色は柔らかくてとてもいいですね。

「花」と「開く」は意味が被るので「ぽっと咲く」「今朝ひらく」など別の情報を入れた方がいいと思います。

また「冷たい」「白い」と形容詞が二つとも口語になっていますが、「白き椿」と文語にしたほうが椿の柔らかい美しさを歌ったこの歌には合っていると思います。

 

16・色チョークで道いっぱいの落書きは低学年でも英語が交じる(飯島)

現代という時代を感じる良い題材(気付き)ですね。

「色チョーク」の「で」だけが少し気になるので「色チョークに」とするか、「道いっぱいカラーチョークの落書きは」などとして「で」を外してみてください。

 

17・注連飾り夕日の庭のどんど焼き煙の行方は気の向くままに(大塚)

「注連飾り」でなく「小正月」などなら「夕日の庭どんど焼き」でもいいのですが、「注連飾り」とすると「注連飾り夕日の庭どんど焼きする」というのが本来の文章になるため「注連飾り夕日の庭」という助詞にしないとしっくり来ません。

上の句は五七五のためどうしても俳句がちになってしまう人が多いのですが(私も)、五七五がサビである俳句と七七がサビである短歌では同じ音数でも役割が全然違うので、いきなりサビが来て後半が付け足しのようにならないよう注意が必要です。短歌での五七五はあくまでもAメロと思って作った方がいいかもしれません。多少字余りになっても柔らかくなめらかにサビまで繋いで欲しい感じです。

「煙の行方は気の向くままに」という、煙の向き一つ取っても自分にはどうにもならずにただ自然(時間)の気の向くまま、という描写に、やや諦観しつつも日々の生活を営んでゆく作者の何とも言えない寂しさを感じる歌ですね。

 

18・夕間暮散歩の犬の首輪には七色の光ワンと一声(名田部)

最近は「交通事故に遭わないように」とピカピカ電飾が光るリードや首輪をつけて犬の散歩をする人が増えてきました。

それが「現代的だなぁ。大事にされてるんだなぁ。」と感じたのではないでしょうか。

だとしたら結句の「ワンと一声」が唐突ですし、一番印象が強くなる結句としては活きていないと思います。

ここは「光る首輪」だけを題材に詠み切って欲しいところ。

また「夕間暮れ」には送り仮名の「れ」を入れましょう。

夕間暮れ散歩の犬の首輪には次々変わる七色の光

でも、これでは何かちょっと「…で?」というか、ただの報告の文になってしまう気がしますね。

夕間暮れぴかぴか光る首輪着け飼い主率いてプードルが行く

とか。犬が得意げなのかなぁとか、犬の方が(安全首輪を着けているから)飼い主を引き連れてやっているように見えるとか、しかもそれが小型犬だった、とかそんな情報があったらもっと面白いのかなぁと思います。

 

19・ぼた餅は祖母のつくりし皆殺し春の日眩し遠き思い出(緒方)

ここでいう「皆殺し」とはぼた餅のつき加減のことです。粒感がなくなるまでしっかり潰したものを「皆殺し・全殺し」、粒感が残るようについたものを「半殺し」などと言います。決しておばあちゃんが猟奇的な人物なワケではありません。

「ぼた餅は祖母のつくりし皆殺し」という上の句はとても良いですね。

それが下の句でちょっと一般的になってしまったかな、と思います。遠い思い出と言ってしまわずに、おばあちゃんのぼた餅とそれに相対する(当時の)作者を含む描写でまとめた方がいいと思います。

春の日眩しき縁側に食む、餡もなめらかに舌に溶けたり、小(ち)さき吾(あ)の手にずっしり重く、指に残れる餡まで旨し、とか何か探せば色々あるんじゃないかなぁと思います。

遠い思い出にしちゃわないで、読者をその懐かしい場面の中へ連れていってください。

 

20・進みがち遅れてしまう時計らをそれぞれ承知で過ごすを笑う(鳥澤)

よく分かります。あるあるですね(笑)。

「進みがち、遅れてしまう」という文の繋がりがちょっと不自然かなと思います。

「進みがちまた遅れがちな時計らを」「進みがち遅れがちなる時計らを」などではないでしょうか。

また結句の「笑う」という皮肉は言ってしまわない方がいいかなと思います。

「過ごしておりぬ」くらいで、気付いているのにそのまま過ごす作者の微かな自虐は十分表現でき、「笑う」と言ってしまうとちょっと野暮ったくなってしまう気がします。

 

21・血圧に心の内を見透かされ経験のない百八十六ヘ(川井)

血圧186という数値にびっくりしてしまい、まずは健康が心配な作者です。

歌としては「心の内を見透かされ」が具体的にどういうことを言っているのか読者は分からないので、そこがちょっと弱いかなという気がします。

実際には何かものすごい悩みやドキッとするような出来事があったわけではなく、独り住まいをしているお父様の家で料理を作ってあげようと台所に立ったところすごく寒くて、それで血圧が上がってしまったらしいとのこと。

だったらそこを歌いましょう!と思いました。

父のみの実家の厨はキンと冷え血圧上がり百八十六

とか、「独り居の父しか居ない台所の冷えの厳しさ」の方を核にしてしまったらどうでしょうか。そこに住まうお父様の寂しさを思わせますし、作者の血圧が上がるような環境に住むお父様への健康の気遣いも見える題材になると思います。

数値が数値ですから、作者が初めての血圧の数値に驚いたのはよく分かるのですが、歌としてはどういう環境かよく分からない状態で作者の血圧がこんなに上がってしまった!という数値の情報よりも、どういう場面で血圧が上がってしまったのかという情報の方が重要だと思います。

 

22・目に刺さる冬の日差しにパチパチとコートのボタン音立て外す(金澤)

冬の午後、目に刺さると感じるほどに強い日差しに「あー、今年の冬はあったかいなぁ」とか「もう春も近いな」とか思いながらコートを脱ぎつつ解放感を感じている作者なのかな、と思います。

「パチパチ」というオノマトペに「静電気」を連想する人が結構多く、それでは意味が分散されてしまって(そういう意図がないなら)勿体ないな、と思いました。

上の句は日差しの強さだけでまとめ、下の句「コートの釦音立て外す」に繋げた方がいいのかもしれません。

 

23・固き蔓焼(く)べられ曲げられ橋を巻く 幾百年を落人の里(小幡)

蔓で出来た橋、平家落人の里、というと徳島県の「祖谷のかずら橋」でしょうか。

ただ蔓を編んでいるだけでなく、火にくべて曲げたりしているんですね。

ただこれは実際にその橋を前にして詠んだ歌でしょうか。

どことなく橋の作り方を知識として知り、その知識を得たことに対する心の動き、という気がしないでもありません。

一首目(11番・鴇色)では読者は歌われている場面の中に入れたのですが、こちらは「こういう素敵な所があるのよ」と予め撮影された動画を見せられているような感覚を覚えました。

聞いたところ、やはりTVでその橋の修復をしている職人のドキュメンタリー番組を見てとのこと。

もしかすると作者は橋そのもの(質感や状態(年季)、軋みなど)に感動したのではなく、職人の姿に感動したのかもしれませんね。ならば職人の方にスポットを当てた方がもっと作者の感動が表せたのではないかなという気がします。

 

24・ほたほたと雪の降り初みカレンダーの明日の予定へ二重線引く(畠山)

ほたほたと大きめの雪が降り出したのを見て、翌日に入れていた予定を取り止めました。

雪が降り出したのを理由にしての行動ですから、「降り初み」という理由や時間経過を表す助詞が入った方が自然という指摘を受けました。

理屈っぽく(説明に)なってしまったり、核が割れてしまったりするので短歌に於いて「て」は避けた方がいいパターンの方が多いのですが、確かに今回は使った方が読みやすいかも。

「て」がないと「あっ、雪降って来た!」からの予定消しが何の迷いもない感じでちょっとせわしないですね(笑)。

「雪の降り初みて」だと八音になってしまうので「雪降り初みて」と七音にしたいと思います。

 

☆今月の好評歌は16番、飯島さんの

色チョークで道いっぱいの落書きは低学年でも英語が交じる

となりました。

グローバル化してゆく現代の一コマに対する気付きが面白いですね。

歌の題材はないかと日々の生活をよく観察していなければ見落としてしまい、特に心が動くこともなかったような事でしょう。

歌を作ろうとして世の中を見ることで世界の解像度が上がっていく良い例だと思います。

生きている間同じ世界を見るのなら、ぼやけた景色より解像度の高い景色の方がずっと楽しいのではないでしょうか。

By PhotoAC まきmaki

◆歌会報 2024年2月 (その1)

◆歌会報 2024年2月 (その1)

 

第141回(2024/2/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・側室は頼朝の子を身籠りて日向薬師へ安産祈願(戸塚)

意味は分かるのですが、パンフレットの一文を読み上げたようで、報告だけで終わってしまっているため作者の感情が分からず、「歌」になりきれていない文章になってしまったかなと思います。

このままでは歌の中に作者が存在しないので読者は作者に共感しようがありません。

また実際に作者の目で見た(体験した)歌でなく、知識として得た情報に対する歌はどうしても「感想」になってしまいがちです。

でも「頼朝の子を身籠った側室が祈願した日向薬師」という知識はそれだけでもう三十一音がいっぱいいっぱいになってしまい、とても作者の感情を入れる余裕がありません。

「歌」にするなら頼朝の側室が~という知識は捨て去って、作者が実際に訪れて体感した日向薬師の今の様子を扱った方がいいのでは、という気がします。

どうしても側室の話を入れたい、そこが核であるというのならば連作にして、二首目にきちんと作者の感情を入れるしかありませんが、やはり一首の中で完結できる歌の方が強いし理想的です。

とはいえ、とりあえずこの歌は連作にすることを前提とした上で、

頼朝の子を身籠りし側室が安産祈願の日向薬師

として、「日向薬師よ」と詠嘆にすることで、「ここがその日向薬師かぁ」と“現場に立っている作者”を何とか文中に登場させたいかな、と思います。

 

2・千年を越えて今なお虜にす令和六年光源氏(小夜)

今年の大河ドラマのことだと思います。私は見ていないのでよく分からないのですが、作者の紫式部が主役の話だと聞いたのですが、光源氏、出て来るんですか?劇中劇のような感じで出て来るんでしょうか。世紀のモテ男の役ですから役者さんは大変ですね(笑)。

何はともあれ、千年以上も昔に宮中の女性の心を虜にした光源氏というキャラクターが今なお人の心を虜にするということに感動している作者の気持ちが素直に現れていると思います。

ただ「令和六年光源氏」と続くと読みにくいので、字余りでも「令和六年の」と助詞を入れましょう。

光源氏、ドラマではどんな風に描かれるのでしょうか。…私は嫌いなタイプのキャラクターですけど(笑)。

 

3・朝刊を取りに外出ればヒヤッとす真ん丸月の明るく光る(栗田)

朝刊を取りに外に出たところ朝の冷たい空気にヒヤッとした、という前半と真ん丸の月が朝の空にまだ明るく光っていたという二つの場面が一首にあると思います。

一首の中で場面転換する歌は、ぽーんと大きく意識が飛躍して、その飛躍した先に意外性があったり、個性的であったりすれば効果的ですが、単なる時間経過や視点がずれたことによる場面(核)の割れではそれぞれの印象を弱めてしまうだけになってしまいます。

朝刊を取りに出た早朝の冷たい空気に感銘を受けたのか、まだ寒い冬の朝に残る満月の光に感銘を受けたのか、自分の中で整理して絞ってみてください。

朝刊を取りに出れば如月の空気が頬をヒヤッと撫でる(主役:冷たい空気)

朝刊を取る手もかじかむ冬空へ昨夜の満月真白く残る(主役:残月(視覚))

朝刊を取りに行けば真ん丸の白き月光がヒヤッと刺さる(主役:残月(体感)

などのように核(主役)は誰かな、と考えながら作ってみてください。

 

4・ゆったりと飛ぶ白鷺は陽に向きて風見鶏のごと屋上に立つ(飯島)

ゆったりと飛んできた白鷺が太陽の方を向いて風見鶏のように屋上に立った。

風見鶏という見立ては素敵ですね。

ただ「飛ぶ」「立つ」がどちらも現在の時制でありながら違う動作を示す動詞のため「飛んでるの?立ってるの?」となってしまいます。

「ゆったりと飛び来た鷺は」として時間の流れを明確にするか、いっそのこと「飛んできた」という場面は捨ててしまって、その分「陽に向きて背筋を伸ばす白鷺は」「陽を受けて金に輝く白鷺は」など、風見鶏のように立つ鷺の姿をもっと詳しく述べてもいいのではないかと思います。

 

5・満月を朝な夕なに愛でつつの睦月の冷えもともに身に凍む(大塚)

「朝な夕な」というと「朝な夕なに祈りを捧ぐ」とか「朝な夕なに門前を掃く」など、習慣的に毎朝毎夕している行動に対して使う言い回しだと思うので「満月」という習慣的になりえない事象に対して使うと違和感があります。

「朝な夕なに月を愛でつつ」ならいいのですが。

でも今回は「満月」であったことが印象的だったのではないかと思うので、「満月」の方を残し、「朝も夕べも」「夕べも朝も」「夕べと朝(あした)に」など、“夜だけじゃなくて朝も見える”ということが分かる一般的な言い回しでいいのではないでしょうか。

また「愛でつつの→身に凍む」という繋がりがちょっとよく分かりません。「愛でつつの睦月の半ば」とかなら分かるのですが。

朝の白い満月の光が冷えと共に身に凍みる、という意味ならば「満月を夕べも朝も愛でており」と一旦切ってしまってはどうでしょうか。

満月を夕べも朝も愛でており冷えもろともに身に凍む睦月

とすると朝にも残る満月が冷えと共に身に凍みているのだなぁと分かるのではないかと思います。

 

6・翼おば開げ閉じたりシンバルのごと鴨三羽音を響かせ(名田部)

「シンバルのごと」という見方はとてもいいですね。楽しげで可愛らしい鴨の様子がくっきりと見えてきます。

ただ「翼おば」という言い方は不自然です。「では拙者、これにて失礼をば致しまする」のような時代劇調の口語が浮かんでしまいます。

「つばさを」では一音足りない~!という苦肉の策だと思いますが、そういう場合は別の言い方を探したり語順を変えたりして試行錯誤してみましょう。その「言葉を探す」連想ゲームのような作業こそが短歌作りの苦しみでもあり楽しみでもあるのですから、そこをじっくり楽しまないと勿体ないです。

「翼」の別の言い方を考えてみる。「翼」「羽」「両翼」「双翼」「片翼」…今回は「両翼」あたりが良さげです。

両翼を開いては閉じ鴨たちはシンバルのごと羽音響かす

鴨が「三羽」であることに特別な意味が無ければ、そこは「シンバルのごと」の印象の邪魔をしないように敢えて詳しく書かない方がいいかもしれません。逆に一羽のメスを巡って二羽のオスがダンスを披露しているように見えたとか、「三羽」であることに意味があるならそこをもっと掘り下げてもいいのかもしれませんが。今回はシンバルを鳴らすように楽しげにしている様子に重点を置きたいので「鴨たちは」くらいの方がいいのではないかと思いました。

 

7・漸うに無量のいのちを煌めかせ夕陽は悠悠消えさりゆきぬ(緒方)

「無量のいのちを煌めかせ」が現物ではない作者の知識からくる情報のため、ちょっと概念的で作者の見た夕陽の様子が読者には「なんとなく」しか見えてこないかなぁと思います。

なんとなく 壮大な 夕焼けを見ている 感じ」というように読者の感想もまたぼやけてしまうのではないでしょうか。

また「無量のいのち」なのに「消え去る」という言葉の選択も適切でしょうか。当然太陽そのものが「消え去った」わけではないことは分かるのですが、言葉のもつ印象というのがありますから、悠久の命を歌いたいのに消え去ってしまうのはどうかなぁと。

幾億年身を燃やしつつ太陽は地球(テラ・ほし)の裏側照らしにゆけり

とか続くイメージの言葉の方がいいのではないでしょうか。

とはいえこれもまだかなり概念的なので、やはりもっと具体的に作者の目に移った光景や体感などで読者を作者の立ち位置に引き寄せて欲しいと思います。

山の端も工場の屋根も朱に染めて幾億年目の夕日が沈む

などの方が小さな視点で歌っているようでいて、読者の目には赤く揺らぐ夕日が悠々と見えてくるのではないでしょうか。

 

8・二株の取り残された青菜から黄の花開き立春近し(鳥澤)

迷うことなく光景が浮かび、春が近いというほっこりとした喜びも伝わってくる良い歌ですね。

「取り残された青菜から」という表現がいいですね。ただ青菜に花が咲いたより「冬を乗り越えた」感が増して、一層ほっこり嬉しく感じます。

直すところは無いと思います。

 

9・真鶴の冬の陽眩しい海に浮くアシカのごときサーファーらを見ゆ(川井)

いいですね。風景がしっかり見えてきます。

黒いウェットスーツを着たサーファーを「アシカ」と捉えたのは秀逸ですね。あの濡れてちょっとぬめっとしたような質感までありありと浮かんできます。

的確な表現なので「ごとき」と喩えにしてしまわず、「アシカとなれる」と断定してしまっていいのではないでしょうか。

また結句の「見ゆ」ですが、「見ゆ」は「見える」の文語ですから、「~~を」に繋がるのは不自然です。「サーファーを見える」とは言いませんよね。「サーファーら(が)見ゆ(見える)」か「サーファーを見る」のどちらかだと思います。

また作者がこの光景を「見て」いると言うと、読者はその光景を見ている作者を想像する立ち位置になり、光景←見ている作者←読者と、間にワンクッション置く感じになります。この客観性が活きる場合もあるのですが、今回は「アシカとなれるサーファーらおり/サーファーがおり」として読者に直接風景を見せてしまってもいいのではないでしょうか。

 

10・忌にこもる私の耳に夫の声「梅が咲いたよ」「満月見えるよ」(金澤)

先月に続き、お母様を亡くした作者による、読者の心を大きく揺さぶる切ない歌ですね。

お母様を亡くされて暗く沈み込んでしまう作者の心を少しでも明るく浮上させようと優しく声をかけてくれるご主人。ヘタに励ますようなありきたりな言葉でなく、今在る明るく美しいものへ意識を向けようとしてくれる。

しかもススキの時は見ないでさっさと行ってしまったあのご主人がですよ。大事な人を亡くして落ち込んでいる作者の喜びそうなものを一生懸命知ろうとしてくれて、探してくれる。素敵な人柄ですね。

 

11・寒の雨やうやく上がり鴇(とき)色の夕映えの中かをる蝋梅(小幡)

鴇は朱鷺とも書くように、鴇色(ときいろ)とは淡く明るい朱色のことです。

冬の雨上がりの夕方の空、そこにふっと香ってくる蝋梅の香。読者も迷わず風景の中へ入れる、綺麗で安定した歌だと思います。

 

12・冬の夜にほうゐほうゐと梟の誰(たれ)を探すかくぐもりて鳴く(畠山)

近所に保護林があるのですが、そこに梟が住んでいるようです。冬の寒い夜に一羽の梟が鳴いていたのですが、その声がなんだか寂しげで、連れ合いを亡くしてしまったのではないかとか想像してしまいました。

夫/妻と書いて「つま」と読ませ、「夫/妻を探すか」としようかとも思ったのですが、独りが寂しくて連れ添ってくれる相手を探すというよりは、長年連れ添った妻を亡くした夫のような感じに聴こえたのでちょっと違うかなぁと。かと言って「亡き妻探すか」とか言ってしまったらそれはさすがに想像が過ぎるだろ、と思い結局「誰」にとどめました。

また「ほうゐほうゐ」と旧カナで鳴き声(オノマトペ)を書くのはおかしいということで「ほおいほおいと」「ほーいほーいと」「おーいおーいと」などにしようと思います。

By PhotoAC ビーチドッグス

◆歌会報 2024年1月 (その2)

第140回(2024/1/19) 澪の会詠草(その2)

 

13・よりによりお元日です震度七テレビ画面は突如暗転(山本)

本当に今回の地震、「よりによって元日に!」という気持ちが強い人は多いのではないでしょうか。

もちろん大地震が起きてもいい日なんてあるわけないのですけれど、元日ってやっぱり何か特別で、この日にこんなマイナスな出来事があると精神的な不安が波及して、迷信でなく日本全体に漂う空気感が悪い流れになりそうな気がしてしまいますよね。二日の飛行機事故もそれを裏付けるようで恐ろしかったです。

歌として気になったところは「お元日」という言い方です。「お正月」とは言うけれど「お元日」って言いますか?私は今まで聞いたことがなかったので違和感があったのですが。

初め「お元日でした」として提出されたのですが八音になってしまうので「元日でした」の打ち間違いかな、と思い訊ねたところ「お元日です」と直されたので、あれ、そっちを切って音数合わせるの?と思ってしまいました。なので「お元日」という言い方は作者が敢えて意図したものだと思いますがどうなんでしょう。やっぱり私は「お正月です」「元日でした」の方がしっくりくるのですが~(笑)。

また「お元日です(でした)」と一旦文章を終わりにしているので次の「震度七」が浮いてしまいます。「よりによりお元日震度七」とすれば「お元日に震度七(の地震が起きて)」という意味になりますし、「お元日です(でした)」で一旦終えるなら、字余りでも「震度七(の地震テレビ画面は突如暗転」として文章を整えるべきかなと思います。

「暗転」を辞書で引くと〈名・ス(スル)自〉となっていると思います。これは「暗転」という言葉自体は名詞で、「暗転す」と動詞「ス(スル)」に続けると自動詞として使うということです。なので「暗転」で終わってしまうと「体言止め」となります。

「よりによりお元日です震度七」「よりによりお元日に震度七」と一旦「震度七」という名詞で切ってしまうと、一首の中に二回も体言止めが出てきてしまうことになるため、どうしても片言感が否めません。

ちゃんと「す・する・した」など「ス」の活用形に繋げてやらないとちょっと尻切れトンボのようで落ち着かない文章になってしまいます。

 

14・プカプカと湯船に遊ぶユズの香の額に汗する優雅な私(小夜)

「ユズの香の額に汗する」というくだりがよく分かりませんでした。

香の額…?香に額はないでしょう?となってしまいます。主格の「の」と読んでも香が汗する…?となってしまいよく分かりません。

また「額に汗する」という言い回しも「労働」に対して使われることが多い表現のため、「優雅な私」とイメージが合いません。ユズの香に包まれながらゆったりと温まり、額に汗をかく場面を言いたかったのだと思いますが、「柚子の香額に受けて優雅な私」として「汗する・汗をかく」という言葉は使わない方が「優雅」になると思います。

またカタカナ表記は「プカプカ」か「ユズ」のどちらかひとつにしましょう。私だったらどちらもカタカナにはしませんが、この作者なら「プカプカ」はとてもこの作者らしい気がするのでカタカナ表記のままとし、「柚子」の方を漢字にした方が合っているのでは、と思いました。

柚子湯、羨ましいですね。柚子の香は大好きですが、料理に使う分を数個買うくらいで、お風呂に入れる余裕はありません。庭に鈴なりの柚子の木がある家とかをいつも羨ましく見ています(笑)。

季節を楽しむ作者の日常が見えて良い歌だと思います。

 

15・大阪城・公園前に子供連れ若いママ達活気に溢れて(戸塚)

3番の歌と同じで、こちらの歌も情景は分かるのですが、その情景に対する作者の感情がもうひとつ見えてこないかな、と思いました。

活気に溢れる若いママさんたちを作者はどういう目で見ていたのでしょう。元気でいいわね、とか私にもこんな時代があったわ、とか「活気に溢れる若いママたち」を見ても色々とあると思うんです。

と訊いたところ、(関東と違って)関西弁で喋る若いママたちの勢いに圧倒された、ということでした。

だとしたら必要な情報は「大阪城公園前(・は不要)」ではなく「大阪弁」の方ではないでしょうか。

また「若いママたち」が「子供連れ」である情報は被りませんか。知り合いでもないのにその人達が「ママ」だと分かるのは子供を連れているからですよね。被る情報はなるべく整理して、他の情報を入れましょう。

「見た・聴いた・触れた」という作者が実際に体験した情報がベストです。

「それ、えぇな」と大阪弁に笑い合う若きママらの声はきはきと

かなり原形とは違ってしまって申し訳ないのですが、私だったらこんな感じで作るかなぁと。私のは想像ですが、作者は実際にその場面を見ているので、しっかりと場面を思い出して探せば、セリフや服装、空気などちゃんと具体的な情報があるはずです。

 

16・竜年の光かがやく初日の出祈り届かず能登震度七(栗田)

こちらも干支の場合は「辰年」の漢字を使ってください。

上の句では「光かがやく初日の出」と初日の出を今まさに見ているような表現であるのに、下の句で地震が起きたあとに時間がぽーんと飛んでしまっているのでちょっと視点に迷ってしまいました。

「初日の出にも」として、光かがやく(希望溢れる感じの)初日の出だったのに、だったけれども、という意味にして「光かがやく初日の出」という情景から「光かがやく初日の出だった」という情報に変え、時系列を整えましょう。

辰年の光かがやく初日の出にも祈り届かず能登震度七

とすれば二文字も字余りにはなりますが、真ん中ですし、字余りよりも時系列のずれの方を気にしたい所ですし、「出祈」と続かなくなるので読みやすくもなると思います。

 

17・大公孫樹黄金の衣装と注連縄を飾り命を育み続く(名田部)

「命を育み続く」という部分が惜しいです。

この部分は作者が見た光景、聴いた音、触れた体感の情報ではなく、作者の中にある知識なんですよね。

2番の歌の項でも書きましたが、人は「現物・具体的情報から感情」はかなり共通しますが、心が読める超能力者でもない限り「感情から現物・具体的情報」は共通のものになりません。

上の句は視覚的情報なので情景がしっかり見えてきていいですね。

大公孫樹黄金の衣装と注連縄を見事に飾りどっしりと立つ・ひたぶるに(一途にの意)立つ・堂々と立つ・さわさわ揺るる・見事に飾る木肌の温しなど作者が見た情報、聴いた情報、触れた情報を探して欲しいです。作者しかその光景を見ていないので、その光景の中から読者に伝えられる情報を探し出すのは作者にしか出来ない仕事です。

 

18・メメントモリ死に真向かえと説かれれば塩辛舐めて冷(ひや)を嗜(たしな)(緒方)

メメント・モリ(羅: memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句です。つまり人は誰でもいつか死ぬし、それは明日かもしれない。だから「平穏や栄華がいつまでも続くと思うな」とか「悔いなく生きよ」とかってことですね。

それを説かれた上で作者が選んだ行動が「塩辛舐めて冷(酒)を嗜む」ということで、これはこの作者にしか歌えない歌でとても面白いですね。

「説かれれば」だけが惜しいと思います。作者らしいと言えば作者らしくもあるのですが、やや皮肉っぽさが鼻につく感じになってしまい、損だなと思います。

「説かれたり」として切ってしまった方が、大きく場面転換して「それで取る行動がこれかぁ!」という個性的な下の句がより活きると思います。

これはこの作者でなければ詠めない歌でしょう。一首目(6番)よりずっと作者の個性が出ていて、とても良い歌だと思います。

 

19・冬晴れの小町通りのざわめきに人力車夫らの英語が混じる(金澤)

人力車夫という肉体労働かつ「日本的・伝統的」を売りにしているような職業の人が、観光業のため英語を使いこなすという、「現代」という時代を感じる面白い歌だと思います。

朱塗りの鳥居が立ち、古めかしい土産屋なども多く並ぶ小町通り(鎌倉)という場所に飛び交う英語。う~ん、時代ですねぇ。

直すところはありません。

 

20・蝋梅の香り広がる玄関は喜ぶ母の声が聞こえる(飯島)

このままだと今現在、存命の母が喜ぶ声が聴こえていると取られてしまいます。

私は作者を知っているので、蝋梅の香が好きだった亡き母の喜ぶ声が聴こえるようだ、ということが分かるのですが、作者を知らない人にもそれが分かる表現にしたいですね。

「母」は「亡母・妣」と書いて今は亡き母であることをはっきりさせましょう。

また「聞く」の漢字は意識して聞く「聴く」の方が合っていると思います。

また「玄関・母の声」と主格を表す助詞が被っていますので「玄関妣の声聴こえてくる」として主役を「妣の声」で確定しましょう。

また「喜ぶ妣の声」「妣の喜ぶ声」でも少しずつニュアンスが違ってくるので比べてみたりしてください。

また「声」と言えば「聴こえる」のは言わなくても分かることですから、その分「喜ぶ妣の声ほそほそと」「妣の喜ぶ声の幽(かそけ)し」「妣の喜ぶ声のかすかに」などどんな感じに声が聴こえるかの情報を入れると更にイメージが鮮やかになると思います。「かすか・ひそか」など形容動詞の「に」を持ってくる場合は「玄関」として「に」被りを防ぎましょう。

しんみりしつつも静かに明るい印象で歌の場面はとても素敵ですね。

 

21・三人の孫が帰って静まりぬ 掃除機の吸うビーズの音よ(川井)

三人の孫が帰ってすっかり静かになってしまった空間に掃除機の吸うビーズの音が響くことで一層お孫さんたちが居た時の賑やかさとの対比を思わせます。

ビーズという具体的な小物のおかげでお孫さんたちの性別や年齢なども見えて来ていいですね。

三人の孫が帰った静けさに掃除機の吸うビーズの音よ

と下の句に続けてもいいですね。

場面も良いですし、何より作者の感想ではなく作者の居た場面をきっちり描いてくれるので読者自身がその場面の中にすっと入れる。そういうとても良い歌が増えたなぁと思います。

 

22・紅白のわにぐち紐の真新しおほつごもりの「お薬師さん」の(小幡)

わにぐち(鰐口)とは神殿や仏殿の前の軒先などにつるす鉦鼓を二つ向き合わせた形の鋳銅製の鈴のことで、紅白の紐がぶら下がっていて、がらんがらーんと鳴らすアレの名称だそうです。

私はそれを知らなかったので「がま口財布」のようなものかしら、と思っていました。お薬師さんで縁起物として売っている、紅白の紐飾りの付いたがま口財布を新しく買い替えたのかと(笑)。

画数は多いですが、「わにぐち紐」でなく「鰐口紐」と一つの名称であることを確定させる表記にした方がそのような誤解が減るかもしれません。「鰐口紐」という一つの何かの名称だとすればそれが何か知らなくとも、手水とか賽銭箱のような何かお寺独特の設備の名称なのかと想像できるような気がします。「わにぐち」だけが平仮名だとアレの名称を知らない人間には「紅白のわにぐち」の紐とも読めてしまうため、私のような誤解が生まれる可能性が高くなる気がします。

また「真新し」の後に空白を入れ、「おほつごもり」を「大つごもり」とした方が読みやすいかと思います。

 

23・朝ごとに色を増しゆく紅葉の山に向かってバス停へ急く(鳥澤)

「朝ごとに色を増しゆく紅葉の山」という表現は良いですね。

読者が少し迷ってしまうのが「向かって」の部分でした。紅葉の山を目的地として(観光や登山に)行こうとしているのか、単に山の方角を向いているのかで結構違ってきてしまいます。

「朝ごとに」とあるのでおそらくは毎日見ている景色で、作者の家からバス停までの道が山に向かっているだけなのだろうと読みましたが、こういう不安定な情報を与える表現には気を付けたいものですね。

「今日は紅葉の山へ行くぞ!」という意思が特にないのなら「山を見ながら」くらいの方がいいのではないでしょうか。

 

24・少女ならきつと絶望したやうなぼこぼこ肌の柚子が実りぬ(畠山)

高校生の頃はひどい肌荒れで、写真に撮られるのも大嫌いでしたし、人前で顔を晒すのも憂鬱でした。あの時代がスマホ時代でなくて良かったと思うと同時に、マスク時代なら喜んで着けていたと思います。

ぼこぼこの果皮の柚子を見て思わずそんな時代を思い返してしまいました。

柚子はそんなこと気にせず日の光を浴びて明るく輝いていましたけどね(笑)。

 

☆今月の好評歌は7番、金澤さんの

葬式の打ち合わせ後のカフェに一人紅茶の湯気は歪んであがる

となりました。

歪んであがる湯気の中に深い深い悲しみが見える歌ですね。

個人的には18番の緒方さんのメメントモリに塩辛を舐める歌もとても個性的で良かったのですが、やはりこの金澤さんの心がぎゅーっと苦しくなるような歌が今月は圧倒的でした。読んだ人の心を動かす「歌」の力を改めて感じた気がします。

by sozaijiten Image Book 13

◆歌会報 2024年1月 (その1)

第140回(2024/1/19) 澪の会詠草(その1)

 

1・新年の初荷寿ぐ半世紀静かに一歩商道という(山本)

新年の初荷を祝う半世紀。静かに一歩ずつ商いの道をゆく。ということでしょうか。「一歩」とあるので「商道という」ではなく「商道をゆく」ではないでしょうか。

また「新年の初荷寿ぐ半世紀」だと俳句のようにその五七五で完結してしまい下の句に意味が繋がりません。「初荷寿ぎ半世紀」とすると初荷を寿ぎながら半世紀もの間、静かに一歩ずつ商道を歩んできた(これからもゆく)。という意味に繋がるのではないかと思います。

ただこの歌自体が具体的な情報が無いので、読者には「長いこと商売しているのね。新年からお仕事なのね。」くらいしか読み取れず勿体ないと思います。

どんなお仕事なのか気になって、頂いた賀状にあった社名で検索してみたところ、実はとても有名なサンドイッチ屋さんでした。

サンドイッチの無人販売所という珍しい形式で、辺鄙な場所にあるにも関わらず一日数回の商品補充時にはお客さんが並び、あっという間に売り切れてしまうという話題のお店です。

「五十年目の元旦も朝から初荷のサンドイッチを並べてゆく作者」とか、「五十年目の元旦にも作者のサンドイッチを求めてくる客がいる」(“なんてありがたいことだろう”という感情自体を言ってしまわない)とか、作者が正に商いの道をゆく行動そのものを出して詠んで欲しいかなと思います。

作者が「当たり前」と思っている日々の行動こそが「作者にしか歌えない」物事です。私には年中無休で半世紀もの間、従業員を抱えつつ経営を維持してきた人間の歌なんてどうあがいても作れません。作者の日常の中にこそ、様々な苦労や責務、やりがい、喜び、信念が含まれているはずです。それを私たち読者にも疑似体験させてください。

簡単な販売や接客くらいしか仕事経験のない私でも、半世紀も会社を維持してきた人の疑似体験ができる…三十一音で。そう考えると短歌ってなんかすごいですね(笑)。

 

2・大山にまっ赤な帽子かぶせ行く暮れゆく夕陽のセンス冴えたり(小夜)

夕焼けを「まっ赤な帽子をかぶせる」と見るところが作者らしい感性でとても良いですね。「まっ赤に染めて」などではこうはいきません。

惜しいのは「夕陽のセンスが冴えている」と作者の感想を言ってしまっているところです。

「センス冴えたり」というのは実際の情景を見た作者の内に湧いた感想(情景→感想)で、感想から正確な情景を思い浮かべるという工程(感想→情景)は実は人には出来ない作業なのです。

どんな夕焼けだったのか、見ていない人にも分かる描写が入ると、夕焼けを帽子と捉える作者のお洒落で独特な個性が見えて良い歌になると思います。

「大山へまっ赤な仕立てのカンカン帽(女優帽・キャペリン・麦わら帽・ベレー帽)お洒落に被せ暮れゆく夕日」などなら雲がそれぞれの帽子のつばのようにかかっているのかなと想像できますし、「大山にまっ赤な帽子をすっぽりと被せて沈む夕日のセンス」などならつばのない帽子で山自体が赤くなっているのかな、と具体的に思い浮かべられますよね。

感想から情景といえば、昨今の映画宣伝でありがちなのですが、観終えた人が「面白かった~!すっごい迫力があってね。最後は切なくて泣いちゃった~!」と言われてもどんな内容なのか全然見えてこないのではないでしょうか。あれで「この映画見てみたい」となる人の気持ちが私にはサッパリ分かりません。それよりも知りたいのは分かりやすい「あらすじ」や「世界観」「人間関係」、作品の象徴となる一場面で、そこが自分の興味と合致すれば「見てみたい」となるのですが。

あの感想を言わせる系CМは、内容で勝負できないから「流行ってる」と思わせることで「流行に弱い・行列好き・みんなと一緒じゃないと不安」という日本人的心理に訴えかける手法だと思っています(笑)。

 

3・大阪に「鵲森の宮」神社あり聖徳太子縁の小さき社(戸塚)

「ふむふむ……で?」となってしまうのは、「鵲森(かささぎもり)の宮」という神社に対する作者の感情がほとんど見えてこないからではないでしょうか。

大阪の中心地に小ぢんまりとしながらもまだ残っているのかという驚きなのか、聖徳太子という有名人ゆかりの神社なのにこんなに小さいのかというちょっと寂しいような気持ちなのか、作者はこの神社にどういう感情を抱いたのかが知りたいところです。

また本来七・五である所に「かささぎもりのみやじんじゃあり」では多すぎます。「宮」といえば神社を指しますから「鵲森の宮のあり」でいいのではないでしょうか。

また本来七・七である所も「聖徳太子(七音)」「縁の(四音)」「小さき社(七音)」と完全にオーバーしてしまっているので、これも整えないといけません。こちらも「太子」といえば本来の意味は皇太子のことですが、一般的には「聖徳太子」の事を指しますから「太子ゆかりの」でいいのではないでしょうか。

「小さき」は僅かながらも作者の感情が出ている部分なのでここは外せないと思います。こここそが感情なので「太子ゆかりの社の小(ち)さし」としてしまってもいいかもしれません。

「大阪に鵲森の宮はあり」「大阪に鵲森の宮残る」「大阪の鵲森の宮へゆく」「大阪は鵲森の宮のあり」「大阪の鵲森の宮へ立つ」など少しでも作者の感情が表せそうな言い方がないか探してみてください。

 

4・裸木のメタセコイヤの細枝に光り集めて竜年始め(栗田)

メタセコ」と呼ばれることも多いようですが「Metasequoia」と書くので「メタセコ」が正しい表記だと思います。

また干支としての「たつどし」の表記は「辰年」です。午(うま)年、申(さる)年なども馬年、猿年とは書かないですよね。元々農業に関わる意味を持つ、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥という漢字が先にあり、動物は後付けなのです。

さて「細枝に光り集めて」というと、「集る」は他動詞なので、何か(誰か)が光(名詞として使う場合送り仮名の「り」は入れない)を集めていると読みます。作者が?辰年(概念)が?冬の空気が? となってしまうため、「細枝へ光あつる」と自動詞にして「光」を主役にした方が迷わずに情景を思い描けると思います。

また「光あつまる(連体形)辰年始め」「光あつまり(連用形)辰年始め」でも違うので比べてみてください。前者は「光があつまる辰年の年始(という時間)」、後者は「光が集まり、辰年始め(を祝う・象徴する)」という意味合いになります。

 

5・ヤビツ峠」六十年ぶり友と行き山小屋はなく茶屋が建ちなん(名田部)

六十年ぶりに実際に友と「行った」んですよね?

だとしたら結句の「なん(なむ)」は誤用です。「なん(なむ)」は推量ですからまだ起きていないこと、まだ見ていないことに対し使う言葉です。

「茶屋が建つだろう・建ってしまうだろう」という意味になるので、作者はまだ出かける前で、六十年ぶりに友と行くヤビツ峠に山小屋はなく茶屋が建っているだろう、と想像していることになってしまいます。

六十年ぶりに友と行ったヤビツ峠には山小屋はなく、茶屋が建っていたという意味ならば「茶屋が建ちおり・茶屋が建ちたり」などではないでしょうか。

また「友と行き(連用形)」とすると「行き、どうした」という結果に当たる終止形の言葉が必要になります。「友と行く」と終止形にして一旦切ってしまいましょう。

また実際は六十年ぶりだったのだろうと思いますが、音数を考えて五十年ぶりにしてしまってもいいのではないでしょうか。この「五十年」と「六十年」の十年の差はこの歌に於いて意味的にはさほど大きくなく、「ウン十年というとても長い歳月が経った」という一番言いたい意味は変わりませんから、歌としては音数を合わせた方が読みやすいと思います。

 

6・鈴懸けの枯れ葉ふりつむ冬ざれや幾枚の葉の梢(うれ)にすがれり(緒方)

「鈴懸(すずかけ)」に送り仮名の「け」はいらないと思います。

冬の寒々しい風景が浮かびますね。文法も正しくちゃんと場面が思い浮かぶのですが、やや大人しいというかあまり作者の作者らしさ(個性)は見えてこない歌かなと思います。

見せ方によっては問題にもなってしまうのですが、やはりこの作者にはいつもの「蓄積された知識」が見える歌の方がより作者らしくて面白いと思います。

この作者の個性が一番現れる所が「知識」に紐づくため、読者に一般以上の知識を求めないスタイルである短歌としては出し方がとても難しいと思うのですが、それ(知識)が上手く出た歌には強い個性がありとても面白いと思います。

怒られない綺麗な歌を目指すのではなく、怒られ覚悟で個性的な知識の出し方を模索していって欲しいなぁと思います。

 

7・葬式の打ち合わせ後のカフェに一人紅茶の湯気は歪んであがる(金澤)

年末にお母様を亡くされたとのことで、心よりお悔やみ申し上げます。

今までも介護の歌などをいくつも詠まれてきましたね。そんな献身的に尽くされてきた作者ですから、この時の作者の気持ちは相当に辛い、悲しいはずです。

けれど敢えてそれをぐっと抑えて淡々と情景を描写したことで、逆に「辛い・悲しい・寂しい」などととても一言では言い表せない悲しみを読者の中にも湧かせました。

葬式の打ち合わせの時はやらなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことなどが押し寄せて泣いている暇もないのですが、打ち合わせが終わって一人でカフェに一息吐いたりしたらもう、抑えられていた分思い出がどんどん押し寄せて来るのではないでしょうか。それでもカフェ(人前)で大泣きするわけにもいかない。

「歪んであがる」湯気に作者の感情がぎゅうーっと詰まっていますね。読者も胸がぎゅーっと苦しくなって目の前が滲んでしまうのではないでしょうか。

 

8・裸木のメタセコイヤはどっしりと頭上の月と語るかに立つ(飯島)

こちらも「裸木のメタセコイヤ」。一瞬、あれ、さっきこの歌書かなかったっけ?と思ってしまいました(笑)。そしてこちらも正式表記は「メタセコ」だと思います。多分発音的には「ヤ」の方が近いと思うんですけど、表記としては「ア」ということで、何だか口語(ヤ)と文語(ア)みたいですね。

こちらの歌はメタセコイアがより主役となっていますね。どっしりと頭上の月と語るかのように立っている。いいですね。頭上の月と語るかのようにというややメルヘンチックな見立てですが、想像に寄りすぎていることもなくしっかりと情景が見えてきます。

このままでもいいですが、メタセコイアの主人公感や「どっしりと」という表現から、「メタセコイア」としてより強くしてもいいかもしれません。

 

9・そら青く空気動かぬ正月の住宅地に聴くヒヨドリの声(川井)

「空気動かぬ正月」という表現はとても良いと思います。上の句でこれだけ的確に場面が構築されているので、逆に結句(主役)であるヒヨドリの声がさらっと流されてしまったのが惜しいと思います。チョイ役で出した脇役が予想外にいい演技をしてしまい、主役を食ってしまったような感じ(笑)。

「住宅地に聴く」の部分をヒヨドリの声の具体的な情報に変えてみてください。

「宅地に鋭きヒヨドリの声」「正月をピィーッと切り裂く鵯の声」など。具体的な表現が上手い作者なのできっとぴったりの言葉を見付けてくれるはず。

 

10・二グラム超えの紙をはられて三日後の玄関先にコトンと手紙(小幡)

「えーっ、たった2グラムなら届けちゃってよ!」とか思っちゃいますよね。重量オーバーで戻ってきてしまった手紙にがっかりする作者ですが、このままではややがっかり感はあるものの「こんなことがあった」という報告で終わってしまうかもしれません。

もっと「がっかり」を表す情報があれば…。

二グラム超えの紙をはられて三日後にクリスマスカードがことんと戻る

とかなら「三日後」の意味も大きく変わってきますし、作者のがっかり感もより確実に伝わるのではないでしょうか。文字数やカタカナを考慮して「誕生カード」などにしてしまってもいいかもしれません。

 

11・夜嵐に吹き溜められし落葉たち朝の日浴びてもふもふしている(鳥澤)

結句の「もふもふ」という捉え方がいいですね。ただ結句なので「もふもふしてる」と音数を整えましょう。表記的には「してる」が正しいのですが、「もふもふ」という表現とも合いますし、ここは口語で「もふもふしてる」の方がしっくりくる気がします。

またそうすると余計に上の句の「吹き溜められ」という遠い過去を表す文語表記の「し」が悪目立ちしてしまいますので、「吹き溜められた落葉たち」「吹き溜められて落葉たち」とした方が良いと思います。「て」の方が「落葉たち」に魂が入るような気もしますね。

また「朝日浴びて」「朝日浴びて」「朝浴び」の部分も考えてみてください。

落葉たち(が)という主格の助詞が省かれているため、「朝日浴びて」「朝の日浴び」とこちらにはしっかり助詞を入れた方が読みやすいかもしれません。

 

12・辰年に龍は背中を痛めをり背びれの能登がずきずき疼く(畠山)

「元旦に」という印象が強いと思いますが、あれだけの大災害ですから「辰年に」と言えば「元旦」は自然と思い浮かぶのではないかと思い、どちらも「よりによって」という意味合いを含みますが「辰年に龍(と見立てた日本列島)」「元旦に大地震」を比べた結果「辰年に龍」を取ることにしました。

私は震度2くらいでもビビる大の地震嫌いなので、かなり前から「強震モニタ」というアプリを利用しているのですが、震源地には×印がつき、揺れの度合いにより日本地図が赤や黄色に染まって揺れの波及や範囲が一目で分かる優れものでオススメです。東日本大震災の時もこれのおかげで今起きた地震がどの程度の規模なのか(まだ大きくなるのか)、恐ろしい音で鳴る緊急地震速報誤報かどうかもすぐ分かり、精神的な助けになったので、スマホをお持ちの方は入れておいて損はないと思います。

元旦もその強震モニタが鳴って画面を開いたところ、能登を中心に日本列島が赤く染まり「これはヤバい地震が起きた」と思いました。

その後も幾度となく警報が鳴っては赤く染まり、まるで龍の背中に矢でも射られたかのように見えました。何度も射られて血を流しながら痛い痛いと震える龍。

とはいえ強震モニタを見ていない人に「矢を射られたようだ」と言っても伝わらないと思い「背中を痛めた」とし、余震が繰り返すことを「ずきずき疼く」としました。「ずきずき痛む」としたかったのですが、「背中を痛め」と被ってしまうので「疼く」としました。

まだまだ続いている余震。現地の方は心休まらない日々が続いていることでしょう。一日も早く余震が減って心身を削る不安な環境が落ち着きますように。

 

By NIED防災科学技術研究所 強震モニタ(画像は2024/01/09のもの)