◆歌会報 2026年8月
第166回(2026/8/21) 澪の会詠草
1・野薊が絮毛纏いて其処此処に深夜に見えし夏、エトセトラ(渡辺)
野薊(のあざみ)が綿毛をまとうという、季節を特定できる具体的な対象の表現はとても良いですね。
ただ「其処此処に」「深夜に」とあるので、「其処此処に」の「に」は「其処此処にある/見える」という省略された述語に繋がり、「深夜に」の「に」は「深夜に見えし(見えた)夏」と繋がり、どういう時系列なのかなと迷ってしまいました。
更に「夏、エトセトラ」。訳せば「夏、などなど」? ちょっと分かりませんでした。「夏のふとした一場面」的な意味なのでしょうか。
それにしても作者が野薊の綿毛を見てどう感じたのか、良い印象なのか悪い印象なのかも分からないので、まずそこが分かるような言葉が欲しいところです。
野薊の綿毛って綿の部分が弾けたようになっていて、丸くて柔らかい印象を受けるたんぽぽの綿毛と違って、荒々しいというかはっちゃけたような感じがするんですよね。それを元気に弾けるような夏が来たなぁと捉えるのか、深夜の暗がりに白く浮き上がる様子がちょっと不気味だと捉えるのか。
作者は深夜に見た綿毛にもっと迫って、作者の目からはどのように見えたのか、そこをしっかり描いて欲しかったかなと思います。
作者が深夜に白く浮かび上がる野薊の綿毛をどう見たかで、その時の作者の心理が見えてくるのではないでしょうか。
野薊が絮毛を纏いゆらぁりと白く浮き立つ夏の深夜に
其処此処に弾けておりぬ野薊の絮毛白々深き夜にも
2・ネジ花を摘みし手の先むっくりと流れゆく雲夏を惜しむかと(小夜)
「摘みし手の先」と過去のことを思い描いているのに「流れゆく」と現在の述語に繋がっているのでちょっと時制で迷ってしまいます。
また普通花を摘む時には目線は下に行きますよね。でも下に行った目線の先に雲が流れるって、どういうことなの?と思ってしまいます。
また「むっくり」ってむくむくと湧き上がる雲で、流れる感じはしないんですけどどうでしょうか。「ゆっくり」なら流れると思いますが。
私はネジ花を摘んでから夏空にかざすなどしたのかなと思い、
ネジ花を摘みて掲げる手の先へ夏の終りの雲むっくりと
と自然に視線が上へ移動する表現(掲げる)を入れてみたらと思ったのですが、実は作者は高台にいて、花を摘んだ手の先(下)に雲が流れていたとのこと。とはいえ、花を摘むという行為はせいぜいが腕の長さの先のことで、相当な崖っぷちでもない限り、角度的に目線の先には花と土があり、特殊な場所(高台)であることの説明なしに空や雲を持ってくるのは無理があるのではないかと思います。
しかもその(作者が高台にいる)場合、一番言いたいのは眼下を流れる雲の方で、「花を摘んだら」というのは「眼下に流れる雲の景色(主役)に至るまでの順序の説明」であって、完成の絵の中で花の役割は低く、高山植物(高山にいるという象徴)でもない限り花を出す意味がないと思います。
山頂に見下ろす雲のゆっくりと夏惜しむごと流れてゆきぬ
でも「夏を惜しむ」というのはあくまでも作者の想像(決めつけ)で、読者に作者の感想を押し付ける形になってしまうので、読後の印象としてちょっと弱いと思います。
歌としてはネジ花を活かして掲げて(視線を上にして)しまい、「惜しむ」とか言ってしまわない方が良いと思います。読者自身に作者が与えた風景の中で「あぁ、夏ももう終りかぁ…」と感じて貰うと印象に残る歌になると思います。
3・猛暑日で雨戸閉じれば西窓の熱きガラス戸被災地如何に(栗田)
本当に暑くて、こんな時期に停電でエアコンの使えない被災地の状況を思うと如何に大変であろうかと心配になる気持ち、よく分かります。
ただ短歌では、「で」は「に」にする習慣を付けましょう。
またこのままでは述語がないため文章として落ち着きません。「窓」と「ガラス戸」は同じものですから、ガラス戸の方は削ってもいいのではないでしょうか。
また「閉じれば」というと、作者がハッとした場面に至るまでの説明になってしまいます。
猛暑日に雨戸閉じてもなお熱き西窓の先の被災地思う
と場面に至る説明ではなく、今(ハッとした時)の熱い窓の説明にするか、「雨戸を閉めようとしたら」などという説明自体を捨てて、
西窓に火傷しそうな猛暑日の被災地未だ停電と聞く
4・観劇の前に娘とカフェに食む非日常のフレンチトースト(金澤)
「非日常のフレンチトースト」がいいですよね。
「非日常の」って六音なんですけど、「ひ・にちじょうの」って自然と「・」の部分で一拍入れて読む言葉なので違和感もないですよね。
「ホットドッグ」や「サンドイッチ」では非日常感がなく、絶妙なお洒落感もない。「おしゃれな」や「特別な」「気取った」などでなく「非日常の」としたことで出てくるいつもとはちょっと違うちょっと贅沢な時間の感じ。
「非日常の」「フレンチトースト」はまさに絶妙な組み合わせだったのではないでしょうか。
「観劇の前」というのも、その“いつもとはちょっと違うおしゃれで贅沢なひととき”の理由を迷うことなく想像できる背景で言うことなしです。
5・夕立の名残りを留むにわたずみ庭の中程ちんまりとあり(緒方)
にわたずみ(潦)とは、雨が降って地上や庭にたまり、あふれ流れる水や水たまりのことです。
この歌では景色は見えてくるのですが、その景色や小さな水たまりを残した夕立に対して作者がどういう感情を覚えているのかがあまり見えてきません。
また「留む」とすると終止形なのでそこで文章は切れてしまいますが、「留め」と連用形にするか(留めて/、を省略)、「留める/留むる」と連体形にして「にわたずみ」にかけ、上の句と下の句を繋げて一文にしてしまった方がいいのではないでしょうか。
また上の句が俳句のようになってしまわないように、うまく下の句に繋いだ方がいいと思います。
俳句と違って短歌は下の句の七七が印象に残る核となる場合が多いので、上の句の五七五で俳句のように完成してしまうと、核であるはずの下の句が付け足しのようになって軽くなってしまいます。
上の句で場面の説明(場面に至る説明ではないことに注意)をし、下の句で感情が分かるような言葉を選べるとバッチリですね。
夕立の名残り留めて(留むる)にわたずみ庭の中程へ涼やかに(しずもりて)あり
「ちんまりと」では状態は分かるのですが感情が分からないので、感情(夕立が過ぎてほっとしているのか、爽やかな気分なのか、最近の夕立は激しいと不安な感じなのかなど)が分かりそうな言葉を探してみて欲しいと思います。
「留めて+しずもりて」だと「て」重なりになってしまうので、その辺り(組み合わせ)は色々と調整してみてください。
6・湧きあがる白雲の際くっきりと絵日記のごと夏空の青(鳥澤)
上の句の「白雲の際くっきりと」という描写は迷うことなく映像が浮かんでとても良いと思います。
ただそれに比べると「絵日記のごと」という喩えが今一ゆるいかなぁという印象です。
絵本とか絵葉書ならまだ分かるのですが、絵日記でそんな際くっきりとした白雲と青空の描写します? 絵日記ってさらっと描くものでそんなきっちり塗り分けるイメージじゃないんですよね。
また上の句で白雲を鮮やかに想像したのに、結句で急に主役が青空の方になってしまっていて、そこも勿体ないなと思います。
湧き上がる白雲の際くっきりと夏空の青を押しのけて立つ
夏空の混じりけのなき青の前白雲湧き立つ際くっきりと
など、「夏空の青」は背景に回して白雲を主役にしてみてはどうでしょうか。
絵日記や絵本などは人それぞれがなんとなくそれなりのイメージを持つ言葉ですから、やはり作者の目で見たそのものを具体的に描写できれば、と思います。
7・庭先を忙しなく飛ぶしじみ蝶幼き頃の子供を重ね(川井)
まず「子供」とは誰なのかで悩みました。作者が子供だった頃を指すのか、作者のお子さんのことなのか。
聞いてみたところ作者のお子さんとのことで、それなら「娘(こ)ら(絶対迷わない)」や「子ら(絶対ではないけどまぁ多分大丈夫)」として迷わないようにして欲しいですね。
また結句は「重ね」では連用形でしっかり終われないので、「娘らを重ねる」と終止形にしましょう。敢えて連用形で流す場合でも「重ねて」と「て」が必須です。
また「娘ら」と複数形にすれば「忙しなく」でも二匹(頭)の蝶がくるくるともつれるように飛んでいる様子を想像してもらえると思いますが、「もつれつつ飛ぶ」「掛け合う二頭の」などとするともっと具体的に場面が見えてくるかもしれません。
庭先をもつれつつ飛ぶしじみ蝶に幼き頃の娘らを重ねる
庭先へ掛け合う二頭のしじみ蝶に幼き頃の子らを重ねて(“みる”を省略)
8・人が皆熱気に溢る盆踊りいかの串焼き三本買いて(名田部)
これも二句で「溢る」と終止形にして文章が切れてしまっていますが、連体形(溢るる/溢れる)にして「盆踊り」にかけた方がいいでしょう。
また5番の緒方さんの項でも書きましたが、上の句が俳句のようになってしまわないように、三句に字余りでも助詞を入れて下の句に繋いだ方がいいと思います。
俳句と違って短歌は下の句の七七が印象に残る核となる場合が多いので、上の句の五七五で俳句のように完成してしまうと、核であるはずの下の句が付け足しのようになって軽くなってしまいます。
上の句で場面の説明(場面に至る説明ではないことに注意)をし、下の句で感情が分かるような言葉を選べるとバッチリですね。
さて、今回の「いかの串焼き三本」という個数の具体ですが、以前の「からあげ十五個」と比べると感情を表現するのに必要な表現ではないように思えます。
「十五個」だと読者は「そんなに沢山!?」という驚きから、その裏にある“作者のワクワク感”を読み取るのですが、「三本」ではそこまでの驚きがないというか作者のワクワク感を感じ取れないからです。まぁ一人でイカの串焼き三本だと思うと結構多いとは思いますけどね(笑)
それよりも熱気に溢れる祭りの会場で、作者もその熱気に交じって、さぁこれから祭りを楽しむぞ!まずはイカの串焼きからだ!というかたちにした方が断然ワクワクできるんじゃないでしょうか。
人が皆熱気に溢れる盆踊りにまずは買いたりイカの串焼き(祭りにワクワクしているプラスの感情)
ただ実際は祭りを楽しまず、あら夕飯に丁度いいわとイカの串焼きを買ってさっさと帰ってしまったとのことですが、それでは詩(情緒)がなく、ただの行動記録になってしまいます。ここは創作でもワクワクさせて欲しいところですね(笑)
もしくは人々は盛り上がってるけど、それを横目にさっさと帰ってしまったというちょっと捻くれた寂しさのようなものを詩とするなら、そこをしっかり描写しないといけません。
盆踊りに独りイカの串焼きを買いて熱気の会場を去る(若い頃とは違って祭りの熱気を楽しみきれない寂しさ)
また「いかの串焼き」でももちろん間違いではありませんが、「イカの串焼き」と表記した方が品名として分かりやすいのではないかと思います。屋台の垂れ幕などでは大きく二文字で「いか」と書いてあるのを見かけますが、品名としては「イカの串焼き」表記の方が一般的だと思います。見た時に「イカの串焼き」と食材としての「イカ」の部分が孤立していた方が見やすいからだと思います。短歌的には減らせるカタカナは減らしたい場合が多いですが、今回はカタカナの方が読みやすいかもなぁ、と。
9・恃みたるレトルト粥もポタージュも匙をおく夫よ明日は立秋(小幡)
「恃む(たのむ)」は意味としては「頼む」とほぼ同じです。が、「恃む」の方がより一層「頼みにする、頼りにしている、拠り所とする」という意味合いが強めかなと思います。
年齢と気候によりすっかり食欲がなくなってしまった夫に、これならば食べられるのではないかとすがるような気持ちで用意したレトルト粥やポタージュといった口当たりの良いもの。それさえ匙を置いてしまうという夫。心配という言葉では表しきれない心配と切なさですよね。
明日は立秋ということで、これから少しずつ涼しくなって夫の食欲が戻ってきてくれますように、という思いと、明日は立秋だというのにまだまだ暑くて増す不安と、両方の思いが結句の中にあるのかなと思います。
四句「匙をおく夫よ」と八音にして助詞を入れていますが、この「を」は省いても意味が通るので、今回は「匙おく夫よ」と音数を優先してもいいのではないでしょうか。
10・母が逝き五十日もとうに過ぐ今日も伸びたる我が爪切りて(畠山)
うちは神道式なのでいわゆる四十九日はなく、行事としては五十日祭というものがあります。まぁ四十九日とほぼ変わらず、この段階で納骨や葬儀の返礼などをして“葬儀に一区切りがつく”時期となります。
仏教も神道も一日違いでほぼ同じ日数なのは面白いですね。人間大体共通してそのくらいの時間で心理的に落ち着く、ということなのでしょう。
我が家でもとりあえず五十日で納骨などを済ませましたが、後日爪を切っている時にふと母の爪はもう伸びることがないのに、私の爪は日々伸びている、母の時間は止まったのに私は着々と生きて五十日以上も経過しているんだなと思い、何とも言えない気持ちになりました。
「五十日」より「四十九日」の方がより一般的で分かりやすいのではということで、確かに「祭」まで入れないなら断然そちらの方が分かりやすいので「四十九日」にします。それほど宗教的なこだわりもないですし、何より四十九日の方が音数も合いますし(笑)
11・文月尽満月照らす地震跡自然の恐怖心挫ける(渡辺)
文月(ふづき/ふみつき)は七月のことです。尽(じん)はその月が尽きる日のことで基本的には各月の晦日(みそか。最後の日。12/31は最後の月の最後の日なので大晦日)を指しますが、まぁきっちり最後の日じゃなくても月末辺りを指すのに便利な言い回し(〇月末と同じ意味)です。
作者は七月末の熊本の地震の報道を見て、満月が照らすその悲惨な光景に恐ろしさを感じたのだと思いますが、「自然の恐怖に心が挫ける」と概念的な感想でまとめてしまってはいけません。これでは誰もが思う一般的な感想で終わってしまい、作者ならではの視点がありません。
満月に照らされる地震跡が作者の目にはどう見えたのか。そこが大事です。
停電していて満月の光がより際立っていたのかもしれません。崩れた城壁やひしゃげた家屋、爆発して灰に包まれたスーパーなど、地震跡といっても色々映されたと思いますが、どの場面で作者はより一層衝撃を受けたのでしょうか。そこをもう一度思い返してみて、より詳細に描写してみて欲しいと思います。
12・ドクダミに心のうちを見透かされ群れなす白をつぶさに潰す(小夜)
「心のうちを見透かされ」が、作者にしか分かっていない内容なのでこのままでは伝わらないかと思います。
今回、多くの人はこれを「どうせ暑さに負けて草むしりしないでしょ」と見透かされたと捉え、伸び放題に伸びたドクダミを「えぇい!私がサボると思ったら大間違いだ!ドクダミめ!」と暑い中一念発起して草むしりをする作者、と読んだようです。
私はそうではなく、「つぶさに潰す」という結句から、ドクダミの花の白さが美しくて、でもその白さ(美しさ)が少し汚れている(と感じている)自分には眩しすぎて、悔しいような苛立ちを覚え、妙な嫉妬心で白い花を踏み潰す場面を想像しました。
聞いたところ、どちらかというと私の解釈に近かったようで(草むしりではなかった)、それならば花の表記も「ドクダミ」より「十薬」の方がいいのではと思います。花も白くて美しいし、十薬などと皆を癒す万能の効果持ちとか、なかなかに嫉妬したくなりません?
十薬の白が我には白すぎて群れなす白をつぶさに潰す
一首に何度も同じ文字(白)が出てきてしまいますが、意味としてはそんなに被ってないかな、と。
十薬のつややかな白眩しくて群れなす花をつぶさに潰す
13・ミステリの最終回はワープして東野圭吾遥かな星へ(栗田)
ミステリ作家の東野圭吾さんの訃報に際しての歌ですね。まだ若く、あまり表舞台に出てこられない方だったこともあり、突然、と感じた人も多かったのではないでしょうか。
その突然と感じた驚きが「ワープ」、瞬間的に移動することとして表現されたのかと思いますが、「ワープ」というとミステリというよりSF的な用語なので東野圭吾という作家にぴったりなのかな、というところで少し迷いました。
「ミステリ」か「ワープ」かどちらかに絞った方がいいのではと思います。
ミステリの最終章は突然に 東野圭吾遥かな星へ
人生の最終回はワープして東野圭吾は遥かな星へ
14・若者の間すり抜けペタペタと横須賀線のビーサンの児ら(金澤)
「ビーサン」が「ビーチサンダル」の略だとパッと分かる人の割合は歌会では半々くらいでした。意外と認知度が低いようなので、略さず使う工夫をした方がいいかもしれませんね。
歌の核は海に近い横須賀線近辺に住む地元民らしい子供たちの振る舞い、といったところでしょうか。
日焼けしてビーチサンダル履く児らが横須賀線の車内を走る
横須賀線ビーチサンダル履く児らが大人すり抜け我が物顔に(ゆくを省略)
15・アガパンサスの語源はアガペー成程ね娘は得意げに携帯翳す(緒方)
これはまた緒方さんの悪い癖が出てしまったかな、と思います(笑)
まず「アガペー」と聞いてすぐ意味が分かる人がどれだけいるでしょうか。ビーサンですら半々だったのに(笑)、このまま読んですっと「成程ね」と思える人はまずいないと思います。読者に過度な知識を求めず、読んでそのまま歌の世界に入り込める場面作りをお願いします。
またこの歌では語源に「成程ね」と思った場面(娘さんが言っていますが、作者も成程ねと思ったからこその場面なのでしょう)と、娘さんがスマホでちゃちゃっと難しいことを調べてしまう現代的な場面への驚きと感心という二つの感動がむりやり一首にまとめられてしまっていると思います。
そこにやはり無理が出てしまっているのかな、と。
アガパンサスの語源は「アガペー」ギリシャ語に愛の花とう意味を持つらし
ちょっと削れないカタカナが多すぎて水甕には出せないと思いますが、これなら「アガペー」の意味をいちいち調べなくとも、読者も「へー、なるほどね」と思えるのではないでしょうか。とはいえ、これは知識が一つ増えたという「へー」だけで、歌の内容に共感した「へー!」ではありません。“語源に愛という意味を持つ君子欄が今作者にはどう見えるのか”ということで歌えれば詩が出てくるかもしれません。
また何でもスマホでちゃちゃっと調べてしまう現代的な娘さんの風景に関しては別で詠んでみてください。
携帯を翳し忽ち花の名の語源突き止む娘(こ)は得意げに
16・酷暑ですヤンバルの森を逃げていた沖縄の民の夏をば思う(鳥澤)
3番の栗田さんの被災地を思う歌のように、あまりの暑さに戦時中の沖縄の人(栗田さんの場合は被災者)はどんなにか大変だったろうと思いを馳せる内容ですね。
ただ初句の「酷暑です」という表現に引っかかる人が結構いました。
「ヤンバルの」から始めてみてはどうでしょうか。
ヤンバルの森を逃げてたあの夏の沖縄の民を思う酷暑に
やんばるの森へと逃げし沖縄の民を思いぬ酷暑の盆に
「逃げてた」は「逃げていた」の「い」抜き言葉の口語で正確な言葉遣いではありませんが、音数を優先してみました。
17・照りつける陽射し撥ねつけ青青と庭のあら草いつまで青し(川井)
上の句で草の青さがしっかりと描写されているので、結句の「いつまで青し」が効いていますね。
この猛暑の中でもあまりにも力強く生き生きと伸びる雑草に、もはや草むしりなど対処する気力体力もなく、「おまえら、いつまでそんな元気に青々としているんだ」と肩を落として、恨めしいような羨ましいような気持ちで見ている作者。
容易に場面が想像でき、感情も共感できる良い歌ですね。
18・初めての「ガリガリ君」を頬張れば咽元涼し買物帰り(名田部)
「初めての『ガリガリ君』」という具体が効いていますね。「ガリガリ君」の認知度はビーサンよりずっと高く(笑)、ほぼ皆知っていました。すごい。
効果的だったのは「ガリガリ君」という品名がどこか子供向けなイメージを持つからで、そこに作者とのギャップを感じ面白いと思ったからです。これが「ハーゲンダッツ」とか「雪見大福」とかだと具体的な品名でも別に面白くないんですよね。「ガリガリ君」だからこそそれに初挑戦する作者が微笑ましく見えたわけです。
というわけで「ガリガリ君」という子供向けをイメージさせるアイスに、八十歳を過ぎた作者が初挑戦するという場面が良いわけで、そこに「買物帰り」という情報は必要ないので削ってしまいましょう。その代わり作者の年齢はまず欲しい情報ですし、更には味や食感などの情報が欲しいところ。
初めての「ガリガリ君」はソーダ味八十歳の咽に冷たし
初めての「ガリガリ君」をシャクシャクと頬張り帰る八十歳(はちじゅう)の夏
後者は29字になってしまいますが、「」は結構詰めて貰えるので水甕(27字まで)でもぎりぎり許容されるかもしれません。
19・鮎まつり花火大会なき夏をひたすらに鳴く街灯の蟬(小幡)
あまりの猛暑に、厚木恒例の夏の花火大会が今後は秋(十月)に開催されることとなりました。
コロナ禍の終り頃に一度十月開催になったのですが、十月でも日中は十分暖かく、日が暮れるとぐんと涼しくなり、丁度昭和の夏のようで「もう毎年十月開催でいいんじゃないの」と思った記憶があります。
やはり最近の夏は暑すぎるのでしょう。日中から準備するスタッフや、大量に押し寄せる客など、熱中症の危険性が高すぎる行事となってしまっていました。
つまりヒトにはもはや暑すぎる夏。そんな厳しい夏だけれど、蝉にとっては今、この夏しかありません。どんなに厳しくとも、今この夏、子孫を残すためにひたすらに生き、鳴くしかない。切ないですね。
「街灯の蟬」はもう少し動かせるかもしれませんね。私は夜になって少し気温が下がってきたので(本来なら昼に鳴く習性なのに)暗い中街灯に張り付いて鳴いているのか、と取りましたが、もっと分かりやすく厳しい暑さや時間帯を想像させる言葉があるかもしれません。
それにしても一生懸命鳴いて卵を産んだかもしれない土地にどーんと建物が建っちゃったりして。切ない。切なすぎる。
何だか愚かな人間どものせいでごめんなさい、という気持ちになります。
20・片付ける母の遺品もあと僅か 連太鼓の音とほく聴きつつ(畠山)
物が多すぎて、最初は全く終りが見えない片付け作業でしたが、夏祭りへの連太鼓(れんだいこ)の練習の音が聴こえる頃、ようやく何とか終りが見えてきたかな、という。
「連太鼓」か「太鼓連」かで迷ったんですよね。「連太鼓」は演奏法などのことで、「太鼓連」は集団のこと。内容的には「太鼓連」なんですよね。でも途切れずに繰り返し続く音とすると連太鼓という気も。でもやはり「太鼓連」の方がいいような気がしてきました。
とんつくとんつく遠くに響く太鼓の音を聴いて、母が倒れたのは冬、転院先などを探して駆け回っていたのは春だったのに、もうお祭りの季節かぁ、となんだかしみじみしました。
実際はまだ全然「あと僅か」じゃないんですけどね(笑)
まだまだ片付けに通わないとならないのに、歌会の翌日足首を捻挫し、しばらく行けなさそうになってしまいました。特に段差もない場所で挫いたのが心理的にも痛かったです(笑)
歌会のあとって気が緩むのか、よく体調を崩したり怪我したりするんですよね。
皆様も歌会に出席されるだけでも結構消耗することと思われますので、くれぐれも無理せずお大事になさってくださいね。
☆今月の好評歌は18番、名田部さんの
初めての「ガリガリ君」はソーダ味八十歳の咽に冷たし
(修正後)となりました。
八十歳を超えて「ガリガリ君」に挑戦し、この猛暑にも楽しみつつ生きる作者像が見えてきて良い歌ですね。
4番金澤さんの「非日常のフレンチトースト」、17番川井さんの「あら草いつまで青し」の歌も好評でした。
次回澪の会は9月18日第三㈮ 12:30~厚木アミュー607です。
参加予定の方は9月4日までに詠草二首をお送りください。
尚、最近の九月はまだまだ猛暑が予想されるため、無理をなさらず、体調に少しでも不安があればお休みください。








