短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」としているものはその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとしますので、原作者の方のみご自由にお使いいただけます。

◆歌会報 2026年10月

◆歌会報 2026年10月

 

第168回(2026/10/16) 澪の会詠草

 

1・平穏な日々の暮らしにふとよぎる一人の旅路どちらかが先(大久保)

内容はとてもよく分かりますよね。今は何の気なしに平穏な日常を送っているけれど、いつかはどちらかが先に逝ってしまう。そのことを考えると寂しくなってしまう。

気持ちもよく分かりますし、共感もできる、形も定型に沿っていて十分な出来だと思うのですが、欲を言えば「平穏な日々の暮らし」をもっと絞って、具体的な行動や場面にすれば、更に印象に残る歌になったのではないでしょうか。

皿洗い、買い物、掃除、食事、散歩。何をしている時、何を見た時にふと“いつかはどちらかが先に逝ってしまうのだなぁ”と感じたのでしょうか。

“当たり前の日常”であるほど、その当たり前が壊れてしまう寂しさを想像して、読者も作者と同じ不安を実感できるような気がします。

 

2・目覚めればカーテン揺らし涼風が昨夜の暑さ連れ去りて秋(栗田)

窓を開けたまま寝ていたそうです。自然の風を感じられていいのかもしれませんが、昨今は色々と治安が悪化しているので、ちょっと不用心かもしれません。

でも歌的には良い場面ですね。昨夜までは窓を開けて寝るほど暑かったのに、一晩で急に秋を感じる風に変わっていた驚き。

四句、字余りでも「昨夜の暑さを」と助詞があった方が読みやすいような気がします。

 

3・二度迄も浸水被害遭いし友「元気出して」と絵手紙に添え(渡辺)

千葉に住むお友達でしょうか。今年は雨が多く、あちこちで浸水被害が出ましたね。

先月は戸塚さんも地震被害に続けて水害に遭ってしまわれた友人を心配する歌を詠んでおられましたね。心配だけど相手の負担を考えると電話もできない、ということで、渡辺さんもその辺りも考慮しての絵手紙なのかな、と思いました。

歌としては、「浸水被害遭いし友」の部分に助詞がないので、少々読みづらい気がします。

「二度迄も浸水被害に遭う友へ」としてはどうでしょうか。

 

4・八十三さい介護生活一割なり情けなくも楽もわりての(山口)

多分磨けば光る核(内容)だと思うのですが、ちょっと日本語として難があり解釈が難しい作品になってしまいました。

まず「介護生活一割」というのは“介護保険により介護サービスの利用料が一割負担になった”ことなのか、“今まで自分一人で出来たいた生活の内、介護サービスに頼ることが一割になった“のか。

そして結句の「楽もわりての」。「情けなくも」ということは、「情けなく思うけれども、~~」と逆説になるので、「楽もありての」なら「情けなく思うも、楽もあるなぁ」とも読めるので、書き間違いかなぁと思ったのですが、どうも作者的には「わりての」で正しいらしい。するとどういうことが言いたいのだろうとかなり悩んでしまいました。「情けないけれど、楽も割られる」? だったら「情けなくも苦も割われたり」(情けないけれど、辛いことも割られるからまぁ仕方ないか)なのかなぁ、とか。

このまま読むと、大抵の人は「わりての?」と疑問に思いつつも、介護サービス負担料が一割になったから利用するようになって、情けないけれどもやっぱりちょっと楽になったなぁ、と読む人が多いのではないでしょうか。

しかし説明を聞くと、週に2~3回の介護サービスを受けるようになり、その日は家に居てヘルパーさんが来るのを待っていなければならないので、自由な楽しい行動も減ってしまった、ということらしい。

歌としてはこちらの方が断然深みがあるわけで、これをしっかり形にしたいですよね。

とするとまず「情けなくも」と逆説にしてはおかしいですよね。作者の心情的には「情けないけれども」という逆説ではなく、「情けない上に(更に)」という“列挙”として使用したのでしょうか。

ただ「あれもこれも」のように列挙として使う場合の「も」は“名詞”に付きます。動詞(走るも)や形容詞(悲しくも)などに付くと逆説となり、「走るも間に合わず」(走ったけれども間に合わなかった)や「悲しくも笑う」(悲しいけれども笑う)というように「~だけれども」と前の言葉を打ち消す意味になります。

また「楽(らく)」とすると、介護という言葉があるので「楽しみ」という意味ではなく「楽になる」という意味で取られる方が殆どだと思うので、これは「自由」とした方がいいのではないでしょうか。

生活の一割介護に頼る今自由の一割削られており

一割を介護に頼る生活に自由を一割支払いており

など、“生活の一割を介護に頼る”ということと、“自由(楽しみ)も一割減ってしまった”ということが分かる文章にすると、目の付け所(核)はとても良いので良い歌になるのではないでしょうか。

 

5・長雨の下がる気温に猛暑日の汗ぬぐう日々を懐かしく想う(川井)

長雨ですっかり下がってしまった気温に、辛かったはずの汗を拭うような暑い日々を懐かしいとまで思ってしまう。

喉元過ぎればなんとやら(笑)、私も毎年この感情を繰り返しています。夏は冬の寒さを懐かしく思い、冬は夏の暑さを懐かしく思う。

ただ深い思い入れのある場面を思い出しているわけではないので「想う」はちょっと大げさで「思う」でいいのではないでしょうか。

また気持ちは共感できるのですが、「下がる気温に懐かしく思う」という繋がり方に違和感がありました。

「長雨に気温の下がり」(長雨に気温が下がって懐かしく思う)とした方が自然ではないでしょうか。

また四句が「汗ぬぐう日々を」だと八音ですが、ここは「汗拭く日々を」「汗ぬぐう日を」など七音に整えられる気がします。

結句も「懐かしく思う」では八音なので「懐かしみおり」「つくづく思う」など工夫次第で七音に整えられると思います。

長雨に気温は下がり猛暑日の汗拭く日々を懐かしみおり

 

6・爺様の座ろうとするに茶髪の男(こ)素早く割り込みスマホを弄る(緒方)

一昔前は“寝たふり”でしたが、最近はスマホ見て知らんぷりが増えましたね。しかも一般席ならまだしも優先席とか、怒鳴り込みたくなる場面も。

トクリュウや闇バイトなどもそうですが、最近若者の凶悪化が目立ちますね。凶悪化というより、少子化でしっかり教育された礼儀正しくとても優しい子とヤンキーあがりがそのまま親になって親共々まともに教育ができていない子との二分化が激しくなった気がします。地域(社会)単位で子育てをしなくなり、各家庭の教育レベルがそのまま子供に出るというか。成人するまでは親(保護者)が子供の犯した犯罪などに全ての責任を負うような法律にでも変えないと、今のままでは悪いことした者勝ちの社会になってしまいそうですよね。

さて歌としてですが、「爺様」というのが、客観的に見ているよその老人なのか、自分(作者)のことなのかで迷い、客観的なら「年寄」とかの方がいいのでは、と思ったのですが、何度か読んでいるうちに、これは「爺様=自分をやや揶揄」していることにしてしまい、このままの形で自分事としての歌として見た方が面白いのではないかと思いました。

 

7・完走の夫をたたえて好物の枝豆ゆでる塩は多めに(金澤)

結句の「塩は多めに」がいいですよね。

ただ「完走」で少々迷う人もいるかもしれません。マラソンなどの実際の運動のことなのか、人生の完走(退職、退院など)なのか。私は枝豆+塩を多め(塩分補給)ということで、塩分補給を気にする暑い時期でそこそこの距離を走る競技(マラソン)なのかなと想像しましたが、迷う人もいると思います。

因みにマラソンではなく、トライアスロンだったそうです。すごい。

ただ「たたえて」は必要かな、とも少し思いました。

「好物」の枝豆を「塩を多め(塩分補給を気遣って)」にしている時点で「たたえる」と言ってしまわずとも作者の夫をたたえる気持ちは分かると思うんですよね。その分トライアスロンを(マラソンを、クロスカントリー)終えた夫に好物の~と競技名を入れてもいいかもしれません。これで「完走」に対する迷いは完全になくなります。

マラソンなら音数も丁度いいのですが、トライアスロンやクロスカントリーだと音数的にはだいぶはみ出してはしまいます。が、初句なのでまぁギリギリいけるとは思います。音数を外してでも競技名を入れる効果があるかどうか。悩むところではありますが、ただのマラソンよりも何だか若々しくて汗が飛沫くようなハードなイメージは湧くと思うので、印象としてはかなり効果的とも思います。音数を取るかイメージを取るかは考えてみてください。

 

8・友当る商品券が二千円余興楽しき祭りの夜よ(名田部)

友人が祭りの余興で商品券を当てたことを我が事のように喜び祭りを楽しむ作者。

内容はいいのですが、文法的には少し問題があるかなと思います。

「友当る」は正しく助詞を入れると「友が(主語)当る(述語)。」ですから、「友が当る。」と「商品券が二千円(分である)。」と二つの文章になってしまいます。

「友」が主語なら「友が商品券に当る」もしくは「友が商品券を当てる」。

「商品券」が主語なら「友の当てた商品券が二千円(である)」「商品券が友に当る」などとならないとおかしいと思います。

二千円の商品券を友当てる余興楽しき祭りの夜よ

また先に場面が祭りであることを出してしまうと読者も想像しやすいかもしれません。

祭りの夜(よ)商品券を二千円くじに当てたる友と楽しむ

 

9・塀際に苔の緑がふっくらとひかりて育つ九月の長雨(飯島)

「ふっくらとひかりて」という描写がいいですね。人には辛い長雨ですが、湿気を好む苔植物は生き生きと育っている様子がよく見えてきます。またそんなに立派に育つほど、長雨が続いているということも分かりますね。

なので、ここを結句に持ってきた方がより良くなるのではと思いました。

また苔が緑なのは言わなくても分かると思うので(他の色に見えたというのなら作者独自の見方なので省けませんが)、「緑」は省いてしまっても、読者が思う映像は変わらないと思います。

長雨の続く九月の塀際へ苔ふっくらとひかりて育つ

 

10・やまそまる茜の空に鳥飛び交いて秋の朝焼け輝いて眩しい(新ケ江)

最初下の句を「秋のあぼのめずらしき朝」として投稿されたので「あけぼの」の打ち間違いかなと思って確認をしたところ、「秋のあかつき」に直され、更にその後「秋の朝焼け」に直され、更に最終的に「秋の朝焼け輝いて眩しい」とされました。

うちは澪の会という小さな会なので直前でなければ結構修正もききますが、基本的には一度投稿したらその後の修正はできないので投稿前に確認をお願いします。

さて歌の内容ですが、秋の早朝の美しい景色を詠まれたものと思います。ただ三句(鳥飛び交いて)が七音になっていたり、「輝いて眩しい」だと結句は九音になってしまうので、形としては最初の「秋のあけぼのめずらしき朝」の方が良かったのでは、と思います。

それでも三句の問題が残るので、

やまそまる茜の空に鳥たちの飛び交う秋の朝の眩しき

などとすれば音数も合い、見えてくる景色も「山・染まる・茜・鳥・秋・朝・輝く」という構成要素があればあまり変わらないのではないでしょうか。

ただ、景色は見えてくるのですが、作者がどういう感情でその景色を見ているのかがこのままではちょっと分かりません。

美しい朝の光景に生きてて良かった~とかやる気が満ちてくるとか、プラスの感情が湧いているのでしょうか。でももしかすると逆に景色はこんなにも美しいのに作者の中にはマイナスの感情があって、美しい光景を見て逆に内なる寂しさなどマイナスの感情が際立ってしまっているのかもしれませんよね。その辺りが見えてくるといいなぁと思うのですが、まずは定型に近付ける工夫をしてみましょう。

 

11・秋雨の音に紛れて蟬が鳴くこの一日がつくづく惜しいと(畠山)

今年は本当に雨が多く、九月に入ってもずっと雨続きでしたね。なので、雨が降っているからと鳴くのを休みにしてしまっては、短い蝉の命が何もできずに終わってしまう。そんな危機感があるのか、今年は雨でも頑張って鳴いている蝉の声が時折聞こえてきました。

ただこの結句の「つくづく惜しい」は「ツクツクホーシ」の鳴き声にかけていて、そこがちょっと(いやかなり)作為的でいやらしいかな~という気はしています。

2025年6月に渡辺さんが、四十雀の声がスキスキスキと聞こえるという歌を詠まれ、私もそれを読んでから「スキスキスキ」にしか聞こえなくなったんですが(笑)、それに比べると今回実際に聞こえた音を文にすると「ツクツクオーシ」であって、かなり私の想像が入っちゃっているなぁと。

まぁ非常に作為的ですけど、意外と気付かなかった人もいるようなので、ここはもう作為全開にして

秋雨の音に紛れて法師蟬この一日がつくづく惜しいと

として、しっかり作為に気付いてもらおうかと割り切ることにしました(笑)

 

12・難解な古典なれども音読の楽しさを知る集う仲間と(大久保)

難しい古典を音読する会を楽しくやっているんだな、というところまでは分かるのですが、読者からするとまだ作者が遠くにいる感じです。

まず「難解な古典」が何なのかを具体的に出した方がいいのではないでしょうか。

また、「音読が楽しい」のか「仲間と学ぶことが楽しい」のか、核をどちらかに絞った方がいいと思います。

難解な「平家物語」を少しずつ歌うごと読めば裡(うち)に沁み入る

少しずつ「平家物語」を読み解きて語り継ぐ会ほのかに楽し

なんだか、ワクワクキラキラと如何にもな楽しさじゃないのだけれど、しみじみほわっとじわりと楽しい、そんな感じじゃないのかなと思って「ほのかに」にしてみましたが、もし賑やかな感じが楽しかったりするようでしたら、そこは変えてみてください。

これで“古典を音読する会を楽しんでいる作者”を遠くから眺めるかたちでなく、読者自身が作者の中に入って「平家物語」を音読している状態や会を楽しんでいる状態になれると思うのですがどうでしょうか。

 

13・桜木のバッサリ伐られて鈍色のそら広々と工場を覆う(栗田)

工場(こうば)に沿うような並木の桜でしょうか。バッサリと伐られてしまい、それまで枝葉で見えなかった空が広々と見えるようになり、どんよりと暗い鈍色(にびいろ)の空が工場を覆っている、そんな場面かと思います。

空が鈍色ということで、桜が伐られてしまって残念だという作者の気持ちも伝わってきますね。

「そら広々と」より「空が広々」の方がいいのではないでしょうか。

また「広々と覆う」という組み合わせにやや違和感も。広々と広がる、重々と覆うなどなら分かるのですが。

桜木のバッサリ伐られて鈍色の空がおもおも工場(こうば)を覆う

桜木のバッサリ伐られて工場(こうじょう)の上に広がる鈍色の空

 

14・雨戸開け風が運びし金木犀噎ぶ香りに秋の深まる(渡辺)

雨戸を開けた今運ばれてきた香りですから、「風が運べる金木犀」ではないでしょうか。

また「金木犀。」で切ってしまわず、字余りでも「金木犀の」と助詞を入れて下に繋げた方がいいのでは、と思います。

また「香りに秋が深まる」ってどうなのでしょう。「香りに」とくれば、本来は「香りに秋の深まりを(作者が)感じた」というのが正しいのではないでしょうか。そうすると雨戸を開けて香りに噎ぶまでは作者が主語なのに、結句だけ主語が変わってしまっている(作者が→秋が)ので何だか混乱してしまいますね。

雨戸開け風が運べる金木犀の香りに噎ぶ秋の朝(あした)は

雨戸を開けると同時にぶわっと入ってくる金木犀の香りに噎ぶという場面が出来れば、読者も十分秋の深まりを感じられるのではないでしょうか。

 

15・絵 短歌 そば打ち等捨てきれないで学ぶ吾絞りなさいと介護土は言う(山口)

さすがに定型をオーバーしすぎていると思います。音の数的に、「絵 短歌 そば打ち等」までが初句となりますから、本来五音にしなければならない初句で十音! これは無理ですね。

また空白は場面が転換する時、どうしても一息入れたい時に使うものなので、羅列する時は「、」を使った方がいいと思います。

また「介護土(つち)」となっていますが、「介護士(し)」の打ち間違いかと。

絵、短歌、そば打ち全て捨てきれぬ吾に絞れと介護士の言う

とすれば十分定型で作者の言いたいことは言えるはず。

いつも言いますが、内容(視点、題材の絞り方)はとても良いんです。あと少し、言い換えたり語順を変えたりと、言葉を探して歌の形に仕上げる作業にも力を入れていただけたらと思います。

そして介護士が何と言おうと、趣味は絞らずに全部続けた方がいいと思います(笑)

 

16・バス停に烏瓜持つご婦人と花の話題に駅まで揺られ(川井)

烏瓜(からすうり)を持つご婦人、ということで季節感もありますし、「ご婦人」ということでちょっと上品で柔らかい感じの女性像が浮かんできますよね。

烏瓜をきっかけに作者が声をかけたのでしょうか。そのまま花の話題で盛り上がり、仲良く駅までバスに乗って行った和やかな場面が浮かびます。

気になったのは「バス停に・話題に」という「に」重なりと結句の「揺られ」という連用形でしょうか。

ただ結句の「揺られ」はこの場合「バス停・駅まで」という言葉があるので「揺られて行った」という続く意味に迷うことがないので、今回は連用形で流していいのではないかと思います。

「に」の方は「バス停の」でいいのではないでしょうか。「花の話題に」の「に」の方が変えられないと思うんですよね。変えるとしたら「で」なんでしょうけど、「花の話題で」って「で」にすると急に世俗的になるというか(笑)。

「バス停にいたご婦人」という思いで「に」にしたのかと思いますが、「バス停のご婦人」でもご婦人がバス停なわけはないんですから、意味としては「バス停の所にいたご婦人」ということになり、結果的に意味は変わらないと思います。

 

17・無垢の眼にほほえみ返す赤ん坊性悪説の正否のぐらつく(緒方)

性悪説(せいあくせつ)とは古代中国の思想家荀子(じゅんし)が説いた思想で、人間は本来的には悪(利己的)であり、教育や法律によって善となるよう矯正しなければならないというものです。

作者は基本的にはこの性悪説支持者なのですが、赤ん坊の無垢な目で笑い返す様子に「本当にこの無垢な赤ん坊の中に悪の種が入っているというの?」とその信念がぐらついてしまったという。

私も性悪説派ですし、歌の場面もよく分かります。しかし「正否がぐらつく」と言ってしまっていいのでしょうか。それは作者が出した答え(ぐらつくこと自体が)であって、読者自身に「性悪説が正しいの?ほんとに?」という疑問を持たせるところで止めておいた方が、より赤ん坊の無垢な目を前にした作者の位置に近付けるのではないでしょうか。

無垢の眼にほほえみ返す赤ん坊 性悪説を唱えしは誰

性悪説なんて言い出したのは誰だっけ。この無垢な目を見てよ。それって本当に正しいの? という疑問が読者の中から湧くのではないでしょうか。

もしくは、「赤ん坊の無垢な微笑みに私の中の性悪説がぐらつきました」という形ではなく、「私の中の性悪説をぐらつかせるほどの赤ん坊の無垢な微笑みよ」という形にすれば報告感が薄まるのではないでしょうか。

と言うより、更に言えば「無垢」というのは非常に概念的な言葉です。例えば「無垢」を絵に描いて下さいと言われても「無垢」そのものに決まった形があるわけではありませんから、描けませんよね。描くとしたら作者が「無垢」と感じた具体的なものを描かなければならず、この場合微笑む赤ん坊の顔を描くはずです。そして「無垢」を表現するためには大きく潤んだ黒目などに注目して描くのではないでしょうか。

そこを描ければ「ぐらつく」も実感として伝わるはずです。

赤ん坊の大きな黒目を潤ませた笑みにぐらつく性悪説が

 

18・雨音とコオロギの声混じりあい重き夜へと深く沈みぬ(金澤)

上の句はとてもよく情景が浮かんでいいのですが、下の句がちょっと概念的で分からないかと思います。

「重き夜」からは、何となく陰鬱とした夜なのだなということまでは分かるのですがそれ以上は見えて来ません。

悩みの内容までは明かさずとも、何だか寝付けない様子などを具体的に描写できれば、と思います。

 

19・初めての烏賊墨パスタこくのあり二人御歯黒可笑しきランチ(名田部)

名田部さんの「初めての食」シリーズ第二弾(笑)。作者の挑戦や驚きが素直に表れていて、良いと思います。

今回は烏賊墨(イカスミ)パスタということですが、友人と二人で「うわぁ、歯が真っ黒よ、お歯黒みたい」と笑いあっている場面がとても楽し気で良いので、そこに「こくがあった」という味の描写は要らないと思います。

またよく食レポでも耳にするこの「こくがある」というフレーズですが、正直「濃厚かさっぱりかで言えば濃厚な方」くらいしか得られない情報だと思います(笑)。実際に食べたことがない人には全然想像がつかないという。

私はイカスミパスタを食べたことがないので表現しようがないのですが、どんな感じなんでしょうね。魚介っぽい香り?塩気は?苦味は?

もし味について書くなら、それを食べたことがない人にも想像がつくような具体的な情報を探して欲しいと思います。

ただ今回は味については置いておいて、「お歯黒だ~!」と笑いあっている場面を中心に描いてみましょう。

初めての烏賊墨パスタに友と二人御歯黒となる可笑しきランチ

初めての烏賊墨パスタに友と二人揃って御歯黒可笑しきランチ

 

20・ほととぎす、秋海棠に秋明菊、秋雨の中けなげにも咲く(飯島)

秋の庭草の様子ですね。ただ「けなげ」が少し概念的かなとも。

長雨で徒長してしまいひょろひょろと細くなりながらも懸命に咲いている様子だと思うのですが、「けなげ」ってかなり作者の主観が入った言葉だと思うんですよね。

また「秋明菊」と「秋雨」は並列ではないので、ここの「、」は要らないと思います。

ほととぎす、秋海棠に秋明菊続く秋雨に打たれて咲きぬ

ほととぎす、秋海棠に秋明菊ひょろりと細く秋雨に咲く

 

21・枯れ葉落つ庭に倒れし檜扇やぬばたまの実に万葉めぐらす(新ケ江)

庭に倒れた檜扇(ひおうぎ)の実(=ぬばたま)を見て「ぬばたまの~」を枕詞とする万葉集の歌などに思いを巡らしているという場面でしょうか。

ただ、上の句必要?と思ってしまいました。特に初句。「枯れ葉落つ」だと「枯れ葉が落ちた。」とここで文章は切れてしまい、「枯葉の落ちた庭」のように「庭」にはかかりません。庭にかけるなら「枯れ葉落つる庭」「枯れ葉落ちた庭」「枯れ葉散る庭」などかと思いますが、そもそも場面的に「枯葉の落ちた庭」である意味があるのかな、と。

主役は「ぬばたま」だと思うので、もっと「ぬばたま」の情報を厚くしてもいいのではないでしょうか。

また「万葉」というと多くの草木のことや、長い年月のことも意味するので、「万葉集」とか「万葉の歌」とか意味に迷わない表現にした方がいいと思います。

檜扇の風に倒れてぬばたまの黒き実に思う万葉の歌

雨ののち庭へ零るるぬばたまの黒き実に巡る万葉の歌

 

22・実家へと通ふ道辺に聴こえくる蟬のいつしか秋虫となる(畠山)

車で片道一時間ちょっとかけて実家へ片付けに通っているのですが、途中に通る切り通しの道では車内に居ても両側の樹々から虫や鳥の声が聞こえてきます。

夏にはそれが蝉の声だったのに、足を挫いてしばらく通わなかった内に気付いたらコオロギなどの秋の虫の声になっていて、もうそんなに時間が経ったんだ、とふと実感しました。

ただこのままでは誰でも歌える歌の域を出ていないんですよね。その秋の虫(コオロギ)の声が私(作者)には“どう”聞こえたか。そこを書かないといけないんですよね。なのでこの歌はあまり良い例ではないと思います。

これに続けて

日の落ちて帰路に聴きたる蟋蟀の声きりきりと寂しさ穿つ

と詠んでいて、こちらの方を出すべきだったかなとは思うのですが、歌会は「良くできた」と思う歌よりも不安のある方を出して、どこが分かりにくいのかなど、皆さんの意見を聞きたい場だと思うので、敢えてよりダメっぽそうな方を出すようにしています(笑)

皆さんもどの歌を歌会に出そうかなと迷ったら、より迷いのある方を出してみてくださいね。で、水甕や新聞など外部に投稿する時は修正をして、一番良くできたと思う物を出すようにしてください。

 

◆◆◆新コーナー 紙上(ブログ上)歌評コーナー◆◆◆

歌会に出して皆の意見を聞いてみたい!けど日程が合わない!体力的に無理!という方(いるのかな?)のために、一首だけのちょい歌評コーナーを作ることにしました。

今回は以前愛甲公民館で歌会をしていた頃に入会してくださったけれど、その後お身体を壊されて歌会への出席が難しくなってしまわれた渡辺Eさんにお願いしてみました。

渡辺Eさんはもうベテランで「水甕」でも一番上の同人欄に居られる方なので、私がなんやかんや書くのもおこがましいかなとも思うのですが、やっぱり他人の目で見て貰うと自分では気付けなかった点とか結構出てきますし、読んで貰えたという実感があると嬉しいですしね。

私も自分のために始めたブログですが、「読んでますよ」とか何かしら反応があるとやっぱり嬉しいし、正直書くのが面倒くさいと思う月もあるのですが、読んでくれる人がいるなら書かなきゃ、と継続の力になっています。

 

23・秋の日に牡丹の蕾枝先に葉っぱ落として春を待ちおり(渡辺E)

牡丹は秋に蕾が作られ、冬を越して春に大きく膨らむんですよね。来年の開花に向けて冬を迎える準備を始めた牡丹の蕾の様子。場面も絞られてよく見えてきますね。

気になるとすれば「枝先に」でしょうか。蕾が枝先に付いているのは当然で「枝先に」がなくとも思い描く絵は変わらないと思うので、その分「ふっくらと・はつかに尖り・まだ固く・ほのかに紅き」など、形や質感、色などの情報を具体的に入れてみてはどうでしょうか。

また「枝先に」だと、「葉っぱを落として春を待っているのは誰か」という迷いも生じてしまいます。牡丹自身が枝先に蕾を付けて冬を迎える準備として不要な葉を落として春を待っているのか。それとも牡丹の蕾が枝先に付いたのを見て作者が剪定して(葉を落として)やって春を待っているのか。

そうすると上の句と下の句で主語が変わってしまう危険性があるんですよね。

なのでそういう迷いが起きない為にも「牡丹の蕾」を主役にしてその具体的な描写で上と下を繋げた方がいいのではないかと思います。

 

☆今月の好評歌は16番、川井さんの

バス停に烏瓜持つご婦人と花の話題に駅まで揺られ

となりました。

烏瓜という季節感ある具体とご婦人という表現から見える上品で柔らかな女性像がしっかりと映像として浮かび、花の話題をともにしながらバスで揺られてゆくというとても和やかな世界に入ることができました。

7番金澤さんの枝豆塩は多めにの歌、19番名田部さんの烏賊墨パスタにお歯黒の歌も好評でした。

 

次回澪の会は11月20日第三㈮ 12:30~厚木アミュー605です。

参加予定の方は11月6日までに詠草二首をお送りください。

急に寒くなり体調を崩される方が増えています。インフルエンザも流行っているらしいので、体調に不安がある時は無理せずお休みください。

 

◆新コーナー紙上歌評への投稿希望の方、いらっしゃいましたら詠草一首と解説(歌会で直接伺えないため、どういう場面を歌ったものか簡単な解説をお願いします)をatugimioあっとgmail.comまでお送りください。

迷惑メール防止のため、お手数ですが「あっと」の部分を「@」に変えてお送りください。

By PhotoAC わっかのたんぼ

 

 

 

◆歌会報 2026年9月

◆歌会報 2026年9月

 

第167回(2026/9/18) 澪の会詠草

 

1・サークル後お茶を飲みつつ問われけり「生まれは戦前戦後なの」かと(大久保)

おそらく作者は戦前(昭和20年の終戦より前)生まれかなどと聞かれたのは初めてで、少なからずショックを受けたのだろうと思います。

先月、歌会には欠席されたため扱いませんでしたが、同じ場面を詠んでおられました。

老い集う茶のひと時に問われけり「生まれは戦前・戦後なの」かと

私としてはこちらの方が、場面が分かりやすかったかと思います。

まだ若い人に言われたのか、お年寄りに言われたのかでも随分違いはありますよね。まだ若い人に言われたのなら「若い人から見ればある程度歳くってたらみんな一緒に見えるのかしら」という思いが湧きそうですし、お年寄りが多い環境ならば“挨拶というかいつもの話の流れ”であって、作者が老けて見られたというわけではないような気がします。

でも「サークル」だと色々ありすぎて、どういう人たちの集まりなのかが見えてきません。「老い集う茶のひと時」なら“戦前か戦後か迷うくらいの人が多い人たちの集まりで、そういう問いが日常茶飯事なんだろうな”と想像できますよね。

また「問われけり」というと伝聞になってしまい、自分の事なのに「問われたようだ」「問われたらしい」と他人事のようになってしまいます。「問われり」なら「問われた」となりますが、音数を考えるとここは「問われたり」ではないでしょうか。

また会話文を「」で括るなら「「生まれは戦前戦後なの」と」か「「生まれは戦前戦後なのか」と」と、「(会話文)」のすぐ後には”と”だけが来ないと不自然だと思います。今回は「」を付けなくても会話文だということは分かるので、「」を取ってしまった方がいいと思います。

老い集う茶のひと時に問われたり生まれは戦前それとも戦後と

老い集うサークルにまず問われたり生まれは戦前戦後なのかと

老い集う茶会に問われぬお生まれは戦前戦後どちらかしらと

など、同じ場面でも少しずつ変えたりして一番しっくりくるものを探してみてください。

 

2・夏の終り装いあれこれ選びいて茶道仲間と楽しバイキング(戸塚)

多分、茶道仲間と行くバイキングのために「何を着ていこうかしら」とウキウキしながら衣装選びをしている場面を歌いたかったのではないかと思いますが、このままだと文法的に少しおかしいかな、と思います。

まず「選びいて」というと「選んでいて」、「楽し」というと「楽しい。」ですから、「装いをあれこれ選んでいて茶道仲間と楽しい。バイキング」とバイキングが文章の中で完全に浮いてしまいます。

「楽しいバイキング」とバイキングにかけるなら「楽しい」の「い」は抜いてはいけません。ただ「楽しいバイキング」としても「服を選んでいて、楽しいバイキング」とすると時系列が合わないので、

夏の末友と約束のバイキング 装いあれこれ選ぶ楽しさ

夏の果て茶道仲間の食事会へ装いあれこれ選ぶ楽しさ

など、バイキングが楽しいのではなく、「未来のバイキング(食事会)のために服を“選んでいる今が”楽しい」という形にして時系列を整えましょう。

戸塚さんは着物や洋裁の歌も多く、お洒落ですから、衣装選びにウキウキしている様子が見えてきて場面はとてもいいと思います。

 

3・出迎えに蝉仰向けに転がりて取りて放てばサッと何処へ(栗田)

ちょっと“場面へ至る説明”が長くなりすぎてしまったかなと思います。

一番言いたかったのは「仰向けで死んだと思っていた蝉が飛び立った(生きていた)」ことではないでしょうか。

とすると「出迎えに」という説明はまず不要だと思います。

また「転がりて」「取りて」「放てば」など動詞が立て続けに三つも並んでしまい、どんどん動画になって場面が絞れません。もう少し動詞を絞ってみましょう。

仰向けに転がる蝉を手に取ればさっとどこかへ飛んでゆきたり

仰向けの蝉を掬えばたちまちにジジッと飛び去る余力のありて

 

4・黄色旗玄関前にぶら下げて安全確認訓練に行く(山口)

作者の行動は分かるのですが、作者の気持ちが見えてきません。どういう気持ちで訓練に行ったのでしょうか。もしくは訓練に行くことでどういう気持ちが湧いたのでしょうか。

しっかり手順通りに訓練に参加する人が減ったなぁ(または増えたなぁ)とか、訓練は訓練のままであって欲しいなぁ、など、何かしら訓練に対する作者の“思うところ”が見えてこないとただの記録で終わってしまうと思います。

また「黄色い旗」と言っても全国共通の認知度のあるものではないので、どういう意味を持つものなのかが分かるようにしたいですね。「黄色い旗」と「ぶら下げて」という言葉から想像するのは小学校の登下校の見送りのイメージの方が強いような気がします。

訓練へ参加の旗を玄関へ掲げ今年も避難場所へと

ささやかですが「今年も」を入れたことで、毎年堅実に訓練に参加している作者の姿と、そこから(毎年真面目に参加するけど)訓練は訓練のままであって欲しいなぁという気持ちが少しは見えてこないでしょうか。

 

5・カーテンに初秋の風の添う朝(あした)かの人偲ぶ夏の雲ゆく(小夜)

上の句はとても良いですね。優しい風がそっとカーテンを揺らす朝の様子が見えてきます。

けれど上の句で「初秋」と言っているのに下の句で「夏の雲」というのはどうなんでしょう。意味は分かるんですよ。風はもう秋を感じさせるものに変わっているのに、まだ雲はもくもくとした夏雲なんですよね。

でも言葉として一首の中で重ねてしまうのはどうかなぁ、と。雲の方は「白き/厚き/薄き/綿雲」など季節の入らない言葉に変えてはどうでしょうか。

また「かの人」も亡き母とか歌の師など、絞れるなら絞ってしまった方がいいのではないかと思います。

 

6・昭和より三つの時代生き延びて残る余生も平和であれと(渡辺)

「生き延びて」という表現で意見が割れました。

私は「生き延びて」というくらいだから平和になった昭和後期生まれではなく、まだ戦後の大変な時代を経験したんだろうなぁ、と思い、それだけに一層平和を望む気持ちが強いのではないかと取ったのですが、戦地に行ったり空襲に遭ったりなど、実際に命の危険を感じたのではないなら「生き延びる」という表現は強すぎると感じる人も結構いました。

確かに「余生も平和で」ということは今までも平和であったとも取れる表現ですから、このままだと少し強く感じてしまうかもしれませんね。実際この「も」は「今」に対しての「も」だとは思うのですが。

また字余りでも「三つの時代を」と助詞が欲しいところ。

昭和より三つの時代を乗り越えて余生も平和であれよと願う

昭和より三つの時代を生きて来ぬ残る余生も平和であれよ

 

7・傘を持ち雨を気にする旅始め新幹線に黒雲流れる(川井)

「旅始め」と「新幹線に黒雲が流れる」という表現で少し迷いました。

「旅始め」は新年になって初めて旅行に出ること、またはその旅立ちの日を意味する言葉なので、「ある旅の始めの頃」を指す言葉ではなく、頭に思い浮かぶのは“まだ寒い冬や春に、さぁ旅行に行くぞ”という風景になってしまうのです。なので雪を気にするならしっくり来るのですが、雨を気にするとちょっとしっくり来ないというか。特定の季節や場面を作り上げてしまえる季語にならない言葉の方がいいのではないでしょうか。

また「新幹線に雲が流れる」とすると乗っている新幹線に対し雲が流れてきている(突入している)ようなイメージになってしまいませんか。「に」の意味として、「新幹線に黒雲を見る」なら“新幹線に(乗って)黒雲を見る”という意味になるのですが、「新幹線に黒雲が」とすると“新幹線に(向かって)黒雲が”となってしまいますよね。

おそらく、折角の旅行なのに雨が降りそうで、新幹線から見える雨雲が追い付いて来ませんように、と祈るような気持ちで見ている場面なのではないでしょうか。

傘持ちて雨を気にする旅立ちよ 新幹線へ黒雲迫る

黒雲を新幹線に見つつ行く旅の始まり傘を確かむ

 

8・樹の枝に小鳥の囀りかまびすし〈聴耳頭巾(ききみみずきん)〉あるといいよね(緒方)

「聴耳頭巾」は日本の昔話に出てくる、動物や植物の会話が理解できるようになる魔法のアイテムです。打ち出の小槌、隠れ蓑などと並ぶ、特別な能力が得られる物で欲しくなりますよね。

樹に集まって賑やかに鳴いている小鳥たちの声を聴いて、一体何をそんなに話しているのだろうと内容を知りたくなる気持ち、とてもよく分かります。

ただ「かまびすしい」とは、声や音が大きくて、まわりが騒がしくうるさい様子を表す言葉で、「やかましい・うるさい・騒々しい・かしましい」といったニュアンスで、この言葉自体にちょっと“嫌味”が入っています。

確かにムクドリなど、群れの規模の大きい鳥などは特に騒音問題になるほど騒々しいこともありますが、「聴耳頭巾」で聞いてみたいという微笑ましく楽しい発想にはその“ちょっとした嫌味”は少し合わないのではないでしょうか。

また結句の「あるといいよね」ですが、他人に「あるといいよね」と同意を求める感じよりも「あったらいいな・聞いてみたいな」と自分で思っているという形にした方がいいのではないでしょうか。

また「聴耳頭巾」というメルヘンな題材を持って来ているので、結句は敢えて文語調にして締めてもいいかと思います。

樹の枝に小鳥ら囀るにぎやかに 〈聴耳頭巾〉を被り聞きたし

樹の枝の小鳥の囀り賑々し〈聴耳頭巾〉の欲しくなる今

夕間暮れ樹へにぎやかな椋鳥を〈聴耳頭巾〉に聞いてみたき日

 

9・雷鳴の響くさなかを蟬の声 激しき雨の降りだせどなお(鳥澤)

今年は雨が多く、雨だからと大人しくしていたらそのまま寿命が尽きてしまうということで、雨の中でも頑張って鳴いている蝉が結構いました。

短い寿命が厳しい環境に当たってしまい、本当に気の毒ですよね。

そんな切なさと、生命力に心を打たれたのだと思います。

「振りだせどなお」は「振り出すもなお」として濁音を減らしてもいいかもしれません。もちろん「振りだせど」でも間違いではありません。

また「振り出してなお」としてより理屈(理由)っぽさを減らしてもいいかもしれませんね。

 

10・新庁舎徐々に姿が現われる完成見れるか高齢の我(名田部)

厚木市の新庁舎(複合施設「あつめき」)の建設工事は2027年(令和9年)5月に完了し、2028年(令和10年)1月に開館(供用開始)する予定だそうです。

送り仮名は「現れる」で「わ」は要りません。

また「見れるか」は本来の「見られるか」のラ抜き言葉(口語)ですが、意味は通りますし、今回は音数も考えて(「ら」を入れると九音になってしまうので)許容でいいのではないかと思います。

また結句で「高齢の我」と言い切ってしまっていて、歌としてはやや余韻を感じられないかとも思うのですが、結構作者らしさが出ていて、個人的にはこれでいいのかな、という気がしました。

作者の立ち位置(中)にまでは寄れないけれど、作者のすぐ横に居て「大丈夫、見られるわよ」と言える位置にまでは寄れるというか。

実際、名田部さんはとても活力のある方なので、皆に「絶対見れるわよ」とお墨付きを貰っていました。私もそう思います(笑)

 

11・畦道の車の窓は全開に稲穂をわたる風を求めて(金澤)

まず「畦道の車」という表現から、畦道を行く車(乗っている)のか、畦道に停まっている農家の車(見ている)のかで迷ってしまうという声がありました。

「畦道は車の窓を全開に」なら、作者が車に乗っているということがはっきりするのではないでしょうか。

また「畦道」というのは人が歩いて通れる細い道のことで、車が通れるものは「農道」であって、「畦道」に車があるという状況にそもそも違和感があるという意見も結構多かったです。

私は舗装されていない田んぼの道は全部「畦道」でもいいのではないかと思っていたので、半数近くの人が「違和感がある」ということに驚いたのですが、それだけの率で違和感があるならここは変えた方がいいのかもしれません。

でも何となく「農道」って「畦道」と比べると詩的な感じが低いんですけど(笑)。「田の道」という意見も出ました。

また結句「求めて」は「迎えて/招きて」などでもいけると思うので、いくつか比較してみてくださいね。

稲穂を渡る風を感じたいから窓を開ける、という場面の選択はとても素敵ですよね。

 

12・かたみ花ばかりが庭に咲き継ぐ逝きし友等が四季届けくれ(飯島)

「かたみ花」という単語は辞書にはなく、「形見草(かたみぐさ)」ならありますが、亡くなった人を偲ぶための花として撫子(なでしこ)の別名や、菊・葵の古名として使われています。

今回はそうではなく、「形見となってしまった(亡くなった人から以前譲り受けた)花」ということだと思うので、「形見の花」とした方がいいのではないでしょうか。

また三句が「咲き継ぐ(さきつぐ)」だと字足らずで読みにくいので「咲き継ぎて/咲き続く/咲き繋ぐ」など五音になる言葉を選びましょう。

また結句が「四季届けくれ」では収まりが悪いので「四季を届けり/届ける/報せり/伝える」など終止形にして整えましょう。

形見の花ばかりが庭に咲き継ぎて逝きし友らが四季を届ける

形見の花ばかりとなれる我が庭よ逝きし友らが四季を伝えり

歌の場面はとても寂しくて切ない、良い場面だと思います。

 

13・百日紅の赤煌煌と強すぎて母を亡くした夏には痛い(畠山)

実家近くの街路樹の百日紅(さるすべり)が口紅のような真っ赤な品種で、ディアルージュという神奈川県で育成された品種らしいです。

実家の片付けに通う際、いつも見かけるのですが、一般的なピンクの百日紅でも花の盛りにはフリルが華やかで結構迫力があると思うのですが、真紅だと一層華やかで、フラメンコのドレスを思わせる情熱的な姿になります。

でもその強い感じが、母を亡くして片付けに通う自分にはちょっと強すぎるというか。

ただやはり百日紅の「赤」というと一般的にはピンク色のものを指すので、「真紅」の品種であるということが分かる言葉を入れないといけないかなと思いました。

また結句の「痛い(口語)」と「痛し(文語)」でも迷いました。

百日紅の真紅のはなびら煌々と母を亡くした夏には痛い

もしくは句またがりになってしまうのですが

実家そば真紅の百日紅の揺れて母を亡くした夏には痛い

なら場面は分かりやすくなるのかもしれませんね。

 

14・縁ありて共に歩んで半世紀カラコロ坂道あなたでよかった(大久保)

心象で作った歌なのかなと思います。

具体的な出来事に基かない歌は、広く薄く万人の心を包み、皆に何となく似たようなイメージを抱かせてくれますが、誰かの心に鋭く突き刺さることはできません。

キャッチコピーの様というか、歌謡曲の様というか、言ってしまえば「他の人でも言える」表現で、作者の個性が見えて来ないというか。

読んだ時は皆何となく似たような印象が残って「いい歌ね」と思うかもしれないのですが、刺さって残らないので“思い出して貰えない(心に残らない)”歌になってしまうのです。

具体的な場面のある歌では、すっかり忘れた頃に読者がその具体に面したり、同じような場面に立った時、心の片隅に刺さっていた歌が「あっ!」という感じで甦ったりするのですが、具体がないとすうっと溶けて消えてしまうんですね。

「あなたでよかった」と改めて実感した場面には、そう思わせるだけの何かがあったはずです。多分、作者自身、その何かを絞り切れていないのだと思います。

短歌は三十一音しかないので、とにかく「絞る」ことが大事です。「あなたでよかった」と思った場面が沢山あったので、絞り切れずにまとめてしまったのかもしれません。

「好きなところを百個箇条書きにしてください」じゃないですけど(笑)、そんな気持ちで一つ一つエピソードを絞って、作者ならではの経験に基く歌を詠んでみてください。

 

15・切磋琢磨した北陸の友人は豪雨に見舞れ心痛みて(戸塚)

昔一緒に切磋琢磨した友人ということを言いたかったのかと思いますが、この歌の中でそこは重要でしょうか。

一番重要なのは続く災害に遭った友人に作者も心を痛めている、ということですよね。

私は最初災害続きの友人に見舞いの電話などをして、ガックリ来ている様子の友人に作者も心が痛んだという場面かなと思い、

北陸に災害続く友人の溜息混りの声沈みおり

など、気落ちしている友人の様子だけでまとめた方がいいのでは、と思ったのですが、実は以前の地震災害の時に電話したら、その対応も大変だったようなので、今回は電話も出来ずに心配しているということで、そここそが歌にしたい核だと思いました。

災害の続く北陸の親友へ電話ためらい受話器をおろす

友人よりも親友としてしまった方が、より電話したいけどできない作者の葛藤が見えてくる気がします。

 

16・帰り道何時もと違う路地行けば迷路にはまり二倍の歩数(栗田)

ちょっといつもとは違う道を通ってみようかしらと思ったら、行き止まりだったり、思いもよらぬ方向へ道が曲がっていたりと、気付けば普段の二倍の歩数を歩いていた、という歌で、何気ない日常をうまく詠んでいますね。

確かに、近所なのに普段使わない道って意外と知らなかったりしますよね。

体調や時間に余裕のある時はそれもまた楽しいですよね。

「迷路にはまり」。「迷う/迷い込む」ことを「はまる」という言い方が正しいのかなぁともちょっと思ったのですが、「迷」という字が被ってしまうし、「抜け出せなくなる」という意味で特に違和感を持たない人が多いようなのでこのままでいいのかもしれません。

あと「何時も」は「いつも」と平仮名にしてしまった方が柔らかな印象になるかもしれませんね。

 

17・熊本の被災者皆水飯欲したきだし食べるオニギリ悲し(山口)

色々と迷ってしまう表現です。

まず「水飯欲し」で「すいはん欲し」なのか「水(みず)・飯(めし)欲し」なのかで悩みますよね。

水飯(すいはん)とは、ごはんを水で洗ってぬめりを取り、冷たい水や氷水をかけて食べる、夏の伝統的な水かけご飯のことなので、真夏の被災で暑い中、炊き出しの熱いオニギリじゃなくて冷たくてするする食べられる水飯が欲しいということかしら、でも「水飯」って皆が欲するほど知名度があるかしら、とか。

私は、熊本の被災者たちが水やご飯を求めている中、自分は(安全な)訓練の炊き出しでおにぎりを食べていて、そこに思うところがあったのではないかと読んだのですが、それならばもうちょっと表現を変えないと伝わらないのではないかと思います。特に「炊き出し」とすると主語が被災者なのか被災していない作者なのかが分からないので、そこは「訓練」にした方がいいと思います。

熊本の被災地の人ら思いつつ訓練に食むおにぎり悲し

目の付け所というか、内容はとても良いので、うまく皆に伝わる言い方を考えてみましょう。

 

18・苛立ちを抱きて歩くその先のドクダミの白見ほれ入りたり(小夜)

「あの/その/この/かの」などの代名詞はなるべく避けましょう。作者の中で見えていることでも、他人には伝わらないことが多いです。

今回は苛立ちを抱えながら歩いていた矢先にふと目に入った、くらいのニュアンスなのかと思いますが、変に迷う代名詞を入れるより「八月の/長月の/夏の午後/秋の朝」など時期、時間帯などでも入れてみてはどうでしょうか。

また厄介な雑草として扱う場合は「ドクダミ」でいいのですが、かわいい花や薬効の方に意味を持つ場合は「十薬(ジュウヤク)」の方がいいのではないでしょうか。

また「見蕩れる/見惚れる(みとれる/みほれる)」「見入る」という言い方はしますが、「見ほれ入る」とは言わない気がします。

苛立ちを抱きて歩く葉月尽十薬の白に見惚れて止まる

苛立ちを抱きて歩く夏の末十薬の白さ胸へと刺さる

苛立ちを抱きて歩く夏の朝十薬の花の白さが眩し

 

19・四季問わずいつも傘差し散歩する三人組の元気な熟女(渡辺)

「元気な熟女」。確かに四季問わず散歩しているのですから元気だろうと思いますし、作者の人柄からしてその熟女らを作者が微笑ましい気持ちで見ているのも分かるのですが、「元気な熟女」と言ってしまうと「まぁ毎日お元気ですこと(時間と体力があって羨ましいですこと)」と京都風の嫌味を込めて言っている感も否めません。

それよりも「熟女ら笑みて」など熟女らが元気で楽しそうと判断した元の情報を描き、「元気そう」という判断は読者に任せた方がいいのではないでしょうか。

 

20・賑やかに夕食を終え片付けの吾に一ぴきのコオロギの声(川井)

「賑やかに」だと下の「吾に」と被ってしまいますし、下手すると「賑やかに一匹のコオロギの声」とも繋がってしまい、「一匹なのに賑やか?」という迷いを生んでしまうかもしれません。夕食にかけるなら「賑やかな夕食を終え」ではないでしょうか。

でもそもそも「賑やかな夕食を終え」という説明自体必要なのでしょうか。

作者としては賑やかだった時には気付かなかったコオロギの声に、一人になったから気付いた、という意識があるのだと思いますが、それってもうもろに「理屈」なんですよね。

皿を洗いながらコオロギの声に気付いた、それだけでいいのではないでしょうか。

夕食後一人厨に皿洗う我へ届きぬ蟋蟀の声

皿洗う水音越えて一匹の蟋蟀細く秋を報せり

皿洗う夜の厨へりんりんと蟋蟀の声 秋が来ており

 

21・十数弁の八重の蕺草(どくだみ)何とまあ是れが其れとは思いもよらず(緒方)

「これ/それ/その/あの」といった代名詞では作者の中にあるイメージを他人にはまず伝えきれません。

今回の歌で言えば“「八重のドクダミ」を既に知っている人”にしか伝わりません。それは読者の知識に頼っていることになります。

八重のドクダミを見たことが無い人にも作者の「これがドクダミなの!?」という驚きが伝わる表現を探して欲しいと思います。

十数弁の八重の蕺草何とまあ婚礼衣装の乙女のごとし

十数弁の八重の蕺草何とまあ白きドレスの乙女ら集う

「何とまあ」で「えっこれがドクダミなの」と驚いている様子は十分伝わると思うので、あとは“ドクダミとは思えない華やかさ”を上手く言葉にできたらなと思います。

 

22・岩礫の富士は青く青青と朝の空へとなだらに昇る(鳥澤)

「青く青青と」という繰り返しが活きているのかどうか。

ここは「青青と」で十分なのではないでしょうか。

それよりも岩礫で出来ているはずの山が青く見えることに作者の驚きがあるのではないかと思うのですがどうでしょうか。

岩礫に成る富士山の青青と朝の空へとなだらに昇る

 

23・楽しみは食することよスーパーに値引きの品を目を光らせて(名田部)

「スーパーの値引きの品に目を光らせる(光らせり/光らせぬ)」と、助詞と結句を直しましょう。

一首目の新庁舎の歌と同じで、詩的な情緒という点ではやや薄いのですが、作者らしさ(個性)はとてもあって、歌の方向性は間違っていないと思います。

高齢になっても強かに生きる作者像が生き生きと見えてきますね。

この調子で元気に食べて、歌を詠んで、新庁舎完成を見ましょう。

 

24・目の前を何度も横切る赤とんぼ墓からの帰路さえぎるように(金澤)

亡くなった方の魂がとんぼに入って「もう帰ってしまうの」と寂しんで引き留めるかのように作者の前を横切るという、情緒溢れる場面ですね。

でも決して「魂」とか「寂しいと引きとめる」とか“空想”である部分は言っていない。だからこそ読者自身がそこを想像して、しんみり出来るんですよね。言いたい、けど、抑える。大事です。

気になるとすれば「墓からの帰路」くらいでしょうか。「墓参の帰路を」とした方が助詞も入り読みやすくなるのではないでしょうか。

 

25・初花のヒュウガギボウシ咲いた日にくれた友の訃報届けり(飯島)

とても寂しいですけど良い歌ですね。

四句が字足らず(「くれた友の」で六音)で、字足らずよりは字余りの方が読みやすいので少し工夫してみましょう。

「くれたる友の」なら七音になるのですが、「たる(たり)」は継続の意味を持つ過去の助動詞なので「くれている友」という意味になってしまい不自然なので、「くれし友人の/くれし友垣の」「分けくれし友の」「授けし友の」「賜いし友の」などがいいかなと思います。「授ける/給う/賜う」は基本的に目上から目下の者に与える場合に使う言葉なので「友」に使うのは少し大袈裟かもなという気もしなくもないのですが、亡くなられてしまった相手ですし、尊敬の念を込めて使ってもいいかなと思います。

また結句は「届けり」では自動詞の「届く」に過去の助動詞「り」が付いたもの(届いた)なのか、他動詞の「届ける」に過去の助動詞「り」が付いたもの(届けた)かで迷ってしまうため、「届きぬ(届いた)」と自動詞であることを確定する言い方の方がいいのではないでしょうか。

初花のヒュウガギボウシ咲いた日にくれし友人の訃報届きぬ

 

26・人行けばしんと鳴き止む蟬たちへ詫びつつ通る並木の陰を(畠山)

限られた短い時に精一杯鳴いている蝉。一分一秒でも惜しいように必死で鳴き続けていますが、人が通ると警戒してピタリと鳴き止んでしまいます。

蝉の大事な時間を妨害するようで申し訳ないような気になりつつも、暑いので木陰の道を通らせていただきます、という感じです。

9番の鳥澤さんの歌にもありましたが、今年は本当に雨が多く、雨の中でも鳴いている様子を見ると、一層「中断させてごめんね」という気持ちになってしまいました。

 

☆今月の好評歌は25番、飯島さんの

初花のヒュウガギボウシ咲いた日にくれし友人の訃報届きぬ

となりました。

初めて花が咲いたその日に訃報が届くなんてショックですよね。庭に咲く花を見るたびにこれはあの人がくれた花、あれはあの人がくれた花、と思い出すのも寂しいですよね。でもそうやって思い出してくれれば、亡くなった方は嬉しいのではないでしょうか。楽しかった時のことをいっぱい思い出してあげてください。

 

次回澪の会は10月16日第三㈮ 12:30~厚木アミュー609です。

参加予定の方は10月2日までに詠草二首をお送りください。

雨続きで体調を崩される方が増えています。インフルエンザも流行っているらしいので、体調に不安がある時は無理せずお休みください。

By PhotoAC ラス

 

 

 

◆歌会報 2026年8月

◆歌会報 2026年8月

 

第166回(2026/8/21) 澪の会詠草

 

1・野薊が絮毛纏いて其処此処に深夜に見えし夏、エトセトラ(渡辺)
野薊(のあざみ)が綿毛をまとうという、季節を特定できる具体的な対象の表現はとても良いですね。
ただ「其処此処に」「深夜に」とあるので、「其処此処に」の「に」は「其処此処にある/見える」という省略された述語に繋がり、「深夜に」の「に」は「深夜に見えし(見えた)夏」と繋がり、どういう時系列なのかなと迷ってしまいました。
更に「夏、エトセトラ」。訳せば「夏、などなど」? ちょっと分かりませんでした。「夏のふとした一場面」的な意味なのでしょうか。
それにしても作者が野薊の綿毛を見てどう感じたのか、良い印象なのか悪い印象なのかも分からないので、まずそこが分かるような言葉が欲しいところです。
野薊の綿毛って綿の部分が弾けたようになっていて、丸くて柔らかい印象を受けるたんぽぽの綿毛と違って、荒々しいというかはっちゃけたような感じがするんですよね。それを元気に弾けるような夏が来たなぁと捉えるのか、深夜の暗がりに白く浮き上がる様子がちょっと不気味だと捉えるのか。
作者は深夜に見た綿毛にもっと迫って、作者の目からはどのように見えたのか、そこをしっかり描いて欲しかったかなと思います。
作者が深夜に白く浮かび上がる野薊の綿毛をどう見たかで、その時の作者の心理が見えてくるのではないでしょうか。
野薊が絮毛を纏いゆらぁりと白く浮き立つ夏の深夜に
其処此処に弾けておりぬ野薊の絮毛白々深き夜にも

 

2・ネジ花を摘みし手の先むっくりと流れゆく雲夏を惜しむかと(小夜)
「摘みし手の先」と過去のことを思い描いているのに「流れゆく」と現在の述語に繋がっているのでちょっと時制で迷ってしまいます。
また普通花を摘む時には目線は下に行きますよね。でも下に行った目線の先に雲が流れるって、どういうことなの?と思ってしまいます。
また「むっくり」ってむくむくと湧き上がる雲で、流れる感じはしないんですけどどうでしょうか。「ゆっくり」なら流れると思いますが。
私はネジ花を摘んでから夏空にかざすなどしたのかなと思い、
ネジ花を摘みて掲げる手の先へ夏の終りの雲むっくりと
と自然に視線が上へ移動する表現(掲げる)を入れてみたらと思ったのですが、実は作者は高台にいて、花を摘んだ手の先(下)に雲が流れていたとのこと。とはいえ、花を摘むという行為はせいぜいが腕の長さの先のことで、相当な崖っぷちでもない限り、角度的に目線の先には花と土があり、特殊な場所(高台)であることの説明なしに空や雲を持ってくるのは無理があるのではないかと思います。
しかもその(作者が高台にいる)場合、一番言いたいのは眼下を流れる雲の方で、「花を摘んだら」というのは「眼下に流れる雲の景色(主役)に至るまでの順序の説明」であって、完成の絵の中で花の役割は低く、高山植物(高山にいるという象徴)でもない限り花を出す意味がないと思います。
山頂に見下ろす雲のゆっくりと夏惜しむごと流れてゆきぬ
でも「夏を惜しむ」というのはあくまでも作者の想像(決めつけ)で、読者に作者の感想を押し付ける形になってしまうので、読後の印象としてちょっと弱いと思います。
歌としてはネジ花を活かして掲げて(視線を上にして)しまい、「惜しむ」とか言ってしまわない方が良いと思います。読者自身に作者が与えた風景の中で「あぁ、夏ももう終りかぁ…」と感じて貰うと印象に残る歌になると思います。

 

3・猛暑日で雨戸閉じれば西窓の熱きガラス戸被災地如何に(栗田)
本当に暑くて、こんな時期に停電でエアコンの使えない被災地の状況を思うと如何に大変であろうかと心配になる気持ち、よく分かります。
ただ短歌では、「で」は「に」にする習慣を付けましょう。
またこのままでは述語がないため文章として落ち着きません。「窓」と「ガラス戸」は同じものですから、ガラス戸の方は削ってもいいのではないでしょうか。
また「閉じれば」というと、作者がハッとした場面に至るまでの説明になってしまいます。
猛暑日に雨戸閉じてもなお熱き西窓の先の被災地思う
と場面に至る説明ではなく、今(ハッとした時)の熱い窓の説明にするか、「雨戸を閉めようとしたら」などという説明自体を捨てて、
西窓に火傷しそうな猛暑日の被災地未だ停電と聞く

などとしてもいいかもしれませんね。

 

4・観劇の前に娘とカフェに食む非日常のフレンチトースト(金澤)
「非日常のフレンチトースト」がいいですよね。
「非日常の」って六音なんですけど、「ひ・にちじょうの」って自然と「・」の部分で一拍入れて読む言葉なので違和感もないですよね。
「ホットドッグ」や「サンドイッチ」では非日常感がなく、絶妙なお洒落感もない。「おしゃれな」や「特別な」「気取った」などでなく「非日常の」としたことで出てくるいつもとはちょっと違うちょっと贅沢な時間の感じ。
「非日常の」「フレンチトースト」はまさに絶妙な組み合わせだったのではないでしょうか。
「観劇の前」というのも、その“いつもとはちょっと違うおしゃれで贅沢なひととき”の理由を迷うことなく想像できる背景で言うことなしです。

 

5・夕立の名残りを留むにわたずみ庭の中程ちんまりとあり(緒方)
にわたずみ(潦)とは、雨が降って地上や庭にたまり、あふれ流れる水や水たまりのことです。
この歌では景色は見えてくるのですが、その景色や小さな水たまりを残した夕立に対して作者がどういう感情を覚えているのかがあまり見えてきません。
また「留む」とすると終止形なのでそこで文章は切れてしまいますが、「留め」と連用形にするか(留めて/、を省略)、「留める/留むる」と連体形にして「にわたずみ」にかけ、上の句と下の句を繋げて一文にしてしまった方がいいのではないでしょうか。
また上の句が俳句のようになってしまわないように、うまく下の句に繋いだ方がいいと思います。
俳句と違って短歌は下の句の七七が印象に残る核となる場合が多いので、上の句の五七五で俳句のように完成してしまうと、核であるはずの下の句が付け足しのようになって軽くなってしまいます。
上の句で場面の説明(場面に至る説明ではないことに注意)をし、下の句で感情が分かるような言葉を選べるとバッチリですね。
夕立の名残り留めて(留むる)にわたずみ庭の中程へ涼やかに(しずもりて)あり
「ちんまりと」では状態は分かるのですが感情が分からないので、感情(夕立が過ぎてほっとしているのか、爽やかな気分なのか、最近の夕立は激しいと不安な感じなのかなど)が分かりそうな言葉を探してみて欲しいと思います。
「留めて+しずもりて」だと「て」重なりになってしまうので、その辺り(組み合わせ)は色々と調整してみてください。

 

6・湧きあがる白雲の際くっきりと絵日記のごと夏空の青(鳥澤)
上の句の「白雲の際くっきりと」という描写は迷うことなく映像が浮かんでとても良いと思います。
ただそれに比べると「絵日記のごと」という喩えが今一ゆるいかなぁという印象です。
絵本とか絵葉書ならまだ分かるのですが、絵日記でそんな際くっきりとした白雲と青空の描写します? 絵日記ってさらっと描くものでそんなきっちり塗り分けるイメージじゃないんですよね。
また上の句で白雲を鮮やかに想像したのに、結句で急に主役が青空の方になってしまっていて、そこも勿体ないなと思います。
湧き上がる白雲の際くっきりと夏空の青を押しのけて立つ
夏空の混じりけのなき青の前白雲湧き立つ際くっきりと
など、「夏空の青」は背景に回して白雲を主役にしてみてはどうでしょうか。
絵日記や絵本などは人それぞれがなんとなくそれなりのイメージを持つ言葉ですから、やはり作者の目で見たそのものを具体的に描写できれば、と思います。

 

7・庭先を忙しなく飛ぶしじみ蝶幼き頃の子供を重ね(川井)
まず「子供」とは誰なのかで悩みました。作者が子供だった頃を指すのか、作者のお子さんのことなのか。
聞いてみたところ作者のお子さんとのことで、それなら「娘(こ)ら(絶対迷わない)」や「子ら(絶対ではないけどまぁ多分大丈夫)」として迷わないようにして欲しいですね。
また結句は「重ね」では連用形でしっかり終われないので、「娘らを重ねる」と終止形にしましょう。敢えて連用形で流す場合でも「重ねて」と「て」が必須です。
また「娘ら」と複数形にすれば「忙しなく」でも二匹(頭)の蝶がくるくるともつれるように飛んでいる様子を想像してもらえると思いますが、「もつれつつ飛ぶ」「掛け合う二頭の」などとするともっと具体的に場面が見えてくるかもしれません。
庭先をもつれつつ飛ぶしじみ蝶に幼き頃の娘らを重ねる
庭先へ掛け合う二頭のしじみ蝶に幼き頃の子らを重ねて(“みる”を省略)

 

8・人が皆熱気に溢る盆踊りいかの串焼き三本買いて(名田部)
これも二句で「溢る」と終止形にして文章が切れてしまっていますが、連体形(溢るる/溢れる)にして「盆踊り」にかけた方がいいでしょう。
また5番の緒方さんの項でも書きましたが、上の句が俳句のようになってしまわないように、三句に字余りでも助詞を入れて下の句に繋いだ方がいいと思います。
俳句と違って短歌は下の句の七七が印象に残る核となる場合が多いので、上の句の五七五で俳句のように完成してしまうと、核であるはずの下の句が付け足しのようになって軽くなってしまいます。
上の句で場面の説明(場面に至る説明ではないことに注意)をし、下の句で感情が分かるような言葉を選べるとバッチリですね。
さて、今回の「いかの串焼き三本」という個数の具体ですが、以前の「からあげ十五個」と比べると感情を表現するのに必要な表現ではないように思えます。
「十五個」だと読者は「そんなに沢山!?」という驚きから、その裏にある“作者のワクワク感”を読み取るのですが、「三本」ではそこまでの驚きがないというか作者のワクワク感を感じ取れないからです。まぁ一人でイカの串焼き三本だと思うと結構多いとは思いますけどね(笑)
それよりも熱気に溢れる祭りの会場で、作者もその熱気に交じって、さぁこれから祭りを楽しむぞ!まずはイカの串焼きからだ!というかたちにした方が断然ワクワクできるんじゃないでしょうか。
人が皆熱気に溢れる盆踊りにまずは買いたりイカの串焼き(祭りにワクワクしているプラスの感情)
ただ実際は祭りを楽しまず、あら夕飯に丁度いいわとイカの串焼きを買ってさっさと帰ってしまったとのことですが、それでは詩(情緒)がなく、ただの行動記録になってしまいます。ここは創作でもワクワクさせて欲しいところですね(笑)
もしくは人々は盛り上がってるけど、それを横目にさっさと帰ってしまったというちょっと捻くれた寂しさのようなものを詩とするなら、そこをしっかり描写しないといけません。
盆踊りに独りイカの串焼きを買いて熱気の会場を去る(若い頃とは違って祭りの熱気を楽しみきれない寂しさ)
また「いかの串焼き」でももちろん間違いではありませんが、「イカの串焼き」と表記した方が品名として分かりやすいのではないかと思います。屋台の垂れ幕などでは大きく二文字で「いか」と書いてあるのを見かけますが、品名としては「イカの串焼き」表記の方が一般的だと思います。見た時に「イカの串焼き」と食材としての「イカ」の部分が孤立していた方が見やすいからだと思います。短歌的には減らせるカタカナは減らしたい場合が多いですが、今回はカタカナの方が読みやすいかもなぁ、と。

 

9・恃みたるレトルト粥もポタージュも匙をおく夫よ明日は立秋(小幡)
「恃む(たのむ)」は意味としては「頼む」とほぼ同じです。が、「恃む」の方がより一層「頼みにする、頼りにしている、拠り所とする」という意味合いが強めかなと思います。
年齢と気候によりすっかり食欲がなくなってしまった夫に、これならば食べられるのではないかとすがるような気持ちで用意したレトルト粥やポタージュといった口当たりの良いもの。それさえ匙を置いてしまうという夫。心配という言葉では表しきれない心配と切なさですよね。
明日は立秋ということで、これから少しずつ涼しくなって夫の食欲が戻ってきてくれますように、という思いと、明日は立秋だというのにまだまだ暑くて増す不安と、両方の思いが結句の中にあるのかなと思います。
四句「匙をおく夫よ」と八音にして助詞を入れていますが、この「を」は省いても意味が通るので、今回は「匙おく夫よ」と音数を優先してもいいのではないでしょうか。

 

10・母が逝き五十日もとうに過ぐ今日も伸びたる我が爪切りて(畠山)
うちは神道式なのでいわゆる四十九日はなく、行事としては五十日祭というものがあります。まぁ四十九日とほぼ変わらず、この段階で納骨や葬儀の返礼などをして“葬儀に一区切りがつく”時期となります。
仏教も神道も一日違いでほぼ同じ日数なのは面白いですね。人間大体共通してそのくらいの時間で心理的に落ち着く、ということなのでしょう。
我が家でもとりあえず五十日で納骨などを済ませましたが、後日爪を切っている時にふと母の爪はもう伸びることがないのに、私の爪は日々伸びている、母の時間は止まったのに私は着々と生きて五十日以上も経過しているんだなと思い、何とも言えない気持ちになりました。
「五十日」より「四十九日」の方がより一般的で分かりやすいのではということで、確かに「祭」まで入れないなら断然そちらの方が分かりやすいので「四十九日」にします。それほど宗教的なこだわりもないですし、何より四十九日の方が音数も合いますし(笑)

 

11・文月尽満月照らす地震跡自然の恐怖心挫ける(渡辺)
文月(ふづき/ふみつき)は七月のことです。尽(じん)はその月が尽きる日のことで基本的には各月の晦日(みそか。最後の日。12/31は最後の月の最後の日なので大晦日)を指しますが、まぁきっちり最後の日じゃなくても月末辺りを指すのに便利な言い回し(〇月末と同じ意味)です。
作者は七月末の熊本の地震の報道を見て、満月が照らすその悲惨な光景に恐ろしさを感じたのだと思いますが、「自然の恐怖に心が挫ける」と概念的な感想でまとめてしまってはいけません。これでは誰もが思う一般的な感想で終わってしまい、作者ならではの視点がありません。
満月に照らされる地震跡が作者の目にはどう見えたのか。そこが大事です。
停電していて満月の光がより際立っていたのかもしれません。崩れた城壁やひしゃげた家屋、爆発して灰に包まれたスーパーなど、地震跡といっても色々映されたと思いますが、どの場面で作者はより一層衝撃を受けたのでしょうか。そこをもう一度思い返してみて、より詳細に描写してみて欲しいと思います。

 

12・ドクダミに心のうちを見透かされ群れなす白をつぶさに潰す(小夜)
「心のうちを見透かされ」が、作者にしか分かっていない内容なのでこのままでは伝わらないかと思います。
今回、多くの人はこれを「どうせ暑さに負けて草むしりしないでしょ」と見透かされたと捉え、伸び放題に伸びたドクダミを「えぇい!私がサボると思ったら大間違いだ!ドクダミめ!」と暑い中一念発起して草むしりをする作者、と読んだようです。
私はそうではなく、「つぶさに潰す」という結句から、ドクダミの花の白さが美しくて、でもその白さ(美しさ)が少し汚れている(と感じている)自分には眩しすぎて、悔しいような苛立ちを覚え、妙な嫉妬心で白い花を踏み潰す場面を想像しました。
聞いたところ、どちらかというと私の解釈に近かったようで(草むしりではなかった)、それならば花の表記も「ドクダミ」より「十薬」の方がいいのではと思います。花も白くて美しいし、十薬などと皆を癒す万能の効果持ちとか、なかなかに嫉妬したくなりません?
十薬の白が我には白すぎて群れなす白をつぶさに潰す
一首に何度も同じ文字(白)が出てきてしまいますが、意味としてはそんなに被ってないかな、と。
十薬のつややかな白眩しくて群れなす花をつぶさに潰す

 

13・ミステリの最終回はワープして東野圭吾遥かな星へ(栗田)
ミステリ作家の東野圭吾さんの訃報に際しての歌ですね。まだ若く、あまり表舞台に出てこられない方だったこともあり、突然、と感じた人も多かったのではないでしょうか。
その突然と感じた驚きが「ワープ」、瞬間的に移動することとして表現されたのかと思いますが、「ワープ」というとミステリというよりSF的な用語なので東野圭吾という作家にぴったりなのかな、というところで少し迷いました。
「ミステリ」か「ワープ」かどちらかに絞った方がいいのではと思います。
ミステリの最終章は突然に 東野圭吾遥かな星へ
人生の最終回はワープして東野圭吾は遥かな星へ

 

14・若者の間すり抜けペタペタと横須賀線のビーサンの児ら(金澤)
「ビーサン」が「ビーチサンダル」の略だとパッと分かる人の割合は歌会では半々くらいでした。意外と認知度が低いようなので、略さず使う工夫をした方がいいかもしれませんね。
歌の核は海に近い横須賀線近辺に住む地元民らしい子供たちの振る舞い、といったところでしょうか。
日焼けしてビーチサンダル履く児らが横須賀線の車内を走る
横須賀線ビーチサンダル履く児らが大人すり抜け我が物顔に(ゆくを省略)

 

15・アガパンサスの語源はアガペー成程ね娘は得意げに携帯翳す(緒方)
これはまた緒方さんの悪い癖が出てしまったかな、と思います(笑)
まず「アガペー」と聞いてすぐ意味が分かる人がどれだけいるでしょうか。ビーサンですら半々だったのに(笑)、このまま読んですっと「成程ね」と思える人はまずいないと思います。読者に過度な知識を求めず、読んでそのまま歌の世界に入り込める場面作りをお願いします。
またこの歌では語源に「成程ね」と思った場面(娘さんが言っていますが、作者も成程ねと思ったからこその場面なのでしょう)と、娘さんがスマホでちゃちゃっと難しいことを調べてしまう現代的な場面への驚きと感心という二つの感動がむりやり一首にまとめられてしまっていると思います。
そこにやはり無理が出てしまっているのかな、と。
アガパンサスの語源は「アガペー」ギリシャ語に愛の花とう意味を持つらし
ちょっと削れないカタカナが多すぎて水甕には出せないと思いますが、これなら「アガペー」の意味をいちいち調べなくとも、読者も「へー、なるほどね」と思えるのではないでしょうか。とはいえ、これは知識が一つ増えたという「へー」だけで、歌の内容に共感した「へー!」ではありません。“語源に愛という意味を持つ君子欄が今作者にはどう見えるのか”ということで歌えれば詩が出てくるかもしれません。
また何でもスマホでちゃちゃっと調べてしまう現代的な娘さんの風景に関しては別で詠んでみてください。
携帯を翳し忽ち花の名の語源突き止む娘(こ)は得意げに

 

16・酷暑ですヤンバルの森を逃げていた沖縄の民の夏をば思う(鳥澤)
3番の栗田さんの被災地を思う歌のように、あまりの暑さに戦時中の沖縄の人(栗田さんの場合は被災者)はどんなにか大変だったろうと思いを馳せる内容ですね。
ただ初句の「酷暑です」という表現に引っかかる人が結構いました。
「ヤンバルの」から始めてみてはどうでしょうか。
ヤンバルの森を逃げてたあの夏の沖縄の民を思う酷暑に
やんばるの森へと逃げし沖縄の民を思いぬ酷暑の盆に
「逃げてた」は「逃げていた」の「い」抜き言葉の口語で正確な言葉遣いではありませんが、音数を優先してみました。

 

17・照りつける陽射し撥ねつけ青青と庭のあら草いつまで青し(川井)
上の句で草の青さがしっかりと描写されているので、結句の「いつまで青し」が効いていますね。
この猛暑の中でもあまりにも力強く生き生きと伸びる雑草に、もはや草むしりなど対処する気力体力もなく、「おまえら、いつまでそんな元気に青々としているんだ」と肩を落として、恨めしいような羨ましいような気持ちで見ている作者。
容易に場面が想像でき、感情も共感できる良い歌ですね。

 

18・初めての「ガリガリ君」を頬張れば咽元涼し買物帰り(名田部)
「初めての『ガリガリ君』」という具体が効いていますね。「ガリガリ君」の認知度はビーサンよりずっと高く(笑)、ほぼ皆知っていました。すごい。
効果的だったのは「ガリガリ君」という品名がどこか子供向けなイメージを持つからで、そこに作者とのギャップを感じ面白いと思ったからです。これが「ハーゲンダッツ」とか「雪見大福」とかだと具体的な品名でも別に面白くないんですよね。「ガリガリ君」だからこそそれに初挑戦する作者が微笑ましく見えたわけです。
というわけで「ガリガリ君」という子供向けをイメージさせるアイスに、八十歳を過ぎた作者が初挑戦するという場面が良いわけで、そこに「買物帰り」という情報は必要ないので削ってしまいましょう。その代わり作者の年齢はまず欲しい情報ですし、更には味や食感などの情報が欲しいところ。
初めての「ガリガリ君」はソーダ味八十歳の咽に冷たし
初めての「ガリガリ君」をシャクシャクと頬張り帰る八十歳(はちじゅう)の夏
後者は29字になってしまいますが、「」は結構詰めて貰えるので水甕(27字まで)でもぎりぎり許容されるかもしれません。

 

19・鮎まつり花火大会なき夏をひたすらに鳴く街灯の蟬(小幡)
あまりの猛暑に、厚木恒例の夏の花火大会が今後は秋(十月)に開催されることとなりました。
コロナ禍の終り頃に一度十月開催になったのですが、十月でも日中は十分暖かく、日が暮れるとぐんと涼しくなり、丁度昭和の夏のようで「もう毎年十月開催でいいんじゃないの」と思った記憶があります。
やはり最近の夏は暑すぎるのでしょう。日中から準備するスタッフや、大量に押し寄せる客など、熱中症の危険性が高すぎる行事となってしまっていました。
つまりヒトにはもはや暑すぎる夏。そんな厳しい夏だけれど、蝉にとっては今、この夏しかありません。どんなに厳しくとも、今この夏、子孫を残すためにひたすらに生き、鳴くしかない。切ないですね。
「街灯の蟬」はもう少し動かせるかもしれませんね。私は夜になって少し気温が下がってきたので(本来なら昼に鳴く習性なのに)暗い中街灯に張り付いて鳴いているのか、と取りましたが、もっと分かりやすく厳しい暑さや時間帯を想像させる言葉があるかもしれません。
それにしても一生懸命鳴いて卵を産んだかもしれない土地にどーんと建物が建っちゃったりして。切ない。切なすぎる。
何だか愚かな人間どものせいでごめんなさい、という気持ちになります。

 

20・片付ける母の遺品もあと僅か 連太鼓の音とほく聴きつつ(畠山)
物が多すぎて、最初は全く終りが見えない片付け作業でしたが、夏祭りへの連太鼓(れんだいこ)の練習の音が聴こえる頃、ようやく何とか終りが見えてきたかな、という。
「連太鼓」か「太鼓連」かで迷ったんですよね。「連太鼓」は演奏法などのことで、「太鼓連」は集団のこと。内容的には「太鼓連」なんですよね。でも途切れずに繰り返し続く音とすると連太鼓という気も。でもやはり「太鼓連」の方がいいような気がしてきました。
とんつくとんつく遠くに響く太鼓の音を聴いて、母が倒れたのは冬、転院先などを探して駆け回っていたのは春だったのに、もうお祭りの季節かぁ、となんだかしみじみしました。
実際はまだ全然「あと僅か」じゃないんですけどね(笑)
まだまだ片付けに通わないとならないのに、歌会の翌日足首を捻挫し、しばらく行けなさそうになってしまいました。特に段差もない場所で挫いたのが心理的にも痛かったです(笑)
歌会のあとって気が緩むのか、よく体調を崩したり怪我したりするんですよね。
皆様も歌会に出席されるだけでも結構消耗することと思われますので、くれぐれも無理せずお大事になさってくださいね。

 

☆今月の好評歌は18番、名田部さんの
初めての「ガリガリ君」はソーダ味八十歳の咽に冷たし
 (修正後)となりました。
八十歳を超えて「ガリガリ君」に挑戦し、この猛暑にも楽しみつつ生きる作者像が見えてきて良い歌ですね。
4番金澤さんの「非日常のフレンチトースト」、17番川井さんの「あら草いつまで青し」の歌も好評でした。

次回澪の会は9月18日第三㈮ 12:30~厚木アミュー607です。
参加予定の方は9月4日までに詠草二首をお送りください。
尚、最近の九月はまだまだ猛暑が予想されるため、無理をなさらず、体調に少しでも不安があればお休みください。

By PhotoAC  nok0706

 

 

 

◆歌会報 2026年7月

◆歌会報 2026年7月

澪の会を立ち上げ、長年講師として短歌普及に尽力してきました母砂田曉子が五月に永眠いたしました。

葬儀には澪の会の皆様からお花をいただきまして、まことにありがとうございました。

故人の短歌の指導はさすがで、一言の指摘でがらりと歌が詩的になるなど、代えがたい才能を持つ人であったと思います。

その様な指導者を失い、会の継続を迷いましたが、教室ではなく同好会というかたちでも短歌を続けたいという皆様のお気持ちに助けられ、会を継続することとなりました。

皆様に短歌を続けたいと言っていただけたこと、何よりも故人が喜んでいると思います。

私では故人の指導レベルには到底及びませんが、今後もこのブログなど出来る限りは頑張っていこうと思っていますので、皆様どうぞよろしくお願いいたします。

 

第165回(2026/7/24) 澪の会詠草

 

1・学童の子等に届ける昔がたりその準備をせむ三度目の夏(大久保)

作者は学童保育の子供たちに地域に伝わる昔語りを読み聞かせたりする行事に携わっているようで、それももう三年目だなぁ、という内容かと思います。

「夏」ということは「(学校は)夏休み」で、子供たちが学童保育にいる時間も長いので、預かる方(学童保育)がやる事も色々と増えるのでしょうね。

さて内容は分かるのですが、歌としては「届ける」「その」「せむ」あたりで少し引っかかってしまうかな、という気がします。

まず「届ける」だと絵本や冊子などを作って物理的に「お届け」するという意味にもとれます。特に「その準備をしよう(せむ)」と言っているので、より“冊子をホチキスなどで止めている作業”などが浮かんできます。が、作者の言いたいことは「準備を頑張ろう」という気持ちよりも、地域に伝わる昔語りを子供たちに「伝えていく」という意味の方が強いのではないでしょうか。

そうなると具体的な作業風景が浮かぶことで逆に作者の「次の世代に昔語りを伝えていきたい」という意味が薄れてしまう気がします。

夏休み昔語りを学童へ伝える準備も慣れつつ三年(はや三年目)

などとしてはどうでしょうか。

子供たちへ昔語りを伝えていく活動に携わってもう三年目かぁ、という思いが歌の核なのかなぁと思います。

また「せむ」ですが、現代仮名遣いの場合は「せん」です。「せむ」と旧仮名遣いにする場合は「伝える」も「伝へる」になりますし、他の歌も旧仮名で作るなど、どちらかに統一しましょう。

 

2・故里に安否の電話掛けみれば会話通して蛙鳴く声(渡辺)

場面はよく分かりますし、季節感もあり、ちょっと懐かしいような、離れていることを実感して寂しいような、良い場面を捉えていますよね。

ただ「掛けみれば」というと説明っぽさが目立って損をしてしまうと思います。また蛙の声というのは多数が賑やかに鳴いているのか、一匹が涼やかに鳴いているのか、などでもイメージはかなり変わってくるのでは、と思います。

実際私は電話越しにも聞こえるほどの沢山の蛙がうるさいくらいにジャンジャカ鳴いていて会話の声が聞きづらいという田舎あるあるな場面を想像しましたが、実は一匹の蛙で「あらもうそんな季節か」という気付きの歌だったようで、ここはきちんと描写しないと齟齬が生じてしまうなと思いました。

「掛けみれば」は「掛けるとき」「掛ける夜(夕)」などでいいのではないでしょうか。また「会話通して」と言わずとも電話中なのだから場面は分かると思います。その分蛙の声を具体的にしてみましょう。

故里に安否の電話掛ける夜蛙の声の細く紛れて

故里の母の安否を聞く向こう蛙鳴き初むころころ高く(四句と結句は入れ替えても)

「古里の~聞く向こう」とあれば電話なのかなと想像してもらえると思いますがどうでしょうか。

 

3・歌の道まっすぐ生きた先生に紆余曲折の吾は悲しむ(山口)

講師の砂田への挽歌ですね。ありがとうございます。

歌の道をまっすぐ生きた先生に対して、紆余曲折している私は悲しむという意味ですが、このままだと文法的に「先生に悲しむ」と繋がってしまい、「先生に対し/比べ」などの言葉が入らないとちょっと不自然かなという気がします。

「悲しい」という感情をまとめてしまう言葉を捨てて

歌の道まっすぐ生きた先生に対して吾は紆余曲折よ

まっすぐ生きた先生に対して、自分は紆余曲折だなぁ。

歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の吾は悲しむ

先生はまっすぐ生きましたね。紆余曲折の私は悲しんでいます。

歌の道まっすぐ生きた先生よ紆余曲折の私は悲し

結句を「私は悲し」とすると“私は悲しいです”という意味になります。「悲しむ」という動詞にするか、「悲しい」という形容詞にするかで少しニュアンスが変わりますね。

 

4・紫陽花の白い花毬雨に濡れ仄かに赤みさして揺れ居り(栗田)

白い紫陽花の花毬に赤みがさしたことで作者にどんな感情が湧いたのでしょうか。そこが少し見えて来ないなと思います。

「仄かに赤みがさす」という表現が迷う元なのかと思います。「仄かに赤みがさす」と言うと大抵の人は「ほんのりと赤く色付く」という感じで、赤い状態がベストなもの(花や果実、紅葉など)が成長の証としてようやく色付いてきたとか、照れてほっぺたがぽっと赤く染まったり、柔らかだったり暖かだったりとプラスなイメージが湧くのではないでしょうか。

私は白で咲き始め、徐々にピンクになっていく紫陽花の品種でもあるのかと思い、徐々に花盛りの色へと変わっていく様子を喜んで見ているのかと思ったのですが、実は白い紫陽花が盛りを終えて赤茶に変色(枯れて)いく様子とのことで、“色付くワクワク”ではなく“色褪せる寂しさ”という全く逆の印象だったことが分かりました。

送り梅雨に揺るる白き紫陽花はかすか赤茶に色の褪せおり

紫陽花の白き花毬少しずつ赤茶に褪せて夏はもうすぐ

「送り梅雨」とは梅雨明けの時期に降る強めの雨のことです。

下の場合、雨の中、濡れているということは分かりませんが、紫陽花の季節(梅雨)ももう終わりかぁとしみじみしている気持ちは伝わるかと思います。

 

5・青鷺が糞を撒きつつ飛びて行く何事もなく自然のままに(名田部)

汚がったり恥ずかしがったりすることもなく、排せつという行為を生物としてあるがままの行為と捉えている場面はとても面白いと思います。

ただし歌としてはやはり糞尿や害虫など、一般的なイメージとして嫌悪感があるものを題材にすると詩的になりにくいので、非常に難しい題材であるということは意識しておいてください。

さて、作者は青鷺が飛びながら糞をするということにまず驚き、更にその糞が真っ白できらきらと輝き美しいと感じたことで更に驚いたということで、それならその“糞がキレイだと感じた”部分は是非入れたいところですね。

下の句の「何事もなく」「自然のままに」は受ける印象は同じような言葉なので、どちらかに絞って、その分糞がキレイに見えたという描写を入れたいです。

青鷺は真白き糞をきらきらと撒きつつ飛びぬ自然のままに

青鷺がきらきら糞を撒きながら躰軽くしあるがまま飛ぶ

鳥という生物としての自然的な行為で、排せつすらも感動を覚えたということですね。

 

6・何気なくしたことは脳をスルー探すこと増え短い一日(飯島)

「あるある~。私もやるわ~」と共感を呼びそうな内容ですよね。

何気なく置いた道具など、いざ使おうと思ったら想定していた場所になくて、あれどこに置いたかしら~と探したり、忘れないようにとメモを取ったはいいがそのメモをどこに置いたとか、どのあたりに書いたか忘れて探すとか。

ただ上の句の音数が合っていないのと「脳をスルー」という言葉がちょっと粗いかなと思います。

何気なくしたことは脳を素通りし探すこと増え一日(ひとひ)短し

 

7・ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり(緒方)

久しぶりの長距離の運転を終えてホッとしたのと疲労とで作者が吐いたであろう溜息を、長距離走って熱くなった車の排気にかけて上手く融合して良い歌になったと思います。

下の句を「愛車は車庫に吐息をもらす」として「吐息」を結句に持って来ようか迷ったということですが、確かにそちらの方がより「吐息」の印象が強くなりいいかもしれませんね。

 

8・電線に届かぬように背を切られ街路に並ぶ「ゆりの樹通り」(鳥澤)

ユリノキはモクレン科の落葉高木で高さ40メートルを超えることもある大きな木です。

それが昨今の強剪定でバッサリ伐られてしまって、すっかり無残な状態になってしまったことへの残念な気持ちを歌いたかったのでは、と思います。

強剪定というやり方は 景観上も悪く、木としての勢いがなくなり、将来的に倒木の危険性が高まるなどの問題があるのですが、こまめな剪定はどうしても費用がかかりますし、“予算の限られた中でとりあえず今苦情が入らない”ために最近よく採用される手段です。

「電線に届かぬように背を伐られ」という具体的な描写で強剪定なのだなということが分かりますね。

ただ「街路に並ぶ」は言わずとも「ゆりの樹通り」とあるので“ユリノキの並ぶ通り”ということは分かりますよね。

その分、強剪定されて残念な状態になってしまったことが分かる情報をもう少し入れてもいいのかもしれません。

電線に届かぬように背を伐られ木陰小さき「ゆりの樹通り」

電線に届かぬように背を伐られ夏も裸の「ゆりの樹通り」

 

9・一日の予定は一つだけにして古希の体をいたわり使う(金澤)

「一日の予定は一つだけにする」という具体的な行動の描写はとてもいいですね。ただ「いたわり使う」と言い切ってしまうと読者が自分の思考を入れる隙がありません。

なんで予定を一日に一つだけにするのか。そうそう、古希ともなれば体も疲れやすくなってもう無理できないものね、と読者自身に答えを見つけさせる。読者が自分事として考えることで共感できるために、敢えて答えを書かずに止めておくことが大事かと思います。

古希過ぎてカレンダーには一日に予定は一つと新たなルール

古希過ぎて決めたルールは一日の予定はひとつだけとすること

 

10・人住まぬ家によりそひ幾年ぞ泰山木の花の静けさ(小幡)

泰山木(タイザンボク)はモクレン科モクレン属の常緑高木です。

ユリノキもそうですけど、モクレン科の木ってかなり大きくなるんですよね。

人が住まなくなって何年も経つ家で当然手入れや水やりなどもされていないのでしょうけど、花の季節になると白い花が見事に咲いて、その生命力の強さに逆に人の儚さ(空き家)を見ているのかな、という気がします。

ただ「幾年ぞ」とありますが「ぞ」を使って強調する程の思いが「幾年」にあるかな、という気もします。普通に「幾年か」くらいにしておいた方が「花の静けさ」の印象が強くなるような気もします。

 

11・亡母宛の手紙もすつかり減る夕べ阿夫利嶺へ日の赤々と落つ(畠山)

亡母と書いて「はは」と読みます。母が亡くなってから実家に片付けに通っているのですが、とにかく通販が好きだったようで当初は毎日ものすごい数のDMとかが届いていたんですけど、片っ端から送付中止の連絡を入れて、五十日が過ぎる頃ようやく「減ったなぁ」と実感できるまでになりました。

同時に、もう母が居ないということをより実感したというか。寂しい気持ちもしました。

実家の方では郵便は夕方頃配達されるルートのようで、配達のバイクの音がしてポストに確認に行くと丁度夕焼けの時間なんですよね。その夕焼けという時間帯がより寂しさを際立たせる気がします。

 

12・雨乞いのいにしえ語り健やかな子等と眺むる大山阿夫利(大久保)

「いにしえ語り」は「昔語り」と同じく「思い出話」「昔話」という意味の名詞としてあるので、このままだと「雨乞いのいにしえ語り=雨乞いの昔話」という名詞で一旦文章が切れてしまいます。

語り聞かせるという動詞の意味で使うなら「いにしえを語り」と助詞の「を」を入れるか、「聞かせ」の方を使い、語順も「いにしえの雨乞い聞かせ」の方が自然ではないでしょうか。

また「健やかな」というのは概念的で曖昧なので子供や大山を具体的に五感で想像できる情報に変えた方がいいのではと思います。

また「大山」は全国にいくつもあるので「阿夫利嶺(あふりね)」とすると限定されると思います。

雨乞いの昔話を聞かせつつ子等と眺める阿夫利嶺蒼し

また「いにしえ語り」を名詞として使い、眺めているのは山の方としてしまう手もあります。

雨乞いのいにしえ語りの時代より子等を眺むる阿夫利嶺高し

 

13・今ここに風の電話があるならば還らぬ君に声届けたい(渡辺)

「風の電話」というのは岩手県にある私設電話ボックスで、電話ボックス内には、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話である「風の電話」とノートが1冊置かれており、来訪者は電話で亡き人に思いを伝えたり、ノートに気持ちを記載したりできるもので、特に東日本大震災以降、震災で死別した家族への想いを風に乗せて伝えられるようにと公開されたそうです。

私はその存在を知らなかったので、風の電話とは空想上のもので、風があの世まで言葉を運んでくれるものとイメージして、心の中で亡くなった人たちへ語りかけつつ風の中(屋外)にいることなのかな、と思い、素敵な想像だなぁと思っていました。

でも実際にあるものならば「」や〈〉で括って固有名詞であることをはっきりさせた方がいいと思います。

また結句は「届けたい」だと口語、「届けたし」だと文語になります。

私は「風の電話」は作者の空想上のものだと思っていたので「あるならば」と説明的にするより

回そうか風の電話のダイヤルを還らぬ君へこの声とどけ

などとしたらどうかな、と思ったのですが、作者が実在の「風の電話」を思っていたのならちょっと違うのかなぁ、とも。

 

14・自分とは何かを求め先生は歌人生を強く生きぬき(山口)

自分とは何か、命とは何か、死とは何か、存在と非存在とは何か。母の歌作りはそういったテーマが根底にあったと思います。

結句は「生きぬき」では収まりが悪いので、「生きたり」などでいいのではないでしょうか。

 

15・読み終えたミステリの本の続きかと紙面を埋める臓器あっせん(栗田)

たまたま読み終えたばかりの本と内容が似ていたという驚きと、現実にこんなミステリ本のような事件があるんだという二つの驚きがあるようです。

読み終えたミステリ本の続きかと夕刊に臓器売買の記事

読み終えたミステリ本の続きかと夕刊報じる臓器売買

「臓器あっせん」自体は違法ではなく、国内であくまでも公平に適合する臓器を病院と患者の間で繋ぐ事業としてあるので、ニュースになるような多額の謝礼を払って海外で違法に移植を受ける違法なものは「臓器売買」としてしまってもいいのではないでしょうか。「違法臓器あっせん」だと長すぎて使いづらいですし、「臓器売買」なら「売買」の時点で違法なので。

 

16・久しぶり一泊の旅福島へ「三春滝桜」散りしと聞くが(名田部)

「久しぶりに一泊の旅を福島へ」と二つの助詞を省略してしまっているので、「久々に一泊の旅を福島へ」と助詞を入れて読みやすくしてはどうでしょうか。

またこちらも音数は多くなってしまいますが「「三春滝桜」は」と「は」を入れて欲しいですね。

また結句の「聞くが」は「が」のまま(聞いたが)でもいいのですが、「聞くも」(聞いたけれども)として濁音を避けてもいいのかな、と思います。

 

17・品種増えた紫陽花の葉にかたつむり見ることもなく何年も経つ(飯島)

確かに最近かたつむりを見かけない気がします。「紫陽花の葉っぱに乗ってるかたつむり」の図って梅雨のお決まりイラストという感じでしたけどねぇ。

ナメクジはいっぱい見かけるんですけどね…。

そして紫陽花は毎年のように新しい品種が出ますね。昔は普通の丸っこいのと、額紫陽花と八重くらいでしたよね。

初句、「品種増えた」では六音なので「品種増す」でいいのではないでしょうか。また「見ることもなく」は「見かけなくなり」の方が自然な気がします。

 

18・小田急に米人四人を傍耳(かたみみ)に聞いて知りたるトランプ嫌い(緒方)

「小田急」という情報がどうなのかな、と少し悩みました。米軍関係者をイメージさせたいなら「横須賀」などの方がイメージとして定着していると思いますし、「小田急」だけでは電車なのかデパートなのかでも迷ってしまいます。

「電車内」にしておけば旅行中なのかも、とか想像して、旅行で外国に来てまで話すほどに熱い話題なのかもなとか考えますし、日本で仕事をしている人かもと想像すれば、日本で暮らしている人の間でも話題になるほどなのだな、とか。「横須賀」で軍関係者を想像すれば歴代共和党政権では強固な支持基盤とされてきた軍人層の間でもそんなに嫌われてるのかとか。想像する人物像によって結構意味があると思うんですよね。それが「小田急」で正しいのかな、と。

電車内米人四人の会話からトランプ批判の単語溢れる

「トランプ嫌い」と言い切ってしまうと、作者が米国人の会話から「トランプ嫌い」と決め、読者は作者が決めたその判定を受けて、あぁアメリカ人もトランプ嫌いなんですね、とそこで終わってしまう気がします。「トランプ批判」の言葉あたりで止めておけば、どんな話題だったのだろう、あの件かしら、それともこの件かしら、と自分の中にあるトランプへの不満を思い起こして考えるのではないでしょうか。

また「聞いて」は口語なので「聞きて」と文語にした方がいいのではと言ったところ新仮名遣いなので、と言われていましたが、「口語と文語」「新仮名と旧仮名」はそれぞれ別問題です。

たとえば「彼はそう言った」という例文で見てみると、まず「彼はそう言った」という口語表現にするか「彼はそう言いぬ」「彼はそう言いき」「彼はそう言いたり」「彼はそう言えり」「彼はそう言いけり」などの文語表現にするかという選択をします。御覧の通り文語の方が細かいニュアンス違いを表現できるので、言葉を突き詰める短歌には向いていると思いますが、口語の方が自然で飾らない表現ができるので歌の内容によっては口語が生きる場合もあります。

その選択の上で、新仮名遣いとしている人なら↑に書いた通りですが、旧仮名遣いとしている人なら「彼はさう言つた(全て大文字)」「彼はさう言ひぬ」「彼はさう言ひき」「彼はさう言ひたり」「彼はさう言へり」「彼はさう言ひけり」など、口語でも文語でも旧仮名で表記します。

新仮名遣いか旧仮名遣いかは一度決めたら歌ごとに変えることはできませんが、口語か文語かはいつでも臨機応変に作品に合わせて変えることができます。何なら一首の中で使い分けることもできます。上の句でちょっとくだけて口語にしたから結句では文語にしてしっかり締めよう、とか。

「聞いて」「書いて」などの「~~いて」は口語です。「聞きて」「書きて」という文語が発音するにあたってイ音便化したものです。形容詞の「赤い」「白い」「美しい」などもそうですね。文語では「赤き」「白き」「美しき」です。

音便化した言葉というのはそもそも“発音するにあたって言いやすいように”と変化したものですから、基本的に口語です。

他に「遊んで」「読んで」「学んで」などは撥音便〈ん〉の口語で文語は「遊びて」「読みて」「学びて」となります。「言って(言つて)」「待って(待つて)」「笑って(笑つて)」などは促音便〈っ〉の口語(内は旧仮名)で、文語は「言いて(言ひて)」「待ちて」「笑いて(笑ひて)」(内は旧仮名)となります。

 

19・地の人にホタルは出るかと訪ぬれば身の上話の八十余年(鳥澤)

地元の住民に「この辺りに蛍は出ますか」と尋ねてみたところ、延々と八十余年分の身の上話を聞かされたという作者。苦笑いが見えますね。

「ホタル」は漢字の方がいいのではないでしょうか。

また「訪ねる」はどこか場所を訪れる時の「たずねる」です。質問する場合は「尋ねる/訊ねる」です。

また「尋ねる」の古語「尋ぬ」の已然形「尋ぬれば」を使っていますが、現代語の「尋ねれば」でもいいかもしれません。

また文法的には「身の上話を(された)」と繋がるのが自然だと思うので、「身の上話の」という助詞が引っかかります。四句と結句を入れ替えて「八十余年の身の上話(をを省略)」としてはどうでしょうか。

 

20・高齢者バス乗車券アプリ入れスマホのカバーをちょっとおしゃれに(金澤)

さすがにカタカナが多すぎるかなという気がします。カタカナが多いとどうしても字数が増えてしまって水甕投稿既定の28字に収まらないのでもったいない気がします。

お得なので高齢者用バス乗車券のアプリは使いたい。けれどまだ気持ち的に若く「高齢者」の括りに入れられるのにまだ少し抵抗があり、その“抵抗”の部分が「スマホのカバーをおしゃれに」なのではないかと想像しました。

またバスに乗るたび人目に触れるということも意識して、カバーを替えるきっかけになったのかもしれません。

でも「ちょっとおしゃれ」と言われても具体的に見えてこないので、色や質感、柄、ブランドなど何かお洒落のとっかかりが欲しいところです。

高齢者バス乗車券のアプリ入れお洒落な革製カバーに替える

「アプリ入れ」とあるので「スマホ」は省いても分かるのではないかということで、カタカナを減らしてみました。

実際は合皮だそうですが、いいんです、そんなの、創作で(笑)。要は作者の思う「おしゃれ」の方向性が見えればいいんです。例えば花柄だとか明るい色とか柔らかい色などなら「明るくて若々しいイメージ」を重視していて、高齢者用のアプリを使う歳になったけど気持ちはまだまだ若いわよ、ということを歌っているように見えますし、革製とか落ち着いた色とかブランド物などなら上品な感じとか落ち着いて美しく歳を重ねたいという印象が見えてきます。

 

21・台風の近づく夜の震度4ピクリともせぬ児の眠りはも(小幡)

台風が近付く夜ですから既に風や雨音など不安な雰囲気に包まれているのでしょう。そこへ(神奈川県では)久々の震度4というやや大きな地震。大人は東日本大震災の記憶なども甦り落ち着いていられませんね。既に床に入っていたとしても思わず飛び起きてテレビなどで震度を確認したりしそうです。しかし、側で眠る子供ときたらピクリともせずに眠っている。成長期の子供の眠りの深さと豪胆さに感じ入る作者。

字余りにはなりますが「震度4に」と助詞を入れてもいいかもしれません。

 

22・箱いつぱい友から母への古手紙 差出人もこの世にをらず(畠山)

母が亡くなったあとの片付けで、大量の古手紙が出てきました。まだ旧姓の母宛てで、切手の額面が一桁時代のものも(笑)

特に仲が良かったのか、同じ差出人からの手紙だけでダンボール一箱もあっったり。

でもここ数年の新しい手紙はなくて、遺された住所録を見たら×が付いていたので、あぁこの方も既に亡くなっているのかなぁ、と何とも言えない切ない感じになりました。

でも取っておいても仕方ないし、置いておく場所もないのでしみじみしつつ捨てましたけどね。

「友から母へ」としましたが、「母へ友からの」とした方がより分かりやすいかな、と気付きました。「友から母へ」だと作者の友から母へ、とも受け取れてしまいますよね。

 

☆今月の好評歌は7番、緒方さんの

ごぶさたの東京往復走り終え愛車は吐息を車庫にもらせり

 となりました。

作者のホッとした気持ちを車の吐息として表現したところが素敵ですね。

 

次回澪の会は8月21日第三㈮ 12:30~厚木アミュー607です。

尚、酷暑が予想されるため、無理をなさらず、体調に少しでも不安があればお休みください。

参加される方は詠草二首を8月7日までにお送りください。

By PhotoAC ソライロ

 

 

 

 

お知らせ

澪の会の代表、砂田曉子が5月16日夜、永眠いたしました。

 

2月より間質性肺炎の悪化で療養入院中でしたが、数日前から急性腎障害となり、16日夜、急変致しました。

83歳でした。

 

急で申し訳ありませんが、5月22日の澪の会はお休みとさせていただきます。

 

尚6月は19日、アミュー607で開講の予定です。

よろしくお願い致します。

◆歌会報 2026年4月

◆歌会報 2026年4月 

 

まずは皆さま、講師砂田の入院のため2月、3月と歌会をお休みさせていただき、申し訳ございませんでした。

残念ながらまだ退院の目途は立っておらず、現在は長期療養型の病院へ転院し治療を続けております。

これにより厚木澪の会は講師不在の「同好会」というかたちでの歌会となりますがよろしくお願いいたします。

 

第164回(2026/4/17) 澪の会詠草

 

1・ありがとうのメッセージカードの花束を小さな腕に抱えた少女(戸塚)

ありがとうというメッセージカードの付いた花束を抱える少女。誰かに渡すのか、自分が貰ったのか。この歌ではそこまでは分かりませんが、何だかほっこり温かい気持ちになる歌ですね。

卒業のシーズンなので、作者は花束を抱えた見知らぬ少女を見て「誰に渡すのかしら」と想像しているような場面なのかなと思いましたが、実際は、作者はピアノの先生をしていらして、その教え子の少女からいただいた場面だったということです。

ありがとうのカードを付けた花束を少女は小さき腕に抱えて

とすると前者の「誰にあげるのかしら」と想像しているような場面に。

ありがとうのカードの付いた花束を少女は照れつつ抱えて来たり

とすると作者が貰ったのかなと想像できるのではないでしょうか。

いずれにせよ、二句は「メッセージカードの」だと九音になってしまうので、「カードの付いた」「カードを付けた」などで七音に整えた方がいいと思います。「メッセージ」とまで言わずとも、「花束・ありがとう・カード」という言葉からきちんと想像できると思います。

 

2・大山の端に照らすは残り火よ炎となりて黒き雲焼く(名田部)

「残り火」という言葉が解釈をややこしくしてしまった感があります。

野焼きや山火事という実際の「火」によって黒い煙が雲のようにもくもくしている状況なのか、夕焼けを「火」と捉えて、まるで雲を焼いているようだと喩えたのか。

現実的に大山近辺で山火事のニュースはありませんでしたし、野焼きも現在は禁止されている行為なので、おそらくは夕焼けのことなのだろうな、とは思いますが、疑問が湧くということはそれだけ歌の核から意識が逸れてしまうわけですから、なるべくすっと読み取れる表現にしたいですね。

また「残り火」と「炎」というのもイメージが対立してしまいます。残り火のイメージは“ちろちろ”とかくすぶっているような感じで、炎は“めらめら”とか勢いのある感じですよね。夕日がすっかり沈んでしまって暗くなりつつある中、山の端っこだけかすかに明るい色が残っているというような場面を歌いたいなら「残り火」という気がしますし、分厚い雲の向こうに燃えるような夕焼けがあって、その輝きに圧倒されたというような場面なら「炎」なのではないでしょうか。

大山に夜の帳(とばり)の下りはじめ夕日燻(くすぶ)る残り火のごと

などとすると、ほとんど暗くて山の端に少しだけ夕焼けの色が残っている静かな感じ。

阿夫利嶺の端の夕日は赤々と燃ゆる炎に黒き雲焼く

とすると力強い夕焼けがまるで雲を焼いてしまいそうだ、という感じになるのではないでしょうか。

また「大山」でもいいのですが、「大山」って「おおやま・だいせん」と呼ぶものを含めると日本で40近くあるらしいんですよね。なのでイメージをより絞るなら「阿夫利嶺(あふりね)」とした方がいいかもしれません。音数も変わらないですし、字面もちょっと格好いいし(笑)。

 

3・寒き中スイセンの花凛として花一輪に優しき香り(山口)

まず「スイセン」は「水仙」と漢字にしたいですね。

また「水仙」といえば普通は「花」のことを想像すると思うので、わざわざ(しかも二回も)「花」という必要はないと思います。

それよりも白なのか黄色なのか、ラッパなど形や品種名など、もっと水仙を具体的に想像できる情報を入れた方がいいのではないでしょうか。

また「寒き中」でも意味は分かるのですが、「中」って色々な漢字とくっつきやすい文字なので、読む時に区切りに一瞬迷いが生じる可能性が高い言葉でもあります。漢字の並びによっては少し表現を変えてもいいかもしれませんね。

寒き日に黄の水仙の凛と咲き優しきかおりをほのかに放つ

冬の朝白き水仙の一輪を摘めばふわりと優しき香(か)のす

 

4・ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑海まで渡る呼吸のいぶき(小夜)

上の句は「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」と俳句として読むととても良いと思います。ただ短歌として下の句まで読むと、「ぎっしりと」のかかる先(動詞)で悩んでしまいます。普通「ぎっしりと」とくれば「並ぶ」「詰まる」「入る」とかそんな言葉ですよね。「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」という俳句なら「ぎっしりと(キャベツが並ぶ)三浦岬のキャベツ畑」と補完して読むのですが、短歌のかたちとして読むと「ぎっしりと→渡る」という動詞にかかり不自然になってしまいます。「ぎっしりと」という表現を変えるか、「ぎっしりと」に自然と繋がる動詞を入れた方がいいのではないでしょうか。

また結句である「呼吸のいぶき」が分かりそうでいてちょっと分からない、そんな気がしました。

まず「呼吸」も「息吹」もほぼ同じ意味ですよね。どちらかを切って「キャベツの生命力」を呼吸(息吹)として捉えたということをハッキリさせた方がいいのではないでしょうか。

ぎっしりと三浦岬に連なりて春のキャベツは青々息吹く

春キャベツ三浦岬にぎっしりと玉巻き深き呼吸をはじむ

三浦岬に玉巻くキャベツの産声のごとき息吹の海まで渡る

 

5・裸木の根もとに屈めば羽包(はぐく)まれ安らぎしここち うらら春昼(緒方)

「裸木」「屈む」「羽包む」という言葉のイメージの合致度と、「安らぎしここち」と言ってしまっていいのかどうかが問題になる歌かと思います。

まず「羽包む」という表記からは、どうしても“羽のような柔らかなものに包まれる様”をイメージしますよね。でも「裸木」と言うとごつごつと硬い樹皮を想像すると思います。ごつごつと硬い樹皮に“包まれる”という字の印象がどうもうまく合致しません。

また「屈む」というのも“うつむいてうずくまる”感じで、漢字の意味的にも「屈する」「気持ちがくじける」「気力を失う」というマイナスイメージの方が強く、「安らぐ」というイメージと今一つ合致しない気がします。

また「屈めば羽包まれ安らぎしここち」では述語がありません。「羽包まれ安らぐここちす」「羽包まれ安らぐここちに(なる)」など“羽包まれて、安らぐ心地がした(になった)”のか、「羽包まれ安らぎし心地思い出す(甦る)」など“羽包まれて、(かつて)安らぎし心地を思い出した”のかどちらかなのかな、と思います。

話を聞いてみたところ、“(葉がないので)日が当たって温まった木肌の根元に寄りかかるように座ったら、母の胎内にいるような心地になった”ということで、それを「安らぐ」という大雑把な感情で言い切ってしまっては歌になりきれない(他人には分からない)と思います。その「安らぐ」がどういう状態に置かれたから湧き出たのか。春の日に暖められた木肌の暖かさ、どっしりと揺るがない存在の元に居る安定感、そこから母の胎内というイメージがわき、それが「安らぎ」と感じたわけですよね。一言で「安らぎ」と言っても色々あるわけで、どんな背景から来る安らぎなのか絞る情報がないと、大まかな感覚しか得られないと思います。

もっと言ってしまえば、裸木=葉っぱが無いので日が当たって温かい、とか屈めばという部分も、具体的なようでいて、場面に至る説明(理屈)になってしまっていると思います。絞ると「春の温かい樹木から母の胎内にいるような安心感をおぼえた」ということになるのではないでしょうか。

春日浴び温もる大樹にもたれれば胎内記憶のふと甦る

春昼の大樹の根元のぬくもりにふと甦る妣の胎内

ゆりの木の根元しっとり温かくふと甦る妣の胎内

 

 

6・貫禄の染井吉野の根に近く二輪は大きく花を咲かせる(川井)

丁度一年前、

桜木の根にほど近くひそやかに二輪は早々花を咲かせた

と歌っておられましたが、今年はひそやかでなく大きく咲いたんですね(笑)。

去年は「根にほど近く」ではなく「根のほど近くへ」ではないかと指摘したのですが、今回は「根に近く」でも「根の近く」でも間違いではないと思います。でも「根の近く」の方がやや自然かなぁという気もします。

またこれも去年と同じ指摘になってしまいますが、「二輪は」は「二輪が」と強調した方が、より“特に目が行った二輪”という感じがすると思います。

また「大きく花を咲かせる」「大きな花を咲かせる」も少しニュアンスが違いますよね。「大きく」とすると桜に意思があってやや擬人化している感じ。「大きな」とすると客観的な事実。

作者は桜に意思を感じて「もう結構な老木だけど頑張ってるわね!」と話しかけるような気持ちで見ているのでしょうか。それとも二輪の大きな花に自然(桜)の生命力を感じているのでしょうか。

 

7・ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘の腕の点滴の跡に血がにじみおり(金澤)

歌の場面はとても良いですよねぇ。ぎこちなく赤ちゃんを抱くという表現から初産なのかなと想像できますし、腕の点滴の跡に血がにじむという表現から難産を乗り越えてやっとの赤ちゃんとの対面なのかなという想像もできますよね。

説明ではなく、具体的な描写で場面を作り上げている。とても素晴らしいと思います。

ただ惜しいなと思ったのが、言葉の位置ですね。今の並びだと印象に残るのは結句の方なので“難産だった”という部分になるのですが、歌としては“難産を乗り越えてやっと面会できた初めての赤ちゃんをぎこちなく抱く”という場面の方を核にした方が良いと思いませんか?

血の滲む点滴跡の残る手に赤子抱く娘(こ)のまだぎこちなし(ぎこちのなさよ)

 

8・校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居る(鳥澤)

あと五日で入学式という日の歌でしょう。

強風が吹きつける中、子供たちを迎えるその日まで頑張って耐えてみせるぞ、と桜に意思を持たせた上で応援している作者の気持ちが見えてきますね。

結句は「待ち居り(おり)」と終止形にしましょう。

口語で「いる」を終止形として使うなら「待っている」と「待つ」の部分も口語にしないと不自然です。

 

9・公園を横切るすり足一年生今日は学校楽しかったかい(大塚)

「すり足」というと重い足取り、つまらなさそうな足取りというイメージで楽しそうではないですよね。

その“楽しくなさそうな足取り”の子に「楽しかったか」と問いかける(心の中でも)のが私にはよく分かりませんでした。

“楽しくなさそう”と見ているのだから、「今日はあんまり楽しくなかったのかな?」と問いかけるなら分かるのですが。

スキップなど“楽しそうな足取り”を見て「うふふ、学校楽しかったのかい」と目を細めるなら分かりますが、“楽しくなさそう”と見てとっているのに、「楽しかったか」と逆の問いかけをするというのが、私にはピンと来ませんでした。

また「公園を横切る」という情報は必要でしょうか。

重い足取りで帰る新一年生を見て、まだ慣れていなくて、新しいお友達も出来ていなくて、学校、あんまり楽しくないのかな?と心配しているというのが今回の歌の核ではないでしょうか。だとしたら場面の構築に必要な情報は「公園を横切る」ではなく「楽しくなさげに学校から帰る」ということではないでしょうか。

すり足に独り帰路ゆく一年生 学校はまだ楽しくないかい

すり足に独り帰路ゆく一年生 早く友達できるといいね

俯きて重き足取りに帰路をゆく一年生よ楽しくなぁれ

など、心の中で話しかける言葉をセリフとしてそのまま持ってくる手法はありだと思いますが、“重い足取り”と見ているなら、問い掛けのセリフはもっとしっくりくるものがあるのではないかという気がします。

 

10・庭先に花びらヒラヒラ飛んできて花見に行けぬわれは喜ぶ(飯島)

「ヒラヒラ」は「ひらひら」とひらがなにした方が柔らかな印象になると思います。

また歌の場面や嬉しい気持ちはよく分かるのですが、「我は喜ぶ」と感想として言い切ってしまうのはどうかなと思います。

自分が喜んだ、とするより「吾(あ・わ)を喜ばす」とした方が、読者が(作者となって)想像する部分が少し増えるのではないでしょうか。

まるで作者を喜ばそうとするように飛んできた桜の花びら。果たして作者は喜んだでしょうか。それはもう当然「是」、喜んだわけですが、「私は喜びました」と言われるより、少し考える隙間ができますよね。

「私は喜びました」と言われると読者は“喜んでいる作者を見る”位置にまでしか寄れませんが、「花びらが私を喜ばせる」と言われると“喜ばせようと飛んでくる花びらを見る”位置にまで寄ることができるのではないでしょうか。

また「庭先に」「花見に」と「に」が被るため、どちらかを「へ」とした方がいいと思います。今回「庭先に」というのは「ここに来てくれた」という場所を指定する思いがありますから、「庭先に・花見へ」の組み合わせの方が合うかなという気がします。

 

11・花咲けど実のつかぬまま枯れゆくかある日弾けて白き綿花に(大久保)

ちょっと核に至るまでの説明が長くなってしまったかな、という気がします。

また「綿花」というのは実はたんぽぽの綿毛のようなもので、まず淡い黄色の花が咲き、実が膨らんで、それ(実)が割れて白いふわふわの花のような綿毛が開くわけですね。

なので「実のつかぬまま→白き綿花に」なることは事実としてはありえないわけで、読者はどういう状態か掴めずに迷ってしまうと思います。

実のまま全然開かないなぁと思っていたのがある日突然開いた喜びなら、

花ののち固き実のままの綿花(ワタ)の木のぽぽんと白く弾ける朝よ

待ちかねた白き綿花が冬の朝ポップコーンのごと弾けたり

などで、もっと開いた綿花に対する情報(ぽぽんと・ポップコーンのごとく)を描写するといいのでは、と思います。

ただ話を聞いてみたところ、枯れたオクラ(花が似ている)だと思っていた所からある日予想もしていなかった綿花が開いて驚いたということで、そうなると核は「枯れたと思っていた綿花が開いた喜び」ではなく、「予想外に綿花が開いた驚き」ということになり、その場合“そこに綿花があるとは思わなかった”という情報が必須かと思います。

実を付けず枯れたオクラと思いきやある日真白き綿花弾けり

秋に黄の花咲いたまま忘れおり冬晴れへぽんと綿花弾けて

 

12・冬さなか枝先赤く側ゆけばつぶつぶ並んで未開の紅梅(E.S)

冬の寒いさなか、枝の先が赤いことに気付き、近寄ってよく見れば未開の紅梅のつぼみがつぶつぶ並んでいた。

「未開紅(ミカイコウ)」という品種の梅があるようです。早咲きの八重の紅梅で、つぼみの状態から咲いているように美しいことが由来とされています。

「側ゆけば」=近寄ってよく見たら、というのは場面へ至るまでの説明で理屈っぽくなってしまうので、切ってしまった方がいいのではないでしょうか。

また「つぶつぶ並んで」も「つぶつぶ並ぶ」と七音に整えられると思います。

冬さなか枝先ほんのり染めるのはつぶつぶ並ぶ未開の紅梅

冬さなか未開紅の枝先へつぼみつぶつぶ並びはじめる

 

13・古き家(や)を守るがに立つ棕櫚の木のやぶれ唐傘ひかりを零す(小幡)

棕櫚(しゅろ)の木って分かりますか? 分からない方はヤシの木を想像していただければいいかと。日本版ヤシの木で、本場(ハワイなど)のヤシの木に比べると葉は短く、うちわを細く裂いたような葉をしています。

高い位置で葉を広げる樹形を「唐傘」と見て、それが古い家を守っているようだ、と見て取ったようです。

情景は迷いなく浮かぶのですが、作者はその情景を見てどんな感情が湧いたのかがちょっと分かりにくいかもしれません。

古い家を守っている棕櫚に対し、そんな破れた状態になるまで守ってくれてありがとう、ご苦労様、頑張ってと感謝したり励ますような気持ちなのでしょうか。

それとも古い家というのはもう誰も住んでおらず、誰も住んでいない家をまだ(破れた傘のようになってまで)守り続ける姿に何とも言えない寂しさや無常を感じているのでしょうか。

「ひかりを零す」だけではそこがちょっと弱いかな、というかどちらにも取れてしまう表現かなと思いました。

 

14・雨上がりきらきら桜の吹雪くなか退院見込めぬ母の見舞ひへ(畠山)

雨上がりの午後、雨に洗われた空気に日が差し始め、散る花びらも雨で濡れたのか一枚一枚コーティングされたみたいに艶やかに光を弾いて、ピンクというより金色に光ってきらきらきらきら舞い散っていたんですよね。

その美しさに感嘆しつつも、未だ退院が見込めず長期入院になっている母のことを思うと素直に光景の美しさに喜べないというか。風景の美しさを喜ぶ心の余裕がない感じを歌ってみました。

 

15・午年でホワイトホースの小瓶より紅茶へ一滴午後三時かな(戸塚)

今年は午年ということで、お正月にお祝いとして用意したのでしょうか。ウィスキーのホワイトホースの小瓶から紅茶へ香り付けに一滴たらし、アフタヌーンティーを楽しむ作者。優雅でいいですねぇ。

何てことない日常だけれど、ちょっと優雅な気持ちで楽しむ生活詠。肩肘張らず、素直な描写でとてもいいと思います。

「午年で」の「で」だけ気になります。「午年に」としてほしいですね。

 

16・小鮎川ふくれる鴨が十羽おり新春の水際暖かき風(名田部)

ちょっと場面が分断されてしまいましたね。また助詞が少ないため、ブツブツと文章が途切れてしまい調べが崩れてしまっています。

まず核となるものを決めましょう。今のままだと「小鮎川」「鴨」「水際」「風」と主役候補が4つもあります。

基本的には結句こそが一番強く印象に残るので、今のままだと「暖かき風」が主役かなとなりますが、それにしては「暖かき」以外に風に対する情報がなく、「え、あんたが主役?」というツッコミを入れたくなってしまいます。

ではどれに作者は一番注目しているのかなと考えると、やはり一番しっかり観察した描写がある「鴨」なのではないでしょうか。

でも「十羽」という数には今回それほど重要性を感じません。「唐揚げ十五本」の時の「十五本」という具体的な数は「一人でそんなに?」と読者を驚かせ、作者の唐揚げに対するワクワク感を可視化させたためとても重要だったのですが、今回は六羽でも九羽でも十羽でも意味は対して変わらず「一羽でなく複数だった」ことが分かればいいのではないでしょうか。

ふんわりと春の風吹く小鮎川の汀へふくふく膨れる鴨ら

冬の厳しさを越え、少し暖かくなってきた春の風が優しく吹く小鮎川の汀に、それでもまだまだ冬仕様の膨らんだ鴨たちがのんびり過ごしている様子。

「風」も「汀(水際)」も“膨らんだ鴨たち(主役)のいる場所の説明”として分断させずに一つの文章として前に持って来て、しっかり観察した主役の鴨を結句に持って来てみました。

 

17・ヒナ祭り亡き妻と共ごちそうが祝いの酒に愚痴となりてか(山口)

まず「ヒナ祭り」は「雛祭」(漢字)か「ひな祭り」(ひらがな)と表記してほしいです。

生前奥さんがしてくれていたように、奥さんを亡くされた後もひな祭りの節句にごちそうを用意して、おそらくは奥さんの写真などを眺めつつお酒を飲み始めたところ、いつの間にか「どうして俺を置いて逝っちゃったんだよ。一人の酒は寂しいよ」と愚痴になっていた、という場面なのではないでしょうか。

内容はとてもいいですよね。男やもめの悲哀というか。ただ文章をもうちょっと自然な日本語にしたいですね。

ひな祭りにごちそう並べて亡き妻と語らうつもりが愚痴となりたり

ひな祭りの馳走と酒に亡き妻と語らうつもりがいつしか愚痴に

 

18・恵方巻まるごとかじりお辞儀する輝く明日への南南東へ(小夜)

恵方巻。コンビニやスーパーなどでこの風習が宣伝されるようになって、気付けば二十年くらい経っているでしょうか。

その年ごとに違う恵方(縁起が良いとされる方角)に向かって巻き寿司をまるごと頬張るってやつですね。正確にはその後でお辞儀までするんですね(笑)。知りませんでした。

“縁起が良い”ということを「輝く明日へ」と表現したのが作者らしいと思います。

「輝く明日へ」「南南東へ」と近いところで「へ」が被ってしまいますが、これはどちらも必要で仕方がないかなと思います。

まめに行事を楽しむ作者の日常への向かい方が自然と見えてきて、良い生活詠だと思います。

 

19・人絶えし逢魔(おうま)が時(とき)の古寺に置き忘られし怪獣ゴジラ(緒方)

人がいなくなって寂れた風景にゴジラのおもちゃが取り残されているという情景はとてもいいと思うのですが、ずっと昔の一風景を「あの時忘れられていたあのゴジラ、その後どうなったんだろう」と思い返しているのか、今見ているのか、という時制でまず悩みました。またどんなゴジラなのか、作者が捉えたゴジラ像が書かれていないため、ゴジラ(この風景)に対し作者はどんな感情を抱いているのかがまだ見えて来ないと思います。

まず「人絶えし」は「逢魔が時」にかかるのか「古寺」にかかるのか。「人絶えし逢魔が時」というかかり方はどうなのでしょう。ずっと昔に人も絶えた逢魔が時?何だか意味が通りません。「人絶えし古寺」ならずっと前に人も絶えて今は寂れた古寺、という感じで自然に繋がるのですが。

「人絶えて逢魔が時の古寺に」「逢魔が時人の絶えたる古寺に」「人絶えし古寺は今逢魔が時」など、いずれにせよ作者は過去の寂れた古寺を思い出しているのではなく、今現在人の絶えた古寺を見ているのではないでしょうか。

そして「置き忘られし」ゴジラ。やはり「~~し〇〇」と言うと、ただ過去のことを表すのではなく、「〇〇」に当たる名詞をも想像の中で思い返している時に使うと思います。基本的に動詞と名詞の両方を脳裏に描いて思い返すとなると、今目の前に実物があるわけではないので、ちょっと前のことではなくずっと昔のことになることが多いため、基本的には「ずっと昔に」と訳してね、と言っていますが、ちょっと前かずっと前かという時間的な問題というより、遠い記憶を思い起こすなど、かかる名詞までを改めて意図的に思い返している場合が「~~し〇〇」で、しみじみ思い返すほどのことではないただ過去を指すだけの場合やかかる名詞が思い返すまでもなく今現在ある場合としては使わないと思います。

「ずっと昔に置き忘れられてしまったのかなぁ」とするなら、その「長い時」に思いを馳せていることが重要になるわけで、その場合「人絶えし」「逢魔が時」などはそっちに強い印象を持っていかれてしまうので思い切って削り、長い時間放置されていたであろうゴジラの描写(汚れや色褪せなど)を入れるべきでは、と思います。

いずれにせよ「置き忘れられた」だけでは作者の気持ちがあまり見えてこず、“作者はゴジラをどう捉えたのか”、つまりゴジラの描写をしっかりとすることで、作者の心の内が見えて来ると思います。

古寺へ置き忘れられしゴジラ居て雨と闘いし傷跡のあり

逢魔が時古寺の隅へ色褪せた怪獣ゴジラがぽつんとひとつ

公園に誰かが忘れたゴジラ居て逢魔が時の空へ吠えたり

 

20・やれミルクやれオムツだと世話をやき迷惑がられる吾の老婆心(金澤)

場面はよく分かるのですが、「迷惑がられる」と自分の中で答えをまとめてしまっているため、報告で終わってしまったかなという気がします。

それ以上やったらありがた迷惑になっちゃうんじゃない?とか読者に想像させる余白が欲しかったかなぁ、と。

やれミルクやれオムツさあ次は何と娘にも訊かずに孫の世話焼く

 

21・青空へ重機はアームを突き上げて新市庁舎を積みあげてゆく(鳥澤)

「建ててゆく」でなく「積みあげてゆく」としたことで、高い建物なんだろうなぁと思わせ、立派だなぁ、建設業者すごいなぁ、とか建設技術に感心しているのかな、と思わせますね。

「青空へ」とあるので、作者は晴々としたプラスのイメージでこの新市庁舎建設を捉えているのだと思います。

特に直す所はないと思います。

 

22・早朝の目に鮮やかな冬景色畑の白霜(はくそう)綿花の白よ(大久保)

「白霜」を「はくそう」と読ませる例はほとんどなく、「しろしも」「しろじも」「しらじも」と読ませる場合が多いようです。

また畑の霜と綿花の白さが目に鮮やかだとしていますが、「鮮やか」というと色彩の彩度が際立つイメージで、「白」という色は彩度を持たない特殊な色なので(白・黒・灰色は無彩色と呼ばれます)、「白が鮮やか」というとどうもピンと来ません。無彩色は明度によって差が出る色なので、「明るい」とか「眩しい」とかなら“白の明度が際立っている”と感じるのですが。

また雪なら分かるのですが、霜ってそんなに白さが際立つかな、とも。

早朝の目の覚めるごと冬景色 霜置く畑の綿花の白よ

朝日射す冬の景色のまぶしさよ霜はきらめき綿花(ワタ)軽やかに

 

23・床の花寒風に咲いて侘助や ひと枝挿すればわび茶のしつらえ(E.S)

床の間に活ける花として寒風に咲く侘助(ツバキの一種)を飾り、一枝を挿したらわび茶の空間がすっかり整った、という内容かと思います。

わび茶とは茶道の様式の一つで、物事が完全でないことを肯定し、自然のままを受け入れ、簡素で閑静な在り方を楽しむ茶の湯(日本的哲学)を楽しむこと。わび茶を完成させた千利休など、わび茶を好む茶人を「侘び数奇(すき)」といい、利休も好んだという素朴な感じの侘助の花の名の由来という説もあります。

「床の花」でも「床の間に飾る花」「お茶室の花」「茶花(ちゃばな)」ということは分かるのですが、短歌としては出来れば助詞を入れて自然に下に繋げたいところではあります。「床の間に」「茶花には」など助詞を入れて五音になるようにしてはどうでしょうか。

「寒風に咲いて」という活用も「咲いて、どうした」という述語に繋がっていないため不自然に感じます。また「ひと枝挿すれば」は「ひとえさすれば」と読ませるのでしょうか。これも「一枝挿せば(ひとえださせば)」とした方が自然ではないでしょうか。ただそれでも「挿せば」とすると理屈っぽくなってしまうため、「一枝挿して」とした方がいいかもしれません。

床の間へ寒風に咲く侘助を一枝挿してわび茶のしつらえ

 

24・橋五つ向かふの町へ映画観にペダル漕げるを幸と想はむ(小幡)

橋を五つも越えた先の町まで、映画を観るためにペダルを漕げる(体力がある)ことを幸せなことだな、としみじみ実感している作者。

突如入院して歌会も来れなくなってしまった講師の砂田のことや、他にも外出が厳しい友人などのことが念頭にあるのではないでしょうか。

年齢的にも周りでそんな話が増えてくる中、橋五つも向こうの町まで映画という娯楽のために自転車を漕いで行ける体力があるということは“当たり前”じゃなくて“幸せ”なことなんだな、と。

いや、でも、橋五つってなかなかすごいですね(笑)。それだけの体力維持には相当の自己管理が必要なのでは。筋トレとかウォーキングとか全然続かない私としては、きちんと体力維持できる人ってすごいなぁと思います。

 

25・病床の壁の向かふの満開の桜の明るさ僅か届かず(畠山)

母の病床の壁一枚向こうでは桜が満開になっているのに、ベッドの上の母からは見ることが出来ない、という歌です。

「母へ届かず」にするかで迷ったのですが、この一首で完結するなら「母へ」なんですけど、今回は前後の歌が大体母の入院関連の歌なので連作としてまぁ分かるかな、ということで、「ほんの壁一枚向こうなのに」ということを優先してみました。

 

☆今月の好評歌は8番、鳥澤さんの

校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居り

となりました。

強風にしなる校門の桜があと五日で入学式だから頑張るぞ、と耐えて待っているように見えると詠むことで、実は作者が「あと五日、頑張って!」と応援している歌ですね。

7番金澤さんの難産の末ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘さんの歌、15番戸塚さんのホワイトホースを一滴垂らしたアフタヌーンティーの歌、18番小夜さんの恵方巻をかじる歌などの気張らない生活詠も好評でした。

 

次回澪の会は5月22日㈮ 12:30~厚木アミュー601です。第三金曜日の15日はお部屋が取れず、第四金曜日となりましたのでご注意ください。

参加される方は詠草を5月8日までにお送りください。

By PhotoAC LUISU01