◆歌会報 2024年3月 (その1)
第142回(2024/3/15) 澪の会詠草(その1)
1・「友達になって下さい」Gパンの教授は熱く成果を語り(山本)
まずこの「友達になって下さい」というセリフは誰が誰に言ったものなのか。多分ジーパンの教授が言ったものだとは思いますが、助詞がないので、作者が成果を熱く語る教授に惚れ込んで、もっとお近付きになりたい!と思わず言ってしまったとも取れます。そもそも教授と作者はどういう関係なのか。教授の成果とは何なのか。何の教授なのか。教授の「成果」と「友達になって」というセリフは関係があるのか(コミュニケーション学、社会学など)。など、この三十一音からでは読者には分からないことが多すぎて上手く歌の場面を思い描くことができませんでした。
詳細を聞いたところ、農大の植物学の偉い学者さんがジーパンというラフな格好で偉ぶらずに受講者に「友達になって」と言ってくれたことが嬉しかったということなのですが、だとしたら「成果を語る」あたりは切るしかないと思います。
偉い教授が友達になろうと言ってくれたことに重点を置くなら、
ジーパンの農大教授はやわらかく友になろうと生徒らへ笑む
などとしておいた方が分かるんじゃないかなと思います。
また「成果を語る」方に重点を置くなら
などとしておくと読者にも場面が見えてくるのではないかなと思います。
今回は教えていただいた「ペピーノ」を出してみましたが、ペピーノが果物であると結びつく人は少ないと思うので、果物・野菜・植物であること(教授の専門が何か)が分かる言葉を必ず入れましょう。
「とう」というのは「~~という」の略で短歌ではよく使う言い回しです。
短歌は作者の生きた証を文章にして残すものではありますが、「詩(作品)」であって、作者だけが分かればいいという「日記(記録)」になってしまわないようなるべく意識してみましょう。
2・雨日向娘の雛を飾ります庭の菜の花活けて賑わう(戸塚)
お雛様をきちんと出して季節を大事に過ごす作者という場面はとても良いと思います。
ただ「雨日向」という初句がいきなり読者を悩ませてしまい、せっかくの柔らかな場面にすっと入れません。
「日向雨」(お天気雨)とは言うけれど雨日向という言い方は聞いたことがありません。外は雨だけど少し日が射している屋内のことを言いたかったのでしょうか。
初句ですし「御座敷に」「日当たりに」「雨の日に」など迷わない場面の描写でいいのではないでしょうか。
また上の句で「飾ります」としっかり終止形が出ているので、下の句は「庭の菜の花明るく活けて」と倒置法にして上の句に戻すと、二つの文章が一つになってより場面が引き締まるのではないでしょうか。
3・厚き葉に磨きをかけてささやけどそっぽムキムキ金の成る木よ(小夜)
丁寧にお手入れをしてやっているのに全然効果がないわねぇ、という場面と作者の心情はとても面白いと思います。
実際作者はそれほど「効果」など期待していないのだけれど、丁寧にお手入れをする日常の作業の中でふっと「そういや“金の成る木”なんて名前が付いてるのに全然効果ないわねぇ」などと、勉強は出来ないけど元気でかわいい子でも見るような眼差しで微笑んでいるような場面が思い浮かびます。
「厚き葉に磨きをかけてささやく」という描写が具体的でとても良い表現だからだと思います。
ただ「そっぽムキムキ」が問題ですね。「ムキムキ」ではぱっとイメージするのが筋肉ムキムキとかですし、せっかくの詩情を壊してしまいますね(笑)。
「そっぽを向ける」「そっぽ向きたる」などでいいのではないでしょうか。
また「ささやけど」は「ささやくも」として濁音を避けましょう。
4・寒空にローズマリーの花散りて青い小花の庭を彩り(栗田)
場面はしっかりと見えてきます。ただ「花散りて青い小花の」あたりがちょっと説明的になってしまったかな、と思います。
「花が散って、青い小花が」と三十一音の中で二回も「花」について言及しているのも情報被りで勿体ないかなと思います。
また結句は「彩る」としっかり終止形にしたいところ。
寒空にローズマリーの散った花が どのように 庭を彩っている、という描写を探してみてください。
ちなみに講師の提案では
寒空にローズマリーの散る花が青々と冴え庭を彩る
でした。
5・書くのでも話すのでもない打つ会話 句読点など不要なのだと(飯島)
LINEのことなのではと思いますが、「相槌を打つ」という言い方もありますし、気の置けない相手との会話は句読点など意識もせずに相槌を打つだけでも何だか分かり合える、といったような長年連れ添った夫婦のほっこりした会話の在り方の歌なのかな、とも取れてしまいます。
まずはLINEなど最近の新しい「会話」についての歌であることをはっきりさせ、ほっこりプラスの感情ではなく、違和感があるマイナスの感情を詠んだものだと分からなければなりません。
また作者は
A:書くでも話すでもなく「打つ」ことで会話する違和感
B:LINEでは短文でテンポよくやり取りをするのが主流で句読点を使わないということに対する違和感
という二つの違和感があるのに、同じ「LINE」に対する違和感ということで一つにまとめてしまった為に無理が出て、読者にあまり伝わらないものになってしまっている気がします。
どちらの違和感を主題にして作るのか、まず作者の中で整理してからもう一度作ってみて欲しいと思います。
A:書くのでも話すでもなくぽちぽちと板を打ちつつ娘と会話
B:スマホには句読点なき返答と我の長文交互に残る
など、スマホによる会話に作者は何とも言えない違和感を覚えているのだなということと、具体的にどういう事で違和感を意識したのかということを突き詰めてみて欲しいと思います。
6・紫に畑一面を染めあげて栽培のごとホトケノザ咲く(鳥澤)
とても良く場面が見えてきますね。
「栽培のごと」という表現が的確なのだと思います。
ホトケノザはいわゆる雑草なわけですが、それがまるで意図的に人が世話をして咲かせたかのように見事に咲いているのですね。
一般的には「ごと(如く)」「ように」などの比喩表現はやや弱くなってしまうのですが、今回は例えば「明るく見事に」などという表現などよりも「栽培のごと」の方がずっとホトケノザの見事さ、華やかさ、生きの良さを想像出来るのではないかと思います。当たりの比喩ですね。
7・中辺路は癒しの古道いま一度春の陽のもとたゆたいゆかん(緒方)
中辺路(なかへち)は熊野古道のルートの一つです。
懐かしみつつもう一度のんびり歩いてみたいなぁ、と思っている作者だと思いますが、「癒しの古道」と言ってしまったことで旅行会社のキャッチコピーのようになってしまった感があります。
キャッチコピーのような概念的な言葉は多くの人に似たようなイメージを持たせ、なめらかに丸く包み込むことは出来るので広告には向いているけれど、個性を鋭く尖らせ誰かの心に深く突き刺さることは出来ません。
私は行ったことがないので良く知りませんが、聞けば結構な坂などもあり、舗装などされていない山道を行く結構苛酷な道のりだそうで、それを「癒しの」と言ってしまっていいのでしょうか。
息切れしたり、汗を拭って立ち止まったり、踏ん張ったり、滑ったり。色々苦労もしたけど木々のざわめきや木洩れ日、時折抜ける汗を冷ます風、鳥の声、すれ違う人の笑顔、様々なものを経験して結果的に「癒された」ということでその一言に集結してしまっていいのでしょうか。
作者が当時体験した中で「一番」鮮やかに蘇る場面を思い出して、そこを描写した上で「もう一度行きたいなぁ」に続けると歌が詩として鋭く磨かれるのではないでしょうか。
8・何処からか湧いて出たごと人、ひと、ヒトの京都駅にて夫の背を追う(川井)
東京駅などもそうですが、本当にどこから湧いてきたのかと思うほどの人の群れってありますよね。
「人、ひと、ヒト」という表記が問題になりました。作者いわく、人種も様々、老若男女も入り乱れる様を表現したかったということですが、そこまでは表記の違いだけでは読み取れませんし、また読ませる必要もないのではないでしょうか。
今回はどこから湧いて出たんだってくらいの人ごみの中、(慣れない土地である京都駅で)夫とはぐれまいとする作者を核にしているわけで、そこに「外国人が~」とか入れると核が割れてしまいます。
「外国人も含め様々な人が溢れる」という方を核にするなら「夫の背を追う」の方を消して、「外国人も」ということがもっとはっきりと分かる表現で「京都駅は様々な人で溢れかえっている」という核で作ってみてください。それはそれでいつもの作者のしっかりした観察眼があればきっと良い歌になると思います。
また初句ですが「どこからか」と読ませるなら平仮名でも良いのではないでしょうか。もしくは「何処(いずこ)から」と読ませて漢字を使い、「からか」の「か」を取るかした方が迷わず読めるのではないかと思いました。
9・初孫の入試結果と芋苗の芽吹き見守る春の日差しに(大塚)
一般的に孫というのはやはりかわいくてたまらない存在のようで、孫を題材にするといつも客観的に物事を見れる人ですら甘い心情を語る方に傾いてしまう事が多いようです。
ペットの歌などもそうなりがちですね。動物を飼ったことがあるなら分かるかと思いますが、結局はみんな「ウチのコが一番」と思っているため、他の人にあまり熱く「ウチのコがこんなにかわいい」と語られると逆に醒めてしまい共感できなくなってしまうという…。
また男女のバカップルのイチャイチャなどもそうですね。甘ぁい世界は浸ってる本人たちとは裏腹に見せられる方は醒めてしまうので注意が必要です。
そんな甘くなりがちな題材である「孫」の歌ですが、今回は「芋苗」という素朴かつ季節感溢れる具体的な小物と取り合わせたことで上手い具合に「ウチの孫の入試が心配~!」という甘さを突き放し、孫の心配をしつつもしっかりと「今の自分を生きる作者」が主役として立ち、孫の入試を思いつつも芋を植えて生活をする強さと、どこか距離を感じる(一人で生きる)寂しさが詩になりました。
これがもしも何かの「花」とかだったらちょっと甘さが勝ってしまったと思うんですよね。「芋」だからこそ生きた小道具だと思います。作者の選択に拍手!
10・白鷺が一羽水面に佇みぬ水面は鏡二羽おるような(名田部)
水面が鏡となって二羽いるように見えるという場面はいいですね。
ただ「水面」が同じ言葉で二回出て来ているのでどちらかを消しましょう。
歌の核(一番言いたいこと)をリフレインする(繰り返す)ことで強調するという手法も時には有効ですが、今回「水面!」と言いたいわけではありませんよね。
「水際(みぎわ)」「汀(みぎわ)」「浅瀬」などが良いのではないでしょうか。
白鷺が一羽汀に佇みぬ水面は鏡に(よ) 二羽いるような
「鏡よ」とした時は一字空白はいらないと思います。
11・六条御息所が推しと言う美しき人気高き口調に(金澤)
1番と同じく、主語がよく分からないので読者が置いてけぼりになってしまった感があります。
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が(作中で)推し(憧れている・慕っている)と言った人物(キャラクター)を演じている役者さんの事などを言っているのか、「私、六条御息所が一番好きなの」という誰かが美しくて気高い口調なのか判断がつきません。
聞いたところ後者だそうで、だったら「六条御息所を推しと言う」だと思います。
また気高い口調の人が「推し」という言い方をするでしょうか。好きなキャラクターやアイドルなど応援したい対象を「推し」という言い方をするようになったのはつい最近のことで、いわゆる俗語です。気高い口調で俗語というのがどうもしっくり来ません。
六条御息所を推しと言う教壇へ立つ凛々しき女(ひと)は
「推しと言い→女よ」としてもいいかもしれません。
などとするともう少し場面が見えてくるかなと思いますが、そもそも六条御息所がどういうキャラクターなのかという知識が前提での作者の驚き(えっ、あの六条御息所が好きなの?という)なので、どうしても知識に対する作者の感想というラインを越えられない気がします。
12・写メールにふつくらとして女(め)の孫が合格知らせる春の宵かな(小幡)
9番と同じく「孫の入試」を題材にしています。場面もとてもよく分かりますし「ふっくらとして」と視覚による描写で感情に走りすぎない意識も感じられ、とても上手な歌だなと思うのですが、「芋苗」と比べるとやはり少し甘みに傾いているのかなという気もします。
9番の方は「芋苗」により「孫」をぐんと突き放したことで、作者の中の寂しさや強さといった甘くない現実が見えてそこが詩になったと思いますが、こちらはふんわり、ほっとした柔らかい感情で完結しているため読者の心に刺さる度合いはやや低いかなと思います。
でも春だし、合格だし、ふんわり優しく甘めなのもいいじゃない!とも思います。このくらいの甘さなら「ウチのコの方が…」的な醜い対抗心や甘々を見せつけられてげっそりする感情も湧いてこないでしょうし(笑)。
音数や文法もしっかりしていて、直すところはありません。
13・秋植ゑのチューリップから固き葉が土を切りつつ顔出して春(畠山)
近所の人が秋の終わり頃すっかり寒々しくなった空の下で植えていたチューリップの球根からいつの間にか芽が出ていて、あぁもう冬を越えたんだなぁと思ったのですが、それだけではただの報告で詩を感じられないと言われてしまいました。
詩…うーん、難しい(笑)。基本的に外出嫌いで日がなゲームばかりやっているようなオタクなので歌にするような感動やネタ(言いたいこと)がそもそもあまりないのですが。うーん。
仕方がないのでここは少し創作してしまいましょう。
三・一一 チューリップから堅き葉が土を切りつつ顔出してをり
実際は本当に「あぁもう冬を越えたんだな」としか思わなかったのですが、後日あれほどの被害を受けた被災地が13年を経て確実に復興してきているニュースを見て、チューリップの硬い(硬い柔らかいの硬いはこちらの漢字でした。が、堅実な復興とかけて「堅き」の字を選択し直しました)葉が土を切るように伸びている様とイメージが被ったので紐付けてしまおうと思いました。
また三・一一と紐付けたことで「顔出して春」と言い切ってしまうと言いすぎ(意図しすぎ)でいやらしいなと思ったので「をり」にとどめました。