短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年2月 (その1)

◆歌会報 2023年2月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第129回(2023/02/17) 澪の会詠草(その1)

 

1・さああなたさあ逝きましょう白き箱君を抱擁納骨の朝(山本)

「さああなたさあ逝きましょう」という語りかけの言葉(口語)は作者の心情が良く現れていて良いですね。歌っている場面も「納骨の朝」の切ない一瞬をブレることなく切り取っていてとても良いと思います。

またちゃんと五七五七七にまとめられていて、「短歌は初めて」ということにビックリしました。

さて、表記の問題として「さああなたさあ」と全てひらがなで続くとやや読みにくいかなぁという気がしますね。「さあ貴方(貴男)」としてしまった方が、区切れがはっきりして読みやすくなると思います。

また「逝きましょう」の漢字ですが、これだとちょっと作者も一緒に心中しようとするようなおどろおどろしい重さを持ってしまいます。

手元にあった遺骨を納めることで、とうとう本当に私の傍からいなくなってしまうのね、という切ない感情は、納骨の朝に遺骨を抱いて「さあいきましょう」と語りかける場面から十分に伝わるので、ここは普通に「さあもう行きましょう」という意味で普通の「行く」を使うか、もしくはひらがなにしてしまった方が良いのではないでしょうか。

また「白き箱・抱擁・朝」と体言(名詞)で切れてしまう語句が並んでしまうと、ラップ調というか、日本語としては少し不自然でたどたどしい感じになってしまいます。

何とか言い方を変えてみたり、語順を変えてみたりして適切な助詞を加え、なめらかな一文にしたいところです。

「さあ貴方」と言っているので白き箱が「きみ」であることは改めて述べなくともわかりますね。なのでこの「きみ」は省けますね。

「抱擁」は「抱く(だく・いだく)」と言い換えられます。更に「抱(いだ)いて・抱(だ)きつつ・抱(いだ)ける・抱き締め・抱き締む」など同じ四音でも色々と使い分けられます。

「白き箱を胸に抱きしむ納骨の朝」などとするとブツ切り感のない一文になるのではないでしょうか。

とまぁ細かいことはこのくらいにしておいて、初めての作品(人に見せる前提)としてはビックリするくらいお上手だと思います。五七五七七を揃え、歌っている場面がちゃんと分かり、視点や時間がずれることもなく、作者の心情も伝わる。中々最初からこれが全部出来る人はいません。この調子でもっと詠んでみて下さいね。

 

2・新雪の凛々しく映える丹沢に初冬の栄光つかの間誇る(小夜)

まずは「丹沢  誇る」という助詞ですが、ここは「は」ではないのかな、と。「丹沢栄光誇る」文章を最小限まで切り詰めるとこうなりますね。

もしくは「丹沢初冬の栄光誇る」とちゃんと助詞を入れないと不安定ですね。

ただ「初冬の栄光」という表現が問題かなぁと思います。具体的な物自体を表す言葉ではないため、初冬の栄光とは何ぞや?となってしまいます。おそらく作者が一番言いたかったことがここにあるのではという気はするのですが、それを読者に的確に伝える言葉になっていないというか。

私は白き新雪を王冠と見立て、王冠を戴いた丹沢の姿を「栄光」と表現したのではないかな、と思ったのですが、それは私が「新雪の凛々しく映える丹沢」から一生懸命想像力を働かせた結果の読解であり、悩むことなくスッと思い浮かんだものではありません。

これがさっき言ったように「丹沢は白くきらめく新雪の冠載せて誇らしげかな」のような表現なら迷わずに思い描けませんか。

「凛々しく映える」を「白くきらめく」と視覚的な情報に変え、「初冬の栄光」を「新雪の冠」という想像しやすい具体的なモノに変えてみました。

見たままを言葉に変える=視覚的な情報を表す言葉を探す練習をしてみましょう。

また「つかの間・すぐ溶けてしまった」という情報は「時間経過から得た知識」であり、別の場面を歌うことになってしまいます。

そこを歌いたい場合は「栄光・誇らしく見えた」という部分の方は捨て、初めての雪の冠はすぐに消えてしまったという部分に絞って詠まないといけません。

まずは見たままの歌を目指してみて欲しいと思います。

 

3・豆をまく夫の声低く元気なり八十五歳誕生日明け(飯島)

上の句が具体的で良いですね。八十五歳になっても豆まきの行事をしっかり行い、尚且つ老齢の男性ならではの低いながらもまだまだ元気でしっかりとした声が出せるご主人の様子が見えてきてほっこりします。

ただ字余りになっても「八十五歳誕生日明け」の助詞は入れましょう。

 

4・寒風の吹きさす朝の物干しの手指かちこちジーンズ凍る(栗田)

歌っている場面(目の付け所)はとても面白いですね。ジーンズが凍るという具体がとても効いています。

「吹きさす」という表現にやや違和感が。「吹く」で言うなら「吹きつける・吹きすさぶ」などがあると思いますが「吹きさす」とは言わないですよね。

「風」ならもう吹いているのは当たり前なので吹くという意味は取ってしまって「突き刺す」としてしまってもいいのではないでしょうか。冷たい風が針のように肌を刺すイメージが強まり、字余りにして「吹きつける」とするよりしっくりくる気がしますね。

また手指がかじかんでとても痛かったのだとは思いますが、「ジーンズ凍る」という具体がとても効果的なため、主役を「手指」と「ジーンズ」という二つに分けてしまうのは勿体ないですね。寒風に手指がかじかんでしまうのは誰でもよくあることなので、ここは作者ならではの目の付け所である「ジーンズ」に絞りたいところ。

「かちこちぱりんとジーンズ凍る」とか「ぱきっと硬くジーンズ凍る」とか、ジーンズだけに焦点を絞ってみてください。

また「物干し」もしくは「物干し」と助詞を変えましょう。

 

5・六度目の卯年めぐりき初日の出経年劣化の膝痛みつつ(石井)

膝の痛みを「経年劣化」と表現するのが面白いですね。自分の身体をちょっと斜め上から飄々とモノ(他人事)のように見下ろしているような作者ならではの捉え方がユーモラスです。

「めぐり」というと「(遠い昔に)めぐった」という意味になりますが、そんな昔の話ではなく六度目の卯年が「めぐってきた」くらいの意味ですよね。ここで文章を切るならば「めぐり来(く)」でもいいのかもしれませんが、ここは「初日の出」まで繋げないとブツブツ切れてしまいますよね。

六度目の卯年の巡り初日の出」「六度目の卯年めぐれる初日の出」などとして初日の出まで繋げた上で「今、現代」である表現にしておきましょう。

 

6・夫婦とも伊予に生まれて故郷の「来なはる」「知らん」の言葉とび交う(大塚)

方言が効果的で自然な夫婦像がありありと思い描けますね。

ただこの作者の事情を知っていると、この和やかな日常は過去のことであり、過去であるとすることでこの和やかな日常を失ってしまった寂しさや切なさこそが歌いたかったのでは、という意見も出ましたが、私はこれはこれで、ご主人が元気だった頃に作者が詠んだ日常風景の歌という見方でもいいのではないかな、と思います。

ただもし「生前はこうだったのに」という寂しさこそが歌いたかったのだとしたら、「故郷の」「言葉」あたりは切れる言葉だと思うので、「夫婦とも伊予の生まれよ去年まで「来なはる」「知らん」の飛び交いし家」などとして「今はもう飛び交わなくなってしまった」という情報を入れないと伝わらないと思います。

 

7・川の面に逆さ波立つ寒の日を芽吹きうながす杖もて歩く(小幡)

上の句は厳しい寒さの日を具体的に描いていてよく分かるのですが、「芽吹きうながす杖」という事実ではないモノの表現が効果的かどうかで意見の分かれる歌かな、と思います。

「芽吹きうながす杖」というと魔法使いのスティックを思わせ、自分の杖にもそんな力があればいいのにと、「早く芽吹け~、春よこーい」と願いつつ歩く作者を表現したのではないかと思います。

ただ私個人としては「芽吹きうながし」(うながす・願うのは作者)なら分かるのですが「芽吹きうながす杖」と言い切ってしまうとちょっと分からなくなってしまうかなぁという感じがあります。

私は「芽吹きうながす杖」を核とするなら、寒の日の描写は極力薄めてしまって、読者にも「芽吹きをうながす杖」と感じられそうな作者の行動や視線に対する情報が何か欲しいかなぁと思いました。寒の日に芽吹きうながす杖をもち「どのようにして・何を見て」歩く作者、という部分が見えると、ただの杖を芽吹きうながす杖であると捉えた作者の心情にもっと寄れる気がするのです。

でも講師の砂田などには好評なようでしたし、全て現実にありえる表現にしてしまったら面白さが無くなってしまうのかもしれませんね。

ただやはり事実事実で具体的に表現したものでない場合、「分からない」という人が増えるということは確実なので、どこまで飛躍させていいものかを探る難しさがありますね。

 

8・犬にはケン猫にミョウを名付けしと嘯(うそぶ)く友の飄飄(ひょうひょう)と生く(緒方)

音読みの「種族」の名前をそのままペットの名前にしてしまう友人の独特な人となりが面白いですね。

「飄々と」というのは本来ならかなり概念的な表現なので、使い方によってはそれだとわからん、となってしまう危険性が高い言葉なのですが、今回は上の句が具体的なのでしっくり来ますね。

主役である「友」を強くするために「友」としてもいいのではないでしょうか。

 

9・静やかな川に白鷺十三羽明るき水辺風はひんやり(名田部)

白鷺が主役であったはずなのに、結句でいきなり「風」が躍り出て来て白鷺の印象を吹き飛ばしてしまいますね。

最後まで白鷺を主役にしてあげてください。

「静やかな川に白鷺十三羽明るき水辺に白さ増しおり」とか「静やかな川に十二羽の白鷺が集い水辺の一際明し」とか。

風景を歌う時には基本的には「視覚的情報」でまとめましょう。

逆にひんやり・熱い・寒い・疲れた・美味しいなどの「体感」を歌う時には、頬を撫でる、服が貼り付く、息が乱れる、甘酸っぱいなどの「体で感じた情報」でまとめないと伝わりません。

「見たこと」を歌おうとしているのか、それとも「感じたこと」を歌おうとしているのかをまず自分自身で分析して、必要なのは「視覚的情報」なのか「体感的情報」なのかを考えてみてくださいね。

「どっちも言いたいの!」となってしまった場合はまだ核を絞れていないということです。自問自答してどちらかに決め、核を絞りましょう。

 

10・改札の向こうの娘はすでにもう見知らぬ町に溶けこみて立つ(金澤)

「見知らぬ町に溶けこみ」がいいですね。娘さんとの距離感に寂しさを感じつつも、しっかり巣立って新しい生活基盤を築いているんだなという頼もしさや安堵感も伝わります。

しっかりとした場面を構築し、読者をその場に立たせることで、この「一言では言い表せない感情」を読者にも体験させる。これが短歌の醍醐味なのだと思います。

映画の背景セットを組むように。それをたったの三十一音の言葉のみでやるのだから難しいわけですよね。

 

11・夕暮の微弱なひかりに包まれた川面の鴨よ鳴き声もせず(川井)

「夕暮の微弱なひかりに包まれた」という描写がいいですね。場面の再構築に成功していると思います。

とても落ち着いた色合いの絵画を見ている気になります。

文法も自然で直すところは特にありません。

 

12・立春の通りに落ちた炒り豆にこの家の子らの夕べを思う(鳥澤)

通りに落ちた炒り豆を見て、ここのおうちは節分の行事をちゃんとやってるのねぇと微笑ましく思っている作者が見えます。

またこの作者は子供が小さかった頃は豆まきをやっていたものの、子供が成長してから現在はやっておらず、昔はうちもやったわねぇとか懐かしんでいるように感じるのですが深読みしすぎでしょうか(笑)。

立春の通りに落ちた炒り豆」というのが分かるのだけれど少し情報が大人しいかなという気もします。

通りに落ちた炒り豆と言えば節分であることは間違いないと思うので、「立春」は削ってもいいのではないでしょうか。

「庭を越え通りに落ちた炒り豆に」「通りまでいくつも転がる炒り豆に」などとすると「子らの夕べ」のイメージがもっと鮮やかになるかな、という気がします。

 

13・雪の日にぽつぽつ並ぶ雪だるま〈子育て中〉の標識となる(畠山)

久しぶりの積雪があり、子供がいる家の玄関先に雪だるまが並びました。

12番の豆まきの歌と同じように「あー、ここの家には子供がいて、久しぶりの雪にはしゃぎながら作ったんだろうなぁ」と微笑ましい気持ちになりました。

By PhotoAC ラッキーエース