短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

◆歌会報 2022年10月 (その1)

◆歌会報 2022年10月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第125回(2022/10/21) 澪の会詠草(その1)

 

1・オルゴール骨董市に並びおり塗りも美し「六段」のメロディー(戸塚)

オルゴールが骨董市に並んでいた。箱の塗りも「六段」のメロディも美しい。

「六段」はお正月や和風を売りにしているお茶屋さんなどでよくかかっているお琴の曲ですね。

骨董市にオルゴールが並んでいたという意味ならば本来は字余りでも「オルゴールの(は)」と主語の助詞が必要です。

「オルゴール骨董市」と助詞がないままに続いてしまうとオルゴールだけを集めた「オルゴール骨董市」というものがあるのかな、とも取れてしまいます。ただ、それはそれで雰囲気があっていいかもですし、この歌の核はそこではないのでこの歌に関してはどちらでも(音数を優先して助詞を省いても、意味を優先して助詞を入れても)いいかなという気がします。

問題は「塗りも美し『六段』のメロディー」です。日本語としては「塗りも美しき『六段』のメロディ(伸ばし棒は要りません)」が自然でしょう。

歌の核は「塗りも音も美しかった」というところなので作者は「」を外せなかったのだと思いますが、「も」を入れると四句が八音になってしまい、更に結句が九音になってしまう。これでは多すぎると「美し」で止めたのだと思います。しかし「美し」は終止形なのでそこで止めてしまうと「並びおり。」で一度切れ「塗りも美し。」でまた切れてしまいます。

「並びおり。」「塗りも美し。」「六段のメロディ。」ではさすがにちょっと切れすぎかなぁと感じますよね。下の句は一つにしたいところ。結句の方の字数を少し減らして繋げたいですね。「塗りも美しき『六段』の音」として下の句を一つの文章にしてはどうでしょうか。

 

2・青々と若き稲田がいつの間に稲刈弾むトラクターの音(小夜)

青々と若かった稲田がいつの間にか稲刈の時期になって、トラクターの音がしている。

稲田の季節の移り変わりから時間の経過の速さに驚いている作者ですね。

日本語として「稲田ラクターの音」という繋がりが少し気になります。

「稲田にorのラクターの音」の方が自然ではないでしょうか。この場合の「の」は主格(=が、は)の「の」ではなく、連体格(現代語で一般的に使う「〇〇の〇〇(山頂上など)」)の「の」です。

また「いつの間にトラクターの音」という流れも少し気になります。「青々と若き稲田にいつからか(気が付けば)稲刈弾むトラクターの音」などの方が文章として自然ではないでしょうか。

 

3・あかあかと傾りをしむる曼珠沙華あさの散歩の背筋をのばす(小幡)

あかあかと傾斜を占める曼殊沙華を見て、朝の散歩の背筋をのばす。

とても綺麗な情景ですし、曼殊沙華を見て思わず自分の背筋を伸ばすという捉え方も素敵だと思いますが、個人的には「傾(なだ)りをしむる」で少し迷ってしまいました。

「傾り占むる」なのか「傾り惜しむる」なのか。漢字で「傾りを占むる」なら迷わなかったと思うのですが、結句が背筋をのばすだし、すっとまっすぐに立つ姿が印象的な花だから傾くことを惜しんでいるのかな、と。

また「あかあか」という曼殊沙華の情報と「背筋をのばす」が上手く結びつくのに最適な情報なのかな、とも少し思いました。

確かに一面を真っ赤に埋める光景も曼殊沙華ならではの印象的な場面ではありますが、「背筋をのばす」が結句のため色よりもまっすぐに伸びる様子の方がすっと繋がるような気がします。

色から「背筋をのばす」に結びつけるには「あかあか」という情報よりも色の在り方(鮮やかさ、強さ)を入れた方がいいのかな、と思います。

 

4・秋桜を摘みて家へと急く道のくっきり映る影のゆらゆら(鳥澤)

秋桜(コスモス)を摘んで家へと急いで帰る道にくっきりと映る影。そのコスモスの部分の影がゆらゆらと揺れている。

秋の夕暮の風景が詩的に描かれていて良い歌ですね。

秋の夕方はつるべ落としなんて言いますけど本当にみるみるうちに暗くなってしまうので、暗くならないうちに早く帰らなきゃってなりますよね。

そんな秋の短い夕暮時、摘み取った秋桜そのものではなく、くっきり長く伸びる影の花の部分がゆらゆらと揺れている部分に目を持ってきたのが上手いなぁと思います。

「急く道」の「の」が少し気になります。文法的には「道映る影」と繋がるのでちょっと不自然ですよね。「道映る影」だと思います。

いつも基本的にはちゃんと助詞を入れて下の句に繋げた方がいいと言っているので意識して繋げたのかな、と思いますが、例えば結句が「花の影のみゆらゆら揺るる」などちゃんと座った(終止形の)言葉だったりしたら助詞を入れて繋げた方が短歌らしい流れになると思いますが、今回の歌では結句が「ゆらゆら」でしっかり座っている結句ではないこともあり、「急ぐ道」として体言止めで一旦切ってしまってもいいかと思います。

 

5・我が生は天の配剤なりや否てんとう虫のプイと飛び去る(緒方)

自分の生というのは天がいい感じに配合した(意味のある)ものなのだろうかどうなのだろうか。そんな小難しいことを考えていたらてんとう虫がプイと飛び去った。

てんとう虫もひとつ命のあるものとして同じ世界に生きていながらただ「生きること」にまっすぐで、「この生に意味はあるのか」とかぐるぐる考える作者をバカにするように飛んでいったというような意味があるのだろうと思いますがちょっと三十一音では厳しい感じです。

「生の意味考え込める吾の横をてんとう虫がプイと飛び去る」くらいならまだ少し近付けるかなという気がしますが、どうしても上の句が説明的にならざるを得ず、直感的に心に入って来る良い歌にするのは難しい場面だと思います。

「命の意味は」とか頭で小難しく哲学するヒトと「生きる」というただただ命にまっすぐに向き合う生き物との比較という題材自体は決して悪くないのですが、それを「情景の描写ですっと心に入って来る場面」として捉え、更に三十一音の言葉にしてまとめるのはとても難しい作業だと思います。

私にはまだ出来ません(笑)。もし出来たらとても良い歌になると思うので是非ともチャレンジは続けて下さい。

 

6・もう来たの お一人様の旅案内ふっと笑ったポストを開けて(大塚)

実はこの作者はご主人を急に亡くされたばかりの方です。それを知った上で読むと「ふっと笑った」の裏にある複雑な感情が見えて来るのではないでしょうか。

まだ心の整理もつかない内に、どこから情報を得るのか「お一人様」向けの旅行案内が届いたのを見て何とも言えない気持ちになり笑うしかなかった作者。その笑いの中にはご主人の死を実感した寂しさや、それをむりやり再確認させられて無神経だなという怒りや、営業熱心ねという呆れや色んな感情があると思うのですがそれら全部が混じった複雑な感情が読者にも分かりますよね。

これぞ短歌の力だな、と思う部分です。この複雑な感情そのものを言える「たったひとつの単語」というものは無いのだろうと思います。それをしっかりと場面を構築することで読者にも同じ感情を分からせる。

例えば「ふっと笑った」ではなく「思わず呆れり」などだったらこうはいきません。「呆れる」という概念的な言葉では「営業熱心ね」という呆れた感情のみにスポットライトが当たってしまい他の寂しさや怒りなどは掻き消えてしまいます。「寂しい」「呆れる」「ムカつく」そういった言葉を使わずにそれらの複合した、複雑な、だけれども一番作者の感情に近いものを伝える。これが出来ると良い歌になるんだなぁと思いました。

ただどうしても「ご主人を亡くしたばかり」という情報がある前提で読んで辿り着ける感情なので、連作としてその旨が分かる歌を出して欲しいです。

また「ふっと笑った」が核なのでここを結句に置きたいですね。

また口語短歌は身近に感じやすいけれど軽くなりがちでもあります。ここでは「もう来たの」は効果的だと思いますが「笑った」の方は文語にして落ち着かせてもいいかな、という気もします。

「ポストを開けてふっと笑いぬ・笑えり」などとしてはどうでしょうか。

 

7・髪抜けて寝たきり多い妻だけど起きればしゃべり饒舌に(山口)

こちらは癌闘病を経て奥様を亡くされた作者の歌です。

歌っている場面の切り取りや感情的にならない事実の描写による構成はとてもいいですね。奥様の闘病の様子がしっかり再現されていて、それを見つめる作者の感情(これもまた一言では言い表せないもの)も伝わります。

問題は表記の部分で、「だけど」という口語は日常会話ではいいけれど短歌向きではありません。響き的にも濁音が多いですしね。

また結句が五音で字足らずなのでしっかり七音にまとめたいところ。

髪抜けて寝たきり多にして(なれど)起きればしゃべり饒舌になる

としてはどうでしょうか。

 

8・休日の電車はどこかのんびりと三人(みたり)の紳士本を広げる(金澤)

今の時代、大抵の人がスマホを見ているので、本を読む人が三人もいるというだけでのんびりした空気になりますね。

「どこかのんびり」が三人も本を読んでいるからなのか、他の理由で「どこかのんびり」した車内で三人が本を読んでいるのかで少し変わってしまう気もします。

「休日の電車は三人の紳士らが本開きつつのんびりとゆく」「三人の紳士がのんびり本開き休日電車は都心へ向かう」とかなら前者、「休日の電車は明るくのんびりよ三人の紳士本を開きぬ」とかなら後者な感じですよね。

また新聞ではないので本は広げるより「開く」方が自然かなぁという気も少しします。広げるでもそれほど気にはなりませんが。

作者が感じた「どこかのんびり」がどこから来ている感覚なのかを考えてみて、その上でもう一度まとめてみて下さい。

 

9・涼風に桜落ち葉の舞う道を検査結果を聞きに行く朝(栗田)

検査結果を聞きに行くというのですから作者の心には不安感があり、それを桜落葉が印象付けているのではないかと思います。

ですから「桜落葉が舞う」と言ってしまうのではなく、不安を感じさせるような落葉の様子が描かれると良い歌になると思います。落葉の描写のためには「桜」落葉であることを省いてもいいかもしれませんが、「桜」の落葉であるからこそ浮かぶ印象もあるのでどちらを採用するか考えてみましょう。

また「涼風」だと不安というよりは涼しげで爽やかなイメージの方が強いかと思うので、風を出すなら「秋風」の方がいいかな、と思います。

「秋の朝検査結果へ向かう道かさりかさりと桜葉回る」などとして落葉の描写を下の句に持ってきてもいいかもしれませんね。

 

10・名画なる〈落ち穂拾い〉の農婦らの夕日に浮き立つ白いブラウス(川井)

改めて『落穂拾い(送り仮名「ち」は不要)』を見たところ、農婦のブラウスの白さに驚いたということですが、そこに気付いてからの作者の感情が今一つ伝わらない感じです。

農婦らが貧しいながらも身ぎれいにしようと努力していたという部分に感動したのなら「名画なる」という情報は要らない(『落穂拾い』と言えば大抵の人にはミレーのあの絵が思い浮かぶはず)ので、浅黒き、日焼けした、粗末なる、着古した、などブラウスの白さに感動する理由が入った方がいいのかな、と思います。

ただこの歌の問題点はもっと根本的なもので、「絵画作品を見ての感想」である時点です。

美術作品や映画、テレビ番組、ニュースなど、既に「他人に見せることを前提として作られたもの」を見ての歌はどうしても二次作品というか「感想文」になってしまい、作者の実体験による複雑な心の動きにはなかなか迫れないので注意が必要です。

 

11・親鴨は六羽の子鴨引き連れて先に飛び込み次々続く(名田部)

情景はよく分かりますね。最近この作者は「対象をしっかり観察し描写する」ということがちゃんと出来るようになってきた歌が増えたと思います。素晴らしい進歩です。この調子です。

ちゃんと情景を描写してくれると「かわいいわね、賑やかね、元気ね、お母さん鴨がんばれ、ほのぼのするわね」という様々な感情を読者は抱くことができます。これが例えば「元気に」とかでまとめられてしまうとその他の感情は消えてしまうんですよね。でも人間の感情って一つだけでくっきり表れることの方が少ないじゃないですか。その色々と複合された「一言では言い表せない複合的な感情」を再現するのに必要なのが「具体的な描写」なのです。

さて、具体的な描写が出来るようになってきたので次はちょっとした文法などですね。

このままでは「親鴨は」という主語が「引き連れて、飛び込み、続く」という動詞全てにかかってしまいます。「引き連れて、飛び込み」までは親鴨の行動ですが、「次々続く」のは子鴨ですよね。

「親鴨六羽の子鴨引き連れて先に飛び込めば子鴨も続く」などとして「親鴨は━続く」と文法的に繋がるのを避けるようにしましょう。

 

12・子パンダを抱いての写真は千円也二十年前の中国の思い出(飯島)

子パンダを抱けるとか写真を撮るのに一枚千円といった題材が具体的で「中国らしいなぁ」と思わず笑ってしまう良い歌ですね。

日本では並んでも檻の中にいるパンダをちらっと眺めるだけ、運が悪ければ物陰や隅っこにいてよく見えないなんてこともあるのに、かわいい盛りの子パンダを抱けるなんてさすが中国。

そしてその記念撮影に一枚千円(しかも翌年から一気に倍の二千円になったそう)とかきっちり商売しているところもさすが中国、という感じがします。

作者は久々にその写真を見返して思い出し、「中国の思い出」としたのかと思いますが、ここが少し惜しいかな、という気がします。「思い出」とか「懐かし」などは「記憶上の存在」ですからやや弱くふわふわしています。

でもこの写真の中には「子パンダ抱っこ・一枚千円」という凝縮された「二十年前の中国」そのものが入っているので「二十年前の中国の在り」「二十年前の中国写る」などとして「事実(二十年前の中国)」としてドンと確定してしまった方が面白いのでは、と思います。

 

13・文化祭の計画ぽんぽん交しつつ女子高生らの自転車駆ける(畠山)

「若さ」という名の風が駆け抜けていった…そんな瞬間でした(笑)。

(多分文化祭の)布の買い出しについて店やら時間やら話しながら駆け抜けて行った女子高生。コロナのせいでこの二年は中止になった所なんかもあったと聞きます。今年は無事開催されるようで良かったですね。

会話を交わしているということは複数なので「女子高生ら」の「ら」は要らないのでは、と。確かに。字余りですしね。

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