短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2024年3月 (その2)

◆歌会報 2024年3月 (その2)

 

第142回(2024/3/15) 澪の会詠草(その2)

 

14・「感謝」とか不穏な言葉の置き土産夜逃げのようにある日突然(山本)

「感謝」などと言いながらもある日突然夜逃げのように作者の元から離れてしまった知人がいたということでしょうか。

この歌も1番の歌と同じく、作者と夜逃げをした人の関係性や状況が読者には分からないため、何となく「快くは思ってないんだろうな」くらいまでしか読み取ることができません。

また「「感謝」とか不穏な言葉」という繋がりにも違和感がありました。本来「感謝」という言葉には不穏さ(マイナスイメージ)は無いわけで、「感謝とかいう表向き聞こえの良い言葉を残しつつも(感謝=聞こえが良い)」というのなら分かるのですが、「感謝とかいう不穏な言葉(感謝=不穏)」とはならないと思います。

また「夜逃げのように」と「ある日突然」は意味が被りますよね。なのでどちらかを削って、その分「口では感謝とか言いつつもあっさり去って行った人物の素性」(作者との関係)を出して欲しいなぁと思います。

十年も育てた社員が「感謝」とか言いつつ夜逃げのごとくに去りぬ

とかにすると作者の悔しさなどが読者にも分かるようになるのではないでしょうか。

 

15・雲厚く空覆いつくし寒い日々猫は縄張見回り声上げる(戸塚)

短歌がただの「詩」でなく「歌」である所以はやはり定型(五七五七七)にあると思います。俳句のように季語といった制約もない短歌の唯一の制約が「五七五七七で作りましょう」ですから、これを守らないと短歌ではなく短詩となってしまいます。止むを得ず字余り字足らずになるとしても何とか一字までにしましょう。

ということで、まず二句の「空覆いつくし」という八音を七音に収められないか考えてみましょう。どうしても字数が変えられない固有名詞というわけでもありませんし、これくらいなら色々と言い換えられそうです。

「雲厚く空を覆える寒き日に」くらいでどうでしょう。場面の説明部分ですし「覆いつくす」まで言わなくてもいいのではないでしょうか。また下の句に繋げたいため「寒い日々」を「寒き日に」としてみました。

「猫は縄張り」は七音なのでこのまま。「縄張・縄張り」はどちらも間違いではないのですが漢字が続く場合は送り仮名の「り」を入れた方が読みやすいのではないかと思います。ちなみにこの「縄張・縄張り」問題ですが、常用漢字表では「縄張」とされているのですが、一般的には「縄張り」と送り仮名を付けるものだと認識している人の割合が八割を超え、「常用漢字表で送り仮名を省いてしまったのは勇み足だった」などと言う意見もあり、放送用語協会では2007年に「縄張(×)→縄張り(〇)」とすることにしたという経緯のある言葉です。

少し話が逸れてしまいましたが、一番の問題の結句に行きましょう。「見回り声上げる」では九音です。結句は何とか七音にまとめましょう。他が多少字余り字足らずになっても、結句が七音なら割と落ち着きます。逆に結句が七音でないとどうにも締まりが悪いです。それくらい結句の音数は重要です。

「見回りて鳴く」でどうでしょうか。ただ鳴く(ニャー)というよりは威嚇するような感じで強めの声を出していた(うわぁーを)のかな、とは思いますが、「縄張り見回り」とあれば「声上げる」とまで言わずともそこは想像できるのではないかと思います。

しょっちゅう来ているのなら、

雲厚く空を覆える寒き日猫は縄張り見回りて鳴く

としてもいいかもしれませんね。

 

16・夕空に溶けて消えゆく儚さは存在なしのメレンゲの月(小夜)

メレンゲの月」という見立てが面白いですね。薄い雲の中にすーっと溶けてしまい、薄っすらと明るさだけが滲むように見えているのではないでしょうか。

「夕空に溶けて消えゆく儚さよ」として一旦切ってしまってはどうでしょうか。そして「存在なしの」と言い切ってしまうと(実際は在るわけで)ちょっと作者の想像による部分が強すぎるかなという気もするので、「存在するかメレンゲの月」「そこに在るのかメレンゲの月」と「本当にそこに存在するの?」という問いかけにするともっと柔らかくなるのではないかと思います。

夕空に溶けて消えゆく儚さよ其処に在るのかメレンゲの月

また「メレンゲの月」という見立てがとても良いので、月が溶けてゆく様だけを描写してもいいのかもと思います。

夕空へすうっと溶けて消えゆけり春の儚きメレンゲの月

…と思ったのですが。うーん、でもやっぱり「そこに本当に存在するのか」って「月(という普遍の事物)の存在を疑う」方がこの作者らしい気がしてきました(笑)。後者はあんまり面白くないかも。

 

17・二月尽こんもりと繁るルッコラにびっくり眼の茶色の飛蝗(栗田)

二月末でもう飛蝗が出てくるんですね!

ルッコラ・びっくり」という響きがリズム良く、春の訪れを喜ぶ歌に気持ち良く乗った感じがします。

せっかくリズムが良い歌なので二句の「こんもりと繁る」(八音)は「こんもり繁る」として七音に整えたいですね。

 

18・小春日に日向ぼっこ幸せは老老人生 二人で在ること(飯島)

二句が六音なので「日向ぼっこす」として場面を完結させましょう。

「小春日に日向ぼっこす」で実際の場面。そこから意識的な内容へ切り替わり、「幸せは老老人生」でまた切れてしまうとブツブツ途切れすぎて滑らかに響きが乗りません。「幸せは老老人生ふたりで在ること」と繋げた方が柔らかく読めると思います。

 

19・ひとり居の媼の庭のしだれ梅 花のパラソル大きく開く(鳥澤)

何とも言えない寂しさもあるのですが、独りで生きる媼を明るく応援するような優しさも感じるような歌ですね。

「ひとり居の媼の庭」としてはどうでしょうか。

「庭のしだれ梅」とすると読者の視点は庭のしだれ梅を見ている作者にあると思います。これを「庭へしだれ梅」とすると読者の視点がしだれ梅のすぐ横くらいに来ませんか?何故でしょうね。不思議ですね。

 

20・つちふるや花粉も飛びかい難儀する鬱なる日々の襲来したり(緒方)

「つちふる」は俳句の春の季語で漢字では「霾」と書きます。黄砂が春風に巻き上げられて空が黄色っぽくなる様子ですね。昨今では黄砂だけでなく大量のスギ花粉も舞う時期で、黄色い大気を見るとうんざりしてしまいますね。

実際うんざりしたりイラッっとしたり様々な症状に難儀したりするのは分かるのですが、「難儀する」「鬱なる日々」と言い切ってしまうと読者に考えさせる余地がないというか、「ほんと、そうよねぇ」という同意の感想文的な歌で終わってしまう気がします。

「つちふるや花粉も飛びかい空けぶる」など、どちらかは抑えて情景の描写にとどめ、読者自身をその「難儀な」世界に立たせてやると詩情が出て来るのではないでしょうか。

 

21・丹前を羽織りほぐれて行く人の狭き歩みの城崎温泉(川井)

「丹前を羽織りほぐれて行く人」という描写はとても良いですね。特に「ほぐれて」という表現で、温泉に入り身も心もほぐれた人々が幸せそうに行き交う様子が思い起こされます。

的確な上の句と比べると「狭き歩みの」で少し迷ってしまいますね。人が多いので小さな歩幅で進むしかない感じでしょうか。それとも道が細く列になって進む感じでしょうか。ちょっと迷ってしまうので、「ゆるゆる流るる」「進みゆるやかに」「ひしめきており」など迷わなそうな描写に変えてみてください。道が狭くてひしめいているよりはゆっくり進む感じの方が「ほぐれて行く人」の印象と合う気がしますね。

 

22・大きめの金柑落とし鵯はつつき転がしてやっと朝ごはん(大塚)

大きめの金柑を狙ったばかりになかなか食べられず、つついて転がしてやっと朝ごはんにありつけた鵯(ひよどり)を優しい眼差しで観察し、「そんな大きいのを狙うからよ」と少し呆れつつも「よかったわね」と微笑んでいそうな作者が思い浮かびます。

「やっと朝ごはん」という言い方がやや子供っぽいかなという気もしたのですが、作者の飾らない心情がぽろっとこぼれ出た感じでこれはこれで良いのではという意見に落ち着きました。

四句は「つつき転がし」で七音にしておきましょう。

 

23・遠方に「ロウバイの里」見ゆるなり林は淡く黄の靄かかる(名田部)

蝋梅の里の林には淡く黄色の靄(もや)がかかって見えるという観察力と自然な表現がとても良いですね。

「見ゆるなり」という言い方がやや仰々しいので「見えており」くらいにした方が自然に読めると思います。

また「林」とした方が、結句でもある淡くかかる黄の靄の方へ意識が集中するのでいいんじゃないかなと思いました。

 

24・捨ておいた去年の鉢のシクラメンのハートの葉陰につぼみの五つ(金澤)

「去年の鉢のシクラメンのハートの」という部分がちょっと頑張って説明の言葉を詰め込んでしまったような印象を受けました。

おそらく「シクラメンハートの」とカタカナが続くと読みづらいし区切りも分かりにくいということで「の」を入れたのだと思いますが、「捨ておいたシクラメンの去年の鉢 ハートの葉陰に」とした方が五六六になってしまうものの読みやすいような気がします。

また主役である結句のつぼみは「つぼみ」として、「あっ、ほったらかしにしてたのに五つもつぼみが付いてる!」という作者の喜びが強調されるのではないでしょうか。

 

25・いつぱしの農婦の顔に思案する春の作付けまづはジャガ芋(小幡)

「いっぱしの農婦の顔」という表現がいいですね!

本業はプロの農婦ではなく、本当はせいぜい数種類の作物しか作った経験がないかもしれないのに、まるで色んな作物を育てる知識や技術を持っていていくつも選べる中から「今年は何を作ろうかしら」なんて難しい顔して畑を眺めていそうな作者(笑)。

嫌味のない軽い自虐が客観性を引き立てていてとても面白いと思います。

 

26・沈丁花の固く閉じたる蕾からむつと漏れ出す乙女のかをり(畠山)

まだ固く閉じた蕾なのに甘い香がむわっと漂ってきて驚きました。

「乙女の」というともっと爽やかな感じがすると言われ、確かにそうだなぁと思いました。もっと化粧とかしてそうな大人の女性の香ですよね、沈丁花って。

かといって「をみな(若い女)」では響き的に「おみな(歳取った女)」もイメージしてしまうので今回は音便化した「をみな(若い女)」である「をんなのかをり」にしようかなと思います。

あと「閉じたる」は旧カナ表記では「閉ぢたる」でした。終止形は「閉づ」ですね。

 

☆今月の好評歌は17番、栗田さんの

二月尽こんもり繁るルッコラにびっくり眼の茶色の飛蝗

となりました。

早春の庭先のささやかな発見に明るい喜びを感じる歌ですね。

「こんもり・ルッコラ・びっくり」と響きも軽快で嬉しい感情を引き立てたのが好印象でした。

By PhotoAC かめです