短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2024年2月 (その1)

◆歌会報 2024年2月 (その1)

 

第141回(2024/2/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・側室は頼朝の子を身籠りて日向薬師へ安産祈願(戸塚)

意味は分かるのですが、パンフレットの一文を読み上げたようで、報告だけで終わってしまっているため作者の感情が分からず、「歌」になりきれていない文章になってしまったかなと思います。

このままでは歌の中に作者が存在しないので読者は作者に共感しようがありません。

また実際に作者の目で見た(体験した)歌でなく、知識として得た情報に対する歌はどうしても「感想」になってしまいがちです。

でも「頼朝の子を身籠った側室が祈願した日向薬師」という知識はそれだけでもう三十一音がいっぱいいっぱいになってしまい、とても作者の感情を入れる余裕がありません。

「歌」にするなら頼朝の側室が~という知識は捨て去って、作者が実際に訪れて体感した日向薬師の今の様子を扱った方がいいのでは、という気がします。

どうしても側室の話を入れたい、そこが核であるというのならば連作にして、二首目にきちんと作者の感情を入れるしかありませんが、やはり一首の中で完結できる歌の方が強いし理想的です。

とはいえ、とりあえずこの歌は連作にすることを前提とした上で、

頼朝の子を身籠りし側室が安産祈願の日向薬師

として、「日向薬師よ」と詠嘆にすることで、「ここがその日向薬師かぁ」と“現場に立っている作者”を何とか文中に登場させたいかな、と思います。

 

2・千年を越えて今なお虜にす令和六年光源氏(小夜)

今年の大河ドラマのことだと思います。私は見ていないのでよく分からないのですが、作者の紫式部が主役の話だと聞いたのですが、光源氏、出て来るんですか?劇中劇のような感じで出て来るんでしょうか。世紀のモテ男の役ですから役者さんは大変ですね(笑)。

何はともあれ、千年以上も昔に宮中の女性の心を虜にした光源氏というキャラクターが今なお人の心を虜にするということに感動している作者の気持ちが素直に現れていると思います。

ただ「令和六年光源氏」と続くと読みにくいので、字余りでも「令和六年の」と助詞を入れましょう。

光源氏、ドラマではどんな風に描かれるのでしょうか。…私は嫌いなタイプのキャラクターですけど(笑)。

 

3・朝刊を取りに外出ればヒヤッとす真ん丸月の明るく光る(栗田)

朝刊を取りに外に出たところ朝の冷たい空気にヒヤッとした、という前半と真ん丸の月が朝の空にまだ明るく光っていたという二つの場面が一首にあると思います。

一首の中で場面転換する歌は、ぽーんと大きく意識が飛躍して、その飛躍した先に意外性があったり、個性的であったりすれば効果的ですが、単なる時間経過や視点がずれたことによる場面(核)の割れではそれぞれの印象を弱めてしまうだけになってしまいます。

朝刊を取りに出た早朝の冷たい空気に感銘を受けたのか、まだ寒い冬の朝に残る満月の光に感銘を受けたのか、自分の中で整理して絞ってみてください。

朝刊を取りに出れば如月の空気が頬をヒヤッと撫でる(主役:冷たい空気)

朝刊を取る手もかじかむ冬空へ昨夜の満月真白く残る(主役:残月(視覚))

朝刊を取りに行けば真ん丸の白き月光がヒヤッと刺さる(主役:残月(体感)

などのように核(主役)は誰かな、と考えながら作ってみてください。

 

4・ゆったりと飛ぶ白鷺は陽に向きて風見鶏のごと屋上に立つ(飯島)

ゆったりと飛んできた白鷺が太陽の方を向いて風見鶏のように屋上に立った。

風見鶏という見立ては素敵ですね。

ただ「飛ぶ」「立つ」がどちらも現在の時制でありながら違う動作を示す動詞のため「飛んでるの?立ってるの?」となってしまいます。

「ゆったりと飛び来た鷺は」として時間の流れを明確にするか、いっそのこと「飛んできた」という場面は捨ててしまって、その分「陽に向きて背筋を伸ばす白鷺は」「陽を受けて金に輝く白鷺は」など、風見鶏のように立つ鷺の姿をもっと詳しく述べてもいいのではないかと思います。

 

5・満月を朝な夕なに愛でつつの睦月の冷えもともに身に凍む(大塚)

「朝な夕な」というと「朝な夕なに祈りを捧ぐ」とか「朝な夕なに門前を掃く」など、習慣的に毎朝毎夕している行動に対して使う言い回しだと思うので「満月」という習慣的になりえない事象に対して使うと違和感があります。

「朝な夕なに月を愛でつつ」ならいいのですが。

でも今回は「満月」であったことが印象的だったのではないかと思うので、「満月」の方を残し、「朝も夕べも」「夕べも朝も」「夕べと朝(あした)に」など、“夜だけじゃなくて朝も見える”ということが分かる一般的な言い回しでいいのではないでしょうか。

また「愛でつつの→身に凍む」という繋がりがちょっとよく分かりません。「愛でつつの睦月の半ば」とかなら分かるのですが。

朝の白い満月の光が冷えと共に身に凍みる、という意味ならば「満月を夕べも朝も愛でており」と一旦切ってしまってはどうでしょうか。

満月を夕べも朝も愛でており冷えもろともに身に凍む睦月

とすると朝にも残る満月が冷えと共に身に凍みているのだなぁと分かるのではないかと思います。

 

6・翼おば開げ閉じたりシンバルのごと鴨三羽音を響かせ(名田部)

「シンバルのごと」という見方はとてもいいですね。楽しげで可愛らしい鴨の様子がくっきりと見えてきます。

ただ「翼おば」という言い方は不自然です。「では拙者、これにて失礼をば致しまする」のような時代劇調の口語が浮かんでしまいます。

「つばさを」では一音足りない~!という苦肉の策だと思いますが、そういう場合は別の言い方を探したり語順を変えたりして試行錯誤してみましょう。その「言葉を探す」連想ゲームのような作業こそが短歌作りの苦しみでもあり楽しみでもあるのですから、そこをじっくり楽しまないと勿体ないです。

「翼」の別の言い方を考えてみる。「翼」「羽」「両翼」「双翼」「片翼」…今回は「両翼」あたりが良さげです。

両翼を開いては閉じ鴨たちはシンバルのごと羽音響かす

鴨が「三羽」であることに特別な意味が無ければ、そこは「シンバルのごと」の印象の邪魔をしないように敢えて詳しく書かない方がいいかもしれません。逆に一羽のメスを巡って二羽のオスがダンスを披露しているように見えたとか、「三羽」であることに意味があるならそこをもっと掘り下げてもいいのかもしれませんが。今回はシンバルを鳴らすように楽しげにしている様子に重点を置きたいので「鴨たちは」くらいの方がいいのではないかと思いました。

 

7・漸うに無量のいのちを煌めかせ夕陽は悠悠消えさりゆきぬ(緒方)

「無量のいのちを煌めかせ」が現物ではない作者の知識からくる情報のため、ちょっと概念的で作者の見た夕陽の様子が読者には「なんとなく」しか見えてこないかなぁと思います。

なんとなく 壮大な 夕焼けを見ている 感じ」というように読者の感想もまたぼやけてしまうのではないでしょうか。

また「無量のいのち」なのに「消え去る」という言葉の選択も適切でしょうか。当然太陽そのものが「消え去った」わけではないことは分かるのですが、言葉のもつ印象というのがありますから、悠久の命を歌いたいのに消え去ってしまうのはどうかなぁと。

幾億年身を燃やしつつ太陽は地球(テラ・ほし)の裏側照らしにゆけり

とか続くイメージの言葉の方がいいのではないでしょうか。

とはいえこれもまだかなり概念的なので、やはりもっと具体的に作者の目に移った光景や体感などで読者を作者の立ち位置に引き寄せて欲しいと思います。

山の端も工場の屋根も朱に染めて幾億年目の夕日が沈む

などの方が小さな視点で歌っているようでいて、読者の目には赤く揺らぐ夕日が悠々と見えてくるのではないでしょうか。

 

8・二株の取り残された青菜から黄の花開き立春近し(鳥澤)

迷うことなく光景が浮かび、春が近いというほっこりとした喜びも伝わってくる良い歌ですね。

「取り残された青菜から」という表現がいいですね。ただ青菜に花が咲いたより「冬を乗り越えた」感が増して、一層ほっこり嬉しく感じます。

直すところは無いと思います。

 

9・真鶴の冬の陽眩しい海に浮くアシカのごときサーファーらを見ゆ(川井)

いいですね。風景がしっかり見えてきます。

黒いウェットスーツを着たサーファーを「アシカ」と捉えたのは秀逸ですね。あの濡れてちょっとぬめっとしたような質感までありありと浮かんできます。

的確な表現なので「ごとき」と喩えにしてしまわず、「アシカとなれる」と断定してしまっていいのではないでしょうか。

また結句の「見ゆ」ですが、「見ゆ」は「見える」の文語ですから、「~~を」に繋がるのは不自然です。「サーファーを見える」とは言いませんよね。「サーファーら(が)見ゆ(見える)」か「サーファーを見る」のどちらかだと思います。

また作者がこの光景を「見て」いると言うと、読者はその光景を見ている作者を想像する立ち位置になり、光景←見ている作者←読者と、間にワンクッション置く感じになります。この客観性が活きる場合もあるのですが、今回は「アシカとなれるサーファーらおり/サーファーがおり」として読者に直接風景を見せてしまってもいいのではないでしょうか。

 

10・忌にこもる私の耳に夫の声「梅が咲いたよ」「満月見えるよ」(金澤)

先月に続き、お母様を亡くした作者による、読者の心を大きく揺さぶる切ない歌ですね。

お母様を亡くされて暗く沈み込んでしまう作者の心を少しでも明るく浮上させようと優しく声をかけてくれるご主人。ヘタに励ますようなありきたりな言葉でなく、今在る明るく美しいものへ意識を向けようとしてくれる。

しかもススキの時は見ないでさっさと行ってしまったあのご主人がですよ。大事な人を亡くして落ち込んでいる作者の喜びそうなものを一生懸命知ろうとしてくれて、探してくれる。素敵な人柄ですね。

 

11・寒の雨やうやく上がり鴇(とき)色の夕映えの中かをる蝋梅(小幡)

鴇は朱鷺とも書くように、鴇色(ときいろ)とは淡く明るい朱色のことです。

冬の雨上がりの夕方の空、そこにふっと香ってくる蝋梅の香。読者も迷わず風景の中へ入れる、綺麗で安定した歌だと思います。

 

12・冬の夜にほうゐほうゐと梟の誰(たれ)を探すかくぐもりて鳴く(畠山)

近所に保護林があるのですが、そこに梟が住んでいるようです。冬の寒い夜に一羽の梟が鳴いていたのですが、その声がなんだか寂しげで、連れ合いを亡くしてしまったのではないかとか想像してしまいました。

夫/妻と書いて「つま」と読ませ、「夫/妻を探すか」としようかとも思ったのですが、独りが寂しくて連れ添ってくれる相手を探すというよりは、長年連れ添った妻を亡くした夫のような感じに聴こえたのでちょっと違うかなぁと。かと言って「亡き妻探すか」とか言ってしまったらそれはさすがに想像が過ぎるだろ、と思い結局「誰」にとどめました。

また「ほうゐほうゐ」と旧カナで鳴き声(オノマトペ)を書くのはおかしいということで「ほおいほおいと」「ほーいほーいと」「おーいおーいと」などにしようと思います。

By PhotoAC ビーチドッグス