短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年11月 (その1)

◆歌会報 2023年11月 (その1)

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第138回(2023/11/24) 澪の会詠草(その1)

 

1・今既読してはならない躊躇いが見出しを読んで心整え(山本)

スマホの短文メッセージアプリ「LINE(ライン)」では、アプリを開いて届いたメッセージを読むと「既読」というマークが付き、(メッセージを送ってきた)相手に“メッセージを読んだよ”ということが伝わります。自動的にメッセージの受領印が押されてしまう感じですね。

そしてメッセージを読んだのに何の返答もしないと無視をしていると思われてしまうかもしれない。俗に「既読無視」と言われ、喧嘩の原因になったりもします。気を使いすぎというか、「無視」ということに過剰な不安感を持ちすぎというか…悪い意味で日本らしい風潮だとは思いますが。

ただメッセージが届いた瞬間にはアプリを開かずとも書き出しの一部がスマホに表示されます。作者はその書き出しの一部を見て、気楽に返事できるような内容ではないと察し、「どう返事したらいいかしら」と思いあぐねているのだと思います。

手紙→電話→メール→ケータイ→スマホと進化してきたように、最早スマホはコミュニケーションツールとして生活から切り離せないものになりつつあります。人と人のやりとりのための道具ですから、昔の人が「手紙」に心を動かされたように、これからは「スマホ」に心を動かされる人が出て来るのは当たり前だと思いますし、そういう時代の変化にも対応して表現していけるのが短歌(和歌ではなく)だと思います。

ただこの一首として見ると作者の心情だけを述べていて、作者がそういう心情になった状況がまだまだ見えにくいかなと思いました。

「躊躇(ためら)う」「心を整える」という作者の心の動き自体を言ってしまわず、作者の心が動いた「場面」を描く。

今はまだ「既読」にしてはならないと見出しのみ見てLINE(スマホ)を閉じる

のようにスマホ・LINEという言葉が入った方が分かりやすいと思います。

もっと言うと具体的な内容が出てくれば更に作者の動揺や躊躇いが見えてくるとは思います。例えば

入院と友からLINEに届きおり「既読」にせぬまま言葉を探す

などなら何故作者が「メッセージ読んだよ」と相手に伝わってしまう(既読にする)ことをためらっているのかがもっと見えてくるのではないでしょうか。

 

2・柿の木の実りあふれて実を落しポツンと一個ころがる迷子(小夜)

沢山実った柿の木からひとつ転がってポツンと落ちた実を「迷子」とした表現が良いですね。

「ころがる迷子」という繋がり(活用)が少し気になりました。「ころがる」は「迷子(体言)」にかかりますから連体形で、この歌には「あふれ(連用形)」「落し(連用形)」「ころがる(連体形)」と三つの動詞がありますが、どれも終止形ではありません。そのため結論は何?と落ち着かない感じになってしまうのです。

これを「ころがり(連用形)迷子」とすると「迷子」にはかからず、「ころがり、迷子(となる)」という暗黙の終止形が発生します。

ポツンと一個、転がって迷子になっている、という結論が見え落ち着きますね。

また「柿の木の実りあふれて実を落とす」と上の句で一度切ってしまってもいいかもしれません。

A:柿の木の実りあふれて実を落としポツンと一個ころがり迷子

B:柿の木の実りあふれて実を落とすポツンと一個ころがり迷子

Aでは柿が実を落とす所からの継続した動画という感じ、Bでは上の句は場面の知識としての情報で視点はポツンと転がった一個に集約している感じがしませんか。

どちらが間違いというわけではありません。実が落ちてころころ転がって迷子になってしまった一連の「流れ」にグッときたならAでしょうし、既に一個ポツンとはぐれてしまった実の様子にグッときたならBだと思います。

 

3・次々にグランドの大木伐られ居り寒空の中の遺されし幹(栗田)

芽吹いたり花が咲いたりして樹木がエネルギーを使う時期でなく、冬や春先のまだ寒い時期にバッサリ剪定することが多いみたいですね。

幹が残っているということなので伐採ではなく剪定なのかなとは思いますが、寒い時期にバッサリやられると見ているだけで寒々しい気がしてしまいますよね。

まず二句の「グランドの大木」ですがこのままでは九音ですし、何の木なのか分かった方が読者の描ける場面がより鮮やかになるので具体的に木の名前を出してしまいましょう。その際、実際とは違う樹木名でも音数がイイ感じになるものを選んでもいいと思います。例えば実際はアカシアやメタセコイアだったとしてそのまま使うと音数がオーバーしすぎますよね。その場合は杉とか桜とかグランドに植えられる大木系の樹木にして創作してしまいましょう。今回は多分杉、ということで「グランドの杉」とすれば音数も丁度七音になりますね。

また「寒空の中の」ではなく「寒空の中に(へ)」だと思います。また「遺された」という字は「次の代へ引き継ぐ」という意味があります。今回は根元から伐られたり引っこ抜かれたりしているわけではないので、幹は「残された」という字が正しいでしょう。また上の句で「伐られ居り」と今現在のことを話していますから、「残され」と遠い過去のことを表す助詞では時制が一致しません。普通に「残された」とした方が自然です。

次々にグランドの杉伐られ居り寒空の中へ残された幹

また四句と結句を入れ替えて

次々にグランドの杉伐られおり残った幹は寒空の中

と寒々しい様子の方に焦点を当ててもいいかもしれません。この場合「居り」と「残され」が近く、「居残り」という言葉のイメージがふっと浮かんでしまうため、敢えてひらがなの「おり」としてみました。また七音にするため「残された」を「残った」としています。

 

4・神道の義父母の位牌へ手を合せ朝日の内より一日始まる(戸塚)

神道(しんとう)の位牌は仏教の位牌(何たら居士など)と違って生前の名前そのものに男性なら「大人命(うしのみこと)」女性なら「刀自命(とじのみこと)」と書かれていて(「〇田〇男大人命」「〇山〇子刀自命」)、より故人をイメージしやすいものとなっています。

そんな神道の位牌に手を合わせてしずかに始まる一日を習慣とする作者の暮らし方が見えてきて良い歌だと思います。

場面がすっと思い浮かぶ「神道の義父母の位牌へ手を合わせ」という上の句は文句ありません。*「合わせ」の送り仮名は「合わせ」が本則で「合せ」は許容です。

下の句でもう少し作者の体感している朝が表現されると更に良くなる歌だと思います。

神道の義父母の位牌へ手を合わせ一日(ひとひ)は始まる朝の日しずか・さやか

のように「手を合わせ一日始まる」として敢えての字余りで「一日」を「ひとひ」と読ませることを確定し、「手を合わせることで一日が始まるんだ」と習慣化していることを前面に出してもいいかもしれませんね。

 

5・少しずつ諦めながら日を送り知らぬ間に笑い   話せてきたなあ(大塚)

夫を亡くされて落ち込んでいた作者が、少しずつ夫の居ない生活を受け入れていく様子でとてもよく分かるし、結句の口語は活きているのではと思います。

ただ私は作者の状況を知っているので分かりますが、やはり一首の中で夫を亡くした人の歌ということがきちんと分かるようにした方がいいと思います。

この場合「諦めながら」が問題ではないでしょうか。作者としては夫が居ないという現実を諦めながら受け入れていく、ということで言いたかったのだと思いますが、そもそもの前提である「夫が居ない」ということをこの時点で読者は知らないため、何を諦めたのかが分かりません。健康を諦めたのかもしれませんし、学問や出世、友情、人生など何を諦めたと取るかで内容は全く変わってしまいますね。

少しずつ亡夫(おっと)の居ない日を送りいつしか笑う 話せてきたなあ

とすると少しずつ夫のいない現実を受け入れていく、遺された妻の何ともいえない寂しさが見えてくるのではないでしょうか。

 

6・薄野を一羽の鷺が渡りゆく白き軌跡を残すごとくに(名田部)

秋の綺麗な場面ですね。薄(すすき)の上をさーっと飛んでゆく鷺。

結句の「残すごとくに」が少し惜しいと思います。便利なので私もよく「ごとく」を使ってしまいがちなのですが、「ごとく」は御存じのように比喩、「~~のように」と喩えるための言葉です。つまりあくまでも「〇△みたい」であって物事の本質そのものはどうあがいても表現しきれない言葉なのです。

ですから喩えが相当的確であるか、個性的である場合に使わないと「惜しいな」となってしまう事の方が多いです。

「白い軌跡を残すようだ」という喩えはそこまで個性的な見方かというとそうではないと思います。だったら「~~のようだ」などと言わず、「白き軌跡をうっすら残し」「白き軌跡をさあっと描き」などと「作者の目には実際こう見えた」という事実として言い切ってしまった方が断然場面がくっきり見えてきます。今回の場合、「白い軌跡を残すように見えた」ではなく「白い軌跡を残して見えた」という言い方ですね。

そして「ごとく」を削った分を具体的な描写(うっすら・さあっと・すうっと)に変えることでより一層場面を思い描きやすくなるというわけです。

まるで〇〇に見えたのよ~、でなく、私には〇〇に見えたのよ!ともっと自信を持って言っちゃってみてください(笑)。

 

7・アキアカネ稲穂の垂るるおちこちに小さき虫を貪り食みし(緒方)

稲穂の上をアキアカネ(とんぼ)が飛び交う平和的な風景だが、実は彼ら(とんぼ)は小さな虫を貪り食っている、という対比の歌だそうです。

まず結句が「食みし」という連体形で終わっているのが気になりました。連体形ですから「食みし日」「食みし夕」「食みし秋」など何らかの体言に続かなければ不自然ですし、そこに来うる体言は無数にあり省略していいもの(誰もが迷わないもの)ではありません。

そう言ったところこれは「連体止め」で「~ことよ」という詠嘆に続く表現だとおっしゃったのですが、係り結びでなく「~~し」で終わる連体止めは見たことがありません。それはやはりこの形では「し」に続く体言の可能性が無数にあるからで、連体止めが成立するのは「~~ぞ、~~なりける」のような係り結びの法則(定型)にあるもの(ぞ、なむ、や、か)や、「在り・居り・たり・為・つ」など「~~の状態にある」ことを表す動詞で「~~の状態」が既にきちんと述べられており「詠嘆」に続くと迷わないものなど、とにかく続く語句を読者が迷わない場合に限ると思います。

例えば「秋の田は黄金なみなみ溢れおる」などなら後に続く言葉は「~ことよ・~かな」といった「~~(溢れている)という状態だなぁ」という詠嘆で迷いませんから連体止めも成り立ちます。

また「食みし」というと遠い過去を表しますから、昔はこの辺りもアキアカネの飛ぶ田んぼが広がっていて小さな虫を貪り食っていたんだよなぁ、と回顧する歌なら「し」も分かりますが、それならそれで遠い過去を思っているということが分かる表現を入れないといけないと思います。

そんな遠い昔の回顧でないのならごく自然に「貪り食みぬ」「貪りながら」などでいいのではないでしょうか。

また上の句の牧歌的な風景と下の句の実際は虫を貪っているという対比、という場面を強調したいのなら「おちこちに」だけで牧歌的と感じさせるのはやや厳しいかも、と思いました。「あちらこちらに」という情報より「稲穂の上をすいすいと」「稲穂の合間をふうわりと」など、一見柔らかい感じに見えるというトンボの描写を持って来た方が「貪る」という獰猛な一面との対比が明確になるのではないかと思います。

 

8・缶蹴りの鬼を解かれず影長き我を顕たしむ秋の広場は(小幡)

運動があまり得意でなかった人には気持ちがよく分かる歌ではないでしょうか。

缶蹴りは、鬼が逃げた子を捕まえ陣地に囲っておきますが、陣地を離れて子を捕まえに行く間に缶(陣地の証)をまだ捕まっていない子に蹴られるとそれまで捕まえた子は解放され、イチからやりなおしになってしまうという、鬼が断然不利な遊びです。

足の遅い子や要領の良くない子などは一度鬼になると、捕まえては解放され、捕まえては解放されと延々と鬼をやらされるハメになったりします。

日が傾いて影が長く伸びるようになった秋の広場は、昔中々缶蹴りの鬼を解かれずに影が長く伸びる時間までずっと鬼をやらされていた幼い頃の自分の姿をありありと思い起こさせるなぁ、という歌だと思います。

「顕つ(たつ)」は姿を現すという意味で「夢枕に顕つ」という時に使います。実際に物理的に立っているというよりは実体のないはずのものが立ち現れるという意味合いが強いと思います。

ですからここも実際の我が立たせられているのではなく、昔の我を客観視して今の広場の中に投影していると捉えられます。

もっともこんな秋の広場にいると思い出すなぁ、というカメラの位置が現在にある歌でなく、「我を立たしむ」として幼い日の出来事でもその当時の実際の体験としてカメラの位置も過去にある歌とした方が、ずっと鬼をやらされて影を長く伸ばす不器用な我(子供)をより鮮やかに写せるかもしれません。

 

9・北風の息子は怒鳴り太陽の娘はそっと小遣いくれる(金澤)

イソップ物語の「北風と太陽」になぞらえたユニークな歌だと思います。

しみじみしたり何ともいえない複雑な感情が湧いたりとまでは至らないのですが、着眼点が作者らしくユニークなのでこの歌はこれでいいんじゃないかな、と思います。

ただ「怒鳴り」というとちょっと強すぎるかなぁとも。「怒鳴り」だと何だか息子さんは完全に悪役っぽくなってしまいませんか(笑)。「叱り」くらいでもいいのではないでしょうか。

「そっと」小遣いくれるという表現が「文章」から「歌」に引き上げていると思います。

 

10・陽溜まりのコンクリのへりをひたすらにこの一匹の蟻だけが這う(川井)

列からはぐれた蟻が一匹だけコンクリの縁を落ちそうになりながらも這ってゆく、という場面だそうです。

ただこのままでは他の蟻の姿は見えず、他の蟻はもっと歩きやすい道をぞろぞろ進んでいるのに、この蟻だけは歩きにくいコンクリの縁をひたすら這っているとは読めません。

作者の心を動かした場面に「日溜りの」は重要なのでしょうか。日溜りのコンクリの縁を這う蟻に焦点を当てるとしたら「この」という指示代名詞が邪魔になるような気がします。「ただ一匹の」としてしまった方が迷いません。

日溜りのコンクリの縁をひたすらにただ一匹の蟻だけが這う

この場合、一匹の蟻が寒くなってきた中にも日溜りの道を通って一生懸命仕事している姿に感心している作者を思い浮かべます。

逆に「この蟻だけ」という部分が重要だとしたら「日溜り」は不要な情報ではないでしょうか。

一匹の列から外れた蟻の居りコンクリの縁をひたすらに這う

などとすると、列から外れた一匹の蟻を「不器用な存在」と見て、ちょっとハラハラしながら見守っている作者を思い浮かべます。

前者と後者では蟻に対する見方が全然違ってきますので、この時作者はどんな気持ちでその蟻を見ていたのか、もう一度思い返してみて欲しいと思います。

 

11・五十年太鼓率いた偉丈夫の引退宣言小(ち)さき祭に(畠山)

私が参加する地域の太鼓クラブを五十年間率いてきた先生が観客もまばらな小さなお祭のパフォーマンスの中で引退の発言をしました。

昭和の頃にはかなりの子供が所属する賑やかなクラブだったようですが、少子化の影響をモロに受け今やすっかり縮小してしまい、お祭のパフォーマンスもカツカツの人数でやっています。

特に今年の夏の暑さは厳しく、元々体格の良い方ではありますが八十近い身体には相当堪えたのではないかと思います。

そして夏の賑やかなお祭を一通り終え、11月の小さな公民館のお祭、しかも天候が悪く一気に寒くなり人が全然集まらなかったうら寂しいお祭で、明るく振る舞いながらも引退を口にされました。

五十年間、言わば人生のほとんどを捧げて来た活動の引退宣言をこんな小さなお祭でかぁ、と思うと何だかとても切なくなってしまいました。

「引退宣言小さき」と続くと読みにくいので「引退宣言 小さき」と一字空けようと思います。文章としては「引退宣言」なのですが、「引退宣言」だけで既に八音なのでこれ以上は増やしたくないなぁと。

あと「率いる」は旧カナでは「率ゐる」でした。

by sozaijiten Image Book 5