短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年8月 (その1)

◆歌会報 2023年8月 (その1)

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第135回(2023/08/25) 澪の会詠草(その1)

 

1・諭されて納骨をした蝉しぐれ13回忌孫等も大人(山本)

ブログだと横書きなのですっと読めてしまいますが、基本的には短歌は縦書き表記で発表されるものなので、数字の表記は漢数字にして欲しいと思います。

そしてこのままだと諭されて納骨をしたのが十三回忌なのか、納骨をしてから十三年経つのかがよく分かりません。

ただ「諭されて」とあるのでどちらかというと十三年も経ってから「諭されて」ようやく納骨をした、と取られてしまうのではないでしょうか。そして亡くなった時には子供だった孫たちが十三年も経って納骨というイベントのためにまた集まり、それを見て大人になってしまったんだなぁ(随分時間がかかってしまったなぁ)、と感じているのでは、と読む人が多いと思います。

ですが作者に聞くと諭されて納骨をしてから十三年の方ということで、そうなると作者として歌の核がまだ絞り切れていないのかな、と思いました。

このままでは、「(本当は手放したくなかったけれど)諭されて納骨をしたのは蝉しぐれが印象的な日だった」という核と、「十三回忌に集まった孫たちはすっかり大人だなぁ(それだけ時間が経ったのだなぁ)」という核と、二つの重い核がある状態です。どちらの核を作者は言いたいのでしょうか。

それを整理して、採用しなかった方の情報はこの歌からは削らないと短い詩形である短歌には収まりきれません。

どちらも言いたいことだとしたら、それぞれを核にして二つの歌を作ってみてくださいね。

 

2・「暑すぎて誰も来にゃあ」と伊豆の海 空を飲み込みギラギラ青い(鳥澤)

上の句の方言がとても面白いですね。日に焼けた現地の(観光収入を頼りにしている)人が落胆しつつ、人もまばらな海を見て言っているような様子が思い描けます。

それだけに、下の句で主役が海の様子になってしまい、一首の中に於ける印象の比率が完全に二分されてしまったのが勿体ないかなぁと思います。

「暑すぎて誰も来にゃあ」と言っている伊豆の人物という核と、本来なら賑わっているはずの時期に人もまばらな海(自然・気象)の何とも言えない強さ(ギラギラ青い)という核で、それぞれ詠んでみて欲しいです。

また人を追いやる程の暑さの中にある海を「空を飲み込み」という表現で表せるかな、と思いました。「ギラギラ青い」という表現からは夏の陽射しを照り返す暑すぎる海がよく見えて来るのですが、「空を飲み込み」はちょっと分からないかなぁ、と思いました。

数人のサーファーだけが浮いている葉月の伊豆はギラギラ青い、とか、境界のブイだけぷかぷか泳いでる、とか具体的な描写で言った方が見えて来るのではないかと思いました。

 

3・コーヒー時ステゴザウルス雲湧きて湯気に立ち消ゆ仏陀となりぬ(小夜)

コーヒータイムにのんびりと雲を眺めていたら、ステゴザウルスのようだった雲が仏陀の形に変わった、という歌だと思います。

雲の形がステゴザウルスから仏陀へ変わったという見方はとても面白いと思います。

けれど「コーヒー時」「ステゴザウルス雲」という詰めた言い方はちょっと無理がありますし、「湯気に立ち消ゆ(立ち消える)。」「仏陀となりぬ(なった)。」とどちらも終止形なので自然に読めません。このままだと雲の形がステゴザウルスから仏陀に変わったのではなく、ステゴザウルス型の雲が湧いて消えた。(概念の存在である)仏陀になった(成仏した)のかな、というように読めてしまいます。

コーヒーの湯気の向こうの夏雲はステゴザウルスそして仏陀

とかなら少し自然になるかと思いますが、そもそも「コーヒータイム」であることはそれほど重要でしょうか。

夏のもくもくした雲がステゴザウルスから仏陀に変わったということだけでいいのではないでしょうか。春の薄くたなびく雲や秋の鱗雲、冬の一筆書きのような雲ではそうはなりません。夏のもくもくした入道雲だからこそのステゴザウルス(背びれ)であり仏陀螺髪)だと思うので、夏の雲がステゴザウルスから仏像になったよ、という核だけでまとめた方がより場面が生き生きと見えてくると思います。また「仏陀」と言うとどうしても概念の方と取られる危険があるので「仏像」とした方が確実かと思います。

真白なステゴザウルス夏空へいつしか座り仏像となる

などとしても「夏空・真白」で雲のことだなと分かるのではないでしょうか。

 

4・梅雨中に猛暑続きて紫陽花のじっと陽を浴びて日焼けし花よ(栗田)

雨に濡れた姿が一般的である紫陽花が「日焼け」しているという、作者の目によるしっかりとした観察が良いですね。まだ梅雨なのに猛暑で紫陽花が日焼けしているという異常気象に対する何とも言えない不安感も見えてきます。

上の句を「梅雨半ば猛暑続けり」として場面の知識的情報はまとめてしまった方がいいのではないでしょうか。その方がその後の視覚的情報に集中できると思います。一旦切ることで、導入部はじりじり照らす太陽が映るような遠景で、その後ぐっとカメラが紫陽花を大写しにするような感じになりますね。「猛暑続きて」として繋げるとカメラはずっとある一定の距離から動かず写している感じです。ヘタにカメラを動かさない方がブレずにしっかり写せる場合の方が多いですが、この様にモノローグ的な部分は遠景で、その後主役にぐっと寄る方が活きる場合もあります。

そしてぐっとカメラを寄せたので「紫陽花」として少し強めてもいいのではないでしょうか。

また「じっと陽を浴び」の「て」は八音になってしまいますし不要です。そして「じっと」というと紫陽花を擬人化して紫陽花がどのように陽を受けているかという情報になりますが、「じりじり陽を浴び」「じりりと陽を浴び」などとすると紫陽花がどんな陽射しを受けているかという情報になります。前者だと「じっと耐えているのね」という感じで、後者だと「焼け付くような陽射しね、辛そう」という感じになるのではないでしょうか。どちらがより作者の心情に近いか考えてみて下さいね。

また「日焼け花」では遠い過去のことになりますから、今現在日焼けしているということで「日焼けしており」としましょう。敢えて「花」と書かなくても梅雨半ばの話ですから花のことだというのは分かると思います。

梅雨半ば猛暑続けり紫陽花はじっと陽を浴び日焼けしており

 

5・あら、ここに花があるわと蜆蝶 留まられ草はつんと上向く(金澤)

「あら、ここに花があるわ」という蜆蝶(しじみちょう)目線の表現が面白いですね。蝶の目線にならなければ気付かないような目立たない花。蝶に留まられたことで花が自信を持ったかのようにつんと上向くという捉え方も個性的で面白いと感じました。

ただ「草は」となっている部分だけが気になりました。上の句で「花があるわ」と「花」という言葉を使ってしまっているので被らないように「草」にしたのではないかと思いますが、「草」というとどうしても「葉」の方にイメージが行ってしまいます。蝶に留まられることで認められたような気になった「花が」つんと上を向いたわけですよね。なので「黄花・小菊・ヨメナ・白花・イヌタデネジバナ」など「花」であることを確定した方がいいのではないかと思いました。三音までなら一字字余りでも「留まられ黄花は(の)」と助詞を入れた方が読みやすいと思いますが、四音になると全部で九音になってしまうため「留まられネジバナ」と助詞を省いて八音までに抑えた方がいいと思います。出来れば三音までの花にしてちゃんと助詞を入れたいところですね。

 

6・炎帝にたった一本凛と咲く夏水仙が庭引き締める(飯島)

水仙

ja.wikipedia.org

水仙ではなくヒガンバナの一種なんですね。ピンクのヒガンバナといったところでしょうか。いつもは群れて咲く花らしいのですが、今年はあまりの暑さからか一本しか咲かなかったそう。

そのこの暑さにも負けずたった一本凛と咲いた夏水仙が庭を引き締めている。

炎帝」は夏の「太陽そのもの」を指しますから、「炎帝に」と言うと「夏の太陽に」という意味になってしまうので「炎天に」ではないでしょうか。もっと正しく言うと空中に咲いているわけではないので「炎天下に」ですが、そこはぎりぎり許容範囲かなと思います。

また結句は「庭引き締める」より「庭を引き締む」と助詞を入れて文語調終止形にした方が引き締まると思います。

それにしても牡丹が咲いて、夏水仙も咲いて、秋明菊も咲いて、四季折々のお花が見られるお庭で羨ましいですね。いや、でも実際はお手入れとか大変なのかもしれませんが(笑)。四季折々、お庭の変化をじっくり観察して、言葉にして教えてくださいね。

 

7・抱え込む大玉スイカの濃い緑息深く吸い刃先を入れる(川井)

抱え込むほどの大きなスイカに最初に刃を入れる時の絶妙な緊張感が伝わってきますね。

イカも今やすっかり贅沢品になって、大玉どころか小玉ですら、丸い状態で手に入れて包丁を入れるという機会は減っているのではないかと思いますが、皆さんもこの何とも言えない緊張感走る一瞬、想像できるのではないでしょうか。何でもない日常のようでいて、とても面白い場面を切り取っているなぁと思いました。

「スイカの濃い緑」で助詞がなく体言止めになってしまっていますが、ここは「にorへ」の助詞が必要かな、と思います。「濃い緑へ」とすると六音になってしまうので「濃緑(こみどり)へ」とするとすっきり五音になりますね。

 

8・歩みゆく我胸に蟬止まりおる一時なれどブローチとなり(名田部)

生きた蝉が胸に止まって、ほんの一時ブローチとなった、という場面の切り取りと「ブローチ」という捉え方がとても良いですね。

「歩みゆく」というと何か強い意志を持って進んでいるイメージですが、ここはそんな意味を持たせず「歩きゆく」でいいのではないでしょうか。

また「我が胸」と言わなくても作者の胸であることは分かるので、その分「胸元へひたと蟬止まり」「胸へぴたりと蟬止まる」などとして視覚的情報が入るといいな、と思います。

また「一時なれど」と理屈っぽくなってしまう言い回しは極力避けた方が歌らしくなります。「~~である(断定)+けれども(否定・対立)」という、どちらも強く「理」を意味する言葉なので、そこにどうしても「断定+否定・対立」の意味が必要でなければ悪目立ちしてしまいます。

今回は「ほんの一時」「わずか一時」などでいいのではないでしょうか。

また結句が「ブローチとなり(連用形)」だと「ブローチとなり、どうした」という結果が必要です。終止形の「ブローチとなる」にしましょう。

歩きゆく胸元へひたと蟬止まりほんの一時ブローチとなる

歩きゆく胸へぴたりと蟬止まる僅かひととき我がブローチに

などとしてみてはどうでしょうか。

 

9・夏祭子供御輿に知った顔賽銭投るもワッショイワッショイ(戸塚)

夏祭の子供御輿の行列の中に見知った顔があって、応援の気持ちを込めて賽銭を投げたものの当の子供はこちらに意識を向けてくれずに御神輿を担ぐことに一生懸命で「ワッショイワッショイ」と行ってしまった、という場面でしょうか。「ワッショイワッショイ」が躍動感あって良いですね。御神輿担ぎに集中してどんどん行ってしまう子供たちの姿が浮かびます。

「投る」という送り仮名が必要かな、と思います。御神輿にお賽銭を投げるという場面がちょっと思い浮かばずに、御神輿を担いでいる人に向かって賽銭を投げつけたら痛いだろうし、大道芸などと違って移動するから道に散らばっちゃうし、その後どうするのかしら、集める係でもいるのかしら、などと思っていたのですが、御神輿の行列の中に臨時の小さい賽銭箱を持つ係がいて一緒に練り歩くんだそうです。へぇー、と思いました。

まぁこの歌でそこは核ではなく、詳しく説明する必要はないと思うので、私のように投げ銭(おひねり)のような場面を思い描いたとしてもいいのではないかな、と思います。

「子供御輿の行列の中に知った顔がいたので」ということで「子供御輿に知った顔」としたのだと思いますが、俳句なら「夏祭子供御輿に知った顔」で一句になると思いますが、短歌は下の句へ続くので「夏祭子供御輿の知る顔へ賽銭投げるも…」と助詞を入れて繋げた方が自然な文章になると思います。

 

10・我が姓と似る黄心樹(おがたま)を厄年の齢(よわい)に亡母は送り呉れたり(緒方)

オガタマノキは御神木としてよく神社などにある木で、縁起が良いとされる木です。今庭に植えてあるのを見ているのでしょうか、厄年の齢に母が送ってくれたなぁと思い出している作者かと思います。

ただ「我が姓と似る黄心樹」という知識がただの作者の知識なのか、思い出している母からの知識なのかでかなり違ってくると思います。

「これはオガタマと言うのよ。うちの姓(緒方)と似ているでしょう。とっても縁起の良い木なのよ。あなた今年厄年なんだから庭に植えておきなさい。ふふ」というようにお母様から得たことによって印象付けられた知識だとすると、上のようなやりとりが浮かび、今成長した木を見てそんなやりとりを作者は思い出しているのかなぁとほっこりしんみりするのですが、お母様関係なく作者の知識だとするとそのような場面が浮かばずお母様の人柄もあまり見えてきません。

我が姓に似る木と言いて黄心樹を亡母は厄年に贈り呉れたり

などとお母様からの知識とすることでお母様との思い出に結び付けて欲しいと思います。

また「送る」だと単純に相手の元へ物を移動(搬送)させる意味ですが「贈る」だと感情(感謝や労いなど)を込めて相手の元へ物品を渡す意味になるので、ここは厄年を気遣っての贈り物ですから「贈る」の方が合っていると思います。

 

11・巣立ち子か小(ち)さき燕は泣くばかり炎暑の電線かすか撓らせ(小幡)

巣立って親と離れ、もう一人で生きていかねばならないのか。小さな燕は炎暑の電線をかすかにしならせて泣くばかりだ。

ほんの数か月でもう巣立ちというだけでも厳しいのに、今年は更にこの暑さ。自然の厳しさを目の当たりにして切なくなりますね。

「炎暑の電線かすか撓らせ」が本当に…切ない。

ただ「泣くばかり」という漢字の選択が狙いすぎかなぁと思います。「泣く」とすると「悲しいよ、寂しいよ、不安だよ」という燕の擬人化した意識が表現されますが、「小さき燕」が「なくばかり」というだけでその不安感は十分見えてきますし、何より「炎暑の~」の描写が素晴らしいので、憶測を含む描写である「泣く」ではなく事実の描写である「鳴く」とした方が逆に切なさが増すのでは、と思います。

 

12・葛の葉の茂り虫らの棲家たる野原へ立てる「開発」の文字(畠山)

外出嫌いでほとんど引きこもりのような私にとって歌のネタの宝庫となっていた近所の野原(一部畑)にとうとう「開発予定」の看板が立ちました。

あぁ…これからどうしよう…四季…ネタ…。

季節ごとに春は風草、菜の花、ハルジョオン、夏は葛にマツヨイグサ、秋から冬は背高泡立ち草、アメリカセンダングサなどがわんさか茂っていて、今は葛が覇権を握っています。柿や梅などの木もあるので、様々な虫やミミズ、トカゲ、鳥などが集まっているのですが、開発が始まったら彼らはどうなっちゃうんだろうなぁと。

「葛の葉の茂り虫らの」という流れが読みにくいですね。「葛の葉の茂りて虫の」なら少し読みやすくなるでしょうか。

うーん、もっと変えて「葛茂りあまたの虫の棲む野へと或る日ぽつと立つ「開発」の文字」の方がいいかもしれませんね。

 

by sozaijiten Image Book 3