◆歌会報 2022年12月 (その2)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第127回(2022/12/16) 澪の会詠草(その2)
14・箱根路の雪冠なしの黒い富士富士山ではない富士を眺める(小夜)
箱根路に見た雪冠なしの黒い富士を「雪冠のない富士なんてそんなもの『富士山』と認めないわ」という作者独自の目線で見ているのが面白いですね。
「富士」という言葉が続くので「富士山」だけ「」で括ってみてはどうでしょうか。
また「雪冠なしの黒い富士」がやや硬く説明的なので「雪を被らぬ黒き富士」とかにしてはどうでしょうか。
「箱根路の雪を被らぬ黒き富士「富士山」ではない富士を眺める」とすると読みやすくなりませんか。
内容はとても個性的で、それでいて「あぁ、わかる!」と共感も得られるものだと思います。
15・これだけの物で生活できるのか 施設の友の私物の量(飯島)
上の句の「これだけの物で生活できるのか」という素直な驚きの描写が良いですね。
結句が六音なのが気になります。結句はなるべく七音にしたい、無理なら字足らずよりは字余りの方が読みやすい、というのが定例です。
「私物の量よ」と詠嘆にしてしまうか「私物少なし」と言い切ってしまうかして七音に揃えたいですね。
歌う場面の切り取りはとても良いと思います。
16・暖かいアルパカセーター手に入れて布団も厚手に冬支度かな(戸塚)
暖かなアルパカセーターを手に入れ、布団も厚手にして冬支度を整える作者。
季節の移り変わりに即してしっかり生活している作者の生き方が出ていてとても良い歌だと思います。
「暖かい」を「暖かな」とするとセーターに柔らかみが出る気がしますね。
アルパカセーターという具体的な素材がとても良いので布団と並列させずに「暖かなアルパカセーター手に入れぬ」として一旦切ってしまってはどうでしょうか。
17・船客の投げるえびせん取り合って鴎と鳶は海上を舞う(金澤)
状況は分かるのですが「海上を舞う」と言ってしまっていいのでしょうか。
鴎と鳶が餌を奪い合う様子に生きる強さや厳しさなどを感じ、そこに心が動いたのではないでしょうか。
「舞う」というと美しさや余裕、気品といった印象が強いので、「舞うように見えた」が核だとしたら逆に「取り合って」というのがちょっと不釣り合いかと思います。
「船客の」と言っているので「海上」という情報はなくても客船上という場面は描けます。「海上を舞う」の部分をもっと鋭く力強い感じの描写で表現できるとぐっと鮮やかになりそうです。
18・冷え込みに綿入りはんてん引き出して母の針目に見入る日溜まり(大塚)
しみじみとして良い歌ですね。
「母の針目」という素材がとても効果的でじんと来ます。
水甕投稿には少しだけ文字数オーバーしてしまうので「綿入れ半纏」(綿入れとしている例が多いようです)と漢字にしてしまってもいいかもしれません。画数多くて難しいですけど(笑)。
また半纏を引き出してから日溜まりで針目に見入る、と僅かながら時間経過と視点移動があるため、上の句は「引き出しぬ」として一旦切ってしまった方が一呼吸入って「母の針目」がより際立つ気がします。
19・曇天に冬支度して行く朝の白い山茶花ひっそりと咲く(栗田)
すっかり朝晩が冷え込むようになった季節。しかも曇天ですから寒々しさは増しますね。そんな寒さが堪えるようになってきた朝、しっかり着込んで出かける作者の目に入った白い山茶花はひっそりとでありながらも寒さに負けない強い存在に映ったのではないでしょうか。
下の句を「白い山茶花ひっそりと咲く」「山茶花白くひっそりと咲く」とで比べてみてください。
「白い山茶花」だと情景を客観的に、「山茶花白く」だと僅かに山茶花に意思が入ってくる気がしませんか。
歌によっては客観的な描写だけにした方が逆に作者の心情に迫れる事も多いのですが、この歌に関しては山茶花にひっそりながらも強さを感じるので「山茶花白く」の方が合っているのではという気がしますがいかがでしょうか。
20・橋の上男子高生声を上げ走りゆく背の揺れの逞し(名田部)
「声を上げ」だけだと男子高生の内訳が少し分かりにくいかな、と思います。
私は最初下校中とかで楽しそうにはしゃぎ小突き合いつつ帰って行く制服姿の生徒などを思ったのですが、それだと「走りゆく」「背の揺れ」がそこまで目立つかなとも思いなかなか場面が思い描けませんでした。
聞いてみると部活動でマラソン中の様子だということ。それなら確かに「走りゆく」「背の揺れ」もしっくり来ます。
なので私としては「橋の上」という情報よりも「部活する」という情報があった方がバシッと情景を思い描けるのですがどうでしょうか。
また「声を上げ」が「声揃え」とかなら「橋の上」でも(「部活」という情報がなくても)楽しくて笑い声を上げているなどではなく、かけ声を揃えて走っているのかなと想像することが出来ると思います。
また結句は「揺れの逞し」より「揺れ逞しく」の方が自然な言い回しかなと思います。
21・帰りたい家に帰りたい手を握り涙だす妻は(山口)
投稿された後で気付かれたようですが四句(七音)が丸々抜けて定型から大きく外れてしまっています。
足りない部分を少し補って「帰りたい早く家へと帰りたい我が手を握り妻は涙す」としてはどうでしょうか。
「涙だす」ですが「だす」は濁音ですし少々通俗的ですね。「涙する」という言葉があるのでこちらを使いましょう。
22・星すだく初冬の夜はゆるゆるの柿を喰らいてフーガを聴かん(緒方)
「ゆるゆるの柿」という具体的な素材が個性的で面白いだけにフーガという素材とぶつかりあってしまうのがとても勿体ないと思います。
「星集く初冬の夜」「ゆるゆるの柿」「フーガ」と三つも主役級の存在感のあるものが出て来てしまうと全体として煩くなってしまうというか、「で、誰が主役?」という感じになってしまうというか。
この○年もののワインにはこのチーズが合う!というように「ゆるゆるの柿」に「フーガ」を合わせるこのチョイスこそが粋!ということなのかもしれませんが、それなら「星集く夜」は切った方がいいのでは、と思います。
例えば「ゆるゆるの柿にはフーガがよく似合う耳も口もとろけゆきたり」など、何故そのチョイスが良いと感じたのかをあまり理屈っぽくならずに言う方がいいのでは。
ただ「ゆるゆるの柿」という素材は本当に面白いのでドンと主役にして「初冬の夜に食べるゆるゆるの柿」だけでまとめた方が絶対面白いのになぁと思ってしまいます。今年最後のゆるゆるの柿、とか何日置いたゆるゆるの柿、とか、スプーンに掬うゆるゆるの柿とか(笑)。
23・日の入りの早まる師走に工事場へLEDの明かりが灯る(川井)
「日の入りの早まる師走」が具体的でいいですね。師走という色々とやらなくてはいけない事が押し寄せる時期に「えっ、もうこんなに暗く?」と少し焦るような時間帯ですよね。
すっかり暗くなる中、仕事が残っているのか工事場にLEDが灯る、とても現代的な歌ですね。
個人的には、敢えてLEDとしているので昔のハロゲンランプのような暖かい感じではなくはっきり明るい感じで、そこに現代的なものを感じたのかなと思ったので「LEDの明かりが灯る」より「LEDの明るく灯る」とか「LEDの冴え冴え灯る」とかの方が良いのではとも思ったのですがどうでしょうか。
24・脱脂乳に鼻をつまみし日の遠く低脂肪乳を選(よ)りて帰りぬ(小幡)
私は飲んだことがないのですが戦後に子供たちが学校給食として飲んでいた脱脂粉乳は不味いことで有名ですね。
そんな不味い脱脂乳を鼻をつまみながら飲んでいた日ももはや遠い昔となり、今作者は健康のため敢えて自ら低脂肪乳を選んで帰る。
戦後の貧しさ、時代の流れ、重ねた年齢など様々なイメージが流れる良い歌ですね。
25・満月は優しい顔で昇りおりフル回転の一日終わる(鳥澤)
師走に入りますます忙しい日々を送っている作者なのでしょう。フル回転であれやこれやと働きようやく帰宅の途につく作者に優しく「お疲れ様」というように照らしてくれる大きな満月が昇っている様子が浮かびます。
満月を「優しい顔」と捉えたところが作者らしい感性ですね。少しオレンジ色の強い暖かで柔らかい光なんだろうなぁと思い描けます。
26・まつすぐに立ちていつしか枯れてをり泡立草は弁慶のごと(畠山)
2メートルを超す長身のセイタカアワダチソウ。少し前までは強い黄色の花が咲いていたのにいつの間にかくすんだ銀色の泡を付けて枯れていました。けれど枯れても垂直に伸びたままで倒れたり萎れたりしないのですよね。
見上げる程の高さにまっすぐ立ったまま枯れている姿が弁慶の立ち往生と重なりました。
「弁慶のごと」(ごとは如く・如しの短縮形)と比喩にしてしまったことでやや弱くなっているとのこと。
弁慶になった、弁慶となると言い切ってしまった方がいいのではとの意見をいただきました。
因みにセイタカアワダチソウって厄介な雑草扱いされていますが、花粉症などアレルギーを起こすのは似ているブタクサの方であって、セイタカアワダチソウは逆にアトピーや喘息などを治すデトックス効果の高い薬草で、開花前の蕾状態の穂を乾燥させてお茶にしたり湯船に入れて薬湯にしたりすると良いらしいですよ。今年はもう時期が過ぎてしまったので来年覚えていたら摘んでみようかなと思います。
☆今月の好評歌は9番、緒方さんの
古寺の煤けた床に五つほどどんぐりだけが遊んでいたり
となりました。
古寺の煤けた床という風情ある情景の具体的な描写にころんとかわいらしいどんぐりが遊んでいると捉えた優しい目線が素敵ですね。