◆歌会報 2022年11月 (その2)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第126回(2022/11/18) 澪の会詠草(その2)
12・うたた寝の近く遠のく鋏の音三十年の柿の木よさらば(大塚)
三十年共に暮らしてきた柿の木ですがご主人が亡くなったこともあり、手入れや活用が難しくなってきて伐ることにしたそうです。(その1の)1番の干し柿を作る思い出の歌の柿はこの柿なのでしょうね。
さて伐採を業者に頼みうたた寝する作者。柿の木にまつわる思い出などをうつらうつらの内に思い出しているのではないでしょうか。
そうやって思い出と現実の間を意識が漂い、柿の枝を落とす鋏の音が近付いたり遠のいたりと感じる。
懐かしいとか寂しいとかは言っていないけれど切ない感じがひしひしと伝わってきますよね。
それでも最後に「さらば」と言い切ることで三十年の思い出の詰まった柿の木を伐ることにした=ご主人の死を受け入れた上で新しい日常を歩んで行かなくてはと決めた作者の覚悟のようなものを感じます。
「うたた寝の」は「うたた寝に」(うたた寝中に・うたた寝をする私の耳に)ではないでしょうか。また「近く遠のく」は「近くに感じたり遠くに感じたり・近付いては遠のく」ということですよね。その場合「近くに遠くに」や「近付き遠のく」となると思いますが、「近くに遠くに」だと八音な上に「に」が(うたた寝にもあって)やたらと続いてしまうので今回は「近付き遠のく」が適切ではないでしょうか。
また「うたた寝に近づき遠のく鋏の音」で一字空け、一息入れてから「三十年の柿の木さらば」と覚悟をバンと置いてもいいかもしれません。「柿の木よ」の「よ」は文法的には確かにあった方がしっくり来るのですが、結句なだけに七音できっちり抑えたい気も。比べて読んでみたりして最終的には作者の判断で決めていい所だと思います。
13・教え子に思わず会えた秋日和その成長に胸熱くなり(戸塚)
思いがけず教え子に会えた秋の日。その成長っぷりに思わず胸が熱くなった。
子どもの成長は早いのでしばらくぶりに会うとビックリするくらい変わっていますよね。
ただ「その成長」「胸熱くなり」がどちらも具体的でないので作者の視点にぐっと寄れません。このままでは読者に見えるのは「教え子の成長に感動しているであろう作者の姿」であって、作者の目線で作者が感動したのと同じものを見て追体験するということが出来ないのです。
「その成長」とは具体的にはどこを見て感じたのでしょうか。身長や体格でしょうか。顔つきでしょうか。話しぶりでしょうか。「その成長」だけではよく分かりませんね。作者は分かっていても読者には分からないのです。
見上げるほどに背の伸びておりとか挨拶の声低くなりたりとか、あぁ成長したなぁと感じた部分を具体的に探して言葉にしてみてください。
また「胸が熱くなった」ということを直接言ってしまってはいけません。そういう「楽しかった・感動した・悲しかった」という感情そのものを言ってしまうと、読者は「そういう感想を持った作者像」を見るところで終ってしまうのです。
読者には作者の姿を見せるのではなく、作者の見たものを見せたいのです。
秋の日に「こんなふうに成長した」教え子と会った。という「作者の体験そのもの」を描き、その後の心の動きは読者に任せるのです。きっちりと場面が描写されていれば、読者の心も作者と同じように動くことでしょう。
14・幾ばくかうらさびしくも蒼き空ぽつりぽつりと山茶花の咲く(緒方)
どこかもの寂しさを含みつつも蒼い空の下、ぽつりぽつりと山茶花が咲き始めているという晩秋の叙情歌ですね。
「幾ばくかうらさびしくも蒼い」という空の色の表現が個別的ながらも分かる分かる~という感じで素敵だと思います。
本当に、澄んでいて高く爽やかな空なんですけれど、どこか何か寂しい感じがするんですよね、秋の空って。
このままでも良い歌ですが、そこ(空の色)の方を際立たせて「幾ばくかうらさびしさに空蒼し」として言い切り、「ぽつりぽつりと山茶花咲きて」と流してしまうのもありでは、という意見もありました。
15・義弟(おとうと)の病重きを聞きし夜の下弦の月はひたすらに冴ゆ(小幡)
義弟の病が深刻なものであると聞いた夜の下弦の月はひたすらに冴えて輝いている。
下弦の月ですから世間もすっかり静まった深夜なのではないでしょうか。静かなだけに思考がより深くに入り込んでくる時間でもあります。義弟さんの病気が重いものであると知った作者の目に映る月は冷酷なまでに白く冴え冴えと輝いていたのでしょう。
「ひたすらに」と「ひしひしと」で迷われたそうですが、私は「ひしひし」の方が断然グッとくると思います。
16・道端にえのころ草がふわふわと三つ握れば手は温々し(名田部)
道端にえのころ草がふわふわと揺れていて、三つ握ってみたなら手がぬくぬくと温かくなった。
身近な自然との関わり方が柔らかく楽しく歌われていてとても良い歌だと思います。見ただけでなく触れて感じてみるという対象と向き合う姿勢もとても良いと思います。
ただ「えのころ草が」の「が」は濁音ですし、とても柔らかい抒情を歌っているのでここでは少し強すぎるのではないかな、という気もします。
「えのころ草の」として柔らかく軽くしてみてはどうでしょうか。
また結句は「温々し」で終ってはいけません。「ぬくぬく」という副詞は「ぬくぬく(━と)スル」とセットで使用する言葉です。つまり「ぬくぬく」に付く「し」は動詞の過去形でもなく、形容詞の「し(美しなど)」でもなく、動詞「す(~する)」の連体形の「し(~して)」です。「ぬくぬく(と)し、なんちゃらかんちゃら」と文章が続かなければおかしいのです。
でも作者としては「手がぬくぬくした・温かくなった」という事が言いたかったのではないかと思うので、それならば「温し(文語)・温い(口語)・温かし(文語)・温かい(口語)」などの形容詞を使うべきです。
「三つ握れば手の中温し」や「手のひら温し」「手の温かし」など形容詞にして結句をきちんと座らせてやってください。
歌の内容(場面の切り取り)はとても良いと思います。この調子です。
17・ふたまたに別れ伸びたる秋明菊二つの花へそれぞれの風(川井)
ふたまたに別れた枝の先に付いた花がそれぞれ微妙に違う揺れ方をしているのではないかなと思います。
その僅かに違う揺れから花それぞれへ(そしておそらく作者へも)と吹く柔らかな秋の風を視覚的に捉えている作者の見方が素敵ですね。
上の句下の句共に体言止めではありますがそれほど気になりません。
とても良い歌だと思います。
18・谷を見てゆるりと風にのる鳶と同じ高さの丘に立ちたり(鳥澤)
普段は高いところで風に乗って旋回している鳶と同じ高さの丘に今立っているということへの感動を感じますが、初句の「谷を見て」は必要な情報かな?と思います。
核は「鳶と同じ高さに立った」ですね。この「谷を見て」いるのは「鳶」にかかりますが、おそらく作者が谷を見下ろせるような高台に立ったことで「いつも頭上を飛んでいる鳶はこんな風景を見ていたんだな」と実感したことによる描写なのではないでしょうか。
「鳶と同じ谷を見ており」とかなら「谷を見て」という情報が活きるかと思うのですが、意味がある故に言葉の重さが分散してしまい核が軽くなってしまっている気がします。
初句は「晴れた秋」「秋の空」「弧を描き」くらい軽くして、風にのる鳶と同じ高さに立った!という核を目立たせた方がよいのでは、と思います。
19・コロナ禍で面会できずメールのみ返事なき時病心配する(山口)
コロナ禍で直接面会ができず入院患者とのやりとりはメールしかないのにメールの返事がないと(メールも打てないほど)病状が悪化したのではないかと心配してしまう。
「コロナ禍で」の「で」は口語ではよく使いますが歌としてはあまり使いたくない言葉です。口語の「で(~なので・どこどこで)」は短歌では大抵は「に」に置き換えて使います。口語ではあまり使わない言い方なので初めは違和感があるかもしれませんが短歌界では一般的なので慣れてください。また「~なので」と理由として使うものは「~ゆえに」とか「~のため」などとも言い換えたりします。ただ今回の場合は「コロナ禍は」でいいのではないでしょうか。
また「病心配する」という言い方も不自然かなと思います。「返事なき時心配つのる」とか「不安の増せり」くらいが一般的かなと思いますが、「心配・不安」と言ってしまう事自体がどうかな、とも思います。
出来れば返事がないと何度もケータイを確認してしまうとかケータイを持ってうろうろしてしまうとか、心配することで実際に作者がした動きで表せるといいのですが字数的に難しいところでもあります。
私だったら「返事がない時」というのは切ってしまい、「コロナ禍は面会できずメールのみ一日何度もケータイを見る」とかにするかな、と思います。
20・真っ青な空カーンと晴れた午後かわせみの翠一段と冴え(飯島)
真っ青な空がカーンと晴れた午後、カワセミの翠色が一段と冴えて見えた。
「真っ青な空(がorの の助詞が必要)晴れた午後」という上の句はとても良いと思います。爽やかな秋晴れの高い空が思い描けますね。
そんな透明度の高い世界の中に現れたかわせみの翠。その鮮やかさ、作者の心を動かした色の具合を「一段と冴える」ではなく作者ならではの感じ方で言えるとより強い歌になると思いますが、そこが難しいのですよね(笑)。
一段と冴えたのは輝きでしょうか、それとも濃度でしょうか、彩度でしょうか。
また結句なので「冴え(未然形・連用形)」で止めてしまってはいけません。終止形は「冴える」か「冴ゆ」です。
結句を意図的に流すのではなく、なんとなくで終止形にせずしっかり座らせずに切る例が最近結構あるな~と思うので、そのうちブログに書こうかと思います。
今回も6番の「与え(終止形は与えるor与う)」、13番の「熱くなり(終止形は熱くなる・熱くなりぬ・熱くなりたりなど)」、16番の「温々し(終止形は温し・温かし)」、20番の「冴え(終止形は冴える・冴ゆ)」など間違った活用形での終わり方がいくつか見られました。
読点(「、」)が来て文章がまだ続く(=きっちり書かないけど書きたいことは分かるでしょう?と匂わせる)終わり方は音楽でいうフェードアウトです。余韻を残しつつ徐々に消えていく手法は意図的にたまにやると雰囲気を残し効果的ですが、多用すると「単にきっちりまとめられなかった曲」という扱いになってしまいます。
短歌も歌なのでフェードアウトがカッコ良く見えるものもあるのですが、本来終止形じゃないとおかしいものを間違っている場合、雰囲気を残しつつ徐々に消えていくカッコいいフェードアウトではなく急に音量がガクッと下がってしまい余韻も残さず、かといってきっちりした終りも感じさせず事故のように終ってしまった曲のようになってしまうので気を付けましょう。
21・朝の日の奥の仏間に入り来て明かりと見まがう眩しく光る(栗田)
朝日が奥の仏間に入ってきて、明かりと見紛うほどに眩しく光っていた。
仏間からの眩しい光ですから何か神々しいものを感じますね。
「入り来る」「見まがう」「光る」と動詞がちょっと多いかなと思うので、下の句を少し並び替えて「眩しき光を明かりと見まがう」としてはどうでしょうか。
また「朝の日の」は「朝の日は」として朝の日を少し強めてもいいかもしれません。
22・満開の金木犀の木の下はマスクずらして深呼吸する(畠山)
最初は「満開の金木犀の木のありて~」だったのですが説明的すぎるかなぁと思い、次に「金木犀の木の下に」としたのですが、これだと逆に意思が消えすぎるかな~と悩み、最終的に「木の下は」としてみたのですが、やはり迷ったここを指摘されました。
「木の下よ」と感嘆にして切ってはどうかという意見もあったので参考にしてみようと思います。
☆今月の好評歌は9番、飯島さんの
一回り小さくなってふんわりと車椅子に笑む九十歳の姉
となりました。
一回り小さくなってふんわりと笑むいう具体的な描写から場面がありありと浮かびますね。歳を取っても仲が良い、そんな作者の周りの温かな人間関係も見えるようです。