短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

◆歌会報 2022年12月 (その1)

◆歌会報 2022年12月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第127回(2022/12/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・花の香を虜にさせる金木犀二代スターの名こそ誇りて(小夜)

花の香「の」虜にさせる金木犀、ならば上の句は分かります。

助詞の「を」は「人々虜にさせる花の香」という使い方ならば意味が通りますが、「花の香を虜にさせる」では香が虜にさせられてしまいますね。

上の句は助詞を直せば意味が分かるのですが、下の句がちょっと分かりませんでした。

「二スター」はおそらく「二スター」なのだろうと思ったのですが、それでもちょっと分かりません。「三大」ならば「三大香木(花の香が良いことで有名な花木)」としてよく金木犀沈丁花クチナシが挙げられるのでそれかな、と思ったのですが、「二大」として知られている有名なものは特に思い浮かびません。金木犀と銀木犀のことだろうか、などと疑問が渦巻いてしまいます。

どうしても意味が分からなかったので作者に尋ねたところ、「金星と木星という二つの星(スター)の名前が入ってると思った」ということでしたが、それはちょっと無理があります。

惑星ふたつその名に含む、とかちゃんと解説しなければまず他人には伝わりません。それでも漢字も意味も違うのでかなり難しいと思います。

また伝わったとしても「言葉遊び」の域を出ず、人の感情を震わせる情景の素材にはなかなかなれないと思います。「あら、そうね、面白いわね」という感想で終ってしまい、読者の頭の中に作者の体験したものと同じ情景を浮かばせ、同じような複雑な感情を抱かせるまでには至らないというところでしょうか。

とんちや知識による「奇抜な発想・気付き・言葉遊び」は短歌というよりは川柳に求められる分野だと思います。

もちろん時代は変わってゆくので川柳的短歌という分野を開拓し拡げていく道もありかなとは思いますが、澪の会としては路線が違うかな、と思います。

澪の会的には流行り廃りが変わっても伝わる作品、日本人の根底にある共通した感覚に訴えることによりひとつの言葉では表現しきれない複雑な心の揺れを再現し共有できる作品作りを目指しています。

今回の場合、金木犀の甘い香そのものを作者はどう捉えたのかということを歌にして欲しかったかな、と思います。

思わず眠くなるとか、全身に満たしたいとか、ふんわり体が浮くような心地とか、香に向き合って何か実際に感じた感覚を素直に表現して欲しいなと思います。

 

2・四姉妹笑顔の写真もろもろの老いを隠すマスクに感謝(飯島)

コロナ禍でマスク着用が日常となり、本来は面影(=顔)を残すことが目的である集合写真などもマスクをしたまま、という事が増えてきましたね。

マスクは鬱陶しいと感じる人も多いでしょうし、感情が分かりにくくそれこそ記念写真などでは本来の意味を台無しにする邪魔者でしかないのですが、皺やシミを隠してくれたり、髭などの顔面のお手入れをサボってもバレないという利点もあります。

ただ「マスクに感謝」と言ってしまうと一気に川柳的になってしまうのですよね。

もろもろの老いをマスクに隠しつつ写真に微笑む四姉妹、という場面だけでまとめ、「感謝」と言い切ってしまわず、コロナ禍・老齢・鬱陶しさという多くのマイナス感情の中にも“まぁ老化を誤魔化せちゃうし悪いことばっかりじゃないわよね”という前向きな考え方を覗かせる作者を見せて欲しいと思います。

 

3・秘密裏に運転免許取った日々いよいよ返納便利だった日々(戸塚)

まだ女性が運転免許を取るのがあまり一般的でなかった時代に周りには秘密にして教習所へ通い取った免許、その後色々と活用した(取って良かった)けれどもいよいよ年齢を考えて返納するという決意をした作者。

昔頑張って取った頃の思い出や、様々に活用して頑張って取って良かったなぁという思い、けれど年齢を考えて大事故など起こしてしまわぬようにと「便利」を諦めて返納を決めた心理、色々と複雑な感情が入っている場面だと思います。

ただ「便利だった日々」と言ってしまうとその複雑さが消えてしまう気がします。

「いよいよ返納」の「いよいよ」にその複雑な揺れが入っているのでここを活かしたいですね。

「四十年目にいよいよ返納」などとしてもいいですが結句八音が気になるようでしたら「いよいよ返納両手に掲ぐ」などとして長い間ありがとうと思わず掲げて感謝している様子や「いよいよ返納「無効」の判子」「いよいよ返納パンチ穴空く」など免許証の描写などを入れてみても面白いかもしれません。

また「免許取った日々」は教習所へ通った日々がよぎって「日々」としたのかなとは思いますが、「免許取りし日よ」として体言止めを避けた方がいいかと思います。

 

4・古里の地蔵は今は柵の中苔におおわれ石に戻りぬ(金澤)

とても詩的で良い場面ですね。

「地蔵」と主格を表す助詞が続いているところが気になります。「地蔵も今は」として助詞被りを解消してみては。

また「柵のなか」と「なか」をひらがなにした方が今回は読みやすいし雰囲気も柔らかくなるかもしれません。

また「石戻りぬ」「石戻りぬ」も意識して選択するクセを付けて欲しい箇所ですね。ただし私も今回は「に」の方が良いかなぁと思います。

場面の切り取りは悠久の時間としっとりとした空気感を思わせる素敵な場面で文句なしだと思います。

 

5・工事場にクレーンは伸びるどこまでも空を切り裂くビルが現る(大塚)

高いクレーンが伸びて工事現場を隠していた防護膜が剥がされ、空を切り裂くようなビルが現れたという場面は現代的でとても良いですね。

ただ「伸びる・切り裂く・現る」と三つも動詞が終止形(切り裂くは連体形ですが)で現れ意味が散ってしまいますね。しかもこのままの文法で読むと「伸びる」と終止形で切れてしまうので「どこまでも」は「空を切り裂くビル」にかかってしまいます。

「線路は続くよどこまでも」じゃないですけど「伸びるよどこまでも」ならクレーン側にかかりますがそれだと結句であるビルの出現よりも高く高く伸びるクレーンの方が主役っぽくなってしまうかなとも思います。

「どこまでも」を先に持ってきてしまってはどうでしょうか。

どこまでもクレーンの伸びて工事場に空を切り裂くビルが現る」とするとどこまでも伸びるのはクレーンだと分かるし、空を切り裂いてビルが現れたという結句の部分も重くなるのではないでしょうか。

逆に「どこまでも」が「空を切り裂く」にかかるのでしたら「工事場にクレーンの伸びてどこまでも空を~」の順が正しいのですが、その場合「空を切り裂」になると思います。また「切り裂く」に対し「どこまでも」という表現は正しいのかな、とも思います。ぱっきりと、とかばっさりと、とかなら分かるのですが、「どこまでも」と言われると「伸びる」の方にかかる気がしてしまいます。

 

6・一陣の南風吹き梢から飛び立つ木の葉ベランダに散る(栗田)

一陣の風が吹いて梢から木の葉が(鳥のように)飛び立ち、ベランダへ散った。

丁寧に観察しているなぁとは思うのですが、丁寧さが説明になってしまった部分があると思います。

一番の問題は「南風」ではないでしょうか。ベランダの多くは日当たりの良い南向きが多く、実際に南の方から吹いてきた風によって木の葉がベランダに向かって飛んできたのだと思いますが、「南風」という言葉には暖かそうなイメージが付きますよね。それが意味を持ちすぎてしまい、本題とは違う部分に読者の意識がいってしまい悩んでしまいます。

それよりも木の葉が鳥のように飛び立って来たという作者ならではの木の葉の見立て方こそが面白い部分なので、そこを活かしたいですね。

例えば「一陣の乾いた風に梢から木の葉飛び立ちベランダへ来る」などとすると木の葉の擬人化(擬鳥化?)がより際立ち木の葉に意思があるようなイメージになるのではないでしょうか。

 

7・三日月と滴のような金星が睦まじ光る晩秋の空(名田部)

三日月と滴のような金星が仲睦まじく光っているという見方はとても良いですね。

ただ「睦まじ光る」とは続きません。「睦まじい」はシク活用の形容詞で「光る」という動詞に続く場合は連用形で活用しますから「睦まじく」までで一つの言葉です。「三日月と金星は睦まじ。」と終止形で終るのでなければ「睦まじ」で切ってはいけません。

八音にはなりますが「睦まじく光る」とするか、また「睦まじい」は動詞「むつむ」の形容詞化したものですから、動詞として使い「睦みて光る」として七音にまとめるかどちらかにした方が良いと思います。

意味的には「睦まじく光る」が「仲良く光る」であるのに対し、「睦みて光る」は「仲良くして光る」といった感じなので大きくは変わらないと思います。

 

8・面会がとけ連日届け物一時(いっとき)だけども顔見る思い(山口)

(入院する妻の)面会(の規制)が解けて一時だけでも顔が見たいと連日届け物をする作者。

歌っている場面は良いのですがちょっと最近の作品に「だけど」「だけども」という言い回しが多すぎる気がします。

どちらも口語(話し言葉)な上に濁音が多く濁った響きの言葉なのであまり短歌向きではありません。

「だけど」は「けれど」「なれど」「なるも」などとも言い換えられますし、「だけども」はそもそも「~だ(である)けれども」の訛った話し言葉で、そのまま「だけども」と文章に使うのは適していません。

また「~だけでも(ほんの一部でも)」という言葉とごっちゃになっている場合も多いので注意してください。「~であるけれども」の略である「~だけも」と、ほんの一部でもという意味の「〇〇だけも」は全く別の言葉です。

今回は「面会がとけ連日届け物一時といえ顔を見たいと(見れると)」などとするとすっと意味が通るのではないでしょうか。

 

9・古寺の煤けた床に五つほどどんぐりだけが遊んでいたり(緒方)

良いですね!

古寺の煤けた床という具体的な描写で初句から鮮やかに情景が浮かびますね。そこにどんぐりを擬人化させ、ころんと転がっている様子を「遊んでいたり」とする表現がとても素敵だと思います。

団栗を「どんぐり」とひらがな表記にしたのも、ころんとしたかわいさを思わせ効いていると思います。

読み手に特別な知識を求めることもなく、とても自然に秋の風情ある歌の場面に入り込めます。文句なしです。

 

10・うるおいの失せた落葉は降り積もり足元に聴く晩秋の音(川井)

これも良いですね!

かさかさパキリという乾燥した落葉を踏みしめ、その音から晩秋を感じている作者。

落葉を「うるおいの失せた」と表現したところが具体的で、そこには作者らしい個性的な見方が現れています。

このままでも十分な出来だと思いますが、敢えて言うなら「落葉」という主格の助詞を落葉に与えてしまうと「落葉を踏みしめる音を聴く作者」という本当の主格が薄れてしまうかもしれません。助詞の強さを一段落として「落葉の」とするとそこがもう少しくっきりしてくる感じがしますね。

 

11・たちまちに雲は奥羽の山なみを閉ざし車窓に時雨たばしる(小幡)

どういう情景かというのは分かるのですが、その情景を作者はどういう心情で見ているのかがちょっと見えてきません。

初心者ならば五七五七七できちんとまとまり、情景も分かるので十分なのですが、この作者はもっと力のある方なのでこの作者にしては惜しい、という気がします。

「車窓に」の部分は変えられそうな気もします。「たちまちに雲は奥羽の山閉ざし大泣きするごと時雨たばしる」とかならばもう少し作者の心情が見えて来そうな気がします。

 

12・雨あがり もみじの山は反物をさあっと広げたように色めく(鳥澤)

雨上りの紅葉の山を作者らしい感性で歌っていますね。

問題は初句に「雨あがり」と俳句のように単語をドンと置くのが効果的かどうかですね。

短歌では文法的にはちゃんと助詞を使い上から下まで繋げるのが美しいのですが、今回「雨あがりの」では六音になってしまうし何より何かつまらなくなってしまいますよね。

でも「雨あがり」という名詞だけドンと置いては俳句感が強い。そこで「雨あがる」と一文にしてはどうかという案が出ました。

「雨あがり」というと映画のオープニングで雨が上がった直後のキラキラした風景の映像が流れる気がしますが、「雨あがる」と言われると映画の主人公が雨あがりの景色をバックに両手を伸ばして眩しそうにしている映像が流れそうな気がするのですが皆さんはどうでしょうか。

「雨あがり」は状況そのものを指すのに対し、「雨あがる」というと作者の体験(認識)になるからかなぁ、と思います。

 

13・ちりちりと星鳴きてをり霜月の静けさ深き藍色の夜(畠山)

実際の音はしないのですけれど、冬の星は「ちりちりちりちり」高い音で鳴いているように感じました。

ヒトが生まれるずっと前からヒトが争う今、そしてヒトが滅亡したあとも変わらずちりちりちりちり…。宇宙を見ると時間に対する考え方がものすごく大きくなる気がします。

「静けさ深き」が読みにくいし「静けさ」?「静かさ」?となるし問題だなぁとは思っていたのですがなかなか良い案が浮かびませんでした。

「ちりちりと星鳴きてをりどこまでも藍色深き霜月の夜」あたりにしようかなぁと思っていますが、「しづまり深き」や「しんと静かな」などいくつか提案もいただいたので考え中です。

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