短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2022年7月 (その1)

◆歌会報 2022年7月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第123回(2022/7/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・友と会う目尻のシワにやっぱりと我れをも見たりコロナの現実(小夜)

コロナ禍に久々に会った友人の目尻の皺に気付き、これだけ続くとやっぱりコロナ疲れも顔に出るわよねぇ、きっと私の顔にも出ているのでしょうね、という情景を歌ったものと思います。

「目尻の皺」という具体的な着眼点がいいですね。もし「顔に疲れが」などと言ってしまっていたら、「顔っていうけど具体的にどこ?」「何を見て疲れていると思ったの?」と読者は迷ってしまいます。

「目尻の皺」と具体的にビシッと見るべき部分を定めてくれたおかげで読者は皆作者と同じ視点を持つことができました。この調子です。

結句の「コロナの現実」がやや曖昧ですね。このままでも意味は通ると思うのですが、「コロナの現実」と言ってしまうと「実際コロナに罹ったが故の疲弊(後遺症)かな」などとも受け取れてしまいますが、この歌では「長く続くコロナ禍での自粛や衛生管理などへの疲れ」のことを指していると思うので「コロナ禍三年」や「コロナ疲れよ」などとして曖昧さを無くしてしまいところですね。

また表記の問題として「コロナ」はカタカナで変えられませんから、「目尻のシワ」の「シワ」は「皺」と漢字にした方が短歌らしく落ち着きます。

 

2・窓の側何度も近づく黒い影は物言いたげな薄羽かげろう(金澤)

窓のそばへ何度も近付く黒い影は何か物言いたげなウスバカゲロウよ。

ふわ~っふわ~っと漂うように飛ぶ薄羽かげろうのぼんやり黒い影。それを何か物言いたげと捉える作者の感性が面白いですね。

ぼんやりと焦点が定まらない感じの薄い黒影には少し悲しい想いを持った儚げな幽鬼のような印象を覚えます。

初句の「窓の側」がやや俳句的なぶつ切り感があるので「窓際へ」「窓辺へと」などとしてするっと下に繋げたいところ。

また三句の「黒い影は」は六音になってしまうので「黒影は」「黒い影」として五音にしましょう。

「黒い影」とした場合、助詞がないので四句の「物」とすぐ続いて読みにくくなりそうなら「もの」をひらがなにしても良いかもしれません。

また「黒い影」として一度切った場合、「もの言いたげ」とするとまた少し雰囲気が変わりますね。

ただ結句が「薄羽かげろう」と体言止めなので、「黒影は」の方が文章の流れは自然かもしれませんね。

 

3・膵臓癌突然医師の告知あり妻きじょうに説明を聞く(山口)

とても重い場面を歌っています。

内容の解説は要らないですね。どんな場面か皆分かると思います。

ただ癌の告知をするのは医師であり、わざわざ言わなくても分かることなので、「医師の」を省き、語順を変えて「突然に膵臓癌告知あり」として定型に合わせたいところ。

また四句も「妻気丈に」(きじょうは漢字にしましょう!)として助詞を入れ、音数も合わせると

突然に膵臓癌と告知あり妻は気丈に説明を聞く

と全部定型にきっちり収まり自然で読みやすい歌になると思います。

 

4・晴れ続き白紫陽花が枯れ色に水無月の朝の水やり気温三十度(栗田)

言いたいことが溢れてしまったのか、かなり定型から外れてしまいましたね。

というか私も昔やっちまったことがあるのですが(笑)、これはおそらく数え間違いで三句が被っているのではないでしょうか。「晴れ続き白紫陽花が枯れ色に」までが割ととすんなり出来てしまって、すんなり出来すぎたが故に「(こんなにすんなり三句までなんて出来るはずがない)まだ二句までしか出来てない。残りは五七七」と思い込んでしまい、三句が「枯れ色に」と「水無月の」で被っていることに気付かず、「水無月の」で五、残り七七!と考えて「朝の水やり(七音」「気温三十度(八音)」という下の句を作ったのではないかと。

どちらにせよ少し言いたいことが多すぎるので、核を決めて不要な部分を削ぎ落とす作業をしましょう。

この場合一番削れそうなのは「水やり」ではないでしょうか。「まだ六月なのに朝からもう気温三十度!」という方が重要で、「水やり」という情報はここでは役に立っていません。

また結句はなるべく七音で抑えたいところ。ですから「気温三十度の水無月の朝」と語順を入れ替えて七音になる方を結句に置きたいですね。

結句がしっかり決まっていれば四句は多少字余りでもいけるのですが、「気温三十度の」では九音になってしまうので「三十度超す水無月の朝」などとすると(実際はその時点ではまだ超えていなくても)七七に収められるので色々とこねくり回して考えてみて下さい。

そして出来上がった歌は一度頭から指を折りつつ読み直してみて下さい。

 

5・杉木立続く道端に山吹きが明りのごとく灯り咲きおる(名田部)

杉木立が続く道端ですから少し薄暗いのでしょうね。そこへ山吹(送り仮名「き」は不要)が明りを灯すように咲いている。

情景は良いですね。特に「杉木立(の)続く道端」という具体的な描写で、昼間でも少し薄暗いような場面をすっと思い浮かべられます。

また「道端」「道端」は変えられますので、検討した上で決めましょう。

特に「へ」は日常会話では全て「に」と言ってしまっている場合が多く、使い慣れていないので全部「に」にしてしまいがちですが、短歌では「へ」とすることで一気に雰囲気が変わりより詩的になる場合も多いので、毎回必ず「に」と「へ」は意識して入れ替えてみましょう。

上の句に対し下の句がやや抽象的ですね。というか「灯る」という言葉自体に「明り(や火)が点いて照らしている」という意味が既に込められているので「明りのごとく明りが点いて照らしている」という意味になってしまいます。

ですから「どんなふうに明りが灯っている」という情報を入れましょう。

「ぽっと明るく灯り咲きおり」と「ぱっと明るく」ではかなりイメージが違いますよね。

また「灯る(自動詞)」でなく「灯す(他動詞)」にして「道端山吹がぽっと明るく灯咲きおり」としてもまた少し雰囲気が変わりますね。「道端に灯る」だと作者が風景を客観的に見ている感じ、「道端を灯す」だと山吹に少し主観が入る感じになりますね。

また「明るく」の部分は「静かに」や「柔らかに」や「ふんわり」「くっきり」「煌々と」などより具体的に変えられる部分です。作者の捉えた山吹の様子を色々考えて言葉を探してみましょう。

 

6・Tシャツに汗にじみ出る真夏日の真っ青な空真っ白な雲(川井)

すっと自然に爽やかな夏の日の情景が思い浮かべられますね。

「Tシャツに汗にじみ出る真夏日」という誰もが経験したことのありそうな具体によって説明的にならずに読者と暑さの感覚を共有できています。

ただの「猛(る)暑(さ)」だの「酷(い)暑(さ)」だのではこうはいきません。

そして暑さの感覚を共有したところで「真っ青な空真っ白な雲」と、これまた誰でも分かる平易な言葉で爽やかな夏空を表現しています。

上の句の具体が無ければ、真っ青って言っても濃さとか明るさとか色々あるでしょ、真っ白って言っても白って200色あんねん(byア〇ミカ)とか、どんな形の雲なの、とか色々突っ込まれたかもしれませんが、上の句が具体的なので「Tシャツに汗が滲むような暑さの日に見上げれば見えそうな真っ青な空と真っ白な雲」のイメージはそれぞれについていちいち説明しなくてもほぼ共通するはずです。

上の句の具体により下の句の説明を省き、尚且つ誰もが分かる言葉で強い印象を押し出してくる、とても巧い歌だと思います。

簡単な言葉で出来ている=単純で軽い歌と思ったら大間違いです。

誰もが分かる言葉のみでも幼稚にならず、情報不足にならず、強い印象を与えるというのは実は大変難しく、高度な技なのです。

このままでもとても良い歌ですが、「真夏日よ」として詠嘆で一度切ってしまった方が下の句がより活きるかもしれません。

 

7・泰然と楠の古木はたたずむも葉擦れの音の欷歔(ききょ)のごとしも(緒方)

泰然と(物事に動じず落ち着いて)立っている楠の古木だけれども、その葉擦れの音は欷歔(すすり泣いている)のようだ。

題材(物事の捉え方)はとても良いですね。どっしりと構えている大きな古木だけれどその葉音はすすり泣いているように聴こえる。どんな歴史を見てきたのかな、となりますね。

さて問題は「欷歔のごとしも」です。誰もが一目見て意味の分かる言葉ではありませんね。ふりがながないとまず読めませんし、「ききょ」と打っても常用でないので変換もできません。

ここは素直に「すすり泣くごと」でいいのではないでしょうか。

例えば「どこか悲しげ」などという表現だったら何をもって悲しげと捉えたのかもっと具体的に!と言われたかもしれませんが、「すすり泣くごと」という表現はちゃんと具体的です。すすり泣く声に聴こえた(具体)ということは、作者は(言ってないけれど)どこか悲しげと捉えたのね、と読み取れます。

6番の歌で述べましたが、誰もが分かる言葉でありながらも具体的な描写によって読者を正解のイメージまで導いてやるということは決して手抜きや力不足ではなく、むしろ逆で難しいことです。

「読者の知識」にあまり頼り過ぎない歌作りを目指してみましょう。

 

8・信号を待つ間も暑いこの夏は木蔭を求めジグザグ歩く(大塚)

あるある~分かる~私もよくやる~!という声が聞えてきそうな良い歌ですね。文章に無理がなく、誰もがすっと迷うことなく作者になりきって歌の場面を思い描けると思います。

もう本当にちょっとした陰でもいいから陰の下を行きたい!と街路樹が陰を作っている場所を選びつつジグザグに進む作者の様子がよく分かります。

このままでも良い歌ですが、「信号を待つ間も暑し」として一度切ってしまってもいいかもしれません。

また「木蔭を求め」は「求め」の部分にやや説明感(理屈)が顔を出しつつある気もしないでもないので(それほど気にはなりませんが)、「木蔭の下を(状況)」「木蔭を見つけ(意志(理由)より行動に重点)」などとしてもいいのかもしれません。

 

9・梅雨晴間三千院の苔の庭緑と光に都忘れ咲く(戸塚)

梅雨晴間の三千院の苔庭のしっとりとした緑と光の中に紫色の都忘れが咲いている美しさを詠んだもの。

風景描写の歌で静かな和の庭園風景がちゃんと見えますね。

ただ少し漢字が続き過ぎて読みづらい部分もあります。

一番気になるのは「苔の庭緑と光に」と続いているところ。「庭緑」でちょっとつまづいてしまいますね。そこで「苔庭」と「の」の位置を変えてみましょう。「苔庭の緑と光に」でぐっと読みやすくなりますね。

また初句の「梅雨晴間」ですが、俳句の初句としてはよく使われますが短歌ではややぶつ切りな印象を受けてしまいます。

「梅雨晴れの」としてはどうでしょうか。

梅雨晴れの三千院の苔庭のみどりと光に都忘れ咲く」などとすると少し柔らかくなり読みやすくなるのでは。

 

10・置きどころなき暑さかな境内の手水のみづに紫陽花の毬(小幡)

身の置き所もない暑さの中、境内の手水の水に浮かべられた毬のような丸い紫陽花を見て一服の涼を得る作者。

最近増えてきた「花手水(はなちょうず)」ですね。コロナ禍で手水の一般利用が停止されたことにより、増えてきているようです。手水の施設をただ閉じるのではなく「目で見るお清め」として季節の花々を浮かべて楽しもうという感覚は素敵ですね。

この作者もうだるような暑さの中、手水の清らかな水に浮かぶ紫陽花を見て、目から涼しさを頂きほっと一息ついているのでしょう。

前半と後半の対比により、作者がより花手水の涼を喜んでいることが説明感なく伝わりますね。

歌っている情景も美しく、素敵な歌だと思います。

 

11・炎帝に干からび違う蚯蚓等の延々続く葬列怖し(飯島)

容赦ない夏の太陽により干からび方の違うミミズが道に落ちて延々と葬列が続いていて怖い。

我が家の近くの原っぱ脇の道にも干からびたミミズとそれに群がるアリが葬列を成すように続いています。雨と猛暑のタイミングの問題でしょうか。今年は確かに数が多いような気がします。

さて「干からび違う」。「干からび違う」とは言わないですよね。「干からび(方)の違う」「干からび(度合い)の違う」という隠した意味を持たせて「干からび違う」と助詞が必要になると思います。

ただ干からび方がそれぞれ違うというのは確かによく観察をされているし見方も面白いのですが、そこにあまり意味を持たせると下の句がその分軽くなってしまいます。

「干からび方が違う」という見方はとても面白いので、そこを核にして「干からび方が違うミミズの死骸が数多落ちている」という歌を別に一首作って欲しいところです。が、今回は「干からびたミミズがいくつも落ちて長い葬列を作っている」という方が歌の核だと思います。

ですからここでは「炎帝に数多干からびた蚯蚓らの」くらいにして上の句を軽くしておいた方がいいと思います。

また結句で「怖し」という概念的な感情を表す語句を持ってきてしまったのは問題です。「怖い」と言わずに作者の見た情景を提示することで読者に怖さを感じてもらいたいですね。

炎帝に数多干からびた蚯蚓らの葬列続く道を見ており」とか「炎帝に幾つ干からびた蚯蚓らの葬列長く続く道行く」などとして描写でまとめて欲しいと思います。

 

12・薄墨を重ねたような山並へ猛暑日の陽は帰ろうとする(鳥澤)

夕暮の薄墨を重ねたような山並みへ猛暑日の太陽は帰ろうとする。

昼間はギラギラと攻撃してくるようだった猛暑日の太陽も夕暮となると少し落ち着いて山の向うに沈んでゆく、それを見て「今日も切り抜けた!」と少しほっとしてそうな作者を想像します。

これが真っ赤な夕焼けだったら「太陽はまだまだ強そう」で作者がほっとしているとは読めないでしょう。

結句の「帰ろうとする」という言葉のチョイスが個性的で面白いですね。

ありがちな「落ちる」「沈む」でなく「帰る」という言葉を選んだことにより太陽に人格が宿りました。また「去る」「行く」でなく「帰る」だと「権勢を誇った炎帝」というよりも「昼は大威張りしていたガキ大将」的なやや身近なイメージが湧くのですが皆さんはどうでしょうか(笑)。

必要な助詞がちゃんと選ばれて入っており、形もきっちり定型で、しっかり整えられた歌ですね。

 

13・六月の末の酷暑にあじさゐは為す術もなく項垂(うなだ)れてをり(畠山)

まだ六月だというのにとんでもない酷暑が続き、本来ならまだ時期であるはずの紫陽花が茶色くなってだらーんとうなだれていました。

4番の歌と歌っている場面はほぼ同じですね。

まず表記の問題で「あじさゐ」は「あぢさゐ」でした。ご指摘ありがとうございます。

また「垂れて」は「首・頭」ではないので「うなだれて」以外読みようはないのですが、ぱっと見で「こうべたれて」と読まれるとちょっと印象が違ってしまう危険があるな、と思いました。「こうべをたれている」ではなく「うなだれている」印象を確実にしたいのでこれはひらがなでもいいかな、と思いました。

「こうべをたれる」だと「実るほどこうべをたれる稲穂かな」のように「謙虚さゆえに」という意味も入って来る気がするのですが、「うなだれる」だと只々「しょぼーん」と肩を落としている感じがするんですよね。

また四句の「為す術もなく」ですが、最初に作った時は「土気色(つちけいろ)して」として花が枯れた描写をしていたのですが、割と印象の強い「土気色」という言葉と「うなだれて」だとそれぞれが打ち消し合ってしまうかなと思い「為す術もなく」として「うなだれている」に重きを置いたつもりでした。が、意外と「土気色して」の評判が良かったので「う~ん、戻そうかな、どうしようかな」という感じで迷っています。

やはり具体的な描写は強し、ということでしょうか。為す術もないより土気色の方が茶色く萎れている花の様子が固定されて思い浮かべやすいですものね。

 

14・テポドンのポンポン宙(そら)へ飛びたてる意味問ふてゐる 地球(テラ)の黄昏(砂田)

人間は一体いつまで戦争をしているのだろうか。次々と打ち上げるミサイル発射のニュースなどを見るとその意味を考えてしまう。黄昏に思うこの星の黄昏(終末への近さ)。

という歌でしょうか。

地球の黄昏は実際の黄昏時にミサイルの意味を考えたという意味だけなのか、地球自体を大きな生命体のように捉えてその黄昏時(終末に近い)と捉えているのかでやや迷うところがあります。両方というか、実際の黄昏時の地に立って星全体に思いを馳せているのかな、と思いますがどうでしょう。

またテポドンというと基本的には北朝鮮のミサイルを指すものですが、ミサイルと言わずにテポドンとする意味はあるのでしょうか。

ミサイルならば世界で起こる様々な戦争に当て嵌まると思うのですが、「テポドン・ポンポン」という語感のためでしょうか。

歌会では時間がなくていつも講師の歌は飛ばしてしまうので答えが分かりません(笑)。今度聞いておきたいと思います。

photo by choco❁⃘*.゚(photoAC)