短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2022年5月 (その1)

◆歌会報 2022年5月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第121回(2022/5/20) 澪の会詠草(その1)

 

1・青空を泳ぎて去りゆく花びらに訊くは言の葉手の平の中(小夜)

のどかな春の終盤、桜が青空を泳ぐようにひらひらと散ってゆく。そのきらきらした様が花の妖精たちがキャッキャウフフと楽しげに何かお喋りをしているように見えたのでしょうか。思わず掴まえた手のひらの中のひとひらに「何をお喋りしていたの?」と問いかけるような作者を思わせます。

メルヘンチックで少女のような純粋な感性を感じます。この「メルヘンチックな物事の捉え方」は作者の個性であり活かして欲しい路線です。

「物事の捉え方」はそのままに表現をなるべく具体的にして、他者にも伝わる作品を目指してゆきたいですね。

今回は時間経過と急激なカメラ移動が入っているのが問題です。

まず前半は「青空を泳ぎて去りゆく」花びらの描写であるのに、結句で「手の平の中」となり花びらがいきなり瞬間移動していますね。ここはどちらかの場面に絞ってどちらかは削ってしまいましょう。青空の中を泳ぐように散る花びらか、一枚掴まえて手の中に収めた花びらか。

個人的には「青空を泳ぐ」方が素敵だな、と思います。特に「散る」「舞う」などの花びらの描写にはありがちな表現でなく「泳ぐ」と見ているところがとても良いと思います。「泳ぐ」としたことで花びらに「残念・儚い・寂しい・さようなら」といったマイナスの感情ではなく「きらきら・悠々・楽しげ・またね」といったプラスの感情を持たせることに成功していると思います。

この「泳ぐ」がないと作者が花びらに対しどちらの感情を抱いているのかを決定する表現がないため、作者が花びらを「どう」見ているかという表現をどこかに入れてやらないといけません。

また「泳ぎ去りゆく」は「泳ぎ去りゆく」として音数を合わせましょう。

青空を泳ぎ去りゆく花びらよ一体何を話しているの

と尋ねている作者や、

青空を泳ぎ去りゆく花びらはからからひらら楽しく笑う

など作者が捉えた花びらの様子の描写など、視点を「手の平の中」に移動させずに詠んでみてください。

 

2・黒揚羽大紫にあまた舞う 日向の薬師初夏の透けゆく(飯島)

黒揚羽(蝶)がオオムラサキツツジ)に数多舞っている、日向の薬師の光景にうっすらと夏の始まりを感じている。

お散歩かお参りか、ツツジの盛りに日向薬師に訪れた作者。華やかに咲いたオオムラサキツツジの蜜を吸っているのでしょうか、あちらにもこちらにも黒揚羽が舞っている。その華やかで賑やかな自然の光景からはお天気の良さも伺えます。その明るい陽射しにうっすらと夏を感じたことを「初夏の透けゆく」としたのではないでしょうか。

ただ「大紫」というとまず「蝶」の方の「オオムラサキ」が出て来てしまいます。ネットで検索しても「オオムラサキ・幼虫・強い・神奈川・生息地・メス」などの言葉が並び、多くの人が「オオムラサキ」といえば「蝶」を指すものだと認識していると思われます。

しかもこの歌ではまず「黒揚羽」とあり頭の中に「蝶」を思い描いているので尚更です。

そのため私も最初は黒揚羽「と」オオムラサキ(蝶)「が」あまた舞っているのではないか(助詞の「に」が間違っているのでは)と思っていました。

本当は「ツツジ」を入れれば万全なのですが「オオムラサキツツジ」だとさすがに文字数が多く辛いところではあります。

とりあえず黒揚羽「の or が」大紫「へ or に」と助詞を入れて黒揚羽「と」ではないことを確定させましょう。

欲を言えばやはり「ツツジ」であることの方を言って場面をハッキリさせてしまいたいですが。日向薬師オオムラサキツツジへたくさんの黒揚羽が舞っている様子だけではダメでしょうか。初夏が透けるは切れないものでしょうか。天気が良く明るい五月の風景がしっかり描写できれば読者は作者と同じような空気を感じられるかもしれません。

また「あまた舞う 日向の薬師」と一字空けていますが、この一字空けは効果的でしょうか。ここは詰めてしまってもいいのでは。

また「日向の薬師初夏の」には助詞が必要です。この場合「日向薬師」の「の」は必須ではないので「日向薬師」の方の助詞をしっかり入れましょう。

 

3・茶畑の風心地よく父の癖機嫌良ければかけ声ホイホイ(大塚)

茶畑の風が心地よく吹く時の父の癖、機嫌が良いと「ホイホイ」と調子の良い掛け声をかけていたなぁと思い出している作者。

これは作者が亡くなったお父さんを偲んで詠んだ歌です。

ですから詠まれているのは「過去の場面」なのですが、このままだと時制がはっきりしません。

特に「茶畑の風心地よく」は現在の茶畑の風を感じたことにより昔のお父さんの様子を思い出しているのか、お父さんを思い出す場面(過去)の中の風が心地良いのかで読者の思う場面がかなり変わってしまいますね。

まず「父」は「亡父」と表記する(読みは同じく「ちち」)と亡くなったお父さんを偲んで過去を思い出しているのだな、とはっきりします。

また「心地よく」という表現は作者の体感を表す表現のため余計に「今現在作者が体感しているのかな」と取られがちです。

ここは「優しい」「柔らか」「暖か」「緩やか」などの客観的な表現の方が良いかもしれません。

また「癖」の場所も変えた方が自然な日本語になるかと思います。

「茶畑の風やわらかく亡父の機嫌良き時の癖 かけ声ホイホイ」

などの方がすんなり読めると思うのですがどうでしょう。

故人を偲び、様々な想い出を懐かしみ巡ることは故人への何よりの供養だと思います。立派な戒名やお墓を用意されたりすることより、何よりも故人としては嬉しいことではないでしょうか。

遺された側としては悲しく辛い時間と感じてしまうかもしれませんが、故人の生きた証を沢山沢山思い出してさしあげて下さい。

 

4・ジャスミンの花の香りに包まれてしとしと雨の独り居の午後(栗田)

ジャスミンの甘い花の香に包まれて、しとしとと雨が降る日に独りで過ごす静かな午後のひととき。

雰囲気がありますね。しっとりと湿った空気感(落ち着いていて優雅な感じ)があります。

ジャスミンという具体が効いていると思います。

「しとしと雨の」が少し気になります。「しとしと雨」までで一語となる言葉はなく、通常「しとしと」は「しとしと」と「と」が入ります。「降る」に続く場合はこの「と」が省略されることもあります。

一音多くなりますが「しとしと雨降る独り居の午後」でいいのではないでしょうか。結句ではないし、読んでみてもあまり気にならないと思います。

 

5・「富士の山」優しく奏でる夫のあり片手で奏法ピアノの練習(戸塚)

唱歌「富士の山」(あーたまーをーくーもーのーうーえにーだーしー♪)を慣れない手つきながらも片手で丁寧にピアノで弾く旦那さんを優しく見守る作者像が見えます。

ちなみにこのブログでももう何度も出ていて今更という感じもしますが、「夫」の読み方について。「夫」と書いて「つま」と読ませるのは短歌ではよくあることなので、読み手側は音数を考えて「おっと(三音)」かな「つま(二音)」かなと考えてみてください。

今回は「つ・ま・の・あ・り」と読むと丁度五音になるので「つま」読みが正解ですね。

さて、前半で「優しく奏でる」と言っているので後半は「片手でゆっくり」「右手のみに打つ」など演奏している様子の言葉を持ってきて、「奏でる」「奏法」と「奏」が被らないようにしたいですね。

 

6・四方から鶯の声朗朗と姿は見せず花は散りぬる(名田部)

四方から鶯(うぐいす)の声が朗々と聴こえてくる。姿は見えず、花が散っている。

「鶯」に「散る桜」と一見美しい詩的なものが詰まっています。常々「自分の目で見たことを!日常を素直に!自分の言葉で!」と言っているので前回素直に「傘とレジ袋がタダだった!」という日常の体験を歌を詠んでみたところ「詩がない。情緒がなさすぎる」などと言われてしまったため、今回は「詩的な情景」を詠んでみたのかもしれません。

この「素直さ」は本当に大切なこの作者の「個性」だと思います。

ただ、「前回言われた一つの事」だけを考えるのではなく、全部を少しずつ積み上げて統合し、応用できるようになるといいな、と思います。

さてこの歌、場面は明るい春のひとときで良いのですがいわゆる「ありきたり」な表現を使ってしまい、作者ならではの感じ方というものが伝わってきません。

またずっと鶯について述べていたのに、肝心の結句でいきなり散る花が主役になっていますね。三十一音という短い詩形の中に二つも主役は置けません。

鶯の声を主役にするなら、姿は見えないけれどあちらこちら(の花散る桜木)から「このような」鶯の声が聴こえてきた、という核だけでまとめてみましょう。鶯を主役として際立たせるには「桜」の情報は一切無くてもいいかもしれません。

「このような」の部分は「朗々と」という“鶯の声を表現する時に多用される一般的な言葉”ではなく「高い・澄んだ・抜けるような・陽気な・楽しそうに・空気震わせ・細く水が流れるように」など作者の耳にはどう聴こえたかという情報を入れて欲しいです。そこにこそ作者の個性が出ます。桜の情報を切って空いた分を鶯の声の情報にしてみてください。

あの時の鶯の声、どんな風に聴こえていたっけな、と思い返しつつ色々な言葉を探してみて下さい。

または「花が散る」を主役にするなら、鶯の声があちこちから聴こえる「けれど」姿は見えなくて「ただただ」花が散っている、というように、鶯より花の印象を重くする語句を入れないと鶯と花のダブル主人公になってお互いを打ち消し合ってしまいます。

四方より鶯の鳴く声すれど姿は見えずただ花の降る

などとすると、鶯の声が「するけれど」と否定することによりやや花の方に比重が傾きます。

ただ、状況説明(四方より・鶯の声・けれど=否定語・姿は見えない・花が散る)だけで三十一音いっぱいいっぱいで、「花が散る」ことを主役にしようとした割に「花が散る」ことへの「作者ならではの個性的な感じ方」を入れる余裕がなく、なんとなく美しいけれど没個性的な歌になりがちということは否めません。

花を主役にするなら上の句を「鶯の声はすれども姿なく」くらいの情報にして、下の句で花の散る様子をもっと細かく歌いたいですね。

 

7・何色の花だったろうシャクナゲの萎れし中を坂道下る(川井)

作者の目にふと入って来た、萎れて茶色になってしまったシャクナゲの花。それが美しく開いていた頃は何色だったのだろうと思いながら坂道を下る。

とても上手で良い歌ですね。直接の感情的な言葉はないのに「咲いていた時はさぞ華やかで美しかったのだろうなぁ。見てみたかったなぁ」という”残念と憧れ”が混ざり合ったような絶妙な感情がとてもよく分かります。

これが「萎れちゃってて残念」などと直接感情を表す一般的な言葉で言ってしまってはこうは行きません。

「萎れた花」という絵面上は決して美しくない題材をここまで情緒溢れる歌に詠めるのは素晴らしいですね。「何色の花だったろう」…う~ん、上手い!

気になるところは「萎れ」の「し」ですね。過去を表す「し」はかなり昔の過去を指すので「萎れし」と言うと花が萎れていたのはかなり昔のことで、作者はそれを思い出しながら詠んでいるということになってしまいます。

けれど結句は「坂道下る」ですし、今現在の場面を歌っていますよね。「萎れていた」「既に萎れてしまっていた」という意味で過去の助動詞「し」を持ってきたのかと思いますが、「現在萎れている中」での歌だと思うので「萎るる中」「萎れたる中」などにして時制を整えたいところです。

 

8・誤りて切り落としたる梅の枝は花瓶の中に花も実もつく(金澤)

間違って切り落としてしまった梅の枝を花瓶に挿しておいたら、思っていた以上の生命力で花どころか実もついたよ!という作者の驚きと喜びが伝わってきます。

実までつくとは…梅って中々強いんですね。

そして間違って切ってしまった梅に対し「ごめんね」と思いながらマメに水替えしていそうな優しい作者像まで見えてくるようです。

音数的に「枝」を「え」と読ませるのだと思いますが、「梅が枝」「松ヶ枝」など「枝」を「え」と読ませる場合「〇枝」ではなく「〇枝」とするのが一般的なようです。

また「実までついたよ!」という梅の生命力への作者の驚きを表すために、「梅が枝よ」として一旦感嘆で切ってしまうのも良いかもしれません。

 

9・寒肥の効き目もあらずハナミヅキ一花も見ずに春のゆきたり(小幡)

寒肥(かんごえ)は寒中に施す肥料の俗称。作物の生育の旺盛な春に備えて成長が休止している冬期に施される肥料のこと。

春に美しく咲いてくれないかな、とまだ寒い時期に寒肥までやって世話したハナミヅキの木。なのに、一つも花をつけないままに春が過ぎ去ってしまった。

残念ですね。そう、一言で概念的に言ってしまえば「残念」なのです。けれど「残念」では幅が広すぎて伝わりません。「残念」と言わずに「残念」を表現する。そこが短歌の難しいところであり、面白いところでもあります。

この歌もただ「残念」と言ってしまうことなく、「あーあ、寒肥までやったのに一つも咲かないなんて」と特別に世話をしてやったのにという僅かな憤りや、期待に応えてくれなかったハナミヅキにがっかりする作者の複雑な「残念」を表現しています。

文法、時制共に自然で、するんと歌の状況と作者の感情がわかりますね。

 

10・杉の木を押しのけ広がる新緑に白き水木と朴の木も花(鳥澤)

色の濃い杉の木を押しのけるようにして広がる鮮やかな新緑に、更に水木と大きな朴(ホオ)の花の白い色彩が映え、明るく力強い生命力を風景に感じた歌ですね。

「押しのけ広がる」に新緑のぶわっと広がる勢いと鮮やかさを感じます。

ただ作者は「水木だけでなく朴の木の花も咲いてる!」と発見したことにより「朴の木花」としたのだと思いますが、歌の核はそこで良いのでしょうか?

「朴の木の花も咲いてる!」より「鮮やかで強い生命力を感じる新緑と花々の白のコントラスト」を核にした方が良いのではないでしょうか。

以前のメタセコイアの歌に見られるように、この作者は「風景をアーティスティックに切り取り、捉える」のが大変上手く、活かして欲しい個性だと思います。

「大きな朴の木の花咲いてる!」という発見はそこだけ(色や質感が違って見えたなど、どうして気付いたか等)に絞って作り、ここは鮮やかで強い新緑と花の白さという光景をパキッと作者の視点で切り取り、「白き水木と白き朴の花」「白き水木と朴の木の花(音数は落ち着きますがこちらはちょっと弱くなる気も)」などとして提示するだけの方が効果的かと思います。

「も」一文字でここまで印象が変わってしまうの、短歌の怖さですね。

 

11・花たちを両手でぐつと押しのけて皐月朔日さみどりの出づ(畠山)

10番の歌にもあったように五月初めの頃の新緑は古い葉や咲き終えた花を押しのけるようにしてぶわっと広がりますよね。

四月中は桜やハナミズキモクレンツツジレンギョウミモザ、その他名前も知らない様々な草木の花が華やかに咲いていたのに、気付けばその花々を押しのけるようにして「次の主役は我々だ!」と言わんばかりの勢いで鮮やかな緑が飛び出してきたように感じたことを歌にしました。

花を両手で押しのけたのは「さみどり」であることが確定するよう、「さみどり」にしようかなと検討中です。

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