◆歌会報 2023年1月 (その1)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第128回(2023/01/20) 澪の会詠草(その1)
1・友からの思いがけないプレゼントすまし顔した真白の兎(栗田)
友達から思いがけずにもらったプレゼントの兎のすました顔が可愛らしくて詠んだ歌でしょうか。
時期的に干支の置物かなと思いますが、後々にポンとこの歌一首で通じるかというと少し危ういかなという気はします。
「真白の」という情報は確かに具体的なのですが、一番重要な情報は「すまし顔」ですよね。今だから「干支の兎の置物かな」と読まれますがそうでないと「真白な兎」だけでは本物の兎ととられたり、作者が好きな動物でぬいぐるみとかを貰ったのかしら、ととられてしまう可能性もあるかもしれません。「干支の兎」とか「兎の置物」「陶器の兎」などとして「白い」よりもどういうモノなのかの情報を持って来た方が良いかもしれません。
また「プレゼント」「兎」と体言止め(名詞で終る)が続いているので四句と結句を置き換えて「真白の兎すまし顔して」と流してみてはどうでしょうか。
また「陶器の兎はすました顔に」のように主格の助詞を入れると更に兎に視点が寄るのではないかと思います。
2・初日の出まっ赤に染める地平線令和五年の幕が開けおり(小夜)
本来正しい文章としては「初日の出」のあとに助詞が必要ですね。「まっ赤に染める」ならば「初日の出が地平線を真っ赤に染める」が自然な文章かと思います。
「まっ赤に染まる」ならば「初日の出にまっ赤に染まる地平線」でしょうか。
ただし先月の12番の歌の「雨あがり」のように助詞を入れると音数もオーバーしてしまいますし、抑揚が無くなってつまらなくなってしまうパターンかもしれません。
やや俳句感が強くなってしまいますが、ここは「初日の出」のあとに一マス空けて「初日の出」という場面に作者は居るんだぞ!ということで言い切ってしまってもいいような気がします。
その場合「初日の出だぁ!」という部分で一旦文章は切れるので「まっ赤に染める地平線」ではおかしいので「まっ赤に染まる地平線」となります。
また結句ですが「幕が開けおり」だと「幕が開けている」という意味になりやや間延びしてしまいますね。「幕が開けたり」とすると完了となり「幕が開けた」という意味になります。この歌の場合「たり」の方が合っているのではないでしょうか。
3・建設の五階鉄骨の端に立ちかけ声掛けてロープ手繰る人(大塚)
見ている所(題材)はとても良いですね。ただ作者の感動が見えては来るのですがまだ少し遠いところにある気がします。
建設途中の五階という高い位置の細い鉄骨の上という足場で作業する人を見て「すごいわぁ、あんな高くて不安定な場所で、あんなに堂々と仕事して。私だったら絶対無理!声が震えちゃう!」というような驚きと感心があったのではないでしょうか。
その「すごいわぁ」という感情を表現するのには「かけ声掛けて」では少し弱いのかもしれません。
「声頼もしく」「太き声かけ」「揺らがぬ声に」など頼もしさを感じる声の情報が入るとぐっと作者の感動に近づけるのではないでしょうか。
あとちゃんとリズムに乗って読めば「端に立ち、かけ声掛けて」で切れると分かるのですが、表記の問題として「端に立ち掛け声かけて」とした方が読みやすいかと思います。
4・吹きさらす川風に縮み強張ったススキの群れに冬の日温し(川井)
枯れススキを「縮み強張った」と表現したところがとても良いですね。作者独自の目線でしっかり観察したからこそ出て来た表現だと思います。
ただ「枯れた(冬枯れの、など)」と言ってしまわずに作者ならではの見方で見、それを具体的に言葉にしている部分が簡単なようで難しいところです。
作者の目線で捉えた様子を具体的に描写してくれたので読者も作者の目線になってその場面を見ることができますね。
冷たく厳しい風に晒されすっかり縮こまってしまったススキを慰めるようにこの日は少し温かな日差しが注がれていたのではないでしょうか。作者の自然を見る目が優しくほっこりしますね。
5・日溜りに腰をかがめて爪を切り散らし拡ぐは親父か否われ(緒方)
昔作者のお父さんも同じ様子で爪切りをしていたんでしょうね。日溜りで背中を丸めて足の爪を切っている男性像、とても風情があって良いですね。
そして歳をとることによって殊更に親子の血の繋がりを感じているのではないでしょうか。
私は自動ドアとかショーウィンドウなどのガラスに映る歩く時の全身像を見るとものすごく母と似ているなぁと実感するのですが、この作者は爪切りする自分の姿を客観的に捉えて「あの頃の親父と似ているなぁ」と感じ、懐かしさ、微笑ましさ、俺も歳をとったなぁなど色々な感情が湧いたのではないでしょうか。
ただ「散らし拡ぐ」が実は「チラシ(を)拡ぐ」らしいのですが、漢字では「散らして拡げる」と取るのが一般的かと思います。
というより「日溜りで腰をかがめて爪を切る男性」というアイテムが主役としてとても風情があって良いのでそこにこそスポットライトを当てて際立たせたいのに「チラシを拡げる」という情報は読者の目線(印象の配分)を「爪を切る男性」から「チラシを拡げる男性」に移動させてしまい勿体ないと思います。
爪を切って散らしているとすれば「散らしている」は「爪切り」の一連の動作のひとつととれるので、チラシを拡げるよりは「爪を切る男性」を薄めないと思いますが、もっと言えば「散らしている」という情報もなしにして「日溜りに腰をかがめてぱちぱちと爪を切るのは」とか「日溜りに腰をかがめて足の爪切っているのは」など「爪を切る」に集中してしまっていいのでは、と思います。
また結句は「親父、否われ」として七音で決めたいところですね。
削って削って一番見せたい部分こそを彫り出す。私も言葉や物をなかなか捨てられないタイプなのですが、何せ短歌は三十一音しかないのでこの「削る」作業はとても大切だと思います。
6・ゆふぐもを一刀両断するさまに青竜刀の月の耀ひ(小幡)
とても綺麗でまとまった感のある歌ですが、どこか機械製品のような雰囲気を感じてしまう部分があります。
機械製品は織り目や縫い目も整っていてデザインも整っているけれどどこか軽いというか、あまり温かみを感じてグッとくるってないですよね。手作り品は少々不細工でも泥臭さや根詰め感に時にグッときて「あ、大事にしよ」という感情が湧いたりしますよね。
とても綺麗にまとまっているのですが、作者はこの情景をどんな心情で見てどんなふうに心を動かされたのかな、というのが今一つ伝わってこないというのでしょうか。
言葉の知識も豊富で上手にまとめられる作者ならではの逆に浮かんでしまう軽さというのでしょうか。「綺麗なんだけど…綺麗なんだけど~…」という感じで心の深いところにまでスッと刺さって来るような真っ直ぐさが足りないような。
「青竜刀」という喩えが作者の見た月の表現として本当に適切だったのでしょうか。4番の「縮み強張ったススキ」のようにそのもの自体に寄って見えた“手縫いのような表現”が出てくると厚みと温かみのある作品になるのでは、と思います。
7・血圧が急に低下し手を握りそのまま眠り永遠の旅に(山口)
この数か月ずっと歌ってこられた、癌で亡くなられた奥様を詠んだ歌ですね。
なかなか大事な人を亡くしてすぐには客観的に見直して歌にするには辛いと思うのですが、この作者は愛情深くもとても冷静に歌っていらして強い方だな、と思います。なかなか出来ることではありません。
更に今回は音数のために無理に言葉を縮めたり助詞を省いたりすることなく、とても自然に読めますね。
結句は「永遠」を「とわ」と読ませて「永遠の旅へと」と七音にしてまとめてはどうでしょうか。結句がしっかり七音になるとグッと締まると思います。
8・望月のウサギ眺めし子らは今財布を振りて現世祈願(石井)
昔は満月を見て「お餅つきしてるウサギさーん」と無邪気に言っていた子供たちも大人になり、今は満月に向かってお財布を振って(金運のおまじない)現世利益を願っている。という内容だそうです。
ただ「満月に向かってお財布を振ると金運アップ」というおまじないがそれほど一般的ではないようで歌会メンバーもほとんどが知りませんでした。そのため一気に意味不明になってしまった感があります。
特に「現世祈願」というとお寺や神社を想像してしまい、何かをお願いしてお賽銭箱に財布を逆さまにして振り、小銭をじゃらじゃら入れてるのかしらなどと想像する人もいました。
種明かしをされてみれば、そういえば昔少女雑誌に「月光の差す窓際にお財布を置くおまじない」とかあったなぁ、などと思い当たるフシも。
というわけで「現世祈願」ではなく「財布かざしておまじないする」と言ってしまったらどうだろうと思いました。「財布・おまじない」とくれば金運アップなんだろうなぁとは分かると思います。
9・整備さる中州を流る川おのが思いのままに突き進み行く(名田部)
整備したのに増水すると中州(とした場所)もお構いなしに思うがままに川は流れてゆく、ということだそうです。
まず終止形の動詞が多すぎます。「整備さる。」「中州を流る。」「進み行く。」全部終止形です。おそらくは「整備された」「中州を流れる川は」「進み行く。」という意味で使っていて、最後の「進み行く」だけが終止形として使っているのではと思いますが、音数を合わせたいが為に無理な活用形で使うのはやめましょう。
言いたいことをまとめると「整備後も雨が降れば川は思いのままに流れゆく」なのではないかな、と思います。
「雨降れば整備した中州削りつつ(壊しつつ)思いのままに突き進む(流れゆく)川」とかにすれば自然な日本語になるのではないでしょうか。
音数を合わせるために無理な活用をするのはパズルが合わないからといって無理矢理出っ張りを折ってみたり、形が合っていないピースを無理矢理ねじ込んでいるようなもので、必ず出来上がりが不自然になり歪んでしまいます。
音数が合わない時はピースの形を無理に変えよう(活用形を変えよう)とするのではなく、無理なくハマる正しいピースを探す=別の言い方ができないか考える、語順を変える、削れる情報を削って調整するなどして考えてみて下さい。
10・夕映えに見あぐ裸木冴え冴えと桜の枝に冬芽息づく(鳥澤)
これも「見上ぐ。」は終止形でここで文章が切れてしまいますので、「裸木」という体言に繋げるなら連体形である「見上ぐる・見上げる」としないと不自然です。
また桜の裸木が冬の夕映えに冴え冴えと立っている部分が核なのか、枝先にまだ硬い冬芽の息づきを見つけた部分が核なのかで迷ってしまいますね。
どちらを核にするかを決めて、不要な方は削ってやらないと主役が上手く立てません。
個人的にはまだ硬いながらも冬芽がこっそり伸びて来ていることに気付いたという方が素敵な気がしますが、そこは作者次第ではあります。
裸木を主役にするなら冬芽の情報は(強いので)丸々取っ払ってもっと「冴え冴え」の詳細(黒々、くっきり、樹皮硬くなど具体的に)を描写して欲しいですね。
冬芽を主役にするなら「裸木冴え冴え」という情報は抜いて、その分「夕映えの桜の裸木にどんな冬芽が息づいていた」という情報を入れて欲しいです。
「見上げる」という情報もいらないかもしれません。
それにしても一月でもう芽が伸びているんですね。気が付きませんでした。春に向けての準備はもう始まっているんですね。そういう細かな観察はとても素晴らしいと思います。
11・赤き実を鳥へと掲げ柿の木は寒々白き冬空に立つ(畠山)
もうすっかり白と茶色がメインの冬の風景の中に未だに赤い実をいくつも付けて立っている柿の色合いが印象的でした。
色々と食べられるものが減っている季節に鳥の助けになっているのではないでしょうか。冬のオアシス的な。あ、いいなこれ。冬のオアシス。使ってみようかな。
冬の空って晴れていてもどこか白っぽく光が拡散しているように見えませんか?その白っぽい冬の空というのを描写したかったのですが今一つ音数の合ういい言葉が見付からずに「寒々」で片付けてしまいましたが、やはりそこを指摘されました。「冬空」と被りますしね。「寒々」ではなくもっと見た感じを表す言葉を探してみたいと思います。
12・手作りの正月飾り三十年 買いし今年は味気なし(飯島)
結句は「どこか味気なし」だそうです。水甕や新聞・雑誌の投稿などではポストに入れてしまったら、メールは送信してしまったら、もうそれが「完成形」です。後から直してもらうことは出来ません。封をする前にもう一度指を折って数え、漢字の見直しもしておきましょう。
さて、秋頃から稲穂などの材料集めをし、三十年も正月飾りを手作りしてきた作者。それが今年はとうとう買ってすませてしまい、どこか味気ないなぁと肩を落としているようです。
まず「買いし」は遠い昔を表すのに「今年」に繋がるのはおかしいです。「買える今年」ですね。
また「味気なし」と一言で言い切ってしまってはいけません。その「味気ない」の中には年齢や健康への不安、気力体力の低下、習慣化してきたことでさえ出来なくなるというような、何とも言えない寂しさや不安感があるのではないでしょうか。
その何とも言えない感覚を読者にも味わわせるには読者に作者と同じ状況を思い描いてもらい、その中で読者自身に考えてもらわなければなりません。
それを作者が「味気ない」等一般的な感情を表す言葉で言い切ってしまうと読者は何となく分かった気になって、きちんと状況を思い描いて作者の立場になって考えることなく「作者はそう思ったのね」で終ってしまいます。
感情を言うのではなく、作者がその感情を抱いた「状況」を述べ、読者にその状況を思い描いてもらうことが大事です。読者に作者を見てもらうのではなく、読者に作者と一体化してもらうのです。
「手作りの正月飾りを三十年 今年は店に並ぶを買いぬ・今年はとうとう買いて済ましぬ・今年は買いて門に掲げり」等「今年は買ってすませてしまった」という状況の情報だけにして感情を言ってしまわないようにしましょう。