短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2024年1月 (その1)

第140回(2024/1/19) 澪の会詠草(その1)

 

1・新年の初荷寿ぐ半世紀静かに一歩商道という(山本)

新年の初荷を祝う半世紀。静かに一歩ずつ商いの道をゆく。ということでしょうか。「一歩」とあるので「商道という」ではなく「商道をゆく」ではないでしょうか。

また「新年の初荷寿ぐ半世紀」だと俳句のようにその五七五で完結してしまい下の句に意味が繋がりません。「初荷寿ぎ半世紀」とすると初荷を寿ぎながら半世紀もの間、静かに一歩ずつ商道を歩んできた(これからもゆく)。という意味に繋がるのではないかと思います。

ただこの歌自体が具体的な情報が無いので、読者には「長いこと商売しているのね。新年からお仕事なのね。」くらいしか読み取れず勿体ないと思います。

どんなお仕事なのか気になって、頂いた賀状にあった社名で検索してみたところ、実はとても有名なサンドイッチ屋さんでした。

サンドイッチの無人販売所という珍しい形式で、辺鄙な場所にあるにも関わらず一日数回の商品補充時にはお客さんが並び、あっという間に売り切れてしまうという話題のお店です。

「五十年目の元旦も朝から初荷のサンドイッチを並べてゆく作者」とか、「五十年目の元旦にも作者のサンドイッチを求めてくる客がいる」(“なんてありがたいことだろう”という感情自体を言ってしまわない)とか、作者が正に商いの道をゆく行動そのものを出して詠んで欲しいかなと思います。

作者が「当たり前」と思っている日々の行動こそが「作者にしか歌えない」物事です。私には年中無休で半世紀もの間、従業員を抱えつつ経営を維持してきた人間の歌なんてどうあがいても作れません。作者の日常の中にこそ、様々な苦労や責務、やりがい、喜び、信念が含まれているはずです。それを私たち読者にも疑似体験させてください。

簡単な販売や接客くらいしか仕事経験のない私でも、半世紀も会社を維持してきた人の疑似体験ができる…三十一音で。そう考えると短歌ってなんかすごいですね(笑)。

 

2・大山にまっ赤な帽子かぶせ行く暮れゆく夕陽のセンス冴えたり(小夜)

夕焼けを「まっ赤な帽子をかぶせる」と見るところが作者らしい感性でとても良いですね。「まっ赤に染めて」などではこうはいきません。

惜しいのは「夕陽のセンスが冴えている」と作者の感想を言ってしまっているところです。

「センス冴えたり」というのは実際の情景を見た作者の内に湧いた感想(情景→感想)で、感想から正確な情景を思い浮かべるという工程(感想→情景)は実は人には出来ない作業なのです。

どんな夕焼けだったのか、見ていない人にも分かる描写が入ると、夕焼けを帽子と捉える作者のお洒落で独特な個性が見えて良い歌になると思います。

「大山へまっ赤な仕立てのカンカン帽(女優帽・キャペリン・麦わら帽・ベレー帽)お洒落に被せ暮れゆく夕日」などなら雲がそれぞれの帽子のつばのようにかかっているのかなと想像できますし、「大山にまっ赤な帽子をすっぽりと被せて沈む夕日のセンス」などならつばのない帽子で山自体が赤くなっているのかな、と具体的に思い浮かべられますよね。

感想から情景といえば、昨今の映画宣伝でありがちなのですが、観終えた人が「面白かった~!すっごい迫力があってね。最後は切なくて泣いちゃった~!」と言われてもどんな内容なのか全然見えてこないのではないでしょうか。あれで「この映画見てみたい」となる人の気持ちが私にはサッパリ分かりません。それよりも知りたいのは分かりやすい「あらすじ」や「世界観」「人間関係」、作品の象徴となる一場面で、そこが自分の興味と合致すれば「見てみたい」となるのですが。

あの感想を言わせる系CМは、内容で勝負できないから「流行ってる」と思わせることで「流行に弱い・行列好き・みんなと一緒じゃないと不安」という日本人的心理に訴えかける手法だと思っています(笑)。

 

3・大阪に「鵲森の宮」神社あり聖徳太子縁の小さき社(戸塚)

「ふむふむ……で?」となってしまうのは、「鵲森(かささぎもり)の宮」という神社に対する作者の感情がほとんど見えてこないからではないでしょうか。

大阪の中心地に小ぢんまりとしながらもまだ残っているのかという驚きなのか、聖徳太子という有名人ゆかりの神社なのにこんなに小さいのかというちょっと寂しいような気持ちなのか、作者はこの神社にどういう感情を抱いたのかが知りたいところです。

また本来七・五である所に「かささぎもりのみやじんじゃあり」では多すぎます。「宮」といえば神社を指しますから「鵲森の宮のあり」でいいのではないでしょうか。

また本来七・七である所も「聖徳太子(七音)」「縁の(四音)」「小さき社(七音)」と完全にオーバーしてしまっているので、これも整えないといけません。こちらも「太子」といえば本来の意味は皇太子のことですが、一般的には「聖徳太子」の事を指しますから「太子ゆかりの」でいいのではないでしょうか。

「小さき」は僅かながらも作者の感情が出ている部分なのでここは外せないと思います。こここそが感情なので「太子ゆかりの社の小(ち)さし」としてしまってもいいかもしれません。

「大阪に鵲森の宮はあり」「大阪に鵲森の宮残る」「大阪の鵲森の宮へゆく」「大阪は鵲森の宮のあり」「大阪の鵲森の宮へ立つ」など少しでも作者の感情が表せそうな言い方がないか探してみてください。

 

4・裸木のメタセコイヤの細枝に光り集めて竜年始め(栗田)

メタセコ」と呼ばれることも多いようですが「Metasequoia」と書くので「メタセコ」が正しい表記だと思います。

また干支としての「たつどし」の表記は「辰年」です。午(うま)年、申(さる)年なども馬年、猿年とは書かないですよね。元々農業に関わる意味を持つ、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥という漢字が先にあり、動物は後付けなのです。

さて「細枝に光り集めて」というと、「集る」は他動詞なので、何か(誰か)が光(名詞として使う場合送り仮名の「り」は入れない)を集めていると読みます。作者が?辰年(概念)が?冬の空気が? となってしまうため、「細枝へ光あつる」と自動詞にして「光」を主役にした方が迷わずに情景を思い描けると思います。

また「光あつまる(連体形)辰年始め」「光あつまり(連用形)辰年始め」でも違うので比べてみてください。前者は「光があつまる辰年の年始(という時間)」、後者は「光が集まり、辰年始め(を祝う・象徴する)」という意味合いになります。

 

5・ヤビツ峠」六十年ぶり友と行き山小屋はなく茶屋が建ちなん(名田部)

六十年ぶりに実際に友と「行った」んですよね?

だとしたら結句の「なん(なむ)」は誤用です。「なん(なむ)」は推量ですからまだ起きていないこと、まだ見ていないことに対し使う言葉です。

「茶屋が建つだろう・建ってしまうだろう」という意味になるので、作者はまだ出かける前で、六十年ぶりに友と行くヤビツ峠に山小屋はなく茶屋が建っているだろう、と想像していることになってしまいます。

六十年ぶりに友と行ったヤビツ峠には山小屋はなく、茶屋が建っていたという意味ならば「茶屋が建ちおり・茶屋が建ちたり」などではないでしょうか。

また「友と行き(連用形)」とすると「行き、どうした」という結果に当たる終止形の言葉が必要になります。「友と行く」と終止形にして一旦切ってしまいましょう。

また実際は六十年ぶりだったのだろうと思いますが、音数を考えて五十年ぶりにしてしまってもいいのではないでしょうか。この「五十年」と「六十年」の十年の差はこの歌に於いて意味的にはさほど大きくなく、「ウン十年というとても長い歳月が経った」という一番言いたい意味は変わりませんから、歌としては音数を合わせた方が読みやすいと思います。

 

6・鈴懸けの枯れ葉ふりつむ冬ざれや幾枚の葉の梢(うれ)にすがれり(緒方)

「鈴懸(すずかけ)」に送り仮名の「け」はいらないと思います。

冬の寒々しい風景が浮かびますね。文法も正しくちゃんと場面が思い浮かぶのですが、やや大人しいというかあまり作者の作者らしさ(個性)は見えてこない歌かなと思います。

見せ方によっては問題にもなってしまうのですが、やはりこの作者にはいつもの「蓄積された知識」が見える歌の方がより作者らしくて面白いと思います。

この作者の個性が一番現れる所が「知識」に紐づくため、読者に一般以上の知識を求めないスタイルである短歌としては出し方がとても難しいと思うのですが、それ(知識)が上手く出た歌には強い個性がありとても面白いと思います。

怒られない綺麗な歌を目指すのではなく、怒られ覚悟で個性的な知識の出し方を模索していって欲しいなぁと思います。

 

7・葬式の打ち合わせ後のカフェに一人紅茶の湯気は歪んであがる(金澤)

年末にお母様を亡くされたとのことで、心よりお悔やみ申し上げます。

今までも介護の歌などをいくつも詠まれてきましたね。そんな献身的に尽くされてきた作者ですから、この時の作者の気持ちは相当に辛い、悲しいはずです。

けれど敢えてそれをぐっと抑えて淡々と情景を描写したことで、逆に「辛い・悲しい・寂しい」などととても一言では言い表せない悲しみを読者の中にも湧かせました。

葬式の打ち合わせの時はやらなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことなどが押し寄せて泣いている暇もないのですが、打ち合わせが終わって一人でカフェに一息吐いたりしたらもう、抑えられていた分思い出がどんどん押し寄せて来るのではないでしょうか。それでもカフェ(人前)で大泣きするわけにもいかない。

「歪んであがる」湯気に作者の感情がぎゅうーっと詰まっていますね。読者も胸がぎゅーっと苦しくなって目の前が滲んでしまうのではないでしょうか。

 

8・裸木のメタセコイヤはどっしりと頭上の月と語るかに立つ(飯島)

こちらも「裸木のメタセコイヤ」。一瞬、あれ、さっきこの歌書かなかったっけ?と思ってしまいました(笑)。そしてこちらも正式表記は「メタセコ」だと思います。多分発音的には「ヤ」の方が近いと思うんですけど、表記としては「ア」ということで、何だか口語(ヤ)と文語(ア)みたいですね。

こちらの歌はメタセコイアがより主役となっていますね。どっしりと頭上の月と語るかのように立っている。いいですね。頭上の月と語るかのようにというややメルヘンチックな見立てですが、想像に寄りすぎていることもなくしっかりと情景が見えてきます。

このままでもいいですが、メタセコイアの主人公感や「どっしりと」という表現から、「メタセコイア」としてより強くしてもいいかもしれません。

 

9・そら青く空気動かぬ正月の住宅地に聴くヒヨドリの声(川井)

「空気動かぬ正月」という表現はとても良いと思います。上の句でこれだけ的確に場面が構築されているので、逆に結句(主役)であるヒヨドリの声がさらっと流されてしまったのが惜しいと思います。チョイ役で出した脇役が予想外にいい演技をしてしまい、主役を食ってしまったような感じ(笑)。

「住宅地に聴く」の部分をヒヨドリの声の具体的な情報に変えてみてください。

「宅地に鋭きヒヨドリの声」「正月をピィーッと切り裂く鵯の声」など。具体的な表現が上手い作者なのできっとぴったりの言葉を見付けてくれるはず。

 

10・二グラム超えの紙をはられて三日後の玄関先にコトンと手紙(小幡)

「えーっ、たった2グラムなら届けちゃってよ!」とか思っちゃいますよね。重量オーバーで戻ってきてしまった手紙にがっかりする作者ですが、このままではややがっかり感はあるものの「こんなことがあった」という報告で終わってしまうかもしれません。

もっと「がっかり」を表す情報があれば…。

二グラム超えの紙をはられて三日後にクリスマスカードがことんと戻る

とかなら「三日後」の意味も大きく変わってきますし、作者のがっかり感もより確実に伝わるのではないでしょうか。文字数やカタカナを考慮して「誕生カード」などにしてしまってもいいかもしれません。

 

11・夜嵐に吹き溜められし落葉たち朝の日浴びてもふもふしている(鳥澤)

結句の「もふもふ」という捉え方がいいですね。ただ結句なので「もふもふしてる」と音数を整えましょう。表記的には「してる」が正しいのですが、「もふもふ」という表現とも合いますし、ここは口語で「もふもふしてる」の方がしっくりくる気がします。

またそうすると余計に上の句の「吹き溜められ」という遠い過去を表す文語表記の「し」が悪目立ちしてしまいますので、「吹き溜められた落葉たち」「吹き溜められて落葉たち」とした方が良いと思います。「て」の方が「落葉たち」に魂が入るような気もしますね。

また「朝日浴びて」「朝日浴びて」「朝浴び」の部分も考えてみてください。

落葉たち(が)という主格の助詞が省かれているため、「朝日浴びて」「朝の日浴び」とこちらにはしっかり助詞を入れた方が読みやすいかもしれません。

 

12・辰年に龍は背中を痛めをり背びれの能登がずきずき疼く(畠山)

「元旦に」という印象が強いと思いますが、あれだけの大災害ですから「辰年に」と言えば「元旦」は自然と思い浮かぶのではないかと思い、どちらも「よりによって」という意味合いを含みますが「辰年に龍(と見立てた日本列島)」「元旦に大地震」を比べた結果「辰年に龍」を取ることにしました。

私は震度2くらいでもビビる大の地震嫌いなので、かなり前から「強震モニタ」というアプリを利用しているのですが、震源地には×印がつき、揺れの度合いにより日本地図が赤や黄色に染まって揺れの波及や範囲が一目で分かる優れものでオススメです。東日本大震災の時もこれのおかげで今起きた地震がどの程度の規模なのか(まだ大きくなるのか)、恐ろしい音で鳴る緊急地震速報誤報かどうかもすぐ分かり、精神的な助けになったので、スマホをお持ちの方は入れておいて損はないと思います。

元旦もその強震モニタが鳴って画面を開いたところ、能登を中心に日本列島が赤く染まり「これはヤバい地震が起きた」と思いました。

その後も幾度となく警報が鳴っては赤く染まり、まるで龍の背中に矢でも射られたかのように見えました。何度も射られて血を流しながら痛い痛いと震える龍。

とはいえ強震モニタを見ていない人に「矢を射られたようだ」と言っても伝わらないと思い「背中を痛めた」とし、余震が繰り返すことを「ずきずき疼く」としました。「ずきずき痛む」としたかったのですが、「背中を痛め」と被ってしまうので「疼く」としました。

まだまだ続いている余震。現地の方は心休まらない日々が続いていることでしょう。一日も早く余震が減って心身を削る不安な環境が落ち着きますように。

 

By NIED防災科学技術研究所 強震モニタ(画像は2024/01/09のもの)