短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2024年1月 (その2)

第140回(2024/1/19) 澪の会詠草(その2)

 

13・よりによりお元日です震度七テレビ画面は突如暗転(山本)

本当に今回の地震、「よりによって元日に!」という気持ちが強い人は多いのではないでしょうか。

もちろん大地震が起きてもいい日なんてあるわけないのですけれど、元日ってやっぱり何か特別で、この日にこんなマイナスな出来事があると精神的な不安が波及して、迷信でなく日本全体に漂う空気感が悪い流れになりそうな気がしてしまいますよね。二日の飛行機事故もそれを裏付けるようで恐ろしかったです。

歌として気になったところは「お元日」という言い方です。「お正月」とは言うけれど「お元日」って言いますか?私は今まで聞いたことがなかったので違和感があったのですが。

初め「お元日でした」として提出されたのですが八音になってしまうので「元日でした」の打ち間違いかな、と思い訊ねたところ「お元日です」と直されたので、あれ、そっちを切って音数合わせるの?と思ってしまいました。なので「お元日」という言い方は作者が敢えて意図したものだと思いますがどうなんでしょう。やっぱり私は「お正月です」「元日でした」の方がしっくりくるのですが~(笑)。

また「お元日です(でした)」と一旦文章を終わりにしているので次の「震度七」が浮いてしまいます。「よりによりお元日震度七」とすれば「お元日に震度七(の地震が起きて)」という意味になりますし、「お元日です(でした)」で一旦終えるなら、字余りでも「震度七(の地震テレビ画面は突如暗転」として文章を整えるべきかなと思います。

「暗転」を辞書で引くと〈名・ス(スル)自〉となっていると思います。これは「暗転」という言葉自体は名詞で、「暗転す」と動詞「ス(スル)」に続けると自動詞として使うということです。なので「暗転」で終わってしまうと「体言止め」となります。

「よりによりお元日です震度七」「よりによりお元日に震度七」と一旦「震度七」という名詞で切ってしまうと、一首の中に二回も体言止めが出てきてしまうことになるため、どうしても片言感が否めません。

ちゃんと「す・する・した」など「ス」の活用形に繋げてやらないとちょっと尻切れトンボのようで落ち着かない文章になってしまいます。

 

14・プカプカと湯船に遊ぶユズの香の額に汗する優雅な私(小夜)

「ユズの香の額に汗する」というくだりがよく分かりませんでした。

香の額…?香に額はないでしょう?となってしまいます。主格の「の」と読んでも香が汗する…?となってしまいよく分かりません。

また「額に汗する」という言い回しも「労働」に対して使われることが多い表現のため、「優雅な私」とイメージが合いません。ユズの香に包まれながらゆったりと温まり、額に汗をかく場面を言いたかったのだと思いますが、「柚子の香額に受けて優雅な私」として「汗する・汗をかく」という言葉は使わない方が「優雅」になると思います。

またカタカナ表記は「プカプカ」か「ユズ」のどちらかひとつにしましょう。私だったらどちらもカタカナにはしませんが、この作者なら「プカプカ」はとてもこの作者らしい気がするのでカタカナ表記のままとし、「柚子」の方を漢字にした方が合っているのでは、と思いました。

柚子湯、羨ましいですね。柚子の香は大好きですが、料理に使う分を数個買うくらいで、お風呂に入れる余裕はありません。庭に鈴なりの柚子の木がある家とかをいつも羨ましく見ています(笑)。

季節を楽しむ作者の日常が見えて良い歌だと思います。

 

15・大阪城・公園前に子供連れ若いママ達活気に溢れて(戸塚)

3番の歌と同じで、こちらの歌も情景は分かるのですが、その情景に対する作者の感情がもうひとつ見えてこないかな、と思いました。

活気に溢れる若いママさんたちを作者はどういう目で見ていたのでしょう。元気でいいわね、とか私にもこんな時代があったわ、とか「活気に溢れる若いママたち」を見ても色々とあると思うんです。

と訊いたところ、(関東と違って)関西弁で喋る若いママたちの勢いに圧倒された、ということでした。

だとしたら必要な情報は「大阪城公園前(・は不要)」ではなく「大阪弁」の方ではないでしょうか。

また「若いママたち」が「子供連れ」である情報は被りませんか。知り合いでもないのにその人達が「ママ」だと分かるのは子供を連れているからですよね。被る情報はなるべく整理して、他の情報を入れましょう。

「見た・聴いた・触れた」という作者が実際に体験した情報がベストです。

「それ、えぇな」と大阪弁に笑い合う若きママらの声はきはきと

かなり原形とは違ってしまって申し訳ないのですが、私だったらこんな感じで作るかなぁと。私のは想像ですが、作者は実際にその場面を見ているので、しっかりと場面を思い出して探せば、セリフや服装、空気などちゃんと具体的な情報があるはずです。

 

16・竜年の光かがやく初日の出祈り届かず能登震度七(栗田)

こちらも干支の場合は「辰年」の漢字を使ってください。

上の句では「光かがやく初日の出」と初日の出を今まさに見ているような表現であるのに、下の句で地震が起きたあとに時間がぽーんと飛んでしまっているのでちょっと視点に迷ってしまいました。

「初日の出にも」として、光かがやく(希望溢れる感じの)初日の出だったのに、だったけれども、という意味にして「光かがやく初日の出」という情景から「光かがやく初日の出だった」という情報に変え、時系列を整えましょう。

辰年の光かがやく初日の出にも祈り届かず能登震度七

とすれば二文字も字余りにはなりますが、真ん中ですし、字余りよりも時系列のずれの方を気にしたい所ですし、「出祈」と続かなくなるので読みやすくもなると思います。

 

17・大公孫樹黄金の衣装と注連縄を飾り命を育み続く(名田部)

「命を育み続く」という部分が惜しいです。

この部分は作者が見た光景、聴いた音、触れた体感の情報ではなく、作者の中にある知識なんですよね。

2番の歌の項でも書きましたが、人は「現物・具体的情報から感情」はかなり共通しますが、心が読める超能力者でもない限り「感情から現物・具体的情報」は共通のものになりません。

上の句は視覚的情報なので情景がしっかり見えてきていいですね。

大公孫樹黄金の衣装と注連縄を見事に飾りどっしりと立つ・ひたぶるに(一途にの意)立つ・堂々と立つ・さわさわ揺るる・見事に飾る木肌の温しなど作者が見た情報、聴いた情報、触れた情報を探して欲しいです。作者しかその光景を見ていないので、その光景の中から読者に伝えられる情報を探し出すのは作者にしか出来ない仕事です。

 

18・メメントモリ死に真向かえと説かれれば塩辛舐めて冷(ひや)を嗜(たしな)(緒方)

メメント・モリ(羅: memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句です。つまり人は誰でもいつか死ぬし、それは明日かもしれない。だから「平穏や栄華がいつまでも続くと思うな」とか「悔いなく生きよ」とかってことですね。

それを説かれた上で作者が選んだ行動が「塩辛舐めて冷(酒)を嗜む」ということで、これはこの作者にしか歌えない歌でとても面白いですね。

「説かれれば」だけが惜しいと思います。作者らしいと言えば作者らしくもあるのですが、やや皮肉っぽさが鼻につく感じになってしまい、損だなと思います。

「説かれたり」として切ってしまった方が、大きく場面転換して「それで取る行動がこれかぁ!」という個性的な下の句がより活きると思います。

これはこの作者でなければ詠めない歌でしょう。一首目(6番)よりずっと作者の個性が出ていて、とても良い歌だと思います。

 

19・冬晴れの小町通りのざわめきに人力車夫らの英語が混じる(金澤)

人力車夫という肉体労働かつ「日本的・伝統的」を売りにしているような職業の人が、観光業のため英語を使いこなすという、「現代」という時代を感じる面白い歌だと思います。

朱塗りの鳥居が立ち、古めかしい土産屋なども多く並ぶ小町通り(鎌倉)という場所に飛び交う英語。う~ん、時代ですねぇ。

直すところはありません。

 

20・蝋梅の香り広がる玄関は喜ぶ母の声が聞こえる(飯島)

このままだと今現在、存命の母が喜ぶ声が聴こえていると取られてしまいます。

私は作者を知っているので、蝋梅の香が好きだった亡き母の喜ぶ声が聴こえるようだ、ということが分かるのですが、作者を知らない人にもそれが分かる表現にしたいですね。

「母」は「亡母・妣」と書いて今は亡き母であることをはっきりさせましょう。

また「聞く」の漢字は意識して聞く「聴く」の方が合っていると思います。

また「玄関・母の声」と主格を表す助詞が被っていますので「玄関妣の声聴こえてくる」として主役を「妣の声」で確定しましょう。

また「喜ぶ妣の声」「妣の喜ぶ声」でも少しずつニュアンスが違ってくるので比べてみたりしてください。

また「声」と言えば「聴こえる」のは言わなくても分かることですから、その分「喜ぶ妣の声ほそほそと」「妣の喜ぶ声の幽(かそけ)し」「妣の喜ぶ声のかすかに」などどんな感じに声が聴こえるかの情報を入れると更にイメージが鮮やかになると思います。「かすか・ひそか」など形容動詞の「に」を持ってくる場合は「玄関」として「に」被りを防ぎましょう。

しんみりしつつも静かに明るい印象で歌の場面はとても素敵ですね。

 

21・三人の孫が帰って静まりぬ 掃除機の吸うビーズの音よ(川井)

三人の孫が帰ってすっかり静かになってしまった空間に掃除機の吸うビーズの音が響くことで一層お孫さんたちが居た時の賑やかさとの対比を思わせます。

ビーズという具体的な小物のおかげでお孫さんたちの性別や年齢なども見えて来ていいですね。

三人の孫が帰った静けさに掃除機の吸うビーズの音よ

と下の句に続けてもいいですね。

場面も良いですし、何より作者の感想ではなく作者の居た場面をきっちり描いてくれるので読者自身がその場面の中にすっと入れる。そういうとても良い歌が増えたなぁと思います。

 

22・紅白のわにぐち紐の真新しおほつごもりの「お薬師さん」の(小幡)

わにぐち(鰐口)とは神殿や仏殿の前の軒先などにつるす鉦鼓を二つ向き合わせた形の鋳銅製の鈴のことで、紅白の紐がぶら下がっていて、がらんがらーんと鳴らすアレの名称だそうです。

私はそれを知らなかったので「がま口財布」のようなものかしら、と思っていました。お薬師さんで縁起物として売っている、紅白の紐飾りの付いたがま口財布を新しく買い替えたのかと(笑)。

画数は多いですが、「わにぐち紐」でなく「鰐口紐」と一つの名称であることを確定させる表記にした方がそのような誤解が減るかもしれません。「鰐口紐」という一つの何かの名称だとすればそれが何か知らなくとも、手水とか賽銭箱のような何かお寺独特の設備の名称なのかと想像できるような気がします。「わにぐち」だけが平仮名だとアレの名称を知らない人間には「紅白のわにぐち」の紐とも読めてしまうため、私のような誤解が生まれる可能性が高くなる気がします。

また「真新し」の後に空白を入れ、「おほつごもり」を「大つごもり」とした方が読みやすいかと思います。

 

23・朝ごとに色を増しゆく紅葉の山に向かってバス停へ急く(鳥澤)

「朝ごとに色を増しゆく紅葉の山」という表現は良いですね。

読者が少し迷ってしまうのが「向かって」の部分でした。紅葉の山を目的地として(観光や登山に)行こうとしているのか、単に山の方角を向いているのかで結構違ってきてしまいます。

「朝ごとに」とあるのでおそらくは毎日見ている景色で、作者の家からバス停までの道が山に向かっているだけなのだろうと読みましたが、こういう不安定な情報を与える表現には気を付けたいものですね。

「今日は紅葉の山へ行くぞ!」という意思が特にないのなら「山を見ながら」くらいの方がいいのではないでしょうか。

 

24・少女ならきつと絶望したやうなぼこぼこ肌の柚子が実りぬ(畠山)

高校生の頃はひどい肌荒れで、写真に撮られるのも大嫌いでしたし、人前で顔を晒すのも憂鬱でした。あの時代がスマホ時代でなくて良かったと思うと同時に、マスク時代なら喜んで着けていたと思います。

ぼこぼこの果皮の柚子を見て思わずそんな時代を思い返してしまいました。

柚子はそんなこと気にせず日の光を浴びて明るく輝いていましたけどね(笑)。

 

☆今月の好評歌は7番、金澤さんの

葬式の打ち合わせ後のカフェに一人紅茶の湯気は歪んであがる

となりました。

歪んであがる湯気の中に深い深い悲しみが見える歌ですね。

個人的には18番の緒方さんのメメントモリに塩辛を舐める歌もとても個性的で良かったのですが、やはりこの金澤さんの心がぎゅーっと苦しくなるような歌が今月は圧倒的でした。読んだ人の心を動かす「歌」の力を改めて感じた気がします。

by sozaijiten Image Book 13