◆歌会報 2023年7月 (その1)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第134回(2023/07/21) 澪の会詠草(その1)
1・紫陽花も雨こそ似合え花しょうぶうちひし枯れて梅雨はいずこへ(小夜)
紫陽花も雨こそが似合う花であるように、花菖蒲が暑い日差しにすっかり打ちひしがれている。梅雨はどこへ行ってしまったのだろう。という歌だと思います。
本当に、梅雨明け宣言前だというのに体温を超えるような酷暑が続き、植物もぐったりしていますね。
ちなみに「うちひしがれる」は「打ち拉がれる」と書きます。打たれて拉がれる(押しつぶされる・勢いをくじかれる)という意味で、枯れるという意味はありません。
また「花菖蒲」までで一つの名称なので全て漢字表記にするかカタカナ表記にするなどして表記を整えて欲しいと思います。そして外来名の方が一般的な植物ならともかく花菖蒲はちゃんと和名が浸透している花ですから、ここはやはり漢字の方が似合うと思います。
さて、歌の内容の方ですが「紫陽花」と「花菖蒲」と二つも名詞が出てきますが、作者は一体どちらの様子を見て心を動かされたのでしょうか。
おそらくはぐったり萎れている「花菖蒲」の方を見ていて、「紫陽花」は「紫陽花だって雨こそが似合う花でしょ」と慣用的な表現として使っているだけではないでしょうか。そうだとしたら「紫陽花」はこの歌に於いては邪魔者になってしまいます。
短歌にして発表するというのは、作者が心を動かされた時と同じ体験を読者にしてもらう為の舞台装置を言葉で組み立てる作業です。自分の体験や気持ちを残しておきたいだけなら五七五七七に囚われることなく日記やポエムとして書き留めておけば、親しい間柄の人や一部の偶然似通った体験をした人ならばそれで十分共感を得るでしょう。評論や思想をここのようにブログで自由に書いて発信するのもいいかもしれません。ただ「短歌」として作品を世に出そうというのならば、作者を知らない間柄の人にも作者と同じ景色を見せてあげるための舞台を用意する作業こそが作歌だと思った方がいいかもしれません。
歌に作者の感想そのものは要りません。作者が心を動かされた場面を再構築して、「私はこの場面で心が動いたんだけど。(あなたはどう?この場面でどんな気持ちになる?)」というところで留めておけると良い歌になると思います。
ということで、「花菖蒲」に絞ってよく見て、もう少し詳しく場面を再現して欲しいと思います。
しわしわに花弁を垂れて花菖蒲打ち拉がれり 梅雨はいずこへ
などと花菖蒲の様子を具体的に描いてみてください。ぐったりと、まっすぐに立って居られず、など作者の目に見えた花菖蒲の様子を色々考えてみてくださいね。
2・紅葉坂小高い丘の音楽堂デュオリサイタルに期待膨らむ(戸塚)
「期待膨らむ」と作者の気持ちを言ってしまったのが惜しいですね。1番の歌でも言いましたが、短歌は舞台(場面)を構築する文学です。言葉で作る体験型アトラクションです。体験する側(読者)は感想を言ってもいいのですが、アトラクションを提供する側(作者)は背景を用意するまでが仕事で、感想を押し付けてはいけません。
この歌で言うと、「坂の上の音楽堂へデュオを聴きに行く」という場面をしっかり作り上げるところまでが歌の仕事です。
モーツァルトのデュオのチケット握りしめ汗を拭きつつ紅葉坂ゆく
緑の深き紅葉坂行く
などとすると、読者はモーツァルトのデュオリサイタルを聴くために夏の(緑葉の)坂の上の公演会場まで行く作者と自分を重ね、作者が如何に期待を膨らませているかが分かるのではないでしょうか。実際のチケットは鞄の中で、握り締めたりはしていないと思いますが、そこは膨らむ期待感を表現するために創作です(笑)。
3・橅の木の朽ちて苔むす幽谷に渓のあるじや岩魚の棲めり(緒方)
「橅(ブナ)の木の朽ちて苔むす」という描写が良いですね。しっとりとした渓谷の風景がしっかり見えてきます。
ただ苔むす橅の木により具体的にしっかり描写されている谷を「幽谷」という概念的な言葉でまとめてしまったのが勿体なかったですね。「谷しずか」などとして作者の体感による描写で場面を見せていただけたら、読者も森閑とした渓谷の中に完全に入り込めたのではないでしょうか。
とてもしっとりと静やかで神秘的な風景が浮かび、素敵な歌だと思います。
4・咲きたての月見草はレモン色 月をさがせば待宵月よ(鳥澤)
咲いたばかりの明るいレモン色の月見草を見て、お月様はどこかしらと探したら待宵月(満月の前夜の月)を見つけた作者。何だか嬉しい気分になりますね。
作者の目線での場面がしっかりと構築されていてとても良い歌だと思います。
実は「月見草」というのは背が低く白とピンクの四枚花弁の丸い花の名前であり、黄色で背の高く繁殖力が強いやつは「待宵草(マツヨイグサ)」というのが正解らしいです。なので「月見草はレモン色」というのは知識的には間違いなのですが、「待宵草はレモン色…待宵月よ」では丸被りで歌にならないし、黄色い待宵草を「月見草」と思っている人は結構多いと思うので、敢えてこのままでいいのではないでしょうか。上の句を「待宵草は」とすれば七音にはなりますが、「月をさがす」という行動にすっと結びつかないですし、結句の待宵月も別の表現に変えないとならないので全く違う作品になってしまう気がします。
また二句は「月見草の」と六音ですがあまり気にはなりませんでした。
「咲きたての」という表現で月見草の状態が一層絞られており、景色が鮮明になったと思います。
5・出会いたる歌に詠まれるメタセコイヤ青葉さやさや青空に立つ(栗田)
以前誰かの歌に詠まれていたメタセコイヤが青空の下さやさやと青葉を揺らして立っているのに出会った、という歌でしょうか。
下の句は具体的な風景がしっかり見えてくるのですが、上の句が分かりにくいかなと思います。
「出会いたる」だと連体形なので続く名詞の「歌」にかかり「出会いたる歌(出会った歌)」で一つの括りとなります。「出会った」という意味で区切るなら「出会いたり(終止形)」となります。「出会いたる(連体形)」となると「出会った歌に詠まれているメタセコイヤ」となり、出会ったのは歌であり、「歌に詠まれたメタセコイヤに出会った」という意味にはなりません。
いつの日か歌に詠まれたメタセコイヤ青葉さやさや夏空に立つ
というようにすると時間や状況が分かりやすくなるのではないでしょうか。「出会った」ということは書かなくても下の句でメタセコイヤを作者の目で見ていることからちゃんと分かります。
また「青葉」「青空」と同じ漢字が近い位置で続いてしまうため、「青空」の方は「夏空」にしてしまっても良いのではないでしょうか。
ところでこのメタセコイヤの歌とは
の11番鳥澤さんの歌ではないでしょうか。私はパッとこの歌が思い浮かびました。この時は黄葉のメタセコイヤが詠まれていたので、それと対比して青葉のメタセコイヤにハッとしたのかなぁ、と。
6・入組んだ息子の家へと路地曲がり迷路の中に入り込みたり(金澤)
とてもよく分かりますね。初回訪問ではなく、迎えや案内がない状態で行かねばならなかったのでしょう。そしておそらく初回訪問ではないため作者も油断していて地図アプリなどを用意せず、行ける気になって「確かこの辺を曲がって…」などとうろ覚えのまま進んだところ、慣れない町にすっかり迷い込んでしまったのではないでしょうか。
そんなうっかりした自分を「迷路の中に入り込みたり」と一歩突き放して「あらあら…」と見る姿勢がとても作者らしいと思います。
「路地曲がり迷路の…」と同じ漢字が近い場所で続くと悪目立ちしてしまうので、「曲がり行き」などとして被りを消しましょう。
7・大公孫樹の影に佇みバスを待つ太き幹葉を沁々ながむ(名田部)
上の句はすっと無理なく場面が浮かんで良いですね。
ただ「幹葉」と書いて「みき・は」とは読ませられません。「幹と葉」「幹、葉」と書かなければなりませんが、短歌に於いて「、」は特別な意味がなければ使わない方が無難です。
そもそも、太い幹かざわめく葉か、どちらにより心を動かされたのか自分の中でまず見極め、どちらかは潔く削ぎ落とす決断をしなければいけません。
短歌は三十一音しかないのでこの「削ぎ落とす」作業はとても重要です。どちらもどちらもというのは昔話に出て来る強欲で失敗するタイプの登場人物のようなもので、入りきらない財宝を無理矢理袋に詰めて持ち帰ろうとし、袋が破けて全ておじゃんになってしまうような結果を招いてしまい、勿体ないです。一番価値のありそうなものをしっかり選んで、他はきっぱり諦めましょう。
またこの歌では上の句で既に「木の影に佇み→バスを待つ」という二つの動詞で作者の動きが語られています。そこに更に「眺む」となると一首の中で作者が行う行動(動詞)としては多すぎるので、「眺む」という作者の動きではなく「幹」か「葉」のどちらかの状態の描写に抑えたいところです。
「三百年間ここに立つ幹」「三百歳の幹の太さよ」「ごつごつ硬き幹の逞し」「陽射しやわらげ青葉さやさや」など、その時の情景を思い出して考えてみてください。
8・窓ぎわに無言で庭石を見る父の弱々しき目にことばを探さず(川井)
いつも「意味が分からなくなる助詞を削ってはいけない。カタコトっぽくならないよう字余りでも適切な助詞を入れましょう。」と言っているからしっかり助詞を入れたのだと思いますが、今回は「省いても意味が迷わない」助詞だったためにただの字余りとなってしまいました。
もちろん平常文なら「庭石を見る」と目的語であることを明確にする助詞を入れるが正しいのですが、短歌は五七五七七の調べも重要なので、意味的に迷わないなら音数を優先すべきです。
これが例えば「私を見る父」だったら「を」を省くことはできません。「私が見る父」という文章も成り立つからです。でも今回は「庭石を見る父」でも「庭石見る父」でも意味は迷いませんね。
今回は「無言で庭石を」だと九音になってしまいます。さすがに字余りすぎるので意味が迷わないなら削って音数を減らしましょう。もし助詞がないと意味が迷ってしまう場合は別の言葉を探すか、言葉の位置を変えるかなどを考えないといけません。
また助詞に気を遣うなら「無言で」の方を考えた方がいいかもしれません。「窓際へ無言に庭石見る父」でも意味としては変わりません。「で」は一字で一気に平常文ぽくなってしまうため、短歌としてはなるべくなら言い換えたい助詞です。
また結句が「ことばを探さず」となっていますが、「ことばをかけることが出来なかった・何も言えなかった」という意味ではないのでしょうか。「ことばを探す・ことば探しぬ/探せり(探した)・ことばもあらず・ことば見つからず」など探したけど見つからなかったという意味にしないと、「ことばを探さず」では「探さなかった」のですから迷いもせずに声をかけたと真逆の意味に取られてしまいます。
「庭石」というどっしりと重く、静かに変わらないものを無言で見つめる老齢の父に感じるやるせなさ、どうしようもない不安感という場面は重いながらもぐっと心を揺さぶられますね。
9・なつかしきエーデルワイスメロディーが妻との旅で買いしオルゴール(山口)
今は亡き奥様と行った旅行先で買ったオルゴールからエーデルワイスのメロディーが流れ、奥様との旅行を思い出し懐かしんでいる作者。
ちょっとカタカナが多いのですがどれも削れないので(メロディーは言い換えられるかも)、「懐かしき」は漢字にしておきたいですね。
また字余りですが「エーデルワイスのメロディー」と助詞を入れないと読みにくいです。
また「旅で買った」とまで言わなくてもそこは分かるので
懐かしきエーデルワイスのメロディーよ妻との旅のオルゴールから
としてはどうでしょうか。
10・無花果の乳くさき香り懐かしく回り道して幼に戻る(飯島)
無花果(いちじく)の「乳くさき香り」という具体が良いですね。
庭のある家が多かった時代はあちこちの庭先や玄関先などに無花果の木があり、季節になると独特の香りが漂っていました。
そんな時代を懐かしみ、昔を思い出しながらわざわざ回り道をして帰る作者ですが、「懐かしむ」のと「幼に戻る」は意味が被りますね。どちらかを切りたいとして考えると、「幼に戻る」は結構動的にはしゃぐような印象がありますね。果たしてそこまで言う程か、というとそうではなく、懐かしみつつ回り道をして帰ったということですよね。
また「香りが懐かしくて・懐かしかったので」と「理由」として述べてしまうと理屈っぽくなってしまい、歌よりも報告書寄りになってしまいます。香りが懐かしかったからこそ回り道したと言いたい気持ちはとてもよく分かりますが、そこを抑えて場面だけを提供した方がより「歌」らしくなります。
無花果の乳くさき香の懐かしさ回り道して家へと帰る
というように「あぁ、この香りの懐かしさよ」と実際に香りを嗅いだ時の作者の描写の方が読者はより作者の立ち位置に近くなります。「香り懐かしく」だと香りを懐かしんで「回り道して帰る」作者の中に入るのですが、「香の懐かしさ」だと香りを嗅いでいる時点で中に入りませんか。不思議ですよね。
11・小糠雨・五月雨・雨月物語クロスワードにしんみりと雨(小幡)
新聞か雑誌でしょうか。クロスワードパズル(ヒントと文字数を元に単語を当てはめるパズル)を解いてみたところ「コヌカアメ・サミダレ・ウゲツモノガタリ」という雨に因んだ単語が並び、しんみりと季節を感じている作者。
最近の梅雨は豪雨と猛暑で全然しんみりではなくなって来ているけれど、こういう感覚は残っていくと良いですね。
「クロスワード」の前に一字空けを入れて一呼吸置いてもいいかもしれません。
12・雨上がり畑に戻れぬ蚯蚓らが熱きコンクリに焼かれのたうつ(畠山)
我が家は畑に近いので、雨の翌日などは夥しい数のミミズが這い出して熱くなったコンクリートから戻れずウネウネと苦しそうにもがいているのをよく見るんですよね。
可哀想とは思うのですが数が数だし、ミミズ自体はやっぱりちょっと気持ち悪いので素手で移動してやったりする勇気はないしで、どうにもしてやれずに「あと何時間苦しむんだろう。熱いだろうな、苦しいだろうな。今目の前で命が消えてゆくんだな。」とか色々考えつつも素通りしてしまいます。
ここでは既に死んでしまったミミズや干からびてしまったミミズではなく、今まさに苦しんで失われゆく命というものに何とも言えない感情が湧き歌にしたかったのですが、やはり「焼かれてのたうつ」という言葉がちょっと強すぎました。
「熱きコンクリにもがきたる今」くらいならどうでしょうか。