◆歌会報 2023年4月 (その1)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第131回(2023/04/21) 澪の会詠草(その1)
1・いつの日かキエフ・ロシアに作りたい無人売店は平和の象徴(山本)
性善説と信頼の上に成り立つ無人売店。「悪いことするとお天道様が見ているよ」という宗教観の日本ならではの形態かもしれません。もっとも最近ではお賽銭泥棒のニュースなんかも聞きますし、これからどんどん貧しくなればいつまで保てるのかわかりません。つまり食うに困るほどの貧困がなく、人の善意が保たれる地である証拠、まさしく平和の象徴といえますね。
そんな平和の象徴である無人売店をいつか(ウクライナ)キーウやロシアにも作りたい。早く平和が訪れますようにという歌で、「早く戦争が終わりますように」とか「早く平和が訪れますように」とかありきたりで概念的な言葉で言ってしまわずに「無人売店」という具体で表現したのはとても良いと思います。
この作者はまだ短歌を始めたばかりなのでこれでも十分な表現力ですが、「平和の象徴」と言い切ってしまったのが少し惜しいかなと思いました。
「紛争の地に作りたい」と言って「無人売店」を出すなら、それが「信頼の上に成り立つ平和の証」であるからということは直接的に言ってしまわずとも読み取れますよね。だったらそこを敢えて説明するよりも「こういう無人売店が作られるほど平和になるといいのに」と思った時の作者自身に場面を引き付けた方がより作者と読者の距離が縮まると思います。
「無人売店に大根を買う」「無人売店に小銭を入れる」「無人売店の小松菜青し」など作者の見た無人売店の描写や作者がとった行動そのものを描くとぐっとカメラが作者に寄り、短歌らしくなると思います。
また「キエフ」はロシア語の読み方であり、日本ではウクライナ語の読み方である「キーウ」に統一しようということになったので特別な思惑がない場合は「キーウ」表記にしておきましょう。
また「キーウ・ロシアに」の「・」ですが、ここは字余りでも「キーウやロシアに」と表記しましょう。
最近の短歌では「?」や「!」などが使われているものも見かけますが、日本語は本来そういった外来の記号がなくても成り立つ成熟した言語です。短歌では作品を創るのに物理的な道具は使いませんが、唯一使う道具が「日本語」という言語です。唯一の道具ですから、職人気取りでプライドを持って大事に使っていきたいですね。
2・この花の思い出るは入学し最初に絵にすチューリップ(小夜)
この花(チューリップ)を見ると思い出て来るのは入学して最初に絵に描いた花ということだなぁ、という内容だと思います。
ただ「この花の思い出るは」では文法的には「この花が思い出すのは」と花を擬人化して扱っていることになってしまいます。
「この花を見ると思い出す」という意味ならば「この花に思い出すのは」とするのが自然でしょう。
また「絵にす」という表現ですが、これは「為(す)」という動詞の終止形で「絵にする。」という意味になります。作者は「最初に絵にしたチューリップ」という意味で使いたかったのかな、と思いますが、「絵にす。」では終止形のため「最初に絵にする。」で文章は切れてしまいチューリップにはかかりません。しかも過去を表す意味もないため、「思い出す」とか「入学」とか「最初」とか言っているのにここだけ今現在の「絵にする。」という意味になってしまいおかしなことになってしまいます。
チューリップにかかる意味での「絵にした」の文法的な内訳は「為(す)」という動詞(サ変活用=(し・せ・さ)・し・す・する・すれ・(しろ・せよ))の連用形「し」に過去・完了の意味を持つ助動詞「た」(たろ・○・た・た・たら・○)の連体形「た」が付いたもので、この過去の助動詞「た」の連体形で繋ぐことで「チューリップ」という名詞(体言)にかかり「~~したチューリップ」と「チューリップ」を説明できるようになります。
「チューリップを絵にした。」という時の「した」と「絵にしたチューリップ」の「した」は見た目こそ同じですが内容(活用)は別物で、前者は終止形(そこで文章は終り)で、後者はチューリップという体言にかかる連体形なのです。
このように本当は連体形として使いたい動詞や助動詞を音数合わせのために無理やり終止形にするなど間違った活用をしたり、必要な助詞を省いてしまったりすると一気に意味が変わってしまったり、不自然でおかしな文章になってしまいます。
皆さん、多分音数に捉われていない時は自然に正しい活用が出来ているのではないかと思います。会話をしている時などはごく自然に正しい活用をして話しています。それが五七五七七に捉われると急におかしなことになってしまう。五七五七七は大事ですが、それに捉われすぎるあまり日本語がおかしくなってしまっては元も子もありません。一音二音字余りになっても自然な言い回しの方を選んでください。短歌は「作品」なのでもちろん表記(見た目)も大事なのですが、なによりもまず「歌」なので、耳で聞いただけでちゃんと意味が分かるものを作ることが一番大切だと思います。
そもそも今回作者は「絵にする」という言い回しに捉われてしまったのかな、とも思いました。これを「描いた」と言い換えるだけでずっと自然になりませんか。「最初に描いた」「まず絵に描いた」など、どちらも意味は同じですし七音でまとめられますね。
そして結句のチューリップですが、このままでは五音ですね。五七五七七がどうしても難しい場合、基本的には字足らずよりは字余りの方が読みやすいです。しかもここは結句なので五音ではちょっとしっかり座れていない感じがしてしまいますね。ここは「赤きチューリップ」などチューリップの描写を足してお尻を重くしておきましょう。
この花に思い出すのは入学し最初に描いた赤きチューリップ
としてみてはどうでしょう。
3・湧くさくら雪崩るるさくら力ある命をつなぎ桜咲くなり(小幡)
ぶわっと湧き出るように咲く桜、雪崩れるほどに量感のある桜など満開の桜の力強さがありありと見えてきますね。
桜といえば儚い印象やたおやかな印象が強い花かと思いますが、この歌から見える桜はとても力強く、勢いがあります。
今回時期的に桜を詠んだ歌が多かったので、それぞれの桜の見方の違いにも要注目です。同じ題材を歌っても全然違う。それこそが個性です。言い回しをひねくってみたり、突拍子もない比喩をしてみたりすることが個性ではなく、皆と同じものをどう見るか、皆と同じ世界にいて何を見るか、どこに視点を持っていくか、そこにこそ個性が出るものだと思います。
4・連翹が早きに咲いて満開に枯れ木を切ればいよよ華やぎ(名田部)
連翹(れんぎょう)が早くに咲いて満開になった。周りの枯れ木を切ったらいよいよ華やいだ。という意味の歌だと思いますが、一首の中で結構時間経過がある上に突然の「枯れ木」の出現によりカメラ(視点)が動きまくってしまい場面を固定できないのが問題かな、と思います。
まず連翹が早くに咲いて→満開に、の時点で時間が経過しているのです。読者の頭の中では「連翹が早くに咲いて」でまだちょっと寒そうな頃に咲き始めた場面を思い描き、「満開に」でこれが満開になった場面を思い描きます。写真で言うなら二枚ですね。
この「て」という助詞(接続助詞)は短歌に於いてかなりの曲者です。上の文章と下の文章を繋ぐ(接続する)役目があるのですが、それはつまり「~~をしてどうなった」と時間経過や理由(理屈・説明)が入るということです。時間経過も理屈も短歌としては大敵というか非常に扱いづらい存在なので出来れば避けて通りたいもの。皆さん、接続助詞の「て」を使う時はよく考えて使いましょう。日常会話と違って安易に使ってはいけません。
というわけでなるべく「て」を使いたくない。ではこれが「連翹がいち早く咲き満開に」ならどうでしょう。他の木々に比べていち早く咲いたという情報を持ちつつも思い描くのは既に満開になった状態の一枚のみになりますね。「て」がないだけで。不思議なものです。
さて次が問題の「枯れ木」です。作者はその風景を見ていますが、読者はどんな環境でこの連翹が咲いているのかは分かりません。今分かっていることは早めに咲いた連翹が満開になったということだけです。
そこに突然の「枯れ木」。まずその正体について悩んでしまいます。連翹の周りに冬枯れた何かの木があるのか、それとも「早くに咲いて→満開に」と時間経過しているのだから、更に咲き終わって枯れてきた部分が出て来てそれを取り除いたということだろうか、と迷ってしまい、すっと場面を思い描くことができません。
また「枯れ木」という名前を持った役(名詞)を登場させたことでそれまで連翹を写していたカメラがすっと連翹から外れて枯れ木を写しにかかってしまいます。
「周り整えれば」とすればカメラは連翹を真ん中に写したまま、距離だけ引いて「あぁ、周りに連翹の美しさを邪魔する何かがあって、それを取っ払ったのね」という情報だけ与えてくれます。
本当は「枯れ木」という名前を持った役は出したくないのですが、どうしても出したいなら「側の枯れ木を伐れば華やぐ」などとして、あくまでも主役である連翹の側の、とすることで連翹からカメラ(視点)を外しきらないようにしたいものです。
また結句は「華やぎ」ではなく「華やぐ」でしょう。「華やぎ」は「華やぐ」という動詞の連用形、もしくは連用形が名詞化したもので、動詞の連用形の場合「華やぎだす」「華やぎし頃」「ますます華やぎ、○○となる」のように使い、名詞の場合「華やぎを添える」「華やぎとなる」などのように使います。
ここでは「いよいよ華やいだ」という動詞としての意味で使っており、動詞や助動詞、次の文に続くわけでもないので「華やぐ」と終止形にしてしっかり座らせましょう。
連翹がいち早く咲き満開に周り整えいよよ華やぐ
連翹がいち早く咲き満開に側の枯れ木を伐れば華やぐ
とかでどうでしょうか。
5・お祝いの三九の日に早々と紋黄蝶の宅を訪なう(栗田)
「お祝いの三九(サンキュー)の日」。これが分からないので、何らかのめでたい記念日に紋黄蝶が家に飛んできたことが嬉しかったのかな、くらいのことしか読み取れません。
聞いてみたところ三月九日はお孫さんの誕生日だそうで、作者はきっと「あら、サンキューの日だわ」ということで「サンキューの日」という言い回しが強く印象に残り、自然に使ってしまったのだと思います。が、今のところ三月九日は国民の祝日でもなく、エイプリルフールやバレンタインデーのように誰もが知っているイベントと結びつくこともない日です。
いわゆる語呂合わせの日なんて数えきれない程あって、一つの「日」にいくつもの「○○の日」が登録されていたりします。
「お祝いの」と言われてもピンとくる日ではないので、ここはちゃんと「孫の誕生日」であることを明らかにしましょう。
今回、歌の核は「三月の孫の誕生日に(季節的にはまだ早いのに)紋黄蝶が飛んできた(それが祝うかのように見えた)」ということですよね。
三月の孫の誕生日にはやばやと紋黄蝶の庭を訪なう
とかでどうでしょうか。
ただ作者は「三月なのにもう?」という思いが強いのかもしれませんが、個人的にはそこそんなに必要かなとも思います。まぁあんまり変えてしまうと作者の歌(作者の個性)ではなくなってしまうので良くないのですが、私だったら「三月の九日は孫の誕生日 紋黄蝶がひらりと庭へ」とかにするかなぁとか。まぁ参考程度に(笑)。
文法とか核の切り出し方とか技術的な面は「こうした方がいいですよ」と言えるけれど、どこを核にするかを決めるのは作者が決めることで、そこ(核)を「こっちのが切り出しやすいからこっちを核にしなさい」と変えてしまったらそれはもうその作者の歌(個性)ではなくなってしまうと思うんですよね。
「こんなに早く!」と思った部分や「サンキューの日」が譲れない「核」であるなら、それは安易に譲らないで欲しいです。その代わりそこが「核」なら今のままでは上手く切り出せてはいないので、その核をもっと上手く切り出すように切り出し方を変えなければならないと思います。
6・満開の白木蓮は日にゆらぎわたあめみたいに野に立っている(鳥澤)
白木蓮(はくもくれん)を「わたあめ」と捉えた作者の見方がすっと馴染むかどうかで意見が割れました。
わたあめというとふんわり柔らかな質感ですよね。でも木蓮の花の質感って花にしてはつるっとしていて硬質じゃないですか。なのでそこに違和感を覚える人がいたのではないかな、と思います。
問題は作者と木蓮の距離感と木蓮を包む空気感なのではないでしょうか。
春の霞がかったような空気の中で、遠くにある木蓮を見るならどうでしょう? 近くで見てこそ感じる質感は消えて、シルエットとしての白木蓮なら、棒に刺さったわたあめと見て違和感はないと思うんですよね。
「日にゆらぎ」でその空気感を表現しているのだと思いますが、ここはもう少し言っちゃって欲しい気がします。いつも「言いすぎるな、説明するなって言っているのに!」って言いたくなると思いますが(笑)。
満開の白木蓮は春の日のわたあめみたいに遠き野へ立つ
満開の白木蓮は霞む野にふんわりと立つわたあめみたい
満開の白木蓮はかすみこむ遠き野に立つわたあめみたい
など、霞んでいるような空気感と質感が気にならない距離にあるんだな、ということが分かるような描写が入ると「わたあめみたい」という見立てが個性的で引き立つと思います。
7・暖かい雨をほしがるパンジーの鉢を前へと春を迎えに(金澤)
上の句がとても良いですね。「暖かい雨をほしがるパンジー」言われてみるととても良くわかるししっくりくるんですけど、なかなか言えない表現ですよねぇ。
「前へと」の「と」だけが少し惜しいかもです。「前へと」とすると本来は「出す・移動する・動かす」などの移動を示す動詞に繋がりますよね。でもここでは「前へと迎えに」という繋がりになり、少し違和感がありませんか?
「春を迎えるために前へと出す」省略せずに書くならこういうことですよね。「迎える」は「前へ」という動作の方向を表す格助詞に対する動詞ではなく、「春を」という対象を表す助詞に対し使われている動詞ということになります。
それが「前へと」とすることで続いて欲しい動詞(動作そのものを表す動詞)とは別の動詞である「迎える」に繋がってしまうため、違和感が生じるのだと思います。
「暖かい雨をほしがるパンジーの小鉢を前へ 春を迎えに」と「前へ」で切ってしまうことで、その後の空白に「出す・動かす」とういう暗黙の動詞を匂わせ、その違和感は消えるのではないでしょうか。
8・身を任せ風に舞い落つ花びらはうず巻きながら離れてゆけり(川井)
今回もこの作者はとても丁寧な観察をしていますね。「身を任せ」「うず巻きながら離れて」などの描写により、誰もが迷うことなく場面を思い描けるのではないでしょうか。
やや惜しかったのが「舞い落つ」の部分ですね。「舞う」などは響きもいいし二音しかないのでどこにでもさっと入れられ、とても使いやすいのでついつい使ってしまいがちですが、使いやすいということはそれだけ言葉の持つ幅が広いということでもあります。言葉の幅が広い=焦点を合わせにくいとも言えます。
ここも「身を任せ風にひらひら花びらは」とか「風に身を任せてくるくる花びらは」とか舞い落ちている花びらそのものをもっと観察して、作者の見えたものを表現してくれていればバッチリでした。
9・会計の暗証番号押すつかのま見てませんよとくるっと背を向く(石井)
クレジットカードでの会計、増えて来ましたね。この作者は取り上げるネタ(着眼点)が独特でいつもとても面白いです。
「押すつかのま」だけが少し引っかかります。暗証番号を押すほんのちょっとの時間ということを強調したいのかと思いますが、ここは「押すあいだ」でいいのではないでしょうか。
10・駅までの道は二手に分かれをり桜散る方通りて行かむ(畠山)
駅までの道、所要時間はほとんど変わりません。普段は桜の「ない道」の方が車の往来が少なく歩きやすいのですが、桜の時期だけはやはり桜が見える方を通って行こう、となりますね。
最初は「桜散る道選びて行かむ」としたのですが、「駅までの道」と「道」が被ってしまってくどいかなと思い「桜散る方」としたのですが、皆さん「桜散る道」の方が読みやすいし、そんなに被りも気にならないということで「道」にしようかな、と思っています。
「選びて・通りて」と理屈を述べてしまっていますが、ここはその選択に「意思」があることなのでまぁ許容ではないかな、と思います。「桜散る道通り行きたり」とかだとちょっと弱いかなぁ、と。
11・ワクワクと毎年走る桜巡り今年が最後か 夫の運転(飯島)
毎年楽しみにしている桜を巡るドライブも、高齢となりご主人が免許返納を決めたのでしょうか、今年で最後かと噛みしめている作者。
「ワクワク」ですがひらがなでも言えるものはなるべくひらがな表記にしましょう。カタカナは言葉の意味に関わらずカタカナで表記するだけで「硬い・無機質・幼稚(日本語に不慣れ)」な印象を与えがちです。敢えて硬い感じを出したい時などには有効ですが、特にそういった意図がない場合はなるべくカタカナは避けましょう。
一か所にお花見に行くのではなく、桜がよく見える場所を車で巡っていたという意識が強かったからか六音の「桜巡り」という言葉を使っていますが、「毎年走る」や「夫の運転」があるので「巡る」にそこまで拘らなくてもいいんじゃないかな、という気がします。
わくわくと毎年走るお花見も今年が最後か 夫の運転
毎年の楽しみの花見ドライブも今年が最後か 夫の運転
本当は「楽しみ」とか言ってしまいたくはないのですが、例えば「毎年のお花見ドライブが楽しみだ」という部分が核ならば核に対する感想を短絡的に述べてしまうことになり、ちょいと待ちな、それを言っちゃっちゃあおしめぇよ、となるのですが、この歌は「楽しみだったお花見ドライブも今年が最後か」という部分が核であり核に対する感想(残念だとか寂しいとか)ではないのでまぁ許容範囲なのでは、と思います。
12・記念日にバラの花束備えたが遺影写真がわずかに微笑む(山口)
今回、この作者は癌で亡くなられた奥様への愛情溢れる歌を多く含む歌集を編まれ、私も一冊いただきました。
奥様が亡くなられてからもこうして歌に詠み続け、情の深い方だなぁと感じています。
さて、歌の方ですが、三句「備えたが」はまず漢字が「供え」の方ですね。また「供えたが」というと「供えたけれど」という意味になります。でもここでそんな否定の意味は要りませんね。意味としては「供えたら」ということでしょうが、ここでは下の句に続けず、「供えおり」として一旦切ってしまった方がいいと思います。
また結句が「わずかに微笑む」だと八音ですね。文法的には確かに「に」があった方が自然なのですが、「僅か数行の記述」など「に」のない使い方も出来る言葉です。また「僅か」と書いて「はつか」と読ませることもあり音が濁らないという点もあり短歌ではよく見られます。
また「遺影」と「写真」は意味が被るので、「妻の遺影が」「遺影の妻が」としてもいいかもしれません。
記念日にバラの花束供えおり遺影の妻が僅か微笑む
としてみてはどうでしょうか。