短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆結句はしっかり座らせよう

結句はしっかり座らせよう(七音と終止形)

 

結句(けっく)。五七五七の最後の「七」の部分ですね。ここは本来歌の「締め」部分であり、一番大切な事を描く場面なのです。

「結句」の名の通り、物語で言えば起承転結の結。ここがしっかりしていないと途中でどんなにいい感じに盛り上がっても何だかスッキリしません。

連続ドラマなんかでも、途中まで主人公に共感して「続きはどうなっちゃうのー!?」とドキドキしつつ観ていたのに、わだかまりや謎を残したまま最終回が終ってしまったら悶々としてしまい、途中どんなに楽しんだとしても「良い作品だった」とは言えないのではないでしょうか。

短歌は短いので問題を起こしたり謎を散りばめたりする余裕はなく、そもそもが「結」のみを描く文学作品という感じですから、短歌に於ける結句は結の中の結、結の極みと言ってもいいでしょう。

そんな結の極みの場面ですから、ビシッと「誰もが分かるエンディング」を突き付けられればそれがベストなわけです。最終話なわけですから「つづく」になってはいけないのです。「何が、どうした。」というように、話がちゃんと終わりにならなければいけません。

ただ連続ドラマなどにはそれまでの問題を解決する話を最終話とせず、直前にきちっと問題が片付いた回があって、最終回は後日談などその後の主人公の日々を描くことで見る人をしみじみとさせるという手法などもあります。これは音楽で言うと音が段々小さくなって余韻を残しつつ終わる「フェードアウト」という手法となり、短歌で言うと倒置法暗黙の了解に於ける述語の省略など「終止形以外で終わる」ということになります。

しかし、それらは例外的なものであって、基本はあくまでも「終止形で終わる」という形です。結句が終止形、尚かつ七音で終われればベストです。

音数は七音がベストですが、どうしても七音にまとまらない場合は字足らず(六音以下)より字余り(八音以上)の方が安定します。

 

さて出てきました、「終止形」。これまたその名の通り「終わるかたち」の言葉です。この文章はここで終わりですよ、続きませんよ、ということを示す形です。文章を終わりにするための形ですから、これが最後に来ればそれはもうしっくり自然に終われます。

この安定した形を結句に置いて終わりにすることを「結句をしっかり座らせる」と言います。

 

では終止形について見ていきましょう。

1・動詞の終止形(ウ段音)。「歩く。」「光る。」「思う。」「する。」「~~である。」「~~している。」「~~となる。」など。

2・助動詞の終止形(たり・をり・ぬ・なり・き・けり・です・ます・だ、など)。「笑いたり。」「華やぎ。」「語り。」「真っ暗。」「~~となっ。」「~~となりけり。」「~~をし。」「~~しており。」「~~であっ。」「~~です。」など。

3・形容詞の終止形(し・い)。「青し。」「明るし。」「暗い。」「早い。」など。

4・形容動詞の終止形(なり・たり・だ)。「静かなり。」「華やかなり。」「堂々たり。」「清らかだ。」など。

5・終助詞(よ・かな・かも・か・よう・ろう、など)。文末に置き詠嘆などの意味を添える助詞。「美しき花。」「どこまでも青き空かな。」「きっと~~だろう。」「~~しよう。」「~~だろう。」「なんと~~である。」「~~です。」など。

いくつか例を挙げるとこんな感じですね。

 

このような終止形の言葉が来たら文章はそこで終わりです。心の中で直後に「。」を置いて読まなければなりません。

作る側も終止形のあとには「。」しか来ない、文章(意味)は次の単語にかからないということを頭に入れて作って下さい。

ただし短歌では「。」を表記しませんから、パッと見では終止形かどうか迷うこともあります。

それは動詞の多くに終止形と連体形が同じ活用形であるものがあるからです。見分け方は直後に体言(名詞)があるかどうか、またあったとしてその体言(名詞)に意味がかかっているかどうかです。「この絵は私が描いた」というように「描いた」の意味が直後に掛かっていなければ終止形。「これは私が描いた絵です」というように「描いた」という意味が直後の名詞(「絵」)に掛かっているなら連体形です。連体形の場合、文の中に別でちゃんと終止形の語句(この文の場合「です」)がなければいけません。

 

「終止形」をもう少し詳しく個別に見てみましょう。

1・まずは動詞の終止形について。

動詞の活用表を覚えていますか。「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」の順で、それぞれ「~~ない・~~ます・~~。・~~とき・~~ば・~~!」という言葉に繋がる形、として覚えましたね。学生の頃は呪文のように「ナイマスマルトキバ~命令形!」などと繰り返して覚えました。

「行く」という動詞を例にすると「行ない(未然)・行ます(連用)・行。(終止)・行とき(連体)・行ば(仮定)・行!(命令)」と変化することになります。

動詞の終止形は基本的に「思・言・行・立・見・す」など「ウ段の音」で終わります。

ラ行変格活用のみ例外で「あり(在り)」と「をり(居り)(現代仮名遣いではおり)」のみ「イ音」で終止形となりますが、使うのはほぼこの二語だけ(*)なので、もう動詞は「ウ段音」で終わると覚えて下さい。(*古文では、ありをり侍りいますかり…などと覚えたかもしれませんが、現代短歌で使うのはほとんどこの二語“あり・をり”のみです。)

結句に動詞(行動や動作を表す言葉)があるのに「ウ音」になっていない場合、注意して下さい。「見えて・向いて・咲いて・飛んで・透け・開き・華やぎ・乗せ・送り」など終止形でない動詞(イやエの音)で終わっているものをよく見かけます。

特に「て」で終わっているものをよく見ますが、「て」は接続助詞といってその名の通り、次の文章に接続する役目を持ちますから、「て」で終わることはありません。「~~て、どうした」と「結果」に当たる述語がなければ文章は成り立ちません。

でも「て」で終わってる歌、見たことあるよ、と思うかもしれません。それはおそらく倒置法、もしくは暗黙の了解による述語の省略によるものです。これについては後で説明しますね。

 

2・次は「助動詞の終止形」です。

述語となる動詞に「過去の意味」など付加的な意味を付けようとすると「助動詞」を付けてやらねばならず、動詞を連用形に活用させた上で助動詞の方を終止形にすることになります。

「助動詞」は過去・完了・継続・推量・断定・打ち消しなど様々な意味を動詞に付加するもので、動詞を助けるという名の通り動詞のあとに付き、活用(続く言葉により形が変化)します。古文で28種、現代文で21種もあり、全てを例に挙げるのはちょっと厳しいので、よく使いそうなものをいくつか挙げてみます。ちなみにこの連用形活用にする時にとりあえず付けてみる「~~ます」(ナイマスマルトキ…のマス)というのも助動詞で、「丁寧(聞き手への丁寧な気持ち)」という意味を付加します。

結句(終止形)として一番よく使うのは過去を表す助動詞系統ですね。中でも「たり・をり(おり)・ぬ」などはよく使います。過去・継続・完了など時系列の意味を付加する助動詞を付けることでその動作が過去に行われたことになります。

「たり」は「~~した(完了)」。「おり」は「~~している(継続)」。「ぬ」は「~~した(完了)」というように過去や継続などの意味を付加します。

「思う・言う・行く・立つ・見る・する」などの動詞にこれらの助動詞を付けると「思いたり(思った)・思いおり(思っている)・思い(思った)、言いたり・言いおり・言い、行きたり・行きおり・行き、立ちたり・立ちおり・立ち、見たり・見おり・見、した・しおり・し」のようにそれぞれ動詞の連体形に付ける形となります。

同じように過去の意味を付加する「」という助動詞がありますが、少し特殊で、「思えり・言えり・行けり・立てり・見えり(自動詞“見ゆ”の場合。他動詞“見る”には付かない)・せり」という形が終止形となります。元々は「~~在り」という言葉が省略されたもので、「~~という行動状態に在る」という意味合いで継続を示していました。「思へり」なら「思ふ」という状態に在る、つまり「思っている」という意味ですね。ただ、元々は継続(~~している)の意味で多く使われていましたが、今では「たり(~~テ在り)」と同じように完了(~~した)を示す使い方がほとんどです。「思えり」なら「思った」という感じですね。

この「り」、本来動詞の活用は連用形活用をする(助動詞に付く時の活用形で、思マス・言マス・行マス・立マスなど「~~マス」に繋がる変化をする。基本的に「イ段の音」。)はずなのですが、一見違いますよね。ただしこれは別の活用をしているのではなく、連用形に付いた後で音韻変化しているのです。

「思い+在り」が「アり」の「ア」の音の影響を受けて発音しやすいように変化し、動詞の連用形活用の「イ段」の音+(在りの)「ア」の二音をまとめて一つの「エ段」の音に変化させたもので、助動詞「り」のみの特殊な変化ですので注意してください。

一見違うといえば過去を表す助動詞「た」もそうですね。「思った・言った・立った」などですが、これは助動詞「たり」が口語化して「り」が略されたもので本来は「思いた(り)・言いた(り)・行きた(り)・立ちた(り)」と連用形活用に付いているのですが、発音しやすいように詰まらせたもので音便化(おんびんか)といいます。ただしこの「た」という助動詞は口語文法専門の助動詞のため、短歌ではあまり用いません。稀に口語短歌として「君が言った」などというように使うこともありますが、短歌では「たり」を使う方が一般的です。

 

3・形容詞の終止形は「青し・暗し・明るし・悔し・美し・清し」など。現代文では「海が青い・空が明るい・花は美しい」など「イ」で終りますが、短歌では「イ」は連体形(青い海・明るい空・美しい花、など名詞にかかる)として使うことが殆どで、終止形として「イ」を使うことはほとんどなく、「シ」を使います。

 

4・形容動詞の終止形は「静かなり・なめらかなり・華やかなり・立派なり・安心なり・堂々たり・清明たり・清らかだ・朗らかだ」など。

形容動詞は「~~である」という言葉に繋がる「ナリ活用」のものと、「~~としている」という言葉に繋がる「タリ活用」の二種類があります。辞書を引くと「形動・ナリ」「形動・ト、タリ」と書かれているので、迷った時は辞書を引いてください。

また形容動詞に付く「ナリ・タリ」は動詞につく過去の助動詞とは別で「断定」の意味を持つ助動詞です。

口語(現代文)では「ナリ活用」(「~~である」という意味に繋がるもの)は「~~ダ」という断定の助動詞に続く形が終止形となっています。「静かダ・なめらかダ・華やかダ・立派ダ」という形になります。

が、短歌では「ダ」は濁音ということもあり、「ダ」で終ることはあまりありません。基本的には「ナリ」を使います。

ただ、形容動詞に付く「ナリ」も「タリ」も「断定」の意味を持ちますから言葉がかなり強くなってしまいます。短歌では作者の気持ちを「断定」してしまうと、読者は作者と同じような複雑な感情を思い浮かべること(共感)をせず、「そうですね」と同意するに止まってしまいます。ですから必然的に「断定」となってしまう形容動詞の終止形で歌を終わりにする形は多用しないよう気を付けましょう。

このように形容動詞は終止形の場合「ナリ・タリ・ダ」(~~である・~~としている)のいずれかの意味に繋がることから、暗黙の了解としてそれらを省略する使い方をすることがあります。

冬枯れの狗尾草の色抜けて淡く輝く新年しづか」という歌では、本来は「しづかなり」があるべき終止形ではあります。ただ「新年は静かである」というように、「~~である」という意味が明らかな場合、暗黙の了解として「ナリ」の部分が略されることがあります。

 

5・終助詞

終助詞とは、よ・かな・かも・か・よう、など文末に置き詠嘆などの意味を添える助詞です。

「なんと~~であること(詠嘆)」「なんと~~なことかな(詠嘆)」「なんと~~だなあ(詠嘆)」「これはどうかな(疑問)」「~~する(禁止)」「あれはこうかも(推量)」「きっと~~だろう(推量)」「今何時です(疑問)」「これでいいのだろう(いや、よくない)(反語)」「これはこうだ(念押し)」「~~しよう(念押し)」「~~しよう(勧誘)」「~~しよう(勧誘)」など。

活用(変化)はしません。

 

以上五つが文章を終わりにするための言葉のかたちとなります。

 

ところで、結句云々以前に、まず最低限「主語と述語」だけは明確にしなければ文章として成り立たない、ということを忘れないでください。一首三十一文字(みそひともじ)の中でちゃんと「何(誰)が、どうした(どうだ)」と分かるように作って下さい。これは基本です。

ただ日本語には誰もが意味を迷わない語句は主語・述語であっても「暗黙の了解」として省いてもいい、という文化があります。短歌では文字数が限られるため、どうしても省けるところは省きたい。そのため「暗黙の了解」として語句を省くことはままあるのですが、どこまでを「誰もが迷わない」とするかで線引きに失敗し、意味不明になってしまう例が数多く見受けられます。

例えば主語は「私(作者)」のみ省略可能で、明記された主語がない場合、暗黙の了解で自動的に主語は「私(作者)」となります。作者以外が主語である場合、何が主語であるのか、省いたりぼかしたりせず明確にしなければなりません。

 

例えば「桜が咲いた」という文章。桜が咲いたということを他者に伝える文として削ってはいけない部分です。

例えばメールでいきなり「川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく」とだけ送って来られたらどう思いますか?

「何やこれ、クイズか?連想ゲームか?何がぶわっと美しいねん?何が言いたいんや!」とツッコミを入れたくなりませんか。

途中をどんなに頑張っても、「何が」「どうした」という主語と述語がハッキリとしなければ文章として成立しません。「桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく咲いた」なら伝わりますね。そして述語を述語として成り立たせるのに必要なのが「終止形」という形なのです。

例えばこれが「桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく咲き」だったら、「咲き…咲いてどうしたんや!?続きあるんやろ?咲いてからどうなったんや?結論言うてくれへんか。続きめっちゃ気になるわ~!」というツッコミが発生してしまいますよね。

このように動詞の連用形(~~マスに続く形)や「咲い」「咲いたの」など接続助詞の「て」「で」で終るものも「咲いて、どうしたんや!」と同じツッコミが入ります。接続助詞という名の通り、「結果」となる述語に接続するための助詞ですから、「結果」となる述語(終わる形の言葉)に続かないとおかしいのです。

このように、結果となる述語が無いのに連用形や接続助詞で終わりにしているのがよくある失敗例その①です。

 

失敗例その②は述語をぼかす=「省略してはいけない述語を省略する」というものです。

桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく」で文章を止めてしまい、「……(みなまで言わなくても分かるデショ)」と流し目で訴えるようなものですね。

これにも「美しく……咲いたんか?散ったんか?春風の中ぶわっと一気にやからなぁ……散ったんか?もう散ってもうたんか?いや~来週見に行こ思てたんに、予定より早いわぁ~!」とかいうツッコミが出てきそうです。

これらのパターン、結構多いのですよ。おそらく作者としては「何々がこれこれこうである」と言い切ってしまうと何か余韻が感じられない、というような感覚なのではないでしょうか。けれど作者はその情景を実際に見て「分かっている」からこそ余韻の部分を楽しめるのですが、他人は分かっていないので余韻に浸る以前に「ちゃんと言葉で状況を教えてくれ!」となるわけです。

状況を見ていない読者が迷うかもしれない述語をぼかして(省略して)しまってはいけません。これが失敗例その②です。

この、作者には分かっている状況でも読者には見えていない、ということは常に念頭に置いておいてください。この誤解により暗黙の了解とする線引きを間違ってしまう例が多発するのです。

 

ただし、ベストとはいえ全部が全部「何がどうした(どうである)」という形の作品ばかりが続くと、ちょっと歌というより報告書のような硬い感じになってしまうかもしれません。そんな時には句の位置を変えて倒置法にしたり、迷いがない述語のみ省略してみるのも有効です。これらの「結句に終止形を置かずに歌を終える」やりかたをよく「流す。流して終わる」などと言います。

あくまでも結句は終止形でしっかり座らせて終えるのが基本です。その上で、たまに変化球として流して終わるものも作ってみるという感じです。普段はしっかりビシッと速いストレートで狙いつつ、たまに変化球でパターンを固定化しないようにするようなもので、変化球ばかりではいけません。変化球は意図的に有効な場面で使うようにしたいものです。

 

さて変化球(流す)そのⅠ、「倒置法、句の位置を変える」ですが、このパターンで一番大事なのは「結句に置かないだけで、第四句までに終止形の述語がちゃんとある」ということです。

例)夏雲はぐわあと大きな口ひらき丸呑みにする真青な空を

倒置法とは、通常文法では「主語→目的語→述語」となるものを印象的にするために並べ替えたもので、本来最後に来るはずの述語を先に置き、その後に強調したい語句を持ってきて印象付けをするという手法で、文法としては例外的であり使いすぎは厳禁です。

述語は終止形なので意味としてはそこで一旦文章は切れ、後ろの倒置した語句には意味的にかかりません

現代文で倒置法にする場合は述語のあとに読点(、)を置くので分かりやすいですが、短歌では読点を書かないので終止形と思われる語句に続く語句に意味がかかっているかいないかで見極めてください。意味がかかっていたら連体形で倒置法ではありません。意味がかかっていなければ倒置法で、その場合手前に終止形の述語が存在しなければなりません。倒置法の場合、述語のあとに心の中で読点(、)を置き、一呼吸置いてから次の(倒置した)語句を読むことでその語句を強調するという効果があります。

この歌の場合、主語は「夏雲」で、「空」が目的語、「丸呑みにする」が述語(「する(為る)」という動詞の終止形)です。文章を構成する最低限の語句に絞って書くと基本形は「夏雲は空を丸呑みにする。」となります。これに倒置法を用いると「夏雲は丸呑みにする、空を。」「空を丸呑みにする、夏雲は。」などとなり、更に修飾語を倒置すると「夏雲は空を丸呑みにする、大きな口で。」などとなり、「、」の後の語句の印象を強調します。

短歌の場合、結句に置いた語句の印象が強くなります。そこで倒置法を用いて印象を強くしたい方の語句を結句に持ってくるという手法を取ることがあります。ただ、あくまでも倒置法は「例外的な文法」であるため、多用してはいけません。不自然な文法だからこそ印象的になるわけで、不自然が続いたらそれはただの文法が分かってないおかしな文章になってしまいます。

そして倒置法に於いて気を付けなければならないのが「動詞が終止形か連体形かで迷わないか」ということです。多くの動詞が終止形(そこで「。」が来て文章が終わる)と連体形(体言=名詞を説明する)とで同じ形になるため、位置によっては意味に迷いが出て来てしまうのです。

一般的な文章と違って短歌は基本的に句読点を使いませんから、それが倒置法で前に持って来た述語(終止形)なのか、続く体言(名詞)にかかる連体形なのかで迷いがちです。

この歌の場合はまぁ倒置法と受け取ってくれる人の方が多いとは思いますが、「丸呑みにする」を終止形として捉えず、「丸呑みにする空」と「空」にかかる連体形と捉えた場合、「夏雲は丸呑みにする空を…」と終止形の述語がないまま終ってしまい、「空を…空をどうしたんじゃい!」というツッコミが入ることになります。

もっと迷う例を出してみます。

例)球児らの高く張りある若き声マウンドを飛ぶボールと共に

主語は「声(がorは)」、目的語は「マウンドを」、述語は「飛ぶ」で、ここでは「ボールと共に」という修飾語を倒置しています。句読点を入れて書くなら「声がマウンドを飛ぶ、ボールと共に。」で、「飛ぶ」は終止形です。が、この「飛ぶ」という動詞を連体形の「飛ぶ」と捉えて続く「ボール」にかけ「飛ぶボール」と捉えても割と自然に意味が通ってしまうんですよね。「声がマウンドを飛ぶボールと共に(ある)」というぼかした述語を補足して読む人も結構いるのではないかと思います。

「声が」という主語に対して「飛ぶ」という動詞が一般的にイメージする言葉ではないのに対し、「ボール」という言葉には「飛ぶ」という言葉が一般的なため余計に紛らわしいですね。「声がマウンドに響くボールと共に」だったらこの語順(倒置法)でも迷わないと思いますが、それでは歌として面白くない。

これは倒置法なんですよ、ここで一旦切って下さい、次の文章にはかかりませんよ、という場合、「マウンドを飛ぶ ボールと共に」と一字空けを使うという手もありますが、これまた多用は厳禁です。倒置法も一字空けもたまに使うから効果的なのです。

このように迷いが生じそうな場合は無理に倒置法にするのは止めましょう。

球児らの高く張りある若き声ボールと共にマウンドを飛ぶ

と素直に最後に終止形の述語として置けば「声が飛ぶ」という一般的でない表現も迷うことなく使えます。

 

次に、「~~て」という接続助詞で終わっている歌はこの倒置法を用いた歌で、必ず「~~て、どうした」という結果となる述語が先に述べられていなければなりません。

例)陽の色の喇叭水仙合唱す口を大きく「あ」の形して

これは通常の文法で書くと「陽の色の喇叭水仙は口を大きく“あ”の形にして合唱す」となり、「合唱(する)」が述語ですね。

「て」を結句に持ってくる場合、必ず「~~し、それからどうなったんや!?」と突っ込まれない文章になっているか確認してください。

 

続いて変化球(流す)そのⅡ暗黙の了解で省略する

これは意味に迷いが生じない場合のみ、暗黙の了解として語句を書かなくてもよい、というものです。

例えば先ほども書きましたが形容動詞に付く「ナリ・タリ・ダ」。「~~である」又は「~~としている」という「断定」の意味が確定しているため、省略しても意味に迷いが生じません。

形容動詞以外の場合でもこの「断定(~~である・~~だ)」の意味となる語句はしばしば省略されます。それは「断定」とは意味を強めるだけで意味の本質は変わらないからです。

いわゆる「体言止め」の多くがこれです。「とうとう明日は試験の本番(だ)」「目が覚めたのは朝の六時(だ)」など。

 

また「~~のように」という説明がしっかり描写されている歌の場合、動詞の「あり(在り)」も略される傾向にあります。「~~のように(あり)」「どこどこにどのような○○(名詞)(のあり)」など。

この「~~の(が)あり」を省略して体言(名詞)で終わりにする方法も先ほどの「~~だ(断定)」の省略に続き「体言止め」としてよく見られる用法ですが、必ず「どのように、在る」のか語られていなければなりません。

 

また「鼻歌を(歌うor鳴らす)」「音が(するor聞こえる)」「とぼとぼと(歩く)」「うつらうつらと(する)」など一般的にイメージする動き(述語)が決まっているものの場合、省くことができます。

ただし、暗黙の省略を成立させるためには助詞が必須です。

「とぼとぼと」「うつらうつらと」などの副詞の場合、必ず「」まで書いてください。

また「鼻歌(目的語)」ならば「歌うor鳴らす」という動詞を省略できますが、「鼻歌(主語)」なら「聞こえる・始まる・続く・うるさい・楽しい」など多様な述語が来る可能性があり、省略はできません。

省略できるのは主語と目的語がはっきりしていて、意味に迷いがない場合のみです。

また主語(が・は・の)と目的語(を)だけでは意味を確定できない場合も多く、その場合更に助詞を入れてやっと省略可能になる場合もあります。

「足(出すor動かす)」「顔(上げるor向ける)」など目的語(~~を)と場所や方向を意味する助詞(~~に・~~へ)が揃った場合、意味に迷いが生じなくなるため省略可能になりますが、「足」だけでは「動かす・ぶらぶらさせる・掻く・上げる」など色々な可能性が出て来てしまうため省略は出来ません。

 

また主に色に関する形容詞(青し・白し、など)の場合「し」が省略されることがあります。「春の空は茫々と白(し)」など。

 

いずれにせよ、迷いが生じる(色々な可能性が考えられる)場合は省略をしてはいけません。

 

変化球(流す)そのⅢ体言止め

これは変化球そのⅠとⅡの派生型です。

ここまでにも書いてきましたが、「~~だ」という「断定」の助動詞は省略して体言で終えることができます。「とうとう明日は試験の本番(だ)」「目が覚めたのは朝の六時(だ)」「川辺のススキは金色(だ)」など。ただし多用してはいけません。

 

また「~~の(が)あり」という動詞を省略した場合。「庭にひっそり鈴蘭の花(のあり)」「ぎしぎしと鳴る古き吊り橋(があり)」「同窓会に懐かしき顔(のあり)」など。これも多用してはいけません。「庭にひっそり鈴蘭の咲く」「古き吊り橋はぎしぎしと鳴る」「同窓会に見る顔懐かし」など体言止めにならない表現なども考えてみましょう。

 

また倒置法で場所や時間など状況を示す場合、助詞の「」や「」が省略されて体言止めになっている場合。

「鈴蘭のひっそりと咲く庭の片隅(に)」「耳澄ませ水の音聴く山奥の橋(に)」「猫と我体温分け合う肌寒き夜(に)」「ぎしぎしと軋みつつ行く古き吊り橋(を)」「紫陽花の丸み増しおり皐月晦(つごもり)(に)」など。

「に」が略されている場合が多く、「~~のあり」という意味に取れる場合も多いです。

倒置法なので、必ず終止形の述語が先に入ります(咲く・聴く・分け合う・行く・増しおり)。

 

また倒置法で主格の助詞(が・は・の)が略されている場合。

「ひっそりと咲く庭の鈴蘭(が・は・の)」「ぎしぎし軋む古き吊り橋(が・は・の)」など。

これも倒置法なので、必ず先に終止形の述語が入ります(咲く・軋む)。

 

また終助詞が略されて体言止めになっている場合。

「なんと眩しき白鷺の白(よ・かな)」「六月に亡父が逝きてもう十年(よ・かな)」など、「詠嘆」の終助詞が省かれている場合があります。

意味としては「~だ(断定)」に近いのですが、主に「よ・かな」という「詠嘆」として扱った方がしっくりくるものが多いです。

 

以上のように倒置法、暗黙の了解による省略、体言止めなど終止形ではない終わり方などもありますが、迷いが生じる場合、倒置法も暗黙の了解による省略もしてはいけません

そしてやはり基本的には結句には終止形。これを忘れないでください。

結句をしっかり座らせて、ツッコミの入らない歌作りを目指してくださいね!

 

☆結句は終止形で七音がベスト

☆倒置法の場合、結果となる述語が先にある

☆意味的に迷わない場合のみ省略してもよい

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