*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第119回(2021/12/17) 澪の会詠草(その1)
1・木犀の小花降りきて見上げれば金の花付けめぐり香らぬ(栗田)
金木犀の小花が頭上から降ってきて見上げてみたら金色の花が付いていた。香はめぐっていなかった(ので気付かなかったわ)。という歌ですが、「花付けめぐり香らぬ」という表記で読者の意見が割れました。
花を付けて、と続くことで「香らぬ(香らない)」は「香りぬ(香っている)」のの表記間違いではないか。また「めぐる」のは「香り」なのか「また巡ってきた」という意味で「時・季節」を指すのかで読者は迷ってしまいました。
「香っていなかったけれど」という意味にしたい場合は「花付く」と終止形にして一旦文を切ってしまいましょう。
また「めぐり香らぬ」ではなく「香りめぐらぬ」にするとより意味は分かりやすくなると思います。
2・今は秋季節の迷子か紫陽花が控え目ながら旬の如くに(小夜)
今はもう秋なのだけれど、季節(とき)の迷子かな、紫陽花が控え目だけれどまるで旬のように咲いている。
情景がちゃんと読者に伝わりますね。少し惜しいのが「旬の如くに」と言ってしまったところ。「旬の如く」で想像する花の様子は人それぞれで違ってしまいますね。色もピンク系だったり青系だったり紫だったり、色がくっきり華やかとか色は淡いけれど瑞々しいとか、作者は「何をもって旬と感じた」のかを具体的に描写するととても良い歌になると思います。
また「控え目」と「旬」は両立もできるのですが少し意味が逆方向なので打ち消し合ってしまう恐れもありますね。「控え目」ではなく「小ぶりながらも」とか「葉の影ながら」など「旬」の華やかさを打ち消さない語句にしてもいいかもしれません。
3・天道虫は庭の名工 鬼灯のランプシェードに秋の陽透けて(小幡)
虫鬼灯(むしほおずき)を歌ったものですね。天道虫などの虫が鬼灯の実の赤い外皮を食べ、繊維質部分と中の丸い実だけが残り、本当に繊細な細工のランプシェードのように見える自然現象です。
そんな繊細な細工に秋の陽光が透けてみえる光景に感動したものですが、この歌には「実際に虫鬼灯を見た時の感動」と「それが虫によるものだと知った知識としての感動」の二つが同居してしまったため、逆にそれぞれの感動がぶつかり合って邪魔してしまったように思えます。
是非それぞれの感動ごとに分けて二首歌って欲しいですね。
4・早一年残暑のさなかコンビニにケーキとおせちの予約募集(大塚)
あら、もう一年経ったの!まだまだ暑い(残暑のさなか)のにコンビニにはもうケーキとおせちの予約募集をしているわ、という歌でとてもよく分かりますね。
この「早一年」にこそ「あら、もう!?」という作者の感情が現れているのでここは早一年の後に空白を置き一拍開けた方が活きるのでは、という指摘が。
また「予約募集」では六音なのと意味的にも助詞が欲しいところなので「予約の募集」としましょう。
また「コンビニに」は「コンビニは」でもいけるのでどちらも試してみてより作者の実感に合う方を選んでみてください。
5・早起きし二時間待ちて席次取り診察五分に冬の陽あわし(緒方)
大きめの病院などに行くとよくありますね。頑張って早起きして行ったのに二時間も待たされた挙句診察はほんの数分で終ってしまい、はぁ疲れた、と病院を出たら冬の日差しがもう淡い刻限になっていた。
確かに病院あるあるで共感もできるのですが、お説教系短歌と同じで「うーん、そうだよね、あるあるだよね、分かる分かる」という共感のみで終ってしまい、そこからの「気付き」による共感・感動にまでは至れません。
病院という本来病を癒し楽になるために行く場所へ行くことで逆に時間と体力をごっそり奪われる皮肉(哀しさ・矛盾)のようなものを詩的な表現で表せられるととても良い部分が歌えると思うのですが、なかなかに難しい題材ですね。
6・ゴム毬のように弾みて幼子はツリーの前のママの手をひく(金澤)
駅前や商店街などにある大きなクリスマスツリーの前でしょうか。ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねるように歩きながら母親の手を引く子供の様子が鮮やかに思い浮かびます。
「ゴム毬のように弾み」という表現がとても良いですね。それだけにこれを初句で出してしまうのが惜しい気もします。
「幼子は」を初句に持ってきて主体を確定させた上で「ゴム毬のように弾みつつ」と具体的な描写を続けた方が活きるのではないでしょうか。
また「ツリーの前へ」とするとまた少し変わってきますね。子供の今いる「位置」に視点がいくか、「子供の意思」に視点がいくか。どちらも有りだと思うので試してみてください。
7・削がれるも枝が膨らむ大公孫樹葉色付かん徐々に徐々にと(名田部)
削がれても枝が伸びて膨らみ、大公孫樹の葉の色が徐々に徐々にと付いてきた。大公孫樹の生命力への感動とあんなに削がれちゃったのにちゃんと乗り切ってくれたのね、というほっと安堵する気持ちが分かります。
分かるような気はしますが、実はあちこち読者の想像力と読解力に任せてしまっているところがあります。
まず「葉色付かん」は「葉色がつくだろう」という推量の表現なので、「徐々に徐々にと」と繰り返しまで使っている、具体的に作者が観察しているであろう表現には合いません。「葉の色付けり」や「葉の色の付く」「葉の色付きぬ」など推量(これから起こるであろうこと)ではなく現在のこととして表しましょう。
そして「徐々に徐々にと葉の色付けり」の順番にした方が文がしっかり座ります。
また「削がれる」では剪定されたのか台風などで折れてしまったのかそれぞれで思い浮かべる状態がずれてしまう危険性がありますね。ここは「伐られても」「伐られるも」とすると読者の想像する公孫樹にブレがなくなります。
また「膨らむ」ですが、「枝が膨らんだ」のではなく「枝が伸びて大公孫樹の姿が膨らんだ」のではないかと思うのですが如何でしょう。「枝が膨らむ」でも読み取っては貰えるでしょうが、「伸びて膨らむ」(伸びるのは枝ということは敢えて言わなくても分かる)や「いつしか膨らむ」「大きく膨らむ」など「大公孫樹の姿が膨らんだ」ことを重視するか、もしくは「枝は伸びゆき」として「枝が伸びた」方を重視するか決めた方が良いでしょう。
8・世田谷の寺町通りの大公孫樹黄金色に足引き寄せられし(戸塚)
世田谷の寺町通りの大公孫樹の見事な黄金色に足が引き寄せられてしまった。
「世田谷の寺町通りの大公孫樹」という具体がいいですね。実際の場所を知らなかったとしても「世田谷」や「寺町通り」という名詞からは少し懐古的でお洒落なイメージが湧くのではないでしょうか。
ただ結句が「足引き寄せられし」と九音になってしまうのは多すぎます。ここで敢えて「足」と言う必要はありません。
また「引き寄せられし」の「し」は誤用です。この場合「し」を「引き寄せられた」という過去(完了)の意味で使っていると思われますが、過去の助動詞として使う「し」はその後ろに必ず体言(名詞)が続き、「し」で終わることはありません。終わる場合は「き」となります。「引き寄せられき」なら文法としては正しいのですが、「(かなり昔に)引き寄せられた(と思い出している)」いう意味になります。この歌では「昔はすごい黄金色で引き寄せられたなぁ」と思い出しているわけではなく、今の黄金色に引き寄せられているので「引き寄せられぬ」「引き寄せられる」と現在のこととして表しましょう。「し」は多くの人が間違えて使うので次にブログで取り上げたいと思います。
9・晩秋の庭木鎮まる夕暮にドウダンツツジの朱の華やぎ(川井)
晩秋にもなるとすっかり花は終わり、庭木も葉を落としたり枯れた色になり静かに鎮まってゆく夕暮。そこにドウダンツツジの真っ赤な色が一際華やかだ。
「庭木鎮まる夕暮」という表現がとても良いですね。晩秋の色を失ってゆく静かな庭の情景を的確な一語で表しています。
ただし結句は「華やぎ」と体言止めにせず「朱が華やぐ」と終止形にして文を座らせたいところです。もしくは「夕暮はドウダンツツジの」「夕暮にドウダンツツジは」とすれば「朱の華やぎ」「朱き華やぎ」と体言止めにしてもいいし、「朱に華やぐ」「朱く華やぐ」と終止形にしてもいいでしょう。
主語は「夕暮」か「ドウダンツツジ」か「朱」か。述語は「華やぐ」か「(華やぎ)がある」なのか。主語と述語を明確にしましょう。
10・山裏の柿色の空は刻々と赤みを増して熟れてゆきたり(畠山)
秋の夕焼けの様子ですね。山の後ろの柿色の空が刻々と赤みを増してゆく様子を「熟れてゆく」と表現しました。
初句の「山裏の」がちょっとおかしいですね。「裏山」という言葉はありますが「山」を指すので意味が違いますし、「山裏」という語句はありません。
「山のうしろの」「山の向うの」「山の稜線の」「山の方の」という意味の言葉を持ってきたかったのですが思い浮かばず、苦し紛れで使いましたがダメですね(笑)。
「山の上(へ)の」という語句を提案されたのでそれでいこうと思います。
11・黄葉のメタセコイヤの先端をぐんと引き上ぐ空の青色(鳥澤)
黄葉したメタセコイア(メタセコイヤでもいいと思いますが、学名はMetasequoiaなので正式名称はメタセコイアと思われます)の高く尖った樹の先端を更にぐんと引き上げるような秋の澄んだ青空の色。メタセコイアの黄色と秋の青空との対比が一枚の絵画のように描かれた素敵な歌ですね。
「先端をぐんと引き上ぐ」という見方が的確で個性的です。
12・迷ひなく落葉の上へ落葉する音ピシッピシッと響きゐて 谷(砂田)
山や林の中にいると、役目を終えた葉がピシッピシッと鋭い音を立てて落ちて来る音を聴くことができます。水分や栄養など全て本体へ明け渡し、納得したかのように落ちてくる様を「迷ひなく」という表現から思い浮かべました。
最後に一字空けて「谷」となっていますが、この歌の場合「谷(の瞬間や様子)」ではなく「ピシッピシッと落葉する」様子が核であると思うので、「響きゐる谷」として谷の方にあまり重きを置かない方がいいのでは、と提案してみました。