短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2021年11月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第118回(2021/11/19) 澪の会詠草(その1)

 

1・晩秋の宵に三日月金星を供に従え天体のショー(渡辺)

晩秋の宵(日が暮れて間もない頃・夜の始め)に三日月が金星をお供に従えて輝く様子を天体が見せてくれる素敵なショーだと捉えた歌ですね。

身近な花や日々の暮らしに寄ってしっかり見ることも大事ですが、壮大なスケールのもの(宇宙・空・海など)を敢えて引いた目線で見ることもまた大事ですね。大きなものを見て表現することで逆に自分や周りのものの小ささ、儚さなどに気付き表現できることがあります。

歌の形としては「晩秋の宵三日月」ではなく「晩秋の宵三日月」とした方が説明的にならず、すっと三日月を際立たせて置けると思います。

また結句の「天体のショー」。これが少し概念的なので、「白く輝く」とか「自慢げにゆく」とか作者が見た事実(作者の捉え方)で表すとぐっと個別的な歌になると思います。

 

2・声上げるボール遊びの子供らにビルは作りし長四角の陰(川井)

声を上げてボール遊びをする子供たちに、ビルが大きな長方形の影を落としているというとても現代的な情景を歌っていますね。

現代の都会っ子の遊ぶ環境の不憫さやそれでも声を上げて遊ぶ子供の強さなどが読める深い歌だと思います。

不憫だとか可哀想とか(感想を)言ってしまわずに具体的な表現のみで仕上げていて、読者に自発的にそういった感想を抱かせる上手な歌だと思います。

敢えて言うなら「声上げる」…作者は実際聞いているのでその声が分かりますが、読者はそれぞれ勝手な声を想像してしまえるので、「声高く(高き)」と具体的に情報を絞ってしまった方がいいと思います。

また「ビルは作り」だと過去形(しかも結構な昔)になってしまうので「ビルは(が)作れる」と現在形にしましょう。

また「子供ら」は「子供ら」とも言い換えられるので一度考えてみて下さい。(どちらも間違いではありません。最終的に決めるのは作者の感じ方です)

 

3・あまりにも細き三日月低くあり 願い投げたら届きそうな夕(飯島)

細い細い三日月が夕方の空の低い位置にあって、願いを投げたら届きそうに思えた、という面白い感覚の歌ですね。

情景はすっと自然に思い浮かべられますし、願いを投げたら届きそうという作者独自の感覚が現れていて個別的な歌になっています。

三日月を「あまりにも細い」と表現するのが良いですね。あんまり重いお願い事を投げたら折れてしまいそう(笑)

形としては「あまりにも三日月細く低くあり」として「三日月」の方に重心を置いてしまってもいいのでは。

 

4・飄々と風に流るる薄穂は銀の波打ち道に溢れり(名田部)

飄々と風に流されるままに揺れている薄(すすき)の穂が銀色の波となって道に溢れ出している、という歌ですね。

秋の美しい情景が浮かびます。

「飄々と」と「風に流るる」は意味が被るのでどちらかを削って別の具体的な描写を入れても良いのですが、初句なのでヘタに説明っぽくなる言葉を入れるよりはこのままさらっと流してしまってもいいかもしれません。「さわさわと」ぐらいのあまり説明っぽくならない描写でピンとくる言葉はないか考えて比べてみて下さい。

また「銀波打ち」ではなく「銀波打ち」ですね。「銀波を打ち」なら「波」という名詞に続くので「の」ですが、「波打ち」という動詞に続くのでここは「に」が適切です。

またそうなると「道に」の「に」が被るので、こちらを「道へ」と変えましょう。

 

5・山茶花にこぬか雨降り寒こわし今日の散歩の止めよか行こか(緒方)

山茶花(さざんか・初冬の花)に小糠雨(霧雨)が降り寒さが険しい。今日の散歩は止めようかな、やっぱり行こうかな、という歌。

説明や計算・知識ではなく作者の感情がぐっと前に出て来る歌が増えてきました。

ただ「寒こわし」とは普通言わないので、もっと分かりやすく自然な言葉で「寒き朝(昼・夕)」と流しましょう。

また「こぬか雨」は「山茶花に来ぬか…あれ、違うな、小糠雨か」と脳がいらぬ読み違えを起こし、すーっと読めなくなる可能性があるので、ここは「小糠雨」という一つの単語として漢字にしてしまいましょう。

漢字が多いかな~、硬いかな~という時は「降る」の方をひらがなにすると良いでしょう。「雨」に続けば「ふる」は「降る」だと分かりますね。

 

6・食すなどもつてのほかとふ〈もって菊〉紫の香が卓に漂ふ(小幡)

そんな菊(食用菊)があるんですね。気になって調べたら近所のデパートでも売っていました!

よく見る食用菊はお刺身の上などに乗っている黄色い菊ですが、これは淡い紫色の花で、山形県を主な産地とし、食用菊の中でも一番香り高く高級なものとされているんですね。

とまぁ読者が一般知識として知っているものではない題材を歌っているのですが、ちゃんと「何のことだか分かる」知識の入れ方ですね。

「へぇー」と思いつつも、そんなお洒落な食材を楽しむ作者の食卓を読者も想像できます。本来「色」を表す「紫」が見た目だけでなく「香り」まで表現しているのが面白いですね。

 

7・トランスに鴉の頭跨がりて野太い声の指令を放つ(大塚)

トランス(変圧器)に大きな鴉が跨って、野太い声で「くわぁ!」と指令を放っている様が見えるようです。

その鴉がボス(お頭)かどうかなんて事実は分かりませんが(笑)、トランスに跨るように乗る偉そうな雰囲気や手下どもへの指令に聞こえる野太い声などから「こいつはお頭だろう」と読者からもボス鴉像がありありと見て取れますね。

ただ振り仮名を付けられない場合は「頭」を「かしら」とひらがなで表記した方が良いかもしれません。

 

8・秋の陽に白く輝くススキ見ず坂道下る夫の背遠し(金澤)

秋の陽に白く輝くススキを見もせずにさっさと坂道を下って行ってしまう夫の背中が遠い。

あっ、旦那さん、気を付けて!夫婦のすれ違いはこういう小さな価値観のずれから始まり、気付けば大きな皹(ひび)になってたりするんですよ!

この「夫(つま)の背遠し」というのはサクサク先に行ってしまった物理的な「遠さ」だけでなく心理的な「遠さ」なんですよね。

同じ時を共有しているようでしきれていない複雑な寂しさを「寂しい」とか野暮な感想で言ってしまわずに具体的な描写で表す上手な歌だと思います。

ススキはカタカナよりも漢字やひらがなの方がいいかも。

 

9・三日月と金星ともに煌めいてコロナ無縁の宵のひと瞬(栗田)

1番の歌と同じく、この作者も月と金星について歌っていますね。

秋になってすっきり湿気が抜けた夜空に煌々と輝く月と、そのすぐ傍で月明かりに負けない程に大きく煌めく金星の姿が印象的だったのでしょう。

そんな煌めく夜空を見ている一時はコロナのことは忘れていられる。

やはり大きなものを見ると相対的に自らの抱える問題や悩みが小さく感じられて癒される部分がありますね。

「ひと瞬」を「ひととき」と読ませるのは無理があるので「ひととき」「一時」「ひと時」などにしましょう。

また「煌めきぬ」「煌めけり」として一度文章を切ってしまうのもありかも。

 

10・町外れのジャズ喫茶店ACBには坂本九さん舞台の袖に(戸塚)

街外れのジャズ喫茶ACB(アシベ)には昔坂本九が舞台袖にいたんだよ、と。実際作者は当時(新宿ACBがまだ「街外れ」だった時代に)見たんでしょうね。

現在の会館を見る機会があって思い出したのかもしれません。

坂本九は芸能人で広く知られた人物なので三十一文字しかない短歌に於いては「さん」は不要です。

また伝聞や「昔、この舞台袖に坂本九がいたんだってよ」という今知った知識ではなく作者自身が見たんだよ、ということが分かるように「見た・見し」と言ってしまっても良いかも知れません。

文字数は少しオーバーしてしまいますが「街外れのジャズ喫茶店ACBに見た坂本九は舞台の袖に」とすると作者が若い頃見たことがあるんだな、とハッキリすると思います。

 

11・閉校の学舎に立ちて打ち寄せる波のしぐさの遠きまぶしさ(小夜)

何となく情景が見えそうでいて情報に揺らぎが多く「???」が湧いてしまい最終的に「うーん、ちょっとよく分からない」という歌になってしまっています。

「閉校の学舎に立ち」までは分かるのですが「て」「打ち寄せる」と続くと「立って打ち寄せる…?どういうこと?」となってしまいます。

これは「立って」いるのは作者なのに「打ち寄せる」のはなので主語がいきなり変わってしまっているからなんですね。主語が違う述語を接続助詞「て」でくっつけてはいけません。

述語には主語があります。毎回主語をはっきり表す英語と違って日本語の主語は(特にI(私・我)が主語の場合)省略されることが多いですが、必ず「何(主語)がどう(動詞)した」か「何(主語)がどう(形容詞・形容動詞)だ」とセットになっています。

このセットが間違っていないか、正しく結びついているか注意しましょう。

また「遠きまぶしさ」の「遠き」が物理的な遠さについて歌いたいのか時間的な遠さ(昔)について歌いたいのか読者を迷わせます。

今月の8番の歌の「夫の背遠し」の「遠し」はとても上手く使われていますが。実は「どちらにも取れる」とか「かけてある」というのは相当上手くやらないと活きた歌にならない難しいもので、素人が気軽に手を出すべきではありません(笑)。そこそこ慣れて来てもやりがちですが、ぴったりの言葉を見つけられなかった言い訳である場合が殆どなのです。

さて、まずは主語と述語のセットを明確にしましょう。

例えば「閉校の学舎(母校)に立ちぬ打ち寄す波の変わらぬまぶしさ」とすれば「立ちぬ」の完了の助動詞「ぬ」で一旦文は切れますから「作者が閉校の学舎に立った」と分かりますね。「そこに打ち寄せて来る波は(昔と)変わらないまぶしさだ」となり海辺の学校なのだなということも分かりますし、頭の中で昔の波を思い出しているのではなく、今の波のまぶしさを実際に見て昔のことを思い出しているんだなということも分かるかと思います。

また学舎を「母校」と言ってしまえば、より作者の立ち位置は分かりやすくなると思います。

 

12・「水甕」の頁をめくる指先の乾き始める十月の末(畠山)

毎月月末近くになると送られてくる短歌同人誌「水甕」。そのページを捲る指先が乾燥してきて滑るようになったことで「あぁもう冬か」と季節の変化と共に年齢に気付いたという歌です。

「めくる」と「乾き始める」で動詞の連体形「る」が続いてしまっているので「乾き始める」の方を「乾き始めて」に変えてはという指摘をいただきました。

 

13・柿あまた採られぬままに陽を弾く鬼無里村にてだーれも居ない(砂田)

渋柿なのでしょうか、柿の実が誰にも採られず鳥にも食べられず秋の日差しを弾いてつやづやと輝いている静かな「鬼無里(きなさ)村」の時間を感じます。

鬼無里村」という固有名詞が効いていますね。しーんとして怖いくらい静かな地方の村を想起させます。

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