短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年5月 (その2)

◆歌会報 2023年5月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第132回(2023/05/19) 澪の会詠草(その2)

 

13・長野から実家の種をお取り寄せ恥ずかしそうに菜の花咲いた(山本)

長野の実家からわざわざ種を取り寄せて植えた菜の花が恥ずかしそうに咲いた。

「恥ずかしそうに」咲いたという作者の目線での見方はとても良いですね。ぶわっと伸びて華やかに咲いたのではなく、慣れない土の上で細めの茎に小ぶりな花が一生懸命開いているのではないかな、と菜の花の様子が見えてきますね。

ただ「お取り寄せ」という言葉ですが、店頭に在庫がない商品を倉庫などから店に「お取り寄せ致しましょうか」と店側から客に尋ねる時の丁寧語が段々略されて「お客様の手元まで取り寄せる売買形式」という意味の言葉になっていったもので、最近では名詞化して「お取り寄せスイーツ」などと使われることも増えてきましたが、動詞として自分から取り寄せる行動に丁寧語である「お」は付けません。

また「長野から実家の種を」という掛かり方も少し危うく、「長野の実家から種を」とした方が自然だと思われます。ただそうすると初句の音数が足りなくなるので「長野」を言い換えて「信州の実家から種を取り寄せぬ」として歌の背景である上の句の一文を仕上げてしまいましょう。

そして背景が出来上がったところで「恥ずかしそうに菜の花が咲く」と作者の目から見た菜の花を描くと読者も作者の目線で情景を思い描けるのではないでしょうか。

 

14・風と黄とミモザふくらむ春の日に卵炒りいりミモザサラダを(小夜)

春風の中、黄色のミモザの花が膨らむ春の日に、炒り卵入りのミモザサラダを食べよう、という歌だと思います。

場面はとても良いですね。ミモザミモザサラダというアイテムが、明るくて爽やかな春のランチタイムを思わせます。

一般的にはゆで卵の卵黄の裏ごしをトッピングしたものをミモザサラダと呼びますが、加熱した黄色い卵をミモザに見立てて乗せたサラダということで炒り卵でもミモザサラダと呼んでいいかと思います。

が、「卵炒り入り(いりいり)」ではちょっと読みにくいですね。「炒り卵入り」「炒り卵のせ」の方がすんなり読めると思います。

また「風ミモザ」とすると、それぞれが別物となってしまい、風と黄色の何かとミモザがそれぞれ膨らむ、という意味になってしまいます。

春風の中で黄色のミモザが膨らむという意味だと思うので、「風に黄のミモザふくらむ」とするのが自然でしょう。

そして「風に」で「に」を使ってしまうため、「春の日」と変えてはどうでしょうか。

「春の日ミモザサラダ」と主語(~~は)と目的語(~~を)を決めることで「春の日ミモザサラダ楽しもう)」という述語を隠すことができます。

風に黄のミモザふくらむ春の日は炒り卵入りミモザサラダを

とすると春の明るいキッチンタイムが歌えるのではないでしょうか。

 

15・春菊の食されてあと庭隅を黄色の小花がそよぎて踊る(栗田)

柔らかな春芽を摘まれ、食べられてしまった後の春菊が黄色の小花を付けて庭の隅で揺れている様子を歌ったものですね。

味で楽しんだ後、花でも楽しませてくれる。健気ですよね。歌の場面はとても良いと思います。

ただ「踊る」というのが概念的な表現なので、「ゆらゆらそよぐ」とか「さやさや揺るる」など状態の描写で描いて欲しいかな、と思います。

「踊る」「舞う」はなるべく別の表現ができないか考えてみてください。

また「庭隅踊る」ではなく「庭隅に(へ)踊る」ですね。

また「食されてあと」は「食されあと」「食されてのち」の方が自然な言い回しかと思います。

春菊の食されたあと庭隅へ黄色の小花がさやさやそよぐ

としてみてはどうでしょうか。

 

16・絶え間なく花咲き競い行きし春 「早送り」の春ひたるもかなはず(石井)

「早送りの春」という表現が面白いですね。次々に色々な花が競うように咲いて、あれよあれよという間に過ぎてしまったように感じる春。とてもよく分かります。

ただ「浸るも叶わず(浸ることができなかった)」と言い切ってしまったのが惜しいと思います。そこは読者に言わせたいところ。

絶え間なく花咲き競ひ春行けり 今年の春は「早送り」かな

絶え間なく花咲き競ひ春行きぬ 「早送り」の春ひたる間もなく

など、上の句にしっかり述語を置いて文章を安定させた上で、下の句で余韻を残す感じにするといいのではないかと思います。

 

17・エンドウの花の向こうに湧きあがる山の緑よ若きみどりよ(鳥澤)

良いですね。場面がしっかり見えてきます。

「山の緑よ若きみどりよ」とリフレインする(繰り返す)ことによって緑への感動が強まっていますね。

また「湧きあがる」という言葉の選択も木々の萌えだす勢いを感じてぴったりだと思います。

直す所は特にありません。

 

18・納骨日お清め終わり子孫らはカラオケ店で歌って騒ぐ(山口)

納骨のあと、お清めも終って一区切りついたと感じたのか、若い孫たちは「せっかく親戚一同集まったんだし」という感じでカラオケに行き楽しげに歌っている。大事な人の納骨を物理的な別れとして寂しさを感じている作者はその様子を複雑な気持ちで見ている、という歌だと思います。

その「複雑な寂しさ」という場面の選択はとても良いと思います。

ただ歌として見ると「カラオケ店歌って騒ぐ」という言葉が強すぎて、通俗的なイメージになってしまい根底にある詩情を壊してしまいます。

また「子孫ら」と書いて「こ、まごら」と句点を入れた読みにするのは無理があり、このままでは「しそん」と読むのが普通です。今回は子孫というよりも年齢や関わり的に作者よりも亡くなった奥様に対して情が薄い「まだ若い世代の親族」という意味で、「子」も混じってはいたのでしょうが「孫たちは」としていいのではないでしょうか。

また短歌では「」という助詞はなるべく使わないようにしましょう。

納骨日お清め終えて孫たちはカラオケ店に明るく歌う

納骨日お清め終えた孫たちはカラオケ店に流行りの歌を

などとしてはどうでしょうか。

 

19・孫たちに三年分の小遣いを渡す老母の手の骨の浮きでる(金澤)

コロナ禍で会えなかった分の小遣いをまとめて孫たちに渡す老母の手に浮き出る骨の質感から、この三年で一層老け込んできたなぁと母を案ずる想いを感じます。

ただ「三年分」というのを、私はコロナで会えなかった三年分と読んだのですが、この先あと何年生きられるか分からないから渡せるうちにまとめて(とりあえず三年分)、と読んだ人もいるようです。

「コロナ禍の分も」などとすれば意味は迷いようがないですが、なんだか説明的すぎますよねぇ。私は「三年分」でいいと思いますがどうでしょう。前後に自粛期間が開けて久々に会ったというような内容の歌があれば尚分かりやすいと思います。

結句が「てのほねのうきでる」と九音もあるので、何とか七音にまとめたいところですね。「手に骨の浮く」「渡す母の手に骨の浮きでる」などとして七音になる言い方を考えてみてください。

 

20・橋歩むマスクを付けず息深く清し空気は五臓六腑へ(名田部)

ようやくマスクを外しての散歩ができるようになり、橋の上で新鮮な空気を楽しむ作者の歌ですね。久々の解放感に喜ぶ様子がよく分かります。

ただ終止形にすべきではない部分が終止形になっているため、文章がぶつぶつ切れてしまっています。

「橋歩む」とすると「橋を歩く」でまず一文、終ったかと思いきや「マスクを付けず」と倒置法で文章が続いています。また「清し」も形容詞の終止形なので「清し。」だけで終ってしまい「空気」にはかかりません。「空気」にかけるなら「清(すが)しき空気」「清々しい空気」「清(きよ)空気」「清き空気」など連体形(名詞に繋げる形)の活用にしなければなりません。

更に「息(を)深く(吸う)」「清々しい空気が五臓六腑へ(入る)」と、実は書いていないものを含めると述語が四つ(歩む・吸う・清し・入る)もある文章なのです。

四つ述語があるということは四つの文章がある、四つの場面があるということです。短歌は短い詩形ですから、述語はできれば一つ、多くても上の句下の句にそれぞれで二つまでに絞りたいところです。

「橋歩む」は「橋の上」とすることで減らせそうです。「清し」も連体形活用にして「空気」へかけることで減らせそうです。

橋の上マスク付けずに深呼吸 清しき空気が五臓六腑へ

これで「深呼吸(する)」と「空気が五臓六腑へ(入ってくる・染み渡る)」という上の句下の句それぞれに一つずつの述語に収まりました。

「空気は」でもいいのですが、ここは強調して「が」でもいい場面ではないかな、と思います。

 

21・大輪の牡丹七つ咲き揃い華やぐ庭に老い人集う(飯島)

大輪の牡丹が七つも咲いた華やかな庭なのに、それを愛でて楽しむのは老人ばかり、という高齢化社会の一面を歌ったものと思われます。

ただ「庭に老い人集う」だと報告のようで、その状況に対する作者の心情があまり見えてこない気がします。

大輪の牡丹の七つ咲き揃い華やぐ庭は老い人ばかり

とすると「老人しかいないよ」という、呆れたような残念なような作者の心情が少し見えてくるのではないでしょうか。

また「牡丹七つ」と続けずに、字余りでも「牡丹七つ」「牡丹七つ」「牡丹七つ」と「咲き揃う」という述語に対する主格であることを示す助詞を入れるべきだと思います。

 

22・さやさやとさ緑さやぐ銀杏樹をオブジェに変へる高所作業車(小幡)

さやさやと緑の葉がさやいでいた銀杏樹をバッサリ枝打ちしてオブジェのように変えてしまった高所作業車。

自然物である銀杏樹が何だか前衛的な作り物のように変えられてしまったことで複雑な気持ちになった作者かと思いますが、「オブジェ」というものが概念的であるために映像に迷いが出てしまいました。

丸とか三角のように具体的に形が決まっているものではなく、「前衛的で躍動感のある立体」や逆に「人工的に整えられた形」などどちらを指すにも使われる言葉なので、枝をバッサリ伐り落とされてゴツゴツした感じになってしまったのか、ビシッと円錐形に成形されたのかどっちなのかなぁ、と迷いました。

作者はリフトを高く伸ばした「高所作業車」を強調したかったようですが、背の高い銀杏樹の伐採をする作業車とくれば高所作業車は自然に思い浮かべられるので「高所」の部分は省き、その分どのようなオブジェに変えられたかをはっきり見せて欲しいところです。

さやさやとさ緑さやぐ銀杏樹をばつさりオブジェに変へる作業車

となると美しく整えられたのではなく、前衛アート的な感じに伐られちゃったのだな、と分かるのではないでしょうか。

 

23・マリリス卒寿の方より戴きぬ株植え水やり美事に咲いて(戸塚)

丁寧に丁寧に、という姿勢は伝わってくるのですが、これも子すずめの歌と同じく、丁寧に見たつもりで丁寧に順序を説明してしまった歌になっています。

またこちらも結句が「咲いて」と連用形+接続助詞という終り方をしていて、しっかり終りの形になっていません。「て」という接続助詞には「咲いて、どうした」というように、必ず「結果」である述語がセットで必要です。

文章を終りにするなら終止形の「咲く」「咲いた」「咲きぬ」「咲きたり」「咲きおり」などにしなければいけません。

また「卒寿の方」というのはどういった関係の人なのでしょうか。「卒寿の友・叔母・姉」など素性が分かるともっとはっきり場面が見えて来る気がします。

また「株を植え、水をやった」という部分は核として必要でしょうか。「見事に咲いた」方が核なら、どう世話をしたかよりも

マリリス卒寿の○○より戴きぬ 真紅の星が見事に咲いた

などというように、どんなふうに(色や形、大きさ、様子など)見事に咲いたかを表現した方がいいと思います。

逆に「丁寧に世話をした」という方が核ならば、「戴いた・世話をした・咲いた」と三つも述語(文章)があることになり、短歌では多すぎるのでどれかは切らなければなりません。「卒寿の方より戴いた」を残すなら、下の句で語れるのはあと一つだけ。「日の当たる場所を選びて植える」「見事に咲けよと水をやりおり」などお世話の場面そのものに焦点を当て、「咲いた」という話は捨ててしまわなければ入りきりません。

若しくは「卒寿の方~」は切ってしまって、「株を植えた→見事に咲いた」「水をやった→見事に咲いた」という構成にしないと短歌と言う短い詩形には収まりません。

まずはどの場面を歌うか絞るところから始めてみてください。

 

24・いつの間に花の色の消え失せて目に飛び込むはみどり、さみどり(畠山)

16番の石井さんの歌にもあるように、色んな花が競うように次々咲いていたと思いきや、いつの間にか花の色は視界から消えて、目に映るのは新緑、鮮やかな緑、若い緑という状況を歌ってみました。

二句が六音しかないので「花々の色」として七音に整えたいと思います。

17番の鳥澤さんの歌(山の緑よ若きみどりよ)の感覚にも通ずる所がありますね。新緑ってこう、繰り返したくなるほどの勢いがありますよね。

今月は新緑と鶯の歌が多かったですね。桜に続き新緑や鶯も詠む人それぞれの捉え方が出ていてとても面白いと思います。

 

☆今月の好評歌は4番、石井さんの

極東の瑞穂の国に飛んでくる黄砂、ミサイル   そよぐ春風

となりました。

「戦ぐ」に変な意味を持たせず「そよぐ」として対比を生むことで「同意」の歌から「共感」の歌に大変身したとても面白い歌だと思います。

狙いすぎない、いかにも狙ったということが見え見えにならない作品を目指しましょう。

by sozaijiten Image Book 3