短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年5月 (その1)

◆歌会報 2023年5月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。今月は第三金曜日が早め(19日)だったので「余裕、余裕」とだらだらしていたら、あっという間に月末になってしまい慌てて書きました。すいません。

 

第132回(2023/05/19) 澪の会詠草(その1)

 

1・「東京は頭いい人いっぱい!!」と有象無象へ男孫は勇む(山本)

「東京は頭がいい人がいっぱいいる」と息を弾ませて東京に通う孫という歌と読めます。

歌のかたちとしてまず「!」などの記号は使わないようにしましょう。

また「男孫(おまご)」という言い方もこの歌にはあまり合っているとは思えません。現代仮名遣いでセリフが入るなど全体的に新しい雰囲気の口語短歌といった感じですから、ここは普通に「孫」でいいと思います。

また「孫」というと想像する年齢層は広く、この歌でいうとこの春から東京に通うことになったお孫さんかな、と想像し、そこから都内の学校に通うことになった高校生か大学生なのでは、と読み取る人が多いのではないかと思います。今春から都内の学校に通うことになった孫がウキウキと「東京ってスゴイね」と言っている場面を想像するのではないでしょうか。

ただ作者に聞いてみたところ、東京の会社に勤める社会人のお孫さんだそうで、そのお孫さんが自分も(頭のいい)東京人の一員であると言わんばかりにやや驕った感じで言ったという事でした。

しかし、この歌からはそうは読み取れません。このままではどちらかというと若い孫がウキウキ希望溢れる印象なので、「孫」の素性を明らかにしたり、もっと驕った感じに孫のセリフを変えたり、孫の様子を描写したりするなどの工夫をしないと伝えられないと思います。

東京は賢い人が集まると艶めくスーツに出社する孫

東京は賢い人が集まるとパソコン小脇に孫は出社す

などとすると少し状況が近付くのではないかな、と思います。

 

2・あこがれは大谷翔平あなたです今ひもとくはナポレオンの辞書(小夜)

「今日だけは憧れるのをやめましょう」と言って対抗するアメリカ選手を持ち上げつつも日本選手を鼓舞するという、ワールドカップ決勝前の大谷選手の素晴らしいスピーチを聴いての歌だと思います。

憧れるのをやめましょうというあなたこそに憧れるという捉え方は良いと思うのですが、「いやぁ、これは歴史に残る名言だ!」という気持ちを「今ひもとくはナポレオンの辞書」と表現するのは適切なのでしょうか。

名言として長く伝えられるセリフとして、ナポレオンが言ったとされる「私の辞書に不可能はない」という言葉を持ち出してきたのだと思いますが、実際に「不可能」の項目をなくした「ナポレオンの辞書」などというものがあるわけもなく、「ひもとく」という具体的な行動と結びつけるのは問題だと思います。

そもそも「いやぁこれは名言だ」という「感想」を言ってしまっていいのでしょうか。

「今日だけは憧れるのをやめよう」と言う貴方こそ私のあこがれ

とかで作者の気持ちは十分伝わるのではないでしょうか。

実際、大谷選手のこの言葉は「名言」として残りうるものだと思うので、「大谷」の名を出さずともセリフの方をちゃんと省かずに書けば「あ、あの大谷選手の言葉だな」と分かると思います。

 

3・やっとこさ足を踏ん張る登り坂で鶯の声が小休みしてよ(栗田)

やっとこさ足を踏ん張りながら登って来た坂道に鶯の透き通った声がして、それが「ちょっと一休みしていきなさいよ」というように聴こえてふっと息をつく作者が見えますね。

場面はとても良いし、「やっとこさ」という言葉が、変な飾り気なしにごく自然に心の内からこぼれ出たという感じでとても効いていると思います。

ただ助詞の「で」は非常に口語的な濁音で歌の雰囲気を一気に通俗的にしてしまうため、短歌ではなるべく使わずに「に」に変えましょう。

」は大げさに言うと「ナントカでぇ~、そしたらそれがナントカでぇ~」というような、やや下卑た若者の会話の雰囲気、もしくは「~~あるからして」というように強く理由を述べる硬い雰囲気を持つ言葉です。会話では親近感、論文であれば強さに繋がりますが、歌にはあまり合いませんね。歌の中で使うとしたらセリフとして現場の雰囲気を出したい時くらいですね。

「やっとこさ足を踏ん張る登り坂に鶯の声 」として、一字空けることで「声がした・声が聴こえてきた」という述語を暗黙の了解として入れて一旦文章を切ってしまってはどうでしょうか。今回は、坂「に」という対象を示す助詞と「声(が)」という主格がハッキリしているため、意味的に迷う心配がなく、暗黙の了解として省いても大丈夫なパターンでしょう。

また結句の「小休み(こやすみ)してよ」という言い方ですが、「小休み」より「一休み」の方が自然ではないでしょうか。

結句なのでちゃんと七音にしよう、という意志で選んだ言葉なのかな、とは思いますが、声の後に一字空白を置くことで「一休みして」「一息ついて」など、「よ」という呼びかけをなくしても鶯の声がそう聴こえたんだなと読めますし、声のあとの一字空けをなくし“ちょっと休もう”「休んでいこうよ」など口語的なセリフを「」や“”で括るなどしてもいけると思います。

 

4・極東の瑞穂の国に飛んでくる黄砂、ミサイル   戦ぐ春風(石井)

極東の瑞穂の国(日本)に黄砂やミサイルなど歓迎しない迷惑なものが飛来してくる。まではよく分かりますし、「不穏」だとか「迷惑」だとか言ってしまわずに具体的なもので読者に不穏感を感じさせ、とても良いと思います。

ただ結句の「そよぐ」という言葉を「戦ぐ」という漢字で表記したことで読者の受け取り方が大きく変わってしまい、歌としての格を大きく変えてしまう問題歌でもあると思います。

「戦」という漢字に「戦争の空気」という意味を持たせ、「黄砂・ミサイル・戦争」という全て不穏で迷惑なものの羅列としてしまうと、一気に「あぁ、ほんとそうですね。迷惑ですよね。」という「同意」で終ってしまい、心に残るざわめきとはなり得ません。

けれど黄砂やミサイルという不穏で迷惑なものを提示したあとに場面をふっと作者の目線に持ってきて、そよそよと(一見平和に)「そよぐ春風」とすると、今まだこうして見えている自分の周りの空気は平和なのに、その実近付いてきている愚かな人間たちの象徴(黄砂=環境破壊・ミサイル=戦争)という対比が生まれ、読者の心を揺さぶり、読者の心の中にもやもやとした何とも言えない感情を湧かせます。その「もやもやとした何とも言えない」感情こそが大事で、それこそが「共感」なのです。「同意」と「共感」は別物です。

「戦ぐ」を漢字にして「戦争」の意味を持たせると「同意」に。「そよぐ」として春風の吹く様子の具体的な描写として扱うと「共感」になる歌で、歌としては心を揺さぶる「共感」の方が断然格上なわけです。

A・何一つ先行き見えぬ一年に梅巡り咲き戦は続く(飯島)

B・戦争は一年かけずにヒタヒタと世界の暮らしを脅かしくる(飯島)

先々月の飯島さんの歌(A)が「共感」で先月の歌(B)が「同意」にあたる良い例だと思うのですが、どうでしょうか。同じようなことを歌っているのですが、全然違いますよね。

ここは「そよぐ」とひらがなにして「共感」の歌として欲しいと思います。

 

5・藤棚の花房ゆれる園庭の大きな空へこいのぼり行く(鳥澤)

「行く」という述語が適切かどうか。その他の部分は迷うことなく描ける良い描写だと思います。五月らしい爽やかな歌ですね。

「行く」というと全体が移動するイメージがありますよね。現実的には鯉のぼりは棒や紐で場所を固定されているもので、全体が移動する「行く」という表現は似合わないような気がします。それを「泳ぐ・はためく・のぼる・ゆれる・たなびく」などではなく「行く」と選ぶ意味があるのか、またそれが適切かと考えてみました。

まず「行く」とすることで結句が七音になる、というのがありますね。これは歌に於ける言葉の選択としては大きな意味を持つと思います。

そして「大きな空へ」という対象。ただの「園庭の空」だったら「行く」だとちょっとしっくりこないのは、「行く」ほどの世界の奥行きが感じられないからではないでしょうか。けれど「大きな空へ」と言われると見える景色がぐんと広がり、元気な子供の象徴である鯉のぼりが「未来」をイメージさせる大きな空へ「行く」としてもいいのではないか、という意見に収まりました。

 

6・卵ご飯一個のタマゴ半分づつ  つつましくも幸せ朝げ(山口)

一個のたまごを半分ずつ、という具体的な描写がとても良いですね。

ただ時系列はハッキリさせた方がいいと思います。時系列をはっきりさせて過去のことを歌っているのだな、と分からせることで、亡くなった奥様とのつつましくも幸せな時間を切ない気持ちで懐かしむ作者に読者を引き付けることができるのです。

また料理に於ける「卵」を指す漢字として「玉子」という表記があるので、「玉子ご飯」「一個の卵」と書き分けてみてはどうでしょうか。

玉子ご飯一個の卵を半分ずつ つつましき幸(さち)(あした)にありき

などとすると「あり」という遠い過去を示す助動詞「き」により歌の場面の時間が遠い昔のこと、とはっきりしますね。

まだ金銭的には余裕がないけれど仲の良い新婚時代の夫婦像が見えてくる気がします。

 

7・ゆらゆらと空気のゆがむ昼下りに遠くの遊ぶ子らの歓声(金澤)

上の句の描写が良いですね。陽炎が揺らめく汗ばむ陽気の空気感がよく出ていると思います。

ただ上の句は「昼下り」として場面を確定させた上で切ってしまい、

下の句にしっかりとした述語を入れた方がいいと思います。

このままの形だと「昼下りに歓声がする(聞こえる)」という述語を暗黙の了解として省略していることになります。

「歓声」というからには「わー」とか「きゃー」とか楽しそうな声が思い浮かぶわけで、「遊ぶ」という言葉と被り、「遊ぶ」はなくても声のイメージは変わらないと思います。

そこで「遊ぶ」という言葉の代わりに「響く・聞こえる」などのしっかりした述語を入れると文章としてしっかり落ち着くと思います。

ゆらゆらと空気のゆがむ昼下り 遠く響く子らの歓声

とすると「歓声」という主語と「響く」という述語がはっきりし、文章として落ち着くのではないでしょうか。四句と結句は入れ替えられますので、主語(歓声)を強調するか、述語(響く)を強調するかも考えてみて下さい。

 

8・三輪の花を残して桜木の青葉若葉はざわざわ鳴りぬ(名田部)

「三輪の花を残して」という具体がいいですね。三輪だけ残っているということから、完全に花が終ったあとの葉桜真っ盛りの時期ではなく、正に花が終ろうとする刹那の時間だということを読者も捉えることができます。

その「三輪の花」を活かしたいので、「青葉若葉」という主格の助詞を更に抑えて「青葉若葉」としてしまってもいいかもしれません。

また「鳴りぬ(鳴った・鳴っている)」と言い切っていますが「ざわざわ鳴るよ」などとして葉擦れのざわめきを今現在感じている作者という感じにすると更に詩情が出て来るような気がします。

また「青葉若葉」でもいいのですが、「青葉若葉」というとやや俳句的な季語としての知識を踏まえた出来合いの表現という気もしなくもありません。

「三輪の花」と同じように丁寧に作者の目で葉を見て、「青き若葉」「若き青葉」としてもいいんじゃないかなぁ、と思いました。

 

9・新緑に囲まれた馬場速足の練習姿に初夏が透け(飯島)

「新緑に囲まれた馬場」という場面が良いですね。そこで速歩馬術用語で「速歩」と書いて「はやあし」と読みます。速ではありません)の練習をする姿の中に近づいて来る夏の気配を感じたようです。

ただ「馬場」という名詞でぶっつり切ってしまってはいけません。字余りでも助詞が必要な場面です。

また結句は「透け」では落ち着きません。「初夏が透ける」と言いたいなら、「初夏(はつなつ)が透く」「初夏(はつなつ)透ける」もしくは「初夏(しょか)が透けたり・透けおり」など終止形にしないと納まりが良くありません。

「透け」は連用形の活用形で、連用形の後には用言(ざっくり言えば名詞以外のもの)が続かなければ不自然なので気を付けましょう。

そもそも、夏の気配を感じたということをそのまま言ってしまっていいのかどうか。

速歩をする馬や騎手の描写だけで初夏の気配を描写したいところですね。

初夏の気配……きらめくような空気感でしょうか。

新緑に囲まれた馬場へ速歩の栗毛の腿のつやつや眩し

新緑に囲まれた馬場へ速歩の鬣(たてがみ)さらさら煌めき揺るる

など作者の「見た情報」だけで作って欲しいかな、と思います。「新緑」と言っているので、煌めき感や明るさが表現できればうっすら近付く初夏の気配を読者も感じることが出来るはずです。

 

10・瑠璃色の虫を食みしかこの朝(あした)こゑきららかに鶯の鳴く(小幡)

いやぁ上手い歌ですね。素敵です。きららかに高く澄んだ鶯の声を「瑠璃色の虫を食べたからこんな綺麗な声が出るんじゃないだろうか」と考える想像力も素敵ですし、直接「美しい」などと言わないのに読者皆に美しい鶯の声を想像させる表現力も素敵で、何一つ文句はありません。

先月の好評歌が小幡さんの作品だったため今月は好評歌候補から外れましたが、確実に一二を争う好評歌でした。

 

11・小すずめは群から外れ親探す手に取り水やり放して飛んで(戸塚)

丁寧な観察をしたつもりが、丁寧な説明になってしまった感じがあります。

作歌に於ける「丁寧に見る」というのは「長い時間を順繰りに見ていく」ことではなく、切り取った一瞬の中からなるべく多くの情報を言葉にして挙げ、そこから余計なものを切り捨てていく作業のことを言います。

場面の時間自体はなるべく「一瞬」、瞬間を切り取るよう心がけてみて下さい。

この歌の場合、上の句は子(子供のすずめという意味なのでこちらの)すずめが主役なのに対し、下の句で一転作者が主役になっているところも問題です。

また「手に取った」「水をやった」「放した」「飛んで行った」と核になりうる動詞が並び、「これこれこういうことがありました」と報告書を見せられたような感じになってしまいます。

まずは歌として取り上げる場面を絞ってみましょう。

例えば「手に取った」という場面に絞ってみて、その場面に於ける様々な情報を考えてみましょう。重さ、温かさ、柔らかさなどの感触、ふるふると震える、くったりと力なくうなだれる、必死に逃げようと抗うなど、すずめの様子、そういった切り取った場面の中の細かい情報を見つめ直してみる、これが「丁寧に見る」です。そうすると

ぽつねんと群からはぐれた子すずめの微かな温もり掌へ置く

とか、読者が作者の位置に立って疑似体験できる舞台セットを用意できるのではないかと思います。

「水をやった」場面を核にするなら、水をやったすずめがどのような反応をしたのか。「飛んで行った」という部分を核にしたいなら、「手に取って、水やって、放ったら」はひとまとめにして「水をあげれば・世話してやれば・介護をすれば」などにして、その分どんな様子で飛び立っていったのかなどを見つめ直してみてください。

また9番の歌に続きこの歌も結句が「飛んで(飛びての口語)」と連用形活用で切れています。「飛ぶ・飛びぬ・飛びたり・飛びおり・飛んだ」など結句には終止形を置きましょう。

このように「結句が座っていない」歌を結構見かけるので、近いうちに結句について少し書こうかなと思っています。

 

12・ホキョホキョと短く鳴ける鶯の五月の肺は小(ち)さくあるかも(畠山)

この春に生まれたばかりなのか、「ホーーーーーゥホケキョッ」としっかり鳴けず「ホキョホキョ、ホキョホキョ」と鳴き方を練習しているような鶯の声が聴こえてきました。

今年の春に生まれたばかりの鶯の肺は、五月ではまだきっと小さいんじゃないかな、小っちゃな肺で一生懸命鳴いているのかな、という思いを詠んでみたのですが、「小さくあるかも」という表現に引っかかる人もいました。

「まだ小さきかも」の方がするっと読めると言うのですが、確かに「まだ」なのですが「まだ」と言うと理屈っぽくなってしまう気がして、言ってしまいたくないのですよね。

うーん、「五月の」が分かりにくいのかもしれませんね。若い、と言いたいのですが音数が合わないので「幼き肺は」とかならどうでしょうか。

by photoAC 理科実験室 道