短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年3月 (その2)

◆歌会報 2023年3月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第130回(2023/03/17) 澪の会詠草(その2)

 

14・「アマゾン」って知ってるゥ若者に七十九歳負けていられぬ(山本)

「アマゾンって知ってるゥ?」と言う若者のセリフに「熱帯雨林のことじゃないよ。年寄りは情報に疎いから知らないんじゃない?」というような挑発を感じたのでしょうか。

「知ってるわよ。スマホだって使えるわよ。七十九歳だけどまだまだしっかり情報取り込んでるわよ」という強気な作者の一面が伺えますね。

ただ「アマゾンって知ってるゥ」までがセリフなので「」で括るならここまでを括って欲しいです。固有名詞としてアマゾンを括るなら、更に『』(二重括弧)として括る必要がありますが、知名度の高くない固有名詞や本の題名などならともかくアマゾンはもう大丈夫ではないかな、という気もします。

ただ(現代短歌としてならありかもしれませんが)短歌としてはかなり挑戦的なかたちではあります。短歌的に歌うなら

「アマゾン」を知っているかと若者よ七十九歳負けてはおれぬ

などとしておいた方が自然で穏やかではあります。この場合セリフではなく、固有名詞としてのアマゾン(通販サイトとしての)としての扱いなので「アマゾン」のみを括ります。

ただ私はこの歌に関してはセリフとして「」で括ってしまえば若者らしい語尾を上げた口調がありありと浮かんで面白いのではないかな、と思いました。全部が全部このノリだとさすがに困るのですが(笑)。

また「若者」の素性が分かると更に解像度が上がるかもしれません。

「アマゾンって知ってるゥ」と問う孫に負けてはおれぬ七十九歳

などとするとちょっと生意気そうなお孫さんと負けていない前向きでタフな七十九歳のやりとりがもっとくっきり見えてくる気がします。

 

15・御苦労様 高齢なるか職人さん厳寒にお茶一服差し出す(戸塚)

2番の歌の作者なので、この職人さんはブロック塀を処理しに来た職人さんなのかもしれませんね。

高齢化社会で力仕事の職人さんにしても見るからに高齢で大変そうだなという人が増えて来ました。そんな現代社会の一角を歌ったもので捉えた場面はとても良いと思います。

ただ「高齢なるか職人さん」という言い方はどうでしょうか。実際の年齢はどうか分かりませんが、作者から見ては確実に高齢で「高齢なのにこんな寒い日にお仕事に来ていただいてお疲れ様です」と思っているのですから「高齢だろうか」と疑問にせずに「高齢の職人さん」と言い切ってしまっていいのではないでしょうか。

また「玄関お茶出す」なら分かりますが「厳寒にお茶差し出す」とはちょっと言わないと思います。

寒い中ご苦労様と高齢の職人さんにお茶を差し出す

寒い中ご苦労様と高齢の職人さんへお茶の一服

と、寒い日だということはセリフの中に入れてしまってはどうでしょうか。

 

16・そぼ降りて静かさ誘う雨音にメール打つ手は手紙したたむ(小夜)

静かに雨が降る中、(普段ならメールで済ませてしまうのだけれど)メールを打つのをやめて手紙をしたためることにした。

雨の音を聴きながらメールではなくわざわざ手書きで手紙を書き、静かな時間をゆったりと大切に過ごしているという場面はとても情感があって良いと思います。

ですが、メールを打つのをやめて・メールではなく、手紙を書くことにしたという意味の言葉を削ってしまうと意味が通りません。「メール打つ手は手紙したたむ」ではメールを打っているその手で手紙もしたためることになりますから、ゆったりどころかとんでもなく忙しい感じになってしまいます。

またメールをやめて敢えて手紙を書くことにしたということが核なので場面の説明である上の句の「雨」にはあまり意思を持たせない方がいいでしょう。「そぼ降る」「誘う」など動詞にはどうしても意思が入ってしまうため、動詞の多用は危険です。

そぼそぼと静かに降るる雨音にメールをやめて手紙したたむ

とすると「雨」の持つ動詞は「降る」だけになり、核である下の句を邪魔することなく控え目になります。

 

17・春闌(た)けて一杯一杯また一杯李白にならい今宵また酌む(緒方)

唐の詩人・李白といえば酒好きで有名ですね。酒を詠んだ李白漢詩で一番有名なのは「月下独酌」かな、と思いますがこの「一杯一杯復一杯」というリズムが心地良い一節を含む七言絶句「山中與幽人對酌(山中幽人と對酌す)」もまた有名ですね。内容は酒呑みのおっさんのかなり我儘な戯言という感じですけど(笑)。

知識人の作者はそんな李白漢詩をヒョイと持ってきて、それを言い訳にしつつ春の晩酌を楽しんでいるようです。

またまた読者に知識を求めすぎている部分もありますが、ここでは李白漢詩そのものを知らなくても「李白(という名前くらいはなんとなく聞いたことがある昔の中国の詩人)が詠んだ詩に『一杯一杯また一杯』という一節があるんだな」ということは分かるので今回は良いのではないでしょうか。

「春闌けて」がやや一般的な言い回しですが、初句ですし、五音しかないし、「春が盛りである」ことにぐっと迫れる言葉を探すのはなかなか難しいですね。それこそ李白にならい、春の月の状態(作者にはどう見えたか)などを初句に入れ、「今宵」の部分を「春に・春は」としてみるとついつい酌む手が止まらない「春の盛りの夜」がぐっと鮮やかになるかもしれません。

 

18・「いいものを採った」と夫の笑みの中 袋開ければ蕗の薹の香(鳥澤)

「いいものを採ってきたんだ」とちょっと得意げでホクホク顔のご主人が浮かびます。可愛らしいですね。そしてなになに?と袋を開けてみると蕗の薹(ふきのとう)のほろ苦いような独特の香が広がる。夫婦の微笑ましいやり取りと春を感じる良い歌ですね。

「笑みの中 袋開ければ」の部分が少しぎごちない気がします。「笑みの中袋」と続いてしまうと「中袋?」と読まれてしまうかもしれない、ということで一字空けたのではないでしょうか。そこがぎごちないということは作者もちゃんと気付いているんですよね。惜しい!(笑)

「いいものを採った」と夫の笑顔あり、とか夫の笑いたり、として一旦切ってしまってはどうでしょうか。一旦終止形で切ってしまえば空白(一字空け)は必要ありません。

「夫の笑いつつ」という意見もありましたが、袋を開けてみせたのが夫なら「夫の笑いつつ」でいいかもしれませんが、私は夫が笑顔で差し出してきた袋を作者が開けたのではないかと思ったので「夫の笑いつつ」では違和感があります。

 

19・亡き母の巻き寿司真似て作れども干し椎茸の味よ及ばず(川井)

亡き母の巻き寿司を真似て作ってみたけれども、干し椎茸の味だけはどうしても母のものに及ばない。

母の料理の中でも「干し椎茸」という具体がいいですね。

「作れども」。私も作ってみたけれど、と言いたい気持ちはよく分かります。私も多分言ってしまう(笑)。けれどこれを言ってしまうととたんに理屈っぽくなってしまうんですよね。

「作ったんだけど及ばない」と言いたい気持ちをぐっと抑えて「作りたり」「作る今日」とトンと突き放すことで理屈っぽさを消しましょう。いやでもこれ、私もきっと「作れども」とか「作れるも」って言っちゃいますけどね、ほんと(笑)。これを突き放せるようになるにはあと何年かかるんだろう。

また「どうにも及ばぬ椎茸の味」などという使い方なら詠嘆の「よ」の意味が分かりますが(それでも八音になってしまうので不要かと)、「味よ及ばず」とは言いませんね。「味は及ばず・味の及ばず」ではないでしょうか。

 

20・かわいいね かってみたいな1100円ホルスタインの牡って硬そう(石井)

アメリカ様に揉み手でゴマをすり、円安なのにアメリカからの輸入量は減らさず、自国の食料自給率を支える酪農家に「牛乳を捨てろ、乳牛を殺せ」と辛い判断を押し付ける自民党政権。円安のせいで飼料や飼育環境を保つエネルギー代がハネ上がり「飼うだけ赤字」になってしまう現状。

そんな中、元々破格の「(乳を出さない)ホルスタイン(乳牛)のオス」は何とたったの千百円しか値が付かないという。最早ハムスター並み。まぁ飼うとなったらそれこそ餌代とか大変でしょうし、食べるにしても素人が解体とか難しいしやりたくないと思いますが。

そんな「千百円」と値付けられたホルスタインのオスを見てかわいいね、そんな値段ならちょっと飼ってみたいね、などと思う作者。しかし「かわいいね」と言いつつ「硬そう」と肉として食べることも同時に浮かぶ人間の牛に対する残酷さも何ともいえずシュール。

内容は現代的な皮肉交じりの社会詠で面白いですね。

さて「かわいいね飼ってみたいな」として一字空けの乱用は避けましょう。空白(一字空け)は使うにしても一首の中で一回です。どうしても一息入れたい時や場面を大きく変えたい時に入れましょう。また短歌は基本的には縦書きであることを意識してなるべく漢数字を使いましょう。

かわいいね飼ってみたいな千百円(ここで一字空け) ホルスタインの牡って硬そう

上の句までは笑顔が思い浮かびますが、空白後の下の句では一転、無表情で冷たい作者の顔が思い浮かびませんか?

 

21・二月尽青菜を摘めば青虫の子が顔出してまだまだ寒い(栗田)

二月の末、青菜を摘んでいたら小っちゃい青虫が顔を出してまだまだ寒いよと言っているように見えた作者。

青菜と青虫で「青」が被ってしまうので「青菜」の方を「菜花・レタス・小松菜」など何か具体的なものにしてしまった方がいいかもしれませんね。実際は違うかもしれませんが「菜花」などは(二月末ではまだちょっと早いかなという気もしますが)春めいていて映えるアイテムになりそうです。

また「青虫の子」…孵化したばかりの青虫、まだ小っちゃい青虫のことを言っているということは分かりますが「青虫」自体に蝶や蛾などの「幼体・子供・赤ちゃん」という意味が含まれているため意味の重複が少し気になってしまいます。

「小さき(小さきと書いてちさきと読ませる)」や「細き」として青虫の見た目の情報にしてしまってはどうでしょうか。

二月尽菜花を摘めば青虫の小さきが顔出しまだまだ寒い

二月尽小松菜摘めば青虫の細きが顔出しまだまだ寒い

こんな感じでどうでしょうか。

 

22・春めきて阿夫利嶺連山ゆったりと輪郭線の柔らかく見ゆ(飯島)

大山阿夫利嶺と連なる丹沢山系の景色を見慣れている人ならみんな「あぁ、わかるぅ~」となる歌ではないでしょうか。

山の形は変わらないはずなのに春の光の中に立つ山々は確かに「柔らかく」見えるんですよね。それを見ると「あぁ、春だ~」と肩の力が抜けてほっとするような、ちょっと嬉しくて前向きになるような気持ちになります。

文法も自然で無理がなく、捉えた場面も春の山々の稜線と絞られていて、「ゆったりと柔らかく見える」という描写も素直で分かりやすく、作者による決めつけの感想もない。とても良い歌だと思います。今月は二首とも素敵な歌でした。

この作者はよく「私は何年やっても全然上手く詠めない」なんておっしゃるんですけど、そんなことはありません。こうやってちゃんと素敵な歌が詠めるんです。もしかすると歌会で色々言われてしまう時の歌って「もっと奥深いことを歌わないと」とか「巧い表現を見つけないと」とか考えすぎて作った歌なのではないでしょうか。詠む力はあるんです。そういったことは考えずに、今回のような感覚でどんどん作ってみてくださいね。

 

23・またひとつ繋がり消える古里の砂浜に足ムニムニ埋める(金澤)

上京、結婚などで少しずつ消えてきた古里との繋がり。今回は実家の整理がついたのでしょうか。「またひとつ繋がり消える古里」というのが切ないですね。そこで切ない、寂しいと簡単な言葉で片付けてしまわずに「砂浜に足をムニムニ埋める」という行動を持ってきているので、読者も海辺の細かい砂の中に足を埋める感覚を再現しつつ、古里であったであろう懐かしい思い出を想像し、それらが離れていく切ない感覚を共有できます。

「ムニムニ」という感触の表現が独特で作者らしいですね。

ただ私は一字字余りでも「足ムニムニ埋める」の方が読みやすいのですがどうでしょう。この「を」は略しても分かる「を」なので音数を優先するか読みやすさを優先するかではありますが。

 

24・白椿無数の蕾付けておるいざ、花片を開かすとせん(名田部)

もっと素直に、普段使うような言葉使いで作ってみましょう。

「付けておる」って言いますか?普通は「付けている」ですよね。

「いざ、~~せん」とか言いますか?戦時中なら「いざ、出撃せん!」とか言ったかもしれませんが日常会話ではまず言いませんよね。

なんかカッコイイ感じにしよう、とか短歌っぽく(和歌っぽく?)古めかしい感じにしようとか思わないで、普段人に説明する時のような言葉で作ってみてください。

この歌の状況を普通の作文で書いてみると、「白椿が無数の蕾を付けている。さあ花びらを開こうとして。」となるのではないでしょうか。(「さあ花びらを」は「いま花びらを」でもいいかもしれません。)

まずはこの「普通の作文」をして、そこから句読点を抜いたり、音数の調整をしたりして歌のかたちに合わせていきましょう。

白椿無数の蕾を付けており今花びらを開こうとして

白椿が無数の蕾をつけている さあ花びらを開こうとして

後者は初句も二句も字余りにはなりますが、きちんと助詞が入っていてそれ程字余りの違和感もなく自然に読めると思います。全体の印象としては後者の方がやや柔らかですね。

私だったら「ふっくらと今にも開かんばかりかな白き椿のつぼみの数多」とか今にも開きそうな蕾の状態を入れたいかな~と思います。

 

25・助詞のなき二語になりたつ二歳児のお喋り鉄砲打ちやまぬなり(小幡)

「助詞のなき二語になりたつ二歳児のお喋り」という的確な表現がいいですね。思い浮かべるものに迷いが生じません。

次々に発せられる言葉を「お喋り鉄砲」とするのも巧いと思います。ただ次々に飛び出す言葉を「鉄砲」と喩えた直後に「打つ」という「鉄砲」のイメージを強調する言葉を持ってくると「この喩え、バッチリでしょう!?」というようなちょっとしたクドさを感じなくもありません。

ポンポン発せられる言葉を「おしゃべり鉄砲」としたことで十分巧みさを感じるので、ここは敢えて技巧を凝らした感を減らし、「お喋り鉄砲朝からつづく」など鉄砲(比喩)を強調しない言葉を持って来た方がいいのではという意見がありました。

 

26・練習の「仰げば尊し」聴こえくる校舎を抜けて今日から弥生(畠山)

すっかり春めいてきたぽかぽか陽気の昼間に出かけたところ、通りがかった近くの小学校から卒業式の練習であろう「仰げば尊し」を歌う声が聴こえてきて、「もう卒業式の時期か。そういえば今日から三月か!」と気が付きました。

二月は短いので「あれ、もう?」という気がしませんか。

 

☆今月の好評歌は9番、飯島さんの

何一つ先行き見えぬ一年に梅巡り咲き戦は続く

となりました。

不安感を増すばかりの世界情勢と清廉な梅の開花の対比、梅が巡り咲くことによって悲惨な戦争が始まってから一年が経過したことの示唆などこの一首から複雑な感情が渦巻きますね。

 

by sozaijiten Image Book 10