短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年4月 (その2)

◆歌会報 2023年4月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第131回(2023/04/21) 澪の会詠草(その2)

 

13・(パパ)なんか忘れてしまえ青い空水上ジェット若き男と(山本)

なかなかに冒険的な表現の歌ですね。今までの澪の会ではあまり出てこなかった作風で(短歌的)問題を含みつつも新しい刺激です。

さて、連作でこの作者の歌を見れば分かるのですがこの「夫」とは「亡夫」のことです。つまり作者はご主人を亡くしてとても傷心しているのですが、いつまでもうじうじしてちゃダメだ!と自らを奮い立たせているのです。

そこで「夫なんか忘れてしまえ」とわざと強がって言っているのですが、逆に返せばそれだけ全く吹っ切れていないということ。

もし作者が、ご主人が亡くなったのを「身軽になったワ」と捉えて若い男に乗り換えるようなタイプだったら、「忘れてしまえ」なんて歌わずに新しい男との楽しい日々を歌にすることでしょう。青い空、水上ジェット、若い男とこれでもかというくらい開放的なアイテムが揃っているのに、忘れることができない亡夫のことを思う一途な作者なのです。

さて、作者の心情も分かるし、なかなか挑戦的な表現でもあり面白いのですが、まずやはりこの一首だけで分かる歌にするならば「亡夫」と書いて「つま」と読ませた方がいいかなと思います。そこが分からないと単なる浮気の歌に見えてしまいかねません。また「パパ」とルビを振るのも問題です。作者がそう呼んでいたからということなのでしょうが、やはり短歌は日記ではなく文学作品です。会話としてそう呼ぶのが活きる場面でなら「」で括ってセリフとして使ってもいいかもしれませんが、それが上手くいくのはごく稀です。一般的には無理なルビは子供にキラキラネームを付けるようなもので、付けた本人は気分がいいかもしれませんが周りから見ると少し微妙な空気になってしまうあの感じです。

まだ短歌を始めたばかりの作者なので「夫(男性)」のことを「つま」と読むことに違和感があるかもしれませんが、短歌ではかなり頻発する読み方なのですぐに慣れると思います。やはり三音の「おっと」より二音の「つま」の方が断然使い勝手が良いのですよね。たった一音の違いなんですけど。読む側としても前後の音数から数えてどちらで読むべきなのか、他の人の作品に出てきたら都度考えてみましょう。

さて続く「青い空」「水上ジェット」。ここは少し問題ですね。助詞や接続詞がなく単語だけが並んでしまうとカタコトの日本語でぎごちない感じになってしまいます。旅行会社のパンフレットにならいいかもしれませんが、あまり短歌的とは言えません。

実はこの「青い空」は沖縄だそうで、少しでも明るい気分になろうと沖縄へ傷心旅行に行き、そこで挑戦した水上ジェット体験(若い男とはインストラクターのこと)を詠んだものだと言うのです。

沖縄!それ出しましょうよ。その情報で一気に場面がはっきり見えてきますよ。私は湘南辺りの手近な海の夏の空を思い描いていましたが、三句が沖縄になっただけで一気に南国の明るい空の色とエメラルドグリーンの海になり場面全体が明るくなりましたよ!

亡夫(つま)なんか忘れてしまえ 沖縄に水上ジェットは若き男と

こんな感じでどうでしょうか。それにしてもこの作者、色んなことに挑戦する姿勢や考え方が若々しくてびっくりします。多分、実年齢以外(メンタルも健康も)娘世代であるはずの私より若い(笑)。

 

14・敦盛の平家琵琶聞く日本語の話(わ)の美しさ透きとおりゆく(小夜)

敦盛(あつもり)の平家琵琶を聴いた作者(意図的に聞いているのでこちらの「聴く」で)。日本語の話(はなし)の美しさが透きとおるようだったと言うのですが、「平家琵琶聴く」と言われたらまず「琵琶の音」の方をイメージしませんか。

そして琵琶の音というと透きとおるというよりは重々しいとかベベンと空気が震えるような強い音をイメージしてしまいます。

敦盛の平家琵琶聴く日本語の語り美しく重々(おもおも)響く

などならしっくりきます。

ただ作者は「日本語の話の美しさ」と言っているので琵琶の音でなく語り(歌)の音について言っているのかもしれません。ただ琵琶語りの「語り」の方に注目するならば、琵琶ではなく語りの方の音(声)なんだ、ということをもっと前に出さないとわかりにくいかな、と思います。

また「話」を単独で「わ」と音読みに読ませるのも無理があります。「寓話・挿話・第一話・話術」など熟語として使う時に音読みになるもので、漢字一文字の時は「はなし」と読まなければ不自然です。また「話」とすると内容の方を指しがちで、音の部分を指すなら「語り・声・歌・響き」などになるのではないでしょうか。

敦盛を平家琵琶に語る声なめらかに伸び透きとおりゆく

などと「声」であることに限定すれば透きとおりゆくでも違和感なく読めるのではと思います。

 

15・どれほどの死闘か朝の舗装路に尖れる羽根のしろく散らばふ(小幡)

カラスや野良猫などが小さな鳥を狙ったのでしょうか。夜にあったであろう死闘の名残を見つけた作者。生きることは厳しいですね。

このままでも十分意味は分かるし、場面も思い描けますが、この作者はとても力のある方なのでいつも「更に上」を期待されてしまいます。

今回は「どれほどの死闘か」と言ってしまわずに「どれほどの死闘があったんだろうか」と読者自身に思わせるだけの描写を求められていました。難問!

早朝の舗装道路一面に、とかでしょうか。こんなところまで!とか(通常は落ちない)羽毛のこんな部分まで!とかいう描写があると「どれほど凄まじい争いがあったんだろう」と思わずにはいられないかもしれませんね。

 

16・さんさんと朝の光は川に映え波に砕けて散らし流るる(名田部)

対象を丁寧にしっかり見ようという心意気は伝わってきます。その姿勢はとても良いです。

ただ、丁寧にというのは「長い時間かけて」見るということではありません。長い時間をかけて見てしまうとそれだけ視点がブレてしまいます。長い時間をかけて全体を見るのではなく、一枚の写真(静止画)の中に主役をひとつ決めて、それを表現する言葉を沢山探してみてください。

今回のように「朝の光」を主役と決めたら、光の明るさ、光り方、範囲、見え方など主役に対する情報を色々挙げてみましょう。ひとつの対象の色々な情報を探す、それが「丁寧に見る」ということです。

「さんさんと朝の光は」と主役を決め、それを早い段階でぽんと持って来たのはとても良いですね。ただ「川に映え」の「映え」は概念的なので避けたい言葉です。ここは「川の面(も)に」としてカメラ(視点)のピントを川の表面に寄せましょう。そうすると「波砕けて」では「に」が被ってしまいますから、「波砕けて」として調整しましょう。

そして結句ですが、「散し」と言うと主語が他のものを「散らす」という意味になります。今回で言うと朝の光が何か他のもの(波?)を散らして流れるという意味になってしまいますが、違いますよね。朝の光自体が散るんですよね。その場合は「散る」を使うか、形容動詞「散り散りになる」とか、はたまた別の表現ができないか探すことになります。

今回作者が口頭で説明する時に「きらきらと流れてね」とごく自然に言葉にしていたのですが、それですよ、それ! 「きらきら流る」「きららかにゆく」この方が「散らし流るる」よりずっと自然に場面を思い描けます。

さんさんと朝の光は川の面に波と砕けてきらきら流る

いいじゃないですか。眩しいくらいの朝の川の光の様子が見えてきますね。

 

17・切り詰めた木香薔薇の白い花の数多の莟が咲くを待ち居り(栗田)

三句は「白花の」として五音にした方がいいのではないでしょうか。

また結句が「咲くのを待っている」という状態を淡々と述べていますが、もちろん間違いではないし、多くの歌においては言いたい感情を敢えて抑えつつ、客観的に事実だけを描写した方が効果的です。

けれど今回はもう少し作者の感情が見えてもいいのでは、という気がします。

溢れそうな感情が下にあるのが分かるからこそ、それを抑えることが効果的になりますが、この歌ではずっと場面の説明がされてはいるものの、それに対する作者の気持ち(開花に対する期待感)は結句の「咲くを待ち居り」にしか出ていませんよね。

その開花に対する期待感を表すのに「咲くを待ち居り」で十分でしょうか?

切り詰めた木香薔薇の白花の数多の莟が咲くのはいつか

のようにすると咲くのはいつだろうかと心待ちにしている作者の心情がもう少し表に出て来ますね。

 

18・咲きだした桜をぬらす雨の中ただ静やかに花ひらきゆく(鳥澤)

今年は桜の時期に雨が続いてしまいましたね。いい感じに咲きだしてからの週末はことごとく雨で我が家は恒例のお花見に行き損ねました。

そんな訳で、ようやくコロナの色々な制限が解除されて賑やかなお花見復活となるかと思いきや、雨雨雨で日常の行動の中で濡れた桜を静かに見つつ桜の時期を過ごしてしまった人も少なくないかもしれません。

そんな雨の中の桜を歌った作者。とてもしっとりとした情感溢れる場面ですね。

「ただ静やかに」だけが少し惜しかったです。「雫をのせて」「僅か(はつか)俯き」「しっとり重く」など映像的な描写が来れば更に雨の中の静やかな桜を思い描けたのではないでしょうか。

 

19・満開の桜をながめバス走る不要不急の外出のせて(金澤)

「不要不急の外出のせて」がとてもこの作者らしい表現でいいですね。

この三年、不要不急の外出は避けましょうと散々言われてきましたからね。この三年間は桜を見るにも「仕事で通る道だから」とか「別の用事のついでに」とか何か言い訳を用意しつつ見ていた人も多いのではないでしょうか。

それを今年はもう「不要不急の外出」で桜を楽しんだっていいじゃない、とバスに揺られつつ歌いあげる作者の陽性シニカルな気質が個性的でとても面白いと思います。

 

20・傘を閉じ歩けば朱い濃淡の密密と木瓜の華やぎに遇う(川井)

雨が止んだのでそれまで差していた傘を閉じて歩けば(今まで傘によって視界に入っていなかった)朱い濃淡が密密と詰まって咲いている木瓜の(雨に濡れて瑞々しい)華やぎに出会った、という歌ですね。

「朱い濃淡の密密」と「木瓜」の位置が少し気になりました。このままだと「朱い濃淡の密密 & 木瓜の華やぎ」の意味の「と」と取れ、「朱い濃淡の密密」と「木瓜」が別物になってしまいますが、別物ではなくイコールの関係ですよね。イコールの関係だとすればこの順序の場合「密密と(咲く・した・付く・なる)」などの動詞を省いたら厳しいのでは、と思いました。

傘を閉じ歩けば朱い濃淡の密密と咲く木瓜の華やぎ

として「遇う」の方を省略(「歩けば」があるので暗黙の動詞となる)するか、

傘を閉じ歩けば木瓜の密密と朱き濃淡の華やぎに遇う

とすれば木瓜=密密と朱い濃淡となるのではないでしょうか。後者の方が主役が木瓜であることが早めに分かりますし、「遇った」という作者の気持ちを含んだ動詞の終止形で結句としての座りもいいのではないかと思います。

 

21・昨夜から咲くを偲びてさく桜八重の花びら摘んとかげが(石井)

「咲くを偲びてさく」という状態と「摘まんとかげが」の部分がかなり歌を分からないものにしています。作者の感情以前に、作者の立ち位置と状況がよく分かりません。

まず「かげ」は「影」と漢字にしましょう。私は最初花を食べに来たトカゲの歌なのかと思いました。

また「咲くを偲びてさく」というとスミレなどが葉っぱの影とかで目立たないように小さく咲いている状態とかなら分からなくもないですけど、八重桜で「咲くを偲びてさく」と言われてもピンと来ないので、ここは表現をもっと適切なものに変えるべきだと思います。

その後読み直して、「ようやく咲きだした八重桜を摘んでしまおうと忍び寄る影」か、と思いましたが、この影というのは作者のことだと思っていました。

しかし解説を聞くと八重桜の塩漬けを作るためにようやく開くかなというくらいの花を摘んでしまう人がいて、それを見ての歌だとか。

ならば「咲くを偲びて」などという部分に言葉を割かずに、ようやくに開こうとした八重桜塩漬けにせんと摘まむ影あり、とか夜のうち塩漬け用にと八重桜摘んでゆきたる黒き影あり、などとして「食用か!趣もへったくれもない不届き者め!」という作者のいつもの「自然に対し利己的な人間への皮肉」をもっと分かりやすく出してしまった方がいいのではないかと思います。

 

22・花びらを持たぬ花蕊ぽつとりと零れて溝へ落ちてゆきたり(畠山)

花びらという柔らかく優しげな部分を失った赤い花蕊(はなしべ)が、先に妻を亡くしてガックリきて、本人も一気に老けて健康状態が悪化していく男やもめのように見えました。

それで最初は「花びらをなくした蕊のぽつとりと道へ落ちたり 男やもめか」としてみたんですけど、うーん、やっぱり男やもめという言葉がちょっとキツいなー、詩情がないなー、言い切っちゃってて余韻がないなー、と感じて、もうそこは伝わらなくていいや、切っちゃえ! と全部切り落とすことにしました。核を変えた。言わば「男やもめ」を核に切り出したものはボツにして、そのまま同じ木材だけど削り直して全く別の作品を作ったような感じです。

でもまだその辺への未練が「ぽつとりと」辺りに出ていたようで、もっと蕊の視覚的情報に迫るべきなのかなと思いました。

花びらをなくした蕊の音もなく零れて溝へ落ちてゆきたり

こんな感じにしてみようかと思います。どうでしょう、なんとなく蕊だけになって落ちていく桜の哀れな感じは見えてくるでしょうか。(男やもめはボツにした部分なのでこの歌から見えて来なくていいです。)

このように、一度作ってみたけれど彫り出してみたらその核がなんか気に入らなかったという場合、潔くボツにして削りなおすこともたまには必要かもしれません。

 

23・戦争は一年かけずにヒタヒタと世界の暮らしを脅かしくる(飯島)

ロシアのウクライナ侵攻のせいで世界の燃料、小麦を代表とする食料、亀裂を大きくする民主主義国と共産主義国の対立、とどんどん他人事ではなく迫って来ている実感がありますよね。

まぁその通りなんですけど、歌としては余韻が今一つというか、「うんうん、ほんとそうですよね」で終ってしまって、先月の梅の歌のようにしみじみ思いを馳せる部分がないかなぁと思ってしまいます。

これはもう文法がどうとか語順がどうとかいう問題ではないので、この歌に関して言うなら「ヒタヒタ」はひらがなにしましょうというくらいしか言えません。

ひたひたと迫って来る何ともいえない恐怖を何によって感じたのか。そこをまだ作者自身も掴み切れていないのでは、と思います。電気代でしょうか、スーパーの値段でしょうか、軍備のための増税とかぬかす政治家のニュースでしょうか。作者が「ひたひたと」感じた時の事をもう一度見直してみて、そこを具体的に詠んでみてください。

 

24・亡き妻が大事に育てし君子蘭納骨前に満開で送り(山口)

亡き妻が大事に育てていた君子蘭が納骨前に丁度満開となって、それがまるで「今まで大事に育ててくれてありがとう」と見送ってくれたようだ、と感じたのではないでしょうか。

ただ「見送ってくれたようだ」という思いに捉われすぎてしまった感があります。この部分はあくまでも作者の「見立て(想像)」です。

亡き妻が大事に育てし君子蘭 納骨前に満開となる

と事実のみで言ってしまった方がいいでしょう。書かずとも読者は先に述べたように、まるで君子蘭が「今まで大事に育ててくれてありがとう」と見送ってくれたようだね、と思うはずです。

 

☆今月は季節柄桜の歌が多く、同じ題材でここまで違う、個性が見えて面白いのでそれぞれの好きな桜の歌を選んでみよう、ということになりました。

番号で言うと3・8・10・11・18・19・21・22ですね。

その中で一番得票数の多かったのが3番、小幡さんの

湧くさくら雪崩るるさくら力ある命をつなぎ桜咲くなり

でした。

先月の「咲ききる力を潜ませて」もそうですが、小幡さんの詠む桜には強い生命力を感じますね。短歌には儚く美しい描写の桜作品が多い中、とても個性的な捉え方だと思います。

By photoAC ぴぴふぉと