短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年12月 (その2)

◆歌会報 2023年12月 (その2)

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第139回(2023/12/15) 澪の会詠草(その2)

 

11・八十路坂私事には触れぬ賀状書く「天を衝け平和な世界昇り龍」(山本)

「私事には触れぬ賀状書く」の部分はとても良いと思います。

ただ「八十路坂」という言い回しが少し俳句っぽいかなと思います。俳句なら「八十路坂私事には触れぬ賀状書く」で一句としてまとまっているのではないでしょうか。

ただ短歌では(特に初句ですし)「八十歳」「八十路にて」などとして、あまり一語で強い印象を持つ言葉を持ってこない方がいいと思います。

また下の句が七七である部分に五七五が来ていて、全体で五七五五七五と定型から大きくずれてしまっています。

短歌には季語などがない分、五七五七七という定型は短歌が短歌であると言える大事な基準ですから、あまりに崩れてしまったらそれは短歌とは呼べなくなってしまいます。

せっかく五七五になっているのですから

「天を衝け平和な世界昇り龍」私事には触れぬ賀状書きおり

と五七五である上の句に持ってきてはどうでしょうか。

 

12・夏過ぎて寒波の兆しにあたふたと冬のすきまに秋を手探り(小夜)

本当に今年は夏が長いなぁと思っているうちにいきなり寒波がきて冬になり、秋はどこにいっちゃったのよ!という感じでしたね。探さなきゃ見つからない秋(笑)。

「兆しに」「すきまに」と「に」が被っているのが少し気になるので

「寒波の兆しに-冬のすきまへ」とするか「寒波が兆し-冬のすきまに」として被りを解消しましょう。

また結句は「手探る」と終止形にして落ち着かせましょう。

「あたふたと秋を手探る」という作者の感覚が面白いですね。最近場面の絞り込みがとても良くなってきていると思います。

特に今月一首目のピアスの穴という題材は素敵でした。この調子で小夜さんらしい歌の場面を見つけてくださいね。

 

13・小鮎川名前のとおり小さき鮎群れて堰こえ相模川へと(名田部)

この歌も一首目の薄の歌と同じでよく見ているのですが、薄が「ふくらんで、ゆすられ」と状況の移り変わりを説明してしまっているように、ここでも「群れて、堰をこえ」と移り変わり(時間の流れ)を説明してしまっているのが惜しいところです。

〈小鮎川〉名前のとおり小さき鮎きらきら堰こえ相模川へと

のように、「これがこうしてこうなった」という説明でなく、「これがこんな様子だった」という言葉を探して欲しいと思います。

場面の切り取りはとても良くなってきているので、あと一息です!

 

14・日没の日の煌めきに命みる 杖つく足に力を貰う(飯島)

杖つく足に力を貰うほどの煌めきなので神々しいとか強い煌めきなのではないかと思いますが、残念ながら「命みる」という言葉だけでは、その景色を実際に見ていない読者にはその煌めきが見えてこないと思います。

夕焼けの赤さに血液の印象を見たのかもしれませんし、金色に何かが生まれるような神々しさを見たのかもしれません。

どんな煌めきだったのでしょう。色は?範囲は?

その辺りが見えてくると杖をつく足にも力が宿るような景色が読者にも見えてくるかもしれません。

 

15・セーターを着たり脱いだりの小春日に友より届く愛媛のみかん(大塚)

「セーターを着たり脱いだりの小春日」と「愛媛のみかん」という具体がとても効果的で良い歌ですね。

「セーターを~」でその日作者が感じた温度感が読者にもすっと伝わりますし、「愛媛のみかん」が届いた時の作者の嬉しさもぐっと身近に感じますよね。これが「歳暮のみかん」とかだったらちょっと嬉しさは下がりませんか。愛媛がいいんですよ、愛媛が(笑)。

文法的に引っかかるところもありません。とても良い歌だと思います。個人的には今月一番好きな歌です。

 

16・対岸のビル屋上の看板が西日を受け止め輝き返す(川井)

特に感情などを語っていない風景詠なのですが、しっかりとした描写により、忙しい日常の雑事の合間にふと息を吐いた一瞬の緩みのような時間を感じられる良い歌だと思います。

ただ西日を反射して返すのではなく、「受け止め」という部分が秀逸だと思います。

無理がなく誰にでも分かるごく普通の言葉でありつつ、しっかりと的確に描写する。簡単に出来そうで意外とこれが出来ません。言葉はツールですから他人に伝わってナンボです。私もちゃんと他人に伝わる言葉を選んでいかないとな、と思います。

 

17・あら私箸まちがえてしまったわそうだったのかと苦笑をしたり(緒方)

箸というものに対する男性的な無頓着さが現れていて面白い歌だと思います。

「あら私箸まちがえてしまったわ」と妻に言われて初めて「そうだったのか」と気付いて苦笑するあたり、男性にはよく分かるのではないでしょうか。

箸立てにまとめて立ててある中から自分の箸を選んで使うようなシステムの家ではちょっと分からないかもしれませんが、食事が並び、取り皿や箸が各自の前までそれぞれ準備されるような場合、その準備をするのは大抵妻で、夫はそうやって用意されたものを使うだけ、という家が多いのではないでしょうか。

その場合、夫は箸などにいちいち注意を向けておらず、自分の前に置かれたものを自分のものとして何の気なく使っていたりするのではないでしょうか。

そういったごく一般的な家庭にある、何の気ない男女格差のようなものが見えて中々深い歌だなぁと思いました。

「あら私箸まちがえてしまったわ」の部分は「」に入れてしまうか、「」を使わないなら「しまったわ」の後に一字空白を入れた方が読みやすいのではないでしょうか。

 

18・艶やかな卵を割れば黄味ふたつ小さな奇跡あるやも今日は(小幡)

読みやすく、思い描く場面に迷うところが何もありません。ごく自然に作者に同化できる良い歌ですね。

ただ卵の黄身の漢字は「黄身」だと思います。

上手い歌なので何も言うことはありません(笑)。

 

19・家並をつき抜け空へ公孫樹の黄あの下にある境内うかぶ(鳥澤)

家並を突き抜けて立つ公孫樹ですから、かなりの大公孫樹ですね。あの下には神社の境内があるのよね、と作者は思うわけですが、「境内うかぶ」だと「あの下には境内があるのよね」という知識しか読者に伝わりません。「あの下にはどんな境内がある」という情報が入ると作者の境内に対する思いが見えてぐっと良い歌になるのでは、と思います。

それを入れるには上の句を少し削らなければ入らないかもしれません。

家並にそびえる公孫樹の黄の下に娘と遊びし境内のあり

などとすると境内へのイメージがぐんと見えてくるような気がします。

逆に家並を突き抜けて立つ公孫樹の姿の方を主役にしたい場合は「その下には境内がある」という情報は取っ払ってしまい、公孫樹だけを主役に据えて詠んだほうが良いと思います。

 

20・トゥルリラと彼専用の着信に頬を染めたる女子大生よ(畠山)

友達の娘さんを見て微笑ましいなと思って詠んだ歌ですが、今一つ作者の感情が見えてこないと言われてしまいました。

まぁ私は部外者なので「微笑ましいな」としか思わなかったのですが、親である友達の目線で見たら複雑かも、と思って場面を見直してみました。

トゥルリラと彼専用の着信へ頬染める娘(こ)を父は横目に

としたらどうでしょうか。

「着信に」のままだと「横目に」と「に」が被ってしまいますが、「横目に」は「横目に見る」という省略した動詞に繋げるために変えられないので、「着信へ」と変えました。

私には子供がいないので娘や息子に彼氏彼女ができる親の気持ちというのは実際には分かりませんが、家族というコミュニケーションの中から子供が離れていってしまう一歩手前の感じには色々複雑なものがあるのではないでしょうか。

 

☆今月の好評歌は13番、名田部さんの

〈小鮎川〉名前のとおり小さき鮎きらきら堰こえ相模川へと

(修正版)となりました。

決まった場所で決まった時期にしか見られない光景です。小さい鮎が何匹もきらきらと堰を跳ねて超えていく様子が読者にも見えてきますね。小鮎川という名前のとおりだ!という捉え方が作者らしくて良いと思います。

By PhotoAC おっちゃんあんちゃん

◆歌会報 2023年12月 (その1)

◆歌会報 2023年12月 (その1)

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第139回(2023/12/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・「妊娠はしていませんね」医師が言う「はい」と答えた齢(よわい)八十(山本)

コンビニのお酒や煙草の販売みたいですね(笑)。確認するまでもないだろうという場面でも法的問題にならないよう言質を取っておかなければならないのでしょう。

でもやはり「はい」と答えつつも心中で「八十歳の私にそれを聞く?」とツッコミたくなる気持ち、よく分かります。

事務的な医師とのやりとりなど場面がしっかり見えて来て、作者の心のツッコミも聞こえてくる、良い歌だと思います。

「」が二か所だと多いかなと思うので、

妊娠はしていませんね医師が言う「はい」と答えた

と一字字余りですが「と」を入れた方が文法的にも読みやすくなるのでは、と思います。

また結句はここで「八十」と言えば年齢のことだというのはすぐに分かるので「我は八十」「私は八十」「八十の我」などにした方が良いのでは、と思います。

「齢八十」だと普通の文章にすると「はいと答えた八十歳」となりますが「我は・私は」とすると「はいと答えた私は八十」となり主語(私)をより強調するので、読者も「八十の私」をより意識し、「八十の私にそれを聞く?」とより一層作者の位置になって場面の中に入れるのではないでしょうか。

 

2・マスク取れピアスの出番と意気込むも穴ふさがりて三年を問う(小夜)

ようやくコロナ禍もやや落ち着いてきて、人の多い場所以外ではマスクを外すことも増えてきました。

そこでマスク期間中は外していたピアス(マスクの紐に引っかかるので)を久しぶりに出してきておしゃれを楽しもうと思った作者ですが、いざ装着しようとしたところ耳に開けた穴が塞がっていて着けられず、ピアスの穴が塞がってしまうほど長い間マスクを強いられていたのか、とこのコロナ禍の長さを改めて実感したのだと思います。

ピアスの穴が塞がってしまったという具体による時間経過の表現はとても良いですね。ただ「ピアスの穴が塞がるほどの時間、マスクをしてきたんだ!」という部分がとても良いので、結句で「三年を問う」と言ってしまったのが逆に惜しいと思います。

「ピアスの穴が塞がるほどの時間を思う」のと「三年を問う(三年という時間を思う)」では読者の中に湧く時間の形というか重みが違うというか。「いつの間にかそんなに経ってたのね」と読者自身が気付く体験ができるのは「ピアスの~」の方なんですよね。

マスク取れピアスの出番と意気込むもいつの間にかに穴ふさがりぬ

マスク取れピアスの出番と意気込むも三年を経て穴ふさがりぬ

などとして読者の中で「三年(時間経過)を問わせて」欲しいと思います。

ピアスを開けていたおしゃれな作者像も見えて来てとても良い場面だと思います。

 

3・中州には枯れし薄がふくらみて風にゆすられ白波おこす(名田部)

晩秋の素敵な景色がよく見えてきます。最近は文体も自然な言い回しになってきて、読者も無理なく場面が思い浮かぶ歌になってきていると思います。この調子です。

また丁寧に場面を見ようという姿勢も伝わってきます。ただ丁寧に説明(時間経過や理由を)してしまっていることがあるので、そこが若干惜しいかなと思います。

この歌の場合、「ふくらみ て 風にゆすられ白波おこす」という部分が惜しいと思います。

「ふくらみて」というと順序を説明してしまいます。ここは「ふっくらと」とその瞬間の薄の在り様を描写した方が良いと思います。

また「ゆすられ」というと薄がふっくら揺れる場面にしては少し強いかなと感じます。もっと荒々しい感じの風で薄が耐えているような歌なら「ゆすられ」かもしれませんが、この薄はふっくらと膨らんだ薄が晩秋の風に吹かれて波打っているたおやかな場面だと思うので、「ゆられて」「吹かれて」の方が合っているのではないでしょうか。

また結句の「おこす」ですが、これは他動詞で「〇〇が××をおこす」と他者に対して使う動詞です。この場合「薄が白波をおこす」となり、薄と白波は別物扱いとなってしまいます。間違いではありませんが、薄と白波は同一のものなので印象が二分されてしまい勿体ないと思います。

これに対し「おきる」だと自動詞で「白波がおきる」となりますが、この歌では既に「薄が」と薄を主語にしてしまっているので「薄が、白波が」と主語が被ってしまうので適切ではありません。

「薄が」の主語を保ったまま、適切な自動詞にしたいところです。「白く波立つ」「白波となる」などが良いのではないでしょうか。

 

4・胸元にいちょう並木の輝いて阿不利嶺連山すっきりと立つ(飯島)

初句の「胸元に」と「輝いて」が問題となりました。

まず初句で「胸元に」と言われると読者は「作者の胸元」を想像してしまいます。更に「輝いて」ですから、作者が少し高い位置にいて、作者の胸元にいちょう並木が輝く風景を見ている…のかと思いきや、阿利嶺連山…作者の立ち位置はどこ?と迷ってしまう人もいると思います。

阿夫利嶺連山を擬人化していて、その(山の)胸元にいちょう並木が輝いている、という意味だと思うのですが、その場合「胸元にいちょう並木の輝ける」と連体形にして続く「阿夫利嶺」に繋げるか、「胸元にいちょう並木かせ」と他動詞にして「阿夫利嶺いちょう並木輝かせ」ていると主語を明確にしないと読者は色々と迷ってしまいます。

阿夫利嶺はいちょう並木を胸元に輝かせつつすっきりと立つ

金色のいちょう並木の首飾りきらりと着けて阿夫利嶺の立つ

などとすれば山の胸元に金色に輝くいちょう並木があるんだな、と位置関係が分かるのではないでしょうか。

 

5・荒天にゴミ出し帰りの時雨虹今日は良き日と子等に写メする(大塚)

「荒天ゴミ出し帰り時雨虹」ではないでしょうか。おそらく作者の中では荒天(時雨)時ゴミ出しに行ったものの帰りには雨は止んでいて、ゴミ出し帰り空に時雨虹が現れた、という順序が浮かんでいたのではないかと思いますが、このままだと「荒天に時雨虹」と繋がってしまうため読者はすっと読めません。

またここで「荒天のゴミ出し帰り」と「に」を使ってしまうため、「子等」の方は「子等」と変えたいですね。

初冬の季語でもある「時雨虹」や、そんな小さな喜びを子らへメールして分かち合う作者の生き方、人間関係などが見え、とても良い場面の歌だと思います。

 

6・木に高く残る柿の実あかあかと鵯三羽の喜喜と啄む(川井)

「木に高く」「あかあかと」など、この作者らしい観察力と、無理なく素直な言葉選びで情景がすっと自然に思い描ける良い歌だと思います。

本当に最近、的確な表現で上手いなぁ、言われてみれば確かにそうでしっくりくるんだけど、私じゃこれ思い浮かばないなぁという歌が増えて来ました。

下の句は「鵯(ひよどり)三羽の」とするより「三羽の鵯(ひよ)が」とした方が自然で読みやすいのでは、と思います。

またこの歌は「あかあかと」の位置や置き方でかなり印象の変わる歌になると思います。

木に高く残る柿の実あかあかと 三羽の鵯が~

あかあかと木に高く残る柿の実を三羽の鵯が~

木に高くあかあかと残る柿の実を三羽の鵯が~

少しずつ印象が違いますよね。「あかあか」を早く持ってくれば持ってくるほど下の句を読む頃には印象が薄れてしまい鵯の印象の方が強くなってしまう気もするので、作者がどれくらい「あかあかとした柿の実」の方に印象を残したいかで決めて欲しいと思います。

三句に残した場合のみ、「あかあかと三羽の鵯」と続くと読みづらいので一字空白を入れた方が良いかもしれません。

 

7・父の死は漱石と同じ四十九なりあまりに早きわれ十八歳(緒方)

四十九歳は早いですね。作者もまだまだ親の助けが欲しい年齢ですし、お母様もさぞや御苦労なされたことと思います。

漱石と同じ四十九」という知識の出し方はとても上手いと思います。読者側には知識を求めておらず、さらっと含ませてある知識。カッコイイですね。

ただ「早き」はク活用形容詞「早し」の連体形ですから、「あまりに早き歳」「あまりに早き(こと)かな・よ」などに続かないと不自然かと思います。このままでは「あまりに早きわれ」にかかり、「あまりに早きわれ(が十八歳のこと)」と続けるには無理がありますし、「あまりに早き我十八のこと」のようにして、「早き」から繋がる体言(こと・頃・時など)を省くことはできないと思います。

父の死は漱石と同じ四十九とあまりに早し 我は十八

とした方がすんなり読めると思います。

また結句の「我は十八」ですが、講師の砂田はこれを「我は八十」と読み違えていました。

確かに十八はまだまだ子供といっていい年齢で、色々大変だったんだろうなぁという想像を読者にさせますが、これを「我は八十」とすると、父が亡くなった歳をとうに超えて老齢まで生きた作者の「父を亡くしてからこの歳まで作者にあったであろう様々な苦労」や、「父の経験できなかった年齢を生きる作者の心境」にまで読者は思いを馳せることとなり、歌としてはぐっと深みが出るような気がします。「我七十五」でも七音ですがいかがでしょう。

 

8・古びたるアルバムに見る記念写真 時代をひたに生きし族(やから)(小幡)

本来「族(やから)」とは「一族」などというように同じ血筋の人々、一家一門、眷属などを指します。ですからここで作者が見ている「古びたアルバム」とは親族の古い写真であり、明治大正昭和などの自分の知らない時代を生きた一族の写真ということだと思います。

が、昭和中期以降生まれの私は最初この「族」とは「暴走族」いわゆるヤンキーで、実はこの作者(今のご本人からは想像もつかないけど)若い頃「うぇーい!」とか粋がっていた(時代をひたに生きし)時期があって、古いアルバムにやんちゃな(すごい髪型や服装の)写真を見つけて、今思うとバカだけどこの頃はみんな(族仲間)ひたに生きていたのよね…と思いを馳せている歌なのかと思いました。

で、「えぇ~!全然そんな風に見えな~い!意外~!」などと思っていたのですが、そもそも全然違う話だったと(笑)。

ただそう読み違えてしまったということは読み違えてしまうだけの理由があるのだと思います。

まず古びたアルバムといってもどう古い(白黒なのか色褪せた)のかも分からないので時代が分かりません。また「族」の素性も親族なのか仲間なのかはっきり分かるものがありません。例えばですが「揃いの家紋の着物着て」などとあれば間違いなく昔の親族などが浮かぶのではないでしょうか。

また「時代をひたに生き」もいつの時代なのか絞ってしまった方が良いと思います。例えば「明治をひたに」とするだけでも「族」はヤンキーではなく親族なのだな、と分かるのではないでしょうか(笑)。

 

9・突然に事故渋滞に居ることに紅葉の中の高速道路(鳥澤)

「突然事故渋滞居ること」と三つもの「に」が並んでいることが気になりました。

これも5番の歌のように「突然に事故の渋滞の中に居ることになってしまった紅葉の~」という作者の中での地の文章を五七五七七に揃える際に、そのままただ短くしてしまったのではないかと思いますがどうでしょうか。

突然の事故渋滞に遭いにけり

突然の事故渋滞の中に居り

などとした方が無理なく読めると思います。

事故で渋滞している紅葉の中の高速道路という俯瞰した景色は良いですね!

 

10・一心に車道へ向かふ毛虫をりただ跨越(またご)えて私は駅へ(畠山)

日が当たり暖かい場所を求めてなのか、黒い毛虫が一心に車道に向かって這っていました。そのまま行ったら車に轢かれてしまうと分かっているのに、自分の都合(電車の時間)を優先して、ただ跨ぎ越してそのまま駅へ向かってしまったのですが、駅へ向かいながらもずっと気になってしまいました。

未来が分かり(車に轢かれる)、何とかする手段を持ちつつ(棒や葉っぱで移動)も、命を見捨てて自分の都合を優先する人間のおこがましさを夏場のミミズに次いでまたもや実感してしまいました。

「跨越え」という言い方がすっと読めない、ということで、普通に「ただ跨ぎ越し」とすることにします。

By PhotoAC ぜきにい

◆歌会報 2023年11月 (その2)

◆歌会報 2023年11月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。

 

第138回(2023/11/24) 澪の会詠草(その2)

 

12・結婚と同時に彼はパパとなり今日は長女の授業参観(山本)

読者からは「彼」と作者の関係性が分からないため迷いが生じてしまいました。

作者の息子さんがいわゆるできちゃった婚授かり婚)で結婚と同時に父親となり、それから数年後の今日、その時出来た子供の授業参観へ行ったという歌なのかな、と思いましたが、「彼」は身内ではなくただの知人の男性で、子持ち女性と結婚したことで結婚と同時に父親となり、早速娘となった長女の授業参観へ行ったという歌なんだそうです。

ならばもう突き放して「男」とでも言ってしまった方がいいと思います。

またこの作者は「パパ・ママ」という言い方をよく使いますが、話し言葉(セリフ)として効果的に使う場合以外は「父・父親・母・母親」とした方が「歌」らしくなります。

また「今日は」というと結婚から「今日」までにどれくらいの時間が経過しているのかが分からないため、「早速」としてしまえばできちゃった婚ではなく再婚して連れ子なのかな、と分かるのではないかと思います。

結婚と同時に男は父となり早速長女の授業参観へ

としてみてはどうでしょう。結句は字余りになりますが終止形の動詞がないまま「授業参観」と体言止めにすると落ち着かないので、「へ」を付けて「行く」という暗黙の動詞を省略させて落ち着かせましょう。

 

13・誇らかにススキと栗の生け花のイガグリ三ヶ里の秋ゆく(小夜)

生け花のイガグリが「我こそは秋!」と誇らしげに見えたということで、その捉え方はこの作者らしくてとても良いと思います。

ただせっかく個性的で面白い捉え方をしているのに、それが上手く表現しきれていなくて勿体ないと思います。

ススキや里の秋なんてスパッと捨ててしまって、生け花の誇らかなイガグリだけを主役にしても良いのではないでしょうか。

生け花に我こそは秋とイガグリの三つ誇らかに主張しており

などとしてみてはどうでしょうか。

最近は以前よりかなり場面が絞られてきていて、場面も鮮やかになってきていると感じます。今回の一首目のポツンと転がって迷子の柿も良いですし、八月のカワセミの歌もよく見ているし良い瞬間を捉えているなぁと思いました。

この調子でしっかり焦点を絞って、はみ出た部分は潔く切り落としていってください。

 

14・グランドに幹より細いポール立つ争うことなく仲良くならぶ(栗田)

伸びる木々と違って人為的に立てられたポールは「争うことなく仲良くならぶ」という下の句はとても良いと思います。当たり前じゃん、と思うかもしれませんが、整然と立てられたポールに対し「争うことなく仲良く」という見方はなかなか出来ないものです。とても個性的で面白い捉え方だと思います。

ただ「幹より細い」と言われても読者には景色が見えていないので何の幹なのか、どれくらいの太さのものを想像していいかで少し迷いそうです。一首目と同じで、ここは「杉」と決めてしまった方がいいのではないでしょうか。

また「ポール立つ」と一旦切っていますが、結句にも「ならぶ」と終止形があり、結句の終止形の方に重さを持たせたいので「ポール立ち」として下の句に続けてしまった方がいいかもしれません。

また作者は「木よりずっと細い」という部分に目が行ったのかもしれませんが、この歌の核は下の句の「争うことなく仲良くならぶ」だと思うので、「木より細い」という印象は却って邪魔にならないでしょうか。

グランドの杉の伐られてポール立ち争うことなく仲良くならぶ

と上の句は下の句の状況に至る知識としての情報にとどめて視覚的な印象を持たせない方が、下の句の「仲良くならぶ」という視覚的印象を強くする気がします。

 

15・半世紀隣り合わせの住人は爽やかな秋に旅立ちました(戸塚)

実はこの歌、「旅立ちました。」と「。」付きで送られてきました。御覧のとおり、歌というより極々普通の文章という感じなので予測変換機能で勝手に「。」が付いてしまい、そのまま送信されたのだと思います。

文体的に敢えて小説の一節風の意図的な演出なのかな、と思いましたが、そうではなかったようです。

まぁ演出としても「。」は要らないのではないかと思いますが、この小説風の文章は今回活きているのではないかと思いました。

全部が全部この調子だとさすがに「歌」という感じではなくなってしまうので問題ですが、この一首だけポンと出るとこの「歌らしくなさ」が逆に新鮮で、何とも言えない客観的な感じが半世紀も隣り合わせだった人の旅立ちに対し半世紀分の様々な場面に思いを馳せていそうな作者を思わせます。

こうした方がいいのでは、という部分は特にありません。良い歌だと思います。

 

16・黙々と二人生け垣の剪定す次男おだてて兄を褒め完了(大塚)

息子たちを褒めておだてることで(自分は手を動かさず)生垣の剪定を進めるちゃっかり者の母、というちょっとクスッとしてしまう場面だと思います。

結句の「兄を褒め完了」が九音使ってもまだちょっと無理矢理感を感じてしまいます。

次男と兄とあるので「二人」と言わずともいいのではないでしょうか。また「黙々と剪定する息子ら」と「息子らをおだてる母」の両方を一首に入れるのは厳しいような気がします。どうしても「黙々と」と「おだてる」が意味的に反するため三十一音で無理なく両方を入れるのは難しいと思います。

「おだてられつつ黙々と垣根を剪定する二人の息子」か「次男をおだて、兄を褒めることでちゃっかり剪定を進める」のどちらを主役にするか決めましょう。

この歌からすると後者の方が近いのかなと思うので

着々と柘植の垣根を剪定す次男おだてて兄を褒めつつ

などとしてはどうでしょうか。初句を「一日に・週末に・晴れた午後・秋晴れに」などとしてもいいかもしれません。

 

17・今朝の川鮎釣り人の姿なく産卵のため期限早まる(名田部)

自然保護のため鮎釣りには漁業組合の決めた遊漁期間があり、遊漁期間内であっても釣りを楽しむためには有料の遊漁許可証が必要です。

気候の影響か、鮎の産卵が例年よりも早まったのでしょうか。遊漁期限が早まり、今朝の川には鮎釣りの人の姿がなかったという歌だと思います。

字余りですが「今朝の川は」「今朝の川に」など助詞が必要でしょう。また「鮎釣り人の姿なし」と切ってしまった方が良いでしょう。

「姿なく」だと「姿なく産卵のため」「姿なく期限早まる」のどちらかに文章が続かないとおかしいですが、どちらも意味的に繋がりませんよね。

意味的には下の句「産卵のため期限が早まった」から上の句「今朝の川は釣り人の姿がない」にかかっているわけで、逆にかかると不自然になってしまいます。

 

18・かそけくも落葉ふりしく奥山の秋深まりぬ 吾も枯れたり(緒方)

何だかちょっと和歌のようですね。美麗な感じではありますが和歌の慣用的な表現で、上の句はあまり作者らしさというか個性は出ていないと思います。

ただ結句に「吾も枯れたり」と来たことで俄然作者らしさが出たと思います。

「奥山秋が深まる」と「奥山秋が深まる」とで全然印象が変わって来ると思うのですが、どちらが良いでしょう。前者は「奥山」後者は「秋」の方に印象が傾きますね。

私は「奥山に」の方がいいかな、と思います。

 

19・(はや)くだれか疾く止めてよ逃げ場なきガザ地区に降る砲弾の雨(小幡)

何でも「神」として受け入れる宗教観の日本人からすると一神教は憎悪の根源にしか見えませんね。他者には寛容を求めるのに自身は寛容じゃない。聖地どころか争いを生み出し続ける邪悪の地にしか見えません。

どちらも譲らずそれぞれの土地や命を奪い合い、最早どちらも引けない泥沼に。人類を滅ぼそうとする共通の敵でも現れない限り、人間は戦い合っていつか滅ぶのでしょうか。

ウクライナもそうですが、報道される瓦礫の山や土埃にまみれた子供の姿などを見ると、殺し殺されてもうどちらも引くに引けないのも分かりますが、とにかく一旦殺し合いをやめて!と思ってしまいますね。

歌としては重い題材の社会詠ではありますが、素直な心情の吐露といった感じで誰もがすっと頷ける歌なのではないでしょうか。

 

20・人の居ぬことを確かめイガを踏む子どもじみたる音立てつぶる(金澤)

結句は「つぶす」だそうです。「つぶる」だと目を閉じて音を楽しんでいるのかなとも取れてしまうので、投稿の際は誤字にはお気を付けください。

「人の居ないことを確かめて」「子どもじみた音を立てる」という行動がとても作者らしくていいですね。

「子どもじみた行動を楽しむ自分」に何ともいえない恥ずかしさを感じつつも楽しみたい心を抑えられず実行してみる、日々のちょっとした行動を楽しむ作者の遊び心とおちゃめさが現れていてとても良い歌だと思います。

「イガを踏む」と一旦切っていますが、ここは「イガを踏み→音立てつぶす」と続けた方がいいのではないでしょうか。

 

21・水甕のページをゆるりと繰るる宿伊豆長岡に言葉を探す(川井)

我々は短歌結社「水甕」会員なので「水甕」といえば短歌の小冊子を思い浮かべますが、一般的に「水甕」と言えば「水を入れる甕」を指す言葉のためこの水甕は「」で括った方がいいのではないでしょうか。

「繰(く)る」には「順にめくる」という意味がありますから意味としては間違っていないのですが、「繰るる宿」という活用はしないと思います。「繰る」は辞書を引くと[動ラ五(四)]と書いてあると思います。これは現代では動詞でラ行五段活用、古文で四段活用をする、という意味です。「揺れる」などは[動ラ五(四)]の他に[動ラ下二]とあり、このラ行下二段活用により文語では「揺るる」と活用することもあるのです。

ですから「繰る宿」なら文法的に間違いではないのですがそれだと四音になってしまうので、ここは普通に「めくる宿」でいいのではないでしょうか。

また結句の「言葉を探す」ですが、この歌一首として見れば何も問題ないのですが、最近覚えている中にも「汗のごと言葉あふれよ」「父にかける言葉を探す」というような歌があったなぁと思い、似たような表現が続くのはどうなのかなぁと少し思いました。これだという言葉が思い浮かばず、日々「言葉を探して」いるであろう作者の気持ちはとてもよく分かりますが、「ねじりを解いた朝顔」「抱え込む大玉スイカ」「黄の紙を山、谷折り」等、見たままをきちんと他者に分かるよう言葉で表現できる作者ですから、そんなに言葉を探していることを歌わなくてもよいのでは、と思ってしまいます。

「めくる夜伊豆長岡の宿のかたすみ」「めくりつつ伊豆長岡の夜はしずかに」などでもいいんじゃないかなぁ、と思うのですが。

 

22・失明の猫の右目は暗闇に光返さずくらぐら開く(畠山)

先月は歌会の前日の夜に突然飼い猫の目が真っ赤になってしまい、慌てて病院に駆け込んだところなるべく早くかかりつけ医にしっかり診てもらった方がいいとのことで、夜遅くに急遽金澤さんに歌会資料作成をお願いし、歌会当日は朝から病院へ駈け込んで診察・検査をしてもらい、途中から歌会に参加、とバタバタしてしまったためブログの歌会報もお休みさせていただきました。

その後の検査で、高血圧により眼内血管が破れて目の中で出血してしまい、網膜が剝がれてしまったということで、出血してしまった右目は失明、一見何ともない左目もかなり出血が進んでいるということで、血圧を下げる飲み薬と炎症を抑える目薬で対処することとなりました。

ひと月経って真っ赤だった右目も出血が治まりほぼ元の色に戻ってはきましたが剝がれてしまった網膜は戻らないようで、猫の特徴である暗闇の中でも僅かな光に反射して緑色にキラリと輝く目ではなくなってしまいました。

電気を消した後など、暗い場所で名前を呼ぶとくるりとこちらを向いてくれるのですが、左目はキラリと緑に輝くのに対し右目は開いてこちらを見ているのに暗いままで、あぁこの目は視力を失ってしまったんだな、と実感してしまいました。

まぁ歳が歳なので(16歳)生きててくれただけでもありがたいのですが、躓いたり足を踏み外したりと「もう見えてないんだな」と実感すると切なくなってしまいますね。

 

☆今月の好評歌は11番、畠山の

五十年太鼓率ゐた偉丈夫の引退宣言 小さき祭に

となりました。

観客も少なく寂れた感じの小さなお祭で、半世紀に渡って率いてきた活動の引退宣言をした先生。明るく振る舞いながらもやはりどこか寂しそうで印象的でした。

By PhotoAC ドンベイ

◆歌会報 2023年11月 (その1)

◆歌会報 2023年11月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。

 

第138回(2023/11/24) 澪の会詠草(その1)

 

1・今既読してはならない躊躇いが見出しを読んで心整え(山本)

スマホの短文メッセージアプリ「LINE(ライン)」では、アプリを開いて届いたメッセージを読むと「既読」というマークが付き、(メッセージを送ってきた)相手に“メッセージを読んだよ”ということが伝わります。自動的にメッセージの受領印が押されてしまう感じですね。

そしてメッセージを読んだのに何の返答もしないと無視をしていると思われてしまうかもしれない。俗に「既読無視」と言われ、喧嘩の原因になったりもします。気を使いすぎというか、「無視」ということに過剰な不安感を持ちすぎというか…悪い意味で日本らしい風潮だとは思いますが。

ただメッセージが届いた瞬間にはアプリを開かずとも書き出しの一部がスマホに表示されます。作者はその書き出しの一部を見て、気楽に返事できるような内容ではないと察し、「どう返事したらいいかしら」と思いあぐねているのだと思います。

手紙→電話→メール→ケータイ→スマホと進化してきたように、最早スマホはコミュニケーションツールとして生活から切り離せないものになりつつあります。人と人のやりとりのための道具ですから、昔の人が「手紙」に心を動かされたように、これからは「スマホ」に心を動かされる人が出て来るのは当たり前だと思いますし、そういう時代の変化にも対応して表現していけるのが短歌(和歌ではなく)だと思います。

ただこの一首として見ると作者の心情だけを述べていて、作者がそういう心情になった状況がまだまだ見えにくいかなと思いました。

「躊躇(ためら)う」「心を整える」という作者の心の動き自体を言ってしまわず、作者の心が動いた「場面」を描く。

今はまだ「既読」にしてはならないと見出しのみ見てLINE(スマホ)を閉じる

のようにスマホ・LINEという言葉が入った方が分かりやすいと思います。

もっと言うと具体的な内容が出てくれば更に作者の動揺や躊躇いが見えてくるとは思います。例えば

入院と友からLINEに届きおり「既読」にせぬまま言葉を探す

などなら何故作者が「メッセージ読んだよ」と相手に伝わってしまう(既読にする)ことをためらっているのかがもっと見えてくるのではないでしょうか。

 

2・柿の木の実りあふれて実を落しポツンと一個ころがる迷子(小夜)

沢山実った柿の木からひとつ転がってポツンと落ちた実を「迷子」とした表現が良いですね。

「ころがる迷子」という繋がり(活用)が少し気になりました。「ころがる」は「迷子(体言)」にかかりますから連体形で、この歌には「あふれ(連用形)」「落し(連用形)」「ころがる(連体形)」と三つの動詞がありますが、どれも終止形ではありません。そのため結論は何?と落ち着かない感じになってしまうのです。

これを「ころがり(連用形)迷子」とすると「迷子」にはかからず、「ころがり、迷子(となる)」という暗黙の終止形が発生します。

ポツンと一個、転がって迷子になっている、という結論が見え落ち着きますね。

また「柿の木の実りあふれて実を落とす」と上の句で一度切ってしまってもいいかもしれません。

A:柿の木の実りあふれて実を落としポツンと一個ころがり迷子

B:柿の木の実りあふれて実を落とすポツンと一個ころがり迷子

Aでは柿が実を落とす所からの継続した動画という感じ、Bでは上の句は場面の知識としての情報で視点はポツンと転がった一個に集約している感じがしませんか。

どちらが間違いというわけではありません。実が落ちてころころ転がって迷子になってしまった一連の「流れ」にグッときたならAでしょうし、既に一個ポツンとはぐれてしまった実の様子にグッときたならBだと思います。

 

3・次々にグランドの大木伐られ居り寒空の中の遺されし幹(栗田)

芽吹いたり花が咲いたりして樹木がエネルギーを使う時期でなく、冬や春先のまだ寒い時期にバッサリ剪定することが多いみたいですね。

幹が残っているということなので伐採ではなく剪定なのかなとは思いますが、寒い時期にバッサリやられると見ているだけで寒々しい気がしてしまいますよね。

まず二句の「グランドの大木」ですがこのままでは九音ですし、何の木なのか分かった方が読者の描ける場面がより鮮やかになるので具体的に木の名前を出してしまいましょう。その際、実際とは違う樹木名でも音数がイイ感じになるものを選んでもいいと思います。例えば実際はアカシアやメタセコイアだったとしてそのまま使うと音数がオーバーしすぎますよね。その場合は杉とか桜とかグランドに植えられる大木系の樹木にして創作してしまいましょう。今回は多分杉、ということで「グランドの杉」とすれば音数も丁度七音になりますね。

また「寒空の中の」ではなく「寒空の中に(へ)」だと思います。また「遺された」という字は「次の代へ引き継ぐ」という意味があります。今回は根元から伐られたり引っこ抜かれたりしているわけではないので、幹は「残された」という字が正しいでしょう。また上の句で「伐られ居り」と今現在のことを話していますから、「残され」と遠い過去のことを表す助詞では時制が一致しません。普通に「残された」とした方が自然です。

次々にグランドの杉伐られ居り寒空の中へ残された幹

また四句と結句を入れ替えて

次々にグランドの杉伐られおり残った幹は寒空の中

と寒々しい様子の方に焦点を当ててもいいかもしれません。この場合「居り」と「残され」が近く、「居残り」という言葉のイメージがふっと浮かんでしまうため、敢えてひらがなの「おり」としてみました。また七音にするため「残された」を「残った」としています。

 

4・神道の義父母の位牌へ手を合せ朝日の内より一日始まる(戸塚)

神道(しんとう)の位牌は仏教の位牌(何たら居士など)と違って生前の名前そのものに男性なら「大人命(うしのみこと)」女性なら「刀自命(とじのみこと)」と書かれていて(「〇田〇男大人命」「〇山〇子刀自命」)、より故人をイメージしやすいものとなっています。

そんな神道の位牌に手を合わせてしずかに始まる一日を習慣とする作者の暮らし方が見えてきて良い歌だと思います。

場面がすっと思い浮かぶ「神道の義父母の位牌へ手を合わせ」という上の句は文句ありません。*「合わせ」の送り仮名は「合わせ」が本則で「合せ」は許容です。

下の句でもう少し作者の体感している朝が表現されると更に良くなる歌だと思います。

神道の義父母の位牌へ手を合わせ一日(ひとひ)は始まる朝の日しずか・さやか

のように「手を合わせ一日始まる」として敢えての字余りで「一日」を「ひとひ」と読ませることを確定し、「手を合わせることで一日が始まるんだ」と習慣化していることを前面に出してもいいかもしれませんね。

 

5・少しずつ諦めながら日を送り知らぬ間に笑い   話せてきたなあ(大塚)

夫を亡くされて落ち込んでいた作者が、少しずつ夫の居ない生活を受け入れていく様子でとてもよく分かるし、結句の口語は活きているのではと思います。

ただ私は作者の状況を知っているので分かりますが、やはり一首の中で夫を亡くした人の歌ということがきちんと分かるようにした方がいいと思います。

この場合「諦めながら」が問題ではないでしょうか。作者としては夫が居ないという現実を諦めながら受け入れていく、ということで言いたかったのだと思いますが、そもそもの前提である「夫が居ない」ということをこの時点で読者は知らないため、何を諦めたのかが分かりません。健康を諦めたのかもしれませんし、学問や出世、友情、人生など何を諦めたと取るかで内容は全く変わってしまいますね。

少しずつ亡夫(おっと)の居ない日を送りいつしか笑う 話せてきたなあ

とすると少しずつ夫のいない現実を受け入れていく、遺された妻の何ともいえない寂しさが見えてくるのではないでしょうか。

 

6・薄野を一羽の鷺が渡りゆく白き軌跡を残すごとくに(名田部)

秋の綺麗な場面ですね。薄(すすき)の上をさーっと飛んでゆく鷺。

結句の「残すごとくに」が少し惜しいと思います。便利なので私もよく「ごとく」を使ってしまいがちなのですが、「ごとく」は御存じのように比喩、「~~のように」と喩えるための言葉です。つまりあくまでも「〇△みたい」であって物事の本質そのものはどうあがいても表現しきれない言葉なのです。

ですから喩えが相当的確であるか、個性的である場合に使わないと「惜しいな」となってしまう事の方が多いです。

「白い軌跡を残すようだ」という喩えはそこまで個性的な見方かというとそうではないと思います。だったら「~~のようだ」などと言わず、「白き軌跡をうっすら残し」「白き軌跡をさあっと描き」などと「作者の目には実際こう見えた」という事実として言い切ってしまった方が断然場面がくっきり見えてきます。今回の場合、「白い軌跡を残すように見えた」ではなく「白い軌跡を残して見えた」という言い方ですね。

そして「ごとく」を削った分を具体的な描写(うっすら・さあっと・すうっと)に変えることでより一層場面を思い描きやすくなるというわけです。

まるで〇〇に見えたのよ~、でなく、私には〇〇に見えたのよ!ともっと自信を持って言っちゃってみてください(笑)。

 

7・アキアカネ稲穂の垂るるおちこちに小さき虫を貪り食みし(緒方)

稲穂の上をアキアカネ(とんぼ)が飛び交う平和的な風景だが、実は彼ら(とんぼ)は小さな虫を貪り食っている、という対比の歌だそうです。

まず結句が「食みし」という連体形で終わっているのが気になりました。連体形ですから「食みし日」「食みし夕」「食みし秋」など何らかの体言に続かなければ不自然ですし、そこに来うる体言は無数にあり省略していいもの(誰もが迷わないもの)ではありません。

そう言ったところこれは「連体止め」で「~ことよ」という詠嘆に続く表現だとおっしゃったのですが、係り結びでなく「~~し」で終わる連体止めは見たことがありません。それはやはりこの形では「し」に続く体言の可能性が無数にあるからで、連体止めが成立するのは「~~ぞ、~~なりける」のような係り結びの法則(定型)にあるもの(ぞ、なむ、や、か)や、「在り・居り・たり・為・つ」など「~~の状態にある」ことを表す動詞で「~~の状態」が既にきちんと述べられており「詠嘆」に続くと迷わないものなど、とにかく続く語句を読者が迷わない場合に限ると思います。

例えば「秋の田は黄金なみなみ溢れおる」などなら後に続く言葉は「~ことよ・~かな」といった「~~(溢れている)という状態だなぁ」という詠嘆で迷いませんから連体止めも成り立ちます。

また「食みし」というと遠い過去を表しますから、昔はこの辺りもアキアカネの飛ぶ田んぼが広がっていて小さな虫を貪り食っていたんだよなぁ、と回顧する歌なら「し」も分かりますが、それならそれで遠い過去を思っているということが分かる表現を入れないといけないと思います。

そんな遠い昔の回顧でないのならごく自然に「貪り食みぬ」「貪りながら」などでいいのではないでしょうか。

また上の句の牧歌的な風景と下の句の実際は虫を貪っているという対比、という場面を強調したいのなら「おちこちに」だけで牧歌的と感じさせるのはやや厳しいかも、と思いました。「あちらこちらに」という情報より「稲穂の上をすいすいと」「稲穂の合間をふうわりと」など、一見柔らかい感じに見えるというトンボの描写を持って来た方が「貪る」という獰猛な一面との対比が明確になるのではないかと思います。

 

8・缶蹴りの鬼を解かれず影長き我を顕たしむ秋の広場は(小幡)

運動があまり得意でなかった人には気持ちがよく分かる歌ではないでしょうか。

缶蹴りは、鬼が逃げた子を捕まえ陣地に囲っておきますが、陣地を離れて子を捕まえに行く間に缶(陣地の証)をまだ捕まっていない子に蹴られるとそれまで捕まえた子は解放され、イチからやりなおしになってしまうという、鬼が断然不利な遊びです。

足の遅い子や要領の良くない子などは一度鬼になると、捕まえては解放され、捕まえては解放されと延々と鬼をやらされるハメになったりします。

日が傾いて影が長く伸びるようになった秋の広場は、昔中々缶蹴りの鬼を解かれずに影が長く伸びる時間までずっと鬼をやらされていた幼い頃の自分の姿をありありと思い起こさせるなぁ、という歌だと思います。

「顕つ(たつ)」は姿を現すという意味で「夢枕に顕つ」という時に使います。実際に物理的に立っているというよりは実体のないはずのものが立ち現れるという意味合いが強いと思います。

ですからここも実際の我が立たせられているのではなく、昔の我を客観視して今の広場の中に投影していると捉えられます。

もっともこんな秋の広場にいると思い出すなぁ、というカメラの位置が現在にある歌でなく、「我を立たしむ」として幼い日の出来事でもその当時の実際の体験としてカメラの位置も過去にある歌とした方が、ずっと鬼をやらされて影を長く伸ばす不器用な我(子供)をより鮮やかに写せるかもしれません。

 

9・北風の息子は怒鳴り太陽の娘はそっと小遣いくれる(金澤)

イソップ物語の「北風と太陽」になぞらえたユニークな歌だと思います。

しみじみしたり何ともいえない複雑な感情が湧いたりとまでは至らないのですが、着眼点が作者らしくユニークなのでこの歌はこれでいいんじゃないかな、と思います。

ただ「怒鳴り」というとちょっと強すぎるかなぁとも。「怒鳴り」だと何だか息子さんは完全に悪役っぽくなってしまいませんか(笑)。「叱り」くらいでもいいのではないでしょうか。

「そっと」小遣いくれるという表現が「文章」から「歌」に引き上げていると思います。

 

10・陽溜まりのコンクリのへりをひたすらにこの一匹の蟻だけが這う(川井)

列からはぐれた蟻が一匹だけコンクリの縁を落ちそうになりながらも這ってゆく、という場面だそうです。

ただこのままでは他の蟻の姿は見えず、他の蟻はもっと歩きやすい道をぞろぞろ進んでいるのに、この蟻だけは歩きにくいコンクリの縁をひたすら這っているとは読めません。

作者の心を動かした場面に「日溜りの」は重要なのでしょうか。日溜りのコンクリの縁を這う蟻に焦点を当てるとしたら「この」という指示代名詞が邪魔になるような気がします。「ただ一匹の」としてしまった方が迷いません。

日溜りのコンクリの縁をひたすらにただ一匹の蟻だけが這う

この場合、一匹の蟻が寒くなってきた中にも日溜りの道を通って一生懸命仕事している姿に感心している作者を思い浮かべます。

逆に「この蟻だけ」という部分が重要だとしたら「日溜り」は不要な情報ではないでしょうか。

一匹の列から外れた蟻の居りコンクリの縁をひたすらに這う

などとすると、列から外れた一匹の蟻を「不器用な存在」と見て、ちょっとハラハラしながら見守っている作者を思い浮かべます。

前者と後者では蟻に対する見方が全然違ってきますので、この時作者はどんな気持ちでその蟻を見ていたのか、もう一度思い返してみて欲しいと思います。

 

11・五十年太鼓率いた偉丈夫の引退宣言小(ち)さき祭に(畠山)

私が参加する地域の太鼓クラブを五十年間率いてきた先生が観客もまばらな小さなお祭のパフォーマンスの中で引退の発言をしました。

昭和の頃にはかなりの子供が所属する賑やかなクラブだったようですが、少子化の影響をモロに受け今やすっかり縮小してしまい、お祭のパフォーマンスもカツカツの人数でやっています。

特に今年の夏の暑さは厳しく、元々体格の良い方ではありますが八十近い身体には相当堪えたのではないかと思います。

そして夏の賑やかなお祭を一通り終え、11月の小さな公民館のお祭、しかも天候が悪く一気に寒くなり人が全然集まらなかったうら寂しいお祭で、明るく振る舞いながらも引退を口にされました。

五十年間、言わば人生のほとんどを捧げて来た活動の引退宣言をこんな小さなお祭でかぁ、と思うと何だかとても切なくなってしまいました。

「引退宣言小さき」と続くと読みにくいので「引退宣言 小さき」と一字空けようと思います。文章としては「引退宣言」なのですが、「引退宣言」だけで既に八音なのでこれ以上は増やしたくないなぁと。

あと「率いる」は旧カナでは「率ゐる」でした。

by sozaijiten Image Book 5

今月の歌会報と来月の歌会について

今月(2023年10月)の歌会報ですが、誠に勝手ながらお休みとさせていただきます。

いつも読んで下さっている方には大変申し訳ありません。

 

家の老猫(16歳)が眼内出血してしまい、病院にかかったり何だりでちょっとまとめる余裕がなさそうなので…。

歌会の前日の夜に急に眼が真っ赤になってしまい、夜間救急に駆け込んだところ、なるべく早くかかりつけ医に診せた方がいいとのことで、夜にもかかわらず金澤さんに泣きついて急な資料作成をお願いしてしまいました。

帯状疱疹にかかってお休みさせていただいた時もお世話になりまして、本当に助かりました。ありがとうございます!

 

また来月11月の歌会ですが、いつもの第三金曜日には会場が取れず、第四金曜日(11月24日)に行うこととなりました。

締切は二週間前(11月10日)です。

よろしくお願いいたします。

◆歌会報 2023年9月 (その2)

◆歌会報 2023年9月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。

 

第136回(2023/09/15) 澪の会詠草(その2)

 

14・一口に切ってひんやり楊枝刺し実家の桃を大皿に盛る(山本)

「ひんやり」の位置が少し気になりました。「ひんやり楊枝を刺す」と続くと、「楊枝を刺す」という行動にかかってしまい、ちょっと違和感がありますよね。

「ひんやりを一口に切って楊枝刺し」とした方が「ひんやり(冷えた桃)を一口大に切って楊枝を刺し」という意味に読めるのではないでしょうか。

ただし「ひんやりを」「桃を」と「を」が被ってしまうため、「よく冷やし一口に切って」などとしてしまった方がいいかもしれません。「ひんやり」は体感的な表現なので活かしたい気もするのですが、その場合「一口に切る」か「楊枝を刺す」かのどちらかを切って調整しないと難しいかもしれません。

果物はすっかり贅沢品となってしまった今日この頃ですから、大皿に盛るほどの桃なんて羨ましいですね。しかも果物の名産地・長野の桃だと思うので、想像しただけで…じゅるり。そうだ「長野」という実家の地名が入ってもいいかもしれませんね。

 

15・梅干しもふるさとの味の冷や汁も貴方がいるから作っていたの(大塚)

自然に読めて素直に心に入って来る良い歌ですね。

「作っていたの」という口語もこの歌では活きていると思います。

修正は必要ないと思います。

今月はどちらの歌も作者の何ともいえない寂しさがじんわりと伝わってくる歌でした。

 

16・晩夏行く朝の垣根のあさがおは夏の主役を清楚に下ろす(小夜)

「晩夏行く」が少し気になります。下の句で「夏の主役を下ろす」と言っているので、ここで更に「夏」の終わりであることを言わなくても場面の時期は分かると思います。

また「主役を降ろす」というと他動詞で「監督が主役を降ろす」というように使うのですが、ここはあさがおが自ら主役の座を遠慮するという意味だと思うので、自動詞の「主役を降りる」とした方がいいと思います。「舞台の幕を下ろす」と少しごっちゃになってしまったのかもしれません。

「少しずつ花の数減り」「朝ごとに小さくなりて」など「清楚に」と感じた理由の情報が入ってくると嬉しいですね。

 

17・夕間暮れ隣家の庭に白百合の主待ち顔でひっそり咲ける(栗田)

「主(ぬし)待ち顔」という造語が少し気になりました。「人待ち顔」とは言いますが「主待ち顔」とは言わないような。「主(あるじ)を待ちて」「主待つかに」などでいいのではないでしょうか。

また結句は「ひっそりと咲く」と終止形にしましょう。「咲く」「咲けり」「咲きおり」「咲きたり」「咲きぬ」「咲きけり」などが終止形で、「咲ける」は「咲ける花」のように後ろに続く名詞にかかる連体形です。

また「隣家」というのは空家だそうで、それで「主を待っている」ということなので、それなら「空家」と言ってしまった方が断然良いと思いました。

夕間暮れ空家の庭に白百合の主を待ちてひっそりと咲く

としてみてはどうでしょうか。

 

18・湘南は八月に入れば「土用波」聞き慣れし言葉ヒョイと思い出す(飯島)

湘南では八月に入ったら「土用波」とよく言っていたなぁ、と昔よく聞いていた言葉をふと思い出した作者。

土用波(どようなみ)とは、晩夏にあたる「夏の土用」の時期に、太平洋上の台風の影響で発生する大波のこと。風が無いように見えても突然に大きな波が来たりして危険なので、昔から海の近くで生活している人などの間では「八月に入ったらもう土用波だからね(注意しなさい)」というように言われていたのだと思います。

ただ「聞き慣れた」言葉を「ヒョイと思い出す」という繋がりにやや違和感を覚えました。ヒョイと思い出したということは最近では聞いていなかったということですよね。過去形にしても「慣れた」という単語に「思い出す」という動作がしっくりこないというか。「懐かしき言葉」「よく聞いた言葉」「母らの言葉」などなら違和感はないのですが。

また結句の「ヒョイと思い出す」の「ヒョイ」は適切でしょうか。結句ですし「ふと思い出す」として七音に収めた方が落ち着くのではないでしょうか。

 

19・川原に葛の葉群れり透き間から赤紫の花見ゆる朝(名田部)

上の句で「群れり」と終止形にして切ってしまう意味が今回はないかな、と思います。「川原に葛の葉群れて」「川原に葛の葉の群れ」として、その隙間から赤紫の花がどのように咲いている、と続けた方がすんなりと読めると思います。

また「透き間から」とあるので、隙間から花が「見える・覗く・咲いている」などの言葉は要らないと思います。

その分、どのように咲いていたか、「鮮やかに・くらぐらと・あかあかと」などの花の印象が語られると良い歌になると思います。

 

20・夏スカート手縫いで仕上げ身に付ける裁縫箱には縫い針とハサミと(戸塚)

スカートを手縫いして身に付けるという上の句はとても良いと思います。

既製品と手作りでは愛着度が全然違いますからね。ちょっと自慢気にうきうきしながら仕上がってすぐのスカートを身に付けてみている作者が浮かびます。

下の句は、仕立てるためについ今さっきまで使っていた縫い針とハサミがすぐ横の裁縫箱にある様子、仕立てたばかりで裁縫箱の片付けも後にしてすぐ試着してみている様子を描写したかったのでは、と思ったのですがどうでしょうか。

ただ「縫い針とハサミと」では九音になってしまいますし、動詞を省略していますが、通常「~に、には」と言えば「が、ある」という動詞が省略されているもので、「裁縫箱には縫い針とハサミがある」のは裁縫箱なんだから当たり前では?と読まれてしまうかもしれません。

裁縫箱を片付ける前に試着している、ということが分かる表現にしたいですよね。

また「縫い針」は「針」だけで通じると思います。

「針とハサミを箱に残して」「裁縫箱は開いたままに」など裁縫箱を片付ける間もなく、ということが分かる言い回しを探してみてください。

歌の場面(核)の切り取り方はとても良いと思います。

 

21・母の住む施設の窓辺の百日紅 夏の陽集めピンクわきたつ(金澤)

百日紅サルスベリ・ヒャクニチコウ)には赤白ピンクなどの色がありますが、一番良く見るのは濃いピンクのタイプですね。この猛暑にも負けず百日紅のピンク色は景色の中でも一際強い色彩を誇って咲いているように見えました。

百日紅」のあとの一字空けは必要でしょうか。助詞を入れると字余りになってしまうから、また助詞を入れずに漢字が続くと読みにくいから、ということで入れた空白で、ここに一呼吸欲しいから、または場面が大きく変わるから、という意味のある空白ではないのではないでしょうか。

空白を意図的な効果として入れているのでなければ、字余りでも助詞を入れるか、漢字続きが気になるならどちらかをひらがなにする、などにした方が良いと思います。

個人的には「夏の陽(を)集め」「ピンク(色が)わきたつ」など他でも助詞が省略されているため、ここは一字字余りでも「百日紅は」と助詞を入れてしまった方がいいのでは、と思いました。また助詞を入れて一字字余りになることで、「ヒャクニチコウ(六音)」では多すぎるので「サルスベリ(五音)」と読ませることが確定するのではないかと思います。

 

22・移りゆく季節しみじみベランダにみんみん蟬の声弱々し(川井)

ベランダに聴くみんみん蟬の声が弱々しくなってきていることで季節が移っているんだなぁとしみじみ感じている作者かと思いますが、「しみじみ」という表現が概念的で少し惜しいと思います。

何をもって「移りゆく季節だなぁとしみじみ」感じたのか、そこの描写をもっと詳細に描いて欲しいかな、と思います。

それは今回「弱々しいみんみん蟬の声」だと思うので、いつ(晩夏の夕・夏の終わりに・長月に・今日から九月、など)みんみん蟬がどんな感じに弱々しく鳴いている、という内容でまとめ、その描写で読者自身に「移りゆく季節を感じてしみじみ」して貰えるようにして欲しいと思います。

弱々しい感じ…途切れ途切れとか、合間が延びてとか、音階下がりとかでしょうか。

このところ毎月具体的ですっと場面を構築できる素敵な歌を詠まれている作者なのできっと出来ると思います。

 

23・「エモい」には得も言われぬの説もあり暫し納得 語源俗解(ぞっかい)(緒方)

「エモい」とは、英語の「emotional(エモーショナル)」に由来する、なんとも言い表しづらい気持ちになった時に使われる昨今の若者の間でよく使われるスラングです。 主に、感情が揺さぶられた時、切なく懐かしいような気持ちになった時、強く心が動かされた時など、いわゆる「キュンとくる」感情を表す時に使われます。

その若者言葉が「得も言われぬ」というやや古い(若者は使わないような)言い回しから来ている、という説もある、という根拠のない素人語源説にしばし納得してしまった、という歌ですが、これも10番の歌と同様、「知識」を元に作者の「感想」を述べた感じになってしまっていて、読者の「情」を動かす場面の構築に至れていないのでは、と思いました。

景色や日常生活など実際に目の前にあるものを歌うのと違って難しい題材だとは思いますが、戦争や技術、若者言葉など題材自体は決して悪くないと思います。

ただ現在の歌い方では感想や雑学の紹介で止まってしまって、読者の感情を動かし読者の中で考えさせるにまでは至れていないと思います。

絵画と同じで、いきなり難しい大作を描こうとせず、まずは観察がしやすい静物画・風景画などのデッサンがしっかり出来るようになることが大切かもしれません。

デッサンがしっかり出来るようになれば、目の前に実物がないものもしっかり描けるようになるのではないでしょうか。

 

24・行く夏の雲が高いと気づく朝 銀の飛行機まっすぐに行く(鳥澤)

「雲が高いと気付く」という表現がとても良いですね。一首目(11番)の歌もそうでしたが、季節の移り変わりに「あっ」と気が付く瞬間をとても上手く言語化していると思います。

位置が離れているのでそこまで気にならないとも言えますが、「行く夏」と「まっすぐに行く」の「行く」が被るので上の句を「夏過ぎて」「夏の末」「夏終わり」など言い換えた方がいいかもしれません。

まだまだ気温は暑いのだけれど、ほんの僅かだけれど確実に来ている秋の気配を感じる爽やかな歌ですね。

一字空けて雲から銀の飛行機にフォーカスしている部分も効いていると思います。

おそらく大半の人が暑い日の中にも何となくうっすらと秋の気配を感じているのではないかと思うのですが、その「何となく」を突き詰めて「何故だろう」とまではいちいち考えないと思うのです。その「何故だろう」を突き詰めて考え、言語化するのが短歌の仕事の一つで、いつの間にか蟋蟀の声が聴こえるから、日が暮れると涼しい風が吹くようになったから、空が高くなってきたから、空気がカラッとしてきたから、蝉の声が弱々しくなってきたから、朝顔が小さくなってきたから、など何故秋の気配を感じたのか、それぞれの視点から様々な「具体的な理由」を探し言語化することが大事です。

読者も何となく感じていたことの答えを言葉にしてもらったことで、そうそうそうなのよ、私もそれで秋の気配を感じていたんだわ、と自分の中にもやもやとしてあった感情が言語化されて輪郭がはっきり見えてくることが喜びとなり、それが「共感」ということだと思います。

 

25・沈黙の原子炉建屋しゆくしゆくと汚染処理水を海へ行(ゆ)かしむ(小幡)

題材が社会問題(具体的に観察できる事物ではないもの)のため、さすがにこの作者でも少し難しかったのかな、という気がします。

自分の目でしっかり見れる事柄と違って社会問題や報道の内容などを題材にするのは本当に難しいと思います。

「粛々と」と漢字ではないのは、画数が多い漢字を多用したくなかったから、なのかオノマトペ的(しゅわしゅわと)な扱いで使っているのかでもまた印象は変わる気がします。

この「しゅくしゅくと」のように「粛々」など漢字にして意味を持つ言葉にせず、「どぽどぽと」など水が放出される様子そのものの表現などにした方がもっと読者自身に考えさせる場面を描けるのではないかと思いました。

 

26・日が暮れてやうやう蟬の鳴く葉月 熱中症のアラート続く(畠山)

今年の夏は暑すぎたのか、もはや日中に蝉が鳴かなくなり、日が暮れてからようやく「みーんみんみんみん…」と聴こえてくるようになりました。

「やうやう(ようよう)」は「漸く(ようやく)」と同じ意味なのですが、普通によく使う「ようやく」の方が分かりやすいかな、と思いました。

また「鳴く葉月」よりも「声ひびく」とかの方が説明っぽくならないかな、と。

日が暮れてから鳴きだすということで「ひぐらし」かと思ったという方もいたのですが、ひぐらしだと涼しげだし、元々夕暮れから鳴きだす習性なので、暑さのあまり日が暮れてからやっと鳴きだす、という意味にはならないですよね。

「日が暮れて漸くみんみん蟬のこゑ」とかの方が分かりやすいかもしれませんね。

 

☆今月の好評歌は12番、小幡さんの

茹で時間それぞれ違ふ残り麺を夫とすすりて夏を惜しみぬ

となりました。

「茹で時間それぞれ違う残り麺」という題材への気付きと言語化が素晴らしい歌ですね。

個人的には2・15番の大塚さんの挽歌も切なくてとても良い歌だと思いますし、8番の金澤さんの非日常のハイタッチも面白かったですし、11・24番の鳥澤さんの秋の気配への気付きの歌もとても共感出来て、一番の好評歌というと迷う月でした。

By PhotoAC ikenagahayato

◆歌会報 2023年9月 (その1)

◆歌会報 2023年9月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。

 

第136回(2023/09/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・今日からは八十歳の仲間入りグランドオープン転ばぬ速さ(山本)

上の句はとても良く分かります。単純に「今日から八十歳」というのではなく、「仲間入り」とするところが自己を少し突き放して見た捉え方で面白いと思います。「仲間入り」とすることで、八十歳という年齢を不安もありつつも意外とポジティブに捉え、世間一般の八十歳のイメージよりずっとアクティブであろう作者像が浮かびます。

ただ下の句が少し分かりにくいかと思います。グランドオープン(新規開店)の店に転ばない程度の速さで駆け込む、という状況だと思うのですが、この場合やはり助詞の「に」か「へ」が必要かと思います。けれど「グランドオープン」だとこれだけで八音になってしまい助詞を入れると九音となりちょっと厳しいので、「オープンセールに」「新規開店へ」としてみてはどうでしょうか。

これからはオープンセールに行くにして転ばないようにしなくちゃ、という意味で「オープンセール」としてもいいかもしれません。

そして結句の「転ばぬ速さ」も字余りにはなりますが「転ばぬ速さ」などの助詞が付かないと暗黙の了解で省略されている「駆け込む・走り込む」という動詞に繋げることができません。

「オープンセールも転ばぬ速さに」「新規開店へ転ばぬ速さに」としてはどうでしょうか。

 

2・玄関の取手のそばに糸とんぼふわりふんわり夫に似ている(大塚)

「ふわりふんわり」という糸とんぼの表現がいいですね。

ただこの「夫」はやはりこの一首の中で「亡夫」だと分かった方がいいと思います。

今は亡き夫を糸とんぼという細く儚い命がふわりふんわりと飛ぶ姿の中に見ることで「ひょっとしたらあの人が姿を変えてちょっと逢いに来てくれたんじゃないかしら」という作者の寂しさ、切なさがぐっと迫って来ますが、「夫に似ている」だと物腰柔らかで優しそうなご主人がいらっしゃるのね、と読まれてしまうかもしれません。

「亡き夫がいる」「亡夫(つま)の来ており」などとしてみてはどうでしょうか。

「ふわりふんわり」の中に、優しそうなご主人との色々な想い出が見えてくるようで切ないけれど素敵な歌ですね。

 

3・赤トンボサンバイザーにつと止まりだまって告げし消えゆく夏を(小夜)

こちらは赤とんぼ。カタカナだと「サンバイザー」に続き読みにくいので「赤とんぼ」「赤蜻蛉」など表記を変えましょう。

また「だまって告げし」というと過去のこととなる上に「告げし日・告げし夏」など名詞に続かないと文法的に誤りです。

また「消えゆく夏を告げる」というのは想像による描写(実際にとんぼがヒトに意識的に何かを“告げる”という事は無いため)なので、更に「だまって」というとんぼに意思を持たせる表現は少しくどいかな、と思います。

「告げているかも消えゆく夏を」「消えゆく夏をしずかに告げる」などとしてみてはどうでしょうか。

赤とんぼがサンバイザーにつと止まった一瞬、という焦点の絞り方はとても良いと思います。

 

4・用終えて外は土砂降り雨宿り小雨に家路へ着けば青空(栗田)

丁寧なのですが、丁寧な「解説」になってしまっていると思います。良い絵はその作品が描かれた経緯や場面や事情の説明がなくても、その絵だけで見る人を引き込みますよね。歌も作者がハッとした場面を一枚の絵として描くように、そして絵の脇に注釈を付けるのではなく、絵(一瞬の場面の描写)自体を丁寧に描けるようになりたいものです。記憶の中でどこを描けば一番印象的かな、と探してみてください。

ここはやっぱり「家に着いたら青空」が一番印象的な場面ではないでしょうか。青空の対比として「土砂降り」も外せないでしょう。

土砂降りに雨宿りしつつ家路ゆき着いたとたんに真青な空

とか、土砂降りからの青空、という場面だけでまとめられないか考えてみてください。

 

5・からし蕾を持つも猛暑日に花咲かせずに自らが枯れ(飯島)

ヤブガラシ

ja.wikipedia.org

藪を枯らすほど生命力が強い、という蔓植物である「藪枯らし」ですら今年の暑さに耐えられなかったようです。

「藪枯らし」と書くと結句の「枯れ」と被るということで「藪からし」と表記したのかな、と思いますが、位置も離れているしここは漢字にしてしまった方が分かるかなぁという気がします。

また連用形の「枯れ」では結句が落ち着かないので「自ら枯れる」と終止形にしましょう。

藪を枯らすという名を持つのに、藪を枯らす前に自らが枯れてしまった、ということを言いたいのだと思いますが、「自ら」と言ってしまうのは少し理屈に傾いているかなぁという印象も受けます。

藪枯らしが猛暑に、小さく・萎んで・蔓もへにゃりと・花開かぬまま,、枯れてしまった、として藪を枯らすという名のようには勢力を伸ばせずに枯れてしまった、という事は匂わすくらいで止めておいた方が歌としてはいいのかも、と思いました。余裕があれば二首目として考えてみてください。

 

6・欠氷抹茶の山にミルクかけ白玉と餡のせさくさくと(名田部)

「かき氷」は確かに漢字では「欠氷」と書くのですが、一般的ではないので違和感の方が先に立ってしまう気がします。ここは誰もが商品名として見たことのある「かき氷」という表記でいいのではないでしょうか。

また「抹茶の山に~餡のせ」まではとても丁寧なのですが、4番の歌と同じで丁寧な解説になってしまっていると思います。

この歌の核は色々乗せた豪華な「かき氷を食べることで夏のひと時を楽しむ作者」なのではないでしょうか。

かき氷に何をどの手順で乗せたかが核ではないと思います。

その核である部分が「さくさくと」の五音しかないのは少しバランスが悪いですね。「さくさく旨し」など、結句七音しっかり使いたいところです。

なので何を乗せたか、如何に豪華なかき氷にしたかは四句までで上手くまとめましょう。

かき氷抹茶の山にミルクと餡、白玉も乗せさくさく旨し

などとすれば豪華なかき氷を楽しむ食欲旺盛で元気な作者像が見えてくるのではないでしょうか。

 

7・神宮の森の開発に異を唱え音楽家は生涯を終えた(戸塚)

坂本龍一氏のことですね。

「音楽家」という表現ですが、ロシアの侵攻に反対してピアノの演奏をした名も知らぬ(少なくとも日本人には)ロシア人音楽家などの場合と違って、坂本龍一氏は具体的に名前を挙げてしまった方が、イメージがはっきりするのではないでしょうか。

音数的にも「音楽家は」と字足らずの六音よりも「坂本龍一」と字余りの八音にした方が読みやすいと思います。

また結句が「生涯を終えた」だと八音になってしまうのと、「終えた」という口語は「生涯」という重い言葉に対して適切かというと短歌的にはちょっとどうかなという気がします。

「生涯を終う」「生涯終えぬ」「生涯終えり」「生涯を閉ず」などの文語にした方がいいと思います。

 

8・追加点に隣の人とハイタッチ非日常の球場だから(金澤)

応援するチームの追加点に喜んで「わーい、やったネ!」と見知らぬ隣の人とハイタッチをした作者。それが「非日常の球場だから」というのが面白いですね。

「~だから」と思いっきり理由を述べているにも関わらず、理屈っぽくない(笑)。珍しい例だと思いますが、今回はとても上手く活きていると思います。

「隣の人」というと私はまず「家のお隣さん」を思い浮かべてしまって、近所の人と仲が良く、近隣で行われた小さなスポーツ大会での事かな、なんて想像してしまいました。「非日常の球場」まで読み進めてから「あっ、(プロ野球とかの大きな)球場の席で隣になった人か!」という感じになってしまったので「見知らぬ人」の方が分かりやすいかな、と思ったのですが、他の方はそんなことは思わなかったということで「隣の人」でいいのではという意見に収まりました。

もちろんよく読めばちゃんと分かるのですが、「(家の)お隣さん」というと良く見知った仲ということで意味的に真逆となってしまうので、迷う可能性があるならどうかなぁ、と思うのですが…どうでしょう。

 

9・ハンカチを一枚二枚と猛暑日に拭う汗のごとことば溢れよ(川井)

ハンカチを一枚二枚と使うほど汗をかいてしまう暑さ。言葉(歌)もこれくらい次々と溢れ出てくれればいいのに、という作者。

「汗のごとことば」とひらがなが続くと少し読みにくいので「言葉」は漢字にした方が良いのではないでしょうか。漢字が多くて硬いかなと感じたら「あふれよ」の方をひらがなにしてみてはどうでしょうか。

ハンカチに拭う汗のごと、ではなくハンカチを「一枚二枚と」(使って)という表現が効いていると思います。

 

10・桂離宮泣きたい程に美しき』泣くしか術なし恐れ入りたり(緒方)

桂離宮への「泣きたくなるほど美しい印象だ」というセリフは1930年代に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウトが「日本建築の世界的奇跡」と絶賛した時の有名な言葉です。

ただこの文章からは雑学的な知識は得られるのですが、「へぇ~」で終ってしまって、美しいとされる桂離宮の映像が具体的に思い浮かべられません。

「泣くしか術なし」と言っていますが、実際にはどのような光景を見て泣いたのでしょうか。

庭でしょうか、建物の外観でしょうか、室内でしょうか、室内から庭を見た時の光景でしょうか、季節はいつ頃でしょうか。そういった具体的な情報が一つもないため、この文章だけでは、実際に桂離宮に行った「経験」がある人以外は中々その「美しさ」を思い描けないと思います。読者の知識と経験に頼っている歌、ということになります。

実際の桂離宮を見たことがない人でも泣きたくなるほど美しい場面を思い描けるよう、作者が「美しい」と感じた光景をもっと具体的に描いて欲しいなと思います。

 

11・夕暮れの風のかわりめ蝉やみていつ生まれしか蟋蟀の鳴く(鳥澤)

まだまだ厳しい残暑が続いてはいますが、本当にある時ふっと「あ、もう秋が来てるんだな」と感じる場面がありますよね。

夕暮れの風が暑い中にも僅かに涼しさを含み始めた、そんな一瞬を捉えた歌だと感じます。

蝉の声が止み、いつの間に生まれたのだろうか、蟋蟀の澄んだ声が聴こえてくる。情感溢れる素敵な歌だと思います。

 

12・茹で時間それぞれ違ふ残り麺を夫とすすりて夏を惜しみぬ(小幡)

「茹で時間がそれぞれ違う残り麺」という具体が素晴らしいと思います。

素麺や冷や麦、ざるうどん、ざる蕎麦など、麺類をよく食べる夏の終わりによくある光景だと思いますが、何気なくやり過ごしてしまって敢えて言葉にはしないような一瞬をよくぞ捉えたなぁと思います。

この具体的な情報により、軽い麺類をよく食べていた暑い夏の終わり、一回で一袋全部使うような家族構成でなく、茹で時間が違うから面倒くさいと余らせたまま賞味期限が切れて捨ててしまったりすることなく使い切る作者のきちんとした家事仕事への姿勢など様々なものが見えてきますね。

こうして上の句が具体的なので、結句で「夏を惜しみぬ」と概念的に言ってしまっても十分その感情に乗れると思います。

 

13・突然の土砂降りに人ら空を見てたちまち道より小走りに消ゆ(畠山)

締切日直前、4番の歌と同じ日の土砂降りかもしれません(笑)。

ポツ、と来てから土砂降りになるまで約二分。あっという間でした。丁度街に買い物に行っていたのですが、それまで道に大勢いた人が迫る黒雲を見て「こりゃヤバい」とあっという間に屋内に避難して道から消えたのが印象的でした。これぞ蜘蛛の子を散らすよう…って、蜘蛛の子が散る所を見たことないんですけどね。

「あっという間に人の姿が消えた」が核ですから、「空を見て」は要らない情報かなと思いました。

突然に土砂降りの来てたちまちに街往く人ら小走りに消ゆ

うーん、少し弱いような。もう「蜘蛛の子を散らす」と言ってしまった方がいいんでしょうか。

蜘蛛の子を散らす如くよ突然の土砂降りに人ら小走りに消ゆ

なるべく出来合いの言葉である慣用句は使いたくないのですが。漢字も多いしやっぱり前の方がいいかも…。悩むところです。

まぁこうやって色々言い換えてみたり、順番を変えたり、パズルみたいにぴったりの言葉を探す作業こそが短歌の楽しい所なのかもしれませんね。

 

by PhotoAC Tokkuri