短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年8月 (その2)

◆歌会報 2023年8月 (その2)

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第135回(2023/08/25) 澪の会詠草(その2)

 

13・ランタナの咲くをイメージ隅田川ふるさと長野の花火入賞(山本)


ランタナ

ja.wikipedia.org

の花が咲くイメージで作られた故郷の長野の花火が、隅田川の花火大会で入賞をした、という内容だと思いますが、一首に入れるには核が絞り切れていないかな、と思います。

言いたいことが多すぎるため単語を詰め込むだけで三十一音が一杯になってしまい、助詞も入らず言葉がブツ切れてしまいます。

ランタナをイメージした花火がどう(鮮やかに・可憐に・色とりどりに)上がった

・どのように(色鮮やかに・七色の色に・可憐にぽんぽん)上がる花火はふるさとの長野の業者が作ったものだ

・ふるさとの長野の作った新作花火が隅田川の大会で入賞した

の三つくらいには分けられる内容だと思うので、どこを一番歌いたいのか考えてみてください。いっそのこと三首連作で作ってみると良い練習になると思うので、是非挑戦してみてくださいね。

 

14・こぼれ種 日照り続きの土に生き百日草の赤い花咲く(鳥澤)

こぼれ種が日照りの続く土にも健気に育ち、百日草の赤い花が咲いた。

「こぼれ種日照り…」と続くと読みづらいということで一字空白を置いたのだと思いますが、場面や視点、流れが大きく変わる部分ではないためここに一呼吸入れる必要はあまりないかなぁと思います。

「ひでり」をひらがなにすればとの案も出ていましたが、画数多く重い漢字でもないのでそのまま「日照り」で続けてもいいのでは、と思います。

また「こぼれ種ひでり続きの土に生く」「こぼれ種日照りの続く土に生く」などとして上の句に終止形を置いて切り、下の句で「百日草の花赤々と」「百日草の赤々と咲く」など百日草の咲いている姿にフォーカスするとより鮮やかな場面が見えてくると思います。

コンクリートの僅かな隙間で育っている雑草などもそうですけど、人の助けがない場所で頑張って育っているこぼれ種って健気さと同時に強さも感じて、何だか応援したくなりますよね。

 

15・餌取れず何度も降下カワセミの勝負の青が風きる川面(小夜)

「勝負の青」という表現がとても良いですね!

「何度も降下する」という場面も、しっかりとした観察からくる具体的な表現でとても自然に場面が見えてきます。

「何度も降下」と「勝負の青」が強く鮮やかなイメージを作り上げているので、逆に「風きる」は少し目立たない表現に抑えた方がいいかもしれません。

また初句の「餌取れず」という部分が少し理屈っぽく感じてしまう(餌が取れないので、と理由を述べている)ため、「餌狙い」などにした方がいいのでは、と思いました。

餌狙い何度も降下のカワセミの勝負の青が川面を走る

などとしてはどうでしょうか。

場面がしっかり見えてくるとても良い歌だと思います。この調子です。

 

16・葉月朝快晴の空に音がして小さな飛機の天中に居り(栗田)

音がしてふと見上げたら、夏の強い光をキラリとはね返すような小さな飛行機が見えたのではないでしょうか。八月のもう既に暑い予感がする明るい空の光景が思い浮かびますね。

「葉月朝快晴の」と漢字が続き、重く読みづらいので、初句は「夏の朝」くらいにしてひらがなを入れて軽くしてしまいましょう。意味に迷う位置でもないので「朝」すらひらがなでもいいかもしれません。

また普通「飛機」とはあまり言いませんよね。普通に「飛行機」でいいと思います。また飛行機は生き物ではないので「居り」よりも「在り」という方がしっくりくる気がします。

夏のあさ快晴の空に音がして小さな飛行機天中にあり

としてはどうでしょうか。

 

17・孫の香の残れる部屋に折り紙の赤いハートにありがとうの字(金澤)

嬉しい置き土産ですね。捨てられずに大切にしまい込んでしまいそう(笑)。

「部屋に」と「ハートに」で「に」が被ってしまうので、どちらかを変えたいですね。「へ」というと対象に広がりを感じ、「に」というと対象を限定する感じですね。そうすると視線を集中したい「赤いハート」に「に」を使いたいので「部屋」の方を「へ」に変えましょう。部屋にバーンと置いてあるのではなく、部屋へそっと置いてあるイメージになりますね。

また結句の「ありがとうの字」ですが、ただ形として見るなら「字」でもいいのですが(字が上手い・読みやすい字など)、意味を込めたものとして見るなら「文字」を使う方が一般的かと思います。

ただ結句ですし、意味は通りますから音数を重視して「字」とするか、自然さを重視して字余りでも「文字」とするかは迷うところですね。

字余りとしても、読んでみてそれほどもたつく感じもないか、もったり気になる感じか。何度か口に出して読んでみて最終的には作者の判断で決めてください。

 

18・夏の夕居ずまい正し朗々と謡いの稽古老いし日の父(飯島)

夏の夕方に居ずまいを正して朗々と謡(うたい)の稽古をする在りし日の老いた父の姿を思い出す作者。

「謡の稽古」という助詞が必要かなと思います。

また「居ずまい正し朗々と」はやや概念的かなぁと。特に「朗々と」は大雑把な表現なので、そんな情報よりももっと作者の目で見た情報が欲しいところです。

「とたんに背筋がすっと伸び」とか「正座の背筋はまっすぐに」とか、作者から見たお父様の「居ずまい」を具体的に描いて欲しいかなと思いました。

 

19・目が合うも素知らぬ猫は太っちょの体揺らして庭を横切る(川井)

「太っちょの体揺らして」が具体的なのでとてもユニークな光景がしっかり見えてきますね。

「素知らぬ顔」「見知らぬ猫」とは言いますが「素知らぬ猫」とは繋がらないと思うので、「素知らぬ顔に~猫が横切る」とした方が自然かと思います。

警戒が必要な相手や距離をしっかり把握してるんですよね。作者をチラッと見て「こいつは大丈夫」と判断した野良猫の様子がとてもよく伝わってきます。

 

20・一輪の露草鉢の片隅に凛とし咲きぬ鮮やかな青(名田部)

いつの間にこんなところに、というこぼれ種ですね。

「露草鉢の」と、字余りでも助詞が必要だと思います。少し漢字が多く重い印象になってしまうので、「露草」や「片隅」など意味の迷わないものをひらがなにして印象を柔らかにすると歌らしさが増すと思います。どちらをひらがなにするか、どちらもひらがなにするか、など書いてみて比べてみてください。

また「凜とし(する)咲きぬ(咲いた)」だと動詞が二重でくどいのと時系列で迷ってしまうので「凜と咲きたり」として整えましょう。

また結句はこのまま「鮮やかな青」でもいいのですが「鮮やかに青」としてもいいのでは、と思うので比べてみてください。

一輪の露草が鉢のかたすみに凛と咲きたり鮮やかに青

最近は歌の場面がしっかり絞られてきて、読者も無理なく作者の見た素敵な情景を思い描けるようになってきたと思います。この調子です。

 

21・晴天にそよ吹く風の屋外プール水温も良く一気にクロール(戸塚)

「一気にクロール」が良いですね。今月の歌は二首とも(ワッショイワッショイ)躍動感を感じました。

「そよ吹く風の屋外プール」ではなく「風のそよ吹く屋外プール」ではないでしょうか。

また「水温も良く」というのは知識的な情報ですので、「水を飛ばして」「腕を伸ばして」など視覚的な情報を探して欲しいと思います。

 

22・文月尽水平線は雲の峰イソシギしきりにか細く鳴けり(緒方)

入道雲のことを雲の峰というらしいです。

とすると「水平線」ではないでしょうか。

水平線の上にもくもくと入道雲の大きな山が湧き立っている。そんな広く大きな景色とイソシギのか細い鳴き声の対比が描きたかったのではないでしょうか。

ただイソシギのか細さに対して「文月尽」という情報でその対比が描けるでしょうか。

初句は軽く入った方がいいとはよく言いますが、今回は広大な景色に対するイソシギのか細さから感じる何とも言えない不安感、心もとなさが核だと思うので、景色(自然)の大きさについて述べないわけにはいかないのでは、と思います。「雲の峰水平線に聳え立つ」「高々と水平線に雲の峰」「もくもくと水平線に山湧きぬ」など夏の雲と分かり、広さ大きさが表せる情報が入ると対比が活きてくるのではないかと思います。

 

23・イカに塩、トマトに砂糖幼日の井戸に冷やしし朝の捥ぎたて(小幡)

朝の捥ぎたてを井戸に冷やしていた遠い昔、という場面は昭和情緒たっぷりでとても良いと思います。

ただ下の句が朝の捥ぎたて(野菜)を水に冷やす描写であるのに対し、上の句は「食べ方」の描写であるため、場面と時系列にズレが出てしまっていると思います。

「西瓜、茄子、トマトに胡瓜 幼日の~」と一首まるまる「朝の捥ぎたて」についてまとめてしまった方が良いのではないでしょうか。

「スイカに塩、トマトに砂糖」という子供の頃によくやった食べ方、という題材も面白いのでそれはそれで一首詠んでみせて欲しいですね。

 

24・新しき〈開発予定〉の看板の下をかさこそ蜥蜴(とかげ)が行けり(畠山)

〈開発予定〉と書かれた看板の下を、そんなことは微塵も知らないトカゲがいつも通り棲家に戻るようにかさかさーっと走って行った場面を詠んでみました。

「かさこそと行く」だけでは何か弱い、と言われたのですが、うーん、どうしたものやら。

かさこそと陰を探して蜥蜴行く〈開発予定〉の看板の下

とかでどうでしょうかね。突然に人間の都合で立った〈開発予定〉の看板ということで「新しき」は入れたかった気もするのですが…。

これまた人間のせいによる酷暑の中、少しでも日影を求めて入って行くのが〈開発予定〉の看板の影っていうのも皮肉ですよね。

 

25・熱中症警戒の街ガラガラと宅配人の台車ひびかう(御園生)

熱中症警戒アラートが出され人の姿のない街に宅配人の台車の音がガラガラと響き渡る。

この暑さの中、外のお仕事に携わる人は本当に大変ですよね。頭が下がります。

熱中症警戒の街はがらんどう」と街に人がいないことを描写するか、「熱中症警戒の街へガラガラと」と台車の音を描写するかで迷ったということです。

結句が「台車」なのでやはりこの時作者の印象に強く残ったのは「音」の方なのではないかなと思うので、私は「ガラガラと」の方に一票入れたいと思います。

そして「街ガラガラと」と助詞が必要かなと思います。

 

 

☆今月の好評歌は16番、栗田さんの

夏のあさ快晴の空に音がして小さな飛行機天中にあり

となりました(修正版)。

夏の眩しいくらい明るい快晴の空に飛ぶ飛行機を見る作者の「今日も暑くなりそうだなぁ」なんて声が聞こえてきそうですね。

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◆歌会報 2023年8月 (その1)

◆歌会報 2023年8月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似して投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様に著作権があるものとします。

 

第135回(2023/08/25) 澪の会詠草(その1)

 

1・諭されて納骨をした蝉しぐれ13回忌孫等も大人(山本)

ブログだと横書きなのですっと読めてしまいますが、基本的には短歌は縦書き表記で発表されるものなので、数字の表記は漢数字にして欲しいと思います。

そしてこのままだと諭されて納骨をしたのが十三回忌なのか、納骨をしてから十三年経つのかがよく分かりません。

ただ「諭されて」とあるのでどちらかというと十三年も経ってから「諭されて」ようやく納骨をした、と取られてしまうのではないでしょうか。そして亡くなった時には子供だった孫たちが十三年も経って納骨というイベントのためにまた集まり、それを見て大人になってしまったんだなぁ(随分時間がかかってしまったなぁ)、と感じているのでは、と読む人が多いと思います。

ですが作者に聞くと諭されて納骨をしてから十三年の方ということで、そうなると作者として歌の核がまだ絞り切れていないのかな、と思いました。

このままでは、「(本当は手放したくなかったけれど)諭されて納骨をしたのは蝉しぐれが印象的な日だった」という核と、「十三回忌に集まった孫たちはすっかり大人だなぁ(それだけ時間が経ったのだなぁ)」という核と、二つの重い核がある状態です。どちらの核を作者は言いたいのでしょうか。

それを整理して、採用しなかった方の情報はこの歌からは削らないと短い詩形である短歌には収まりきれません。

どちらも言いたいことだとしたら、それぞれを核にして二つの歌を作ってみてくださいね。

 

2・「暑すぎて誰も来にゃあ」と伊豆の海 空を飲み込みギラギラ青い(鳥澤)

上の句の方言がとても面白いですね。日に焼けた現地の(観光収入を頼りにしている)人が落胆しつつ、人もまばらな海を見て言っているような様子が思い描けます。

それだけに、下の句で主役が海の様子になってしまい、一首の中に於ける印象の比率が完全に二分されてしまったのが勿体ないかなぁと思います。

「暑すぎて誰も来にゃあ」と言っている伊豆の人物という核と、本来なら賑わっているはずの時期に人もまばらな海(自然・気象)の何とも言えない強さ(ギラギラ青い)という核で、それぞれ詠んでみて欲しいです。

また人を追いやる程の暑さの中にある海を「空を飲み込み」という表現で表せるかな、と思いました。「ギラギラ青い」という表現からは夏の陽射しを照り返す暑すぎる海がよく見えて来るのですが、「空を飲み込み」はちょっと分からないかなぁ、と思いました。

数人のサーファーだけが浮いている葉月の伊豆はギラギラ青い、とか、境界のブイだけぷかぷか泳いでる、とか具体的な描写で言った方が見えて来るのではないかと思いました。

 

3・コーヒー時ステゴザウルス雲湧きて湯気に立ち消ゆ仏陀となりぬ(小夜)

コーヒータイムにのんびりと雲を眺めていたら、ステゴザウルスのようだった雲が仏陀の形に変わった、という歌だと思います。

雲の形がステゴザウルスから仏陀へ変わったという見方はとても面白いと思います。

けれど「コーヒー時」「ステゴザウルス雲」という詰めた言い方はちょっと無理がありますし、「湯気に立ち消ゆ(立ち消える)。」「仏陀となりぬ(なった)。」とどちらも終止形なので自然に読めません。このままだと雲の形がステゴザウルスから仏陀に変わったのではなく、ステゴザウルス型の雲が湧いて消えた。(概念の存在である)仏陀になった(成仏した)のかな、というように読めてしまいます。

コーヒーの湯気の向こうの夏雲はステゴザウルスそして仏陀

とかなら少し自然になるかと思いますが、そもそも「コーヒータイム」であることはそれほど重要でしょうか。

夏のもくもくした雲がステゴザウルスから仏陀に変わったということだけでいいのではないでしょうか。春の薄くたなびく雲や秋の鱗雲、冬の一筆書きのような雲ではそうはなりません。夏のもくもくした入道雲だからこそのステゴザウルス(背びれ)であり仏陀螺髪)だと思うので、夏の雲がステゴザウルスから仏像になったよ、という核だけでまとめた方がより場面が生き生きと見えてくると思います。また「仏陀」と言うとどうしても概念の方と取られる危険があるので「仏像」とした方が確実かと思います。

真白なステゴザウルス夏空へいつしか座り仏像となる

などとしても「夏空・真白」で雲のことだなと分かるのではないでしょうか。

 

4・梅雨中に猛暑続きて紫陽花のじっと陽を浴びて日焼けし花よ(栗田)

雨に濡れた姿が一般的である紫陽花が「日焼け」しているという、作者の目によるしっかりとした観察が良いですね。まだ梅雨なのに猛暑で紫陽花が日焼けしているという異常気象に対する何とも言えない不安感も見えてきます。

上の句を「梅雨半ば猛暑続けり」として場面の知識的情報はまとめてしまった方がいいのではないでしょうか。その方がその後の視覚的情報に集中できると思います。一旦切ることで、導入部はじりじり照らす太陽が映るような遠景で、その後ぐっとカメラが紫陽花を大写しにするような感じになりますね。「猛暑続きて」として繋げるとカメラはずっとある一定の距離から動かず写している感じです。ヘタにカメラを動かさない方がブレずにしっかり写せる場合の方が多いですが、この様にモノローグ的な部分は遠景で、その後主役にぐっと寄る方が活きる場合もあります。

そしてぐっとカメラを寄せたので「紫陽花」として少し強めてもいいのではないでしょうか。

また「じっと陽を浴び」の「て」は八音になってしまいますし不要です。そして「じっと」というと紫陽花を擬人化して紫陽花がどのように陽を受けているかという情報になりますが、「じりじり陽を浴び」「じりりと陽を浴び」などとすると紫陽花がどんな陽射しを受けているかという情報になります。前者だと「じっと耐えているのね」という感じで、後者だと「焼け付くような陽射しね、辛そう」という感じになるのではないでしょうか。どちらがより作者の心情に近いか考えてみて下さいね。

また「日焼け花」では遠い過去のことになりますから、今現在日焼けしているということで「日焼けしており」としましょう。敢えて「花」と書かなくても梅雨半ばの話ですから花のことだというのは分かると思います。

梅雨半ば猛暑続けり紫陽花はじっと陽を浴び日焼けしており

 

5・あら、ここに花があるわと蜆蝶 留まられ草はつんと上向く(金澤)

「あら、ここに花があるわ」という蜆蝶(しじみちょう)目線の表現が面白いですね。蝶の目線にならなければ気付かないような目立たない花。蝶に留まられたことで花が自信を持ったかのようにつんと上向くという捉え方も個性的で面白いと感じました。

ただ「草は」となっている部分だけが気になりました。上の句で「花があるわ」と「花」という言葉を使ってしまっているので被らないように「草」にしたのではないかと思いますが、「草」というとどうしても「葉」の方にイメージが行ってしまいます。蝶に留まられることで認められたような気になった「花が」つんと上を向いたわけですよね。なので「黄花・小菊・ヨメナ・白花・イヌタデネジバナ」など「花」であることを確定した方がいいのではないかと思いました。三音までなら一字字余りでも「留まられ黄花は(の)」と助詞を入れた方が読みやすいと思いますが、四音になると全部で九音になってしまうため「留まられネジバナ」と助詞を省いて八音までに抑えた方がいいと思います。出来れば三音までの花にしてちゃんと助詞を入れたいところですね。

 

6・炎帝にたった一本凛と咲く夏水仙が庭引き締める(飯島)

水仙

ja.wikipedia.org

水仙ではなくヒガンバナの一種なんですね。ピンクのヒガンバナといったところでしょうか。いつもは群れて咲く花らしいのですが、今年はあまりの暑さからか一本しか咲かなかったそう。

そのこの暑さにも負けずたった一本凛と咲いた夏水仙が庭を引き締めている。

炎帝」は夏の「太陽そのもの」を指しますから、「炎帝に」と言うと「夏の太陽に」という意味になってしまうので「炎天に」ではないでしょうか。もっと正しく言うと空中に咲いているわけではないので「炎天下に」ですが、そこはぎりぎり許容範囲かなと思います。

また結句は「庭引き締める」より「庭を引き締む」と助詞を入れて文語調終止形にした方が引き締まると思います。

それにしても牡丹が咲いて、夏水仙も咲いて、秋明菊も咲いて、四季折々のお花が見られるお庭で羨ましいですね。いや、でも実際はお手入れとか大変なのかもしれませんが(笑)。四季折々、お庭の変化をじっくり観察して、言葉にして教えてくださいね。

 

7・抱え込む大玉スイカの濃い緑息深く吸い刃先を入れる(川井)

抱え込むほどの大きなスイカに最初に刃を入れる時の絶妙な緊張感が伝わってきますね。

イカも今やすっかり贅沢品になって、大玉どころか小玉ですら、丸い状態で手に入れて包丁を入れるという機会は減っているのではないかと思いますが、皆さんもこの何とも言えない緊張感走る一瞬、想像できるのではないでしょうか。何でもない日常のようでいて、とても面白い場面を切り取っているなぁと思いました。

「スイカの濃い緑」で助詞がなく体言止めになってしまっていますが、ここは「にorへ」の助詞が必要かな、と思います。「濃い緑へ」とすると六音になってしまうので「濃緑(こみどり)へ」とするとすっきり五音になりますね。

 

8・歩みゆく我胸に蟬止まりおる一時なれどブローチとなり(名田部)

生きた蝉が胸に止まって、ほんの一時ブローチとなった、という場面の切り取りと「ブローチ」という捉え方がとても良いですね。

「歩みゆく」というと何か強い意志を持って進んでいるイメージですが、ここはそんな意味を持たせず「歩きゆく」でいいのではないでしょうか。

また「我が胸」と言わなくても作者の胸であることは分かるので、その分「胸元へひたと蟬止まり」「胸へぴたりと蟬止まる」などとして視覚的情報が入るといいな、と思います。

また「一時なれど」と理屈っぽくなってしまう言い回しは極力避けた方が歌らしくなります。「~~である(断定)+けれども(否定・対立)」という、どちらも強く「理」を意味する言葉なので、そこにどうしても「断定+否定・対立」の意味が必要でなければ悪目立ちしてしまいます。

今回は「ほんの一時」「わずか一時」などでいいのではないでしょうか。

また結句が「ブローチとなり(連用形)」だと「ブローチとなり、どうした」という結果が必要です。終止形の「ブローチとなる」にしましょう。

歩きゆく胸元へひたと蟬止まりほんの一時ブローチとなる

歩きゆく胸へぴたりと蟬止まる僅かひととき我がブローチに

などとしてみてはどうでしょうか。

 

9・夏祭子供御輿に知った顔賽銭投るもワッショイワッショイ(戸塚)

夏祭の子供御輿の行列の中に見知った顔があって、応援の気持ちを込めて賽銭を投げたものの当の子供はこちらに意識を向けてくれずに御神輿を担ぐことに一生懸命で「ワッショイワッショイ」と行ってしまった、という場面でしょうか。「ワッショイワッショイ」が躍動感あって良いですね。御神輿担ぎに集中してどんどん行ってしまう子供たちの姿が浮かびます。

「投る」という送り仮名が必要かな、と思います。御神輿にお賽銭を投げるという場面がちょっと思い浮かばずに、御神輿を担いでいる人に向かって賽銭を投げつけたら痛いだろうし、大道芸などと違って移動するから道に散らばっちゃうし、その後どうするのかしら、集める係でもいるのかしら、などと思っていたのですが、御神輿の行列の中に臨時の小さい賽銭箱を持つ係がいて一緒に練り歩くんだそうです。へぇー、と思いました。

まぁこの歌でそこは核ではなく、詳しく説明する必要はないと思うので、私のように投げ銭(おひねり)のような場面を思い描いたとしてもいいのではないかな、と思います。

「子供御輿の行列の中に知った顔がいたので」ということで「子供御輿に知った顔」としたのだと思いますが、俳句なら「夏祭子供御輿に知った顔」で一句になると思いますが、短歌は下の句へ続くので「夏祭子供御輿の知る顔へ賽銭投げるも…」と助詞を入れて繋げた方が自然な文章になると思います。

 

10・我が姓と似る黄心樹(おがたま)を厄年の齢(よわい)に亡母は送り呉れたり(緒方)

オガタマノキは御神木としてよく神社などにある木で、縁起が良いとされる木です。今庭に植えてあるのを見ているのでしょうか、厄年の齢に母が送ってくれたなぁと思い出している作者かと思います。

ただ「我が姓と似る黄心樹」という知識がただの作者の知識なのか、思い出している母からの知識なのかでかなり違ってくると思います。

「これはオガタマと言うのよ。うちの姓(緒方)と似ているでしょう。とっても縁起の良い木なのよ。あなた今年厄年なんだから庭に植えておきなさい。ふふ」というようにお母様から得たことによって印象付けられた知識だとすると、上のようなやりとりが浮かび、今成長した木を見てそんなやりとりを作者は思い出しているのかなぁとほっこりしんみりするのですが、お母様関係なく作者の知識だとするとそのような場面が浮かばずお母様の人柄もあまり見えてきません。

我が姓に似る木と言いて黄心樹を亡母は厄年に贈り呉れたり

などとお母様からの知識とすることでお母様との思い出に結び付けて欲しいと思います。

また「送る」だと単純に相手の元へ物を移動(搬送)させる意味ですが「贈る」だと感情(感謝や労いなど)を込めて相手の元へ物品を渡す意味になるので、ここは厄年を気遣っての贈り物ですから「贈る」の方が合っていると思います。

 

11・巣立ち子か小(ち)さき燕は泣くばかり炎暑の電線かすか撓らせ(小幡)

巣立って親と離れ、もう一人で生きていかねばならないのか。小さな燕は炎暑の電線をかすかにしならせて泣くばかりだ。

ほんの数か月でもう巣立ちというだけでも厳しいのに、今年は更にこの暑さ。自然の厳しさを目の当たりにして切なくなりますね。

「炎暑の電線かすか撓らせ」が本当に…切ない。

ただ「泣くばかり」という漢字の選択が狙いすぎかなぁと思います。「泣く」とすると「悲しいよ、寂しいよ、不安だよ」という燕の擬人化した意識が表現されますが、「小さき燕」が「なくばかり」というだけでその不安感は十分見えてきますし、何より「炎暑の~」の描写が素晴らしいので、憶測を含む描写である「泣く」ではなく事実の描写である「鳴く」とした方が逆に切なさが増すのでは、と思います。

 

12・葛の葉の茂り虫らの棲家たる野原へ立てる「開発」の文字(畠山)

外出嫌いでほとんど引きこもりのような私にとって歌のネタの宝庫となっていた近所の野原(一部畑)にとうとう「開発予定」の看板が立ちました。

あぁ…これからどうしよう…四季…ネタ…。

季節ごとに春は風草、菜の花、ハルジョオン、夏は葛にマツヨイグサ、秋から冬は背高泡立ち草、アメリカセンダングサなどがわんさか茂っていて、今は葛が覇権を握っています。柿や梅などの木もあるので、様々な虫やミミズ、トカゲ、鳥などが集まっているのですが、開発が始まったら彼らはどうなっちゃうんだろうなぁと。

「葛の葉の茂り虫らの」という流れが読みにくいですね。「葛の葉の茂りて虫の」なら少し読みやすくなるでしょうか。

うーん、もっと変えて「葛茂りあまたの虫の棲む野へと或る日ぽつと立つ「開発」の文字」の方がいいかもしれませんね。

 

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◆八月の歌会

暑い日が続きますね。

エアコンは一晩つけっぱなしでも電気代は20円ちょっと(六畳用)らしいので、しっかり使いましょう。起動時に一番電気を使うため、ヘタに節約をしようとこまめに点けたり消したりすると逆に電気代はかかってしまうようですよ。

 

さて、八月の歌会ですが、第三金曜日は会場(アミュー)の予約ができず、第四金曜日に行うこととしましたのでご注意ください。

★第4金曜日(8月25日)12:30~16:00 アミュー601 です。

詠草の締切は8月11日(金・祝)です。

よろしくお願いいたします。

◆歌会報 2023年7月 (その2)

◆歌会報 2023年7月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第134回(2023/07/21) 澪の会詠草(その2)

 

13・夕月夜義母を惜しみて濃紫トルコキキョウのはらりと揺れて(山本)

月がかかっている夕方、義母を惜しむように濃紫(こむらさき)トルコキキョウがはらりと揺れている。

よく挑戦的な歌を詠んでくださる作者にしては少し大人しい気もしますが(笑)、詩的な風景ですね。

ただ上の句も下の句も「て」という接続助詞で終わっているため文章が落ち着きません。どちらかを変えましょう。

夕月夜義母を惜しめる濃紫トルコキキョウのはらりと揺れ

夕月夜義母を惜しみ濃紫トルコキキョウのはらりと揺るる

などとなりますが、「惜しみて」と理由を説明する形になると詩的寄りから報告書寄りになってしまいます。今回は全体的に柔らかい詩的なイメージの歌ですし、下の句を「て」として流して終える方が良いのではないでしょうか。

 

14・浜木綿の潮風匂うサーファーは波に寝そべる麦わら帽子(小夜)

浜木綿(はまゆう)の潮風匂うサーファーは麦わら帽子を被って波打ち際に寝そべっている、ということでしょうか。

切り取った場面、歌いたい景色は夏らしさ溢れるとても素敵な風景だと思います。

ただこのままの文法だと「サーファー」と主格の助詞が使われていますから、「サーファーは寝そべる」もしくは「サーファーは麦わら帽子(である)」のどちらかの意味となります。そして「サーファーは寝そべる」という意味の場合、結句の麦わら帽子には「麦わら帽子(~で・~を被り)」という助詞が必要になります。

でも作者も結句に持ってきているように、一番印象的だったの(主役)は「麦わら帽子」なのではないでしょうか。

そうすると「麦わら帽子」を主役にするためにはまず「サーファー」を主役から落とさねばなりません。「サーファー」とすると主役がサーファーになってしまいますから、「サーファーの」とします。この場合の「の」は主格(が・は・の)の「の」ではありません。「犬尻尾」のように後ろに続く名詞の説明となる連体修飾格の「の」です。ここでは「サーファーの麦わら帽子」という繋がりになり、麦わら帽子の所有者を説明する形となります。

また「浜木綿」という“いかにも意味がありそうな名詞”は切り捨てた方が良いです。

また「波」に寝そべるで合っているのでしょうか。サーフボードに乗って波に乗っているのでしょうか。私は麦わら帽子を顔にかけ日除けにして「浜」に寝そべっている様子を思い浮かべたのですがどうなのでしょう。麦わら帽子を被ったまま波に乗ったら落ちてしまいませんか(笑)。

夏の日の潮風匂うサーファーの浜に寝そべる麦わら帽子

個人的にはこちらの方が落ち着く感じがします。「夏の日の潮風匂うサーファーの」までが全て「麦わら帽子」の修飾(説明)となり、そういう麦わら帽子浜に寝そべる、という倒置法となります。

普通に言えば寝そべっているのは当然「サーファー」なのですが、「麦わら帽子寝そべっている」とすることで一番印象的なアイテムである麦わら帽子に意識が集中し、一気に「風景の説明」から「歌」へと変わるのが面白いですね。

 

15・バリトンとソプラノデュオの歌声よ若さに溢れ脳裏を離れず(戸塚)

これも2番の歌と同じで「脳裏を離れず」と言ってしまったため作者の報告になってしまい、歌(背景を作り上げる)になりきれませんでした。

バリトンとソプラノデュオの歌声が「どのように響いている」という、場面の再現のみを目指してみてください。

重く軽く、音の波に飲み込まれる、肌を震わせ、細胞が生まれ変わる、脳まで響く、などその「音」をどう感じたのかは作者でないと分かりません。

目に見えるものと違って「音」など見えないものの表現を探すのは難しいと思いますが、色々と言葉を探してみてください。

 

16・ウ・露軍よ平和はそんなに和じゃない戦の対価を思い知りたり(緒方)

まず「和じゃない」と書いて「やわじゃない」と読ませるのは無理があると思います。「和らぐ」という時に「和」の部分を「やわ」とは読みますが、単独では「わ」もしくは「なぎ」としか読めないと思います。「ヤワじゃない」という時の漢字は「柔」で、「柔らかい・軟らかい」という形容詞であり、動詞である「和らぐ」とは意味も違います。「平和」という言葉に掛けようとするのは無理ですし、そもそも理屈が先行してしまっていると思います。

また言いたいことはとても良く分かるのですが、五七五七七の形に嵌めた意見表明文であって「歌」ではないと思います。そのため「同意」は得られるのですが「共感」には足りません。

1・2番の歌でも言っていますが、「歌」の仕事は舞台(世界)を作り上げ、そこに読者を引き込み読者自身に体感させ感情を湧かせることです。

しっかりとした背景(切り取った場面)を作るにはやはり具体的な物が必要です。「お城」と書いた紙が貼ってあるのと、しっかり描いたお城の背景があるのとでは場面への入り込み方が違いますよね。もしディズニーランドのお城が「立派なお城」と書かれた板だったらお客は入らないと思います。

何をもって「平和を手に入れるのは簡単なことじゃないな」と感じたのか。日々増えゆく死者数か、崩れて瓦礫だらけになった街か、横倒しになった戦車か。作者にそういう感情を湧かせた時の背景を丁寧に作り上げて欲しいと思います。

 

17・「診察が遅れています」の張り紙に六時間過ぎ皆待っている(鳥澤)

コロナが五類になり、マスクを外す人も増えて来て、当然のことながら感染者が増え、医療機関を圧迫しているようですね。

五類になった=ウィルスが弱くなったというわけではないので、引き続きうがい手洗いなどの感染対策や人が多い場所でのマスクなどは続けて欲しいところではあります。

さて、コロナのせいか緊急の病人が入ったとか医師の都合や体調のせいかは分かりませんが大幅な診察遅れが出て、六時間経っても患者は皆待っている、という歌ですが、何かこう惜しいところで歌になりきれていないように感じます。

感想を直接言っているわけでもないし、張り紙など背景もちゃんと描かれてはいるのですが…。う~ん、何でしょう。

「六時間過ぎ皆待っている」が報告的すぎるのでしょうか。隙間なく患者が詰まる待合室に診察遅れの張り紙がぺらりと貼ってある、くらいの描写の方がいいのかもしれません。六時間過ぎても減らぬ待合へ「診察遅れ」の張り紙一枚、などのように「六時間も待っている!」という感想を含んだ描写より「黙々と待ち続ける患者たち」や「患者が詰まる場所へ無機質に貼られた紙」という引いた目線からの描写の方が歌になるのではないかな、と思います。

 

18・夜の風朝の物干しハンガーの絡んでしまい知恵の輪となり(栗田)

夜の風によって朝洗濯物を干そうとしたら物干しハンガーが絡んでしまって知恵の輪となっていた。

物干しハンガーが知恵の輪に、という見立てがとても面白いですね。洗濯物を干すという日常の家事の中に歌を見出す作者の姿勢はとても良いと思います。

「夜の風朝の」と続いてしまうところが気になります。「夜の風」として「夜」は「よ」と読んでもらいましょう。

また「朝の物干し・ハンガーの」と二句と三句で「物干しハンガー」という名詞が分断されてしまうのも気になります。字余りにはなりますが二句に「物干しハンガー」をまとめて置きたいですね。

また「知恵の輪となり」は「なる」という動詞の連用形です。「~となり、どうなった」と結果となる述語がないと落ち着きません。「絡んでしまい」も連用形で、この文には述語が存在しません。ここは「知恵の輪となる」と終止形にしてしっかり述語を決めましょう。

夜の風に物干しハンガー絡まりて知恵の輪となる朝のベランダ/七月の朝

などとしてみてはいかがでしょうか。

 

19・初めてのさくらトラムにベビーカー笑顔の孫とすみっこに乗る(金澤)

「さくらトラム」は都電荒川線路面電車の愛称です。が、知名度が低いのであまり活きていないのが惜しいですね。

知名度が低くても漢字や単語が歌の場面の印象付けの助けになるような固有名詞(紅葉坂=紅葉が茂っている坂道なんだろうな・星が丘=星が多く見えそうだな、など)ならいいのですが、今回「さくら」という言葉は場面の印象付けにあまり役に立っていないと思います。例えば桜の季節なら、花も人も溢れ出したる川沿いを「さくらトラム」にガタゴトと行く、とかいう歌なら知名度が低くても固有名詞として活きるのではないでしょうか。

しかし今回「さくら」は歌の場面に関係なさそうですし、路面電車自体が少ないことと路面電車は「路面電車」という名称の方が一般的なため「トラム」という単語はそもそも知らないという人が多いのではないでしょうか。「乗る」と言っているから何か乗り物なんだろうな、くらいしか伝わらないかもしれません。

また「初めての」と「笑顔の孫」に引っ張られ過ぎてしまったような気もします。お孫さんのことになると可愛すぎて、この作者のいつもの「明るい皮肉屋」的な見方が出来なくなってしまうのかもしれませんね(笑)。

ガタゴトと路面を行けり〈さくらトラム〉ベビーカー寄せすみっこに乗る

陽炎の立つ路を行く〈さくらトラム〉

とりあえず「さくらトラム」が路面電車、路面を走る乗り物であることは分かるようにした方がいいかと思います。前者のように特に季節のことに言及しなければ「さくら」のイメージに引っ張られて春の景色を思う人が多いと思いますが、それはそれでいいのではないでしょうか。

もしくは「さくらトラム」は切り捨てて分かりやすさにシフトし、

初夏の路面電車のすみっこにベビーカーの孫の笑顔と

などとしてもいいかもしれませんが、ちょっとありきたりで面白くなくなってしまいますね。

「小さな車両なので身を縮めて乗っていた」という所が歌えると作者らしさが出て面白くなる気がするので、是非挑戦してみて欲しいです。

 

20・雨止みて朝の阿夫利嶺くっきりと濃き藍色の姿現わる(名田部)

情景がよく分かりますね。文法や言葉使いも無理がなく、すんなりと躓かずに読め、良い歌だと思います。

ただ「現る」に送り仮名の「わ」は付きません。「現」までを「あらわ」と読み活用で変化したりしないからです。一応政府の取り決めとして「わ」を入れても「許容」ということにはなっているので、学校の試験などでは○になりますが、本則としては「わ」は入れません。「現」の後ろは「現・現・現れる・現れた」などと変化するのでちゃんと書きます。

今回「姿現る」でも間違いではないのですが、「現る」というと「阿夫利嶺の姿現る」という文法になり、主語は「姿」になります。「姿」が主語なのですが、実はこの時読み手の主観は作者にあり、阿夫利嶺から離れた所から阿夫利嶺を見ている感じになります。雲や靄が晴れたり、夜が明けたり、トンネルを抜けて視界が開けたり、など何らかの作用があって山の姿がはっきり見えるようになったという感じですね。

これを「現す」とすると「阿夫利嶺姿現す」という文法となり、阿夫利嶺が主語になります。そして読者の主観も阿夫利嶺の方に入ります。阿夫利嶺(山)に意思が宿りより強い主格となるので、この歌には「現す」の方が合っているのではないでしょうか。

「くっきりと濃き藍色の」という具体的な描写はとても良いです。これからもこういう歌を目指してくださいね。

 

21・指先を細やかに使い黄の紙を山、谷折りに おサルが現わる(川井)

こちらも「現る」で「わ」は入れません。

折り紙という技術によって一枚の紙から「おサルが現れた!」という驚きを題材にした目線が面白いですね。

上の句も「折り紙」と言ってしまわずに、作者の目に映った場面を丁寧に描いているため、読者も目の前で折り紙が行われているその場を見ているような気持ちになれます。

それだけに結句が八音なのが勿体ないと思います。「サルが現る」「おサル現る」などにして七音に収めて欲しいですね。「サルが現る」とすると「が」によって強調されるためより「うわー、ただの紙がサルになった!」という驚きにはなりますが、あくまでも折り紙作品としての「サル」でありややひょうきんなイメージが湧くことから「おサル」という言い回しも中々に絶妙で活かしたい気が…難しいですが作者の判断に任せたいと思います。

 

22・今日も又夕食の具こがしたにぼけか一人身悲しさ悔しさ(山口)

まず上の句は「今日もまた夕食の具こがしたり」と助詞を入れて整えましょう。

そして「呆けたか」とか「悲しい」とか「悔しい」とかの作者の気持ちの報告をしてしまってはいけません。

悲しいなぁ、悔しいなぁ、と感じたその場面を客観的に見て作り上げるのが歌です。

「今日もまた夕食の具をこがしてしまった」という場面はとても良いです。作者が言ってしまわずとも、老いてきたなぁとか、長年料理は奥さんに作って貰っていたから手慣れていないけど自分でやらないといけなくなってしまったのだなぁなど、切なくて悲しい感情が湧きます。

今日もまた夕食の具を焦がしたり独り身となり一年が経つ

などとして作者の気持ちの報告にならないよう、下の句まで背景をしっかり組み立ててください。

 

23・闘病の友への電話は繋がらず メールに一言「ごめんなさい」と(飯島)

電話というのは時間的にも拘束されるし意外と疲れるものなので、闘病中の身では対応するのが辛かったのでしょう。番号通知などで電話が作者からのものであることを分かった上で取らなかったことを「ごめんなさい」とメールで送ってきたのだと思います。

ただこのままだと電話で何か伝えようとしていたことを言えなかったので作者がとりあえず「ごめんなさい」とメールを送った、とも読めてしまいます。

「ごめんなさい」とメールの来おり/メールへ一言「ごめんね」の文字

など、闘病中の友からの「電話に出れなくてごめんね」という意味のメールであることをはっきりさせた方がいいと思います。実際は「ごめんなさい」だったのだと思いますが、短歌には文字数制限がありますのでそこは臨機応変、多少変えて整えてください。友なので「ごめんね」でも違和感はないと思います。

 

24・ドクダミゆ夫の作りし化粧水訝しみつつ秘かに試す(小幡)

ドクダミより夫が作った化粧水を訝しみながらも試してみる作者。

昔からへちま水やアロエドクダミを煎じたものなど「お肌にいい」とか言われている民間美容法はいくつもありますよね。実際はキュウリパックなど逆に肌に良くないものや、毒にもならないがプラスにもならないものも多いようですが、わざわざ妻のお肌を気にかけてお手製で作ってくれるその心意気はちょっと嬉しい…かも?(笑)

ドクダミゆ」の「ゆ」は「~より・~から・~によって」という意味の古い言い回しです。今回は「ドクダミから/より」という由来を示す格助詞として使われています。

「訝しみつつ秘かに試す」という下の句がやや惜しい気もします。おそるおそる頬の端へとか、まずは一滴薄く伸ばせりなど、訝しみつつもちょびっと気になって使ってはみる、ということが伺えるような行動そのものが来るともっと作者の中に入れるのではないでしょうか。

 

25・灼熱の道に焼かれた蚯蚓らの骸の並びに戦場思ふ(畠山)

こちらのミミズはもう死んだ後です。うねうねと苦しそうにもがいていたのを見た後だけに、余計に「辛かったろうなぁ。苦しかったろうなぁ。」という感情が湧き、そんな死骸がいくつも転がっているのを見て、戦場の景色が頭をよぎりました。

一日も早く戦争は終わって欲しいですが、侵略側がやったもん勝ちになるような結果になってはならないとも思います。

歌としては四句が八音でした。うっかりしていました。「並ぶ骸に」とすると七音なので音数を整えたいと思います。

 

☆今月の好評歌は4番、鳥澤さんの

咲きたての月見草はレモン色 月をさがせば待宵月よ

となりました。

月見草を見て本物のお月様はどこ、と探す作者の行動も面白く、「咲きたて・レモン色」と月見草の様子もしっかり描かれていて、すっと場面の中に入れる素敵な歌ですね。

by PhotoACエイちゃん0416

◆歌会報 2023年7月 (その1)

◆歌会報 2023年7月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第134回(2023/07/21) 澪の会詠草(その1)

 

1・紫陽花も雨こそ似合え花しょうぶうちひし枯れて梅雨はいずこへ(小夜)

紫陽花も雨こそが似合う花であるように、花菖蒲が暑い日差しにすっかり打ちひしがれている。梅雨はどこへ行ってしまったのだろう。という歌だと思います。

本当に、梅雨明け宣言前だというのに体温を超えるような酷暑が続き、植物もぐったりしていますね。

ちなみに「うちひしがれる」は「打ち拉がれる」と書きます。打たれて拉がれる(押しつぶされる・勢いをくじかれる)という意味で、枯れるという意味はありません。

また「花菖蒲」までで一つの名称なので全て漢字表記にするかカタカナ表記にするなどして表記を整えて欲しいと思います。そして外来名の方が一般的な植物ならともかく花菖蒲はちゃんと和名が浸透している花ですから、ここはやはり漢字の方が似合うと思います。

さて、歌の内容の方ですが「紫陽花」と「花菖蒲」と二つも名詞が出てきますが、作者は一体どちらの様子を見て心を動かされたのでしょうか。

おそらくはぐったり萎れている「花菖蒲」の方を見ていて、「紫陽花」は「紫陽花だって雨こそが似合う花でしょ」と慣用的な表現として使っているだけではないでしょうか。そうだとしたら「紫陽花」はこの歌に於いては邪魔者になってしまいます。

短歌にして発表するというのは、作者が心を動かされた時と同じ体験を読者にしてもらう為の舞台装置を言葉で組み立てる作業です。自分の体験や気持ちを残しておきたいだけなら五七五七七に囚われることなく日記やポエムとして書き留めておけば、親しい間柄の人や一部の偶然似通った体験をした人ならばそれで十分共感を得るでしょう。評論や思想をここのようにブログで自由に書いて発信するのもいいかもしれません。ただ「短歌」として作品を世に出そうというのならば、作者を知らない間柄の人にも作者と同じ景色を見せてあげるための舞台を用意する作業こそが作歌だと思った方がいいかもしれません。

歌に作者の感想そのものは要りません。作者が心を動かされた場面を再構築して、「私はこの場面で心が動いたんだけど。(あなたはどう?この場面でどんな気持ちになる?)」というところで留めておけると良い歌になると思います。

ということで、「花菖蒲」に絞ってよく見て、もう少し詳しく場面を再現して欲しいと思います。

しわしわに花弁を垂れて花菖蒲打ち拉がれり 梅雨はいずこへ

などと花菖蒲の様子を具体的に描いてみてください。ぐったりと、まっすぐに立って居られず、など作者の目に見えた花菖蒲の様子を色々考えてみてくださいね。

 

2・紅葉坂小高い丘の音楽堂デュオリサイタルに期待膨らむ(戸塚)

「期待膨らむ」と作者の気持ちを言ってしまったのが惜しいですね。1番の歌でも言いましたが、短歌は舞台(場面)を構築する文学です。言葉で作る体験型アトラクションです。体験する側(読者)は感想を言ってもいいのですが、アトラクションを提供する側(作者)は背景を用意するまでが仕事で、感想を押し付けてはいけません。

この歌で言うと、「坂の上の音楽堂へデュオを聴きに行く」という場面をしっかり作り上げるところまでが歌の仕事です。

モーツァルトのデュオのチケット握りしめ汗を拭きつつ紅葉坂ゆく

緑の深き紅葉坂行く

などとすると、読者はモーツァルトのデュオリサイタルを聴くために夏の(緑葉の)坂の上の公演会場まで行く作者と自分を重ね、作者が如何に期待を膨らませているかが分かるのではないでしょうか。実際のチケットは鞄の中で、握り締めたりはしていないと思いますが、そこは膨らむ期待感を表現するために創作です(笑)。

 

3・橅の木の朽ちて苔むす幽谷に渓のあるじや岩魚の棲めり(緒方)

「橅(ブナ)の木の朽ちて苔むす」という描写が良いですね。しっとりとした渓谷の風景がしっかり見えてきます。

ただ苔むす橅の木により具体的にしっかり描写されている谷を「幽谷」という概念的な言葉でまとめてしまったのが勿体なかったですね。「谷しずか」などとして作者の体感による描写で場面を見せていただけたら、読者も森閑とした渓谷の中に完全に入り込めたのではないでしょうか。

とてもしっとりと静やかで神秘的な風景が浮かび、素敵な歌だと思います。

 

4・咲きたての月見草はレモン色 月をさがせば待宵月よ(鳥澤)

咲いたばかりの明るいレモン色の月見草を見て、お月様はどこかしらと探したら待宵月(満月の前夜の月)を見つけた作者。何だか嬉しい気分になりますね。

作者の目線での場面がしっかりと構築されていてとても良い歌だと思います。

実は「月見草」というのは背が低く白とピンクの四枚花弁の丸い花の名前であり、黄色で背の高く繁殖力が強いやつは「待宵草(マツヨイグサ)」というのが正解らしいです。なので「月見草はレモン色」というのは知識的には間違いなのですが、「待宵草はレモン色…待宵月よ」では丸被りで歌にならないし、黄色い待宵草を「月見草」と思っている人は結構多いと思うので、敢えてこのままでいいのではないでしょうか。上の句を「待宵草は」とすれば七音にはなりますが、「月をさがす」という行動にすっと結びつかないですし、結句の待宵月も別の表現に変えないとならないので全く違う作品になってしまう気がします。

また二句は「月見草の」と六音ですがあまり気にはなりませんでした。

「咲きたての」という表現で月見草の状態が一層絞られており、景色が鮮明になったと思います。

 

5・出会いたる歌に詠まれるメタセコイヤ青葉さやさや青空に立つ(栗田)

以前誰かの歌に詠まれていたメタセコイヤが青空の下さやさやと青葉を揺らして立っているのに出会った、という歌でしょうか。

下の句は具体的な風景がしっかり見えてくるのですが、上の句が分かりにくいかなと思います。

「出会いたる」だと連体形なので続く名詞の「歌」にかかり「出会いたる歌(出会った歌)」で一つの括りとなります。「出会った」という意味で区切るなら「出会いたり(終止形)」となります。「出会いたる(連体形)」となると「出会った歌に詠まれているメタセコイヤ」となり、出会ったのは歌であり、「歌に詠まれたメタセコイヤに出会った」という意味にはなりません。

いつの日か歌に詠まれたメタセコイヤ青葉さやさや夏空に立つ

というようにすると時間や状況が分かりやすくなるのではないでしょうか。「出会った」ということは書かなくても下の句でメタセコイヤを作者の目で見ていることからちゃんと分かります。

また「青葉」「青空」と同じ漢字が近い位置で続いてしまうため、「青空」の方は「夏空」にしてしまっても良いのではないでしょうか。

ところでこのメタセコイヤの歌とは

mizugamemio.hatenablog.com

の11番鳥澤さんの歌ではないでしょうか。私はパッとこの歌が思い浮かびました。この時は黄葉のメタセコイヤが詠まれていたので、それと対比して青葉のメタセコイヤにハッとしたのかなぁ、と。

 

6・入組んだ息子の家へと路地曲がり迷路の中に入り込みたり(金澤)

とてもよく分かりますね。初回訪問ではなく、迎えや案内がない状態で行かねばならなかったのでしょう。そしておそらく初回訪問ではないため作者も油断していて地図アプリなどを用意せず、行ける気になって「確かこの辺を曲がって…」などとうろ覚えのまま進んだところ、慣れない町にすっかり迷い込んでしまったのではないでしょうか。

そんなうっかりした自分を「迷路の中に入り込みたり」と一歩突き放して「あらあら…」と見る姿勢がとても作者らしいと思います。

地曲がり迷の…」と同じ漢字が近い場所で続くと悪目立ちしてしまうので、「曲がり行き」などとして被りを消しましょう。

 

7・大公孫樹の影に佇みバスを待つ太き幹葉を沁々ながむ(名田部)

上の句はすっと無理なく場面が浮かんで良いですね。

ただ「幹葉」と書いて「みき・は」とは読ませられません。「幹と葉」「幹、葉」と書かなければなりませんが、短歌に於いて「、」は特別な意味がなければ使わない方が無難です。

そもそも、太い幹かざわめく葉か、どちらにより心を動かされたのか自分の中でまず見極め、どちらかは潔く削ぎ落とす決断をしなければいけません。

短歌は三十一音しかないのでこの「削ぎ落とす」作業はとても重要です。どちらもどちらもというのは昔話に出て来る強欲で失敗するタイプの登場人物のようなもので、入りきらない財宝を無理矢理袋に詰めて持ち帰ろうとし、袋が破けて全ておじゃんになってしまうような結果を招いてしまい、勿体ないです。一番価値のありそうなものをしっかり選んで、他はきっぱり諦めましょう。

またこの歌では上の句で既に「木の影に佇み→バスを待つ」という二つの動詞で作者の動きが語られています。そこに更に「眺む」となると一首の中で作者が行う行動(動詞)としては多すぎるので、「眺む」という作者の動きではなく「幹」か「葉」のどちらかの状態の描写に抑えたいところです。

「三百年間ここに立つ幹」「三百歳の幹の太さよ」「ごつごつ硬き幹の逞し」「陽射しやわらげ青葉さやさや」など、その時の情景を思い出して考えてみてください。

 

8・窓ぎわに無言で庭石を見る父の弱々しき目にことばを探さず(川井)

いつも「意味が分からなくなる助詞を削ってはいけない。カタコトっぽくならないよう字余りでも適切な助詞を入れましょう。」と言っているからしっかり助詞を入れたのだと思いますが、今回は「省いても意味が迷わない」助詞だったためにただの字余りとなってしまいました。

もちろん平常文なら「庭石見る」と目的語であることを明確にする助詞を入れるが正しいのですが、短歌は五七五七七の調べも重要なので、意味的に迷わないなら音数を優先すべきです。

これが例えば「私を見る父」だったら「を」を省くことはできません。「私が見る父」という文章も成り立つからです。でも今回は「庭石を見る父」でも「庭石見る父」でも意味は迷いませんね。

今回は「無言で庭石を」だと九音になってしまいます。さすがに字余りすぎるので意味が迷わないなら削って音数を減らしましょう。もし助詞がないと意味が迷ってしまう場合は別の言葉を探すか、言葉の位置を変えるかなどを考えないといけません。

また助詞に気を遣うなら「無言」の方を考えた方がいいかもしれません。「窓際へ無言に庭石見る父」でも意味としては変わりません。「で」は一字で一気に平常文ぽくなってしまうため、短歌としてはなるべくなら言い換えたい助詞です。

また結句が「ことばを探さず」となっていますが、「ことばをかけることが出来なかった・何も言えなかった」という意味ではないのでしょうか。「ことばを探す・ことば探しぬ/探せり(探した)・ことばもあらず・ことば見つからず」など探したけど見つからなかったという意味にしないと、「ことばを探さず」では「探さなかった」のですから迷いもせずに声をかけたと真逆の意味に取られてしまいます。

「庭石」というどっしりと重く、静かに変わらないものを無言で見つめる老齢の父に感じるやるせなさ、どうしようもない不安感という場面は重いながらもぐっと心を揺さぶられますね。

 

9・なつかしきエーデルワイスメロディーが妻との旅で買いしオルゴール(山口)

今は亡き奥様と行った旅行先で買ったオルゴールからエーデルワイスのメロディーが流れ、奥様との旅行を思い出し懐かしんでいる作者。

ちょっとカタカナが多いのですがどれも削れないので(メロディーは言い換えられるかも)、「懐かしき」は漢字にしておきたいですね。

また字余りですが「エーデルワイスメロディー」と助詞を入れないと読みにくいです。

また「旅で買った」とまで言わなくてもそこは分かるので

懐かしきエーデルワイスのメロディーよ妻との旅のオルゴールから

としてはどうでしょうか。

 

10・無花果の乳くさき香り懐かしく回り道して幼に戻る(飯島)

無花果(いちじく)の「乳くさき香り」という具体が良いですね。

庭のある家が多かった時代はあちこちの庭先や玄関先などに無花果の木があり、季節になると独特の香りが漂っていました。

そんな時代を懐かしみ、昔を思い出しながらわざわざ回り道をして帰る作者ですが、「懐かしむ」のと「幼に戻る」は意味が被りますね。どちらかを切りたいとして考えると、「幼に戻る」は結構動的にはしゃぐような印象がありますね。果たしてそこまで言う程か、というとそうではなく、懐かしみつつ回り道をして帰ったということですよね。

また「香りが懐かしくて・懐かしかったので」と「理由」として述べてしまうと理屈っぽくなってしまい、歌よりも報告書寄りになってしまいます。香りが懐かしかったからこそ回り道したと言いたい気持ちはとてもよく分かりますが、そこを抑えて場面だけを提供した方がより「歌」らしくなります。

無花果の乳くさき香の懐かしさ回り道して家へと帰る

というように「あぁ、この香りの懐かしさよ」と実際に香りを嗅いだ時の作者の描写の方が読者はより作者の立ち位置に近くなります。「香り懐かしく」だと香りを懐かしんで「回り道して帰る」作者の中に入るのですが、「香の懐かしさ」だと香りを嗅いでいる時点で中に入りませんか。不思議ですよね。

 

11・小糠雨・五月雨・雨月物語クロスワードにしんみりと雨(小幡)

新聞か雑誌でしょうか。クロスワードパズル(ヒントと文字数を元に単語を当てはめるパズル)を解いてみたところ「コヌカアメ・サミダレ・ウゲツモノガタリ」という雨に因んだ単語が並び、しんみりと季節を感じている作者。

最近の梅雨は豪雨と猛暑で全然しんみりではなくなって来ているけれど、こういう感覚は残っていくと良いですね。

クロスワード」の前に一字空けを入れて一呼吸置いてもいいかもしれません。

 

12・雨上がり畑に戻れぬ蚯蚓らが熱きコンクリに焼かれのたうつ(畠山)

我が家は畑に近いので、雨の翌日などは夥しい数のミミズが這い出して熱くなったコンクリートから戻れずウネウネと苦しそうにもがいているのをよく見るんですよね。

可哀想とは思うのですが数が数だし、ミミズ自体はやっぱりちょっと気持ち悪いので素手で移動してやったりする勇気はないしで、どうにもしてやれずに「あと何時間苦しむんだろう。熱いだろうな、苦しいだろうな。今目の前で命が消えてゆくんだな。」とか色々考えつつも素通りしてしまいます。

ここでは既に死んでしまったミミズや干からびてしまったミミズではなく、今まさに苦しんで失われゆく命というものに何とも言えない感情が湧き歌にしたかったのですが、やはり「焼かれてのたうつ」という言葉がちょっと強すぎました。

「熱きコンクリにもがきたる今」くらいならどうでしょうか。

by PhotoAC NCC-1701

◆結句はしっかり座らせよう

結句はしっかり座らせよう(七音と終止形)

 

結句(けっく)。五七五七の最後の「七」の部分ですね。ここは本来歌の「締め」部分であり、一番大切な事を描く場面なのです。

「結句」の名の通り、物語で言えば起承転結の結。ここがしっかりしていないと途中でどんなにいい感じに盛り上がっても何だかスッキリしません。

連続ドラマなんかでも、途中まで主人公に共感して「続きはどうなっちゃうのー!?」とドキドキしつつ観ていたのに、わだかまりや謎を残したまま最終回が終ってしまったら悶々としてしまい、途中どんなに楽しんだとしても「良い作品だった」とは言えないのではないでしょうか。

短歌は短いので問題を起こしたり謎を散りばめたりする余裕はなく、そもそもが「結」のみを描く文学作品という感じですから、短歌に於ける結句は結の中の結、結の極みと言ってもいいでしょう。

そんな結の極みの場面ですから、ビシッと「誰もが分かるエンディング」を突き付けられればそれがベストなわけです。最終話なわけですから「つづく」になってはいけないのです。「何が、どうした。」というように、話がちゃんと終わりにならなければいけません。

ただ連続ドラマなどにはそれまでの問題を解決する話を最終話とせず、直前にきちっと問題が片付いた回があって、最終回は後日談などその後の主人公の日々を描くことで見る人をしみじみとさせるという手法などもあります。これは音楽で言うと音が段々小さくなって余韻を残しつつ終わる「フェードアウト」という手法となり、短歌で言うと倒置法暗黙の了解に於ける述語の省略など「終止形以外で終わる」ということになります。

しかし、それらは例外的なものであって、基本はあくまでも「終止形で終わる」という形です。結句が終止形、尚かつ七音で終われればベストです。

音数は七音がベストですが、どうしても七音にまとまらない場合は字足らず(六音以下)より字余り(八音以上)の方が安定します。

 

さて出てきました、「終止形」。これまたその名の通り「終わるかたち」の言葉です。この文章はここで終わりですよ、続きませんよ、ということを示す形です。文章を終わりにするための形ですから、これが最後に来ればそれはもうしっくり自然に終われます。

この安定した形を結句に置いて終わりにすることを「結句をしっかり座らせる」と言います。

 

では終止形について見ていきましょう。

1・動詞の終止形(ウ段音)。「歩く。」「光る。」「思う。」「する。」「~~である。」「~~している。」「~~となる。」など。

2・助動詞の終止形(たり・をり・ぬ・なり・き・けり・です・ます・だ、など)。「笑いたり。」「華やぎ。」「語り。」「真っ暗。」「~~となっ。」「~~となりけり。」「~~をし。」「~~しており。」「~~であっ。」「~~です。」など。

3・形容詞の終止形(し・い)。「青し。」「明るし。」「暗い。」「早い。」など。

4・形容動詞の終止形(なり・たり・だ)。「静かなり。」「華やかなり。」「堂々たり。」「清らかだ。」など。

5・終助詞(よ・かな・かも・か・よう・ろう、など)。文末に置き詠嘆などの意味を添える助詞。「美しき花。」「どこまでも青き空かな。」「きっと~~だろう。」「~~しよう。」「~~だろう。」「なんと~~である。」「~~です。」など。

いくつか例を挙げるとこんな感じですね。

 

このような終止形の言葉が来たら文章はそこで終わりです。心の中で直後に「。」を置いて読まなければなりません。

作る側も終止形のあとには「。」しか来ない、文章(意味)は次の単語にかからないということを頭に入れて作って下さい。

ただし短歌では「。」を表記しませんから、パッと見では終止形かどうか迷うこともあります。

それは動詞の多くに終止形と連体形が同じ活用形であるものがあるからです。見分け方は直後に体言(名詞)があるかどうか、またあったとしてその体言(名詞)に意味がかかっているかどうかです。「この絵は私が描いた」というように「描いた」の意味が直後に掛かっていなければ終止形。「これは私が描いた絵です」というように「描いた」という意味が直後の名詞(「絵」)に掛かっているなら連体形です。連体形の場合、文の中に別でちゃんと終止形の語句(この文の場合「です」)がなければいけません。

 

「終止形」をもう少し詳しく個別に見てみましょう。

1・まずは動詞の終止形について。

動詞の活用表を覚えていますか。「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」の順で、それぞれ「~~ない・~~ます・~~。・~~とき・~~ば・~~!」という言葉に繋がる形、として覚えましたね。学生の頃は呪文のように「ナイマスマルトキバ~命令形!」などと繰り返して覚えました。

「行く」という動詞を例にすると「行ない(未然)・行ます(連用)・行。(終止)・行とき(連体)・行ば(仮定)・行!(命令)」と変化することになります。

動詞の終止形は基本的に「思・言・行・立・見・す」など「ウ段の音」で終わります。

ラ行変格活用のみ例外で「あり(在り)」と「をり(居り)(現代仮名遣いではおり)」のみ「イ音」で終止形となりますが、使うのはほぼこの二語だけ(*)なので、もう動詞は「ウ段音」で終わると覚えて下さい。(*古文では、ありをり侍りいますかり…などと覚えたかもしれませんが、現代短歌で使うのはほとんどこの二語“あり・をり”のみです。)

結句に動詞(行動や動作を表す言葉)があるのに「ウ音」になっていない場合、注意して下さい。「見えて・向いて・咲いて・飛んで・透け・開き・華やぎ・乗せ・送り」など終止形でない動詞(イやエの音)で終わっているものをよく見かけます。

特に「て」で終わっているものをよく見ますが、「て」は接続助詞といってその名の通り、次の文章に接続する役目を持ちますから、「て」で終わることはありません。「~~て、どうした」と「結果」に当たる述語がなければ文章は成り立ちません。

でも「て」で終わってる歌、見たことあるよ、と思うかもしれません。それはおそらく倒置法、もしくは暗黙の了解による述語の省略によるものです。これについては後で説明しますね。

 

2・次は「助動詞の終止形」です。

述語となる動詞に「過去の意味」など付加的な意味を付けようとすると「助動詞」を付けてやらねばならず、動詞を連用形に活用させた上で助動詞の方を終止形にすることになります。

「助動詞」は過去・完了・継続・推量・断定・打ち消しなど様々な意味を動詞に付加するもので、動詞を助けるという名の通り動詞のあとに付き、活用(続く言葉により形が変化)します。古文で28種、現代文で21種もあり、全てを例に挙げるのはちょっと厳しいので、よく使いそうなものをいくつか挙げてみます。ちなみにこの連用形活用にする時にとりあえず付けてみる「~~ます」(ナイマスマルトキ…のマス)というのも助動詞で、「丁寧(聞き手への丁寧な気持ち)」という意味を付加します。

結句(終止形)として一番よく使うのは過去を表す助動詞系統ですね。中でも「たり・をり(おり)・ぬ」などはよく使います。過去・継続・完了など時系列の意味を付加する助動詞を付けることでその動作が過去に行われたことになります。

「たり」は「~~した(完了)」。「おり」は「~~している(継続)」。「ぬ」は「~~した(完了)」というように過去や継続などの意味を付加します。

「思う・言う・行く・立つ・見る・する」などの動詞にこれらの助動詞を付けると「思いたり(思った)・思いおり(思っている)・思い(思った)、言いたり・言いおり・言い、行きたり・行きおり・行き、立ちたり・立ちおり・立ち、見たり・見おり・見、した・しおり・し」のようにそれぞれ動詞の連体形に付ける形となります。

同じように過去の意味を付加する「」という助動詞がありますが、少し特殊で、「思えり・言えり・行けり・立てり・見えり(自動詞“見ゆ”の場合。他動詞“見る”には付かない)・せり」という形が終止形となります。元々は「~~在り」という言葉が省略されたもので、「~~という行動状態に在る」という意味合いで継続を示していました。「思へり」なら「思ふ」という状態に在る、つまり「思っている」という意味ですね。ただ、元々は継続(~~している)の意味で多く使われていましたが、今では「たり(~~テ在り)」と同じように完了(~~した)を示す使い方がほとんどです。「思えり」なら「思った」という感じですね。

この「り」、本来動詞の活用は連用形活用をする(助動詞に付く時の活用形で、思マス・言マス・行マス・立マスなど「~~マス」に繋がる変化をする。基本的に「イ段の音」。)はずなのですが、一見違いますよね。ただしこれは別の活用をしているのではなく、連用形に付いた後で音韻変化しているのです。

「思い+在り」が「アり」の「ア」の音の影響を受けて発音しやすいように変化し、動詞の連用形活用の「イ段」の音+(在りの)「ア」の二音をまとめて一つの「エ段」の音に変化させたもので、助動詞「り」のみの特殊な変化ですので注意してください。

一見違うといえば過去を表す助動詞「た」もそうですね。「思った・言った・立った」などですが、これは助動詞「たり」が口語化して「り」が略されたもので本来は「思いた(り)・言いた(り)・行きた(り)・立ちた(り)」と連用形活用に付いているのですが、発音しやすいように詰まらせたもので音便化(おんびんか)といいます。ただしこの「た」という助動詞は口語文法専門の助動詞のため、短歌ではあまり用いません。稀に口語短歌として「君が言った」などというように使うこともありますが、短歌では「たり」を使う方が一般的です。

 

3・形容詞の終止形は「青し・暗し・明るし・悔し・美し・清し」など。現代文では「海が青い・空が明るい・花は美しい」など「イ」で終りますが、短歌では「イ」は連体形(青い海・明るい空・美しい花、など名詞にかかる)として使うことが殆どで、終止形として「イ」を使うことはほとんどなく、「シ」を使います。

 

4・形容動詞の終止形は「静かなり・なめらかなり・華やかなり・立派なり・安心なり・堂々たり・清明たり・清らかだ・朗らかだ」など。

形容動詞は「~~である」という言葉に繋がる「ナリ活用」のものと、「~~としている」という言葉に繋がる「タリ活用」の二種類があります。辞書を引くと「形動・ナリ」「形動・ト、タリ」と書かれているので、迷った時は辞書を引いてください。

また形容動詞に付く「ナリ・タリ」は動詞につく過去の助動詞とは別で「断定」の意味を持つ助動詞です。

口語(現代文)では「ナリ活用」(「~~である」という意味に繋がるもの)は「~~ダ」という断定の助動詞に続く形が終止形となっています。「静かダ・なめらかダ・華やかダ・立派ダ」という形になります。

が、短歌では「ダ」は濁音ということもあり、「ダ」で終ることはあまりありません。基本的には「ナリ」を使います。

ただ、形容動詞に付く「ナリ」も「タリ」も「断定」の意味を持ちますから言葉がかなり強くなってしまいます。短歌では作者の気持ちを「断定」してしまうと、読者は作者と同じような複雑な感情を思い浮かべること(共感)をせず、「そうですね」と同意するに止まってしまいます。ですから必然的に「断定」となってしまう形容動詞の終止形で歌を終わりにする形は多用しないよう気を付けましょう。

このように形容動詞は終止形の場合「ナリ・タリ・ダ」(~~である・~~としている)のいずれかの意味に繋がることから、暗黙の了解としてそれらを省略する使い方をすることがあります。

冬枯れの狗尾草の色抜けて淡く輝く新年しづか」という歌では、本来は「しづかなり」があるべき終止形ではあります。ただ「新年は静かである」というように、「~~である」という意味が明らかな場合、暗黙の了解として「ナリ」の部分が略されることがあります。

 

5・終助詞

終助詞とは、よ・かな・かも・か・よう、など文末に置き詠嘆などの意味を添える助詞です。

「なんと~~であること(詠嘆)」「なんと~~なことかな(詠嘆)」「なんと~~だなあ(詠嘆)」「これはどうかな(疑問)」「~~する(禁止)」「あれはこうかも(推量)」「きっと~~だろう(推量)」「今何時です(疑問)」「これでいいのだろう(いや、よくない)(反語)」「これはこうだ(念押し)」「~~しよう(念押し)」「~~しよう(勧誘)」「~~しよう(勧誘)」など。

活用(変化)はしません。

 

以上五つが文章を終わりにするための言葉のかたちとなります。

 

ところで、結句云々以前に、まず最低限「主語と述語」だけは明確にしなければ文章として成り立たない、ということを忘れないでください。一首三十一文字(みそひともじ)の中でちゃんと「何(誰)が、どうした(どうだ)」と分かるように作って下さい。これは基本です。

ただ日本語には誰もが意味を迷わない語句は主語・述語であっても「暗黙の了解」として省いてもいい、という文化があります。短歌では文字数が限られるため、どうしても省けるところは省きたい。そのため「暗黙の了解」として語句を省くことはままあるのですが、どこまでを「誰もが迷わない」とするかで線引きに失敗し、意味不明になってしまう例が数多く見受けられます。

例えば主語は「私(作者)」のみ省略可能で、明記された主語がない場合、暗黙の了解で自動的に主語は「私(作者)」となります。作者以外が主語である場合、何が主語であるのか、省いたりぼかしたりせず明確にしなければなりません。

 

例えば「桜が咲いた」という文章。桜が咲いたということを他者に伝える文として削ってはいけない部分です。

例えばメールでいきなり「川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく」とだけ送って来られたらどう思いますか?

「何やこれ、クイズか?連想ゲームか?何がぶわっと美しいねん?何が言いたいんや!」とツッコミを入れたくなりませんか。

途中をどんなに頑張っても、「何が」「どうした」という主語と述語がハッキリとしなければ文章として成立しません。「桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく咲いた」なら伝わりますね。そして述語を述語として成り立たせるのに必要なのが「終止形」という形なのです。

例えばこれが「桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく咲き」だったら、「咲き…咲いてどうしたんや!?続きあるんやろ?咲いてからどうなったんや?結論言うてくれへんか。続きめっちゃ気になるわ~!」というツッコミが発生してしまいますよね。

このように動詞の連用形(~~マスに続く形)や「咲い」「咲いたの」など接続助詞の「て」「で」で終るものも「咲いて、どうしたんや!」と同じツッコミが入ります。接続助詞という名の通り、「結果」となる述語に接続するための助詞ですから、「結果」となる述語(終わる形の言葉)に続かないとおかしいのです。

このように、結果となる述語が無いのに連用形や接続助詞で終わりにしているのがよくある失敗例その①です。

 

失敗例その②は述語をぼかす=「省略してはいけない述語を省略する」というものです。

桜が川沿いに淡い色で春風の中ぶわっと一気に美しく」で文章を止めてしまい、「……(みなまで言わなくても分かるデショ)」と流し目で訴えるようなものですね。

これにも「美しく……咲いたんか?散ったんか?春風の中ぶわっと一気にやからなぁ……散ったんか?もう散ってもうたんか?いや~来週見に行こ思てたんに、予定より早いわぁ~!」とかいうツッコミが出てきそうです。

これらのパターン、結構多いのですよ。おそらく作者としては「何々がこれこれこうである」と言い切ってしまうと何か余韻が感じられない、というような感覚なのではないでしょうか。けれど作者はその情景を実際に見て「分かっている」からこそ余韻の部分を楽しめるのですが、他人は分かっていないので余韻に浸る以前に「ちゃんと言葉で状況を教えてくれ!」となるわけです。

状況を見ていない読者が迷うかもしれない述語をぼかして(省略して)しまってはいけません。これが失敗例その②です。

この、作者には分かっている状況でも読者には見えていない、ということは常に念頭に置いておいてください。この誤解により暗黙の了解とする線引きを間違ってしまう例が多発するのです。

 

ただし、ベストとはいえ全部が全部「何がどうした(どうである)」という形の作品ばかりが続くと、ちょっと歌というより報告書のような硬い感じになってしまうかもしれません。そんな時には句の位置を変えて倒置法にしたり、迷いがない述語のみ省略してみるのも有効です。これらの「結句に終止形を置かずに歌を終える」やりかたをよく「流す。流して終わる」などと言います。

あくまでも結句は終止形でしっかり座らせて終えるのが基本です。その上で、たまに変化球として流して終わるものも作ってみるという感じです。普段はしっかりビシッと速いストレートで狙いつつ、たまに変化球でパターンを固定化しないようにするようなもので、変化球ばかりではいけません。変化球は意図的に有効な場面で使うようにしたいものです。

 

さて変化球(流す)そのⅠ、「倒置法、句の位置を変える」ですが、このパターンで一番大事なのは「結句に置かないだけで、第四句までに終止形の述語がちゃんとある」ということです。

例)夏雲はぐわあと大きな口ひらき丸呑みにする真青な空を

倒置法とは、通常文法では「主語→目的語→述語」となるものを印象的にするために並べ替えたもので、本来最後に来るはずの述語を先に置き、その後に強調したい語句を持ってきて印象付けをするという手法で、文法としては例外的であり使いすぎは厳禁です。

述語は終止形なので意味としてはそこで一旦文章は切れ、後ろの倒置した語句には意味的にかかりません

現代文で倒置法にする場合は述語のあとに読点(、)を置くので分かりやすいですが、短歌では読点を書かないので終止形と思われる語句に続く語句に意味がかかっているかいないかで見極めてください。意味がかかっていたら連体形で倒置法ではありません。意味がかかっていなければ倒置法で、その場合手前に終止形の述語が存在しなければなりません。倒置法の場合、述語のあとに心の中で読点(、)を置き、一呼吸置いてから次の(倒置した)語句を読むことでその語句を強調するという効果があります。

この歌の場合、主語は「夏雲」で、「空」が目的語、「丸呑みにする」が述語(「する(為る)」という動詞の終止形)です。文章を構成する最低限の語句に絞って書くと基本形は「夏雲は空を丸呑みにする。」となります。これに倒置法を用いると「夏雲は丸呑みにする、空を。」「空を丸呑みにする、夏雲は。」などとなり、更に修飾語を倒置すると「夏雲は空を丸呑みにする、大きな口で。」などとなり、「、」の後の語句の印象を強調します。

短歌の場合、結句に置いた語句の印象が強くなります。そこで倒置法を用いて印象を強くしたい方の語句を結句に持ってくるという手法を取ることがあります。ただ、あくまでも倒置法は「例外的な文法」であるため、多用してはいけません。不自然な文法だからこそ印象的になるわけで、不自然が続いたらそれはただの文法が分かってないおかしな文章になってしまいます。

そして倒置法に於いて気を付けなければならないのが「動詞が終止形か連体形かで迷わないか」ということです。多くの動詞が終止形(そこで「。」が来て文章が終わる)と連体形(体言=名詞を説明する)とで同じ形になるため、位置によっては意味に迷いが出て来てしまうのです。

一般的な文章と違って短歌は基本的に句読点を使いませんから、それが倒置法で前に持って来た述語(終止形)なのか、続く体言(名詞)にかかる連体形なのかで迷いがちです。

この歌の場合はまぁ倒置法と受け取ってくれる人の方が多いとは思いますが、「丸呑みにする」を終止形として捉えず、「丸呑みにする空」と「空」にかかる連体形と捉えた場合、「夏雲は丸呑みにする空を…」と終止形の述語がないまま終ってしまい、「空を…空をどうしたんじゃい!」というツッコミが入ることになります。

もっと迷う例を出してみます。

例)球児らの高く張りある若き声マウンドを飛ぶボールと共に

主語は「声(がorは)」、目的語は「マウンドを」、述語は「飛ぶ」で、ここでは「ボールと共に」という修飾語を倒置しています。句読点を入れて書くなら「声がマウンドを飛ぶ、ボールと共に。」で、「飛ぶ」は終止形です。が、この「飛ぶ」という動詞を連体形の「飛ぶ」と捉えて続く「ボール」にかけ「飛ぶボール」と捉えても割と自然に意味が通ってしまうんですよね。「声がマウンドを飛ぶボールと共に(ある)」というぼかした述語を補足して読む人も結構いるのではないかと思います。

「声が」という主語に対して「飛ぶ」という動詞が一般的にイメージする言葉ではないのに対し、「ボール」という言葉には「飛ぶ」という言葉が一般的なため余計に紛らわしいですね。「声がマウンドに響くボールと共に」だったらこの語順(倒置法)でも迷わないと思いますが、それでは歌として面白くない。

これは倒置法なんですよ、ここで一旦切って下さい、次の文章にはかかりませんよ、という場合、「マウンドを飛ぶ ボールと共に」と一字空けを使うという手もありますが、これまた多用は厳禁です。倒置法も一字空けもたまに使うから効果的なのです。

このように迷いが生じそうな場合は無理に倒置法にするのは止めましょう。

球児らの高く張りある若き声ボールと共にマウンドを飛ぶ

と素直に最後に終止形の述語として置けば「声が飛ぶ」という一般的でない表現も迷うことなく使えます。

 

次に、「~~て」という接続助詞で終わっている歌はこの倒置法を用いた歌で、必ず「~~て、どうした」という結果となる述語が先に述べられていなければなりません。

例)陽の色の喇叭水仙合唱す口を大きく「あ」の形して

これは通常の文法で書くと「陽の色の喇叭水仙は口を大きく“あ”の形にして合唱す」となり、「合唱(する)」が述語ですね。

「て」を結句に持ってくる場合、必ず「~~し、それからどうなったんや!?」と突っ込まれない文章になっているか確認してください。

 

続いて変化球(流す)そのⅡ暗黙の了解で省略する

これは意味に迷いが生じない場合のみ、暗黙の了解として語句を書かなくてもよい、というものです。

例えば先ほども書きましたが形容動詞に付く「ナリ・タリ・ダ」。「~~である」又は「~~としている」という「断定」の意味が確定しているため、省略しても意味に迷いが生じません。

形容動詞以外の場合でもこの「断定(~~である・~~だ)」の意味となる語句はしばしば省略されます。それは「断定」とは意味を強めるだけで意味の本質は変わらないからです。

いわゆる「体言止め」の多くがこれです。「とうとう明日は試験の本番(だ)」「目が覚めたのは朝の六時(だ)」など。

 

また「~~のように」という説明がしっかり描写されている歌の場合、動詞の「あり(在り)」も略される傾向にあります。「~~のように(あり)」「どこどこにどのような○○(名詞)(のあり)」など。

この「~~の(が)あり」を省略して体言(名詞)で終わりにする方法も先ほどの「~~だ(断定)」の省略に続き「体言止め」としてよく見られる用法ですが、必ず「どのように、在る」のか語られていなければなりません。

 

また「鼻歌を(歌うor鳴らす)」「音が(するor聞こえる)」「とぼとぼと(歩く)」「うつらうつらと(する)」など一般的にイメージする動き(述語)が決まっているものの場合、省くことができます。

ただし、暗黙の省略を成立させるためには助詞が必須です。

「とぼとぼと」「うつらうつらと」などの副詞の場合、必ず「」まで書いてください。

また「鼻歌(目的語)」ならば「歌うor鳴らす」という動詞を省略できますが、「鼻歌(主語)」なら「聞こえる・始まる・続く・うるさい・楽しい」など多様な述語が来る可能性があり、省略はできません。

省略できるのは主語と目的語がはっきりしていて、意味に迷いがない場合のみです。

また主語(が・は・の)と目的語(を)だけでは意味を確定できない場合も多く、その場合更に助詞を入れてやっと省略可能になる場合もあります。

「足(出すor動かす)」「顔(上げるor向ける)」など目的語(~~を)と場所や方向を意味する助詞(~~に・~~へ)が揃った場合、意味に迷いが生じなくなるため省略可能になりますが、「足」だけでは「動かす・ぶらぶらさせる・掻く・上げる」など色々な可能性が出て来てしまうため省略は出来ません。

 

また主に色に関する形容詞(青し・白し、など)の場合「し」が省略されることがあります。「春の空は茫々と白(し)」など。

 

いずれにせよ、迷いが生じる(色々な可能性が考えられる)場合は省略をしてはいけません。

 

変化球(流す)そのⅢ体言止め

これは変化球そのⅠとⅡの派生型です。

ここまでにも書いてきましたが、「~~だ」という「断定」の助動詞は省略して体言で終えることができます。「とうとう明日は試験の本番(だ)」「目が覚めたのは朝の六時(だ)」「川辺のススキは金色(だ)」など。ただし多用してはいけません。

 

また「~~の(が)あり」という動詞を省略した場合。「庭にひっそり鈴蘭の花(のあり)」「ぎしぎしと鳴る古き吊り橋(があり)」「同窓会に懐かしき顔(のあり)」など。これも多用してはいけません。「庭にひっそり鈴蘭の咲く」「古き吊り橋はぎしぎしと鳴る」「同窓会に見る顔懐かし」など体言止めにならない表現なども考えてみましょう。

 

また倒置法で場所や時間など状況を示す場合、助詞の「」や「」が省略されて体言止めになっている場合。

「鈴蘭のひっそりと咲く庭の片隅(に)」「耳澄ませ水の音聴く山奥の橋(に)」「猫と我体温分け合う肌寒き夜(に)」「ぎしぎしと軋みつつ行く古き吊り橋(を)」「紫陽花の丸み増しおり皐月晦(つごもり)(に)」など。

「に」が略されている場合が多く、「~~のあり」という意味に取れる場合も多いです。

倒置法なので、必ず終止形の述語が先に入ります(咲く・聴く・分け合う・行く・増しおり)。

 

また倒置法で主格の助詞(が・は・の)が略されている場合。

「ひっそりと咲く庭の鈴蘭(が・は・の)」「ぎしぎし軋む古き吊り橋(が・は・の)」など。

これも倒置法なので、必ず先に終止形の述語が入ります(咲く・軋む)。

 

また終助詞が略されて体言止めになっている場合。

「なんと眩しき白鷺の白(よ・かな)」「六月に亡父が逝きてもう十年(よ・かな)」など、「詠嘆」の終助詞が省かれている場合があります。

意味としては「~だ(断定)」に近いのですが、主に「よ・かな」という「詠嘆」として扱った方がしっくりくるものが多いです。

 

以上のように倒置法、暗黙の了解による省略、体言止めなど終止形ではない終わり方などもありますが、迷いが生じる場合、倒置法も暗黙の了解による省略もしてはいけません

そしてやはり基本的には結句には終止形。これを忘れないでください。

結句をしっかり座らせて、ツッコミの入らない歌作りを目指してくださいね!

 

☆結句は終止形で七音がベスト

☆倒置法の場合、結果となる述語が先にある

☆意味的に迷わない場合のみ省略してもよい

by sozaijiten Image Book 3

6/16(金)の澪の会について

すみません。管理人(畠山)、帯状疱疹に罹りまして今月の歌会を欠席させていただきます。

なので今月の歌会報もお休みとさせていただきます。(歌会はやります)。

 

もし当日(6/16)にお時間の余裕のある会員さまがおられましたら、11時50分頃からお部屋(アミュー)の鍵が渡されますので、お部屋のセッティング、教材の配布等、講師のお手伝いをしていただければ大変ありがたいです。

また歌会後の片付け(机の回転)などもお手伝いいただける方はよろしくお願いいたします。

 

帯状疱疹…話には聞いていましたが中々痛いですね~、これ。50歳以上ですとワクチンに補助金も出るようなので(神奈川県だと五千円まで。実質五千円くらい)まだ罹ったことのない方はワクチンを打っておくといいかもしれません。

私は水疱瘡が酷かったので、病院などでポスターを見かけて50になったら打っておこうかな~、でも結構高いな~(二種類あって、1回打って約1万円のもの(効果は中)と2回打って4万円くらいのもの(効果は大)があり、高い方のワクチンしか扱っていない病院もある)などと思って躊躇しているうちに罹ってしまいました。

痛みの程度は人それぞれのようですが、顔に発症すると失明などの危険もあり、何より神経を痛めながら暴走するウィルスなので、発病当時に痛いのは当然ですが、神経網がやられると後遺症が結構長引くようです。

ワクチンを打っておくと発症も、もし罹ったとしても後遺症も軽くできるようなので是非。