短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2022年6月 (その2)

◆歌会報 2022年6月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第122回(2022/6/17) 澪の会詠草(その2)

 

12・抱っこされ焦土の中を呆然と冬の帽子の幼き子らは(小夜)

ウクライナ、突然に始まったロシアの侵略戦争に巻き込まれ、何が起きているか分からないけれど只事ではない大人たちの雰囲気にただ呆然として抱っこされている冬の帽子を被った幼い子供たちの情景を歌ったもの。

とてもよく情景が分かりますね。「冬の帽子」という具体が効いていると思います。

まだ寒い中、突然に始まった侵略の理不尽さに対する怒りや同情という複雑な感情を、客観的な事実の描写によって表せていますね。

「焦土の中」と「冬の帽子」でウクライナのことであるのはおおよそ分かりますが、初句を「ウクライナの」としてより客観的に始めてもいいかと思います。

初句に「抱っこされ」と来ると「抱っこされている」描写のイメージがかなり強く、一番印象的であるはずの「冬の帽子」のイメージがその分弱くなってしまい勿体ないかな、と思います。

それにしても音数をきちんと揃える努力をし、甘くなりすぎず客観的な描写で短い場面を切り取り歌う、という歌会での勉強の成果がしっかりと見えていて、上達っぷりが素晴らしい作者です。今後の作品が楽しみですね!

 

13・この皿もこの家具も捨て実家との別れの期日ひたひたと迫る(金澤)

住む人が居なくなってしまった故郷の実家。手放すことにしたのか取り壊すことにしたのか、思い出の詰まった実家との別れの日が決まり、その日が迫る中黙々と実家の整理をしてゆく作者。

この皿もこの家具も」。一般的には「この」という作者にしか具体が見えない指示代名詞は短歌では避けるべき用語なのですが、この作品に於いては効果的でアリな表現だと思います。

「この」としてぼかしつつ繰り返すことで「色んな数々の生活の思い出」が詰まっているのだろうな、と想像できますね。

結句の「ひたひた」の「と」はこの場合なくても無理がないので、削ってしまい音数を整えましょう。

 

14・湿り気を含む空気のひんやりと五種の紫陽花梅雨の季を待つ(川井)

湿り気を含んだ空気がひんやりと漂う中、五種類の紫陽花が梅雨の季節を待っている。

「湿り気を含む空気のひんやりと」という描写がとても良いですね。ごく自然にすっと思い描けて、読者も同じ空気を感じることができます。

この「ごく自然に」って実はとても難しいことなんです。デッサンが狂った絵はすぐに「なんかおかしい」と違和感を覚えるし、絵自体に描写力がないために周りにくどくど説明書きがある絵はパッと見ただけでは理解できませんよね。

パッと見ただけですんなり分かる絵というのはデッサンがしっかりしているからこそなのです。

上の句でこれだけ具体的な場面を描けているので、結句の「季を待つ」が少し勿体ないかな、と思います。

もう今にも降りそうな空気感が描写されているのですから、時間の幅の広い「季節」を待つのではなく「雨」を待っていると言ってしまっていいのでは。

「五種の紫陽花雨を待ちおり」などとして思い描く時間を「今」に引き付けてみてはどうでしょうか。

 

15・香水の残り香のごと黄楊(つげ)の木のほろほろこぼる小花芳し(大塚)

香水の残り香のような黄楊の木よりほろほろと零れる小花がかぐわしい。

黄楊の花の香というのを私は知らなかったのですが、甘くて濃厚な香りだそうです。

木はよく櫛などに使われたりして有名ですけど、花も香るのですね。黄楊自体はあちこちに見られる植物なので今までそれが黄楊の香だと知らずに見過ごしていたのかもしれません。今度探してみようと思います。

表記の問題として、「黄楊の木のほろほろこぼる」だと終止形なので「小花」にはかからず、「黄楊の木がほろほろ零れる」という意味になってしまいます。

「黄楊の木の(より)ほろほろこぼるる小花」とするか、「黄楊の木 oror ほろほろこぼ小花」として文法を整えましょう。

 

16・ピアノよりチェンバロが好き若冲(じゃくちゅう)より北斎がいい理屈は要らず(緒方)

ピアノよりチェンバロが好き。若冲より北斎がいい。理屈は要らない。

前半は作者の人となりが素直に現れるチョイスでとても良いですね。それだけに結句が惜しいです。

「理屈はあらず」でも惜しいのですが、更に作者は「理屈は要らず」としています。

作者によるとピアノの音や若冲の絵は「理屈(的な技術)」により作られているのが見えすぎていて疲れる、ということらしいのですが、そういう「隠されたうんちく」を入れてしまうのは正に「理屈」であり、それこそ「理屈は要らぬ」のです(笑)。

「ピアノよりチェンバロが好き若冲より北斎がいい」というチョイスこそに作者の人となりが見えて面白いので理屈は全て捨ててしまいましょう。

しかし捨ててしまうと七音余ってしまいますね。でも理屈は入れたくない。

ではどうしよう。ということでここは「理屈っぽくならない全く違う描写をぽーんと置いて埋める」という手法を使ってみてはどうでしょう。

絵で言うと、主題をイイ感じに描けたけれどやけに大きい空白部分が目立つ状態です。でもそこにあまりきっちり何かを描いてしまうと折角イイ感じに描けた主題部分を邪魔してしまいます。

さらっと。ただし手つかずの空白(手抜き・未完成)には見えないようにしたいところです。

「白き雲ゆく」「ほうじ茶かおる」「梅雨空近し」などぽーんと違う場面を置いて理屈を吹き飛ばしてしまいましょう。

 

17・マスクあれど空に響(とよ)もす大歓声ファンならずとも日本ダービー(小幡)

コロナ禍が続き皆がマスクを着けている状況下だけれども、大盛り上がりで空に大歓声が響く日本ダービー。特に競馬ファンではなくとも思わず自分も盛り上がるイベントであった。

場面は分かるのですが「ファンならずとも大歓声」と言うわりには実は作者の心はそれほど動いていないように感じます。

「ファンならずとも」が説明になってしまっているのでは。

マスクがあるのに(コロナ禍なのに)日本ダービーは空を揺るがすほどの大歓声がおきた!というだけで一首まとめてしまった方が良いのでは、と思います。

その「大歓声への驚き」こそに、すごい!大盛り上がりだ!私も思わず高揚しちゃった!という作者の感動が表れるような気がします。

 

18・基地減らず年間行事慰霊の日沖縄の空どしゃ降りの雨(栗田)

基地は依然として減らないままに今年も行われる年間行事の慰霊の日。その沖縄の空はどしゃ降りの雨だ。

「どしゃ降りの雨」に作者の鬱々としてやり切れない感情が見えますね。

音数をしっかり定型に合わせようとする努力は素晴らしいのですが、「年間行事」「慰霊の日」「沖縄の空」とぶつ切りの単語ばかりが並ぶと窮屈で調べも途切れ途切れになってしまいます。

いくつか字余りになっても「年間行事慰霊の日」「沖縄の空どしゃ降りの雨」と助詞を入れてなめらかにしましょう。

字余りが多くて気になるようでしたら「年間行事の慰霊の日に沖縄へ降るどしゃぶりの雨」などとしても良いかもしれません。

 

19・ショベルカー砂利を食らいて回転しそのまま川に吐き捨てるなり(名田部)

ショベルカーが砂利をぐわっと食らうように掬って回転し、そのまま川に吐き捨てている。

護岸工事でしょうか。「食らい」「吐き捨て」という描写から、作者がその光景を好意的には見ていないことが伺えます。

作者にはショベルカーの行為が自然の姿を壊しているように見えたのではないでしょうか。

余計な説明をせず、具体的な描写によって情景がしっかり見えますし、作者の感情も見えてきて良い歌だと思います。この調子です。

ただこの作者のクセですが結句の「~なり」がいけません。勿体ないです。

他の作品にもよく「なり」が出てきますが、しばらく「なり」は全て封印してみて下さい。

「~なり」は「~である(( -`д-´)キリッ)」という強い意志の元の断定で、前にも言いましたがお侍さんとかヒゲを生やした偉そうな教授とかが言いそうなイメージになってしまいます。

「なり」としたい所は全て「(して)おり」に変えてみましょう。「~おり」は「~している」という客観的な事実の描写で、作中で変な主張をしません。

また「川に」「川へ」という助詞も入れ替えてみて、この歌にはどちらがいいかな、と考えてみて下さい。

ショベルカー砂利を食らいて回転しそのまま川へ吐き捨てており

とすると客観的ながらも作者の感情が見えてぐっと良い作品になると思います。

 

20・握手したソン・ガンホの手柔らかく武骨さの中にオーラ滲める(飯島)

最近日本国内でもかなり有名になってきた韓国俳優のソン・ガンホさん。そのソン・ガンホさんと握手をする機会に恵まれた作者。その手は柔らかく、武骨さの中にもやはり何か特別なオーラを感じた。

以前韓国旅行をした時に偶然会う機会があり、握手をしてもらったそうです。羨ましいですね!

ソン・ガンホという人物を知らなくても、やや大柄で肉厚な手を持ち武骨な感じの男性有名人なのでは、と想像できるのではないでしょうか。

歌の形としては「手柔らかし」で一度切ってしまってはどうでしょう。切ることで握手した瞬間の場面にスポットライトが当たります。

「武骨さの中にオーラ滲める」は握手して「うわっ!柔らかっ!」と思った後に、少し冷静になってやや客観的に見ている部分があります。

その握手した「瞬間」の驚きと握手しながら「しみじみ」感じた部分を切って分けることで作品にメリハリを付けることができるのではないでしょうか。

また「武骨さの中」の「に」は今回の場合なくても大丈夫です。いつも「ブツ切りにしないで!カタコトっぽくならないで!自然に読めるように助詞を!」と言っているので「字余りだけどしっかり入れなくちゃ!」とちゃんと生真面目に考えて入れたのだと思いますが、この位置での「に」は「他に迷う候補がなく誰もが自然に補完して読めるもの」なので省けるものです。

また結句の「オーラ滲める」を「オーラが滲む」としてオーラの存在感を強めたいですね。

握手したソン・ガンホの手柔らかし武骨さの中オーラが滲む

としてみてはいかがでしょうか。

 

21・境内を借りて近道はずむ息 薫風にのりうぐいす響く(鳥澤)

神社の境内を通ることで近道をし、息をはずませる作者へ優しい初夏の風が吹き、その風に乗ってうぐいすの声も響いてくる。

とても爽やかな歌ですね。

特に上の句が素晴らしいです。「境内を借りて近道」という言葉のチョイスが独特で、その一語から現代的に忙しく生きながらも神域(神)を尊ぶ心も忘れていない作者の人となりが見えます。

「抜けて」「横切り」じゃこうはいきません。たった一語で!すごいですね。

それだけに下の句が惜しいです。作者による個性的な物事の見え方が表れてきません。

2番の歌で述べましたが「薫風」は概念的な言葉であり、皆なんとなく似たようなものを思い浮かべられはするけれどその実様々、というものです。

何により「薫風」と感じたのでしょう。風の暖かさでしょうか、柔らかさでしょうか、さざめきから感じる生命力でしょうか。

うぐいすの声も同じで、注目すべきはどこでしょうか。伸びやかさでしょうか、高く通る声でしょうか、生き生きとした調子でしょうか。

「薫風」「うぐいす」と二つもが概念的な言葉で具体的な情報がないため、読者はふんわりとしか思い描けません。

近道をして息をはずませる作者の心をより動かしたのは「薫風」か「うぐいすの声」かどちらでしょうか。はずむ息を優しく整えてくれた風でしょうか。すずやかに響くうぐいすの声でしょうか。どちらかにより具体的な情報を入れて主役を決めてみてください。

 

22・雨続き誰も参らぬ薄暗き寺の片隅へ著莪(しゃが)の明るさ(畠山)

雨が続いて参拝に来る人もなく薄暗いお寺の片隅でシャガの花だけがぽっと明るく目立っていた。

これはもう見ての通り「前説が長い!」ですね。歌の核は「シャガ」なのに延々と状況説明をしてしまっている。良くない例です。

ここまで寺の薄暗さについて述べるならそちらを核にして一首作るべきですね。

「雨続き誰も参らぬ寺隅はぽつと著莪の明るさのみに」などとしてうら寂しい「寺隅」を主役にするか、シャガを主役にして「薄暗き寺の片隅を青白くぽつと灯せる著莪の明るさ」などとしてもう少しシャガに対してきちんと描写すべきかなと思いました。

 

☆今月の好評歌は6番、小幡さんの

頂戴と言へばどうぞと呉るる児の眼にはたちまち涙の溢る

となりました。

歌う場面の選択、説明的になってしまわない具体的な描写、言葉と表記の選択、作品の持つ詩情、どれもが素晴らしく文句の付けようがありません(笑)。

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◆歌会報 2022年6月 (その1)

◆歌会報 2022年6月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第122回(2022/6/17) 澪の会詠草(その1)

 

1・占いの我がみずがめ座最下位だ歌会へ行くバスの中にて(小夜)

歌会へ向かうバスの中の動画広告で、自分の星座であるみずがめ座が最下位と表示された作者。

占いなんてそんなに気にしないわ、という人でも「最下位」となるとちょっとショックで気にしてしまいますよね。

歌会で厳しいことを言われたりしないかしら、と少し不安になっているような様子が想像できます。

情景も分かるし、「がっかり」とか「ショック」とか直接的に言ってしまわずに具体的な描写から作者の気持ちを表すことが出来ていて良い歌ですね。

音数もちゃんと合わせようとしているのですが、ここは字余りでも「みずがめ座」と助詞が欲しいところ。

また「最下位」という濁音の口語を使っていますが、これは「最下位よ(感嘆)」としたり「最下位に(なる・なった・なってしまったという意味が省略)」として響きを調整しても良いかもしれません。

私は作者の素直ながっかり感が表れるのでこの歌に関しては「最下位だ」という口語もアリかなと思うのですが、「歌」らしさを上げるには濁音・口語はどちらも要注意なので検討してみて欲しいですね。

 

2・故郷の千茅を揺らす薫風は耳にささやく「なるようになる」(金澤)

作者は何かしら問題や悩みを抱えつつ故郷にいるのでしょうか。さわさわとチガヤを揺らす薫風が「なるようになる」と優しくささやくように抜けていく様子を思わせます。

情景はやや抽象的ではありますが分かりますね。

表記の問題として「チガヤ」は「茅・千萱、白茅」という三種の漢字表記が一般的なようです。さてそれではどれが一番作者の意図に合っているかな、と考えたところ「白茅」が良いということになりました。

チガヤと言えばあの白銀の穂が特徴的ですものね!

さて「やや抽象的」と捉えましたがそれは何故でしょう。それは恐らく作者視点からの「チガヤがどのように揺れているのか」「どんな風なのか」が具体的に描かれていないからではないでしょうか。

「薫風」と言ってしまうとなんとなくは分かりますが「優しい風・暖かい風・ゆったりとした風・力強くても攻撃性を感じない風・生命活動が動き出す勢いを感じる風」等さまざまな風が「薫風」にはあります。若葉をざわーっと揺らす力強い風とさわさわと柔らかく草を揺らす風では思い浮かべる景色が全然違ってしまいますよね。

作者が感じた風はどんな風だったのでしょうか。

「どんな風」が吹いていたかでもいいし、「チガヤをどのように揺らしている」のかで風を表現してもいいので、「作者の感じた風」を教えて欲しいですね。

 

3・淡紅の手毬のような紫陽花へ微かなゆらぎを風が与える(川井)

うすべに色の手毬のようなまぁるい紫陽花へ風が微かなゆらぎを与えている。

淡紅・手毬で紫陽花の色もスタイルもしっかり思い描けます。花のふとした瞬間を見る視点もとても良いですね。

ただ結句で「風が与える」としたことで急に主役が「風」になってしまいますね。ここは淡紅・手毬としっかり描いた紫陽花を主役で通したいところ。

四句と結句を入れ替え、助詞も「が」から「は」に変えて「風は与える微かなゆらぎ」とした方が出たがりな「風」を脇役に抑えておけるのではないでしょうか。

もしくはもう「紫陽花が(は)どのように揺れている」として、「風」さんには舞台から降りていただき、完全に「紫陽花」主役でいってもらう。

作者は丸い紫陽花がうたた寝をしてこっくりこっくりと舟を漕ぐように揺れる様子を「まるで夢を見ているようだ」と思い、それを表現したかったということですが、「夢を見ているようだ」はかなり糖度が高い表現なので(笑)そこまでは言ってしまわない方が良いかもしれません。

淡紅の手毬のような「紫陽花はこくりこくりと舟を漕ぎおり」とか「紫陽花が居眠りをする水無月の昼」とか紫陽花主役で行ってみてはどうでしょうか。

 

4・ほの暗き朝のしじまに時鳥耳をすませて今日の日思う(大塚)

まだ仄暗い朝、静寂を破り聴こえてきたホトトギスの声。その声に耳をすませながらこれから始まる一日のことを思う。

作者が言いたいこと、心が動いたことがちょっと分かりにくいかなと思います。作者の中でもまだ核が定まっていないのかな、と。

「今日の日思う」とありますが、作者の思う「今日」が不安なものなのか、よし、今日も一日頑張るぞという前向きなものなのか、代り映えしない淡々とした日々なのかそういったものが読者に見えて来ません。

遠くにか細く聴こえるようなら不安な一日を想像しそうですし、張りがあって元気な声なら希望のある一日を想像しそうですよね。せわしなく鳴いていたら作者の一日も忙しくなりそうです。また子育て中の声に聴こえたのなら、作者も子育て中の事を思い出しつつ現在の生活である「今日」を比較して思っているのかもしれません。

ホトトギスの声が作者にはどう聴こえたかによって読者はその「作者の思う今日」を想像するので、「耳をすませて」という情報の代わりにホトトギスの声の情報が欲しいところ。

また「しじまに」という言葉は適切でしょうか。「しじまに」は漢字だと「静寂に」ですよね。私は「静寂を破り」と勝手に補完して読みましたが、「破り」がないと「静寂なのに鳥の声?」と場面に矛盾を感じてしまうかもしれません。

状況説明は「まだ暗い明け方に」という情報だけでいいかもしれません。その分「作者にはホトトギスの声がどう聴こえたか」という描写を歌ってみて欲しいと思います。

 

5・梅雨まぢか久の遠出の大山路四葩(よひら)の花の藍を濃くせり(緒方)

もうすぐ梅雨という頃に久々に遠出をして巡る大山路には紫陽花の花が藍色を濃くして色付いている。

情景は分かりますし、コロナ禍にしっかり自粛してきた生真面目な作者が紫陽花の青く色付く中ようやくの遠出を楽しむ姿が見えてきて素敵な歌だと思います。

が、「四葩」というあまり一般的ではない言葉を使う意味が活きているのかどうか。

俳句や和歌など作る側も読む側も「知識」も楽しむ前提のものではアリかもしれませんが、短歌はやはり「共感」、作者の感動を読者にも追体験させてあげるという部分にこそ重きを置くべきかな、と思います。

歌会(勉強会)ですのでこういった難しい言葉や様々な知識はとても為になるし毎回楽しませていただいていますが(笑)、「短歌作品」として出す時には少し注意が必要かもしれません。

「紫陽花の花藍を濃くせり」だと「花」が並んでしまう、字数的に「花藍」とくっついてしまい助詞を入れる余裕がない、かと言って一字空けるのも…と作者も色々と悩んだ結果のようですが、「紫陽花まるく藍を濃くせり」などとしてみてはいかがでしょうか。

 

6・頂戴と言へばどうぞと呉るる児の眼にはたちまち涙の溢る(小幡)

幼子の遊んでいたオモチャや食べ物などでしょうか。子供が興味を持って手にしていたものに対し「頂戴」と言ったら「どーじょ」とくれる。けれど本当は渡したくなくて、一生懸命我慢していて、目にはたちまちに涙があふれて来る幼子の様子がありありと浮かびます。

何の説明も修正も要りませんね。完成された作品です。

 

7・生徒らがグランドいっぱい晴れやかにマツケンサンバを踊る笑顔よ(栗田)

春の運動会でしょうか。グラウンドいっぱいに広がって晴れやかにマツケンサンバを踊っている生徒らの笑顔に作者も元気を貰ったようです。

グランドは「体育(たいいく)」を「たいく」と言ってしまうように、本来の「グラウンド(ground=大地・運動場)」が発音しやすいように詰まった言葉です。(グランドピアノのグランドはグランド(grand=壮大な・豪華な)で別物です)

マツケンサンバ」は固有名詞で変えられませんから「グラウンド」の方は「校庭」としてしまってはダメでしょうか。確かにグラウンドより伸びやかさに欠ける気もしますが、グラウンドでは文字数が多く「水甕」にも投稿しづらいと思います(水甕推奨は27字)。

また「生徒らが━━踊る笑顔よ」と主語と述語がかなり離れてしまっているので、初句は「晴れやかに」とやや遠景からカメラが入って「校庭いっぱい生徒らが」と主語(生徒ら)に対しカメラを寄せていく演出の方が効果的かな、という気がします。

晴れやかに校庭いっぱい生徒らがマツケンサンバを踊る笑顔よ

とすれば28文字まで減らせますね。

 

8・大公孫樹乳状下垂は鹿の顔枝角のごとく凜しくありぬ(名田部)

大公孫樹の乳状下垂(乳房のように垂れ下がった幹の瘤)が鹿の顔に見える。瘤の部分が顔で、枝が角のように見えて凛々しい。

「凜(りん)しい」とは言わないので「凜々(りり)しい」と二文字重ねましょう。一文字の場合は「凜(りん)として」のように「と」が付きます。

乳状下垂のある大公孫樹が鹿の顔に見える!という見方は面白いと思います。

ただ「乳状下垂の部分が顔でね、そこに枝があってそれが角に見えて…」と、「説明」することにとても一生懸命になってしまっていて、作者が感じた「おっ、鹿の顔みたい!」という気付きによる楽しさが薄れてしまっています。

そのちょっとした気付きによる楽しさこそが核だと思うので、「垂れ下がる大きな瘤に伸びる枝 依知の公孫樹は雄鹿のごとし(凛々しき雄鹿)」などとして、「乳状下垂」などと難しい用語を使わずに誰にでも分かりそうな言葉で見たままを描写した方が良いのでは、と思います。

一生懸命説明しなくても「雄鹿のようだ」と言えば瘤の部分が顔で枝が角なんだな、と読者は思い描けると思います。

 

9・山百合と紫陽花続く庭園に母の笑顔の浮かびて歩く(飯島)

山百合と紫陽花が続く庭園にて母の笑顔を思い浮かべながら歩く。

その庭園にお母様と行ったことがあるのか、山百合と紫陽花がお母様の好きな花だったのか。何かしらお母様の思い出と紐付いた花なのでしょうね。

お母様の笑顔(とおそらくはその表情の時の会話など)を思い出しながら花に満ちた庭園をゆっくりと歩く、美しいけれどちょっと切ない情景が思い浮かびます。

「母」は亡くなったお母様とのことで、ここは「亡母」と書いて「はは」と読ませる方が状況をはっきりさせられると思います。

「母の笑顔の浮かて歩く」だと現在存命の母に笑顔が浮かび、作者と一緒ににこやかに歩いている場面とも受け取られかねません。

「亡母の笑顔浮かて歩く」だとその辺りがしっかり決まると思います。

また「続く」「浮かべる」「歩く」と3つも動きのある言葉が出て来てしまうので「続く」を「満ちる」として動きの印象を抑えてしまった方が良いでしょう。

 

10・傘のなか雨をくぐりて届く香よ見あぐる崖にスイカズラの群(鳥澤)

雨をくぐり抜けて傘の中まで届いた香。香の元を探して見上げるとそこにはスイカズラの群が。

ジャスミンよりは控え目な甘さと僅かに柑橘のような清涼感を併せ持ったスイカズラの香。

「傘のなか雨をくぐりて届く香」という表現が良いですね。雨に負けない香の強さを説明感なく詩的に表しています。

このままでも何の問題もない歌ですが、「崖スイカズラ」と「崖スイカズラ」とそれぞれ助詞を変えて検討してみて下さい。

意味は変わらないのですが印象は結構違いますよね。どちらの方がより作者の感覚にしっくり来るのか。

因みに私は「へ」推しです(笑)。「へ」の方が少~しだけカメラが引いて客観的な感じがしますよね。

 

11・さみどりの楠の若葉をつややかに洗ひ清めて翠雨(すいう)ひたに降る(畠山)

明るい緑色の楠の若葉をつややかに洗い清めて翠雨(草木の若葉に降る雨のこと)がまっすぐに降っている。

楠の葉っぱってやや硬くてつるつるしているので雨が沁み込まず表面を流れ落ちていくんですよね。

そして雨に洗われた若葉が洗ったばかりの車のボディのようにピカピカにつやめいていて思わず見惚れました。

主語は「翠雨」ですが歌の核は?と言うと「洗われてつやめく楠の若葉」ですよね。「ひたに降る」とすると「翠雨」にかなり重さが行ってしまいますね。結句だし。

3番の歌と同じで結句に核ではない主語を置いてしまったことで本当の主役である「楠の若葉」が軽くなってしまっています。

ここは「翠雨」にはあまり重さ(意思)を持たせない方が良いということで「翠雨降りつぐ」「翠雨は降りぬ」「翠雨降りをり」等で考えてみたいと思います。

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◆歌会報 2022年5月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第121回(2022/5/20) 澪の会詠草(その2)

 

12・川の隅いつも一羽で所在無げ仲良くなれそ白鷺の君(小夜)

川の隅にいつも一羽で所在無さげにいる白鷺の君とは仲良くなれそう。

この歌もこの作者の個性である優しく甘やかな世界観が見えます。

いつも一羽で退屈そうな白鷺を見て仲良くなれそうと思う感性は素敵ですね。言葉が違う、種族も違う、けれどどこか共通するものを感じている作者。

この感性はとても素晴らしいのですが、メルヘンチックで純粋な少女的作風はその「加減」がとても難しいものでもあります。

甘さが過ぎるとくどくなったり、幼くなったりしてしまうのです。

物事の捉え方、題材の切り取り方はそのまま、くどすぎない絶妙な加減に持っていくために、「具体的な描写を増やす」「単品で甘い感じがする単語は避ける」等して甘さの調整を心がけましょう。

ここでは「白鷺の君」が糖度をぐっと上げてしまっているので少し抑えたいですね。「~の君」と言うと現在では「愛しの君」とか「白薔薇の君」などと言うように恋愛感情を持つ相手や少女漫画や宝塚など少女文化のアイドル的な存在を呼ぶ時に使われ、やや甘ったるいイメージがあります。

「川隅にいつもぽつんと所在無げ仲良くなれそう白鷺一羽」

などとして甘くなりそうな言葉を省いてはどうでしょうか。

 

13・旧道は人け無くとも山々の緑の濃淡命押し来る(飯島)

旧道には作者の他に人の気配はない。けれど遠くの山から近くの山まで様々な濃淡の緑が「命」を表し押し寄せてくるようだ。

この作者もまたぶわっと一斉に芽吹く新緑を「押し来る」と感じたようですね。

動物ではないけれど緑が確かに「命」であることを感じているということで、そこを強調するために一マス空けてから「命押し来る」としてはどうでしょうか。

 

14・茶畑に五月の風と葉の揺らぎ鶯鳴きかうあの日よ戻れ(大塚)

茶畑に五月の風と葉が揺らぎ、鶯が鳴き交うあの日よ戻ってくれ。

3番の歌に続き、亡くなったお父さんが元気に茶畑に出ていた頃を懐かしみ、昔ののんびりした情景(と元気なお父さん)に戻ってきて欲しいという慟哭の歌でもあります。

この歌一首単体ではそこ(慟哭)までは分かりませんが、連作ならしっかりと伝わると思います。

「あの日」までは全て過去の情景なので「鳴き交う」を「鳴きける」「鳴きし」として過去であることを確定してしまった方がいいかもしれません。

「交う」ということで複数鳴いていたという情報も惜しいのですが、今現在の五月の風と鶯の鳴き交わす中に作者が居て、同じような「あの日」よ戻れと取られてしまう危険もあります。

「茶畑に~鶯が鳴いていたあの日」という過去の描写であることを確定してしまいましょう。

また「茶畑」「茶畑」などの助詞も入れ替えてみて、より作者がしっくりくる方はどちらかなども検討してみてください。

 

15・散歩道公孫樹の一樹枯れしかと小葉を見つけて今日の良き事(栗田)

散歩道の公孫樹並木のうちの一本がすっかり枯れてしまったものだと思っていたところに小さな葉っぱが芽吹いているのを見つけて、それを今日の良き事として喜ぶ作者。

何気ない日々でも観察と小さな気付きの中に喜びを見出せる作者の生き方が素敵ですね。

丁寧に場面を説明しようとしたのかと思いますが「散歩道」という情報は不要かもしれません。「枯れたと思っていた公孫樹に小さな新芽が!」という部分が核なので「一本の枯れて見えたる公孫樹の木へ小さき(ちさき)葉のあり今日の~」「枯れたかと見えた公孫樹にさみどりの小さき葉のあり今日の~」などとしてはどうでしょうか。

 

16・姉妹揃いの服で通ったころ世田谷の町今も変らず(戸塚)

姉と妹、お揃いの服で通ったころと世田谷の町は今でも変わっていないなぁ。

世田谷なんて私からは高級住宅街やお洒落な都会というイメージなのですが、下町など古くからの住宅街は大規模な開発が出来ない分、意外とガラッと変わったりはしないのかもしれませんね。

姉妹でお揃いの服を着て通ったころとありますが、これは「とおった」のでしょうか「かよった」のでしょうか。

「とおった」だとお揃いで仕立ててもらったお気に入りのお洒落な服なんかで休日に買い物や散策をしていた様子を想像しますし、「かよった」だと揃いの服というのは制服で同じ学校にかよっていたのかな、などと考えます。

「とおった」なら「通りしころ・歩いたころ・歩きしころ」など。「かよった」なら「通いしころ・通いたるころ」にして区別を付けたいですね。

また「~ころ」の助詞が欲しいですね。

また「世田谷の町」とするとかなり広範囲で駅周辺などは大きく様変わりしているため「今も変わらず」がしっくりこない人も多いと思います。

「~ころと世田谷粕谷は今も変わらず」「~ころと今も変わらぬ粕谷の町は」「~ころと今も変わらぬ寺町通り」などと旧さを想像出来そうな地名にしてみてはどうでしょうか。

 

17・花片と花しべ埋まる広場には雑草も萌え錦絵と化す(名田部)

花びらと花しべに埋まる広場には雑草も伸びて来て錦絵のように華やかだ。

「花弁と花しべ埋まる」では花弁と花しべ広場(の地中)に埋まってしまうので、ここは助詞が必須です。字余りでも「花弁と花しべ埋まる」としましょう。

また「錦絵と化す」がありきたりです。色とりどりで華やかなもの、色鮮やかで精緻なものを「錦絵」と言ってしまったり、賑やかに様々な音が鳴る様子を「交響曲」と言ったり、“誰もが連想しがちなものに例える”のはありがちで、その人ならではの感じ方が表れません。

それならいっそ「色とりどりに」とか「明るく眩しい」とか見たまま感じたままを言ってしまった方がずっと良いでしょう。

外国の国旗のようだとか鼻歌を歌いたくなるとか春色を極めたようだとか、作者ならではの「華やかさ」の言い方を考えてみましょう。

私だったら「春色に満つ」とかにしてみると思います。

また花弁と花しべに埋まる広場「には」雑草「も」萌え、という部分は「説明してるな~」と感じてしまいます。

「広場あり」で一度切ってしまってはどうでしょうか。また「雑草」は実際雑草なのでしょうけれど、「あらくさ」とひらがなにして「雑」感を薄めるか「若草」などと言い換えた方が良いのではないでしょうか。

 

18・風を切り上流へ向く数百の鯉のぼりまで歓声届きぬ(川井)

風を切って(川の)上流へと向く数百の鯉のぼりにそれを見る人々の歓声が届いた。

相模川では「泳げ鯉のぼり相模川」という川の上に綱を渡し千匹近くの鯉のぼりを群泳させるイベントがあり(*2019年を最後に中止)、その様子を歌ったものですね。

川の上に渡された鯉のぼりが風が吹くと一斉に上流の方を向いて空を泳ぎ出す様は圧巻で、「おお~!」という人々の声が湧き上がる様子が思い浮かびます。

このイベントを知っている人は「上流」が相模川の上流であることが分かりますが、知らない人や違う土地のイベントなどを思い浮かべる人は「風上」「空という川の上流」と取るかもしれません。

それでもいいかもしれませんが、よりイメージを固定するには「川上へ」としてしまった方が大きな川の上に渡された鯉のぼりの風景を読者もくっきり思い描いてくれるとは思います。

また結句は「歓声届く」として七音で決めたいですね。

 

19・水求め鳩はくちばしコツコツと舗装道路の小さなくぼみへ(金澤)

水を求めて鳩が舗装道路の小さなくぼみをしきりにコツコツとつついている。

舗装道路の小さなくぼみに僅かに溜った水を飲もうと頑張る鳩を見て、生きるって大変だなぁ、という生き物の必死さに対する驚きと応援するような優しさを感じます。

述語がはっきりしていないので「くちばしをコツコツとぶつけながら小さなくぼみへ向かって行った」のか「小さなくぼみへくちばしをコツコツとぶつけている」のかで悩んでしまいます。

「水求め鳩はコツコツつつきおり舗装道路の小さきくぼみ」とすると迷いが無くなりますね。「つつく」という動詞を使うことで「くちばし」と言わなくても分かりますね。

8番の歌や、以前歌った新しい街並にも対応し道案内するツバメの歌など、身の回りの小さな生き物たちの様子を細かく観察し、そこから「生き物が生きることの強さ」を見つけるのがとても上手な作者ですね。

 

20・悠々と暮鳥の雲のゆく空はウクライナへと続くあをぞら(小幡)

山村暮鳥(やまむら ぼちょう)という詩人の「雲」という詩に書かれた雲のような平和そうな雲が悠々とゆく青空。けれどこの空は今戦禍の只中にあるウクライナへと続いているのだな。

今自分の目の前にある平和そのものの風景の先に、同じ時間、同じ星の上にあるのに命の危機に曝されている人々がいる。

歌う場面は深くとても良いと思います。が、「暮鳥の雲」が果たしてどれだけ伝わるかが疑問です。

実は私はネットで調べるまで知りませんでした。言われてみれば「おうい雲よ馬鹿にのんきさうぢやないか」の辺りは見たことがあるような気もしないでもないですが(笑)、調べるまでは「暮鳥の雲」と言われてもどんな雲なのかピンと来ませんでした。

日暮れの頃に山に帰る鳥が飛ぶ夕方の空の雲を思い浮かべてから、結句の「あをぞら」であれ、違うな、と思ったりしてしまいました。

例えば「宮沢賢治の夜空」や「高村光太郎のレモン」、「石川啄木の手」あたりならそこそこ似たような概念を思い浮かべる人もいるかと思いますが、それでもやはり概念的ですし、山村暮鳥はそこまで有名でしょうか。

「ぽかーんと丸い雲」や「ふわふわの白き雲」「ゆったりと横たわる雲」等、ここは作者が見たままの雲を描写した方が断然伝わると思います。

 

21・警官を前に反戦ピアニスト ロシア市民の拍手は続く(鳥澤)

現在ロシアでは「反戦」どころか、ウクライナに対する侵攻を「戦争」と言っても反逆者として逮捕しれてしまうようですね。一方的な侵略戦争を仕掛けておきながら「これは戦争ではなく親ロ派を救う特別軍事作戦」と言う図々しさ。

端から見る私たちからするととんでもないですが、実際ロシアに居て命や暮らしがかかっていたら、なかなか「戦争反対!」とは言えないかもしれません。そんな中で「反戦」を意思表示するロシア国民の勇気には頭が下がります。

YouTubeなどで動画が流れたようですが、「戦争反対!」と直接的な単語は口にしないまでも一人のピアニストがロシア国内のコンサートでウクライナの曲を演奏することによって反戦を意思表示したところ、即座に警官がピッタリと横に張り付き監視を始めたそうです。それでもピアニストは演奏を続け、それに対しロシアの市民が口には出せない隠れた意思(反戦)を表明するように拍手を続けたという。

時代の一場面を敢えて感情的にならず淡々と描写することで難しい場面を歌にしています。

 

22・「儚さは捨てた」大木の八重桜華美なフリルは女王の装ひ(畠山)

八重桜の濃いピンクのフリルは可愛らしさというより強い女王のようだなと思いました。

ただ可愛ければよい王女ではなく、自己主張が弱くてはやっていけない女王。

女王のドレスの華やかさは政治権力や財力の強さの証。

と思って詠んだのですが、二句の句跨りが厳しすぎると言われてしまったので少し考えてみます。

 

☆今月の好評歌は21番、鳥澤さんの

警官を前に反戦ピアニスト ロシア市民の拍手は続く

となりました。

感情的にならずに客観的な状況を述べることで、戦争という強すぎて難しい題材を重みのある歌に仕立てていますね。

youtu.be

◆歌会報 2022年5月 (その1)

◆歌会報 2022年5月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第121回(2022/5/20) 澪の会詠草(その1)

 

1・青空を泳ぎて去りゆく花びらに訊くは言の葉手の平の中(小夜)

のどかな春の終盤、桜が青空を泳ぐようにひらひらと散ってゆく。そのきらきらした様が花の妖精たちがキャッキャウフフと楽しげに何かお喋りをしているように見えたのでしょうか。思わず掴まえた手のひらの中のひとひらに「何をお喋りしていたの?」と問いかけるような作者を思わせます。

メルヘンチックで少女のような純粋な感性を感じます。この「メルヘンチックな物事の捉え方」は作者の個性であり活かして欲しい路線です。

「物事の捉え方」はそのままに表現をなるべく具体的にして、他者にも伝わる作品を目指してゆきたいですね。

今回は時間経過と急激なカメラ移動が入っているのが問題です。

まず前半は「青空を泳ぎて去りゆく」花びらの描写であるのに、結句で「手の平の中」となり花びらがいきなり瞬間移動していますね。ここはどちらかの場面に絞ってどちらかは削ってしまいましょう。青空の中を泳ぐように散る花びらか、一枚掴まえて手の中に収めた花びらか。

個人的には「青空を泳ぐ」方が素敵だな、と思います。特に「散る」「舞う」などの花びらの描写にはありがちな表現でなく「泳ぐ」と見ているところがとても良いと思います。「泳ぐ」としたことで花びらに「残念・儚い・寂しい・さようなら」といったマイナスの感情ではなく「きらきら・悠々・楽しげ・またね」といったプラスの感情を持たせることに成功していると思います。

この「泳ぐ」がないと作者が花びらに対しどちらの感情を抱いているのかを決定する表現がないため、作者が花びらを「どう」見ているかという表現をどこかに入れてやらないといけません。

また「泳ぎ去りゆく」は「泳ぎ去りゆく」として音数を合わせましょう。

青空を泳ぎ去りゆく花びらよ一体何を話しているの

と尋ねている作者や、

青空を泳ぎ去りゆく花びらはからからひらら楽しく笑う

など作者が捉えた花びらの様子の描写など、視点を「手の平の中」に移動させずに詠んでみてください。

 

2・黒揚羽大紫にあまた舞う 日向の薬師初夏の透けゆく(飯島)

黒揚羽(蝶)がオオムラサキツツジ)に数多舞っている、日向の薬師の光景にうっすらと夏の始まりを感じている。

お散歩かお参りか、ツツジの盛りに日向薬師に訪れた作者。華やかに咲いたオオムラサキツツジの蜜を吸っているのでしょうか、あちらにもこちらにも黒揚羽が舞っている。その華やかで賑やかな自然の光景からはお天気の良さも伺えます。その明るい陽射しにうっすらと夏を感じたことを「初夏の透けゆく」としたのではないでしょうか。

ただ「大紫」というとまず「蝶」の方の「オオムラサキ」が出て来てしまいます。ネットで検索しても「オオムラサキ・幼虫・強い・神奈川・生息地・メス」などの言葉が並び、多くの人が「オオムラサキ」といえば「蝶」を指すものだと認識していると思われます。

しかもこの歌ではまず「黒揚羽」とあり頭の中に「蝶」を思い描いているので尚更です。

そのため私も最初は黒揚羽「と」オオムラサキ(蝶)「が」あまた舞っているのではないか(助詞の「に」が間違っているのでは)と思っていました。

本当は「ツツジ」を入れれば万全なのですが「オオムラサキツツジ」だとさすがに文字数が多く辛いところではあります。

とりあえず黒揚羽「の or が」大紫「へ or に」と助詞を入れて黒揚羽「と」ではないことを確定させましょう。

欲を言えばやはり「ツツジ」であることの方を言って場面をハッキリさせてしまいたいですが。日向薬師オオムラサキツツジへたくさんの黒揚羽が舞っている様子だけではダメでしょうか。初夏が透けるは切れないものでしょうか。天気が良く明るい五月の風景がしっかり描写できれば読者は作者と同じような空気を感じられるかもしれません。

また「あまた舞う 日向の薬師」と一字空けていますが、この一字空けは効果的でしょうか。ここは詰めてしまってもいいのでは。

また「日向の薬師初夏の」には助詞が必要です。この場合「日向薬師」の「の」は必須ではないので「日向薬師」の方の助詞をしっかり入れましょう。

 

3・茶畑の風心地よく父の癖機嫌良ければかけ声ホイホイ(大塚)

茶畑の風が心地よく吹く時の父の癖、機嫌が良いと「ホイホイ」と調子の良い掛け声をかけていたなぁと思い出している作者。

これは作者が亡くなったお父さんを偲んで詠んだ歌です。

ですから詠まれているのは「過去の場面」なのですが、このままだと時制がはっきりしません。

特に「茶畑の風心地よく」は現在の茶畑の風を感じたことにより昔のお父さんの様子を思い出しているのか、お父さんを思い出す場面(過去)の中の風が心地良いのかで読者の思う場面がかなり変わってしまいますね。

まず「父」は「亡父」と表記する(読みは同じく「ちち」)と亡くなったお父さんを偲んで過去を思い出しているのだな、とはっきりします。

また「心地よく」という表現は作者の体感を表す表現のため余計に「今現在作者が体感しているのかな」と取られがちです。

ここは「優しい」「柔らか」「暖か」「緩やか」などの客観的な表現の方が良いかもしれません。

また「癖」の場所も変えた方が自然な日本語になるかと思います。

「茶畑の風やわらかく亡父の機嫌良き時の癖 かけ声ホイホイ」

などの方がすんなり読めると思うのですがどうでしょう。

故人を偲び、様々な想い出を懐かしみ巡ることは故人への何よりの供養だと思います。立派な戒名やお墓を用意されたりすることより、何よりも故人としては嬉しいことではないでしょうか。

遺された側としては悲しく辛い時間と感じてしまうかもしれませんが、故人の生きた証を沢山沢山思い出してさしあげて下さい。

 

4・ジャスミンの花の香りに包まれてしとしと雨の独り居の午後(栗田)

ジャスミンの甘い花の香に包まれて、しとしとと雨が降る日に独りで過ごす静かな午後のひととき。

雰囲気がありますね。しっとりと湿った空気感(落ち着いていて優雅な感じ)があります。

ジャスミンという具体が効いていると思います。

「しとしと雨の」が少し気になります。「しとしと雨」までで一語となる言葉はなく、通常「しとしと」は「しとしと」と「と」が入ります。「降る」に続く場合はこの「と」が省略されることもあります。

一音多くなりますが「しとしと雨降る独り居の午後」でいいのではないでしょうか。結句ではないし、読んでみてもあまり気にならないと思います。

 

5・「富士の山」優しく奏でる夫のあり片手で奏法ピアノの練習(戸塚)

唱歌「富士の山」(あーたまーをーくーもーのーうーえにーだーしー♪)を慣れない手つきながらも片手で丁寧にピアノで弾く旦那さんを優しく見守る作者像が見えます。

ちなみにこのブログでももう何度も出ていて今更という感じもしますが、「夫」の読み方について。「夫」と書いて「つま」と読ませるのは短歌ではよくあることなので、読み手側は音数を考えて「おっと(三音)」かな「つま(二音)」かなと考えてみてください。

今回は「つ・ま・の・あ・り」と読むと丁度五音になるので「つま」読みが正解ですね。

さて、前半で「優しく奏でる」と言っているので後半は「片手でゆっくり」「右手のみに打つ」など演奏している様子の言葉を持ってきて、「奏でる」「奏法」と「奏」が被らないようにしたいですね。

 

6・四方から鶯の声朗朗と姿は見せず花は散りぬる(名田部)

四方から鶯(うぐいす)の声が朗々と聴こえてくる。姿は見えず、花が散っている。

「鶯」に「散る桜」と一見美しい詩的なものが詰まっています。常々「自分の目で見たことを!日常を素直に!自分の言葉で!」と言っているので前回素直に「傘とレジ袋がタダだった!」という日常の体験を歌を詠んでみたところ「詩がない。情緒がなさすぎる」などと言われてしまったため、今回は「詩的な情景」を詠んでみたのかもしれません。

この「素直さ」は本当に大切なこの作者の「個性」だと思います。

ただ、「前回言われた一つの事」だけを考えるのではなく、全部を少しずつ積み上げて統合し、応用できるようになるといいな、と思います。

さてこの歌、場面は明るい春のひとときで良いのですがいわゆる「ありきたり」な表現を使ってしまい、作者ならではの感じ方というものが伝わってきません。

またずっと鶯について述べていたのに、肝心の結句でいきなり散る花が主役になっていますね。三十一音という短い詩形の中に二つも主役は置けません。

鶯の声を主役にするなら、姿は見えないけれどあちらこちら(の花散る桜木)から「このような」鶯の声が聴こえてきた、という核だけでまとめてみましょう。鶯を主役として際立たせるには「桜」の情報は一切無くてもいいかもしれません。

「このような」の部分は「朗々と」という“鶯の声を表現する時に多用される一般的な言葉”ではなく「高い・澄んだ・抜けるような・陽気な・楽しそうに・空気震わせ・細く水が流れるように」など作者の耳にはどう聴こえたかという情報を入れて欲しいです。そこにこそ作者の個性が出ます。桜の情報を切って空いた分を鶯の声の情報にしてみてください。

あの時の鶯の声、どんな風に聴こえていたっけな、と思い返しつつ色々な言葉を探してみて下さい。

または「花が散る」を主役にするなら、鶯の声があちこちから聴こえる「けれど」姿は見えなくて「ただただ」花が散っている、というように、鶯より花の印象を重くする語句を入れないと鶯と花のダブル主人公になってお互いを打ち消し合ってしまいます。

四方より鶯の鳴く声すれど姿は見えずただ花の降る

などとすると、鶯の声が「するけれど」と否定することによりやや花の方に比重が傾きます。

ただ、状況説明(四方より・鶯の声・けれど=否定語・姿は見えない・花が散る)だけで三十一音いっぱいいっぱいで、「花が散る」ことを主役にしようとした割に「花が散る」ことへの「作者ならではの個性的な感じ方」を入れる余裕がなく、なんとなく美しいけれど没個性的な歌になりがちということは否めません。

花を主役にするなら上の句を「鶯の声はすれども姿なく」くらいの情報にして、下の句で花の散る様子をもっと細かく歌いたいですね。

 

7・何色の花だったろうシャクナゲの萎れし中を坂道下る(川井)

作者の目にふと入って来た、萎れて茶色になってしまったシャクナゲの花。それが美しく開いていた頃は何色だったのだろうと思いながら坂道を下る。

とても上手で良い歌ですね。直接の感情的な言葉はないのに「咲いていた時はさぞ華やかで美しかったのだろうなぁ。見てみたかったなぁ」という”残念と憧れ”が混ざり合ったような絶妙な感情がとてもよく分かります。

これが「萎れちゃってて残念」などと直接感情を表す一般的な言葉で言ってしまってはこうは行きません。

「萎れた花」という絵面上は決して美しくない題材をここまで情緒溢れる歌に詠めるのは素晴らしいですね。「何色の花だったろう」…う~ん、上手い!

気になるところは「萎れ」の「し」ですね。過去を表す「し」はかなり昔の過去を指すので「萎れし」と言うと花が萎れていたのはかなり昔のことで、作者はそれを思い出しながら詠んでいるということになってしまいます。

けれど結句は「坂道下る」ですし、今現在の場面を歌っていますよね。「萎れていた」「既に萎れてしまっていた」という意味で過去の助動詞「し」を持ってきたのかと思いますが、「現在萎れている中」での歌だと思うので「萎るる中」「萎れたる中」などにして時制を整えたいところです。

 

8・誤りて切り落としたる梅の枝は花瓶の中に花も実もつく(金澤)

間違って切り落としてしまった梅の枝を花瓶に挿しておいたら、思っていた以上の生命力で花どころか実もついたよ!という作者の驚きと喜びが伝わってきます。

実までつくとは…梅って中々強いんですね。

そして間違って切ってしまった梅に対し「ごめんね」と思いながらマメに水替えしていそうな優しい作者像まで見えてくるようです。

音数的に「枝」を「え」と読ませるのだと思いますが、「梅が枝」「松ヶ枝」など「枝」を「え」と読ませる場合「〇枝」ではなく「〇枝」とするのが一般的なようです。

また「実までついたよ!」という梅の生命力への作者の驚きを表すために、「梅が枝よ」として一旦感嘆で切ってしまうのも良いかもしれません。

 

9・寒肥の効き目もあらずハナミヅキ一花も見ずに春のゆきたり(小幡)

寒肥(かんごえ)は寒中に施す肥料の俗称。作物の生育の旺盛な春に備えて成長が休止している冬期に施される肥料のこと。

春に美しく咲いてくれないかな、とまだ寒い時期に寒肥までやって世話したハナミヅキの木。なのに、一つも花をつけないままに春が過ぎ去ってしまった。

残念ですね。そう、一言で概念的に言ってしまえば「残念」なのです。けれど「残念」では幅が広すぎて伝わりません。「残念」と言わずに「残念」を表現する。そこが短歌の難しいところであり、面白いところでもあります。

この歌もただ「残念」と言ってしまうことなく、「あーあ、寒肥までやったのに一つも咲かないなんて」と特別に世話をしてやったのにという僅かな憤りや、期待に応えてくれなかったハナミヅキにがっかりする作者の複雑な「残念」を表現しています。

文法、時制共に自然で、するんと歌の状況と作者の感情がわかりますね。

 

10・杉の木を押しのけ広がる新緑に白き水木と朴の木も花(鳥澤)

色の濃い杉の木を押しのけるようにして広がる鮮やかな新緑に、更に水木と大きな朴(ホオ)の花の白い色彩が映え、明るく力強い生命力を風景に感じた歌ですね。

「押しのけ広がる」に新緑のぶわっと広がる勢いと鮮やかさを感じます。

ただ作者は「水木だけでなく朴の木の花も咲いてる!」と発見したことにより「朴の木花」としたのだと思いますが、歌の核はそこで良いのでしょうか?

「朴の木の花も咲いてる!」より「鮮やかで強い生命力を感じる新緑と花々の白のコントラスト」を核にした方が良いのではないでしょうか。

以前のメタセコイアの歌に見られるように、この作者は「風景をアーティスティックに切り取り、捉える」のが大変上手く、活かして欲しい個性だと思います。

「大きな朴の木の花咲いてる!」という発見はそこだけ(色や質感が違って見えたなど、どうして気付いたか等)に絞って作り、ここは鮮やかで強い新緑と花の白さという光景をパキッと作者の視点で切り取り、「白き水木と白き朴の花」「白き水木と朴の木の花(音数は落ち着きますがこちらはちょっと弱くなる気も)」などとして提示するだけの方が効果的かと思います。

「も」一文字でここまで印象が変わってしまうの、短歌の怖さですね。

 

11・花たちを両手でぐつと押しのけて皐月朔日さみどりの出づ(畠山)

10番の歌にもあったように五月初めの頃の新緑は古い葉や咲き終えた花を押しのけるようにしてぶわっと広がりますよね。

四月中は桜やハナミズキモクレンツツジレンギョウミモザ、その他名前も知らない様々な草木の花が華やかに咲いていたのに、気付けばその花々を押しのけるようにして「次の主役は我々だ!」と言わんばかりの勢いで鮮やかな緑が飛び出してきたように感じたことを歌にしました。

花を両手で押しのけたのは「さみどり」であることが確定するよう、「さみどり」にしようかなと検討中です。

by sozaijiten Image Book 2

 

◆歌会報 2022年4月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第120回(2022/4/15) 澪の会詠草(その2)

 

11・徒歩十分コンビニにぎりのお花見は初老夫婦のささやかな宴(金澤)

距離は徒歩十分、お弁当はコンビニのおにぎり。そんなちょっとしたお花見が初老夫婦のささやかな宴だ。

コロナ禍もありお花見の名所などにはまだまだ行きづらい今年。それでもちょっとコンビニでおにぎりを買って近所に一緒に桜を見に行く仲の良い夫婦像が見えますね。

ススキは見ずに先に行ってしまった旦那さんですが(笑)、桜は一緒に楽しんでくれたようです。

ちょっとした喜びを共有できる素敵な夫婦像を歌う核はとても良いのですが、「ささやかな宴」と言い切ってしまったのが惜しいところ。

徒歩十分の近場にコンビニのおにぎりという質素で小さなお花見だけれど、それを楽しめる仲の良い初老夫婦像の描写だけで抑えたいですね。

「コンビニにぎり」は「おにぎり」の「お」がないとちょっと苦しいかなという気もするので「ささやかな宴」を言わない分語句の位置を変えるなどして工夫してみて欲しいですね。

徒歩十分コンビニおにぎり三個買い初老夫婦の今年の花見

勝手な創作ですがこんな風にしてみると、旦那さん二個で奥さん一個かしら、小食ね、とか四個にして具の好みも似ていたりしてとか、「宴」と言わずに一緒におにぎりを選ぶ仲の良い夫婦像なんかも想像させられたりするかもしれませんね。

 

12・解体に巨大重機の破壊音駅周辺に鈍く伝わる(川井)

2番の昭和に栄えたビルの解体の歌の連作ですね。

ビルと同時に一つの時代をも壊し解体していくような重い響きを想像させます。

この歌も寂しいだとか残念だとか感情的な言葉は一切使っていないのですが、具体的な描写からそこにある郷愁、寂しさ、不安感などが共感できますね。

駅周辺のビルの解体ならば古臭いビルが無くなって新しく便利で明るい街並になるかもしれないのですから、「そのビルが栄えていた時代」に思い入れのない人なら同じ光景を見ても全く違った描写になるでしょう。

でもこの作者の描写からは「街が新しくなるわ~」ではなく「あぁ、あの頃が壊されてゆく…」という深い感傷を感じ、失われてゆくその「時代」にまで思いを馳せますね。

読者を作者と同じ心理に持っていく、とても良い歌だと思います。

歌の形としては「解体に」でなく「解体の」、また「破壊音駅周辺」と助詞がなく漢字が続く部分が少し気になるので「駅の周りに」「駅の周りへ」としてはどうでしょうか。

また「破壊音~伝わる」は「している(しており)」「響けり」「響ける」などとも変えられるので考えてみてください。

 

13・夕食にと細きカマスを割きおれば小魚二匹姿現し(栗田)

夕食に食べるために細いカマスを捌いてみたらお腹から小魚が二匹も出てきた!と驚く作者。

食物連鎖を感じますね。命を命が食らう無情さなどもふと考えてしまいます。

普段はそんな事を忘れて食べていたりしますが、二匹の小魚が姿を保ったまま現れたことで、巡る命というものにハッと気付かされた気がしますね。

歌の形としては「割きおれば」がやや気になるかなというところ。確かに「魚を割く」とは使いますが「割いてみたら」を「割きおれば」と文語調で硬く言うより「捌(さば)く」という言葉にして「捌ければ」「捌いたら」の方が日常のふとした驚きを歌ったこの歌には合っていると思います。

また結句は「現す」と終止形に。「現し」だと「姿を現し、どうした」と文が続きます。実際「姿を現し、驚いた」ので「し」で止めてしまったのかもしれませんが、短歌では「驚いた」という感情は言葉にして歌ってしまわない方がいいです。その「驚いた」は「驚いた」という一言で済むものではなく、そこにはさっき挙げたような食物連鎖だとか命を食らうということへの気付きなどの複雑な感情があり、それこそが作者の言いたいことであるはずだからです。

作者もそこはグッと堪えたのでしょうが堪えきれず連用形になってしまったところが少し惜しいですね(笑)。

 

14・若人よ すごい・かわいい許りでは聢(しっか)り日本語使ってたもれ(緒方)

若者たちよ、すごい・かわいいばかりの会話では困る、しっかり日本語を使ってくれよ、という老人の嘆きの歌ですね(笑)。

確かに若者の会話の多くがヤバい、スゴい、かわいいなどで構成されている昨今ですね。

私個人的には中でも「ヤバい」の意味の多様化の速度が恐ろしいと感じます。以前は「危険だ」という意味合いを持つ物事に対して使われていたと思うのですが、今や良い悪い危険関係なく「心が大きく動かされること」に対し使われているフシがあるように見えます。

ビクッとしたり、ドキッとしたり、ゾクッとしたり…ビックリした、ときめいた、悪寒が走ったなど心が大きく動かされることを表すにも様々な日本語があるにもかかわらず全てを「ヤバい」でまとめてしまうということはそれだけ語彙が減り、本当に適切な感情を表す言葉が衰退してしまうということです。

言葉は人が他人へ「心」という知覚不能なものを理解できる形にして伝える「道具」ですから、より使いやすいものへと変遷してゆくのは必然であり、「道具」の形を保つために使いにくいまま使用を強制されるのは間違っていると思います。けれど元の道具には出来ていたことが出来なくなるという道具の「劣化」は避けるべきですよね。

スポーツ選手がルールや道具を大事に扱うべきであるように、職人が安全や道具を大事に扱うべきであるように、少なくとも短歌に携わる人は一般の人より気を付けて「言葉」というルールと道具を大事に扱っていかないと、ですね。

さて、歌の形としては空白の入れどころが気になるところでしょうか。

「許(ばか)りでは“困る”」という意味が省略されていますから、そこを空白にして

若人よ「すごい・かわいい」許りでは 確り日本語~としてはいかがでしょう。

また窘める側として敢えて難しい言葉をということで「許り・聢り」を使っているのかなとは思いますが、「聢り」などは普通にワープロ変換しても出ませんし、すごい・かわいいばかりの若人は元より多くの人に伝わらないという不毛な結果になりかねません。ここは「しっかり・確り」など常用の表記で良いのではないでしょうか。

 

15・葉牡丹は春色スカート重ねつつ少女のように背を伸ばしゆく(鳥澤)

お正月頃に手に入る数少ない華やかな植物として葉牡丹を買うと、寒い時期には鮮やかだった色は徐々に淡くなり、春には真ん中の茎がぐんぐん伸びてツリー状となり菜の花のような黄色い花を咲かせます。

そんな春の葉牡丹の姿を歌った歌ですね。

淡くなった葉が裾に広がる様子を「春色スカート」と捉える視線が素敵です。夢見る乙女度というかメルヘンチック度が高い表現のため、こういった表現が多用される作風だとくどくなってしまう危険もあるのですが(レースふりふりの乙女ファッションテイストとなり、一部根強いファンがいる一方一般受けはしない感じ)、たまにちらっと出てくるととても華やかで優しい歌となり光ります。

「少女」と「背を伸ばす」がややしっくりこないという意見も出ました。実際は少女でもグングン背が伸びてビックリするものですが(笑)、確かに…グングン背が伸びるのは少年ならピンと来る印象ですが少女だと「強調すべきところはそこかな?」という気がしないでもありません。

結句に来ていることもあり、春になってぐんぐん背が伸びる面を歌いたいのではという意見もありましたが、「春色スカート」が効いているので「葉牡丹が春になってぐんぐん伸びる様子」よりも「春色スカートを纏った少女のような様子」を核としたいのではと思い、四句と結句を入れ替えて、更に「背を伸ばしゆく(時間経過の情報)」より「背筋を伸ばす(状態の情報)」を入れ「背筋を伸ばす少女のように」と流してはどうでしょうか。

 

16・踏み出せる脚と杖とのタイムラグ 想定越えて今日の五千歩(小幡)

杖を使っての歩行にまだ慣れておらず、踏み出す脚と杖にタイムラグが生じ思うように進めない。そんな中今日は想定を超えて五千歩歩いた。

という歌ですが、「今日の五千歩」が「想定より多くて」驚いたのか、「タイムラグ」が「想定より酷くて」「五千歩しか」歩けなかったと嘆いているのかで悩んでしまいました。

「タイムラグも」と助詞を入れたり、「想定越えて五千歩達成」や「今日は漸く五千歩を越す」などだと意味は分かりやすくなるけれどいささか説明的でしょうか。

「一日八千歩推奨」などと言われているように、一般的には五千歩というのは多くて驚く数値ではない印象ですね。でも足腰を痛めている人にとっては中々の数値。そのため五千歩が人によって多いとも少ないとも取れるところが難しいところだと思います。

 

17・リサイクルショップで靴とコート買う傘のお負けにレジ袋只(名田部)

リサイクルショップで靴とコートを買ったらオマケにと傘を貰った上にレジ袋もタダだった。

まず歌の形としては「オマケに傘とレジ袋まで」(どちらもタダで貰ったのだからオマケとしてまとめてしまいたい)とした方が良いというのがありますが、それ以前に歌としてさすがにちょっと詩的情緒が無さすぎるかなという問題があります。

確かに短歌は美しいものばかりを歌うのではなく、自分や社会の暗い部分をも見つめ歌い上げるととても良いものになるし、風光明媚な風景だけでなくもっと身近な日常をよく見て歌えと言ってきたので素直に「日常」を歌ってみたのかもしれません。

その素直さはとても素晴らしいことだと思います。いやいや私は花鳥風月をカッコ良く歌いたいのよ!と意地を張ってしまう人の方が多いですから。ちゃんと「日常」にあったことを「素直に」詠もうとした姿勢は二重丸です。

ただ「ちょっと聞いてよ、傘がオマケになって、昨今有料のレジ袋がタダよ、タダ!」という題材はお茶飲み友達や井戸端会議の話題としてはオイシイかもしれませんが「歌」としては些か情感に欠けると思いませんか。

そこに「モノの価値が落ちたなぁ」とか「レジ袋の数円が気になる程日本経済厳しくなってきたなぁ」とか何か「憂う気持ち」みたいなのがあってそれが表現されていれば歌になるかもしれませんが、この歌は「いや~、お得だったわ~」という短絡的な喜びで終ってしまっています。

自分の目で見たもの=日常を見ようとする方向性はそのままに、日常の中に紛れている「詩的」な一瞬や何気ない日常の裏にある問題を詠めるように頑張ってみてください。

 

18・ロマンスカー新宿までのオフィスに青年の指電卓を舞う(大塚)

ロマンスカーを新宿に着くまでのオフィスにして、仕事をする青年の指がパソコンのキーボードを舞う。

事務作業はすっかり電子がメインになった昨今の風景を歌った時代詠ですね。

「新宿までのオフィスかな」「オフィスなり」として切るか「オフィスにし」「オフィスとし」として繋げないと音数的にも文法的にも足りない感じです。

また常々「カタカナを多用するな。なるべく2つくらいまで」と言っているため「パソコン」を「電卓」としたようですが今や「パソコン」と「電卓」では別物をイメージしてしまいますね。イメージする人物像も両手でカタカタカタッターン!と小気味よくキーボードを打つ姿と電卓でピポパポピと出張費を計算している姿ではまるで印象が違ってしまいます。カタカナ3つになりますがここは「パソコン」にしておきましょう。

また「事実のみを述べ感情を直接言ってしまわない」ことは重要なのですが、「事実のみを述べているのに作者の感情が分かる(そして一つの単語では言い切れないその感情が伝わってくる)」という事こそが重要です。

しかしこの歌では作者の感情がちょっと薄いかなと感じます。「舞う」と見た部分から「青年をパリッと仕事の出来るカッコイイ若者」として見たのかなと読めますが、そここそをもっと突き詰めて作者らしい言葉で表現して欲しいかな、と思います。

「新宿までの」はいらないかもしれません。この場合「ロマンスカー」や「新宿まで」という説明より、電車をオフィスにしてパソコンを打つ現代風の仕事をする青年への作者の眼差しこそが歌の核なのでは、と思います。勝手な改変ですが例えば「特急はオフィスと化せり青年の指軽やかにカタカタタッターン」とか「青年のパソコン打つ音しずかに響く」「青年はノートパソコン小気味よく打つ」などとして「ロマンスカー」や「新宿」を抜いてしまっても作者の伝えたい光景は読者に伝わるのではないでしょうか。

その固有名詞が生きているかどうか、「具体」を描こうとして「説明」を書いていないか見直してみましょう。

 

19・カレンダーに予定の増えて四月から漸く始まる令和四年よ(畠山)

今年は三が日が明けてすぐの頃からコロナの感染者数が増え、一月中旬前には再びまん延防止重点措置が発令され、昨年末に一旦「まん防」が解除されてちょこちょこ入り始めていた予定などに「中止」の二重線を引く日ばかりでした。

感染者は増え続け、二月三月の予定は白紙に。

そんなカレンダーに漸く予定が入り始めたのが四月。あぁ漸く「今年」が始まったかな、という感じを歌ってみました。

 

20・佇みて葉音の中の戯れを一人両手に抱きしめる秋(小夜)

森か林か公園か。たった一人、静かな木立の中に佇んで、秋の乾いた葉音をそっと包み込むように抱きしめてみる作者を想像します。

この作者の歌はポエム的で絵本の挿絵になりそうな雰囲気の物が多いですね。いわさきちひろ風な。それは作者の「らしさ」なのでそういう物事の捉え方は失わないで欲しいのですが、15番の「春色のスカート」でも述べたようにあまりフリフリ甘く乙女チックばかりだと、一部固定ファンは付くかもしれないけれど、よく見たらデッサンが今一つであまり他の人には伝わっていない「雰囲気だけ作家」となってしまう危険性もあります。

雰囲気だけにならないよう、心がけて欲しいのが「具体」です。

まだまだ短歌を始めたばかりなのにちゃんと音数も合わせているし、場面の切り取りも出来るようになってきているので、今は十分の出来の歌です。この調子で五七五七七の調べに慣れてください。作者が「いいな」と思った情景を文字にする。そこがまず大変なので、それが出来ていて尚且つ五七五七七にまとめられるのはすごいことです。

そこに慣れてきたら少しずつ「具体」を入れる練習をしてみてください。どこに佇んでいるのかな、どんな葉音かな、作者の気持ちは寂しいのかな、それとも静かな時間を楽しんで満ち足りた感じなのかな、そんなことが読者に伝わるには「具体」が必要です。

歌のかたちとしては「一人両手に」を「両手に一人」と入れ替えてみてはどうでしょう。ちょっと雰囲気が変わりますよね。

 

☆今月の好評歌は12番、川井さんの

解体に巨大重機の破壊音駅周辺に鈍く伝わる

となりました。

具体的な描写のみで重く寂しい複雑な作者の心理を表現した良い歌ですね。これから少し表記など見直してみるそうです。

by ta2m1 (photoAC)

 

◆歌会報 2022年4月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第120回(2022/4/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・手も口もTシャツまでも赤くして苺ハウスの孫は狩人(金澤)

いちご狩りの風景が見えます。熟れたいちごの赤い果汁を獲物の血に見立て、お孫さんが夢中で食らいつく様子が生き生きと再現できますね。

早く次のいちごを摘み取りたいと子供が夢中で食べこぼす様子を「手も口もTシャツまでも赤くして」と具体的な観察結果で描いたことで、説明的にならず、それでいて読者にも子供のワクワク感が見てとれるように分かる良い歌だと思います。

 

2・色褪せた昭和に栄えしビルディング手加減の無い重機の一咬み(川井)

昭和の頃には客も多く栄えていたビルディング。今やすっかり色褪せてしまっていた。そこがとうとう解体されることになったのでしょう。重機が鉄骨を剝き出しにして壁を壊していく様が見えてきます。

重機の動きを「手加減のない」と見るところに作者の複雑な感情が伺えます。

賑やかに栄えていた時代を知っている作者には、ただ「昔栄えていたビルが一棟壊される」だけでなく、当時の街から思い起こす様々な思い出や街そのもの、時代そのものへ「手加減のない解体」が行われているように感じるのではないでしょうか。

歌の中ではそういった「感情」を語らず、事実の描写のみで描いたことで逆に様々な感情を読者にも思わせるとても良い歌だと思います。

歌の形としては「ビルディング・ビルディング」など、ここは字余りになっても助詞を入れて欲しいですね。

 

3・桜花ポツポツ花の一夜して白く輝く満開の朝(栗田)

昨日まではポツポツとしか咲いていなかった桜が一夜明けたら満開となり白く輝いていたことへの驚きと喜び。

桜は本当にそろそろ開くかしらなどと思っているとある時一気に開いていきなり見頃!満開!となることがありますよね。今年は特に気温の変化が急で桜も慌てて咲いたのかもしれません。

一夜にして満開となった桜の輝きに驚く作者の素直で自然な歌で良いですね。

ただ「桜花」「ポツポツ花」と「花」が続いてしまっていますね。「ポツポツ花」とはあまり言わないと思うので「ポツポツ咲き」にしてはどうでしょうか。また「一夜して」は「一夜にして」か「一夜経て」にしましょう。音数的には「一夜経て」の方が自然でしょうか。

 

4・過労をも誇りに思いし昭和の日グラスの氷のカチッと笑いき(緒方)

今思えば過労であったような働き方も当時は誇りに思っていた。そんな働き過ぎの自分を晩酌のグラスの氷が応援するようにカチッと小気味よく笑っていたよ。

という歌だそうですが、最初私は「今思えば過労だけど昭和時代当時はそんな働き方を誇りに思っていたなぁ、と“今”晩酌しつつ思い返し苦笑いする作者の心を反映して「カチッと笑う氷」を思い浮かべ、「笑い」は「苦笑い」であると思っていました。なのに何故「笑い・き」と意図して過去形なのかなぁ、と。

歌としてはグラスの氷=今の自分として「今の苦笑い」にした方が共感を得そうな気はしますが、作者が言いたいことと違うなら強要はできません。

作者の意を伝えるなら「グラスの氷」としてはどうでしょう。また「昭和の日」は現在“祝日の固有名詞”としての意味も持ってしまっています(昭和天皇誕生日→みどりの日→昭和の日)。そのせいで現在の『昭和の日』に昔を懐かしみつつグラスを傾けているとも受け取られかねませんから「昭和の日々」や「昭和の頃」「昭和には」として特定の日ではなく時代を指すと確定してしまった方がいいかなと思います。「昭和には~氷も」とすればグラスの氷が笑ったのも昭和当時のことで確定しますね。そうすれば氷の笑いも過労だったな…という「苦笑い」ではなく、ヤリ手の営業マンの自信ありげなニヤリに変わるかもしれません。

 

5・縄文の土器出土せしこの地から桜の大山眺めしことか(鳥澤)

縄文時代の土器が出土したというこの地から当時の人(縄文人)もこの桜の大山を眺めたりしたのかなぁ。

時代の浪漫を感じますね。

実際はいわゆるソメイヨシノなどは江戸後期に開発されたものでそれを昭和の高度成長期に植えたものが圧倒的に多く、現在私たちがお花見の名所として見ているような光景は意外と新しいものだったりするのですが、山とか空とか“そう簡単には変わらないだろう”と思っているものを見る時、昔の人もこんな風景を見ていたのかな、どんな気持ちで見ていたのかな、と思いを馳せることがありますね。

縄文の土器が出土した「この地」とはどこなのか。具体的にしてもいいような気がします。三十一文字の中で如何に読者に具体的な情報を提示してやれるかが重要です。「縄文の土器出土せし」という具体がとても良いので更に生かしたいところですね。

 

6・はらはらと花びら零すひとところ花に染まりて鵯の飛び立つ(小幡)

はらはらと花びらが零れるように降ってくる一角があり、ふと見ると満開の桜に染まるように溶け込んで花を啄んでいた鵯(ひよ・ひよどり)が飛び立ったという光景ですね。

「はらはらと花びら零すひとところ」が情景も言葉も美しいですね。

鵯の姿にモザイクをかけるように桜の花影がかかっている様子を「花に染まりて」としていますが、このままでも十分美しいし情景も分かりますがこの作者の力量なら更にビシッと嵌る表現を探せるかもしれません。

講師からは「花闇揺らし」などという案も出ていました。

 

7・白鷺も鴨も烏も今朝はなく四匹の鯉泳ぎゆくなり(名田部)

いつもは様々な鳥が訪れ賑やかな川に今朝は鳥の姿がなく、ただゆっくりと鯉が泳いでいるという静かな時間を歌ったもの。

情景は良いですね。ゆったりとした空気を感じます。

ただ「ゆくなり」がちょっとギクシャクしているというか論語のようで、せっかくのゆったりとした日常感を邪魔していますね。語尾が「ニャ」だと全部猫が語っていると感じるように、語尾が「~也(なり)。」となるだけで、朝の散歩をゆったり楽しんでいるはずの作者像がいきなり侍だとか偉そうな口ひげを生やしたオジサンの語りのようになってしまい勿体ないです。

また鳥たちは生き物なので「今朝はなく」ではなく「今朝はおらず」「今朝は来ず」などにしたいですね。「白鷺も鴨の姿も」や「白鷺や烏のも」なら「今朝はなく」ですが。

そしてただ鯉だけが泳いでいる静かな時間こそが核なので、どのように泳いでいるかをしっかり描写して欲しいところです。「四匹の鯉ゆったり泳ぐ」や「ただ鯉だけが悠々泳ぐ」などとしてはいかがでしょう。

 

8・風を切る早足のつもりようようにバスに乗り込み大きく息する(大塚)

自分では風を切って早足で颯爽とバスに乗り込んだつもりが、実際はようやっとという感じで、バスに乗り込んだあと大きく息をついた。

今まで出来ていた動きをそのままイメージして動いていたら、いつの間にか身体が思うように付いてきていないという、年齢による日常生活のギャップにショックを受けた作者なのでしょう。

「ようように」がちょっと曖昧ですね。漸くの意味の漸うか意気揚々のようようかではまるで意味が変わってしまいます。漢字を使って「漸うに」とするかもっと自然に「漸くに」、または敢えて話し言葉で「ようやっと」「やっとこさ」などの方がヒィハァしながらバスに乗り込んだ作者像が見えるかもしれません。

また「早足のつもり」「つもり」などの助詞も必要かと思います。

 

9・日の色の喇叭水仙合唱す口を大きく「あ」の形して(畠山)

お日様色のラッパ水仙の咲く様子が口を大きく「あ」の形に開いて合唱しているようだ、と見た歌。

ラッパ水仙が並んで咲いている様子がきちんと整列して大きく口を開いて歌う合唱団のように見えたので。

実際見たのは真ん中が黄色で外側が白い二色構成のラッパ水仙だったのですが、そこは歌の核ではないのでそんなに説明したくなかったし、黄色一色のラッパ水仙もよくあるし、言いたいのは水仙のかたちであって色ではないので黄色と受け取られても全く構わないし…ということで春らしい黄色系統の明るい色としてお日様の色ってことにしておけばいいや、と。敢えて色については具体を省きました。

「日の色」は「陽の色」でもいいのではとも。

 

10・深谷駅頭を撫ぜたその像が渋沢栄一とドラマで知りた(小夜)

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』が渋沢栄一を主役としたものでしたね。

日本経済史にとっては飛ばしては語れない人物ですが、新一万円札の肖像、また大河ドラマで扱われるまでは知名度はあまり高くなかったと思います。

歌の作者も知らず、ずっと昔に訪れた深谷駅で「この像は誰なんだろうね」などと話しながら頭を撫でたことがあったそう。それをドラマで知って「あれは!」と思い出したのだとか。

歌の形としては「深谷駅」「深谷駅」などの助詞が必要。また「知りた」という終止形はありません。「知った」「知りぬ」「知りたり」など正しい終止形にしましょう。

by sozaijiten Image Book 10

 

4/15の歌会について

今月はようやくまん延防止重点措置が解除となり歌会も開催できそうです。

 

お部屋は603です。

 

まん延防止重点措置は解除されましたがまだまだ感染者は多い状況なのでマスクや手洗いなど予防をしっかりしていきましょう~!