◆歌会報 2022年6月 (その2)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第122回(2022/6/17) 澪の会詠草(その2)
12・抱っこされ焦土の中を呆然と冬の帽子の幼き子らは(小夜)
ウクライナ、突然に始まったロシアの侵略戦争に巻き込まれ、何が起きているか分からないけれど只事ではない大人たちの雰囲気にただ呆然として抱っこされている冬の帽子を被った幼い子供たちの情景を歌ったもの。
とてもよく情景が分かりますね。「冬の帽子」という具体が効いていると思います。
まだ寒い中、突然に始まった侵略の理不尽さに対する怒りや同情という複雑な感情を、客観的な事実の描写によって表せていますね。
「焦土の中」と「冬の帽子」でウクライナのことであるのはおおよそ分かりますが、初句を「ウクライナの」としてより客観的に始めてもいいかと思います。
初句に「抱っこされ」と来ると「抱っこされている」描写のイメージがかなり強く、一番印象的であるはずの「冬の帽子」のイメージがその分弱くなってしまい勿体ないかな、と思います。
それにしても音数をきちんと揃える努力をし、甘くなりすぎず客観的な描写で短い場面を切り取り歌う、という歌会での勉強の成果がしっかりと見えていて、上達っぷりが素晴らしい作者です。今後の作品が楽しみですね!
13・この皿もこの家具も捨て実家との別れの期日ひたひたと迫る(金澤)
住む人が居なくなってしまった故郷の実家。手放すことにしたのか取り壊すことにしたのか、思い出の詰まった実家との別れの日が決まり、その日が迫る中黙々と実家の整理をしてゆく作者。
「この皿もこの家具も」。一般的には「この」という作者にしか具体が見えない指示代名詞は短歌では避けるべき用語なのですが、この作品に於いては効果的でアリな表現だと思います。
「この」としてぼかしつつ繰り返すことで「色んな数々の生活の思い出」が詰まっているのだろうな、と想像できますね。
結句の「ひたひたと」の「と」はこの場合なくても無理がないので、削ってしまい音数を整えましょう。
14・湿り気を含む空気のひんやりと五種の紫陽花梅雨の季を待つ(川井)
湿り気を含んだ空気がひんやりと漂う中、五種類の紫陽花が梅雨の季節を待っている。
「湿り気を含む空気のひんやりと」という描写がとても良いですね。ごく自然にすっと思い描けて、読者も同じ空気を感じることができます。
この「ごく自然に」って実はとても難しいことなんです。デッサンが狂った絵はすぐに「なんかおかしい」と違和感を覚えるし、絵自体に描写力がないために周りにくどくど説明書きがある絵はパッと見ただけでは理解できませんよね。
パッと見ただけですんなり分かる絵というのはデッサンがしっかりしているからこそなのです。
上の句でこれだけ具体的な場面を描けているので、結句の「季を待つ」が少し勿体ないかな、と思います。
もう今にも降りそうな空気感が描写されているのですから、時間の幅の広い「季節」を待つのではなく「雨」を待っていると言ってしまっていいのでは。
「五種の紫陽花雨を待ちおり」などとして思い描く時間を「今」に引き付けてみてはどうでしょうか。
15・香水の残り香のごと黄楊(つげ)の木のほろほろこぼる小花芳し(大塚)
香水の残り香のような黄楊の木よりほろほろと零れる小花がかぐわしい。
黄楊の花の香というのを私は知らなかったのですが、甘くて濃厚な香りだそうです。
木はよく櫛などに使われたりして有名ですけど、花も香るのですね。黄楊自体はあちこちに見られる植物なので今までそれが黄楊の香だと知らずに見過ごしていたのかもしれません。今度探してみようと思います。
表記の問題として、「黄楊の木のほろほろこぼる」だと終止形なので「小花」にはかからず、「黄楊の木がほろほろ零れる」という意味になってしまいます。
「黄楊の木の(より)ほろほろこぼるる小花」とするか、「黄楊の木 はorがorの ほろほろこぼす小花」として文法を整えましょう。
16・ピアノよりチェンバロが好き若冲(じゃくちゅう)より北斎がいい理屈は要らず(緒方)
ピアノよりチェンバロが好き。若冲より北斎がいい。理屈は要らない。
前半は作者の人となりが素直に現れるチョイスでとても良いですね。それだけに結句が惜しいです。
「理屈はあらず」でも惜しいのですが、更に作者は「理屈は要らず」としています。
作者によるとピアノの音や若冲の絵は「理屈(的な技術)」により作られているのが見えすぎていて疲れる、ということらしいのですが、そういう「隠されたうんちく」を入れてしまうのは正に「理屈」であり、それこそ「理屈は要らぬ」のです(笑)。
「ピアノよりチェンバロが好き若冲より北斎がいい」というチョイスこそに作者の人となりが見えて面白いので理屈は全て捨ててしまいましょう。
しかし捨ててしまうと七音余ってしまいますね。でも理屈は入れたくない。
ではどうしよう。ということでここは「理屈っぽくならない全く違う描写をぽーんと置いて埋める」という手法を使ってみてはどうでしょう。
絵で言うと、主題をイイ感じに描けたけれどやけに大きい空白部分が目立つ状態です。でもそこにあまりきっちり何かを描いてしまうと折角イイ感じに描けた主題部分を邪魔してしまいます。
さらっと。ただし手つかずの空白(手抜き・未完成)には見えないようにしたいところです。
「白き雲ゆく」「ほうじ茶かおる」「梅雨空近し」などぽーんと違う場面を置いて理屈を吹き飛ばしてしまいましょう。
17・マスクあれど空に響(とよ)もす大歓声ファンならずとも日本ダービー(小幡)
コロナ禍が続き皆がマスクを着けている状況下だけれども、大盛り上がりで空に大歓声が響く日本ダービー。特に競馬ファンではなくとも思わず自分も盛り上がるイベントであった。
場面は分かるのですが「ファンならずとも大歓声」と言うわりには実は作者の心はそれほど動いていないように感じます。
「ファンならずとも」が説明になってしまっているのでは。
マスクがあるのに(コロナ禍なのに)日本ダービーは空を揺るがすほどの大歓声がおきた!というだけで一首まとめてしまった方が良いのでは、と思います。
その「大歓声への驚き」こそに、すごい!大盛り上がりだ!私も思わず高揚しちゃった!という作者の感動が表れるような気がします。
18・基地減らず年間行事慰霊の日沖縄の空どしゃ降りの雨(栗田)
基地は依然として減らないままに今年も行われる年間行事の慰霊の日。その沖縄の空はどしゃ降りの雨だ。
「どしゃ降りの雨」に作者の鬱々としてやり切れない感情が見えますね。
音数をしっかり定型に合わせようとする努力は素晴らしいのですが、「年間行事」「慰霊の日」「沖縄の空」とぶつ切りの単語ばかりが並ぶと窮屈で調べも途切れ途切れになってしまいます。
いくつか字余りになっても「年間行事の慰霊の日」「沖縄の空はどしゃ降りの雨」と助詞を入れてなめらかにしましょう。
字余りが多くて気になるようでしたら「年間行事の慰霊の日に沖縄へ降るどしゃぶりの雨」などとしても良いかもしれません。
19・ショベルカー砂利を食らいて回転しそのまま川に吐き捨てるなり(名田部)
ショベルカーが砂利をぐわっと食らうように掬って回転し、そのまま川に吐き捨てている。
護岸工事でしょうか。「食らい」「吐き捨て」という描写から、作者がその光景を好意的には見ていないことが伺えます。
作者にはショベルカーの行為が自然の姿を壊しているように見えたのではないでしょうか。
余計な説明をせず、具体的な描写によって情景がしっかり見えますし、作者の感情も見えてきて良い歌だと思います。この調子です。
ただこの作者のクセですが結句の「~なり」がいけません。勿体ないです。
他の作品にもよく「なり」が出てきますが、しばらく「なり」は全て封印してみて下さい。
「~なり」は「~である(( -`д-´)キリッ)」という強い意志の元の断定で、前にも言いましたがお侍さんとかヒゲを生やした偉そうな教授とかが言いそうなイメージになってしまいます。
「なり」としたい所は全て「(して)おり」に変えてみましょう。「~おり」は「~している」という客観的な事実の描写で、作中で変な主張をしません。
また「川に」「川へ」という助詞も入れ替えてみて、この歌にはどちらがいいかな、と考えてみて下さい。
ショベルカー砂利を食らいて回転しそのまま川へ吐き捨てており
とすると客観的ながらも作者の感情が見えてぐっと良い作品になると思います。
20・握手したソン・ガンホの手柔らかく武骨さの中にオーラ滲める(飯島)
最近日本国内でもかなり有名になってきた韓国俳優のソン・ガンホさん。そのソン・ガンホさんと握手をする機会に恵まれた作者。その手は柔らかく、武骨さの中にもやはり何か特別なオーラを感じた。
以前韓国旅行をした時に偶然会う機会があり、握手をしてもらったそうです。羨ましいですね!
ソン・ガンホという人物を知らなくても、やや大柄で肉厚な手を持ち武骨な感じの男性有名人なのでは、と想像できるのではないでしょうか。
歌の形としては「手柔らかし」で一度切ってしまってはどうでしょう。切ることで握手した瞬間の場面にスポットライトが当たります。
「武骨さの中にオーラ滲める」は握手して「うわっ!柔らかっ!」と思った後に、少し冷静になってやや客観的に見ている部分があります。
その握手した「瞬間」の驚きと握手しながら「しみじみ」感じた部分を切って分けることで作品にメリハリを付けることができるのではないでしょうか。
また「武骨さの中に」の「に」は今回の場合なくても大丈夫です。いつも「ブツ切りにしないで!カタコトっぽくならないで!自然に読めるように助詞を!」と言っているので「字余りだけどしっかり入れなくちゃ!」とちゃんと生真面目に考えて入れたのだと思いますが、この位置での「に」は「他に迷う候補がなく誰もが自然に補完して読めるもの」なので省けるものです。
また結句の「オーラ滲める」を「オーラが滲む」としてオーラの存在感を強めたいですね。
握手したソン・ガンホの手柔らかし武骨さの中オーラが滲む
としてみてはいかがでしょうか。
21・境内を借りて近道はずむ息 薫風にのりうぐいす響く(鳥澤)
神社の境内を通ることで近道をし、息をはずませる作者へ優しい初夏の風が吹き、その風に乗ってうぐいすの声も響いてくる。
とても爽やかな歌ですね。
特に上の句が素晴らしいです。「境内を借りて近道」という言葉のチョイスが独特で、その一語から現代的に忙しく生きながらも神域(神)を尊ぶ心も忘れていない作者の人となりが見えます。
「抜けて」「横切り」じゃこうはいきません。たった一語で!すごいですね。
それだけに下の句が惜しいです。作者による個性的な物事の見え方が表れてきません。
2番の歌で述べましたが「薫風」は概念的な言葉であり、皆なんとなく似たようなものを思い浮かべられはするけれどその実様々、というものです。
何により「薫風」と感じたのでしょう。風の暖かさでしょうか、柔らかさでしょうか、さざめきから感じる生命力でしょうか。
うぐいすの声も同じで、注目すべきはどこでしょうか。伸びやかさでしょうか、高く通る声でしょうか、生き生きとした調子でしょうか。
「薫風」「うぐいす」と二つもが概念的な言葉で具体的な情報がないため、読者はふんわりとしか思い描けません。
近道をして息をはずませる作者の心をより動かしたのは「薫風」か「うぐいすの声」かどちらでしょうか。はずむ息を優しく整えてくれた風でしょうか。すずやかに響くうぐいすの声でしょうか。どちらかにより具体的な情報を入れて主役を決めてみてください。
22・雨続き誰も参らぬ薄暗き寺の片隅へ著莪(しゃが)の明るさ(畠山)
雨が続いて参拝に来る人もなく薄暗いお寺の片隅でシャガの花だけがぽっと明るく目立っていた。
これはもう見ての通り「前説が長い!」ですね。歌の核は「シャガ」なのに延々と状況説明をしてしまっている。良くない例です。
ここまで寺の薄暗さについて述べるならそちらを核にして一首作るべきですね。
「雨続き誰も参らぬ寺隅はぽつと著莪の明るさのみに」などとしてうら寂しい「寺隅」を主役にするか、シャガを主役にして「薄暗き寺の片隅を青白くぽつと灯せる著莪の明るさ」などとしてもう少しシャガに対してきちんと描写すべきかなと思いました。
☆今月の好評歌は6番、小幡さんの
頂戴と言へばどうぞと呉るる児の眼にはたちまち涙の溢る
となりました。
歌う場面の選択、説明的になってしまわない具体的な描写、言葉と表記の選択、作品の持つ詩情、どれもが素晴らしく文句の付けようがありません(笑)。