*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第120回(2022/4/15) 澪の会詠草(その1)
1・手も口もTシャツまでも赤くして苺ハウスの孫は狩人(金澤)
いちご狩りの風景が見えます。熟れたいちごの赤い果汁を獲物の血に見立て、お孫さんが夢中で食らいつく様子が生き生きと再現できますね。
早く次のいちごを摘み取りたいと子供が夢中で食べこぼす様子を「手も口もTシャツまでも赤くして」と具体的な観察結果で描いたことで、説明的にならず、それでいて読者にも子供のワクワク感が見てとれるように分かる良い歌だと思います。
2・色褪せた昭和に栄えしビルディング手加減の無い重機の一咬み(川井)
昭和の頃には客も多く栄えていたビルディング。今やすっかり色褪せてしまっていた。そこがとうとう解体されることになったのでしょう。重機が鉄骨を剝き出しにして壁を壊していく様が見えてきます。
重機の動きを「手加減のない」と見るところに作者の複雑な感情が伺えます。
賑やかに栄えていた時代を知っている作者には、ただ「昔栄えていたビルが一棟壊される」だけでなく、当時の街から思い起こす様々な思い出や街そのもの、時代そのものへ「手加減のない解体」が行われているように感じるのではないでしょうか。
歌の中ではそういった「感情」を語らず、事実の描写のみで描いたことで逆に様々な感情を読者にも思わせるとても良い歌だと思います。
歌の形としては「ビルディングへ・ビルディングに」など、ここは字余りになっても助詞を入れて欲しいですね。
3・桜花ポツポツ花の一夜して白く輝く満開の朝(栗田)
昨日まではポツポツとしか咲いていなかった桜が一夜明けたら満開となり白く輝いていたことへの驚きと喜び。
桜は本当にそろそろ開くかしらなどと思っているとある時一気に開いていきなり見頃!満開!となることがありますよね。今年は特に気温の変化が急で桜も慌てて咲いたのかもしれません。
一夜にして満開となった桜の輝きに驚く作者の素直で自然な歌で良いですね。
ただ「桜花」「ポツポツ花」と「花」が続いてしまっていますね。「ポツポツ花」とはあまり言わないと思うので「ポツポツ咲き」にしてはどうでしょうか。また「一夜して」は「一夜にして」か「一夜経て」にしましょう。音数的には「一夜経て」の方が自然でしょうか。
4・過労をも誇りに思いし昭和の日グラスの氷のカチッと笑いき(緒方)
今思えば過労であったような働き方も当時は誇りに思っていた。そんな働き過ぎの自分を晩酌のグラスの氷が応援するようにカチッと小気味よく笑っていたよ。
という歌だそうですが、最初私は「今思えば過労だけど昭和時代当時はそんな働き方を誇りに思っていたなぁ、と“今”晩酌しつつ思い返し苦笑いする作者の心を反映して「カチッと笑う氷」を思い浮かべ、「笑い」は「苦笑い」であると思っていました。なのに何故「笑い・き」と意図して過去形なのかなぁ、と。
歌としてはグラスの氷=今の自分として「今の苦笑い」にした方が共感を得そうな気はしますが、作者が言いたいことと違うなら強要はできません。
作者の意を伝えるなら「グラスの氷も」としてはどうでしょう。また「昭和の日」は現在“祝日の固有名詞”としての意味も持ってしまっています(昭和天皇誕生日→みどりの日→昭和の日)。そのせいで現在の『昭和の日』に昔を懐かしみつつグラスを傾けているとも受け取られかねませんから「昭和の日々」や「昭和の頃」「昭和には」として特定の日ではなく時代を指すと確定してしまった方がいいかなと思います。「昭和には~氷も」とすればグラスの氷が笑ったのも昭和当時のことで確定しますね。そうすれば氷の笑いも過労だったな…という「苦笑い」ではなく、ヤリ手の営業マンの自信ありげなニヤリに変わるかもしれません。
5・縄文の土器出土せしこの地から桜の大山眺めしことか(鳥澤)
縄文時代の土器が出土したというこの地から当時の人(縄文人)もこの桜の大山を眺めたりしたのかなぁ。
時代の浪漫を感じますね。
実際はいわゆるソメイヨシノなどは江戸後期に開発されたものでそれを昭和の高度成長期に植えたものが圧倒的に多く、現在私たちがお花見の名所として見ているような光景は意外と新しいものだったりするのですが、山とか空とか“そう簡単には変わらないだろう”と思っているものを見る時、昔の人もこんな風景を見ていたのかな、どんな気持ちで見ていたのかな、と思いを馳せることがありますね。
縄文の土器が出土した「この地」とはどこなのか。具体的にしてもいいような気がします。三十一文字の中で如何に読者に具体的な情報を提示してやれるかが重要です。「縄文の土器出土せし」という具体がとても良いので更に生かしたいところですね。
6・はらはらと花びら零すひとところ花に染まりて鵯の飛び立つ(小幡)
はらはらと花びらが零れるように降ってくる一角があり、ふと見ると満開の桜に染まるように溶け込んで花を啄んでいた鵯(ひよ・ひよどり)が飛び立ったという光景ですね。
「はらはらと花びら零すひとところ」が情景も言葉も美しいですね。
鵯の姿にモザイクをかけるように桜の花影がかかっている様子を「花に染まりて」としていますが、このままでも十分美しいし情景も分かりますがこの作者の力量なら更にビシッと嵌る表現を探せるかもしれません。
講師からは「花闇揺らし」などという案も出ていました。
7・白鷺も鴨も烏も今朝はなく四匹の鯉泳ぎゆくなり(名田部)
いつもは様々な鳥が訪れ賑やかな川に今朝は鳥の姿がなく、ただゆっくりと鯉が泳いでいるという静かな時間を歌ったもの。
情景は良いですね。ゆったりとした空気を感じます。
ただ「ゆくなり」がちょっとギクシャクしているというか論語のようで、せっかくのゆったりとした日常感を邪魔していますね。語尾が「ニャ」だと全部猫が語っていると感じるように、語尾が「~也(なり)。」となるだけで、朝の散歩をゆったり楽しんでいるはずの作者像がいきなり侍だとか偉そうな口ひげを生やしたオジサンの語りのようになってしまい勿体ないです。
また鳥たちは生き物なので「今朝はなく」ではなく「今朝はおらず」「今朝は来ず」などにしたいですね。「白鷺も鴨の姿も」や「白鷺や烏の声も」なら「今朝はなく」ですが。
そしてただ鯉だけが泳いでいる静かな時間こそが核なので、どのように泳いでいるかをしっかり描写して欲しいところです。「四匹の鯉ゆったり泳ぐ」や「ただ鯉だけが悠々泳ぐ」などとしてはいかがでしょう。
8・風を切る早足のつもりようようにバスに乗り込み大きく息する(大塚)
自分では風を切って早足で颯爽とバスに乗り込んだつもりが、実際はようやっとという感じで、バスに乗り込んだあと大きく息をついた。
今まで出来ていた動きをそのままイメージして動いていたら、いつの間にか身体が思うように付いてきていないという、年齢による日常生活のギャップにショックを受けた作者なのでしょう。
「ようように」がちょっと曖昧ですね。漸くの意味の漸うか意気揚々のようようかではまるで意味が変わってしまいます。漢字を使って「漸うに」とするかもっと自然に「漸くに」、または敢えて話し言葉で「ようやっと」「やっとこさ」などの方がヒィハァしながらバスに乗り込んだ作者像が見えるかもしれません。
また「早足のつもりが」「つもりも」などの助詞も必要かと思います。
9・日の色の喇叭水仙合唱す口を大きく「あ」の形して(畠山)
お日様色のラッパ水仙の咲く様子が口を大きく「あ」の形に開いて合唱しているようだ、と見た歌。
ラッパ水仙が並んで咲いている様子がきちんと整列して大きく口を開いて歌う合唱団のように見えたので。
実際見たのは真ん中が黄色で外側が白い二色構成のラッパ水仙だったのですが、そこは歌の核ではないのでそんなに説明したくなかったし、黄色一色のラッパ水仙もよくあるし、言いたいのは水仙のかたちであって色ではないので黄色と受け取られても全く構わないし…ということで春らしい黄色系統の明るい色としてお日様の色ってことにしておけばいいや、と。敢えて色については具体を省きました。
「日の色」は「陽の色」でもいいのではとも。
10・深谷駅頭を撫ぜたその像が渋沢栄一とドラマで知りた(小夜)
2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』が渋沢栄一を主役としたものでしたね。
日本経済史にとっては飛ばしては語れない人物ですが、新一万円札の肖像、また大河ドラマで扱われるまでは知名度はあまり高くなかったと思います。
歌の作者も知らず、ずっと昔に訪れた深谷駅で「この像は誰なんだろうね」などと話しながら頭を撫でたことがあったそう。それをドラマで知って「あれは!」と思い出したのだとか。
歌の形としては「深谷駅に」「深谷駅で」などの助詞が必要。また「知りた」という終止形はありません。「知った」「知りぬ」「知りたり」など正しい終止形にしましょう。