◆歌会報 2022年6月 (その1)
*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第122回(2022/6/17) 澪の会詠草(その1)
1・占いの我がみずがめ座最下位だ歌会へ行くバスの中にて(小夜)
歌会へ向かうバスの中の動画広告で、自分の星座であるみずがめ座が最下位と表示された作者。
占いなんてそんなに気にしないわ、という人でも「最下位」となるとちょっとショックで気にしてしまいますよね。
歌会で厳しいことを言われたりしないかしら、と少し不安になっているような様子が想像できます。
情景も分かるし、「がっかり」とか「ショック」とか直接的に言ってしまわずに具体的な描写から作者の気持ちを表すことが出来ていて良い歌ですね。
音数もちゃんと合わせようとしているのですが、ここは字余りでも「みずがめ座は」と助詞が欲しいところ。
また「最下位だ」という濁音の口語を使っていますが、これは「最下位よ(感嘆)」としたり「最下位に(なる・なった・なってしまったという意味が省略)」として響きを調整しても良いかもしれません。
私は作者の素直ながっかり感が表れるのでこの歌に関しては「最下位だ」という口語もアリかなと思うのですが、「歌」らしさを上げるには濁音・口語はどちらも要注意なので検討してみて欲しいですね。
2・故郷の千茅を揺らす薫風は耳にささやく「なるようになる」(金澤)
作者は何かしら問題や悩みを抱えつつ故郷にいるのでしょうか。さわさわとチガヤを揺らす薫風が「なるようになる」と優しくささやくように抜けていく様子を思わせます。
情景はやや抽象的ではありますが分かりますね。
表記の問題として「チガヤ」は「茅・千萱、白茅」という三種の漢字表記が一般的なようです。さてそれではどれが一番作者の意図に合っているかな、と考えたところ「白茅」が良いということになりました。
チガヤと言えばあの白銀の穂が特徴的ですものね!
さて「やや抽象的」と捉えましたがそれは何故でしょう。それは恐らく作者視点からの「チガヤがどのように揺れているのか」「どんな風なのか」が具体的に描かれていないからではないでしょうか。
「薫風」と言ってしまうとなんとなくは分かりますが「優しい風・暖かい風・ゆったりとした風・力強くても攻撃性を感じない風・生命活動が動き出す勢いを感じる風」等さまざまな風が「薫風」にはあります。若葉をざわーっと揺らす力強い風とさわさわと柔らかく草を揺らす風では思い浮かべる景色が全然違ってしまいますよね。
作者が感じた風はどんな風だったのでしょうか。
「どんな風」が吹いていたかでもいいし、「チガヤをどのように揺らしている」のかで風を表現してもいいので、「作者の感じた風」を教えて欲しいですね。
3・淡紅の手毬のような紫陽花へ微かなゆらぎを風が与える(川井)
うすべに色の手毬のようなまぁるい紫陽花へ風が微かなゆらぎを与えている。
淡紅・手毬で紫陽花の色もスタイルもしっかり思い描けます。花のふとした瞬間を見る視点もとても良いですね。
ただ結句で「風が与える」としたことで急に主役が「風」になってしまいますね。ここは淡紅・手毬としっかり描いた紫陽花を主役で通したいところ。
四句と結句を入れ替え、助詞も「が」から「は」に変えて「風は与える微かなゆらぎ」とした方が出たがりな「風」を脇役に抑えておけるのではないでしょうか。
もしくはもう「紫陽花が(は)どのように揺れている」として、「風」さんには舞台から降りていただき、完全に「紫陽花」主役でいってもらう。
作者は丸い紫陽花がうたた寝をしてこっくりこっくりと舟を漕ぐように揺れる様子を「まるで夢を見ているようだ」と思い、それを表現したかったということですが、「夢を見ているようだ」はかなり糖度が高い表現なので(笑)そこまでは言ってしまわない方が良いかもしれません。
淡紅の手毬のような「紫陽花はこくりこくりと舟を漕ぎおり」とか「紫陽花が居眠りをする水無月の昼」とか紫陽花主役で行ってみてはどうでしょうか。
4・ほの暗き朝のしじまに時鳥耳をすませて今日の日思う(大塚)
まだ仄暗い朝、静寂を破り聴こえてきたホトトギスの声。その声に耳をすませながらこれから始まる一日のことを思う。
作者が言いたいこと、心が動いたことがちょっと分かりにくいかなと思います。作者の中でもまだ核が定まっていないのかな、と。
「今日の日思う」とありますが、作者の思う「今日」が不安なものなのか、よし、今日も一日頑張るぞという前向きなものなのか、代り映えしない淡々とした日々なのかそういったものが読者に見えて来ません。
遠くにか細く聴こえるようなら不安な一日を想像しそうですし、張りがあって元気な声なら希望のある一日を想像しそうですよね。せわしなく鳴いていたら作者の一日も忙しくなりそうです。また子育て中の声に聴こえたのなら、作者も子育て中の事を思い出しつつ現在の生活である「今日」を比較して思っているのかもしれません。
ホトトギスの声が作者にはどう聴こえたかによって読者はその「作者の思う今日」を想像するので、「耳をすませて」という情報の代わりにホトトギスの声の情報が欲しいところ。
また「しじまに」という言葉は適切でしょうか。「しじまに」は漢字だと「静寂に」ですよね。私は「静寂を破り」と勝手に補完して読みましたが、「破り」がないと「静寂なのに鳥の声?」と場面に矛盾を感じてしまうかもしれません。
状況説明は「まだ暗い明け方に」という情報だけでいいかもしれません。その分「作者にはホトトギスの声がどう聴こえたか」という描写を歌ってみて欲しいと思います。
5・梅雨まぢか久の遠出の大山路四葩(よひら)の花の藍を濃くせり(緒方)
もうすぐ梅雨という頃に久々に遠出をして巡る大山路には紫陽花の花が藍色を濃くして色付いている。
情景は分かりますし、コロナ禍にしっかり自粛してきた生真面目な作者が紫陽花の青く色付く中ようやくの遠出を楽しむ姿が見えてきて素敵な歌だと思います。
が、「四葩」というあまり一般的ではない言葉を使う意味が活きているのかどうか。
俳句や和歌など作る側も読む側も「知識」も楽しむ前提のものではアリかもしれませんが、短歌はやはり「共感」、作者の感動を読者にも追体験させてあげるという部分にこそ重きを置くべきかな、と思います。
歌会(勉強会)ですのでこういった難しい言葉や様々な知識はとても為になるし毎回楽しませていただいていますが(笑)、「短歌作品」として出す時には少し注意が必要かもしれません。
「紫陽花の花藍を濃くせり」だと「花」が並んでしまう、字数的に「花藍」とくっついてしまい助詞を入れる余裕がない、かと言って一字空けるのも…と作者も色々と悩んだ結果のようですが、「紫陽花まるく藍を濃くせり」などとしてみてはいかがでしょうか。
6・頂戴と言へばどうぞと呉るる児の眼にはたちまち涙の溢る(小幡)
幼子の遊んでいたオモチャや食べ物などでしょうか。子供が興味を持って手にしていたものに対し「頂戴」と言ったら「どーじょ」とくれる。けれど本当は渡したくなくて、一生懸命我慢していて、目にはたちまちに涙があふれて来る幼子の様子がありありと浮かびます。
何の説明も修正も要りませんね。完成された作品です。
7・生徒らがグランドいっぱい晴れやかにマツケンサンバを踊る笑顔よ(栗田)
春の運動会でしょうか。グラウンドいっぱいに広がって晴れやかにマツケンサンバを踊っている生徒らの笑顔に作者も元気を貰ったようです。
グランドは「体育(たいいく)」を「たいく」と言ってしまうように、本来の「グラウンド(ground=大地・運動場)」が発音しやすいように詰まった言葉です。(グランドピアノのグランドはグランド(grand=壮大な・豪華な)で別物です)
「マツケンサンバ」は固有名詞で変えられませんから「グラウンド」の方は「校庭」としてしまってはダメでしょうか。確かにグラウンドより伸びやかさに欠ける気もしますが、グラウンドでは文字数が多く「水甕」にも投稿しづらいと思います(水甕推奨は27字)。
また「生徒らが━━踊る笑顔よ」と主語と述語がかなり離れてしまっているので、初句は「晴れやかに」とやや遠景からカメラが入って「校庭いっぱい生徒らが」と主語(生徒ら)に対しカメラを寄せていく演出の方が効果的かな、という気がします。
晴れやかに校庭いっぱい生徒らがマツケンサンバを踊る笑顔よ
とすれば28文字まで減らせますね。
8・大公孫樹乳状下垂は鹿の顔枝角のごとく凜しくありぬ(名田部)
大公孫樹の乳状下垂(乳房のように垂れ下がった幹の瘤)が鹿の顔に見える。瘤の部分が顔で、枝が角のように見えて凛々しい。
「凜(りん)しい」とは言わないので「凜々(りり)しい」と二文字重ねましょう。一文字の場合は「凜(りん)として」のように「と」が付きます。
乳状下垂のある大公孫樹が鹿の顔に見える!という見方は面白いと思います。
ただ「乳状下垂の部分が顔でね、そこに枝があってそれが角に見えて…」と、「説明」することにとても一生懸命になってしまっていて、作者が感じた「おっ、鹿の顔みたい!」という気付きによる楽しさが薄れてしまっています。
そのちょっとした気付きによる楽しさこそが核だと思うので、「垂れ下がる大きな瘤に伸びる枝 依知の公孫樹は雄鹿のごとし(凛々しき雄鹿)」などとして、「乳状下垂」などと難しい用語を使わずに誰にでも分かりそうな言葉で見たままを描写した方が良いのでは、と思います。
一生懸命説明しなくても「雄鹿のようだ」と言えば瘤の部分が顔で枝が角なんだな、と読者は思い描けると思います。
9・山百合と紫陽花続く庭園に母の笑顔の浮かびて歩く(飯島)
山百合と紫陽花が続く庭園にて母の笑顔を思い浮かべながら歩く。
その庭園にお母様と行ったことがあるのか、山百合と紫陽花がお母様の好きな花だったのか。何かしらお母様の思い出と紐付いた花なのでしょうね。
お母様の笑顔(とおそらくはその表情の時の会話など)を思い出しながら花に満ちた庭園をゆっくりと歩く、美しいけれどちょっと切ない情景が思い浮かびます。
「母」は亡くなったお母様とのことで、ここは「亡母」と書いて「はは」と読ませる方が状況をはっきりさせられると思います。
「母の笑顔の浮かびて歩く」だと現在存命の母に笑顔が浮かび、作者と一緒ににこやかに歩いている場面とも受け取られかねません。
「亡母の笑顔を浮かべて歩く」だとその辺りがしっかり決まると思います。
また「続く」「浮かべる」「歩く」と3つも動きのある言葉が出て来てしまうので「続く」を「満ちる」として動きの印象を抑えてしまった方が良いでしょう。
10・傘のなか雨をくぐりて届く香よ見あぐる崖にスイカズラの群(鳥澤)
雨をくぐり抜けて傘の中まで届いた香。香の元を探して見上げるとそこにはスイカズラの群が。
ジャスミンよりは控え目な甘さと僅かに柑橘のような清涼感を併せ持ったスイカズラの香。
「傘のなか雨をくぐりて届く香」という表現が良いですね。雨に負けない香の強さを説明感なく詩的に表しています。
このままでも何の問題もない歌ですが、「崖にスイカズラ」と「崖へスイカズラ」とそれぞれ助詞を変えて検討してみて下さい。
意味は変わらないのですが印象は結構違いますよね。どちらの方がより作者の感覚にしっくり来るのか。
因みに私は「へ」推しです(笑)。「へ」の方が少~しだけカメラが引いて客観的な感じがしますよね。
11・さみどりの楠の若葉をつややかに洗ひ清めて翠雨(すいう)ひたに降る(畠山)
明るい緑色の楠の若葉をつややかに洗い清めて翠雨(草木の若葉に降る雨のこと)がまっすぐに降っている。
楠の葉っぱってやや硬くてつるつるしているので雨が沁み込まず表面を流れ落ちていくんですよね。
そして雨に洗われた若葉が洗ったばかりの車のボディのようにピカピカにつやめいていて思わず見惚れました。
主語は「翠雨」ですが歌の核は?と言うと「洗われてつやめく楠の若葉」ですよね。「ひたに降る」とすると「翠雨」にかなり重さが行ってしまいますね。結句だし。
3番の歌と同じで結句に核ではない主語を置いてしまったことで本当の主役である「楠の若葉」が軽くなってしまっています。
ここは「翠雨」にはあまり重さ(意思)を持たせない方が良いということで「翠雨降りつぐ」「翠雨は降りぬ」「翠雨降りをり」等で考えてみたいと思います。