短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

3/18の歌会について

3/21までまん延防止重点措置が延長されることとなり、残念ながら3月も歌会はお休みとさせていただきます。

 

オミクロン株の感染力はすさまじく、今までで一番近くまで迫って来ている実感がありますね。

症状や後遺症を聞くと到底「タダの風邪」とは思えないので、とにかく罹らないように気を付けて過ごしたいですね。

2/18の歌会について

まん延防止重点措置が延長される見込みとなりました。

そのため2月18日の澪の会はお休みとさせていただきます。

 

3回目のワクチン接種がぼちぼち始まったようですね。

ワクチン接種が進めばまた感染者数も落ち着くと思いますので、改めてうがい・手洗いなど個々の感染対策をしっかり頑張って乗り切りましょう~!

1/21の歌会について

今のところ緊急事態宣言等が出ていないので開催の予定ですが、現在広まっているオミクロン株は大変感染力が強く今まできちんと感染対策を取っていた人たちにも広まり始めているようです。

またワクチンを接種された方もその効果が薄まってきている時期ですので、不安であれば遠慮なくお休みしてください。

その際は一報入れていただけるとこちらも安心できるのでよろしくお願いします。

◆「し」の使い方

みなさん、唱歌『ふるさと』の歌詞を覚えていますか?

「う~さ~ぎ~お~いし~、か~の~や~ま~」というやつです。

兎が美味しいわけではありません。「兎追いし」です。

「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」。(昔)兎を追いかけたあの山、小鮒を釣ったあの川、という意味ですね。

 

過去にした行動を歌おうとして「し」を使う時はまずこの歌を思い出してください。

 

さて、この「し」は過去を表す助動詞「き」の連体活用形です。

過去を表す助動詞「き」は「せ(未然)、〇(連用)、き(終止)、し(連体)、しか(仮定)、〇(命令)」と活用します。(〇はその活用形はなし)

助動詞ですから字のごとく動詞を助ける語句で、必ず動詞(連用形)に付きます。名詞には付きませんよ、ここ注意ですよ。「兎し」「山し」とは言いませんね。

意味は「~~した」という意味で、「~~」の部分に動詞が入ります。また連体形の活用なので必ずあとに体言(名詞)が続きます。「~~(動詞)した〇〇(名詞)」というかたちで使います。

過去の助動詞「し」として使う場合、「動詞+し+名詞」。このセットがちゃんと出来ているか確認しましょう。過去の助動詞「し」として使う場合「し」で文章が途切れることはありません。「~~し、」と途切れるものは「過去」を表す助動詞ではなく、「~~をして」という「す・する」という動詞の活用形で「過去」を表すわけではありません。ここを間違えると文章の時系列がおかしくなり、読者が混乱してしまうので注意しましょう。

『ふるさと』の例でいくと「追い(動詞「追う」の連用形)+し+かの山(名詞)」で、「し」を使うことで「追う」が過去のこととなり「追った」ということになります。うしろにちゃんと「かの山」という名詞も来て「兎を追ったあの山」という文章になっていますね。

 

「(私は)兎を追った。」で文章を止めたい時は終止形なので「き」です。「(私は)あの山で兎を追った。」という文章なら「(我は)かの山で(に)兎を追いき」となります。

 

またこの「し」は主に「自分が直接に体験した過去」の時に使います。更に言えば昨日今日の話ではなくわりと昔の過去を表す時に使います。

まさに『ふるさと』です。遠い昔の過去、自分が実際に体験した過去です。なんて分かりやすいお手本!ありがとう高野辰之(作詞者)さん!

 

昨日今日ついさっきなど近い過去にした行動は、「完全に過ぎた過去」を意味する助動詞「き」ではなく、「完了・確認」を意味する助動詞「たり(たら・たり・たり・たる・たれ・たれ)」・「た(たろ・〇・た・た・たら・〇)」(「たり」の口語)を使います。

「~~(動詞)た〇〇(名詞)」(見た光景・釣った魚・超えた温度・飽きた趣味・過ぎた時間 など)や「~~(動詞)たる〇〇(名詞)」(見たる光景・釣りたる魚・超えたる温度・飽きたる趣味・過ぎたる時間 など)と連体形で使います。

 

また完了の過去を表す文章には「〇〇(名詞)した〇〇(名詞)」(洗濯した服・感動した話 など)という使い方もあります。この「〇〇した」については後で詳しく述べます。

 

過去の助動詞「き」は基本的には自分が実際に体験した過去の行動に使いますが、確実にあったと言える過去(自分が走ったわけではないが走っているところを見たなど)にも使うことができます。ただしこの場合必ず主語を明確にしましょう。主語が明確でない場合、作者本人の過去の行動として扱われます。

例:「兎は去りき」(兎は(主語)去って行った。)、「君が歌いき」(君が(主語)歌った。)、「ツァラトゥストラはかく語りき」(ツァラトゥストラは(主語)このように語った。) など。

「兎を追いき」(主語指定なし)なら追ったのは私(作者)で「(私は)兎を追った。」となります。

 

過去の助動詞「き」の連体形として使う「し」の使い方は分かってきましたか?

遠い過去。自分が体験した過去で、後ろに必ず体言(名詞)がきます。

 

ここでごっちゃになって来るのが動詞「す」の連用形の「し」です。

「す」は漢字では「為」と書き、色々な動作をする、やる、ある状態にする(合格とす)、何らかの役目をする(司会をす)、価する(一万円す)などの意味を持つ動詞で、サ変活用「せ、し、す、する、すれ、せよ(しろ)」します。

こちらの「し」の場合連用形ですから「〇〇します、〇〇した、〇〇して」という使い方をするのですが、主に「〇〇して」として使う時これを省略して「〇〇(を)し(て)、」「〇〇(と)し(て)、」と文中で区切る場合に「し」のみで使われることがあります。

特に「〇〇(を)し、」で助詞の「を」が省かれる場合「〇〇」には動作を表す名詞(移動、鑑賞、洗濯など・[名]スル)が入るため助動詞と混同しがちなので注意して下さい。

「追いし」は「動詞(追う)+助動詞(し)」、「移動し」は「名詞(移動)+動詞(し)」です。また「追いし(動詞+助動詞連体形)」は連体形ですからそのあと必ず名詞に続きますが、「移動し(名詞+動詞連用形)」は連用形なので用言(動詞など)に接続するか、句点(、)が来てそこで一旦文が区切れるか、「た」「ます」「て」「たり」などの助詞に接続します。

 

またこの「す」は動詞なので先ほどの過去の助動詞「き」へ接続することもできます。「(昔)〇〇した」という意味になりますね。その場合は、終止形「き」には連用形の「し」から「〇〇しき」と原則どおりですが、連体形「し」・已然形「しか」には未然形「せ」から「〇〇せし〇〇」「〇〇せしか」続くという変則の承接をします。

例:終止形:「我はその道を選択しき」(私はその道を選択した。)

連体形:「我が選択せし道」(私が選択した道)

已然形:「彼はその道を選択せしか」(彼はその道を選択しただろうか)など

 

でもちょっと堅苦しい感じもしますね。一般的にはこの動詞「す」の連用形の「し」に完了・確認の意味を付ける助動詞「た(たろ・〇・た・た・たら・〇)」(「たり」の口語)が付いて「〇〇(名詞)+し(動詞連用形)+た(完了の意味を付ける助動詞)」として、完了した動作を示します。

「〇〇(を)した(終止形)」(移動(を)した。)、「〇〇(を)した(連体形)〇〇(名詞)」(洗濯(を)した服)など。

この「た」は終止形も連体形も「た」なので同じ「た」でも「。」で文が終る場合と体言(名詞)に続く場合があります。

助動詞「」は完了を示すのでこれも「過去」を表す言葉として使われますが、助動詞「き(し)」のように「遠い過去・自身の体験・確実な過去」などの使用の制限はありません。

「会った・来た・塗った・経た・通った」など様々な動詞に付きます。ただし「た」は口語なので、文語調で書きたいわ、という場合は「たり(たら・たり・たり・たる・たれ・たれ)」を使用します。「たり」の場合、終止形(「。」で終わる場合)と連体形(名詞に続く場合)で活用形が異なるのでそこは注意しましょう。

例:終止形:「会いたり」(会った。)、連体形:「会いたる人」(会った人)

終止形:「塗りたり」(塗った。)、連体形:「塗りたる色」(塗った色) など

 

さてまた「し」の話に戻しますね。「し」は希望を表す「たし」という助動詞の終止形(活用は(たく)たから、たく・たかり、たし、たき、たけれ、〇)の一部としてもよく出現するのですが、この場合必ず「たし」と二字セットで一語なので間違えないようにしてください。

助動詞なので必ず動詞に付き、「見たし(見たい。)」「追いたし(追いたい。)」「釣りたし(釣りたい。)」などとなります。終止形なので文章のあとには読点(。)がきて文章は終わります。

先ほどの動詞「す」の連体形「し」に付けて「~~したし」と使うこともあります。「移動したし(意:移動したい。)」などは「移動(名詞)+し(動詞)+たし(助動詞)」です。

 

短歌では基本的には句読点を書かないのですが、終止形がきたら心の中で読点(。)を入れて、ここで文章は切れるんだな、と意識してください。上(かみ)の句で終止形がくることもあります。その場合そこで一旦文章は切れ、一息入れる感覚で読んでください。

「兎追いたしあの山」とあった場合、「兎追いたし(兎を追いたい。)」で一旦終わり、「あの山」にはかかりません。「あの山」に繋げたい時は終止形でなく連体活用させて「兎追いたきあの山(兎を追いたいあの山)」となります。

また「追いたし」で終えたければ「あの山で(に)兎追いたし」と語順を変え、「あの山」に「で・に・へ」などの助詞を付けなければなりません。

「たし」の口語「たい」は(たかろ、たかっ・たく、たい、たい、たけれ、〇)と活用するので終止形と連体形どちらも「たい」となります。先ほどの「たり(文語)」と「た(口語)」の関係と同じですね。

また「追いたかった」と希望なおかつ過去の場合は「追いたかりつ(き)」となります。「追い(追うの動詞連用形)たかり(たしの助動詞連用形)つ・き(完了・過去の助動詞終止形)」。

「追いたかった」という意味で、希望と過去をごっちゃにして「追いたき。」と終止形で使うのは間違いです。終止形として正しいのは「追いき(追った。希望の意味はナシ)」「追いたし(追いたい。過去の意味はナシ)」のどちらかであり「追いたき」で文章が終わる形はありません。

 

この希望の助動詞「たし(終止)」「たき(連体)」と過去の助動詞「き(終止)」「し(連体)」は間違えて使う人がとても多いので注意して下さい。同じ響きなのに活用が逆なのでややこしいですが、間違えるととても不自然な日本語になってしまいます。

 

更に形容詞の終止形としての「し」があります。

「良し」「美し」「多し」「高し」などですね。

形容詞には「ク活用(く・く・し・き・けれ・〇)」と「シク活用(しく・しく・し・しき・しけれ・〇)」の二活用(*)がありますが、どちらの活用でも終止形は「し」です。(*)活用を見分けるには後ろに「なる」を付けてみましょう。「多なる」「美しくなる」など。

ですから述語として形容詞を使う場合、「何が・は(主語)どうだ(述語)」という文で現在の状態を表す「し」として終止形で使うことがあります。

「空は青し」「山は高し」「月が明るし」など。この形容詞の「し」には「過去」を表す意味は一切ありませんので注意して下さい。

 

いや~もう難しいですね!頭ごっちゃになりますね。

つまりそれだけ「し」はややこしいので、なんとなくで使ってしまわずに「難しいやつだ」と思って使ってください。

 

以下に主な四つの使い方と例文をまとめてみます。

1・過去(~~した)

例:兎追いあの山

 

2・希望(~~したい)

例:君に逢いに行きたし

 

3・動詞(~~して)

例:シャツを洗濯、干す。

 

4・形容詞(どうだ)

例:秋空高。春風涼。花は美

 

☆その「し」は

過去(~~した)? 

希望(~~したい)? 

動詞(~~して)?

形容詞(どうだ)?

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◆歌会報 2021年12月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第118回(2021/12/17) 澪の会詠草(その2)

 

13・公孫樹の木バッサリ伐られて手足無くピノキオ顔の霜月の朝(栗田)

公孫樹は悪いこともしないし嘘もつかないと思いますが、少し調子に乗って道路側にでも伸びすぎてしまったのでしょうかね(笑)、公孫樹の枝打ちされた様子を「手足の無いピノキオ顔」と見たところに作者の個性が見えます。

「手足無」なら「手足無く、ピノキオ顔をする・となる・に(なる)・に(見える)」などと続かないと不自然なので「手足無」としましょう。

また「ピノキオ顔」とすると “〇〇なった・〇〇見える”という意味が隠されて付きます。

 

14・稲穂架け虹のトンネルトンボ群れ飛び交う様は思い出作り(小夜)

ちょっと言いたいことが多すぎですね。「稲穂架け」「虹のトンネル」「トンボ」「群れ」「飛び交う様」「思い出作り(作者の?トンボの?)」それぞれが主役になり得てしまう別の物事ですね。どれが一番主役に相応しいでしょうか。

細かく説明してもらったところ、稲刈りが始まり田んぼに稲架けが作られる頃、その田んぼの上に虹がかかり、虹のトンネルにトンボが飛び交う様子が思い出作りをしているように見え、あぁ夏も終わりだな、と感じたことを歌いたかったということでした。

とりあえず稲穂架けはこの場面にあまり重要ではないようです。思い切って捨ててしまいましょう。また「飛び交う」と言えば一匹ではなく何匹か群れているわけですから「群れ」はいりません。字数によっては「群れ」を残して「飛び交う」の方を消してもいいでしょう。また「トンボ」として一字で「群れ」であることを表すこともできます。

「トンボが(主語)思い出作り(述語)」(←これが核)、「虹のトンネル」(←外したくない場面)「夏も終わり」で頑張ってまとめてみましょう。

トンボらは虹のトンネルに飛び交いて思い出作る夏の終りに

などとすれば少し分かりやすくなるかもしれません。まず場面を絞り、主語と述語をはっきり決めてみましょう。

 

15・点睛を入るるがに飛ぶ一機もて初冬の空は完璧な青(小幡)

画竜点睛(がりょうてんせい)の故事の如く、一機の飛行機を以て完成とする初冬の空の清々しい青色を思わせます。その景色に飛行機が入ることで「完璧」と捉える視点が個性的で、それを「点睛を入るるがに」とする表現が巧みです。

 

16・寒空に日毎ふくらむ無花果の遅れて来た実のいじらしくもあり(大塚)

もう寒くなってしまったのに遅く実った無花果の実が日ごとに膨らんでゆく様子がいじらしく思える。

見ている所(題材の切り取り)はとてもいいですね。ただ「いじらしくもあり」と作者の感情を概念的な言葉で言ってしまったのが惜しいです。

ここは作者の感想は抑えて抑えて、いじらしく思える具体的な描写を探しましょう。

小さく硬く、小さく丸く、まだまだ青く、瑞々青く、ほんのり赤く、淡きむらさき、など色々あると思います。

 

17・ケセラセラとセラヴィの語句に幾度か慰められて歩んで来たり(緒方)

ケセラセラ(なるようになる)、セラヴィ(これが人生さ、人生ってこんなものさ)という語句に幾度か慰められて人生を歩んできた、という歌で、意味は分かるのですが具体がないのでイメージを固められず「なんとなくふんわりいい色」という所で止まってしまいます。

日記系短歌というか、最近の若手歌人などには多いようですが具体がないと作者の納得で終ってしまい、「読者に追体験をさせることにより気付きを与え、その気付きにより読者も作者と同じ感動を味わう」ということができません。

読者に追体験をさせるにはやはり具体が必要だと思います。具体を描くことでその裏にある作者の思想を表す。とても難しい分野だと思います。

 

18・三度目も指紋認証失敗す 私ではない私になりぬ(金澤)

指が乾燥してくるとスマホ指紋認証がなかなか認識してくれず、確かに自分のスマホなのに自分で開けない、ということがよくありますね。

「私ではない私になりぬ」という表現がとても面白いと思います。

機械に認識されない持ち主(主人)であるはずの私。じゃあこの「私」は一体誰なんだ!という何とも言えない苛立ちや不安、皮肉めいた気持ちを客観的な視点で描いたとても現代的な歌に仕上がっています。

 

19・バスの中小春日和の陽を浴びてうつらうつらに首傾ぐなり(名田部)

暖かく平和な日常のワンシーンが具体的に想像できて共感できますね。天気が良い日の冬のバスや電車の中って本当に眠くなりますよね。

上の句はとても自然な感じに流れてきているのに、結句の「首傾ぐなり」という言い方だけが突然お堅いというか実験結果発表みたいな雰囲気になってしまうので「首が傾げる」「首の傾げり」などとして自然かつしっかり座らせて締めたいところです。

また「うつらうつら」でもいいのですが「うつらうつら」の方が自然な言い回しです。

 

20・少年の修学旅行のおみやげを無言で渡す気持ちを受けて(戸塚)

修学旅行に行くような年頃になると(男の子などは特に)照れくさくなるのかあまり喋ってくれなくなりますよね。それでもちゃんとお土産を買ってきてくれて、「……ん。」ってな感じで素っ気なく押し付けるように差し出していそうな場面を想像します。そんなお年頃の少年の照れくさいけどお土産を買ってきてくれた内面の優しさを分かっていて、その気持ちをありがたいと思って受け取る作者の優しさも見えます。

「少年の」は「少年が」「少年は」として主体であることをはっきりさせてしまいましょう。また「無言で渡す」で一字空け、「気持ちを受けぬ」「受ける」とした方がより「気持ち」を喜んで受け取った作者の心情が伝わるでしょう。

 

21・大輪の薄紫の花高く皇帝ダリアは異国の風格(川井)

皇帝と名の付くだけあり、高いものは5m近くも伸びる皇帝ダリア。高いところで大きな薄紫の花を咲かせている様子に異国の皇帝のような風格を感じているのだと思います。

「花高し」と言い切ってしまいましょう。

 

22・公園のカボチャの椅子にひと休み 釣瓶落としの夕日を眺む(畠山)

まだ日差しの暖かい時間に散歩に出たつもりが、公園の椅子に座ってちょっと一息ついている間にも、気付けばもう太陽は夕日となって西の空に沈みつつある。

実は実際に座った椅子はカボチャの椅子ではないのですが、以前別の場所でカボチャを模した椅子を見たことがあり「かわいいな」と印象に残っていたのと、丁度ハロウィンの時期であちこちにカボチャのオブジェがあったためそれと記憶が結びついたという裏があります(笑)

カボチャの椅子と秋の夕日で全体的にほっこり暖色系な秋の風景を読者の頭に描き出せれば、と思います。

 

23・しののめに包まれてゆく街の灯の清けき空を烏二羽行く(鳥澤)

夜明けのほわーっとうっすら明るくなってくる光に街の灯りが包まれてゆき、ひんやりとした空を烏が二羽連れ立って飛んでゆく。

分かるのですが、実は二つの場面を歌ってしまっているので打ち消し合ってしまっています。

東雲に包まれてゆく街の灯りの様子を核とするか、東雲の空を烏が飛んでゆく場面を核とするか決めましょう。

結句が烏なので烏を核とすると「街の」は意味を持ちすぎていて邪魔になります。「街の上」や「街ありて」として視線を変に集めないように流してみましょう。また空の様子を「清けき」と抽象的に言ってしまわず、具体的に(〇〇色とかまだ暗きとか仄暗いとか仄明きとか冷え冷えとしたとか)な描写で言えないか探してみましょう。

 

24・三重の網をめぐらす蜘蛛の巣は雌と離れて雄小さく生く(砂田)

三重の網をめぐらしているのだからなかなかに強者の雌なのでしょう(笑)。

蜘蛛に限らず人間以外の生き物の多く、特に昆虫や魚類など小さな生き物ほど雌の方が雄より体格が良く、強かったりしますね。

カマキリなどが有名ですが、蜘蛛も油断していると体の小さい雄は雌に食べられてしまうそうです。

雄の方が力も立場も強いこの国に生きつつ、雌の作った立派な巣の片隅で小さく生きる蜘蛛の雄を見る。色々な感情が湧きますね。

 

☆今月の好評歌は11番・鳥澤さんの

黄葉のメタセコイヤの先端をぐんと引き上ぐ空の青色

となりました。

黄色と青の色の対比、風景の切り取り方、「ぐんと引き上ぐ」という捉え方により大きな樹を実際に見上げているような迫力。とてもアーティスティックな作品ですね。

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◆歌会報 2021年12月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第119回(2021/12/17) 澪の会詠草(その1)

 

1・木犀の小花降りきて見上げれば金の花付けめぐり香らぬ(栗田)

金木犀の小花が頭上から降ってきて見上げてみたら金色の花が付いていた。香はめぐっていなかった(ので気付かなかったわ)。という歌ですが、「花付めぐり香ぬ」という表記で読者の意見が割れました。

花を付けて、と続くことで「香らぬ(香らない)」は「香りぬ(香っている)」のの表記間違いではないか。また「めぐる」のは「香り」なのか「また巡ってきた」という意味で「時・季節」を指すのかで読者は迷ってしまいました。

「香っていなかったけれど」という意味にしたい場合は「花付く」と終止形にして一旦文を切ってしまいましょう。

また「めぐり香らぬ」ではなく「香りめぐらぬ」にするとより意味は分かりやすくなると思います。

 

2・今は秋季節の迷子か紫陽花が控え目ながら旬の如くに(小夜)

今はもう秋なのだけれど、季節(とき)の迷子かな、紫陽花が控え目だけれどまるで旬のように咲いている。

情景がちゃんと読者に伝わりますね。少し惜しいのが「旬の如くに」と言ってしまったところ。「旬の如く」で想像する花の様子は人それぞれで違ってしまいますね。色もピンク系だったり青系だったり紫だったり、色がくっきり華やかとか色は淡いけれど瑞々しいとか、作者は「何をもって旬と感じた」のかを具体的に描写するととても良い歌になると思います。

また「控え目」と「旬」は両立もできるのですが少し意味が逆方向なので打ち消し合ってしまう恐れもありますね。「控え目」ではなく「小ぶりながらも」とか「葉の影ながら」など「旬」の華やかさを打ち消さない語句にしてもいいかもしれません。

 

3・天道虫は庭の名工 鬼灯のランプシェードに秋の陽透けて(小幡)

虫鬼灯(むしほおずき)を歌ったものですね。天道虫などの虫が鬼灯の実の赤い外皮を食べ、繊維質部分と中の丸い実だけが残り、本当に繊細な細工のランプシェードのように見える自然現象です。

そんな繊細な細工に秋の陽光が透けてみえる光景に感動したものですが、この歌には「実際に虫鬼灯を見た時の感動」と「それが虫によるものだと知った知識としての感動」の二つが同居してしまったため、逆にそれぞれの感動がぶつかり合って邪魔してしまったように思えます。

是非それぞれの感動ごとに分けて二首歌って欲しいですね。

 

4・早一年残暑のさなかコンビニにケーキとおせちの予約募集(大塚)

あら、もう一年経ったの!まだまだ暑い(残暑のさなか)のにコンビニにはもうケーキとおせちの予約募集をしているわ、という歌でとてもよく分かりますね。

この「早一年」にこそ「あら、もう!?」という作者の感情が現れているのでここは早一年の後に空白を置き一拍開けた方が活きるのでは、という指摘が。

また「予約募集」では六音なのと意味的にも助詞が欲しいところなので「予約の募集」としましょう。

また「コンビニ」は「コンビニ」でもいけるのでどちらも試してみてより作者の実感に合う方を選んでみてください。

 

5・早起きし二時間待ちて席次取り診察五分に冬の陽あわし(緒方)

大きめの病院などに行くとよくありますね。頑張って早起きして行ったのに二時間も待たされた挙句診察はほんの数分で終ってしまい、はぁ疲れた、と病院を出たら冬の日差しがもう淡い刻限になっていた。

確かに病院あるあるで共感もできるのですが、お説教系短歌と同じで「うーん、そうだよね、あるあるだよね、分かる分かる」という共感のみで終ってしまい、そこからの「気付き」による共感・感動にまでは至れません。

病院という本来病を癒し楽になるために行く場所へ行くことで逆に時間と体力をごっそり奪われる皮肉(哀しさ・矛盾)のようなものを詩的な表現で表せられるととても良い部分が歌えると思うのですが、なかなかに難しい題材ですね。

 

6・ゴム毬のように弾みて幼子はツリーの前のママの手をひく(金澤)

駅前や商店街などにある大きなクリスマスツリーの前でしょうか。ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねるように歩きながら母親の手を引く子供の様子が鮮やかに思い浮かびます。

「ゴム毬のように弾み」という表現がとても良いですね。それだけにこれを初句で出してしまうのが惜しい気もします。

「幼子は」を初句に持ってきて主体を確定させた上で「ゴム毬のように弾みつつ」と具体的な描写を続けた方が活きるのではないでしょうか。

また「ツリーの前」とするとまた少し変わってきますね。子供の今いる「位置」に視点がいくか、「子供の意思」に視点がいくか。どちらも有りだと思うので試してみてください。

 

7・削がれるも枝が膨らむ大公孫樹葉色付かん徐々に徐々にと(名田部)

削がれても枝が伸びて膨らみ、大公孫樹の葉の色が徐々に徐々にと付いてきた。大公孫樹の生命力への感動とあんなに削がれちゃったのにちゃんと乗り切ってくれたのね、というほっと安堵する気持ちが分かります。

分かるような気はしますが、実はあちこち読者の想像力と読解力に任せてしまっているところがあります。

まず「葉色付かん」は「葉色がつくだろう」という推量の表現なので、「徐々に徐々にと」と繰り返しまで使っている、具体的に作者が観察しているであろう表現には合いません。「葉の色付けり」や「葉の色の付く」「葉の色付きぬ」など推量(これから起こるであろうこと)ではなく現在のこととして表しましょう。

そして「徐々に徐々にと葉の色付けり」の順番にした方が文がしっかり座ります。

また「削がれる」では剪定されたのか台風などで折れてしまったのかそれぞれで思い浮かべる状態がずれてしまう危険性がありますね。ここは「伐られても」「伐られるも」とすると読者の想像する公孫樹にブレがなくなります。

また「膨らむ」ですが、「枝が膨らんだ」のではなく「枝が伸びて大公孫樹の姿が膨らんだ」のではないかと思うのですが如何でしょう。「枝が膨らむ」でも読み取っては貰えるでしょうが、「伸びて膨らむ」(伸びるのは枝ということは敢えて言わなくても分かる)や「いつしか膨らむ」「大きく膨らむ」など「大公孫樹の姿が膨らんだ」ことを重視するか、もしくは「枝は伸びゆき」として「枝が伸びた」方を重視するか決めた方が良いでしょう。

 

8・世田谷の寺町通りの大公孫樹黄金色に足引き寄せられし(戸塚)

世田谷の寺町通りの大公孫樹の見事な黄金色に足が引き寄せられてしまった。

「世田谷の寺町通りの大公孫樹」という具体がいいですね。実際の場所を知らなかったとしても「世田谷」や「寺町通り」という名詞からは少し懐古的でお洒落なイメージが湧くのではないでしょうか。

ただ結句が「足引き寄せられし」と九音になってしまうのは多すぎます。ここで敢えて「足」と言う必要はありません。

また「引き寄せられ」の「し」は誤用です。この場合「し」を「引き寄せられ」という過去(完了)の意味で使っていると思われますが、過去の助動詞として使う「し」はその後ろに必ず体言(名詞)が続き、「し」で終わることはありません。終わる場合は「き」となります。「引き寄せられき」なら文法としては正しいのですが、「(かなり昔に)引き寄せられた(と思い出している)」いう意味になります。この歌では「昔はすごい黄金色で引き寄せられたなぁ」と思い出しているわけではなく、今の黄金色に引き寄せられているので「引き寄せられぬ」「引き寄せられる」と現在のこととして表しましょう。「し」は多くの人が間違えて使うので次にブログで取り上げたいと思います。

 

9・晩秋の庭木鎮まる夕暮にドウダンツツジの朱の華やぎ(川井)

晩秋にもなるとすっかり花は終わり、庭木も葉を落としたり枯れた色になり静かに鎮まってゆく夕暮。そこにドウダンツツジの真っ赤な色が一際華やかだ。

「庭木鎮まる夕暮」という表現がとても良いですね。晩秋の色を失ってゆく静かな庭の情景を的確な一語で表しています。

ただし結句は「華やぎ」と体言止めにせず「朱が華やぐ」と終止形にして文を座らせたいところです。もしくは「夕暮ドウダンツツジの」「夕暮にドウダンツツジ」とすれば「朱の華やぎ」「朱き華やぎ」と体言止めにしてもいいし、「朱に華やぐ」「朱く華やぐ」と終止形にしてもいいでしょう。

主語は「夕暮」か「ドウダンツツジ」か「朱」か。述語は「華やぐ」か「(華やぎ)がある」なのか。主語と述語を明確にしましょう。

 

10・山裏の柿色の空は刻々と赤みを増して熟れてゆきたり(畠山)

秋の夕焼けの様子ですね。山の後ろの柿色の空が刻々と赤みを増してゆく様子を「熟れてゆく」と表現しました。

初句の「山裏の」がちょっとおかしいですね。「裏山」という言葉はありますが「山」を指すので意味が違いますし、「山裏」という語句はありません。

「山のうしろの」「山の向うの」「山の稜線の」「山の方の」という意味の言葉を持ってきたかったのですが思い浮かばず、苦し紛れで使いましたがダメですね(笑)。

「山の上(へ)の」という語句を提案されたのでそれでいこうと思います。

 

11・黄葉のメタセコイヤの先端をぐんと引き上ぐ空の青色(鳥澤)

黄葉したメタセコイアメタセコでもいいと思いますが、学名はMetasequoiaなので正式名称はメタセコと思われます)の高く尖った樹の先端を更にぐんと引き上げるような秋の澄んだ青空の色。メタセコイアの黄色と秋の青空との対比が一枚の絵画のように描かれた素敵な歌ですね。

「先端をぐんと引き上ぐ」という見方が的確で個性的です。

 

12・迷ひなく落葉の上へ落葉する音ピシッピシッと響きゐて 谷(砂田)

山や林の中にいると、役目を終えた葉がピシッピシッと鋭い音を立てて落ちて来る音を聴くことができます。水分や栄養など全て本体へ明け渡し、納得したかのように落ちてくる様を「迷ひなく」という表現から思い浮かべました。

最後に一字空けて「谷」となっていますが、この歌の場合「谷(の瞬間や様子)」ではなく「ピシッピシッと落葉する」様子が核であると思うので、「響きゐる谷」として谷の方にあまり重きを置かない方がいいのでは、と提案してみました。

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by photoAC おくやまひろし