*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第121回(2022/5/20) 澪の会詠草(その2)
12・川の隅いつも一羽で所在無げ仲良くなれそ白鷺の君(小夜)
川の隅にいつも一羽で所在無さげにいる白鷺の君とは仲良くなれそう。
この歌もこの作者の個性である優しく甘やかな世界観が見えます。
いつも一羽で退屈そうな白鷺を見て仲良くなれそうと思う感性は素敵ですね。言葉が違う、種族も違う、けれどどこか共通するものを感じている作者。
この感性はとても素晴らしいのですが、メルヘンチックで純粋な少女的作風はその「加減」がとても難しいものでもあります。
甘さが過ぎるとくどくなったり、幼くなったりしてしまうのです。
物事の捉え方、題材の切り取り方はそのまま、くどすぎない絶妙な加減に持っていくために、「具体的な描写を増やす」「単品で甘い感じがする単語は避ける」等して甘さの調整を心がけましょう。
ここでは「白鷺の君」が糖度をぐっと上げてしまっているので少し抑えたいですね。「~の君」と言うと現在では「愛しの君」とか「白薔薇の君」などと言うように恋愛感情を持つ相手や少女漫画や宝塚など少女文化のアイドル的な存在を呼ぶ時に使われ、やや甘ったるいイメージがあります。
「川隅にいつもぽつんと所在無げ仲良くなれそう白鷺一羽」
などとして甘くなりそうな言葉を省いてはどうでしょうか。
13・旧道は人け無くとも山々の緑の濃淡命押し来る(飯島)
旧道には作者の他に人の気配はない。けれど遠くの山から近くの山まで様々な濃淡の緑が「命」を表し押し寄せてくるようだ。
この作者もまたぶわっと一斉に芽吹く新緑を「押し来る」と感じたようですね。
動物ではないけれど緑が確かに「命」であることを感じているということで、そこを強調するために一マス空けてから「命押し来る」としてはどうでしょうか。
14・茶畑に五月の風と葉の揺らぎ鶯鳴きかうあの日よ戻れ(大塚)
茶畑に五月の風と葉が揺らぎ、鶯が鳴き交うあの日よ戻ってくれ。
3番の歌に続き、亡くなったお父さんが元気に茶畑に出ていた頃を懐かしみ、昔ののんびりした情景(と元気なお父さん)に戻ってきて欲しいという慟哭の歌でもあります。
この歌一首単体ではそこ(慟哭)までは分かりませんが、連作ならしっかりと伝わると思います。
「あの日」までは全て過去の情景なので「鳴き交う」を「鳴きける」「鳴きし」として過去であることを確定してしまった方がいいかもしれません。
「交う」ということで複数鳴いていたという情報も惜しいのですが、今現在の五月の風と鶯の鳴き交わす中に作者が居て、同じような「あの日」よ戻れと取られてしまう危険もあります。
「茶畑に~鶯が鳴いていたあの日」という過去の描写であることを確定してしまいましょう。
また「茶畑に」「茶畑へ」などの助詞も入れ替えてみて、より作者がしっくりくる方はどちらかなども検討してみてください。
15・散歩道公孫樹の一樹枯れしかと小葉を見つけて今日の良き事(栗田)
散歩道の公孫樹並木のうちの一本がすっかり枯れてしまったものだと思っていたところに小さな葉っぱが芽吹いているのを見つけて、それを今日の良き事として喜ぶ作者。
何気ない日々でも観察と小さな気付きの中に喜びを見出せる作者の生き方が素敵ですね。
丁寧に場面を説明しようとしたのかと思いますが「散歩道」という情報は不要かもしれません。「枯れたと思っていた公孫樹に小さな新芽が!」という部分が核なので「一本の枯れて見えたる公孫樹の木へ小さき(ちさき)葉のあり今日の~」「枯れたかと見えた公孫樹にさみどりの小さき葉のあり今日の~」などとしてはどうでしょうか。
16・姉妹揃いの服で通ったころ世田谷の町今も変らず(戸塚)
姉と妹、お揃いの服で通ったころと世田谷の町は今でも変わっていないなぁ。
世田谷なんて私からは高級住宅街やお洒落な都会というイメージなのですが、下町など古くからの住宅街は大規模な開発が出来ない分、意外とガラッと変わったりはしないのかもしれませんね。
姉妹でお揃いの服を着て通ったころとありますが、これは「とおった」のでしょうか「かよった」のでしょうか。
「とおった」だとお揃いで仕立ててもらったお気に入りのお洒落な服なんかで休日に買い物や散策をしていた様子を想像しますし、「かよった」だと揃いの服というのは制服で同じ学校にかよっていたのかな、などと考えます。
「とおった」なら「通りしころ・歩いたころ・歩きしころ」など。「かよった」なら「通いしころ・通いたるころ」にして区別を付けたいですね。
また「~ころと」の助詞が欲しいですね。
また「世田谷の町」とするとかなり広範囲で駅周辺などは大きく様変わりしているため「今も変わらず」がしっくりこない人も多いと思います。
「~ころと世田谷粕谷は今も変わらず」「~ころと今も変わらぬ粕谷の町は」「~ころと今も変わらぬ寺町通り」などと旧さを想像出来そうな地名にしてみてはどうでしょうか。
17・花片と花しべ埋まる広場には雑草も萌え錦絵と化す(名田部)
花びらと花しべに埋まる広場には雑草も伸びて来て錦絵のように華やかだ。
「花弁と花しべ埋まる」では花弁と花しべが広場(の地中)に埋まってしまうので、ここは助詞が必須です。字余りでも「花弁と花しべに埋まる」としましょう。
また「錦絵と化す」がありきたりです。色とりどりで華やかなもの、色鮮やかで精緻なものを「錦絵」と言ってしまったり、賑やかに様々な音が鳴る様子を「交響曲」と言ったり、“誰もが連想しがちなものに例える”のはありがちで、その人ならではの感じ方が表れません。
それならいっそ「色とりどりに」とか「明るく眩しい」とか見たまま感じたままを言ってしまった方がずっと良いでしょう。
外国の国旗のようだとか鼻歌を歌いたくなるとか春色を極めたようだとか、作者ならではの「華やかさ」の言い方を考えてみましょう。
私だったら「春色に満つ」とかにしてみると思います。
また花弁と花しべに埋まる広場「には」雑草「も」萌え、という部分は「説明してるな~」と感じてしまいます。
「広場あり」で一度切ってしまってはどうでしょうか。また「雑草」は実際雑草なのでしょうけれど、「あらくさ」とひらがなにして「雑」感を薄めるか「若草」などと言い換えた方が良いのではないでしょうか。
18・風を切り上流へ向く数百の鯉のぼりまで歓声届きぬ(川井)
風を切って(川の)上流へと向く数百の鯉のぼりにそれを見る人々の歓声が届いた。
相模川では「泳げ鯉のぼり相模川」という川の上に綱を渡し千匹近くの鯉のぼりを群泳させるイベントがあり(*2019年を最後に中止)、その様子を歌ったものですね。
川の上に渡された鯉のぼりが風が吹くと一斉に上流の方を向いて空を泳ぎ出す様は圧巻で、「おお~!」という人々の声が湧き上がる様子が思い浮かびます。
このイベントを知っている人は「上流」が相模川の上流であることが分かりますが、知らない人や違う土地のイベントなどを思い浮かべる人は「風上」「空という川の上流」と取るかもしれません。
それでもいいかもしれませんが、よりイメージを固定するには「川上へ」としてしまった方が大きな川の上に渡された鯉のぼりの風景を読者もくっきり思い描いてくれるとは思います。
また結句は「歓声届く」として七音で決めたいですね。
19・水求め鳩はくちばしコツコツと舗装道路の小さなくぼみへ(金澤)
水を求めて鳩が舗装道路の小さなくぼみをしきりにコツコツとつついている。
舗装道路の小さなくぼみに僅かに溜った水を飲もうと頑張る鳩を見て、生きるって大変だなぁ、という生き物の必死さに対する驚きと応援するような優しさを感じます。
述語がはっきりしていないので「くちばしをコツコツとぶつけながら小さなくぼみへ向かって行った」のか「小さなくぼみへくちばしをコツコツとぶつけている」のかで悩んでしまいます。
「水求め鳩はコツコツつつきおり舗装道路の小さきくぼみを」とすると迷いが無くなりますね。「つつく」という動詞を使うことで「くちばし」と言わなくても分かりますね。
8番の歌や、以前歌った新しい街並にも対応し道案内するツバメの歌など、身の回りの小さな生き物たちの様子を細かく観察し、そこから「生き物が生きることの強さ」を見つけるのがとても上手な作者ですね。
20・悠々と暮鳥の雲のゆく空はウクライナへと続くあをぞら(小幡)
山村暮鳥(やまむら ぼちょう)という詩人の「雲」という詩に書かれた雲のような平和そうな雲が悠々とゆく青空。けれどこの空は今戦禍の只中にあるウクライナへと続いているのだな。
今自分の目の前にある平和そのものの風景の先に、同じ時間、同じ星の上にあるのに命の危機に曝されている人々がいる。
歌う場面は深くとても良いと思います。が、「暮鳥の雲」が果たしてどれだけ伝わるかが疑問です。
実は私はネットで調べるまで知りませんでした。言われてみれば「おうい雲よ馬鹿にのんきさうぢやないか」の辺りは見たことがあるような気もしないでもないですが(笑)、調べるまでは「暮鳥の雲」と言われてもどんな雲なのかピンと来ませんでした。
日暮れの頃に山に帰る鳥が飛ぶ夕方の空の雲を思い浮かべてから、結句の「あをぞら」であれ、違うな、と思ったりしてしまいました。
例えば「宮沢賢治の夜空」や「高村光太郎のレモン」、「石川啄木の手」あたりならそこそこ似たような概念を思い浮かべる人もいるかと思いますが、それでもやはり概念的ですし、山村暮鳥はそこまで有名でしょうか。
「ぽかーんと丸い雲」や「ふわふわの白き雲」「ゆったりと横たわる雲」等、ここは作者が見たままの雲を描写した方が断然伝わると思います。
21・警官を前に反戦ピアニスト ロシア市民の拍手は続く(鳥澤)
現在ロシアでは「反戦」どころか、ウクライナに対する侵攻を「戦争」と言っても反逆者として逮捕しれてしまうようですね。一方的な侵略戦争を仕掛けておきながら「これは戦争ではなく親ロ派を救う特別軍事作戦」と言う図々しさ。
端から見る私たちからするととんでもないですが、実際ロシアに居て命や暮らしがかかっていたら、なかなか「戦争反対!」とは言えないかもしれません。そんな中で「反戦」を意思表示するロシア国民の勇気には頭が下がります。
YouTubeなどで動画が流れたようですが、「戦争反対!」と直接的な単語は口にしないまでも一人のピアニストがロシア国内のコンサートでウクライナの曲を演奏することによって反戦を意思表示したところ、即座に警官がピッタリと横に張り付き監視を始めたそうです。それでもピアニストは演奏を続け、それに対しロシアの市民が口には出せない隠れた意思(反戦)を表明するように拍手を続けたという。
時代の一場面を敢えて感情的にならず淡々と描写することで難しい場面を歌にしています。
22・「儚さは捨てた」大木の八重桜華美なフリルは女王の装ひ(畠山)
八重桜の濃いピンクのフリルは可愛らしさというより強い女王のようだなと思いました。
ただ可愛ければよい王女ではなく、自己主張が弱くてはやっていけない女王。
女王のドレスの華やかさは政治権力や財力の強さの証。
と思って詠んだのですが、二句の句跨りが厳しすぎると言われてしまったので少し考えてみます。
☆今月の好評歌は21番、鳥澤さんの
警官を前に反戦ピアニスト ロシア市民の拍手は続く
となりました。
感情的にならずに客観的な状況を述べることで、戦争という強すぎて難しい題材を重みのある歌に仕立てていますね。