◆歌会報 2026年4月
まずは皆さま、講師砂田の入院のため2月、3月と歌会をお休みさせていただき、申し訳ございませんでした。
残念ながらまだ退院の目途は立っておらず、現在は長期療養型の病院へ転院し治療を続けております。
これにより厚木澪の会は講師不在の「同好会」というかたちでの歌会となりますがよろしくお願いいたします。
第164回(2026/4/17) 澪の会詠草
1・ありがとうのメッセージカードの花束を小さな腕に抱えた少女(戸塚)
ありがとうというメッセージカードの付いた花束を抱える少女。誰かに渡すのか、自分が貰ったのか。この歌ではそこまでは分かりませんが、何だかほっこり温かい気持ちになる歌ですね。
卒業のシーズンなので、作者は花束を抱えた見知らぬ少女を見て「誰に渡すのかしら」と想像しているような場面なのかなと思いましたが、実際は、作者はピアノの先生をしていらして、その教え子の少女からいただいた場面だったということです。
ありがとうのカードを付けた花束を少女は小さき腕に抱えて
とすると前者の「誰にあげるのかしら」と想像しているような場面に。
ありがとうのカードの付いた花束を少女は照れつつ抱えて来たり
とすると作者が貰ったのかなと想像できるのではないでしょうか。
いずれにせよ、二句は「メッセージカードの」だと九音になってしまうので、「カードの付いた」「カードを付けた」などで七音に整えた方がいいと思います。「メッセージ」とまで言わずとも、「花束・ありがとう・カード」という言葉からきちんと想像できると思います。
2・大山の端に照らすは残り火よ炎となりて黒き雲焼く(名田部)
「残り火」という言葉が解釈をややこしくしてしまった感があります。
野焼きや山火事という実際の「火」によって黒い煙が雲のようにもくもくしている状況なのか、夕焼けを「火」と捉えて、まるで雲を焼いているようだと喩えたのか。
現実的に大山近辺で山火事のニュースはありませんでしたし、野焼きも現在は禁止されている行為なので、おそらくは夕焼けのことなのだろうな、とは思いますが、疑問が湧くということはそれだけ歌の核から意識が逸れてしまうわけですから、なるべくすっと読み取れる表現にしたいですね。
また「残り火」と「炎」というのもイメージが対立してしまいます。残り火のイメージは“ちろちろ”とかくすぶっているような感じで、炎は“めらめら”とか勢いのある感じですよね。夕日がすっかり沈んでしまって暗くなりつつある中、山の端っこだけかすかに明るい色が残っているというような場面を歌いたいなら「残り火」という気がしますし、分厚い雲の向こうに燃えるような夕焼けがあって、その輝きに圧倒されたというような場面なら「炎」なのではないでしょうか。
大山に夜の帳(とばり)の下りはじめ夕日燻(くすぶ)る残り火のごと
などとすると、ほとんど暗くて山の端に少しだけ夕焼けの色が残っている静かな感じ。
阿夫利嶺の端の夕日は赤々と燃ゆる炎に黒き雲焼く
とすると力強い夕焼けがまるで雲を焼いてしまいそうだ、という感じになるのではないでしょうか。
また「大山」でもいいのですが、「大山」って「おおやま・だいせん」と呼ぶものを含めると日本で40近くあるらしいんですよね。なのでイメージをより絞るなら「阿夫利嶺(あふりね)」とした方がいいかもしれません。音数も変わらないですし、字面もちょっと格好いいし(笑)。
3・寒き中スイセンの花凛として花一輪に優しき香り(山口)
まず「スイセン」は「水仙」と漢字にしたいですね。
また「水仙」といえば普通は「花」のことを想像すると思うので、わざわざ(しかも二回も)「花」という必要はないと思います。
それよりも白なのか黄色なのか、ラッパなど形や品種名など、もっと水仙を具体的に想像できる情報を入れた方がいいのではないでしょうか。
また「寒き中」でも意味は分かるのですが、「中」って色々な漢字とくっつきやすい文字なので、読む時に区切りに一瞬迷いが生じる可能性が高い言葉でもあります。漢字の並びによっては少し表現を変えてもいいかもしれませんね。
寒き日に黄の水仙の凛と咲き優しきかおりをほのかに放つ
冬の朝白き水仙の一輪を摘めばふわりと優しき香(か)のす
4・ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑海まで渡る呼吸のいぶき(小夜)
上の句は「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」と俳句として読むととても良いと思います。ただ短歌として下の句まで読むと、「ぎっしりと」のかかる先(動詞)で悩んでしまいます。普通「ぎっしりと」とくれば「並ぶ」「詰まる」「入る」とかそんな言葉ですよね。「ぎっしりと三浦岬のキャベツ畑」という俳句なら「ぎっしりと(キャベツが並ぶ)三浦岬のキャベツ畑」と補完して読むのですが、短歌のかたちとして読むと「ぎっしりと→渡る」という動詞にかかり不自然になってしまいます。「ぎっしりと」という表現を変えるか、「ぎっしりと」に自然と繋がる動詞を入れた方がいいのではないでしょうか。
また結句である「呼吸のいぶき」が分かりそうでいてちょっと分からない、そんな気がしました。
まず「呼吸」も「息吹」もほぼ同じ意味ですよね。どちらかを切って「キャベツの生命力」を呼吸(息吹)として捉えたということをハッキリさせた方がいいのではないでしょうか。
ぎっしりと三浦岬に連なりて春のキャベツは青々息吹く
春キャベツ三浦岬にぎっしりと玉巻き深き呼吸をはじむ
三浦岬に玉巻くキャベツの産声のごとき息吹の海まで渡る
5・裸木の根もとに屈めば羽包(はぐく)まれ安らぎしここち うらら春昼(緒方)
「裸木」「屈む」「羽包む」という言葉のイメージの合致度と、「安らぎしここち」と言ってしまっていいのかどうかが問題になる歌かと思います。
まず「羽包む」という表記からは、どうしても“羽のような柔らかなものに包まれる様”をイメージしますよね。でも「裸木」と言うとごつごつと硬い樹皮を想像すると思います。ごつごつと硬い樹皮に“包まれる”という字の印象がどうもうまく合致しません。
また「屈む」というのも“うつむいてうずくまる”感じで、漢字の意味的にも「屈する」「気持ちがくじける」「気力を失う」というマイナスイメージの方が強く、「安らぐ」というイメージと今一つ合致しない気がします。
また「屈めば羽包まれ安らぎしここち」では述語がありません。「羽包まれ安らぐここちす」「羽包まれ安らぐここちに(なる)」など“羽包まれて、安らぐ心地がした(になった)”のか、「羽包まれ安らぎし心地思い出す(甦る)」など“羽包まれて、(かつて)安らぎし心地を思い出した”のかどちらかなのかな、と思います。
話を聞いてみたところ、“(葉がないので)日が当たって温まった木肌の根元に寄りかかるように座ったら、母の胎内にいるような心地になった”ということで、それを「安らぐ」という大雑把な感情で言い切ってしまっては歌になりきれない(他人には分からない)と思います。その「安らぐ」がどういう状態に置かれたから湧き出たのか。春の日に暖められた木肌の暖かさ、どっしりと揺るがない存在の元に居る安定感、そこから母の胎内というイメージがわき、それが「安らぎ」と感じたわけですよね。一言で「安らぎ」と言っても色々あるわけで、どんな背景から来る安らぎなのか絞る情報がないと、大まかな感覚しか得られないと思います。
もっと言ってしまえば、裸木=葉っぱが無いので日が当たって温かい、とか屈めばという部分も、具体的なようでいて、場面に至る説明(理屈)になってしまっていると思います。絞ると「春の温かい樹木から母の胎内にいるような安心感をおぼえた」ということになるのではないでしょうか。
春日浴び温もる大樹にもたれれば胎内記憶のふと甦る
春昼の大樹の根元のぬくもりにふと甦る妣の胎内
ゆりの木の根元しっとり温かくふと甦る妣の胎内
6・貫禄の染井吉野の根に近く二輪は大きく花を咲かせる(川井)
丁度一年前、
桜木の根にほど近くひそやかに二輪は早々花を咲かせた
と歌っておられましたが、今年はひそやかでなく大きく咲いたんですね(笑)。
去年は「根にほど近く」ではなく「根のほど近くへ」ではないかと指摘したのですが、今回は「根に近く」でも「根の近く」でも間違いではないと思います。でも「根の近く」の方がやや自然かなぁという気もします。
またこれも去年と同じ指摘になってしまいますが、「二輪は」は「二輪が」と強調した方が、より“特に目が行った二輪”という感じがすると思います。
また「大きく花を咲かせる」「大きな花を咲かせる」も少しニュアンスが違いますよね。「大きく」とすると桜に意思があってやや擬人化している感じ。「大きな」とすると客観的な事実。
作者は桜に意思を感じて「もう結構な老木だけど頑張ってるわね!」と話しかけるような気持ちで見ているのでしょうか。それとも二輪の大きな花に自然(桜)の生命力を感じているのでしょうか。
7・ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘の腕の点滴の跡に血がにじみおり(金澤)
歌の場面はとても良いですよねぇ。ぎこちなく赤ちゃんを抱くという表現から初産なのかなと想像できますし、腕の点滴の跡に血がにじむという表現から難産を乗り越えてやっとの赤ちゃんとの対面なのかなという想像もできますよね。
説明ではなく、具体的な描写で場面を作り上げている。とても素晴らしいと思います。
ただ惜しいなと思ったのが、言葉の位置ですね。今の並びだと印象に残るのは結句の方なので“難産だった”という部分になるのですが、歌としては“難産を乗り越えてやっと面会できた初めての赤ちゃんをぎこちなく抱く”という場面の方を核にした方が良いと思いませんか?
血の滲む点滴跡の残る手に赤子抱く娘(こ)のまだぎこちなし(ぎこちのなさよ)
8・校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居る(鳥澤)
あと五日で入学式という日の歌でしょう。
強風が吹きつける中、子供たちを迎えるその日まで頑張って耐えてみせるぞ、と桜に意思を持たせた上で応援している作者の気持ちが見えてきますね。
結句は「待ち居り(おり)」と終止形にしましょう。
口語で「いる」を終止形として使うなら「待っている」と「待つ」の部分も口語にしないと不自然です。
9・公園を横切るすり足一年生今日は学校楽しかったかい(大塚)
「すり足」というと重い足取り、つまらなさそうな足取りというイメージで楽しそうではないですよね。
その“楽しくなさそうな足取り”の子に「楽しかったか」と問いかける(心の中でも)のが私にはよく分かりませんでした。
“楽しくなさそう”と見ているのだから、「今日はあんまり楽しくなかったのかな?」と問いかけるなら分かるのですが。
スキップなど“楽しそうな足取り”を見て「うふふ、学校楽しかったのかい」と目を細めるなら分かりますが、“楽しくなさそう”と見てとっているのに、「楽しかったか」と逆の問いかけをするというのが、私にはピンと来ませんでした。
また「公園を横切る」という情報は必要でしょうか。
重い足取りで帰る新一年生を見て、まだ慣れていなくて、新しいお友達も出来ていなくて、学校、あんまり楽しくないのかな?と心配しているというのが今回の歌の核ではないでしょうか。だとしたら場面の構築に必要な情報は「公園を横切る」ではなく「楽しくなさげに学校から帰る」ということではないでしょうか。
すり足に独り帰路ゆく一年生 学校はまだ楽しくないかい
すり足に独り帰路ゆく一年生 早く友達できるといいね
俯きて重き足取りに帰路をゆく一年生よ楽しくなぁれ
など、心の中で話しかける言葉をセリフとしてそのまま持ってくる手法はありだと思いますが、“重い足取り”と見ているなら、問い掛けのセリフはもっとしっくりくるものがあるのではないかという気がします。
10・庭先に花びらヒラヒラ飛んできて花見に行けぬわれは喜ぶ(飯島)
「ヒラヒラ」は「ひらひら」とひらがなにした方が柔らかな印象になると思います。
また歌の場面や嬉しい気持ちはよく分かるのですが、「我は喜ぶ」と感想として言い切ってしまうのはどうかなと思います。
自分が喜んだ、とするより「吾(あ・わ)を喜ばす」とした方が、読者が(作者となって)想像する部分が少し増えるのではないでしょうか。
まるで作者を喜ばそうとするように飛んできた桜の花びら。果たして作者は喜んだでしょうか。それはもう当然「是」、喜んだわけですが、「私は喜びました」と言われるより、少し考える隙間ができますよね。
「私は喜びました」と言われると読者は“喜んでいる作者を見る”位置にまでしか寄れませんが、「花びらが私を喜ばせる」と言われると“喜ばせようと飛んでくる花びらを見る”位置にまで寄ることができるのではないでしょうか。
また「庭先に」「花見に」と「に」が被るため、どちらかを「へ」とした方がいいと思います。今回「庭先に」というのは「ここに来てくれた」という場所を指定する思いがありますから、「庭先に・花見へ」の組み合わせの方が合うかなという気がします。
11・花咲けど実のつかぬまま枯れゆくかある日弾けて白き綿花に(大久保)
ちょっと核に至るまでの説明が長くなってしまったかな、という気がします。
また「綿花」というのは実はたんぽぽの綿毛のようなもので、まず淡い黄色の花が咲き、実が膨らんで、それ(実)が割れて白いふわふわの花のような綿毛が開くわけですね。
なので「実のつかぬまま→白き綿花に」なることは事実としてはありえないわけで、読者はどういう状態か掴めずに迷ってしまうと思います。
実のまま全然開かないなぁと思っていたのがある日突然開いた喜びなら、
花ののち固き実のままの綿花(ワタ)の木のぽぽんと白く弾ける朝よ
待ちかねた白き綿花が冬の朝ポップコーンのごと弾けたり
などで、もっと開いた綿花に対する情報(ぽぽんと・ポップコーンのごとく)を描写するといいのでは、と思います。
ただ話を聞いてみたところ、枯れたオクラ(花が似ている)だと思っていた所からある日予想もしていなかった綿花が開いて驚いたということで、そうなると核は「枯れたと思っていた綿花が開いた喜び」ではなく、「予想外に綿花が開いた驚き」ということになり、その場合“そこに綿花があるとは思わなかった”という情報が必須かと思います。
実を付けず枯れたオクラと思いきやある日真白き綿花弾けり
秋に黄の花咲いたまま忘れおり冬晴れへぽんと綿花弾けて
12・冬さなか枝先赤く側ゆけばつぶつぶ並んで未開の紅梅(E.S)
冬の寒いさなか、枝の先が赤いことに気付き、近寄ってよく見れば未開の紅梅のつぼみがつぶつぶ並んでいた。
「未開紅(ミカイコウ)」という品種の梅があるようです。早咲きの八重の紅梅で、つぼみの状態から咲いているように美しいことが由来とされています。
「側ゆけば」=近寄ってよく見たら、というのは場面へ至るまでの説明で理屈っぽくなってしまうので、切ってしまった方がいいのではないでしょうか。
また「つぶつぶ並んで」も「つぶつぶ並ぶ」と七音に整えられると思います。
冬さなか枝先ほんのり染めるのはつぶつぶ並ぶ未開の紅梅
冬さなか未開紅の枝先へつぼみつぶつぶ並びはじめる
13・古き家(や)を守るがに立つ棕櫚の木のやぶれ唐傘ひかりを零す(小幡)
棕櫚(しゅろ)の木って分かりますか? 分からない方はヤシの木を想像していただければいいかと。日本版ヤシの木で、本場(ハワイなど)のヤシの木に比べると葉は短く、うちわを細く裂いたような葉をしています。
高い位置で葉を広げる樹形を「唐傘」と見て、それが古い家を守っているようだ、と見て取ったようです。
情景は迷いなく浮かぶのですが、作者はその情景を見てどんな感情が湧いたのかがちょっと分かりにくいかもしれません。
古い家を守っている棕櫚に対し、そんな破れた状態になるまで守ってくれてありがとう、ご苦労様、頑張ってと感謝したり励ますような気持ちなのでしょうか。
それとも古い家というのはもう誰も住んでおらず、誰も住んでいない家をまだ(破れた傘のようになってまで)守り続ける姿に何とも言えない寂しさや無常を感じているのでしょうか。
「ひかりを零す」だけではそこがちょっと弱いかな、というかどちらにも取れてしまう表現かなと思いました。
14・雨上がりきらきら桜の吹雪くなか退院見込めぬ母の見舞ひへ(畠山)
雨上がりの午後、雨に洗われた空気に日が差し始め、散る花びらも雨で濡れたのか一枚一枚コーティングされたみたいに艶やかに光を弾いて、ピンクというより金色に光ってきらきらきらきら舞い散っていたんですよね。
その美しさに感嘆しつつも、未だ退院が見込めず長期入院になっている母のことを思うと素直に光景の美しさに喜べないというか。風景の美しさを喜ぶ心の余裕がない感じを歌ってみました。
15・午年でホワイトホースの小瓶より紅茶へ一滴午後三時かな(戸塚)
今年は午年ということで、お正月にお祝いとして用意したのでしょうか。ウィスキーのホワイトホースの小瓶から紅茶へ香り付けに一滴たらし、アフタヌーンティーを楽しむ作者。優雅でいいですねぇ。
何てことない日常だけれど、ちょっと優雅な気持ちで楽しむ生活詠。肩肘張らず、素直な描写でとてもいいと思います。
「午年で」の「で」だけ気になります。「午年に」としてほしいですね。
16・小鮎川ふくれる鴨が十羽おり新春の水際暖かき風(名田部)
ちょっと場面が分断されてしまいましたね。また助詞が少ないため、ブツブツと文章が途切れてしまい調べが崩れてしまっています。
まず核となるものを決めましょう。今のままだと「小鮎川」「鴨」「水際」「風」と主役候補が4つもあります。
基本的には結句こそが一番強く印象に残るので、今のままだと「暖かき風」が主役かなとなりますが、それにしては「暖かき」以外に風に対する情報がなく、「え、あんたが主役?」というツッコミを入れたくなってしまいます。
ではどれに作者は一番注目しているのかなと考えると、やはり一番しっかり観察した描写がある「鴨」なのではないでしょうか。
でも「十羽」という数には今回それほど重要性を感じません。「唐揚げ十五本」の時の「十五本」という具体的な数は「一人でそんなに?」と読者を驚かせ、作者の唐揚げに対するワクワク感を可視化させたためとても重要だったのですが、今回は六羽でも九羽でも十羽でも意味は対して変わらず「一羽でなく複数だった」ことが分かればいいのではないでしょうか。
ふんわりと春の風吹く小鮎川の汀へふくふく膨れる鴨ら
冬の厳しさを越え、少し暖かくなってきた春の風が優しく吹く小鮎川の汀に、それでもまだまだ冬仕様の膨らんだ鴨たちがのんびり過ごしている様子。
「風」も「汀(水際)」も“膨らんだ鴨たち(主役)のいる場所の説明”として分断させずに一つの文章として前に持って来て、しっかり観察した主役の鴨を結句に持って来てみました。
17・ヒナ祭り亡き妻と共ごちそうが祝いの酒に愚痴となりてか(山口)
まず「ヒナ祭り」は「雛祭」(漢字)か「ひな祭り」(ひらがな)と表記してほしいです。
生前奥さんがしてくれていたように、奥さんを亡くされた後もひな祭りの節句にごちそうを用意して、おそらくは奥さんの写真などを眺めつつお酒を飲み始めたところ、いつの間にか「どうして俺を置いて逝っちゃったんだよ。一人の酒は寂しいよ」と愚痴になっていた、という場面なのではないでしょうか。
内容はとてもいいですよね。男やもめの悲哀というか。ただ文章をもうちょっと自然な日本語にしたいですね。
ひな祭りにごちそう並べて亡き妻と語らうつもりが愚痴となりたり
ひな祭りの馳走と酒に亡き妻と語らうつもりがいつしか愚痴に
18・恵方巻まるごとかじりお辞儀する輝く明日への南南東へ(小夜)
恵方巻。コンビニやスーパーなどでこの風習が宣伝されるようになって、気付けば二十年くらい経っているでしょうか。
その年ごとに違う恵方(縁起が良いとされる方角)に向かって巻き寿司をまるごと頬張るってやつですね。正確にはその後でお辞儀までするんですね(笑)。知りませんでした。
“縁起が良い”ということを「輝く明日へ」と表現したのが作者らしいと思います。
「輝く明日へ」「南南東へ」と近いところで「へ」が被ってしまいますが、これはどちらも必要で仕方がないかなと思います。
まめに行事を楽しむ作者の日常への向かい方が自然と見えてきて、良い生活詠だと思います。
19・人絶えし逢魔(おうま)が時(とき)の古寺に置き忘られし怪獣ゴジラ(緒方)
人がいなくなって寂れた風景にゴジラのおもちゃが取り残されているという情景はとてもいいと思うのですが、ずっと昔の一風景を「あの時忘れられていたあのゴジラ、その後どうなったんだろう」と思い返しているのか、今見ているのか、という時制でまず悩みました。またどんなゴジラなのか、作者が捉えたゴジラ像が書かれていないため、ゴジラ(この風景)に対し作者はどんな感情を抱いているのかがまだ見えて来ないと思います。
まず「人絶えし」は「逢魔が時」にかかるのか「古寺」にかかるのか。「人絶えし逢魔が時」というかかり方はどうなのでしょう。ずっと昔に人も絶えた逢魔が時?何だか意味が通りません。「人絶えし古寺」ならずっと前に人も絶えて今は寂れた古寺、という感じで自然に繋がるのですが。
「人絶えて逢魔が時の古寺に」「逢魔が時人の絶えたる古寺に」「人絶えし古寺は今逢魔が時」など、いずれにせよ作者は過去の寂れた古寺を思い出しているのではなく、今現在人の絶えた古寺を見ているのではないでしょうか。
そして「置き忘られし」ゴジラ。やはり「~~し〇〇」と言うと、ただ過去のことを表すのではなく、「〇〇」に当たる名詞をも想像の中で思い返している時に使うと思います。基本的に動詞と名詞の両方を脳裏に描いて思い返すとなると、今目の前に実物があるわけではないので、ちょっと前のことではなくずっと昔のことになることが多いため、基本的には「ずっと昔に」と訳してね、と言っていますが、ちょっと前かずっと前かという時間的な問題というより、遠い記憶を思い起こすなど、かかる名詞までを改めて意図的に思い返している場合が「~~し〇〇」で、しみじみ思い返すほどのことではないただ過去を指すだけの場合やかかる名詞が思い返すまでもなく今現在ある場合としては使わないと思います。
「ずっと昔に置き忘れられてしまったのかなぁ」とするなら、その「長い時」に思いを馳せていることが重要になるわけで、その場合「人絶えし」「逢魔が時」などはそっちに強い印象を持っていかれてしまうので思い切って削り、長い時間放置されていたであろうゴジラの描写(汚れや色褪せなど)を入れるべきでは、と思います。
いずれにせよ「置き忘れられた」だけでは作者の気持ちがあまり見えてこず、“作者はゴジラをどう捉えたのか”、つまりゴジラの描写をしっかりとすることで、作者の心の内が見えて来ると思います。
古寺へ置き忘れられしゴジラ居て雨と闘いし傷跡のあり
逢魔が時古寺の隅へ色褪せた怪獣ゴジラがぽつんとひとつ
公園に誰かが忘れたゴジラ居て逢魔が時の空へ吠えたり
20・やれミルクやれオムツだと世話をやき迷惑がられる吾の老婆心(金澤)
場面はよく分かるのですが、「迷惑がられる」と自分の中で答えをまとめてしまっているため、報告で終わってしまったかなという気がします。
それ以上やったらありがた迷惑になっちゃうんじゃない?とか読者に想像させる余白が欲しかったかなぁ、と。
やれミルクやれオムツさあ次は何と娘にも訊かずに孫の世話焼く
21・青空へ重機はアームを突き上げて新市庁舎を積みあげてゆく(鳥澤)
「建ててゆく」でなく「積みあげてゆく」としたことで、高い建物なんだろうなぁと思わせ、立派だなぁ、建設業者すごいなぁ、とか建設技術に感心しているのかな、と思わせますね。
「青空へ」とあるので、作者は晴々としたプラスのイメージでこの新市庁舎建設を捉えているのだと思います。
特に直す所はないと思います。
22・早朝の目に鮮やかな冬景色畑の白霜(はくそう)綿花の白よ(大久保)
「白霜」を「はくそう」と読ませる例はほとんどなく、「しろしも」「しろじも」「しらじも」と読ませる場合が多いようです。
また畑の霜と綿花の白さが目に鮮やかだとしていますが、「鮮やか」というと色彩の彩度が際立つイメージで、「白」という色は彩度を持たない特殊な色なので(白・黒・灰色は無彩色と呼ばれます)、「白が鮮やか」というとどうもピンと来ません。無彩色は明度によって差が出る色なので、「明るい」とか「眩しい」とかなら“白の明度が際立っている”と感じるのですが。
また雪なら分かるのですが、霜ってそんなに白さが際立つかな、とも。
早朝の目の覚めるごと冬景色 霜置く畑の綿花の白よ
朝日射す冬の景色のまぶしさよ霜はきらめき綿花(ワタ)軽やかに
23・床の花寒風に咲いて侘助や ひと枝挿すればわび茶のしつらえ(E.S)
床の間に活ける花として寒風に咲く侘助(ツバキの一種)を飾り、一枝を挿したらわび茶の空間がすっかり整った、という内容かと思います。
わび茶とは茶道の様式の一つで、物事が完全でないことを肯定し、自然のままを受け入れ、簡素で閑静な在り方を楽しむ茶の湯(日本的哲学)を楽しむこと。わび茶を完成させた千利休など、わび茶を好む茶人を「侘び数奇(すき)」といい、利休も好んだという素朴な感じの侘助の花の名の由来という説もあります。
「床の花」でも「床の間に飾る花」「お茶室の花」「茶花(ちゃばな)」ということは分かるのですが、短歌としては出来れば助詞を入れて自然に下に繋げたいところではあります。「床の間に」「茶花には」など助詞を入れて五音になるようにしてはどうでしょうか。
「寒風に咲いて」という活用も「咲いて、どうした」という述語に繋がっていないため不自然に感じます。また「ひと枝挿すれば」は「ひとえさすれば」と読ませるのでしょうか。これも「一枝挿せば(ひとえださせば)」とした方が自然ではないでしょうか。ただそれでも「挿せば」とすると理屈っぽくなってしまうため、「一枝挿して」とした方がいいかもしれません。
床の間へ寒風に咲く侘助を一枝挿してわび茶のしつらえ
24・橋五つ向かふの町へ映画観にペダル漕げるを幸と想はむ(小幡)
橋を五つも越えた先の町まで、映画を観るためにペダルを漕げる(体力がある)ことを幸せなことだな、としみじみ実感している作者。
突如入院して歌会も来れなくなってしまった講師の砂田のことや、他にも外出が厳しい友人などのことが念頭にあるのではないでしょうか。
年齢的にも周りでそんな話が増えてくる中、橋五つも向こうの町まで映画という娯楽のために自転車を漕いで行ける体力があるということは“当たり前”じゃなくて“幸せ”なことなんだな、と。
いや、でも、橋五つってなかなかすごいですね(笑)。それだけの体力維持には相当の自己管理が必要なのでは。筋トレとかウォーキングとか全然続かない私としては、きちんと体力維持できる人ってすごいなぁと思います。
25・病床の壁の向かふの満開の桜の明るさ僅か届かず(畠山)
母の病床の壁一枚向こうでは桜が満開になっているのに、ベッドの上の母からは見ることが出来ない、という歌です。
「母へ届かず」にするかで迷ったのですが、この一首で完結するなら「母へ」なんですけど、今回は前後の歌が大体母の入院関連の歌なので連作としてまぁ分かるかな、ということで、「ほんの壁一枚向こうなのに」ということを優先してみました。
☆今月の好評歌は8番、鳥澤さんの
校門の桜は風にしなりつつあと五日だと子らを待ち居り
となりました。
強風にしなる校門の桜があと五日で入学式だから頑張るぞ、と耐えて待っているように見えると詠むことで、実は作者が「あと五日、頑張って!」と応援している歌ですね。
7番金澤さんの難産の末ぎこちなく赤ちゃんを抱く娘さんの歌、15番戸塚さんのホワイトホースを一滴垂らしたアフタヌーンティーの歌、18番小夜さんの恵方巻をかじる歌などの気張らない生活詠も好評でした。
次回澪の会は5月22日㈮ 12:30~厚木アミュー601です。第三金曜日の15日はお部屋が取れず、第四金曜日となりましたのでご注意ください。
参加される方は詠草を5月8日までにお送りください。

