短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2021年12月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第118回(2021/12/17) 澪の会詠草(その2)

 

13・公孫樹の木バッサリ伐られて手足無くピノキオ顔の霜月の朝(栗田)

公孫樹は悪いこともしないし嘘もつかないと思いますが、少し調子に乗って道路側にでも伸びすぎてしまったのでしょうかね(笑)、公孫樹の枝打ちされた様子を「手足の無いピノキオ顔」と見たところに作者の個性が見えます。

「手足無」なら「手足無く、ピノキオ顔をする・となる・に(なる)・に(見える)」などと続かないと不自然なので「手足無」としましょう。

また「ピノキオ顔」とすると “〇〇なった・〇〇見える”という意味が隠されて付きます。

 

14・稲穂架け虹のトンネルトンボ群れ飛び交う様は思い出作り(小夜)

ちょっと言いたいことが多すぎですね。「稲穂架け」「虹のトンネル」「トンボ」「群れ」「飛び交う様」「思い出作り(作者の?トンボの?)」それぞれが主役になり得てしまう別の物事ですね。どれが一番主役に相応しいでしょうか。

細かく説明してもらったところ、稲刈りが始まり田んぼに稲架けが作られる頃、その田んぼの上に虹がかかり、虹のトンネルにトンボが飛び交う様子が思い出作りをしているように見え、あぁ夏も終わりだな、と感じたことを歌いたかったということでした。

とりあえず稲穂架けはこの場面にあまり重要ではないようです。思い切って捨ててしまいましょう。また「飛び交う」と言えば一匹ではなく何匹か群れているわけですから「群れ」はいりません。字数によっては「群れ」を残して「飛び交う」の方を消してもいいでしょう。また「トンボ」として一字で「群れ」であることを表すこともできます。

「トンボが(主語)思い出作り(述語)」(←これが核)、「虹のトンネル」(←外したくない場面)「夏も終わり」で頑張ってまとめてみましょう。

トンボらは虹のトンネルに飛び交いて思い出作る夏の終りに

などとすれば少し分かりやすくなるかもしれません。まず場面を絞り、主語と述語をはっきり決めてみましょう。

 

15・点睛を入るるがに飛ぶ一機もて初冬の空は完璧な青(小幡)

画竜点睛(がりょうてんせい)の故事の如く、一機の飛行機を以て完成とする初冬の空の清々しい青色を思わせます。その景色に飛行機が入ることで「完璧」と捉える視点が個性的で、それを「点睛を入るるがに」とする表現が巧みです。

 

16・寒空に日毎ふくらむ無花果の遅れて来た実のいじらしくもあり(大塚)

もう寒くなってしまったのに遅く実った無花果の実が日ごとに膨らんでゆく様子がいじらしく思える。

見ている所(題材の切り取り)はとてもいいですね。ただ「いじらしくもあり」と作者の感情を概念的な言葉で言ってしまったのが惜しいです。

ここは作者の感想は抑えて抑えて、いじらしく思える具体的な描写を探しましょう。

小さく硬く、小さく丸く、まだまだ青く、瑞々青く、ほんのり赤く、淡きむらさき、など色々あると思います。

 

17・ケセラセラとセラヴィの語句に幾度か慰められて歩んで来たり(緒方)

ケセラセラ(なるようになる)、セラヴィ(これが人生さ、人生ってこんなものさ)という語句に幾度か慰められて人生を歩んできた、という歌で、意味は分かるのですが具体がないのでイメージを固められず「なんとなくふんわりいい色」という所で止まってしまいます。

日記系短歌というか、最近の若手歌人などには多いようですが具体がないと作者の納得で終ってしまい、「読者に追体験をさせることにより気付きを与え、その気付きにより読者も作者と同じ感動を味わう」ということができません。

読者に追体験をさせるにはやはり具体が必要だと思います。具体を描くことでその裏にある作者の思想を表す。とても難しい分野だと思います。

 

18・三度目も指紋認証失敗す 私ではない私になりぬ(金澤)

指が乾燥してくるとスマホ指紋認証がなかなか認識してくれず、確かに自分のスマホなのに自分で開けない、ということがよくありますね。

「私ではない私になりぬ」という表現がとても面白いと思います。

機械に認識されない持ち主(主人)であるはずの私。じゃあこの「私」は一体誰なんだ!という何とも言えない苛立ちや不安、皮肉めいた気持ちを客観的な視点で描いたとても現代的な歌に仕上がっています。

 

19・バスの中小春日和の陽を浴びてうつらうつらに首傾ぐなり(名田部)

暖かく平和な日常のワンシーンが具体的に想像できて共感できますね。天気が良い日の冬のバスや電車の中って本当に眠くなりますよね。

上の句はとても自然な感じに流れてきているのに、結句の「首傾ぐなり」という言い方だけが突然お堅いというか実験結果発表みたいな雰囲気になってしまうので「首が傾げる」「首の傾げり」などとして自然かつしっかり座らせて締めたいところです。

また「うつらうつら」でもいいのですが「うつらうつら」の方が自然な言い回しです。

 

20・少年の修学旅行のおみやげを無言で渡す気持ちを受けて(戸塚)

修学旅行に行くような年頃になると(男の子などは特に)照れくさくなるのかあまり喋ってくれなくなりますよね。それでもちゃんとお土産を買ってきてくれて、「……ん。」ってな感じで素っ気なく押し付けるように差し出していそうな場面を想像します。そんなお年頃の少年の照れくさいけどお土産を買ってきてくれた内面の優しさを分かっていて、その気持ちをありがたいと思って受け取る作者の優しさも見えます。

「少年の」は「少年が」「少年は」として主体であることをはっきりさせてしまいましょう。また「無言で渡す」で一字空け、「気持ちを受けぬ」「受ける」とした方がより「気持ち」を喜んで受け取った作者の心情が伝わるでしょう。

 

21・大輪の薄紫の花高く皇帝ダリアは異国の風格(川井)

皇帝と名の付くだけあり、高いものは5m近くも伸びる皇帝ダリア。高いところで大きな薄紫の花を咲かせている様子に異国の皇帝のような風格を感じているのだと思います。

「花高し」と言い切ってしまいましょう。

 

22・公園のカボチャの椅子にひと休み 釣瓶落としの夕日を眺む(畠山)

まだ日差しの暖かい時間に散歩に出たつもりが、公園の椅子に座ってちょっと一息ついている間にも、気付けばもう太陽は夕日となって西の空に沈みつつある。

実は実際に座った椅子はカボチャの椅子ではないのですが、以前別の場所でカボチャを模した椅子を見たことがあり「かわいいな」と印象に残っていたのと、丁度ハロウィンの時期であちこちにカボチャのオブジェがあったためそれと記憶が結びついたという裏があります(笑)

カボチャの椅子と秋の夕日で全体的にほっこり暖色系な秋の風景を読者の頭に描き出せれば、と思います。

 

23・しののめに包まれてゆく街の灯の清けき空を烏二羽行く(鳥澤)

夜明けのほわーっとうっすら明るくなってくる光に街の灯りが包まれてゆき、ひんやりとした空を烏が二羽連れ立って飛んでゆく。

分かるのですが、実は二つの場面を歌ってしまっているので打ち消し合ってしまっています。

東雲に包まれてゆく街の灯りの様子を核とするか、東雲の空を烏が飛んでゆく場面を核とするか決めましょう。

結句が烏なので烏を核とすると「街の」は意味を持ちすぎていて邪魔になります。「街の上」や「街ありて」として視線を変に集めないように流してみましょう。また空の様子を「清けき」と抽象的に言ってしまわず、具体的に(〇〇色とかまだ暗きとか仄暗いとか仄明きとか冷え冷えとしたとか)な描写で言えないか探してみましょう。

 

24・三重の網をめぐらす蜘蛛の巣は雌と離れて雄小さく生く(砂田)

三重の網をめぐらしているのだからなかなかに強者の雌なのでしょう(笑)。

蜘蛛に限らず人間以外の生き物の多く、特に昆虫や魚類など小さな生き物ほど雌の方が雄より体格が良く、強かったりしますね。

カマキリなどが有名ですが、蜘蛛も油断していると体の小さい雄は雌に食べられてしまうそうです。

雄の方が力も立場も強いこの国に生きつつ、雌の作った立派な巣の片隅で小さく生きる蜘蛛の雄を見る。色々な感情が湧きますね。

 

☆今月の好評歌は11番・鳥澤さんの

黄葉のメタセコイヤの先端をぐんと引き上ぐ空の青色

となりました。

黄色と青の色の対比、風景の切り取り方、「ぐんと引き上ぐ」という捉え方により大きな樹を実際に見上げているような迫力。とてもアーティスティックな作品ですね。

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