短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2023年3月 (その1)

◆歌会報 2023年3月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第130回(2023/03/17) 澪の会詠草(その1)

 

1・いつ聞くも胸熱くなり「花は咲く」漆黒の里時又流れ(山本)

「花は咲く」は東北大震災の復興支援ソングです。三月になると「はな~は、は~なは、はなはさく~♪」というサビのメロディがテレビ番組などでもちょいちょい流れたりするので、聴けば「あ、これか」となる人が多いのではないかと思います。

その「花は咲く」を聴くと震災時津波で全て流されて夜は漆黒になってしまった里を思い出すけれど、少しずつ復興がなされ時が流れていることを感じ胸が熱くなる、という歌ですね。

「聞く」と「聴く」。どちらも間違いではありませんが、耳に入って来る音全てに対し使える「聞く」に対し、音楽を聴く、虫の音を聴く、など意識的に聞く音に対して使う「聴く」という感じです。この場合特定の曲を意識的に聞いているので「聴く」の方が合っているのでは、という気もしますがどうでしょうか。もちろん「聞く」でも間違いではありません。

さて二句が「熱くなり」だと「熱くなり、~(熱くなって、~~する)」と続かないと不自然になってしまうので、「いつ聴いても胸が熱くなる『花は咲く』という曲」という意味ですからここは「熱くなる」だと思います。

また「漆黒の里又時」と助詞がなく漢字が続くとちょっと読みにくいですよね。「漆黒の里 に・へ・の」などの助詞が必要かと思います。その分「又」の方は取ってしまってもいいのではないでしょうか。また「流れ」だとこれまた文章が続く感じになってしまいますから、結句ですので終止形にして「漆黒の里へ時は流れる」や「漆黒の里の時は流るる」などとして落ち着かせたいところです。

 

2・ブロック塀を地震に備え解体し半世紀ぶりの景色表す(戸塚)

「半世紀ぶりに景色が現れた」という捉えどころが面白いですね。

ただ「解体し、表す」だと「作者が、解体し、表す」ということになります。作者が直接ブロック塀をハンマーなどで物理的に叩き壊して景色を拓いた場合なら作者が主語として前面に出ても面白いのですが、今回の場合は「ブロック塀を解体したら景色が現れた」という意味で主語は「景色」なのではないでしょうか。

その場合三句で一旦「解体す」として文章を切ってしまいましょう。「ブロック塀を地震に備え解体す。」これも主語は「作者」なのですが、あくまでも場面の説明内での主語でありそれほど前面には出てきません。「作者」が主語ではありますが、作者が物理的に叩き壊したわけではなく「壊すという意志決定をした」くらいの位置にとどまり、実際の解体は業者がやったと受け取れるでしょう。

そして上の句で「ブロック塀を地震に備え解体す。」と状況を端的に説明したところで、「半世紀ぶり景色(が)現る」と「景色」を主語にした文を置くことで明るさと広がりを持った「景色」が一気に主役になれますね。

また「表る」「現る」、どちらも「あらわる」ですが「表る」は「表示・表明・表面化」など結果や効果などが見やすいように表面に出てくる意味、「現る」は「出現」など見えなかったものが見えるように出てくる意味で使います。今回の場合は「出て来た!」という感じなので「現る」なのではないでしょうか。

 

3・横手の夜かまくら作りおもち焼き待つ客一番厚木の二人(小夜)

上の句までは盛沢山ではありますがまだ意味は分かりますね。横手で夜にかまくらを作りお餅を焼いた。これだけで既に情報盛沢山の一文です。

そこに「待つ客一番厚木の二人」。ちょっと分かりません。厚木の二人って誰のことなんでしょう。

聞いてみたところ、横手(秋田県)のかまくら祭りにかまくらを作って客を迎える側として参加した作者。その作者のかまくらに一番に来た客が(作者と同じ)厚木から来たという二人だった、ということに驚いて歌にしたかったということなのですが、さすがに長すぎます。

短歌で歌えるのは「一瞬」です。削いで削いで削ぎまくって最後に残ったどうしても削れない核だからこそ強く輝く文章のダイヤモンドのようなものです。

今のままではまだ「この中にダイヤモンドが含まれている気がする」と周辺の一角ごと切り出した状態で、原石のカタチも見えてきていません。まずは原石の範囲を明らかにしましょう。それが出来るのは作者だけなのです。

「横手の夜にかまくらを作った」「かまくらの中でお餅を焼いた」「なかなか来ない客をかまくらの中で待った」「自分のかまくらに客が来た」「かまくらに来た客が自分と同郷だった」。少なくともこれくらいには分けられる場面を一つで歌おうとするのは無理やりすぎます。それぞれの場面をしっかり見つめ、核を探し出してください。

 

4・МRI唾を飲んでもいけません不動の姿勢に十五分間(緒方)

MRI検査。ゴウンゴウンゴウン、ガーーーピーーーー!とか結構な音がする中で暗い筒状の機械でじっと横たわっていないといけないんですよね。更に作者は頸椎辺りを撮影するということで「唾を飲んでも(動いてしまうから)ダメ」と言われたようで十五分間固まっていた模様。

最新医療機器の中の作者という場面はとても現代的で面白いと思います。ただこのままだと状況はよく分かる、分かるんだけど作者の心の揺れまではもう一つ見えない、惜しい、という位置にいるような気がします。

「不動の姿勢に」あたりが変えられる表現なのかなぁと。「十分限りの石像となる」、とか「加工を待てる金属か我」、とか不動の姿勢を保つ自分を客観的に見る表現なんかが入ると面白いかもなぁ、とか、更に難しいので例も上手く出せませんけど「暗闇のなか秒を数える」とか「暗闇の中で固まっていなければならない状況や病状への不安感などの心のゆらぎ」が下の句で表せると、場面が良いので一気に面白い歌になるのではないかな、とい思います。

 

5・大寒の畑に陣取るホトケノザ光つかまえ茎を伸ばせり(鳥澤)

文法も無理なく自然で直すところはありません。場面がすっと思い描ける良い歌ですね。

「さぁ時がやってきた!」と言わんばかりに光に向かって成長してゆく春の野草の勢いが生き生きと伝わります。

「畑に陣取る」という言葉選びが面白いですね。これが「畑に広がる」では一般的でつまらないですもんね。

「光をつかまえ」という擬人化もよく観察した上で出て来た表現であり活きていると思います。

 

6・バンザイの手をママ パパにつながれて足を上げ下げニット帽揺れる(川井)

「バンザイ・ママ・パパ・ニット帽」とカタカナが四つも入ってしまうのが注意ですね。表記的にも長くなりすぎてしまいますし、カタカナは硬く味気ない印象で短歌にはやや不向きですので多用は避けたいものです。

とは言え「ニット帽」は名詞なので残すとしましょう。「毛糸の帽子」などとも言えるかもしれませんが、一般的に定着している名詞や雰囲気が大幅に変わってしまうものはそのままカタカナを残して、変えられそうな言葉は変えましょう。「バンザイ」は「万歳」でいいですね。

「ママ パパ」と一字空けを使っていますがここは字余りでも「ママとパパ」とすべきですし、ここもいっそのことカタカナを避けて「両親」でもいいのではないかと思います。「万歳の手」を両親に繋がれているのだから小さな子供の左右の手にそれぞれの親、という風景は自然に思い描けると思います。

またこのままでも場面は良く分かりますが「足を上げ下げする」と「ニット帽が揺れる」という二つの動きに視線が分かれてしまうので「足を上げ下げニット帽の児」などとしてニット帽の揺れの方は切ってしまってもいいのでは、という気がします。

 

7・耳の石あくびに動き目眩呼ぶ重力揺らぎてただ身をまかす(石井)

重力や体の方向を感知する耳石(じせき)が剥がれ落ち三半規管内で動いてしまうことで平衡感覚を失い目眩が起こるようです。

「重力揺らぎて」というのが少し説明的で大仰すぎるかなという気もします。

実際に重力が揺らぐ体験は宇宙にでも行かないとないと思うので、まるで重力が揺らいだように感じるという想像なんですよね。その「想像」がぴったり活きる場合もあるのですが、今回は「ぐらんぐらんとただ身をまかす」「回る景色にただ身をまかす」くらいの「まるで」ではない直接的な表現でいいのでは、という気がします。

また「耳石」という言葉があるので初句を「耳石なり」などとしてもいいのではという意見もありましたが、私としては「目眩にただ身をまかす」が核なのでそこまで「耳石」を強調しなくてもいいのでは、と思いますし、目眩についての歌で「耳の石」といえば「耳石」であることは明らかなのでこのままで良いのでは、と思っています。「耳石」という言葉を使うにしても「なり」などと強調してしまわずに「耳石ひとつ」「耳石あり」くらいの方がすっと読める気がします。

 

8・如月の大雪予報今夜から今日の日中はポカポカこくり(栗田)

今夜から大雪警報が出ているけれど、日中はまだ大雪なんて想像できないくらいのポカポカ陽気で思わずうたた寝してしまいそうな暖かさだ、という歌ではないかと思います。

ただこの並びで助詞もないと「今夜から今日の日中」とも繋がってしまい、そうなるととても不自然ですよね。

「今夜から大雪警報出ているも」という順番に変えるか、「如月大雪警報『今夜から』」として「今夜から」をニュースなどからの伝聞とすることで区切り、不自然な繋がり方を避けましょう。

また「今夜から」と言っているので「今日の日中」の「今日」は重複してしまい不要な情報です。「日中はまだ」「昼間の今は」「昼間のうちは」という方が自然ですね。

また「ポカポカこくり」というのも「ポカポカ陽気に思わずこくり」とかならば文章になると思いますが「ポカポカこくり」ではちょっと省きすぎですね。短歌は「削る」手法の作品作りではありますが、必要なものまで削ってしまってはいけません。

この場合削ぎ落とすべき部分は「ポカポカ」と「こくり」を無理なく繋げる文章ではなく、「こくりこくりとうたた寝してしまうほどの」ポカポカ陽気というポカポカ陽気を説明する部分そのものではないでしょうか。

「夜から大雪警報が出ているけれど昼はまだ暖かい」これが核ですよね。「大雪警報が出ているけれど昼はまだ眠い」ではないですよね。

「如月に大雪警報「今夜から」日中はまだぽかぽか温し」

「今夜から大雪警報出ているも昼間のうちはぽかぽか陽気」

などとするか、いっそのこと

「如月に大雪警報「今夜から」昼はこんなにポカポカなのに」

と普通に使う言葉で言ってしまった方が素直にすっと共感できる歌になるかもしれません。

 

9・何一つ先行き見えぬ一年に梅巡り咲き戦は続く(飯島)

そのまま頷ける歌ですね。文法も自然です。

コロナに重税、物価高、少子化、台湾危機等、何一つ明るい先行きが見えないままに一年が経ち、中でも悲惨なウクライナ戦争がまだ続いている。丁度ウクライナ侵攻が始まった頃に咲いていた梅がまた今年も咲いていることにより時の経過を噛みしめる作者。

人間がそうやって愚かな時を進める中、梅に体現された自然が淡々と同じ「時」を進めてゆく。こう、何と言うのか、切ないような物悲しいような、やるせないような、憤るような…様々な感情が湧き立ちますね。

一言では言い表せない感情を湧かせてくれるとても良い歌だと思います。

 

10・五箇月で六人ほどをメロメロに 男孫よゆっくり大きくなってね(金澤)

「六人ほど」は使いようによっては面白いと思うのですが、この歌では「男孫(おまご)よ」がその面白さ以上に気になってしまう感じがします。

「ゆっくり大きくなってね」がごく自然な口語であるのに「男孫」ってちょっと浮いちゃいますよね。作者も「うーん」と思いつつ悩んだのではないでしょうか。まだ「孫よ・赤子よ」の方が自然な気がします。

そこで「六人ほど」を「両親祖父母をメロメロに」としてしまえば「孫」であることは明らかになるので「男孫よ」を別の言葉に変えられますね。

「そのままゆっくり大きくなってね」「元気にゆっくり大きくなってね」等、「ゆっくり大きくなってね」という口語に無理なく繋がる言葉に変えてしまってはどうでしょう。

「六人ほど」はもう一首「六人ほどを次々にメロメロにしていく孫」という核で作ってみては、と思います。

 

11・水溜り太陽うまく収まりて鋭き光有難きかな(名田部)

水溜りに太陽がうまく収まっているという視点はとても良いですね。

ただ「うまく」とまとめてしまった部分と「有難い」と感想を言い切ってしまったのが惜しいところです。

どのように収まっていたから「うまく」収まっていると感じたのでしょうか。

ぴったり?まぁるく?すっぽり?隙間なく?あつらえたように?

もう一度その光景を思い出して観察し直し、具体的な視覚的情報を探してみてください。

そして「水溜りに太陽まるくぴったりと収まり鋭き光を放つ」などとして、「有難い」というような感想そのものを言ってしまわないようにしましょう。

読者は思い描いた光景から「眩しい、明るい、暖かくなってきたなぁ、嬉しいなぁ、有難いなぁ」などが少しずつ混じり合った感情を覚えても、作者が「有難い」と言ってしまったら他が全部消えてしまうのです。

感情を表す表現をそのまま使ってしまうのは絵で言うなら「原色だけで描いた絵」のようなものです。ポスターなどには目を引いていいかもしれませんが、良い絵というとやはり複雑な色使いあってこそですよね。淡い色合いだったり、重厚な色合いだったりは作者それぞれだとは思いますが、原色だけで良作といえる絵を描くのは逆に相当難しいと思います。

 

12・硬き芽に咲ききる力を潜ませて春の疾風に揺るるよ 桜(小幡)

「咲ききる力を潜ませて」という表現が良いですね。まだ硬い芽だけれど、その中に確かにある、自然のちから。言われてみればとてもしっくりくるのですが、なかなか出てこない表現だと思います。

文法も自然で言うことはありません。

 

13・キャンディの色鮮やかな広告の戦禍に煤けて一年が経つ(畠山)

9番でも歌っておられましたが、ウクライナ侵攻一年を経ての歌です。

去年のニュースで見た色鮮やかなお菓子の広告が、つい昨日まで当たり前にそこにあった日常の象徴のようで、そんな看板がある地が突然戦地になるということにとても衝撃を受けました。

同じものではないのかもしれませんが、今年のニュースではおそらく去年のあの日から張り替えることなく放置されているのであろう薄汚れた看板が写っていて、改めて平和な日常が突然戦地になる恐ろしさと、もう一年経つのかという何とも言えないやるせなさを感じました。

明日の命を心配せずに眠れる日が一日も早くウクライナに戻りますよう。

 

東日本大震災復興支援ソング 「花は咲く」

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