*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第117回(2021/10/15) 澪の会詠草(その1)
1・コロナ禍の街行く人のファッションは笑みしマスクのいつもカラフル(小夜)
コロナ禍にもそれなりに人通りの多い街に出てみたら、街を行く人々はそれぞれ白だけでなく色付きや柄付きのマスクなどをしてカラフルで、そのマスクの下には笑顔があるようだ、というような状況を歌ったのではないかと思います。
陰鬱になりがちなコロナ禍の中でも人々の明るく強い生活力を見つけた作者の見方が良いですね。
ただ「笑みし」という言葉の使い方がちょっとおかしいです。
「し」の使い方はいずれブログで取り上げようと思いますが、「笑みし〇〇」とした場合「笑った〇〇」という意味となり、今回の場合「笑ったマスク」という意味になります。更に「し」は「割と遠い昔に実際経験した過去の行動」を表すので「(昔私が)笑ったマスク」となるとちょっと意味が通りませんね。
コロナ禍に街行く人のファッションはカラフルなマスクの下に笑みあり。文法としてはこうなりますが「ファッションは笑みあり」と続くのでやはり少しおかしいですね。「ファッションは」という主語に「笑む」という動詞が繋がるのが問題です。
コロナ禍に街行く人の「ファッションは」これこれこういうマスクをしていて「カラフル」であるという、人々の「ファッション」が核なのか。コロナ禍にも街行く「人は」カラフルなマスクの下に「笑顔あり」という部分が核なのか。核を決めて、いらない方の説明を削りましょう。
また「コロナ・ファッション・マスク・カラフル」と4つもカタカナが出て来てしまうのは短歌としてはちょっと多すぎかなという印象です。
コロナとマスクは言い換えるのが難しいので、ファッションは服装や恰好、カラフルは華やか・賑やか・色とりどりなど別の言葉にならないかも検討してみましょう。
2・自粛中予定の無きにほっとする二年めの夏我穴の中(飯島)
長く続くコロナ対策のための自粛。この夏は感染力の強いデルタ株が流行り、入院できずに自宅で闘病したり亡くなったりする人のニュースもあり不安な状況でしたね。
そんな二年目のコロナ禍の夏、特に外出しなければならない予定が無いことにほっとする作者。それを巣穴の中に籠っているようだと感じているようです。
とても実感できますね。
ただ「我穴の中」は必要でしょうか?
ここは「麦茶をすする」「洗い物する」など予定のない日にほっとしながらした「ほっとしたことを感じさせるような日常の行動」を持ってきた方が活きると思います。
また「二年め」の表記は「二年目」と漢字にしましょう。
3・関東の海通り抜け台風一過落葉掃除に木犀の香り(戸塚)
関東の海を通り抜けていった台風一過の日(朝かな)、台風に落とされた落葉の掃除をしていたらふわりと木犀の甘い香りが漂って来たという歌ですね。
状況はとてもよく分かるし、読者も場面も再現できる良い歌なのですが、上の句で「歌の核ではないところを細かく説明しすぎている」感があります。
この歌の核は台風に落とされた「落葉の掃除をしていたら木犀の香りがした」ですから、「関東の海通り抜け」という「台風」の説明は不要ではないでしょうか。
「すっきりと台風一過の朝来たり」などとして「台風が過ぎた日の場面だよ」と核となる部分の説明を持ってきたいところですね。
4・物の名を忘れゆく今木瓜(ぼけ)の実のしっかり硬きが二つ生りたり(緒方)
自分の記憶力に不安を感じ、老いを実感している作者。そんな作者の目の前にある「しっかり」とした生命活動の証としてある「しっかり硬き二つの木瓜の実」という対称。
作者の不安感と変わらず続く生き生きとした生命活動との対比がとても面白い歌です。
ただし「木瓜」が「呆け」とかけてあると一気に理屈っぽさが出てしまい、却ってその「作者の老いへの不安」と「続く強い生命活動」との対比というとても良い「核」を邪魔して意味を薄めてしまいます。
実際は木瓜の実なのでしょうが、どうしても「物の名を忘れゆく」と「呆け」は連動して想起されてしまう部分もあります。他に硬い実を付けるけれど「ボケ」ではない植物に出来ないか考えてみるのもありかもですね。
5・大水の蛇行の果ての溜りには流れに戻れぬうろくずの影(小幡)
うろくず=魚。鱗のある生き物のこと。
大水が蛇行して流れた先の溜りに、本流に戻れずうごめく魚たちの影を見たという歌。
感情的な言葉は一つもないのに、何というか魚という小さな命の懸命さと本流に戻れない無力さに「もののあはれ」を感じます。
また「魚」と言ってしまわずにさりげなく出してくる「うろくず」という言葉の知識。使い方も絶妙ですね。
普段使わない難しい言葉を使う場合、場違いに使用してその言葉だけが浮いてしまったり、読者にも知識を求めすぎて何の事だか想像もできずに歌全体が意味不明になってしまう危険性が多々あるのですが、この「うろくず」はそのどちらもをクリアしています。さりげないながらに豊富な知識を現していて、流石だな~と唸ってしまいますね。
無駄な言葉が一つもなく、情景がしっかり再現でき、そこに「あはれ」を感じさせる。上級な作品です。
6・二回目の金木犀の香り立つ不順な気候をそのまま受けて(金澤)
今年の金木犀は一度目が開き始めた直後に台風が来て散ってしまったのですが、その後一度目よりも強い香りがするほどしっかりと二度咲きをした所が多く、ニュースにもなっていました。
そのため「あっ」と思った人も多かったのか、今回の歌会では金木犀の歌が結構ありました。
この作者もその一人のようです。そして金木犀の二度咲きが「昨今の天候不順によるもの」という知識があるようですが、ここでその「知識」をそのまま出してしまうのはどうでしょう。
「不順な気候」とはどういったものだったのか。「時期の外れた台風のあと」「神無月にも夏日の続く」など、二度咲きをした今年ならではの具体を入れた方がいいのではないでしょうか。
また「二回目の金木犀が」として主語を強めてもいいかもしれません。
7・現し世のくさぐさ耳に入れるなと百近き父の悲しみをみる(大塚)
百歳近い高齢の父が「もう現実の辛い情報など耳に入れてくれるな、聞きたくない」と作者に訴えたところに長く生きた人ならではの悲しみを感じた作者。深いですね。
実際はお父様の知人の訃報に対しての言葉だったということですが、「長く生きてしまったが故に多く経験しなければいけない親しき人の死」。計り知れない悲しさがあると感じます。
ただここで「悲しみをみる」と言ってしまっていいのでしょうか。「百近き父は」として「ぽつりと言えり」「泣くように言う」「語気を強める」など、どのように作者に訴えたかを現してはどうでしょう。
8・アイロンの熱にブルーのワイシャツの縦糸横糸整えられる(川井)
何気ない日常の一コマを淡々と述べたように見えますが、この作者ならではの丁寧な暮らしぶりと観察眼が現れた良い歌だと思います。
アイロンをかけることで整うのはブルーのワイシャツの縦糸横糸だけでなく、作者の生活リズムや色々と湧いて来る悩みや思考も整ってゆくのではないかと思えます。
また「アイロン・ブルー・ワイシャツ」と三つもカタカナが出てきますが、この歌に関してはどれも変えたくないカタカナという気がしますね。変えるなら「ブルー」なのでしょうが「青いワイシャツ」より「ブルーのワイシャツ」の方がなんかこう…しっくりきませんか?(笑)
9・折り紙で百合を折りゆき香はなくも嗅いてみるなりあるがごとくに(名田部)
折り紙で作った百合の花。香りなどしないことは分かっているが、まるで本当に香りがあるかのように思わず嗅いでみたという歌ですね。
百合を「折りゆき」と下に繋げずに「折りたり」と完了にして一度文を切ってしまい、歌の核である「嗅いでみる」に時系列を合わせましょう。
また「嗅いて」とはならず「嗅いで」です。「嗅いで」は「嗅ぐ」の連用形「嗅ぎ」がイ音便化した口語「嗅い」に接続助詞の「て」が濁音化して付いたものです。
接続助詞「て」は動詞の音便形「━い」「━ん」に付く時、濁音化して「で」となります。(例:「跨いで」「担いで」「遊んで」「畳んで」など)
文語だと音便化しないので「嗅ぎて」となります。
10・十五夜は眩しきまでに輝きて私の影を夜道に伸ばす(畠山)
今年の十五夜は8年ぶりに満月と重なり特に明るかったようですね。夜にも関わらず影が道に伸びるほど明るかったので驚いたのですが、歌として見ると上の句は満月の輝きっぷり、下の句は影に視点が移ってしまいどちらが核なのか読者は悩んでしまいますね。
「夜道なのに影!」というところに驚いたので、そちらが核となるよう少し考えてみたいと思います。
11・房をなしこりこり固き鬼胡桃元気なるものここにて 大暑(砂田)
大暑。夏の暑さが本格的となる頃。ヒトとしては最近の大暑は正直なところ生き辛いレベルの暑さで命の危険すら感じますね。
そんな時節に作者の目に入ったのは房をなしこりこりと硬い実を実らせた強い生命力を感じる鬼胡桃。
生物として弱って来たと感じる作者と植物の強い生命力の対比。
4番の木瓜の実の歌と通じるものを感じます。