*各評は歌会で講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。
第116回(2021/7/16) 澪の会詠草
1・短大時並んで追試受けし友「サラダ記念日」最優秀に(小夜)
若かりし短大生だった頃、並んで追試を受けた友達が俵万智さんの「サラダ記念日」を記念した短歌賞(おそらく30周年記念賞)で最優秀を取って驚いたという歌ですね。
あの人も短歌をやっていたの?という縁のようなものにも感動したのかもしれません。
ただ、このままでは友=「サラダ記念日」でかの年の短歌賞最優秀を取った俵万智さんとも取られかねません。
ここは字余りでも「サラダ記念日賞」と「賞」を入れるべきでしょう。
2・紙類が店頭から消える現象がコロナワクチン予約で再び(山口)
昨年緊急事態宣言が初めて出された頃、マスクは元より消毒用アルコールやらトイレットペーパーやらティッシュペーパーが買い占められ品不足になる現象がありました。
それと同じように今年はワクチン予約に人が殺到して電話が繋がらない。不安に急かされて人々が一つの物事に殺到する状況を皮肉を込めて歌ったものと思われます。
ただ、実際「紙類が店頭から消えた」のですがここは「マスクなど買い占められる現象が」にした方がより分かりやすいのでは、と思います。
また「紙類が」「現象が」と主語を表す助詞の「が」が二つも入ってはいけません。どちらかを言い換えましょう。
3・考えは堂々巡りでまとまらず明日を信じて雨音を聞く(金澤)
こういうこと、ありますよね。まとまらないのにそればかり考えてしまって寝付けない。不安が大きく暗い心理になりがちな状況ながら「明日を信じて」という作者の姿勢には前向きさが見られます。
この場合の雨音はただ聞こえて来る「聞く」ではなく、意識して聞く「聴く」を使った方が良いのでは。
4・長雨とコロナ自粛の我身にも黴が生えそな 見たき青空(飯島)
長雨と長く続くコロナ感染対策の自粛で私の体にも黴(かび)が生えそうよ。あぁ、青空が見たいわ。という歌でとても実感できますね。
我身にも黴が生えそうという表現が面白いです。
表記の問題として「生えそな」は無理やりすぎるので「生えそう」、「見たき青空」でなく「青空見たし」としましょう。
5・大山を雨降山とう暮らしあり見あげる峰の雲に従う(鳥澤)
大山のことを「雨降山(あふりやま)」とも言う暮らしがあり、毎日見上げる雲の様子に一喜一憂しつつも従って生きている、という歌。
ああー、雲が黒くなってきたから洗濯物取り込まなくちゃ、とか早めに買い物行かなくちゃ、とかいう状況ですね!厚木市民あるあるです。
ただこの表記では「峰の」の「の」を「が」という意味に捉えて「峰が雲に従っている」とも取れてしまう。
「雲の行方(様子)に従い生きる」など表現を変える必要があるかも。
6・海外へ行けぬと愚痴る友垣よ都へも御無沙汰吾が此の二年(緒方)
コロナのせいで全然海外へ行けないよ、と愚痴る友達に、海外どころかこちとらお隣の東京都にすら御無沙汰の二年だよ、とぼやいている作者が見えますね。このご時世に海外を出してくる大らかな気質を思わせる友達と地元で生真面目に自粛を続けている作者の関係性が垣間見える良い歌ですね。
7・コロナ禍にランタナの花愛らしく季節を巡りて大地に咲けり(栗田)
ランタナ (https://g.co/kgs/HK5o2Q)
コロナ禍でもランタナの花は明るく愛らしく土にしっかり根付いて咲いてくれて嬉しいという作者の気持ちが見えます。
実はこの作者、前回「霜枯れたランタナの木の根っ子から新芽出て来て花咲く予感」という歌を歌っていて、寒さで枯れてしまったと思っていたあのランタナが復活してとうとう咲いてくれたんだなと思うと更に喜びの実感が伝わりますね。
ただ「季節を巡りて」とすると復活したというより年中咲いているようにも取れてしまうので、ここは「夏を迎えて」とか「冬を乗り越え」等季節をはっきり出してしまった方がいいのでは。前作を考えると冬を乗り越えを強調してもいいかもしれませんが、歌の雰囲気としては明るく嬉しい雰囲気なので夏を迎えた方が合うかも。ここは作者の判断に任せましょう。
また初句「コロナ禍に」と結句「大地に」と「に」が被ってしまうので、初句の「に」を「も」に変えてみてはどうでしょうか。
8・早朝の庭に鶯ホーホケキョー清らかな声隣りにも飛んで(戸塚)
早朝の庭に鶯の透き通った声がやってきて喜んだのも束の間、すぐお隣の庭に飛んで行ってしまい一抹の寂しさを感じたという歌。
結句の「隣りにも飛んで」が少し物議をかもしました。私は鶯の声がお隣にもお裾分けのように飛んで行ってお隣の人もこの声に気付いて楽しんでいるかしら、というように取ったのですが、作者は一声だけ鳴いてすぐにお隣に行ってしまったことを少し残念、寂しいと感じたということで少し認識にズレがありました。
残念さを出すなら「隣に消えて」の方がいいのでは。また、「隣り」の送り仮名「り」は不要です。「隣り合う」など動詞として使われる場合のみ「り」が入ります。
9・宵闇の散歩右手に持つマスク人会うごとにかける早業(大塚)
コロナ禍あるあるですね。最近は暑くなってきたのでマスクをしていると歩くだけでも息苦しい。そこで人がいない道では外して歩き、人が来たと思ったらササッとマスクを装着。とてもよく分かる歌です。
「散歩右手に」と続けてしまうのはちょっと苦しい。ここは字余りでも「散歩の」と助詞が欲しい。「宵闇の散歩の右手にマスク持ち」とすると自然に読めるのでは。
10・下草に思ひの丈の背のびかな藪萱草は木洩れ日の中(小幡)
藪萱草(やぶかんぞう・別名ワスレグサ)(https://g.co/kgs/UFn6RF)
樹木の木洩れ日がきらきらと揺れる下草の中、藪萱草が思いの丈、精一杯の背伸びをしているようだという情景の歌。美しいですね。その場面が見えるようです。
思ひの丈の背伸びという藪萱草を擬人化した表現が利いています。樹木の下の陰になることが多い場所で少しでも光を浴びようと伸びている花を応援するような優しい視線を感じます。
初句を「くさむらに」と軽くして、説明的になる箇所を減らしてしまった方が「思ひの丈の背伸び」がぐっと重くなるのではという指摘も。「木洩れ日」があるので樹木の下草という情景は壊れないはず。
11・ゆく春を惜しむなかれよ冬去れば再びの春めぐり来るなり(名田部)
桜などが散ってしまうとどうしても名残惜しくなってしまいますね。それでも惜しんでばかりいないで、また春は巡ってくるよ、という歌ですが、ちょっとお説教というか訓示のようで作者個人の体験や観察からの感情を歌ったものではなく、ある意味誰でも作れてしまう歌になってしまっています。
作者が実際に見たり経験したものを言葉に変えて、読者に見せる努力をして下さい。
何を見て「春が行ってしまう」と感じたのか。そこを見せて欲しい。
12・下茎の葉をすつきりと刈り取られ太く真直(ますぐ)に向日葵が伸ぶ(畠山)
きちんと手入れされ、枯れた下葉をすっきりと取られた向日葵(ひまわり)が空へ向かって真っすぐに伸びている情景を歌ったもの。「太く真直ぐに」で夏の空に向かって力強く伸びる姿が想像できる。
四句と結句を入れ替えて「向日葵が伸ぶ太く真直ぐに」とすると結句の意味の方が強調されるので、向日葵の様子を歌の核とするなら入れ替えてみてはどうだろう。