短歌厚木水甕 澪の会

神奈川県厚木市の短歌会「澪の会」のブログです

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見をブログ管理人(畠山)が独自にまとめたものです。各歌の著作権は各作者にあり、ブログ内で例として挙げた歌で著者名を記していないものの著作権は私(畠山)にありますので、そのまま真似してどこかに投稿したりは絶対にしないでくださいね。尚、「こう直したらどうでしょう・こんな感じに歌ってみたらどうでしょう」として書いている歌はその歌の原作者様(各歌の()内の名前の方)に著作権があるものとします。

◆歌会報 2022年10月 (その2)

◆歌会報 2022年10月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第125回(2022/10/21) 澪の会詠草(その2)

 

14・頼朝の狩りのお伴に選ばれた弓の名手は郷土の宝(戸塚)

最初は「為朝?」と思ったのですが部下ではないしな…お伴に選ばれたって誰だろうなどと思っていたところ、厚木には「愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか)」という武将がいて弓の名手として語り継がれてきたようです。

そう言われてみれば愛甲公民館などには以前からバーン!と「愛甲三郎郷土の宝」と書かれた看板が掲げられていましたね。

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも弓の名手として名前が出たりしたようです。

さて、「弓の名手」と言ってしまうと私のように他の名前を思ってしまったり悩んだりする危険性があるのでここはもう「愛甲三郎」の名を出してしまいたいですね。

「頼朝の狩りのお伴に選ばれた愛甲三郎 郷土の宝」と一字空けることで体言止めと漢字が続いてしまう疲れを少し緩和しましょう。

また個人的には「郷土の宝」と言ってしまわずに「今も看板に」「公民館に」などと作者の生活に近付けた方が面白いのでは、と思うのですがいかがでしょう。

 

15・スカーフを羽織る肩ごし立秋の亡母(はは)に語らう三十一音(小夜)

「スカーフを羽織る肩ごし」までは具体的な描写なのにその後急に印象派のようになってしまい情景が固めきれなくなってしまいます。

一番の問題は「立秋」かな、と思います。「立秋の亡母」と言われて具体的なイメージが湧くかというとちょっと難しいですよね。これが「スカーフを羽織る肩ごし仏壇の(モノクロの)亡母語らう三十一音」とかならイメージはしやすくなると思います。最近では遺影もカラーになってきましたが「モノクロの亡母」と言えばそれが遺影であることは分かると思います。

また立秋に少し涼しくなってきたからとスカーフを羽織ったらそれが母から貰ったものだと思い出し…ということですが、それはそこだけで一首にするべきで、全部込々で三十一音に入れるのは厳しいと思います。

今回の題材なら

立秋に(涼しさを感じて)スカーフを羽織った

・母からの贈り物のスカーフを立秋に巻く

・亡き母に「最近私、短歌作ってるのよ」と語る

と三首くらい出来そうです。

言いたいこと(題材)がいっぱいあるのは良いことです。ただそれを一首にまとめようとせずに、区切って区切って何首も作ってみてください。また同じ題材で言葉や並びを変えつつ作ってみるのもぐっと力が付くと思います。

 

16・「塩ゆでがいづばん次はずんだだな」故郷の秋のえだまめ畑(小幡)

鍬とか携えた地元の農家の人が日に焼けた笑顔で語っているような情景がありありと浮かびますね。方言がとても効いていると思います。

「」を取ってしまって、下の句との間に一字空白を置いてもいいかもしれません。

他にいう事はありません(笑)。上手い歌だなぁと思います。

 

17・引き抜いた秋桜の花切り集め畑の片すみ雨水の桶に(鳥澤)

「引き抜いた」秋桜ですから雑草に近い扱いで、もう処分してしまうのでしょう。それでもそのまま枯らしてしまうには忍びないと花を切り集めて畑の隅の雨水の桶に入れてやる作者の花への感情が見えますね。

このうち何本かを持って帰る時の歌が一首目(4番)の秋桜の影がゆらゆらでしょうか。

「畑の片すみ雨水の桶に」は「畑のすみの雨水の桶に」として自然に繋げた方がいいと思います。

 

19・ゲノム革命より凄まじきメタバース死後も分身生き続くとぞ(緒方)

また難しい題材で来ましたね。肉体の死後もデジタル分身が生き続けるとは凄まじい生物学的革命だ、という意味だと思いますが、その「凄まじい革命」に対して湧いた作者の感情が今一つ伝わってきません。

肯定的なのでしょうか、否定的なのでしょうか。10番の名画を見ての歌と同じで、とある「気付き」に対する心の動きこそが歌にとって大切な部分だと思うのですが、「気付き」の説明で止まってしまって、肝心の作者の中に湧いた複雑な感情を描き出す余裕が三十一音の中に無くなってしまっているのではないかと思います。

誰もが知っているものだとその「説明」部分に取られる部分が最低限で済むため「描き方」の方に集中できるのですが、説明がないと分からないものに対してはどうしても説明にある程度取られてしまうため、三十一音という制限がある短歌ではとても難しい分野だと思います。

新しい素材を使うな、ということではなく、新しい素材を使うのは自らとても高いハードルを設置してから挑むようなもので、突っかからずに進むのはとても難しいよ、ということです。

因みにメタバースに死後も生き続く分身とありますが、死後も生き続く分身などの革命的イメージは「ムーンショット目標」の方が強いのですがどうなのでしょう。

メタバースはあくまでも仮想生活空間(新時代の生活空間)という概念で、「肉体・脳・時間の制限からの解放」という意味ならば「ムーンショット目標」の方がピンと来るのですが。

*「ムーンショット目標」詳しくは内閣府のHP(https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/target.html)にあるので興味のある人は覗いてみてください。「内閣府が!?」と驚く内容かもしれません。

 

20・中国に旅立つ息子に芋を蒸すただひたすらの無事を願いて(大塚)

これは難しい部分がなく、すっと情景を思い描けて、その情景から作者の息子を心配する気持ちを共感できますね。

日本国内でも日帰りで行けないような距離だと心配になるのに。ましてや海外。しかも共産圏で台湾問題などキナ臭い話題もある中国ですから親としてそれはそれは心配なことでしょう。

しかもこの作者は6番のご主人を亡くされたばかりなのにお一人様の旅案内が届いた作者です。

出来るなら止めたいくらい、でも仕事だしそうもいかない。何かあってもすぐには帰って来られないという寂しさ、そんな色々な感情が湧く中、芋という単純だけれどほっこり優しい印象の料理を息子のために作る。

とても良い歌だと思います。

「中国に」「息子に」と「に」が続くので「中国」は「中国」とした方が良いのではないでしょうか。

 

21・記念日にメール送りし返ありて1日だけどもそばにいたいと(山口)

記念日に癌闘病で入院中の妻にメールを送ったら一日だけでもそばにいたいと返事があった。

切ないですね。

この歌も場面の切り取りはとても良いと思います。ずっと連作で奥様の癌闘病を歌われていますから、この歌にはなくとも「癌で入院中の妻に送ったメール」ということは分かると思います。

問題は表記(というか日本語の使い方)で、「記念日にメール送れば返事あり一日だけもそばにいたいと」とすると自然な日本語になると思います。

「送りし」では「遠い昔に送った」という意味になってしまうし、続く名詞にかかるので「送りし返」となりもう意味が分からなくなってしまいます。

また「返あり」とは言いませんよね。「返事あり」が自然です。

また「1日」の表記はローマ数字ではなく漢字表記「一日」で。

「だけども」は「だけれども」のくだけた言い方(口語)で、「平日だけども休みが取れるってさ」というような使い方なら分かりますが、ここは「たった一日だけでもいいから」という意味ですよね。その場合「ども」では適切ではないので直しましょう。

 

21・相模川の河口近くは悠然と雨水すべて受け入れ流る(金澤)

雨水を受け入れてということなので、雨が続いた後の茶色い水が増水して、悠然というよりは濁々と流れているんじゃないかなぁ、などと思ったのですが、河口近くともなると川幅が広いので川面は意外と荒れずにゆったり悠然と見えるらしいです。

ただ「雨水すべて」がほんの少しだけ弱い気がしなくもありません。天気の良い時の河と一番違う感じはやはりあの山を削ったような水の様子にあるのではないでしょうか。

「雨も土も受け入れ流る」「山削る雨を受け入れ流る」など「雨水すべて」の様子がより詳細に分かるとより良くなりそうな気がします。

 

22・花選び迷いて居れば赤とんぼビオラの花に止まりて誘う(栗田)

園芸店の店先でしょうか。どの花にしようと迷っていたらまるで「これがオススメよ」と言わんばかりに赤とんぼがひとつのビオラの花に止まって誘った。

ほっこりしますね。季節感も出ていて良い歌だと思います。

字余りになってしまいますが三句の「赤とんぼ」に「が」の助詞が欲しいところです。

 

23・敬老日園より届きし男の孫の赤い手形にてのひら重ね(川井)

敬老の日に幼稚園からお孫さんの赤く押された手形が届き、自分の手を重ねることでその小ささを感じている作者だと思います。

「敬老日」というのが少し苦しいかなという気がします。「敬老に」とすれば敬老の日に届いたんだろうなと分かると思います。

また「届きし」は遠い昔に届いたことになってしまいます。昔のことを思い出している歌ではないので「届く」でいいのではないでしょうか。

また結句は「重ぬ」と終止形にしたいですね。

また「赤い手形」が具体的なようでいて作者の感情が乗っている情報ではない気がします。

赤さよりもその手形の小ささや指を広げた様子、しっかりなのか控え目なのか押され方から見えるお孫さんの気質など、作者の心が動いたであろう情報が見えてくると面白い歌になると思います。

 

24・喜寿迎えショートケーキにパフェを食べ生の喜び日々を繋げん(名田部)

元気ですね!健康が一番、何よりです。

喜寿(77歳)にしてショートケーキとパフェを食べるという具体が個別的で、元気な作者像が見え、とても良いと思います。

上の句がとても良いので下の句がやや惜しいかなと思います。上の句の鮮やかさを消さないように、下の句は「生の喜び確かめており」くらいで大人しめにまとめた方が活きると思います。「日々を繋げん」と言ってしまうと最後まで意気揚々!という感じで上の句の元気さが目立たなくなってしまうのですよね。メリハリつけて上の句を活かしましょう。

また「ショートケーキパフェ食べ」「ショートケーキパフェ食べ」として比べてみてください。どちらも間違いではありませんが、後者の方がより元気な感じがします。

 

25・朝の戸を開ければ子ぬか雨降りて秋冥菊は風情ましたり(飯島)

しっとりと降る小糠雨(子ではありません)に濡れて秋冥菊は風情を増したように見えたということですが、その「風情を増した」と感じた秋冥菊の様子を頑張って写生してみてください。

「しっとり俯く」とか「濡れて色濃く」とか。何故風情を増したと感じたのでしょうか。その答えは作者にしか分からないし、その目の付け所にこそ作者が出るはずです。そこを自分に問いつつ、探して言葉にしてみてください。

 

26・一通の負の相続の通知来て疎遠となりし叔父の死を知る(畠山)

いやー、びっくりしましたね。内容証明郵便とやらが届いて、読んで驚き。慌てて他の親戚と連絡を取ったり、ネットで相続放棄について調べたりしててんやわんやでした。

親戚とはいえすっかり疎遠だった上にこういう面倒事に巻き込まれると、人が亡くなったというのにしみじみしたりもしないもんだなぁ、なんだかなぁ、と少し複雑な気持ちになりました。

 

☆今月の好評歌は16番、小幡さんの

「塩ゆでがいづばん次はずんだだな」故郷の秋のえだまめ畑

となりました。

方言が生き生きと脳内で再生されますね。枝豆食べたくなりました(笑)。

by sozaijiten Image Book 10

 

◆歌会報 2022年10月 (その1)

◆歌会報 2022年10月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第125回(2022/10/21) 澪の会詠草(その1)

 

1・オルゴール骨董市に並びおり塗りも美し「六段」のメロディー(戸塚)

オルゴールが骨董市に並んでいた。箱の塗りも「六段」のメロディも美しい。

「六段」はお正月や和風を売りにしているお茶屋さんなどでよくかかっているお琴の曲ですね。

骨董市にオルゴールが並んでいたという意味ならば本来は字余りでも「オルゴールの(は)」と主語の助詞が必要です。

「オルゴール骨董市」と助詞がないままに続いてしまうとオルゴールだけを集めた「オルゴール骨董市」というものがあるのかな、とも取れてしまいます。ただ、それはそれで雰囲気があっていいかもですし、この歌の核はそこではないのでこの歌に関してはどちらでも(音数を優先して助詞を省いても、意味を優先して助詞を入れても)いいかなという気がします。

問題は「塗りも美し『六段』のメロディー」です。日本語としては「塗りも美しき『六段』のメロディ(伸ばし棒は要りません)」が自然でしょう。

歌の核は「塗りも音も美しかった」というところなので作者は「」を外せなかったのだと思いますが、「も」を入れると四句が八音になってしまい、更に結句が九音になってしまう。これでは多すぎると「美し」で止めたのだと思います。しかし「美し」は終止形なのでそこで止めてしまうと「並びおり。」で一度切れ「塗りも美し。」でまた切れてしまいます。

「並びおり。」「塗りも美し。」「六段のメロディ。」ではさすがにちょっと切れすぎかなぁと感じますよね。下の句は一つにしたいところ。結句の方の字数を少し減らして繋げたいですね。「塗りも美しき『六段』の音」として下の句を一つの文章にしてはどうでしょうか。

 

2・青々と若き稲田がいつの間に稲刈弾むトラクターの音(小夜)

青々と若かった稲田がいつの間にか稲刈の時期になって、トラクターの音がしている。

稲田の季節の移り変わりから時間の経過の速さに驚いている作者ですね。

日本語として「稲田ラクターの音」という繋がりが少し気になります。

「稲田にorのラクターの音」の方が自然ではないでしょうか。この場合の「の」は主格(=が、は)の「の」ではなく、連体格(現代語で一般的に使う「〇〇の〇〇(山頂上など)」)の「の」です。

また「いつの間にトラクターの音」という流れも少し気になります。「青々と若き稲田にいつからか(気が付けば)稲刈弾むトラクターの音」などの方が文章として自然ではないでしょうか。

 

3・あかあかと傾りをしむる曼珠沙華あさの散歩の背筋をのばす(小幡)

あかあかと傾斜を占める曼殊沙華を見て、朝の散歩の背筋をのばす。

とても綺麗な情景ですし、曼殊沙華を見て思わず自分の背筋を伸ばすという捉え方も素敵だと思いますが、個人的には「傾(なだ)りをしむる」で少し迷ってしまいました。

「傾り占むる」なのか「傾り惜しむる」なのか。漢字で「傾りを占むる」なら迷わなかったと思うのですが、結句が背筋をのばすだし、すっとまっすぐに立つ姿が印象的な花だから傾くことを惜しんでいるのかな、と。

また「あかあか」という曼殊沙華の情報と「背筋をのばす」が上手く結びつくのに最適な情報なのかな、とも少し思いました。

確かに一面を真っ赤に埋める光景も曼殊沙華ならではの印象的な場面ではありますが、「背筋をのばす」が結句のため色よりもまっすぐに伸びる様子の方がすっと繋がるような気がします。

色から「背筋をのばす」に結びつけるには「あかあか」という情報よりも色の在り方(鮮やかさ、強さ)を入れた方がいいのかな、と思います。

 

4・秋桜を摘みて家へと急く道のくっきり映る影のゆらゆら(鳥澤)

秋桜(コスモス)を摘んで家へと急いで帰る道にくっきりと映る影。そのコスモスの部分の影がゆらゆらと揺れている。

秋の夕暮の風景が詩的に描かれていて良い歌ですね。

秋の夕方はつるべ落としなんて言いますけど本当にみるみるうちに暗くなってしまうので、暗くならないうちに早く帰らなきゃってなりますよね。

そんな秋の短い夕暮時、摘み取った秋桜そのものではなく、くっきり長く伸びる影の花の部分がゆらゆらと揺れている部分に目を持ってきたのが上手いなぁと思います。

「急く道」の「の」が少し気になります。文法的には「道映る影」と繋がるのでちょっと不自然ですよね。「道映る影」だと思います。

いつも基本的にはちゃんと助詞を入れて下の句に繋げた方がいいと言っているので意識して繋げたのかな、と思いますが、例えば結句が「花の影のみゆらゆら揺るる」などちゃんと座った(終止形の)言葉だったりしたら助詞を入れて繋げた方が短歌らしい流れになると思いますが、今回の歌では結句が「ゆらゆら」でしっかり座っている結句ではないこともあり、「急ぐ道」として体言止めで一旦切ってしまってもいいかと思います。

 

5・我が生は天の配剤なりや否てんとう虫のプイと飛び去る(緒方)

自分の生というのは天がいい感じに配合した(意味のある)ものなのだろうかどうなのだろうか。そんな小難しいことを考えていたらてんとう虫がプイと飛び去った。

てんとう虫もひとつ命のあるものとして同じ世界に生きていながらただ「生きること」にまっすぐで、「この生に意味はあるのか」とかぐるぐる考える作者をバカにするように飛んでいったというような意味があるのだろうと思いますがちょっと三十一音では厳しい感じです。

「生の意味考え込める吾の横をてんとう虫がプイと飛び去る」くらいならまだ少し近付けるかなという気がしますが、どうしても上の句が説明的にならざるを得ず、直感的に心に入って来る良い歌にするのは難しい場面だと思います。

「命の意味は」とか頭で小難しく哲学するヒトと「生きる」というただただ命にまっすぐに向き合う生き物との比較という題材自体は決して悪くないのですが、それを「情景の描写ですっと心に入って来る場面」として捉え、更に三十一音の言葉にしてまとめるのはとても難しい作業だと思います。

私にはまだ出来ません(笑)。もし出来たらとても良い歌になると思うので是非ともチャレンジは続けて下さい。

 

6・もう来たの お一人様の旅案内ふっと笑ったポストを開けて(大塚)

実はこの作者はご主人を急に亡くされたばかりの方です。それを知った上で読むと「ふっと笑った」の裏にある複雑な感情が見えて来るのではないでしょうか。

まだ心の整理もつかない内に、どこから情報を得るのか「お一人様」向けの旅行案内が届いたのを見て何とも言えない気持ちになり笑うしかなかった作者。その笑いの中にはご主人の死を実感した寂しさや、それをむりやり再確認させられて無神経だなという怒りや、営業熱心ねという呆れや色んな感情があると思うのですがそれら全部が混じった複雑な感情が読者にも分かりますよね。

これぞ短歌の力だな、と思う部分です。この複雑な感情そのものを言える「たったひとつの単語」というものは無いのだろうと思います。それをしっかりと場面を構築することで読者にも同じ感情を分からせる。

例えば「ふっと笑った」ではなく「思わず呆れり」などだったらこうはいきません。「呆れる」という概念的な言葉では「営業熱心ね」という呆れた感情のみにスポットライトが当たってしまい他の寂しさや怒りなどは掻き消えてしまいます。「寂しい」「呆れる」「ムカつく」そういった言葉を使わずにそれらの複合した、複雑な、だけれども一番作者の感情に近いものを伝える。これが出来ると良い歌になるんだなぁと思いました。

ただどうしても「ご主人を亡くしたばかり」という情報がある前提で読んで辿り着ける感情なので、連作としてその旨が分かる歌を出して欲しいです。

また「ふっと笑った」が核なのでここを結句に置きたいですね。

また口語短歌は身近に感じやすいけれど軽くなりがちでもあります。ここでは「もう来たの」は効果的だと思いますが「笑った」の方は文語にして落ち着かせてもいいかな、という気もします。

「ポストを開けてふっと笑いぬ・笑えり」などとしてはどうでしょうか。

 

7・髪抜けて寝たきり多い妻だけど起きればしゃべり饒舌に(山口)

こちらは癌闘病を経て奥様を亡くされた作者の歌です。

歌っている場面の切り取りや感情的にならない事実の描写による構成はとてもいいですね。奥様の闘病の様子がしっかり再現されていて、それを見つめる作者の感情(これもまた一言では言い表せないもの)も伝わります。

問題は表記の部分で、「だけど」という口語は日常会話ではいいけれど短歌向きではありません。響き的にも濁音が多いですしね。

また結句が五音で字足らずなのでしっかり七音にまとめたいところ。

髪抜けて寝たきり多にして(なれど)起きればしゃべり饒舌になる

としてはどうでしょうか。

 

8・休日の電車はどこかのんびりと三人(みたり)の紳士本を広げる(金澤)

今の時代、大抵の人がスマホを見ているので、本を読む人が三人もいるというだけでのんびりした空気になりますね。

「どこかのんびり」が三人も本を読んでいるからなのか、他の理由で「どこかのんびり」した車内で三人が本を読んでいるのかで少し変わってしまう気もします。

「休日の電車は三人の紳士らが本開きつつのんびりとゆく」「三人の紳士がのんびり本開き休日電車は都心へ向かう」とかなら前者、「休日の電車は明るくのんびりよ三人の紳士本を開きぬ」とかなら後者な感じですよね。

また新聞ではないので本は広げるより「開く」方が自然かなぁという気も少しします。広げるでもそれほど気にはなりませんが。

作者が感じた「どこかのんびり」がどこから来ている感覚なのかを考えてみて、その上でもう一度まとめてみて下さい。

 

9・涼風に桜落ち葉の舞う道を検査結果を聞きに行く朝(栗田)

検査結果を聞きに行くというのですから作者の心には不安感があり、それを桜落葉が印象付けているのではないかと思います。

ですから「桜落葉が舞う」と言ってしまうのではなく、不安を感じさせるような落葉の様子が描かれると良い歌になると思います。落葉の描写のためには「桜」落葉であることを省いてもいいかもしれませんが、「桜」の落葉であるからこそ浮かぶ印象もあるのでどちらを採用するか考えてみましょう。

また「涼風」だと不安というよりは涼しげで爽やかなイメージの方が強いかと思うので、風を出すなら「秋風」の方がいいかな、と思います。

「秋の朝検査結果へ向かう道かさりかさりと桜葉回る」などとして落葉の描写を下の句に持ってきてもいいかもしれませんね。

 

10・名画なる〈落ち穂拾い〉の農婦らの夕日に浮き立つ白いブラウス(川井)

改めて『落穂拾い(送り仮名「ち」は不要)』を見たところ、農婦のブラウスの白さに驚いたということですが、そこに気付いてからの作者の感情が今一つ伝わらない感じです。

農婦らが貧しいながらも身ぎれいにしようと努力していたという部分に感動したのなら「名画なる」という情報は要らない(『落穂拾い』と言えば大抵の人にはミレーのあの絵が思い浮かぶはず)ので、浅黒き、日焼けした、粗末なる、着古した、などブラウスの白さに感動する理由が入った方がいいのかな、と思います。

ただこの歌の問題点はもっと根本的なもので、「絵画作品を見ての感想」である時点です。

美術作品や映画、テレビ番組、ニュースなど、既に「他人に見せることを前提として作られたもの」を見ての歌はどうしても二次作品というか「感想文」になってしまい、作者の実体験による複雑な心の動きにはなかなか迫れないので注意が必要です。

 

11・親鴨は六羽の子鴨引き連れて先に飛び込み次々続く(名田部)

情景はよく分かりますね。最近この作者は「対象をしっかり観察し描写する」ということがちゃんと出来るようになってきた歌が増えたと思います。素晴らしい進歩です。この調子です。

ちゃんと情景を描写してくれると「かわいいわね、賑やかね、元気ね、お母さん鴨がんばれ、ほのぼのするわね」という様々な感情を読者は抱くことができます。これが例えば「元気に」とかでまとめられてしまうとその他の感情は消えてしまうんですよね。でも人間の感情って一つだけでくっきり表れることの方が少ないじゃないですか。その色々と複合された「一言では言い表せない複合的な感情」を再現するのに必要なのが「具体的な描写」なのです。

さて、具体的な描写が出来るようになってきたので次はちょっとした文法などですね。

このままでは「親鴨は」という主語が「引き連れて、飛び込み、続く」という動詞全てにかかってしまいます。「引き連れて、飛び込み」までは親鴨の行動ですが、「次々続く」のは子鴨ですよね。

「親鴨六羽の子鴨引き連れて先に飛び込めば子鴨も続く」などとして「親鴨は━続く」と文法的に繋がるのを避けるようにしましょう。

 

12・子パンダを抱いての写真は千円也二十年前の中国の思い出(飯島)

子パンダを抱けるとか写真を撮るのに一枚千円といった題材が具体的で「中国らしいなぁ」と思わず笑ってしまう良い歌ですね。

日本では並んでも檻の中にいるパンダをちらっと眺めるだけ、運が悪ければ物陰や隅っこにいてよく見えないなんてこともあるのに、かわいい盛りの子パンダを抱けるなんてさすが中国。

そしてその記念撮影に一枚千円(しかも翌年から一気に倍の二千円になったそう)とかきっちり商売しているところもさすが中国、という感じがします。

作者は久々にその写真を見返して思い出し、「中国の思い出」としたのかと思いますが、ここが少し惜しいかな、という気がします。「思い出」とか「懐かし」などは「記憶上の存在」ですからやや弱くふわふわしています。

でもこの写真の中には「子パンダ抱っこ・一枚千円」という凝縮された「二十年前の中国」そのものが入っているので「二十年前の中国の在り」「二十年前の中国写る」などとして「事実(二十年前の中国)」としてドンと確定してしまった方が面白いのでは、と思います。

 

13・文化祭の計画ぽんぽん交しつつ女子高生らの自転車駆ける(畠山)

「若さ」という名の風が駆け抜けていった…そんな瞬間でした(笑)。

(多分文化祭の)布の買い出しについて店やら時間やら話しながら駆け抜けて行った女子高生。コロナのせいでこの二年は中止になった所なんかもあったと聞きます。今年は無事開催されるようで良かったですね。

会話を交わしているということは複数なので「女子高生ら」の「ら」は要らないのでは、と。確かに。字余りですしね。

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◆歌会報 2022年9月 (その2)

◆歌会報 2022年9月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第124回(2022/9/16) 澪の会詠草(その2)

 

13・夕暮れに風鈴の音のどこからか今日は丑の日うな重あける(小夜)

夏の風情ある生活を楽しむ姿が見える良い歌ですね。1番の蝉の歌もそうでしたが、場面がぐっと絞れてきていて、表現も具体的なものが増え季節感が鮮やかに見えるようになってきました。この調子です!

「どこからか」という語句で読者の意識が「どこから」と探す方に行ってしまいせっかくの「うな重」の場面を弱くしてしまうので、「夕暮れに風鈴の音響きつつ」や「夕暮れに幽かに響く風鈴よ」などとして読者の意識が風鈴の音の出所を探しに行かないまま「うな重」をあける場面に向くようにすると更に良い歌になる気がします。

 

14・初物の栗を頂き舌つづみ猛暑の後に命永らえ(栗田)

初物の栗を人に頂いて美味しく頂き、それで猛暑のあとに命を永らえた。

「初物の栗」という具体的な題材がとてもいいので、それを更に鮮やかに描写したいところです。

「命永らえた」と言っているので、それは「舌つづみ=美味しく食べた」からこそということは分かるので、そこを具体的な情報に変えたいですね。また「人に頂いた」ということは核ではないので省いてもいいかもしれません。

「初物のつやづや丸き栗貰い」や「初物の栗の渋皮煮ほっくりと」など栗についての描写を増やしてみましょう。

また「猛暑の後」「猛暑の後」も少しイメージが変わるので考えてみて下さい。結句は「命永らう」と終止形にして座らせましょう。

 

15・観劇前オープンテラスに娘と二人ワクワク感はさらに高まる(金澤)

作者はワクワクしたのねぇ、ということは分かるのですが、それ以上作者のワクワクそのものに寄れません。

コロナ禍で久々の娘さんとのお出かけだからワクワクしたのでしょうか、コロナ禍で延期していた作品がやっと観れるようになったというワクワクでしょうか、好きな役者さんが出るからワクワクしたのでしょうか、オープンテラスがお洒落でワクワクしたのでしょうか。

そこを絞って読者に情報を投げて欲しいところです。

 

16・密かにも何かいいこと有りそうで白露の朝の目覚め早かり(緒方)

白露(はくろ)=二十四気の一つ。秋分の十五日前、陽暦九月八日ごろで、このころから秋気が進んで露を結ぶとされる。

白露の頃になると朝晩はすっと涼しくなってきて秋を感じるようになりますね。

猛暑ですっかり疲れた後のその涼やかな秋の気配に「密かに何かいいことがありそう」と感じたのでしょうか。朝の目覚めも早かった。

「何かいいことありそう」をその涼やかになってきた朝の風や光の描写などだけで表現できれば最高なのですが、とりあえずこの歌としては白露の朝の具体的な描写がもう少し欲しいところですね。

また「有りそう」とすると「いいことが有りそうなので〇〇した」と意志を持った行動が来るべきかと思います。

それよりも「いいことが有りそう」として白露の朝の具体的な描写を入れた方が良いのでは、と思います。

「白露の朝に薄く月あり」「白露の朝の風ひんやりと」「白露の朝は白々と空」など白露の朝にイイ感じの描写を考えて見てください。

 

17・盆踊り終えて朝の広場には提灯小旗余韻残せし(名田部)

盆踊りを終えた翌朝の広場には提灯や小旗などが昨夜のお祭りの余韻を残している。

賑やかでキラキラしていたお祭りの会場も翌朝見ると楽しい時間が終わってしまった寂しさのような、いつもの生活がまた始まったという安堵のような何とも言えない雰囲気を出していますよね。

歌の場面の切り取りはとても良いと思います。

その「何とも言えないような」気持ちを「余韻」と一言で言ってしまったのが少し惜しいですね。

盆踊りの翌朝の情景を淡々と描くことで読者にその「余韻」を感じさせて欲しいです。

「盆踊り終え朝の広場には」として「褪せた提灯小旗の揺るる」「提灯小旗のぶらりと下がる」などと情景の描写のみでまとめてみてください。

 

18・黄金は手にせぬままに齢古りてジパング倶楽部をけふ退会す(小幡)

ジパング倶楽部とはJR東日本の割引特典のある年配者向け会員制クラブ。マルコポーロの「東方見聞録」に因んで、とのことです。

三割もお得になるということで、作者の実家のある東北へ帰省する時などによく利用していたそう。それがコロナにより中々帰省もできなくなり、また年齢的にもあちこち旅行するには体力が…ということなど色々と考えた結果退会を決めたということ。

ただサービスをあんまり使わないから辞めるという訳ではなく、“もうそんなに遠くまで出かけられないわ”と旅行というある程度元気がなければできないような行動からの引退を決意したという部分がポイントだと思います。

ただ注釈がなければ「ジパング倶楽部」というものが分からず、またそれが鉄道のサービスだと分からなければ「遠出の諦め」という核が伝わらなくなってしまうので、長くなっても「JR」は外せないのでは、と思います。

「黄金は手にせぬままに」は具体的な描写ではなく、また意味的にもほとんど利用しなかったから退会したのかしら、とも取れてしまうので、ここを削って「〇歳の誕生日過ぎJR~(年齢のせいで)」とか「三年も帰省せぬままJR~(コロナのせいで)」とか退会を決めた理由を詰めてその分「JR」を入れて「ジパング倶楽部」というのが鉄道サービスなんだなと注釈なしで分かるようにした方がいいのではと思います。

 

19・抗癌剤飲み込み後の苦しさに食事もせずに寝りこむ妻は(山口)

抗癌剤は癌細胞を叩くために健康な細胞も叩いてしまうのでとても体に負担がかかりつらいようですね。

抗癌剤を飲んだあとのつらさに食事もしないで眠り込んでしまった妻。

この歌も感情を抑えて事実で描写しているところは良いので、あとは表記の問題ですね。

「飲み込み後の」は「飲みたる後の」、「寝(ね)りこむ」とは言わないので「眠(ねむ)りこむ」、「妻は」の「は」は切って「眠りこむ妻」と体言止めにして音数を合わせましょう。

 

20・湯気昇る麺を一気に冷水へ冷やし中華へ無慈悲な行い(川井)

何でもないような家事一コマの捉え方が非常にユニークですね。「無慈悲な行い」で思わずぷっと吹き出してしまいます。

人間は5℃も変われば暑いだの寒いだのずいぶんと違うのに、熱々の熱湯から冷水へと一気に環境を変えられるとか、冷やし中華にしてみたらなんて無慈悲な行いかしらと麺の立場になって考えてみる作者の感覚が個性的で光りますね。

結句だけに「行い」だと一字字余りになってしまうのが惜しいといえば惜しいですね。作者もそこは悩んだらしく「仕打ち」「行為」等入れてみたけれど「無慈悲」が強い言葉だから強すぎて短歌的でなくなってしまうのではと考えた結果「行い」にしたそうです。

読んでみた感じも「行い」のままでもそんなに読みづらくなく字余り感もないのでいいかな、とも思いますが、「仕打ち・行為」も(やや短歌的ではないですが)この歌に関しては面白味が増していいかな、と思います。

無意識の字余りではなく考えた結果の選択なので、最終的には作者の好みで選んで正解だと思います。

 

21・羊雲稲穂みのりて川べりは大気さやかに秋へすり足(飯島)

川べりを行く作者を包む景色から秋の気配を感じている歌ですが、様々なものから秋の気配を感じている分焦点が絞れていない感じがします。

羊雲・稲穂・川べり・大気(風)と視点が動きまくってしまい、なかなか具体的な場面が思い描けません。稲穂なのに作者がいるのは畦道とかじゃなくて川べりなの?という疑問もわいてしまいます。

どれもがざっと色塗りをしたような状態で、近付いてよく見るとデッサンが甘い絵のようになっています。

色々なものから季節を感じるのは分かりますが、何せ三十一音しかないのでなるべく一首には一つの主役に絞って、その分歌の数を増やしてください。

それぞれをよく見れば「羊雲」「稲穂」「川べりの風」で三首作れると思います。高くなった空にぽっかり浮かぶ羊雲、粒がふくらんだ(または少しずつ色付いてきた)稲穂、袖口を抜ける涼やかな川べりの風など一つ一つに寄って観察すれば出て来る描写があると思います。

また秋へ少しずつ近付いて行くことを「秋へすり足」と表現していますが、それぞれの主役の状態を具体的に描ければ「秋が近付く」「少しずつ秋」などと何でもない表現の方が活きてくると思います。

 

22・眠れない夜に鳴き出した蝉たちにお前もそうかと床に静もる(鳥澤)

意外と深夜にも蝉って鳴いたりするんですよね。貴重な最期の時間だものなぁ、頑張ってるなぁ、と思ったりします。

眠れない夜に鳴きだした蝉に「お前もそうか(眠れないのか)」と自分を重ねている作者。

「お前そうか」ということは作者も眠れない、寝付けないわけですから「床に静まって」しまうのは少し違和感がありますね。

「寝返りを打つ」「床に息吐く」など寝付けない様子を描いた方がしっくりくると思います。

 

23・枡掛けの手を握りしめ生きた頃娘(こ)と手をつなぎ夢を実現(戸塚)

枡掛けの手とは手相における「ますかけ線」を持つ手ということだと思います。ますかけ線は感情線と知能線が繋がって一本の線になっている手相で強運の相とされています。

上の句ではそんな強運とされる線を持ちながらもそれを握り締めて(苦労して)生きてきたのかな、と思わせますが、「生きた頃」の話かと思えば下の句でいきなり娘と夢を実現と話が飛び、実現した夢も何なのか全く見えてこないためよく分からない歌になってしまっています。

「生きた頃」と「夢を実現」が特に話を曖昧にしてしまっています。

枡掛けで強運なんて言われる手相だけれどこんな(具体的に)苦労をして生きた時代もあった、という部分でまとめるか、枡掛けの強運を信じて娘と手を繋ぎ(二人で)こんな(具体的に)夢を叶えた、という部分でまとめるかに決めた方が良さそうです。

 

24・落ち蟬は祈るごと手をしかと組み空仰ぎつつ命終へをり(畠山)

夏も終り頃になると力尽きて落ちている蝉がいますよね。もう死んでいるのかな、と箒でつついてみたりすると案外「ヂッ!」とか鳴いてびっくりしたりすることも。因みに完全にお亡くなりになっている蝉は脚がきゅっと閉じているようです。

私が見かけた落ち蝉も完全に仰向けできゅっと脚を閉じていました。その様子に「一つの命を生ききった」切なさとある種清々しさのようなものを感じました。

ヒトが死んだ時に胸で手を組ませるかのようにきゅっと脚を閉じているのが印象的で「祈るごと手をしかと組み」としたのですが「祈るごと」という比喩があるので「しかと」が少しくどいと感じるようです。

また「空仰ぎつつ」の「つつ」がやや説明過剰なので「空を仰ぎて」と状況の描写を淡々とした方が良いのではということでした。

 

☆今月の好評歌は5番、名田部さんの歌を少しだけ直して

朝早く通りすがりの家の前幽かに匂う線香の香よ

となりました。朝からきちんと仏様に線香を上げる民家の信心にふと触れた一瞬が見えてきて良い歌ですね。

個人的には「余韻」の部分を何とかすれば盆踊りの翌朝の歌はこの歌より更に詩情がありよくなるのでは、と思うのでそちらも期待です。

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◆歌会報 2022年9月 (その1)

◆歌会報 2022年9月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第124回(2022/9/16) 澪の会詠草(その1)

 

1・あぶら蝉Tシャツゆれる竿止まり夏本番を告げに来たとて(小夜)

あぶら蝉が夏本番を告げに来たといってTシャツが揺れる物干し竿に止まった。

揺れる洗い立てのTシャツやあぶら蝉など、あざやかな夏の光景がパッと見えてくる題材で良い歌ですね。

気になるのは「竿止まり」と助詞がなく続いてしまうところと、「来たとて」の「とて」ですね。

字余りでも「竿止まり」「竿止まり」と助詞が入らないとこのままの文法では「竿止まった」ということになってしまいます。

または「Tシャツ」から始めて、「Tシャツの揺れる物干しへ蝉止まり夏本番を~」としても良いかもしれません。

また結句の「とて」は「といって・として」という説明の意味なので、「蝉が夏を告げにきたといって竿に止まった」と述語(止まる)よりも本来は先に来るべき文章です。もしどうしても「とて」を使いたければ「竿へ止まる」と終止形にした上で「~とて(夏本番を告げに来たとして)」と倒置法にしないと上手く文章が座りません。

それよりも「竿に止まり夏本番を告げに来ており」と上からすっと繋がる文にしてしまった方が自然ではないでしょうか。

「竿へ止まる夏本番を告げに来たかな」と一旦終止形で切った上で推量の文を続けてもいいかもしれません。

 

2・売り出し地買われて後は駐車場に酷暑の中の草抜く人よ(栗田)

売り出し地が買われたあとには駐車場になり、酷暑の中に草を抜く人がいる。

細かい説明がされているので状況はとてもよく分かります。ただ、状況は分かるのですが、その状況に対する作者の心情がちょっと分かりません。

作者は暑い中で草を抜く人に対しどんな感情を抱いたのでしょうか。

ずっと「売り出し中」だった土地が買われて駐車場になったことに対し何か感情を抱いているのでしょうか。それは良い感情でしょうか、悪い感情でしょうか。

この歌では「状況の説明」だけで終ってしまっているので、不要な情報は消して、「その状況に対して作者に湧いた感情」がもう少し見えてくるといいな、と思います。

「売り出し地買われて後は駐車場」という「駐車場」に対する説明はここまで必要でしょうか?

なかなか売れなかった土地が売れたと思ったら駐車場になった(残念?安堵?)という一首と、駐車場を新しく買った人が暑い中マメに草を抜きに来る(マメな管理人に買われて少し安堵するような気持ち?)という一首で分けて作った方がよいかと思います。

「新しき駐車場のオーナーは酷暑の中に今日も草抜く」などと「駐車場」への説明を削って「今日も・また・まめに」といった情報を入れてやると作者の感情が少し見えてくるかもしれません。

 

3・人住まぬ実家の庭の鳥たちはけたたましく鳴き我を威嚇す(金澤)

(ご両親が亡くなられて)人が住まなくなった実家。すっかりその庭の主となった鳥たちはけたたましく鳴いて私を威嚇する。

野生の逞しさというか、人が住まなくなった家という哀しさと自然の鳥たちのしたたかさの対比という着眼点がとても面白い良い歌だと思います。

「鳥たち」が具体的に見えてくると読者の映像が更にクリアになって生き生きと場面が再現できるのではないでしょうか。

赤い鳥だということですが、コマドリもしくはアカショウビンあたりでしょうか。コマドリなら字数もそのままでぴったりはまるし、躰が小さい割に声が大きくよく鳴くイメージがあり知名度も高いので(実際はアカショウビンでも)コマドリにしてしまってはどうでしょうか(笑)。

 

4・炎熱にうんざり樫の木その向こう蒼き十六夜のっそり登る(緒方)

炎熱にうんざりした樫の木の向うに蒼い十六夜(いざよい)がのっそり登る。

あまりの酷暑に樫の木もすっかり参っている様子。その向こうに蒼い十六夜がのっそりと登る頃になってようやくほっと落ち着いた作者(と樫の木)。

下の句「蒼き十六夜のっそり登る」がいいですね。登るは昇るでもいいかもしれません。「登る・昇る・上る」いずれも間違いではありませんが、「登る」は階段や木など足がかりがある高さをのぼる、「昇る」は天体や煙・気持ちなどが空中(足がかりのない空間)の上の方へのぼる、「上る」は階段・坂・電車(上り線)・話題・上流など幅広く使えてとにかく「上の位置へ」のぼる時に使うことが一般的です。

上の句の「うんざり」が少し惜しい感じです。「うんざり」には作者の概念的な主観が含まれますね。それよりもただ「見た状態の描写」で読者にも同じ光景を脳内で再現させてあげる方が良い歌になります。

作者も「うだる・ぐったり・へたる」など考えたそうですがうんざりより断然そちらの方が良いと思います。

また字余りでも「樫の木」と助詞が欲しいですね。

 

5・朝散歩通りすがりの家の前幽かに匂う線香の香よ(名田部)

朝の散歩の時に通りすがる家の前へ幽かにお線香の香が漂って来た。

朝からきちんと仏様にお線香を上げる敬虔な信仰心を持つ人の生活が垣間見える良い歌ですね。

敬虔とか信仰篤くとか亡くなった人をどうこうとかそういうことは言わないで「幽かに匂う線香の香」という具体的な描写に落ち着かせたのが良いと思います。

ただ「朝散歩」はいけません。「◆情報を削り歌の核を見つける」や「◆助詞でこんなに変わるの!?その1」の項でも触れましたが俳句ではないので「朝散歩」「朝散歩」など助詞が必要です。

また「散歩」と「通りすがり」は意味が被ります。状況の説明過多になります。この歌で重要なのは「朝」「通った家から」「線香の香」でこの3つの情報は削れないものだと思います。

「通りすがった」ということで歩いている状況は分かるし、一番重要なのは「散歩した」ことではなく「線香の香がした」ことなのですから、「線香の香がした」以外の説明は悪目立ちしてはいけません。

ですから「散歩」という情報はこの歌にはそれほど重要ではないのでサクッと削ってしまって「朝早く通りすがりの~」としてしまいましょう。それだけでぐっと良い歌になると思います。捨てる勇気、大事ですよ。

 

6・すつきりと散髪終へたる男(を)の孫のうなじ撫でゆく秋の風はも(小幡)

すっきりと散髪を終えた男の子のお孫さんのうなじを撫でてゆくのはもう秋の風だなあ。

上の句の具体が良いですね。「すっきりと散髪を終えた男の孫」で何一つ迷わずに場面を思い描くことができます。

孫やペットのことを歌にしようとすると親ばかならではの「かわいい」や「愛おしい」感情が溢れてしまって主観的になってしまう危険性が高いのですが(笑)、この方の歌はお孫さんを詠んでも主観的にならず客観的な描写でしっかりと読者に場面を再構築させてくれます。そこから読者も作者からの押し付けでない「かわいいな」「愛おしいわね」という感情が自然と湧くのですよね。上手いなぁ、と思います。以前の、頂戴と言ったら目に涙を溜めて渡してくれる歌なんて最高にかわいいですよね。

上の句はもう文句なしなのですが、結句の「はも」という詠嘆が効果的なのかどうか。

まず「~だなあ」というような詠嘆なので「撫でゆく→はも」ではなく「撫でるは」ではないかと。また古語としての言い回しで一般的には使わない語句であることを考えると、あまり慣れない感じの語句を入れて読者を引き離さずに「うなじを撫でて秋の風ゆく」と誰でも自然に分かる文章にしてしまった方が良いのではと思います。上の句でこれだけ読者を引き付けたのですからそこで突き放してしまっては勿体ないですよね。

 

7・癌数字少しだけどよくなったと抗癌剤の治療始まる(山口)

癌の検査の腫瘍マーカーの数値が少しだけど良くなったということで抗癌剤の治療が始まった。

先月に続き、癌で亡くなられた奥様の癌との闘病を歌っていられます。

厳しい内容ですが感情的にならず淡々と状況を歌っている目線はとても良いですね。

ただ「癌数字」が問題です。「朝散歩」と同じで五音に抑えようと無理矢理語句を縮めてしまってはいけません。「抗癌剤の治療」とあることで癌に対するものだなということは分かるので「マーカー値」としてしまってはどうでしょう。

また「少しだけど」という言い方は口語(話し言葉)です。会話では普通に省略して使っていますが「」に入れて敢えて会話として使う場合を除き「だけど」という省略された部分をきちんと補って使いましょう。

 

8・背を伸ばす夏草茂り青青と河川敷への陽をはね返す(川井)

高く背を伸ばす夏草が茂り、青々と河川敷への陽光をはね返している。

きらきらと輝くような河川敷の様子が目に浮かびますね。

「背を伸ばす」と「茂り」と動きを表す語句が「夏草」という一つの語句に続いているので「背を伸ばす夏草の群」として動詞を一つに抑えてしまいましょう。

また夏草・青青・河川敷・陽と四角く硬い感じの漢字が続くので「青青」はひらがなにしてしまった方が柔らかくなりそうです。

 

9・庭の前に建ちし貸家の住人を知らず三年転居したらし(飯島)

庭の前に建った貸家の住人を知らないままに三年。そして知らないままに転居したらしいと聞く。

現代的な面白い場面ですね。玄関側のお向かいさんならまだ出入りの際に顔を合わせることもありますが、庭の前って言わばその家の背中しか見ていない状態ですから中々顔を合わせることがなくどんな人が何人住んでるかも分からないですよね。私も今の家に引っ越してもう四年になりますが未だに庭の前の住人を知りません(笑)。

「庭の前に」だと六音ですね。言い換えられないような語句は一文字くらい字余りでも構いませんし、しっかりと助詞を入れようとした心意気は良いのですが、これはもう少し考えれば五音で言い換えられそうでもあります。

「庭先へ」あたりにしてはどうでしょうか。

また今回は「庭の前」よりも「知らず三年」の「に」の方が外せません。「に」被りを防ぐためにも初句の「庭のまえ」「庭先へ」などに変えた方が良さそうです。

また「建ちし」の「し」ですが、ものすごく昔の話でもなく、自身が体験したことでもないですね。ですからここは「建てる」(今現在も家は建っているのだと思いますから)とした方が自然です。

「知らずに三年」で一拍空け、「転居したらし」とすると転居したことすらようやく知ってあらまあという面白味がより際立つのではないかと思います。

「庭先へ建てる貸家の住人を知らずに三年 転居したらし」

うん、面白いですね!

 

10・炎天に小さきウィルスは干さるるかマスク外さず皆歩き行く(鳥澤)

炎天に小さなウィルスは干されないのだろうか。暑い中マスクを外さず皆歩いて行く。

ヒトは汗だくになりながらも炎天下未だに皆マスクを外さずに歩いて行くというのに、その理由である小っちゃな小っちゃなウィルスはこの暑さに干からびないものかしら、という作者の独特な考え方が面白いですね。

実際はウィルスが死滅する温度は80℃以上を15分とからしいので気温で倒すのは難しそうです。先にヒトが負けます。でも紫外線にはヒトよりずっと弱いらしいのでそこは期待したいですね。

歌としての問題は「干さるるか」ですね。「干さるるか」だと「干されるだろうか」ですよね。「干されると思っているのか、皆マスクを外している」という文章ならば「干さるるか」でいいのですが、マスクは「外していない」のですから「干されないのだろうか」ではないでしょうか。

「干されないのだろうか。(いや、だが実際にはそう簡単には消えてくれるものじゃないと思っているから)皆暑い中でもマスクを外さない」という事ですよね。

なのでここは「干されぬか」とすべきかな、と思います。

マスク習慣、冬は暖かいし、風邪も引きにくくなった気がするし、化粧とか気にしなくていいし意外といいんですけどね。夏はやっぱりキツイですね。顎マスクとか衛生面ではあまりよろしくないんでしょうけれど、私は人との距離を見計らいつつ上げ下げしています。

 

11・夕涼み白粉花の香りして翌朝なれば役目終りぬ(戸塚)

夕涼みの時に白粉花(おしろいばな)の香がしたので翌朝見てみたら役目を終えていた。

白粉花は夕方から綺麗に咲くけれど、朝に見るとほんとうにくしゃくしゃに萎んでいたり花柄ごと落ちていたりして短い華という感じの花ですよね。

「役目終りぬ」。花の華やかに咲くことを「役目」と捉えるのは作者の主観ですね。ここは作者の主観は抑えて、「花落ちており」「花柄散りぬ」「くしゃりと萎む」など“役目を終えたな”と作者が感じた時の花の状態を具体的に描写したいところ。

また初句で「夕涼み」と入って助詞がないと俳句的ですね。「夕暮に」などとして自然に下に文章を繋げた方が短歌的です。

また「翌朝なれば」という言い回しは少し不自然ですね。「花の香して翌朝見れば」か「花の香せり・香りたり(終止形)朝には萎める花がら散りぬ」などとして「なれば」より自然な文章を考えてみてください。個人的には「見れば」という作者の行動の情報よりも白粉花の色や状態などの語句に字数を使った方が良いのでは、と思います。

 

12・わさわさと道へ這い出す葛の葉よ今年は刈り取る翁のあらず(畠山)

家の近くに一部だけ畑でほとんどが雑草伸び放題という土地があるのですが、道まではみ出るような雑草は毎年二回ほどちゃんと刈りに来てくれていたんですよね。

畑にも白い軽トラでぽちぽち通っているお爺さんがいたのですが、去年末あたりから姿を見ないなぁと思っていたところ、今年は夏になって1メートル以上も道に雑草が伸び出すようになっても放置。通学路なので苦情でも入ったのか先日やっと業者が入って刈って行きましたが、やっぱり代替わりでもされたのかなぁと思っています。そして新しい管理者はあんまり管理する気がない様子。

ほとんど出かけない出不精人間の私には自然満載で題材の宝庫なのですが、売られちゃったら寂しいなぁ、とか危惧しています。

「翁のあらず」が問題だなと思っていて「翁のをらず」「翁の来ずに」「翁来ぬまま」「翁現れず」など色々考えたのですが決まらなくて一番ダメそうな「あらず」で出してみました(絶対誰かが突っ込んでくれると思って)。

また毎年来ていたのに「今年は来ない」というのが核なので「刈り取る翁の今年は~」にしたほうがいいのではという意見を頂き、確かに、と。

最終的にどれにするかは未だ考え中です。

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◆歌会報 2022年7月 (その2)

◆歌会報 2022年7月 (その2)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第123回(2022/7/15) 澪の会詠草(その2)

 

15・生れたて水田キララ田植終え稲田の緑風きって(小夜)

生まれたて(生れたてが本則送り仮名。生れたては許容)の水田はキララと輝いている。田植を終えた稲田の緑の上を風が吹き抜けてゆく。

という場面を歌いたかったのかな、と思います。

が、通常生まれたての水田(しかもキララ)から思うイメージは「田んぼに水が入ったところ」になると思います。

しかしその後で「田植終え」とあり「ん?生まれたての水田というのは田植直後の田んぼのこと?水が入った時とは別?同じ?」と考え直したりしなければならず、すっと場面を思い描けません。

「水が入って生まれたての水田がキラキラしている=水田のきらめき」という部分を核にするのか、「田植直後の稲田の上を抜ける爽やかな風=早苗田を抜ける風」という部分を核にするのかを決めて、採用しなかった方はバッサリ削りましょう。

また「風を切る」というと自転車や走る人など「動く物が風を切って移動する」イメージになります。稲田は動かないので「風を切る」はちょっと合わないですね。風の方が動く場合は「風が抜ける(吹き抜ける)」の方がしっくりきます。

「柔らかな早苗の先をさやさやと揺らして抜ける水無月の風」「早苗田の上をさーっとまっすぐに駆け下りてゆく阿夫利嶺の風」など「田植直後の苗(田)」と「どんな風」という情報に絞って詠んでみましょう。

「田植直後の稲田」の表現だけでも色々考えられますね。「早苗」「早苗田」「まだ短き苗」「まだ小さき苗」「田植終え」「若き苗」「玉苗」など色々あるのでぴったりな表現を探すことを楽しんでみてください。

 

16・強烈な夏至の日差しに辟易し先人の知恵のよしず立て掛く(金澤)

説明は不要ですね。そのまま意味がよく分かります。

日々の何気ない暮らしを現代的な感性と言葉で表現するのが上手い作者です。

ただ日除けのため(物理的理由)とか習慣でよしずを立てようとするのではなく、「何だかんだ日除けも色々あるけどこれ(よしず)が一番。先人の知恵よね」と思いながら立てかけるところに作者の「現代人的センス」が表れています。

特に直すべきところはありませんが、「先人の知恵」としてもいけると思うので比べてみて下さい。

「先人の知恵のよしず」「先人の知恵としてよしず」というように少し印象が変わってきます。「と」の方がより「先人の知恵」を意識している感がありますね。

 

17・管をいれ血流通し退院はいちじしのぎに何故かほっとす(山口)

体内に管を入れて血流を通す処置をしての退院は一時しのぎに過ぎないと分かっていても何故かほっとする。

3番の膵臓癌の告知を気丈に聞いた奥様の歌の続きですね。

重く苦しい現実に直面しつつも歌にすることで一歩引いて冷静に受け止めているように思えます。

表記は一部修正しましょう。

「管をいれ」は「管を入れ」と漢字に。

「退院」とするには「血流を通しての退院は」と来ないと不自然ですが、それだとかなり字余りになってしまいますので、ここは「退院す」として一度切ってしまいましょう。

「一時しのぎ」も漢字に。また「一時しのぎ」ではなく「一時しのぎ(一時しのぎだけれどもの意)」。

管を入れ血流通し退院す一時しのぎも何故かほっとす

これでぐっと読みやすくなると思います。

また「何故かほっとす」は「どこかほっとす」とするのもありだと思うので比べてみてください。

 

18・104歳天寿全うし一人で逝きし遺す言葉の有りや無しやと(栗田)

六八六七七とかなり定型から外れてしまったのでちょっと読みづらいですね。

また横書きだとあまり違和感がないかもしれませんが短歌は縦書きが標準なので数字はなるべく漢数字で表記して下さい。

さて、百四歳という長命で亡くなったのは一体誰なのでしょうか。「一人で逝った」「遺す言葉の有りや無しや(有るのか無いのかよくわからない)」というのだからあまり身近な方ではないような気がしますが、どんな人物を思い浮かべればいいのかよく分かりません。

百四歳ならもう「天寿全うし」という情報は要らないのではないでしょうか。それよりもどんな人物なのか、具体的に思い浮かべるための情報が欲しいところです。

「百四歳独りで逝ける媼(おうな)あり遺す言葉の有りや無しやと」

とかなら近所の独居老人が亡くなった報せを聞いたのかしら、などともう少し具体的に想像することが出来ますね。

情報の取捨選択は難しいので少しずつ学んでいけばいいのですが、なるべく定型に収める努力(類語や言い回しなどの言葉探し・語順入れ替えなど)は毎回頑張ってみて下さい。

今まで出来ていたのですから出来る力はあるはずです。

 

19・阿修羅像木彫りの肌はすべすべと御目に掛かるる展示会にて(名田部)

展示会で御目に掛かった木彫りの阿修羅像の肌はすべすべであった。

木彫りの阿修羅像を「見た」のではなく「御目に掛かった」とするところが面白いですね。

「すべすべと御目に掛かる」と続くのは不自然なので「木彫りの肌はすべすべ(感嘆)」として一度切った方が良いでしょう。

また「御目にかかる」ではなく「御目にかかる」、もしくは語順を入れ替えて「展示会にて御目に掛かりぬ」とした方が自然だと思います。

 

20・川中に腰まで浸かる釣り人の竿鎮まりて鮎を待ちおり(川井)

迷う所なく情景が浮かびますね。

厚木は市内に相模川が流れているので鮎釣りが解禁になるこの時期になるとよく見かける光景ですね。

結構長い時間、竿がピクリとも動かないまま川の中に立っている人を見かけて、そんなに釣れなくて楽しいのかしら、などと思ったりもしますが、あの「止まったような時間」が逆に良いのでしょうか。

一種の座禅のような(笑)。

このままでも完成されていますが、「釣り人の竿は鎮まる鮎を待ちつつ」としてみると「鮎を待つ」より「竿が鎮まっている」にやや重点が移りますね。

どちらが作者としてしっくりくるか比べてみて下さい。

 

21・凌霄花(のうぜん)の文月(ふづき)を盛りと咲きほこる意志称うがに夏の陽たけし(緒方)

ノウゼンカズラが文月(七月)を今が盛りと咲き誇るその意志を称えるように夏の太陽が強く盛んに照っている。

個人的にはノウゼンカズラが七月を盛りと「どのように」咲きほこっている。という核だけでまとめた方が美味しいんじゃないかな、と思います。

どうしても夏の陽を入れたいというのであっても、「夏の陽たけし」ではなく「夏の陽高しや近し(見たままの情報)」にした方がいいと思います。

「咲きほこる(どのように?)」「意志称うがに(何をもってそう感じた?やや理屈っぽい。使うなら「意志を称えて」と確定してしまった方がいいのでは)」「夏陽たけし(猛しはかなり概念的。強しでもまだ概念的)」と概念的(作者だけが迷わず確信している感覚)な描写が続き、読者からすると想像の範囲が広すぎて決め手に欠ける感じになってしまっているような気がします。

酷暑にも今を盛りと「このように」ノウゼンカズラが咲きほこっている、という場面でまとめた方が歌としては映えると思います。

「咲きほこる」と言っても色々言えそうですよね。蔦重くして、咲く場所狭しと、零れ咲く、連なれる、朱を連ぬ、朱を濃くす、朱華(はねず)濃しなど具体的に思い描ける情報を探してみてください。

 

22・初生りの無花果うれし手にとれば吾より先に蟻が味見す(大塚)

初めて実った無花果を「ようやく食べられるまでに育ったのね」と喜んで手に取ってみれば、私より先に蟻が味見をしていた。

人間より先にちゃっかり頂いている蟻という切り取りはとても面白いですね。

ただ嬉しい気持ちはよく分かります。が、それを言ってしまってはいけません。

「重し・丸し・艶々し・瑞々し・ぷっくり」などの客観的な表現で何か合いそうなものを探してみてください。

 

23・遥遥と京の東寺の五重ノ塔人疎らにて緑の木木濃く(戸塚)

遥々とやってきた京都の東寺の五重塔。コロナ禍だからなのでしょうか人はまばらで緑の木々が濃く繁っていた。

9番の歌に続き、京都旅行をされた時の風景を歌ったシリーズですね。

歌としては「人疎らにて」か「緑の木々濃く」かどちらかに焦点を絞った方がいいと思います。

通常だったら観光客で溢れてそうな東寺(有名観光場所)なのにコロナ禍でびっくりするほど人が疎らだったわ、という部分の方に感銘を受けたのか、純粋に五重塔と木々の緑の対比という「風景自体」に感銘を受けたのか。

前者なら「制限明けてもまだ人まばら」とか「人は疎らよコロナ禍続く」などコロナ禍だからこんなに人が少ないんだ!という情報を入れてしまった方がいいのでは。

後者ならばまず「緑の木々が濃い(多い)」のか「木々の緑が濃い(色合い)」のかを決めて、それに合った語順を決め、更にそれを補完する情報を入れてみて欲しいです。

「緑の木々のこんもりと濃し」とか「木々の緑の深々と濃し」とかそんな感じで考えてみてください。

 

24・一軒おきに雨戸閉ざせる隣組空き家、入院、施設入所と(小幡)

現代の社会問題ですね。新宿まで一応一時間圏内の厚木ですら駅からちょっと離れるとこんな現状ですから、地方の過疎化はもっと酷いのでしょうね。

さて、実際に「一軒おき」だそうで、作者にはそれがとても強い印象だったのだと思います。

本来なら客観的なだけの情報は有効的に働く場合が多いのですが、今回の場合は下の句に作者の感じ方ゆえに選んだ作者ならではの言葉が入る余地がないせいで歌全体が現状の説明だけで終ってしまっている感じがあります。

そこで初句を「また一軒」としてみてはどうでしょうか。実際は「また」ではなくもう既に雨戸を閉ざしてそこそこ経っているのかもしれませんが、「また」とすることで増えて行く空き家へのなんとも言えない焦燥感のようなものが出て来るのではないかと思います。

 

25・「林火」の忌 父の清書を請け負いて〆切前の伸吟目に浮かぶ(飯島)

「林火忌」とは俳人大野林火という人の忌日だそうです。新聞か何かで「林火忌」のことを目にした作者は、お父様がその大野林火の主催していた俳句会に俳句を出していて、その清書を頼まれていたそうで、締め切り前は父も毎回苦労していたなぁ、と今短歌作りに苦しむ自分と重なったという事ですが……無理です(笑)。三十一音ではとても表せる内容ではありません。

とにかく「削り」ましょう。短歌は大きな木の中に輝く核が埋まっているのを不要な部分を削って削って彫り出す彫刻のようなものです。

このままではまだ枝やら何やらが付いたままの原木状態で、核を彫り出すどころかまだ木材にもなっていない感じです。

「俳句を学んでいた父の苦しみと締め切り前の自分が重なる」くらいを木材とすればまだ何とか彫りだせる大きさになるのではないでしょうか。そうして彫り出す範囲を決め、そこから更に核を目指して丁寧に削り落としていきましょう。

「林火忌」については別の歌として「林火忌になると俳句を投稿していた父を思い出す」くらいの木材にしてから彫り出してみましょう。

 

26・夜も更けて母から着信ふっと消ゆ操作ミスかな電話を入れる(鳥澤)

夜の遅い時間に母からの着信が短く鳴ってふっと消えてしまった。ただの操作ミスかしら、それなら別にいいんだけれど、もしかして何かあったんじゃないかしらと心配しつつ折り返しの電話を入れる作者。

特に直すべきところは見当たりません。現代的な場面と、お母様を心配して揺れる作者の微妙な心理が表れていてとても良い歌ですね。

「心配だ」とは言っていないのですが、そわそわするようなむずむずするような何か嫌な予感を感じるような不安が読者にも伝わってきます。

 

27・白昼の暗殺事件の凶弾は漠たる戦後の平和をも撃つ(畠山)

安倍元首相の銃撃事件ですね。最初に速報が鳴ってから、数十分おきに流れる速報に都度ショックを受けました。

色々と不景気やら何やら暮らしにくさもありつつも、どことなく漠然と「まだこの国は平和だな」と感じていたものが一気に打ち砕かれた感じがしました。

事件自体の真相や問題は今後徐々に出て来るのだと思いますが、今回はとにかく「なんとなく平和だと思っていたこの国でこんなことが起きるなんて」という部分だけを歌にしてみました。

「漠たる(漠然とした)」は「平和」にかかるのですが、この位置だと「戦後の」にもかかってしまいちょっと不安定ですね。「戦後の漠たる平和」に語順を変えようと思います。

 

28・人ゆかせ車をゆかせみづからは不動の橋が村へとかかる(砂田)

人を行かせ、車も行かせながら自らはどっしりと動くことのない橋が村へと架かっている。

橋は村に暮らす人々の生活や歴史を長いこと支えつつ見て来たのでしょうね。

村というやや小ぢんまりとして閉塞感もあるような空間に続く橋というのが良いですね。大きな橋は大きな橋で重要な歴史とか見ていそうな物語性もあるけれど、村へかかる橋だとより地域の人々の「生活」に密着した感じで、村に暮らす人々の喜怒哀楽を見つつ寄り添ってきたのかな、という気がします。

 

☆今月の好評歌は6番、川井さんの

Tシャツに汗にじみ出る真夏日の真っ青な空真っ白な雲

となりました。

誰もが分かる言葉で具体的に上の句を描き、それによって下の句を説明なしに鮮やかに限定しています。

簡単な単語しか使っていないから私にも出来そう、とか思う人もいるかもしれませんが、やってみて下さい。なかなか上手くはいかないものです(笑)。

by sozaijiten Image Book 5+10

 

◆歌会報 2022年7月 (その1)

◆歌会報 2022年7月 (その1)

*各評は講師の砂田や会の皆様から出た意見を畠山が独自にまとめたものです。

 

第123回(2022/7/15) 澪の会詠草(その1)

 

1・友と会う目尻のシワにやっぱりと我れをも見たりコロナの現実(小夜)

コロナ禍に久々に会った友人の目尻の皺に気付き、これだけ続くとやっぱりコロナ疲れも顔に出るわよねぇ、きっと私の顔にも出ているのでしょうね、という情景を歌ったものと思います。

「目尻の皺」という具体的な着眼点がいいですね。もし「顔に疲れが」などと言ってしまっていたら、「顔っていうけど具体的にどこ?」「何を見て疲れていると思ったの?」と読者は迷ってしまいます。

「目尻の皺」と具体的にビシッと見るべき部分を定めてくれたおかげで読者は皆作者と同じ視点を持つことができました。この調子です。

結句の「コロナの現実」がやや曖昧ですね。このままでも意味は通ると思うのですが、「コロナの現実」と言ってしまうと「実際コロナに罹ったが故の疲弊(後遺症)かな」などとも受け取れてしまいますが、この歌では「長く続くコロナ禍での自粛や衛生管理などへの疲れ」のことを指していると思うので「コロナ禍三年」や「コロナ疲れよ」などとして曖昧さを無くしてしまいところですね。

また表記の問題として「コロナ」はカタカナで変えられませんから、「目尻のシワ」の「シワ」は「皺」と漢字にした方が短歌らしく落ち着きます。

 

2・窓の側何度も近づく黒い影は物言いたげな薄羽かげろう(金澤)

窓のそばへ何度も近付く黒い影は何か物言いたげなウスバカゲロウよ。

ふわ~っふわ~っと漂うように飛ぶ薄羽かげろうのぼんやり黒い影。それを何か物言いたげと捉える作者の感性が面白いですね。

ぼんやりと焦点が定まらない感じの薄い黒影には少し悲しい想いを持った儚げな幽鬼のような印象を覚えます。

初句の「窓の側」がやや俳句的なぶつ切り感があるので「窓際へ」「窓辺へと」などとしてするっと下に繋げたいところ。

また三句の「黒い影は」は六音になってしまうので「黒影は」「黒い影」として五音にしましょう。

「黒い影」とした場合、助詞がないので四句の「物」とすぐ続いて読みにくくなりそうなら「もの」をひらがなにしても良いかもしれません。

また「黒い影」として一度切った場合、「もの言いたげ」とするとまた少し雰囲気が変わりますね。

ただ結句が「薄羽かげろう」と体言止めなので、「黒影は」の方が文章の流れは自然かもしれませんね。

 

3・膵臓癌突然医師の告知あり妻きじょうに説明を聞く(山口)

とても重い場面を歌っています。

内容の解説は要らないですね。どんな場面か皆分かると思います。

ただ癌の告知をするのは医師であり、わざわざ言わなくても分かることなので、「医師の」を省き、語順を変えて「突然に膵臓癌告知あり」として定型に合わせたいところ。

また四句も「妻気丈に」(きじょうは漢字にしましょう!)として助詞を入れ、音数も合わせると

突然に膵臓癌と告知あり妻は気丈に説明を聞く

と全部定型にきっちり収まり自然で読みやすい歌になると思います。

 

4・晴れ続き白紫陽花が枯れ色に水無月の朝の水やり気温三十度(栗田)

言いたいことが溢れてしまったのか、かなり定型から外れてしまいましたね。

というか私も昔やっちまったことがあるのですが(笑)、これはおそらく数え間違いで三句が被っているのではないでしょうか。「晴れ続き白紫陽花が枯れ色に」までが割ととすんなり出来てしまって、すんなり出来すぎたが故に「(こんなにすんなり三句までなんて出来るはずがない)まだ二句までしか出来てない。残りは五七七」と思い込んでしまい、三句が「枯れ色に」と「水無月の」で被っていることに気付かず、「水無月の」で五、残り七七!と考えて「朝の水やり(七音」「気温三十度(八音)」という下の句を作ったのではないかと。

どちらにせよ少し言いたいことが多すぎるので、核を決めて不要な部分を削ぎ落とす作業をしましょう。

この場合一番削れそうなのは「水やり」ではないでしょうか。「まだ六月なのに朝からもう気温三十度!」という方が重要で、「水やり」という情報はここでは役に立っていません。

また結句はなるべく七音で抑えたいところ。ですから「気温三十度の水無月の朝」と語順を入れ替えて七音になる方を結句に置きたいですね。

結句がしっかり決まっていれば四句は多少字余りでもいけるのですが、「気温三十度の」では九音になってしまうので「三十度超す水無月の朝」などとすると(実際はその時点ではまだ超えていなくても)七七に収められるので色々とこねくり回して考えてみて下さい。

そして出来上がった歌は一度頭から指を折りつつ読み直してみて下さい。

 

5・杉木立続く道端に山吹きが明りのごとく灯り咲きおる(名田部)

杉木立が続く道端ですから少し薄暗いのでしょうね。そこへ山吹(送り仮名「き」は不要)が明りを灯すように咲いている。

情景は良いですね。特に「杉木立(の)続く道端」という具体的な描写で、昼間でも少し薄暗いような場面をすっと思い浮かべられます。

また「道端」「道端」は変えられますので、検討した上で決めましょう。

特に「へ」は日常会話では全て「に」と言ってしまっている場合が多く、使い慣れていないので全部「に」にしてしまいがちですが、短歌では「へ」とすることで一気に雰囲気が変わりより詩的になる場合も多いので、毎回必ず「に」と「へ」は意識して入れ替えてみましょう。

上の句に対し下の句がやや抽象的ですね。というか「灯る」という言葉自体に「明り(や火)が点いて照らしている」という意味が既に込められているので「明りのごとく明りが点いて照らしている」という意味になってしまいます。

ですから「どんなふうに明りが灯っている」という情報を入れましょう。

「ぽっと明るく灯り咲きおり」と「ぱっと明るく」ではかなりイメージが違いますよね。

また「灯る(自動詞)」でなく「灯す(他動詞)」にして「道端山吹がぽっと明るく灯咲きおり」としてもまた少し雰囲気が変わりますね。「道端に灯る」だと作者が風景を客観的に見ている感じ、「道端を灯す」だと山吹に少し主観が入る感じになりますね。

また「明るく」の部分は「静かに」や「柔らかに」や「ふんわり」「くっきり」「煌々と」などより具体的に変えられる部分です。作者の捉えた山吹の様子を色々考えて言葉を探してみましょう。

 

6・Tシャツに汗にじみ出る真夏日の真っ青な空真っ白な雲(川井)

すっと自然に爽やかな夏の日の情景が思い浮かべられますね。

「Tシャツに汗にじみ出る真夏日」という誰もが経験したことのありそうな具体によって説明的にならずに読者と暑さの感覚を共有できています。

ただの「猛(る)暑(さ)」だの「酷(い)暑(さ)」だのではこうはいきません。

そして暑さの感覚を共有したところで「真っ青な空真っ白な雲」と、これまた誰でも分かる平易な言葉で爽やかな夏空を表現しています。

上の句の具体が無ければ、真っ青って言っても濃さとか明るさとか色々あるでしょ、真っ白って言っても白って200色あんねん(byア〇ミカ)とか、どんな形の雲なの、とか色々突っ込まれたかもしれませんが、上の句が具体的なので「Tシャツに汗が滲むような暑さの日に見上げれば見えそうな真っ青な空と真っ白な雲」のイメージはそれぞれについていちいち説明しなくてもほぼ共通するはずです。

上の句の具体により下の句の説明を省き、尚且つ誰もが分かる言葉で強い印象を押し出してくる、とても巧い歌だと思います。

簡単な言葉で出来ている=単純で軽い歌と思ったら大間違いです。

誰もが分かる言葉のみでも幼稚にならず、情報不足にならず、強い印象を与えるというのは実は大変難しく、高度な技なのです。

このままでもとても良い歌ですが、「真夏日よ」として詠嘆で一度切ってしまった方が下の句がより活きるかもしれません。

 

7・泰然と楠の古木はたたずむも葉擦れの音の欷歔(ききょ)のごとしも(緒方)

泰然と(物事に動じず落ち着いて)立っている楠の古木だけれども、その葉擦れの音は欷歔(すすり泣いている)のようだ。

題材(物事の捉え方)はとても良いですね。どっしりと構えている大きな古木だけれどその葉音はすすり泣いているように聴こえる。どんな歴史を見てきたのかな、となりますね。

さて問題は「欷歔のごとしも」です。誰もが一目見て意味の分かる言葉ではありませんね。ふりがながないとまず読めませんし、「ききょ」と打っても常用でないので変換もできません。

ここは素直に「すすり泣くごと」でいいのではないでしょうか。

例えば「どこか悲しげ」などという表現だったら何をもって悲しげと捉えたのかもっと具体的に!と言われたかもしれませんが、「すすり泣くごと」という表現はちゃんと具体的です。すすり泣く声に聴こえた(具体)ということは、作者は(言ってないけれど)どこか悲しげと捉えたのね、と読み取れます。

6番の歌で述べましたが、誰もが分かる言葉でありながらも具体的な描写によって読者を正解のイメージまで導いてやるということは決して手抜きや力不足ではなく、むしろ逆で難しいことです。

「読者の知識」にあまり頼り過ぎない歌作りを目指してみましょう。

 

8・信号を待つ間も暑いこの夏は木蔭を求めジグザグ歩く(大塚)

あるある~分かる~私もよくやる~!という声が聞えてきそうな良い歌ですね。文章に無理がなく、誰もがすっと迷うことなく作者になりきって歌の場面を思い描けると思います。

もう本当にちょっとした陰でもいいから陰の下を行きたい!と街路樹が陰を作っている場所を選びつつジグザグに進む作者の様子がよく分かります。

このままでも良い歌ですが、「信号を待つ間も暑し」として一度切ってしまってもいいかもしれません。

また「木蔭を求め」は「求め」の部分にやや説明感(理屈)が顔を出しつつある気もしないでもないので(それほど気にはなりませんが)、「木蔭の下を(状況)」「木蔭を見つけ(意志(理由)より行動に重点)」などとしてもいいのかもしれません。

 

9・梅雨晴間三千院の苔の庭緑と光に都忘れ咲く(戸塚)

梅雨晴間の三千院の苔庭のしっとりとした緑と光の中に紫色の都忘れが咲いている美しさを詠んだもの。

風景描写の歌で静かな和の庭園風景がちゃんと見えますね。

ただ少し漢字が続き過ぎて読みづらい部分もあります。

一番気になるのは「苔の庭緑と光に」と続いているところ。「庭緑」でちょっとつまづいてしまいますね。そこで「苔庭」と「の」の位置を変えてみましょう。「苔庭の緑と光に」でぐっと読みやすくなりますね。

また初句の「梅雨晴間」ですが、俳句の初句としてはよく使われますが短歌ではややぶつ切りな印象を受けてしまいます。

「梅雨晴れの」としてはどうでしょうか。

梅雨晴れの三千院の苔庭のみどりと光に都忘れ咲く」などとすると少し柔らかくなり読みやすくなるのでは。

 

10・置きどころなき暑さかな境内の手水のみづに紫陽花の毬(小幡)

身の置き所もない暑さの中、境内の手水の水に浮かべられた毬のような丸い紫陽花を見て一服の涼を得る作者。

最近増えてきた「花手水(はなちょうず)」ですね。コロナ禍で手水の一般利用が停止されたことにより、増えてきているようです。手水の施設をただ閉じるのではなく「目で見るお清め」として季節の花々を浮かべて楽しもうという感覚は素敵ですね。

この作者もうだるような暑さの中、手水の清らかな水に浮かぶ紫陽花を見て、目から涼しさを頂きほっと一息ついているのでしょう。

前半と後半の対比により、作者がより花手水の涼を喜んでいることが説明感なく伝わりますね。

歌っている情景も美しく、素敵な歌だと思います。

 

11・炎帝に干からび違う蚯蚓等の延々続く葬列怖し(飯島)

容赦ない夏の太陽により干からび方の違うミミズが道に落ちて延々と葬列が続いていて怖い。

我が家の近くの原っぱ脇の道にも干からびたミミズとそれに群がるアリが葬列を成すように続いています。雨と猛暑のタイミングの問題でしょうか。今年は確かに数が多いような気がします。

さて「干からび違う」。「干からび違う」とは言わないですよね。「干からび(方)の違う」「干からび(度合い)の違う」という隠した意味を持たせて「干からび違う」と助詞が必要になると思います。

ただ干からび方がそれぞれ違うというのは確かによく観察をされているし見方も面白いのですが、そこにあまり意味を持たせると下の句がその分軽くなってしまいます。

「干からび方が違う」という見方はとても面白いので、そこを核にして「干からび方が違うミミズの死骸が数多落ちている」という歌を別に一首作って欲しいところです。が、今回は「干からびたミミズがいくつも落ちて長い葬列を作っている」という方が歌の核だと思います。

ですからここでは「炎帝に数多干からびた蚯蚓らの」くらいにして上の句を軽くしておいた方がいいと思います。

また結句で「怖し」という概念的な感情を表す語句を持ってきてしまったのは問題です。「怖い」と言わずに作者の見た情景を提示することで読者に怖さを感じてもらいたいですね。

炎帝に数多干からびた蚯蚓らの葬列続く道を見ており」とか「炎帝に幾つ干からびた蚯蚓らの葬列長く続く道行く」などとして描写でまとめて欲しいと思います。

 

12・薄墨を重ねたような山並へ猛暑日の陽は帰ろうとする(鳥澤)

夕暮の薄墨を重ねたような山並みへ猛暑日の太陽は帰ろうとする。

昼間はギラギラと攻撃してくるようだった猛暑日の太陽も夕暮となると少し落ち着いて山の向うに沈んでゆく、それを見て「今日も切り抜けた!」と少しほっとしてそうな作者を想像します。

これが真っ赤な夕焼けだったら「太陽はまだまだ強そう」で作者がほっとしているとは読めないでしょう。

結句の「帰ろうとする」という言葉のチョイスが個性的で面白いですね。

ありがちな「落ちる」「沈む」でなく「帰る」という言葉を選んだことにより太陽に人格が宿りました。また「去る」「行く」でなく「帰る」だと「権勢を誇った炎帝」というよりも「昼は大威張りしていたガキ大将」的なやや身近なイメージが湧くのですが皆さんはどうでしょうか(笑)。

必要な助詞がちゃんと選ばれて入っており、形もきっちり定型で、しっかり整えられた歌ですね。

 

13・六月の末の酷暑にあじさゐは為す術もなく項垂(うなだ)れてをり(畠山)

まだ六月だというのにとんでもない酷暑が続き、本来ならまだ時期であるはずの紫陽花が茶色くなってだらーんとうなだれていました。

4番の歌と歌っている場面はほぼ同じですね。

まず表記の問題で「あじさゐ」は「あぢさゐ」でした。ご指摘ありがとうございます。

また「垂れて」は「首・頭」ではないので「うなだれて」以外読みようはないのですが、ぱっと見で「こうべたれて」と読まれるとちょっと印象が違ってしまう危険があるな、と思いました。「こうべをたれている」ではなく「うなだれている」印象を確実にしたいのでこれはひらがなでもいいかな、と思いました。

「こうべをたれる」だと「実るほどこうべをたれる稲穂かな」のように「謙虚さゆえに」という意味も入って来る気がするのですが、「うなだれる」だと只々「しょぼーん」と肩を落としている感じがするんですよね。

また四句の「為す術もなく」ですが、最初に作った時は「土気色(つちけいろ)して」として花が枯れた描写をしていたのですが、割と印象の強い「土気色」という言葉と「うなだれて」だとそれぞれが打ち消し合ってしまうかなと思い「為す術もなく」として「うなだれている」に重きを置いたつもりでした。が、意外と「土気色して」の評判が良かったので「う~ん、戻そうかな、どうしようかな」という感じで迷っています。

やはり具体的な描写は強し、ということでしょうか。為す術もないより土気色の方が茶色く萎れている花の様子が固定されて思い浮かべやすいですものね。

 

14・テポドンのポンポン宙(そら)へ飛びたてる意味問ふてゐる 地球(テラ)の黄昏(砂田)

人間は一体いつまで戦争をしているのだろうか。次々と打ち上げるミサイル発射のニュースなどを見るとその意味を考えてしまう。黄昏に思うこの星の黄昏(終末への近さ)。

という歌でしょうか。

地球の黄昏は実際の黄昏時にミサイルの意味を考えたという意味だけなのか、地球自体を大きな生命体のように捉えてその黄昏時(終末に近い)と捉えているのかでやや迷うところがあります。両方というか、実際の黄昏時の地に立って星全体に思いを馳せているのかな、と思いますがどうでしょう。

またテポドンというと基本的には北朝鮮のミサイルを指すものですが、ミサイルと言わずにテポドンとする意味はあるのでしょうか。

ミサイルならば世界で起こる様々な戦争に当て嵌まると思うのですが、「テポドン・ポンポン」という語感のためでしょうか。

歌会では時間がなくていつも講師の歌は飛ばしてしまうので答えが分かりません(笑)。今度聞いておきたいと思います。

photo by choco❁⃘*.゚(photoAC)